五日目


あなたが入れる唯一のドアは


 朝日に照らされた自分の姿は、ちょっとびっくりするくらい ひど かった。

 全身が泥と擦り傷だらけで、服はあちこちが破れていて、デニムジャケットの肩口は糸がほつれて そで が抜けかけていた。靴下は乾いた血と泥で見たことのないような色に汚れていた。でも、どうしようもなかった。服や靴を買おうにもお金はないし、スマホのバッテリーは切れていた。そもそも今はまだ早朝で、お店が開いているはずもないのだった。土地勘のない私には、ここがどのあたりなのかも分からなかった。

 せめてもと、私は資材置き場の陰で服にこびりついた泥を丁寧に払い、髪を手で整えた。それからお濠とは反対側の鉄柵を登り、歩道に降りた。ちょうど通りかかったサラリーマンが、ぎょっとした顔で私を見た。でも何も言われなかった。こちらをちらちらと振り返りながら、それでもその男は止まらずに去って行った。

 そこは「内堀通り」と書かれた、ごく普通の車道沿いの道だった。私は近くにあったコンビニに入り、窓際に設置されたフリーの充電コーナーにスマホを挿した。店の隅に立ったまま電源が回復するのをじっと待っていると、若い男性店員と目が合った。彼は まゆ をひそめて私をしばらく眺め、でも結局は何も言わず、店の奥へと戻っていった。それからしばらくすると、私と同じ年くらいの女子高校生の二人組が店に入ってきた。彼女たちは私の姿を目にすると、数メートルの距離で立ち止まったまま、顔を寄せひそひそと何かを ささや きあった。あの子靴履いてないよとか、ヤバいあれ血じゃない? とか、虐待とかかな声かけてみたらとか、そんな声が小さく聞こえた。どうも本気で心配をしてくれているらしく、話しかけられたらどう言い訳しようかと考え始めたところで、フォン、と小さな電子音を立てて液晶が とも った。私は急いで充電ケーブルを抜き、 おお また で歩いて乾電池式の携帯バッテリーを商品棚から手に取り、レジに持っていきスマホで支払った。それから彼女たちの前を、ぺこりと頭を下げながら足早に通り過ぎた。心配してくれたことは うれ しいけれど、話しかけられたくはなかった。

 次に行く場所は、決めていた。

 私はバッテリーを つな げたスマホにマップを表示し、御茶ノ水駅までの経路を調べた。


  そう さんのアパートから一番近くにある病院は、見上げるほどに大きなビルに入った大学病院だった。歩道から広く緩やかなスロープが病院の入り口まで延びていて、早朝にもかかわらず、通勤らしい人影がまばらに出入りしていた。私は警備員の巡回が外れるタイミングを見計らい、小走りで建物の中に入った。そこは天井の高いホールになっていて、併設されたカフェはまだ営業前だった。エスカレーターで二階に上がるとそこにはまだ誰もおらず、外来用の窓口にはシャッターが降りていた。私は案内板を見て、人と出くわさないように階段を使って病室のあるフロアまで登った。左右に病室が並ぶ廊下を身をかがめ早足で移動しながら、ドア横に表示されたネームプレートに目を走らせた。

  むな かた ひつじ ろう と表示されたプレートを見つけたのは、二つ目のフロアを探し始めてすぐだった。むなかた と、私は口の中で確かめるように つぶや いた。スライド式のドアのバーに手をかけて力を入れると、ほんのかすかな抵抗の後、するすると滑らかにそのドアは開いた。


    * * *


 病室の中は薄暗く、病院特有の匂いが一層に濃く漂っていた。

 アルコールの消毒薬と、洗ったシーツと、儀礼的な花束と、長く同じ場所に居続ける人間の体臭。それらが混ざり合った匂いの中で、ピ・ピ……というバイタルモニターの規則的な電子音が低く小さく鳴っていた。

 二人部屋の手前のベッドは空いていて、奥の窓際のベッドに、大柄な体が横たわって眠っていた。彼が宗像老人だと──草太さんのおじいさんだと、私には一目で分かった。

 そっくりだった。美しく切り立った鼻筋も、秀でた額の形も、その下で伏せられた長い まつ も。今でも まぶた に焼きついている草太さんのあの美しいかたちと、その老人の顔は、 うり ふた つだった。でも、草太さんにあったあの たくま しい生命力のようなものは、おじいさんからはごっそりと抜け落ちていた。顔中に深い しわ が刻まれ、顔色は紙細工のように白かった。枕元に扇形に広がった長い髪も、眉も睫毛も、雪のようにまっ白だった。左手の人差し指にはクリップのような小さな機械がはめられていて、その手の甲に細く浮き出た血管にも、色らしきものはほとんどなかった。病院着から見える首筋と鎖骨は、そこにたっぷりと水を められそうなくらい深く暗く くぼ んでいた。ベッドに横たわり静かに眠っているその老人は、深手を負って死にかけている大型の野生動物を私に思わせた。

 唐突に、低くしわがれた声が言った。

「──草太は、しくじったんだな?」

 私は驚いて目を みは った。宗像老人が、目を閉じたまま しやべ っていた。

「す、すみません、勝手に入って!」

 私は慌てて言った。眠っていたんじゃなかったんだ。あるいは、私の気配に目を覚ましたのだ。

「あの、私、草太さんからおじいさんが入院されてるって聞いて、それで──」

「ああ……」

 返答とも ため いき ともつかない息を漏らし、おじいさんがゆっくりと目を開いた。しばらく天井を眺めた後、時間をかけて視線を移して、おじいさんは私を見た。

「あなた、巻きこまれたのかい?」

 その声は、やはり草太さんと似ていた。穏やかで静かな声だった。私を見つめる ひとみ は草太さんと同じようにかすかに青みがかっていて、白目の血管だけが鮮やかにくっきりと赤かった。

「私の孫は、どうなった?」

「あ……」私は思わずうつむく。「 かなめ いし になって、 とこ に……」

「……そうか」

 感情のない息のような声で、おじいさんは呟いた。半開きになったカーテンに、頭ごと回すようにして視線を向けた。

「昨日、この窓からもミミズが見えた。私も駆けつけたかったが、この老体がどうしても言うことを聞かなくてね」

「あの、だから──!」

 私はおじいさんの枕元に近づき、ずっと知りたかったことを口に出した。

「私、常世に入る方法を知りたいんです!」

「……なぜだね?」

「え……」

 なぜ?「だって、草太さんを助けないと!」

「いらぬ手出しだよ」

「え?」

「草太はこれから何十年もかけ、神を宿した要石になっていく。 うつし の私たちの手は、もう届かん」

 宣言するようにそう言われ、私の背筋がぞくりと震えた。

「あなたには分からんだろうが、それは人の身には望み得ぬほどの誉れなのだよ。草太は不出来な弟子だったが──そうか、最後に覚悟を示したか……」

 そう言っておじいさんは、まるで天井が まぶ しくてたまらないかのように目を細めた。

「そんな……!」私は思わずかがみ込んで声を上げる。

「でも、なにか方法が!」

「あなたは、草太の想いを無にしたいのかい?」

 色のない表情で、ゆっくりと んで含めるようにおじいさんは言う。

「え」

「要石を刺したのは誰だい?」

「え、ええと──」

「あなたが草太を刺したのかい?」

「え、あの……でも」

「答えなさい!」

 突然におじいさんが大声を上げ、

「私です!」

 押し出されるように私は答えた。

「そうか、それで良いのだ! あなたが刺さなければ、昨夜、百万人が死んでいた。あなたはそれを防いだのだ。そのことを一生の誇りとして胸に刻み、口を閉じ──」

 口調が強まっていく。空気を震わせるような声で、おじいさんは言い放つ。

「──元いた世界に帰れ!」

 強風のようなその威圧に、私は思わず一歩後ずさる。おじいさんは長く深く息を吐く。話し疲れたように再び目を閉じ、顔を天井に向けたままで静かに言った。

「…… ただ びと に関われることではないのだよ。すべて、忘れなさい」

 私はその場に立ちつくしてしまう。胸の中で、心臓が跳ねている。頰が あぶ られたように熱くなっている。息を一度、深く吸う。

「……忘れられるわけない」

 押し殺した声で、私は呟く。

 猛然と、私は腹が立っていた。

「……私、地下の うし をもう一度開けます」

 目をつむったままのおじいさんにそう言って、私は病室の出口に向かう。誰かに頼ろうと思った私が馬鹿だったのだ。これは、私と草太さんの戦いなのだ。

「──何を言う? 待て!」

 背中でおじいさんが大きな声を出す。

「開けてどうする!?

「どうにかして中に入ります」

「無理だ。そこからは入れん!」

 構わずに私は部屋から去ろうとする。ドアに手をかける。おじいさんが背中で怒鳴る。

「後ろ戸を開けてはいかん!」

 言い終わるや、おじいさんは激しく き込んだ。ごぼごぼと管が詰まるような大きな音に、私は驚いて振り返る。おじいさんは苦しそうに体を けい れん させている。私は反射的におじいさんのもとへと駆け戻る。でもどうしたら良いのか分からず、ベッドの手前で立ち止まってしまう。おじいさんは上半身を激しく震わせながら、左手に持ったリモコンのボタンを押す。低いモーター音を立て、医療用のベッドが上半身を起こしていく。 せき が徐々におさまっていく。せき立てるようなテンポで鳴っていたバイタルモニターの電子音も、元の速度に落ちついていく。

 ああぁ──と聞こえる長い息を、上半身を起こしたおじいさんはゆっくりと時間をかけて吐いた。目をつむったままのその顔には、あちこちに汗が浮いている。彼の右腕がないことに──右肩からすっぱりと落ちるように病院着がへこんでいることに、私は今になって初めて気づく。

「……常世は美しいが、死者の場所だ」

 胸をふいごのように上下させながら、おじいさんが言う。その声には落ちついた威厳が戻っている。目を開き、充血した目で私をまっすぐに見る。

「──あなたは、怖くはないのか?」

 その問いに、私はいつかの草太さんの声を思い出す。あの時──愛媛でも神戸でも、私たちは戦友だった。無敵の気分だった。私たちにしか出来ない大切なことを、誰にも知られずにやってきた。空のてっぺんにだって、二人でしるし をつけてきたのだ。

「……怖くなんてない」私はおじいさんを にら みつけるようにして言った。

「生きるか死ぬかなんてただの運なんだって、私、小さい頃からずっと思ってきました。でも──」

 でも。でも今は。

「草太さんのいない世界が、私は怖いです!」

 両の目の奥が、熱かった。涙がまた勝手に あふ れそうだった。でももう泣きたくなんかなくて、私はまぶたをぎゅっと閉じた。

「ハッ!」ふいに、おじいさんが大きく息を吐いた。

「ハッハッハッハッ──!

 それはとても大きな、心底に愉快そうな笑い声だった。 せて干からびたような体からこれだけの大声がほとばしることに私は驚き、何がそんなにも 可笑 おか しいのかも理解できず、私は口を開けておじいさんを見つめた。

「ハッハッハッ、ハッ、ハアァ……」

 ずいぶん長く笑い続けた後で、飽きたようにおじいさんは声を止めた。にやりとした余韻を口元に残したまま、ぽつりと言った。

「人のくぐれる後ろ戸は、生涯にひとつだけ」

「え──」

「あなたは後ろ戸の中に常世を見たのだろう? そこに何を見た?」

「ええと、あれは──」

 とっさに かれ、私は慌てて記憶をたぐった。常世の風景は、思い出そうとするほどに しん ろう のように遠ざかってしまう。でもあれは──。何度も見たあの星空の草原は──あの場所を歩いていたのは──あの場所で出会ったのは──。

「小さな頃の自分と……死んだはずの、お母さん……」

 おじいさんがかすかに うなず く。

「常世は、見る者によってその姿を変える。人の魂の数だけ常世は り、同時に、それらは全てひとつのもの」

 言葉が私に染み込むのを確かめるように、おじいさんはゆっくりと しやべ る。

「おおかた、あなたは幼い頃に常世に迷い込みでもしたのだろう。覚えはあるかね?」

 その問いに、 はじ けるようにして光景が浮かんだ。雪の舞う夜──冷たいぬかるみを一人で歩いたこと。雪の積もった れき の中に、扉がまっすぐに立っていたこと。幼い手でドアノブを押したこと。その先に、 まばゆ い星空が広がっていたこと。

 私の顔を探るようにじっと見て、おじいさんが草太さんとよく似た深い声で言う。

「その扉が、あなたが入ることの出来る唯一の後ろ戸。それを探すことだ」

 そしてまた目を閉じ、深い しわ の刻まれた口を隙間なく結んだ。もう行きなさいと、老人は無言で言っていた。その口はもう開かれなかった。けれど、その口の端はほんのかすかに──本当に数ミリくらいのかすかさで、微笑みを残しているように私には見えた。

 私はおじいさんに向かってまっすぐに立ち、深く長く頭を下げた。そして私も無言のままに、病室を後にした。


出発


 アパートのドアを開けると、懐かしい草太さんの匂いがした。それは遠い外国のような、ひたすらに あこが れながらも手の届かない、胸を締めつける匂いだった。この部屋に一緒にいたのはたった一日前──いや違う、まだほんの十四時間ほど前のことなのに、もうずっとずっと昔のことのように思えた。

 八畳ほどの書斎は、荒れていた。気持ちのいい自由さで床に積まれていた本たちは崩れて倒れ、本棚に収められていた本は半分ほどが畳に散らばっていた。開いたままの窓から吹き込む風が、そんな本たちのページをかさかさと音を立てて揺らしていた。ミミズのせいだ──と、私はゆっくりと思い出すようにして気づいた。要石が抜けた瞬間の一度の縦揺れが、この部屋にあったささやかな秩序を崩したのだ。

 まずは、体を洗う必要があった。

 台所の横に小さな洗面所があり、その奥に浴室があった。シャワーと、とても小さな浴槽もついていた。私は にもらった服を脱いで、丁寧に畳んで洗濯機の上に重ねた。裸になって浴室に入り、シャワーヘッドから熱いお湯を出して頭から浴びた。私の髪の毛は今までに経験したことがないくらいにごわごわと固まっていて、体を伝わって流れるお湯は真っ黒に汚れていた。床のタイルを流れるお湯がすっかり透明になるまで、私は時間をかけて髪の毛と全身を洗った。それから、足の裏に取りかかった。深い切り傷が、両足の裏に何ヶ所も出来ていた。私はこびりついた血を指先でこすり落としてから、傷口に入り込んだ小石を爪の先で丁寧に取り除いた。 じり に涙が にじ み奥歯が勝手に食いしばっていたけれど、痛みは、頭のずっと奥のどこか遠い場所にあった。

 バスタオルは、洗濯機の上の小さな棚にきちんと折りたたまれて収納されていた。プラスチックのケースに収められた薬類も、同じ棚にあった。シャンプーや せつ けん 、歯ブラシやひげ りや整髪料なんかも、全てがきちんと整理されて収められていた。ちゃんとした大人なんだな、と私は思った。そういう ちよう めん さのすべてが、無性に切なかった。私はタオルを一枚借りて全身を き、ケースに入っていた傷パッドを足裏に貼った。

 下着姿のままドライヤーで髪の毛を乾かした後、私はスポーツバッグから制服を取り出した。千果にもらった服はもうボロボロだったから、別の服に着替える必要があった。私は白いワイシャツを着て、深緑色のスカートを 穿 き、紺の靴下を履いた。胸元には赤いリボンをきつく結んだ。それから後ろ髪をゴムでくくり、高い位置でポニーテイルにした。気づけば九州を出た日と、同じ服で、同じ髪型だった。それなのに、私の体からは何かが決定的に消えていた。自分を世界に つな ぎ止めておくための重し のようなものが、すっかりなくなってしまっていた。見た目は変わらないのに体重が半分になってしまったような──身体がただの空気でかさ増しされてしまったような、 こころ もと ない気分だった。私はまだ腹を立てていた。勝手に与えられ、一方的に押しつけられ、理不尽に奪われた。またなの ? と私は思った。馬鹿にするなと、この世界の担当者だか神さまだかを怒鳴りつけたかった。洗面所の鏡に映ったすこし瘦せた自分の顔を にら み、「馬鹿にするな」と、私は小さく口に出してみた。でもその声は自分でも情けなくなるくらい、泣き出しそうに震えていた。


 部屋を出る前に、私は崩れた本たちをざっと片付けた。本棚のルールは分からなかったから、散らばった本を ひざ の高さ程度までに並べて床に積んでいった。それから窓を閉め、カーテンを閉じた。

「靴を借りるね、草太さん」

 そう つぶや いて、私は玄関にあった草太さんの黒いワークブーツに足を入れた。ぶかぶかだったけれど、私は くつ ひも を強く引っぱって、足に縛り付けるようにしてその大きな靴を履いた。そしてアパートのドアに かぎ を閉め、駅に向かって歩き出した。

 まだ、朝の八時を過ぎたばかりだった。

 街にはようやく通勤や通学の人々が溢れはじめていた。無言で駅へと流れる人々の行進に混ざりながら、一、二、三……と私は頭の中で指を折って数えた。

 五日目だ。

 草太さんと出会ってから、五日目の朝だった。


    * * *


 私はまず、東京駅に行くつもりだった。そこから新幹線に乗り換えるのだ。そこまでの道のりならば、もうスマホを見る必要もない。

 神田川沿いに歩道を歩き(昨日はこの土手沿いにミミズがいたのだ)、交差点を曲がり大きな橋を渡ると、そこがもう御茶ノ水駅だった。ちょうどラッシュアワーで、駅前は様々な年齢の人々で混み合っていた。

「──おいちょっと、あんた!」

 改札へと続くスロープを登ろうとしたところで、すぐそばで声が聞こえた。でも私のことじゃない。こんなところに知り合いなんかいるはずない。

すず ちゃん!」

「え!?

 思わず振り返った。駅前の車寄せに、真っ赤なオープンカーが停まっていた。運転席の男性が私を睨んでいる。

「…… せり ざわ さん!?

 昨日アパートに訪ねてきた、草太さんの知り合いらしき男の人だった。黒いジャケットを羽織っていて、赤いVネックの胸元にはシルバーアクセサリーをじゃらじゃらと下げている。

「え、どうして──」

「あんたどこ行くんだよ? 草太のところか?」

 私の疑問を遮って、丸眼鏡の中から不機嫌そうな目付きで私を見ている。どうして彼がこんなところにいるのかは知らないけれど──でも不機嫌さだったら、今は私だって負けていない。

「……扉を探しに行く」

 彼に聞こえない声で、私は口の中で小さく言った。

「あ?」

「ごめんなさい、急いでますから」

 私はくるりと背を向ける。

「おい待てよ、あんたのことどんだけ探したか──!」

 後ろから腕を つか まれた。

「ええっ!?  なに!?

「草太の だってのは噓だよな?」

「関係ないでしょ? 離してよ!」

「乗れよ」

 車から乗り出して私の腕を摑んだまま、彼が言った。

「はあ?」

 通り過ぎる通勤の人たちが、ちらちらと私たちに視線を送っている。

「どうして私が──」

「あんた、草太のとこに行くんだろ? どこにせよ俺が連れてってやる」

「なんであなたが!?

「友達の心配しちゃ悪いのかよ!?

 私の目を直視して、真剣な声で彼が言った。友達──その言葉に、私はふいに混乱する。もちろん、草太さんにだって友達はいる。大事な試験に友達が現れなかったら、私だって心配すると思う。でも余程の親友じゃなければ──。

「ああっ、いたっ!」

 突然、今度は改札の方角から声が聞こえた。え、この声って──ええっ!?

たまき さんっ!?

「鈴芽!」

 改札前の人混みをかきわけ、環さんが突進する勢いで駆け寄ってくる。私は思わず目を疑った。環さんはブルーのサマーニットに淡いピンクのスカーフを巻き、大きなトートバッグを肩に掛けている。大人の休日といった で立ちなのに、見開いた目が血走っている。

「ええ、なんで!?

「ああ~良かった~っ! あんたのことどんげ探したか!」

 泣き出しそうな声で環さんはそう言って、私を抱きかかえるようにして芹澤さんから引き がす。

「あんた、これ以上こん子に近づかんで! 警察呼ぶわよ!」

「え!」芹澤さんが驚いた顔で私を見る。

「誰っ!?  親!?

「こん男がうちに来ちょったやつ? あんただまされちょっとよ!」

「ええっ?」思わず私と芹澤さんはハモってしまう。環さんは勝手に何かを結論づけたようで、私の腕を引っぱって改札へと歩き出す。

「さ、帰りましょ!」

「ちょ、ちょっと環さん」

「ほら早く!」

 私は立ち止まり、彼女の腕を振り払う。

「ごめん環さん、私まだ帰れない」

 そう言って、ぽかんとした表情の芹澤さんと赤いオープンカーを交互に見る。仕方がない。私は車のドアを開けて、芹澤さんの隣に素早く乗り込んだ。

「芹澤さん、出してください」

「え? あ、お、おう!」

 そういえば、という感じで芹澤さんはキーを回す。エンジンが派手な音を立てる。

「ちょ、ちょっと鈴芽、待たんね!」

 環さんが駆け寄ってくる。目が血走っている。この人、本当に警察を呼びかねない。

「芹澤さん、早く!」

「こら、鈴芽!」

 環さんはワイドパンツの脚を振り上げて、オープンカーのドアに靴を載せた。

「おわっ!? 」芹澤さんが目を みは る。

「一人じゃいかせんから!」

 車のドアを踏み越え、落下するような勢いで環さんは助手席にお しり を入れてくる。

「ちょっと環さん、降りて!」

「鈴芽、あんたいったいどんげつもり!?  これじゃあ家出やない!」

「ちゃんとLINEしてたでしょ!」

「既読スルーばっかやがね!」

 ぎゃあぎゃあと声を上げる私たちに、「おいちょっと落ちつこうぜ」と芹澤さんが言っている。通り過ぎる通勤客たちが まゆ をひそめ、ひそひそと何か しやべ っている。

「痴話ゲンカだな」「三角関係だね」「ホストと客だな」「修羅場えぐいわ」

 違うっ! と私は大声で叫びたくなる。その時だった。

「うるさい」

 後ろから、子供の声 が聞こえた。反射的に私たちは振り返った。

 後部座席に、ちょこんと ねこ が──ダイジンが座っていた。げっそりと せこけた姿のまま、ぎょろついた黄色い ひとみ で私をじっと見つめている。

「──猫が喋った!?

 芹澤さんと環さんが、私の両隣で同時に叫んだ。

「え?」私はとっさに笑顔を作る。「喋るわけないじゃん?」

「そ──」二人は顔を見合わせ、また猫を見て、

「そうだよな……!」と声を合わせる。あーうん、猫は喋らない、そりゃそうだ。うんうん、猫は喋らんもんね、うんうん。それぞれぶつぶつと つぶや いている。これ以上深くは考えさせまいと、私は慌ててハンドル横のカーナビを操作した。

「そんなことより──!」

 住所を入力し、確定ボタンをタップする。『目的地を設定しました』と、合成音声が場違いに明るく言う。

「芹澤さん、だったらここまで行って下さい」

「え──」芹澤さんがカーナビを のぞ き込んで言う。

「ええっ、遠っ!」

「どこへでも行くって、言いましたよね?」

「え、あんた、ここって……!」

 環さんも画面を覗き込んで驚いている。私は二人の間を通って後部座席まで移動し、シートに座り込んだ。警察を呼ばれるわけにも、九州に帰されるわけにもいかないのだ。芹澤さんがどういう人かは知らないけれど、連れていってくれると言うのならば、そうしてもらえばいい。環さんだって、そんなに私を一人で行かせたくないのならば、勝手に付いてくればいい。ダイジンは何を考えているのか、既に座席の端っこで丸くなっている。

 なんだっていい。皆、勝手にすればいいのだ。私には関係ない。私は私の後ろ戸を探しに行く。シートベルトを締めながら、私は芹澤さんを見て強く言った。

「お願い。行かなきゃいけないんです」

「まじかー……」

 しばらく私の目を見た後で、芹澤さんは あきら めたように息を吐いた。サイドブレーキを上げながらぼそりと言う。

「こりゃあ、今日中には帰れねえな」


    * * *


 駅前から出発した車は、広く真新しい道路をしばらく進んだ後で、料金所を抜けて首都高速道路に入り、スピードを上げていった。

 誰も何も喋らなかった。

 芹澤さんは無言でハンドルを握り、環さんは不機嫌に街並みを にら み、ダイジンは私の隣のシートで体を丸めて眠り込んでいた。オープンカーに吹きつける きだしの風と強い加速が、私の体をシートに押しつけていた。九月の朝の空はどこまでも透明に青く、風は湿り気を帯びていた。

 私はゆっくりと目をつむった。

 車がビルの影を出入りするたびに、 まぶた の裏にごにょごにょとした不思議な模様が走った。それをじっと見ているうちに、頭の中に詰まっていたいろいろな感情の輪郭が、だんだんと溶けていくのが分かった。腹立ちが あい まい になり、焦りが曖昧になり、寂しさが曖昧になっていった。同時にずっと張り詰めていた全身の筋肉から、力がじわりと抜けていった。今だけは──と、溶けていく感覚の中で私は思った。今だけは目をつむることを、力を緩めることを、感情を曖昧にしていくことを、私は自分に許そう。今だけは知らない誰かの運転に、その加速に、ぜんぶを預けよう。次に目を覚ましたら私はたぶん、何かと向き合わなければならない。戦わなければならない。ほんの数時間後には、きっと私は何かに立ち向かわなければならない。でも今だけは──。

 そんなふうに思いながら、ぬるい泥に引きずり込まれるように、私は眠りに落ちていった。


探しものは何ですか


 芹澤さんが沈黙に耐えかねたように音楽を流し始めたのは──これも後になってから聞いた話だけれど──私が後部座席で眠り込んで、しばらく経った後だった。ハンドル横に据え付けられたスマホを芹澤さんが操作すると、両ドアに埋め込まれた大きなスピーカーから陽気なドラムとギターのイントロが流れ出し、続いてからりとした女性ボーカルが歌い始めた。

「あーのーひーとの、ママに会うためにー、いーまーひーとり、列車に乗ったのー」

 何十年も前の、日本の古いポップスだった。ハンドルを握った指先でとんとんとリズムを取りながら、芹澤さんも楽しそうに声を合わせる。

「たそがれーせまる街並やー車の流れー、横目でー追い越してー」

「せからしかね」

 正体のまだよく分からない若い男をじろりと睨みながら、環さんがぼそりと呟く。

「いやあ、旅立ちにはこの曲でしょ? 猫もいるし」

「はあ?」

「その猫って、鈴芽ちゃんのすか?」

 そう かれても見当もつかず、

「うちは猫なんて飼っちょらん」

 と、環さんは不機嫌に言う。芹澤さんは片手でダッシュボードの中を探り、財布から一枚のカードを取り出す。

「俺、芹澤って言います。娘さんの友達の友達です。たぶん」

 差し出されたそのカードを、環さんはつまむようにして受け取った。学生証だった。寝起きで跳ねた金髪に、丸眼鏡の眠そうな写真。その横には、芹澤 とも という名前と生年月日、所属学部などが書かれている。

「……教育学部?」

 環さんが眉を寄せる。いかにも軽薄そうな外観とはずいぶんミスマッチだ。

「まあ、教師になりたいんで」

 と、芹澤さんは簡単に答える。

「…… いわ です」環さんは学生証を返しながら短く名乗る。

そで 振り合うもってやつですね。長い道中、仲良くしましょ」

 何が面白いのか芹澤さんが半笑いでそう言って、がこんとギアを変える。すると、車が激しく き込むみたいにガタガタと揺れる。揺れながらもスピードを増し、前方の乗用車を追い越していく。

「……ボロい車やね」

「これ、中古でめちゃくちゃ安くて!」と芹澤さんは うれ しそうに言う。「普通だったらまあ百万は下らないんすけど、カブキで働いてる先輩が格安で譲ってくれて。カッコいいっしょ?」

  ちよう ? どうでもいいわ、と言わんばかりに環さんは ため いき を吐く。

「そんなことより君、本当に良かったと? 片道で七時間以上はかかるとよ?」

「いや別に。草太探してるのは、娘さんだけじゃないんで」

「娘やなくて、鈴芽は──」

 環さんは流れる路面に目を落とし、しばらく考えてから口を開く。

「…… めい なのよ。姉の子供。お姉ちゃんが死んで、私が引き取ったの。この子のとこ、母子家庭やったから」

「は?」

 いきなりの身の上話に戸惑ったのか、芹澤さんは曖昧な息を返す。でも、環さんは構わずに話し続ける。

「お姉ちゃんの死は仕事中の事故というか、まあ、突然でね。連絡を受けて私、慌てて鈴芽のところに駆けつけたとよ。この子は他に身寄りもなかったから」

 相手の顔を見ずにうつむいたままで、環さんは話す。環さんは誰かに話したかったのだ。誰でもいいから、聞いてもらいたかったのだ。東京へと向かう新幹線の中でじりじりと景色を睨みながら、ずっとこのことを思い返し、考え続けていたのだ。

「あん時は鈴芽、まだ四歳やった。おばさんと一緒に九州に行こうねって鈴芽と話して、鈴芽も うなず いて。でもその日の夜に、この子、いなくなってしまったとよ。私に黙ってお母さんを探しに出て、迷子になってしまって。三月で、雪の降る寒い日やった。私は実家を出てからは九州が長かったから、三月がまだこんなに寒いことに驚いて、こんな夜に外にいる鈴芽が心配で心配で。暗い町中ば、ずいぶん長く探し回って」

 あの夜の不安と恐怖を、環さんは今でもありありと思い出すことが出来る。すずめ、すずめと大声で呼びながら、ぬかるんだ地面を歩き回り、懐中電灯で物陰を照らして回った。万が一のことを考えると、呼吸が止まってしまいそうだった。長い悪夢に放り込まれたような夜だった。

「ようやく見つけた時、鈴芽、雪の積もった野原にうずくまっちょってね。お母さんに作ってもらった宝物の子供椅子を抱きかかえちょって、私、それがたまらなく切なくて──」

 たまらなく切なくて、環さんは私を──幼い鈴芽をきつく抱きしめ、「うちの子になりんさい」と涙を流しながら言ったのだ。あの時に抱いた体の小ささと冷たさを、環さんは今でもくっきりと覚えている。

 車は あら かわ に架かった巨大な橋を渡っている。ずっと遠くの鉄橋を、銀色の電車が平行に走っている。河川敷の茶色いグラウンドでは、男女が入り混じったフットボールチームがボールを っている。彼らを眺め、光がちりばめられたような かわ を眺めて、環さんは目を細める。──十二年、と小さく つぶや く。

「……そう、数えたらあれからもう十二年よ。九州に連れて帰って、ずっと二人で、二人だけで暮らしてきた。それやとに──」

 シュッと乾いた音がして、環さんはそちらを見る。芹澤さんが、無表情に煙草を吸っている。

「──ああ、」

 環さんの視線に気づき、 へい たん な口調で彼は言う。

「煙、嫌すか?」

 環さんは思わず苦笑してしまう。

「……君の車やからね」

 そうだ、他人なのだ。こんなこと話すなんてどうかしてるわと、環さんはゆっくりと我に返るようにして考える。この人がこんな感じの子で良かった。こちらに気遣いをしない代わりに、こちらも気を遣う必要がない。お互いに期待もなければ、失望もない。せいぜい一日かぎりの付き合いなのだ。だとしたら、こういう他人に興味のなさそうな子が一番いい。そんなふうに考えて、環さんは初めて好感らしきものを芹澤さんに抱く。 美味 おい しそうに煙を吐きながら、芹澤さんが言う。

「んで、今からその鈴芽ちゃんの実家に帰ると。なんだかよく分かんねえけど、そこに草太がいるんですかね?」

「さあ……。でもあそこにはもう、なにもないとよ」

 そう言って、環さんは後部座席を振り返る。私はまだぐっすりと眠っている。

「君、今のうちに東京に戻ってくれん? したら、この子もいいかげん あきら めてくれるかもしれん」

「いや俺、草太に貸してる二万円を回収しないと」

「は?」環さんは あき れて言う。「君、借金取りみたいやね」

 ははっと、まるで褒められでもしたかのように芹澤さんは笑う。どうでもいいけれど──と、彼の笑顔を横目で見ながら環さんは思う。この子、少なくとも教師には向いてないわ。赤いオープンカーは県境を越え、緑の増え始めた風景の中を北上していく。𠮟ってもらうわ~マイダーリン~、と、芹澤さんが音楽に合わせて歌う。


    ❖ ❖ ❖


 車に揺られたままずいぶん長い時間、私は眠った。時折ふと目を覚まし、海面に顔を出して息継ぎをするような気分で風景をぼんやりと眺め、また潜るように深く眠るということを繰り返した。

 目を覚ますたびに、周囲の風景は変化していた。チェーン店が居並ぶロードサイドがあり、民家がまばらに散らばった集落があり、緑だけが続く やま あい の自動車道があった。いつからか、すれ違う車には大型のトラックばかりが目立つようになった。トラックのフロントには大きなゼッケンのような布が掛けられていて、「環境省」とか「除去土壌」とか「汚染土壌」とかいう文字がちらちらと目に入った。私は何を考える意志も気力もなく、それらをただ網膜に通過させ、また眠った。

 何度目かに目を覚ましたとき、車はのどかな町の中を走っていた。道路は滑らかで凹凸のないアスファルトで、道路脇の白線や黄色いセンターラインは塗り立てのように まぶ しかった。でも通り過ぎる家々や商店はよく見るとすべてが廃屋で、どれも緑に半ば覆われていた。駐車場に斜めに停められた車も、開け放たれたままの窓も、ドア横に置かれたままのランチタイムの看板も、誰かの生活を一時停止したような奇妙な途中さ で、道の両脇に無言のままで朽ちていた。そういう人の気配の消えた町の真ん中に、道路だけが れい に整備されてまっすぐに延び、その道をトラックだけが行き交っているのだった。なんだか夢の続きの風景のようで、私はひとしきり眺めた後、また泥に沈みこむようにして眠りに落ちた。


 私が はじ かれるようにしてはっきりと目覚めたのは、揺れた、と思ったからだった。

 車の振動とは別の揺れが、確かにあった。隣を見ると、ダイジンも目を覚まして周囲を見回している。

「今、揺れませんでした!?

 運転席の芹澤さんにそう くと、のんびりとした声が答えた。

「ああ、やっと起きた? 今は さんが寝てるよ」

 助手席を のぞ き込むと、環さんはシートに深くもたれて寝息を立てている。

「揃って寝不足だねえ」と芹澤さんが薄く笑う。と、ハンドル横に据えられたスマホが、ぴこんと小さな音を立てた。

「……本当だ、震度三だったって。走ってると分かんねえな」

 遅れて、私のスマホも短く振動する。見ると、一分前に震度三の揺れが観測されたという通知だった。

「停めて!」

「ええっ!?

 路肩に停車した車から飛び降りて、私は周囲を見回した。道の両脇には背の高い草木が、土地を覆いつくすような おう せい さで繁っている。「帰還困難区域につき立ち入り禁止」と書かれた立て看板と鉄のフェンスがあり、その奥に草に埋もれた細い道があった。その先に小高い丘が見える。

「おいちょっと、鈴芽ちゃん!」

 背中で芹澤さんが声を出している。構わずに私はフェンスの隙間に体をくぐらせ、斜面を駆け登った。


 丘の頂上に立って振り返ると、緑の風景が眼下に広がっていた。民家や電柱が息をひそめるように木々の間にぽつぽつと隠れている。私は全身にうっすら汗をかきながら、その風景を凝視した。

「出てこない……」と呟いたその直後に、足裏から地鳴りが聞こえた。私はとっさに足元を見る。かすかに──揺れている。草に埋もれた小石が、カチカチとほんの小さな音を立てている。息を んで見つめるうちに、しかしその揺れは収まっていく。私は顔を上げ、もう一度周囲の風景をぐるりと見回した。

 ──出てこない、ともう一度私は呟いた。

 ミミズの姿は、どこにもない。地鳴りももう消えている。

 草太さんが抑えてるんだ──と私は思う。草太さんが要石となり、ミミズを封じているのだ。東京の後ろ戸で見た、あの景色。黒い丘とそこに刺さった椅子の姿を、私は思い出す。胸が詰まる。あれは──圧倒的に孤独な光景だった。

 ふいに、草が揺れる音がした。

「……ダイジン」

 私に付いてきたのか、ダイジンがすこし離れた場所にちょこんと座り込んでいた。骨の浮き出た背中をこちらに向け、じっと町を見下ろしている。

「あんた、一体どうしたいの?」

 私は とが った声を出した。 ねこ は私に背中を向けたままだ。

「なんで しやべ らないの?──ねえ!」

 反応がない。私は制服のシャツの中に下げている閉じ師の かぎ を、胸元のリボンごとぎゅっと握った。

「要石って──」もう返事は期待せずに、小さく独りごちる。

「閉じ師じゃなくても、誰にでもなれるの……?」

「おーい」

 のんびりとしたその声に顔を上げると、芹澤さんが両手をポケットにつっこんだまま斜面を登ってくる。

「鈴芽ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」

 歩きながら私の顔を見上げ、さして心配でもなさそうな口調でそう たず ねる。

「すみません」と私は言う。「何でもないんです。急がないと──」

 そう言って斜面を降り始めた私とすれ違い、芹澤さんは丘を登っていく。私は思わず立ち止まり、目で追った。芹澤さんは丘の頂上に立ち、両腕をぐーっと伸ばして頭の上で組み、大きく息を吸う。

「はーっ、体固まったー! これで半分は来たかなあ」

 そう言ってポケットから煙草の箱を取り出し、一本をくわえてライターで火を付けた。汗を浮かべた顔で町を見下ろし、気持ちよさそうに煙を吸っている。

 私は あきら めて、芹澤さんと同じように景色を眺めた。そうだった──と私は今さらに気づいた。私が眠り続けている間、芹澤さんはずっと運転をしてくれていたのだ。そんなことにすら、私は気づかなかった。余裕がなかった。今だって焦っている。でも──。

「風が気持ちいいね。東京よりちょっと涼しいかなあ」

 と芹澤さんが言う。眼下には田園の緑が一面に広がっている。風が草を で、波音のようなさざめきがあたりに満ちている。いくつかの屋根が、正午の太陽を眩しく反射させている。トラックが一台、風景を区切るようにゆっくりと移動しているのが見える。その奥に、青い水平線が細く見えている。どこかでカッコウが鳴いている。眩しそうに目を細めて、芹澤さんが言う。

「このへんって、こんなに綺麗な場所だったんだな」

「え?」

 景色を凝視したまま、私は思わず つぶや いた。

「ここが──きれい ?」

 黒のクレヨンで塗り つぶ す、日記帳の白い紙。私が眼前の風景に重ねていたのは、その記憶だった。だから私は単純に驚いたのだ。きれい?

「へ?」

 芹澤さんが私を見る。──だめだ。やっぱり余裕なんて、私にはとても持てない。

「ごめんなさい」

 そう言って、私は斜面を降り始めた。早く行かなきゃ、と口の中で呟く。ダイジンも無言で後を付いてくる。やれやれといった雰囲気で歩き出した芹澤さんの足音が、背中で聞こえた。「おい猫、おーい」とダイジンに話しかけている。

「なんか、闇の深い一家だよなあ」

 ……聞こえてるんですけど。

  にら むように振り返ると、芹澤さんの後ろで入道雲がぴかりと光った。すこし遅れて、低い雷鳴がゴロゴロと響く。空を見上げると、黒い雲の群れがまるで不吉な何かから逃げるように、速いスピードで風に流されていた。


    * * *


「探しものはなんですかー、見つけにくいものですかー」

 芹澤さんがスマホから流す音楽は、古い邦楽ばかりだった。

 私には知らない曲が多いけれど、今流れているこの曲はどこかで聴いたことがある。不機嫌に黙り続ける私と環さんを気にするふうでもなく、芹澤さんは例によって鼻歌交じりで上機嫌に歌詞を口ずさんでいる。 かばん の中も机の中も、探したけれど見つからないのに──。

「あ、雨」

 ふいに、助手席の環さんが呟いた。

「マジすか!」

 と、芹澤さんが珍しく感情のこもった声で言った。オープンカーから見上げると、空はすっかり灰色の雲に覆われている。アスファルトには黒い はん てん がみるみるうちに増えていく。大きな水滴が、私の頰にもぽつりとあたる。

「こりゃマズいなあ……」と、妙に哀しげに芹澤さんが言う。

「何が? 屋根あるっちゃろ、早く閉めんね」

「あー……まあ……やってみますか」

 そう言って芹澤さんがシフトレバー横のスイッチを押すと、ふいに私の後ろからモーター音が鳴り響いた。振り返ると、トランクがぱかりと開き、そこから折りたたまれた屋根がせり出してくる。私は思わず目で追う。まるで変形ロボットのように屋根は上下に分離し、下のパーツが私の頭上をぴたりと ふさ いだ。

「わあ……」

 思わず子供みたいな息が出てしまう。オープンカーってすごい。上のパーツがゆっくりと前にスライドしていき、前席の頭上にも ふた をしていく。──が、

 がこん、と引っかかるような音を立て屋根は止まってしまう。私の座った後部座席は完全に密閉されたけれど、前シートの屋根には三十センチ程の隙間ができたままだ。

「ん? ちょっと?」

 環さんが不思議そうに声を上げる。ふいに雨足が強まる。前シートの芹澤さんと環さんに、強い雨がばらばらと直撃する。芹澤さんのジャケットも環さんのサマーニットも、雨に黒く れていく。はっ、と芹澤さんが面白そうに息を出す。

「やっぱ直ってないや。ははっ」

はは じゃないやろ!」と環さんが悲鳴を上げる。

「ちょっと、どうするとよこれ!?

「だーいじょうぶ! すぐに次の休憩所ですって!」

 芹澤さんが笑いながらカーナビを操作すると、

『道の駅までおよそ四十キロ。所要時間は三十五分です』

 と合成音声が明るく言う。

「ぜんぜん近くないがねっ!」

 環さんが叫び、それに応じるように雷がびかびかっと光る。雨はますます強くなっていく。

 はあぁー、と私は脱力して息を吐いた。やっぱり、新幹線で一人で行くべきだったのだ。でももうどうしようもない。目的地はもう、さほど遠くない。夢の中へー、夢の中ヘー、行ってみたいと思いませんかー。なんだか未来を告げる占い師のように確信に満ちた声で、カーステレオが歌っている。


サダイジン登場


 海沿いの道の駅にようやく到着した頃には、二人は夜中のプールに忍び込んで服のまま泳いできた能天気なカップルみたいに、揃ってびしょ濡れになっていた。着替えたり乾かしたり食事したりトイレに行ったりしたいからあなたも一緒にという誘いを、私は断った。レストランでラーメンをすするような気分には、とてもなれなかった。お腹なんて、まったくぜんぜん いていなかった。私が首を振ると、環さんは ため いき をついてから、芹澤さんと並んで道の駅の建物の中に消えていった。私は駐車場に停められた車の後部座席で ひざ を抱えて、薄暗い海に吸い込まれていく雨をじっと見つめた。ダイジンも相変わらず私の隣で丸まったまま、何も言わずに眠り続けていた。


    ❖ ❖ ❖


 私がそんなふうに雨を眺めていた頃──。

 環さんはトイレに入り、持ってきていた別の洋服に着替え(白のタンクトップとラベンダー色のカーディガン)、鏡に向かって崩れたメイクをさっと直した。それだけでも、冷え込んでいた気分がすこしだけましになった。それからカフェテリアで「漁師の気まぐれ定食」を注文し、芹澤さんとは別のテーブルに座って一人で食事をした。道の駅の建物はつい数年前に建て替えられたばかりで真新しく、カフェテリアは天井が高く広々としていた。脂ののったサバはふわりと美味で、空調は快適で、客の数はまばらだった。食事を終えて熱いお茶を口にして、環さんは九州を出発してから初めて、ようやく あん の息をついた。

 まだ色々と問題はあるにしても──と、環さんは思った。ともかくも、鈴芽には会えたのだ。成り行きで実家に戻ることになってしまったし、なぜかそこにいるらしい草太という男のこともよく分からないけれど──でも実家に行ってその男に会えれば、きっとそれで鈴芽の気は済むのだろう。それは恋愛なのだろうか。まあそういうこともあるだろう。しかしそれにしても、なぜ今さら実家なのか。

 ……それはもしかしたら、彼女なりのアイデンティティの確認作業のようなものなのかもしれない。しばらく考えて、そんなふうに環さんは想像してみる。何と言っても、鈴芽はまだ若いのだ。自身の成長や人間関係を形成していく過程で、自分のルーツを確認する必要に迫られることもあるのだろう。うん、きっとそうだ。久しぶりに実家に帰り、気持ちを整理して、また本来の生活に戻る。そういう誰にでもあるごく普通の通過儀礼のようなものを、鈴芽はしようとしているのだ。

 環さんはそんなふうに考えてみる。実はまったく実感も心当たりも湧かないけれど、とにかくそんなふうに考えてみて、ちょっと安心を得る。じゃあ私は 明後日 あさつて あたりからまた出社かなと思い、そういえば、と みのる さんに電話をかける。

「──ええっ、ホストの男とですか!?

 簡単に状況を説明された稔さんが、電話口で大声を上げた。

「いや実際にホストなわけやなくて、雰囲気が貧乏ホストっぽいちゅうか……。──違う違う、 だま してるとか騙されてるって感じでもないとよ」

 環さんはスマホを耳にあてたまま、ちらりと後ろに目をやる。奥のテーブルで、芹澤さんは 美味 おい しそうにラーメンをすすっている。ふかひれラーメンにしたんだな、と環さんは思う。定食とどっちにしようか、環さんもちょっと迷ったのだ。

「いやでも、そりゃ危なかですよ!」と稔さんが言う。あちらは晴れているのか、電話の後ろでウミネコがのどかに鳴いている。漁業協同組合のオフィスの古い窓枠と、その奥の青い水平線を環さんは思い浮かべる。

「非力な女性が二人だけで、車は密室ですし!」

「いや密室ていうか、オープンカーで──」

「オ……!? 」稔さんが裏返った声を出す。

「オープンカーっ!?  なおいかん! 環さん、いま宮城のどちらですか? 道の駅── おお かい がん ──了解です、ちょっと待っちょってください──」

 カチャカチャと、猛然とキーボードを たた く音がする。大柄で日に焼けたTシャツ姿の稔さん──たぶん人生で軽トラックとフォークリフトしか運転してこなかったような彼が、自分のために必死になっている姿が環さんの目に浮かぶ。

「ちょうどそこの駐車場にいま、東京行きの高速バスが停まっとります。座席もぜんぜん空いてます。ワシの方で予約できますから──」

「ちょ、ちょっとまってよ稔くん!」

 環さんは慌てて彼を制する。ここまで来たのだから実家まで行くつもりであること、それできっと鈴芽の気は済むのであろうということを、環さんは説明する。ほら、通過儀礼みたいなもんよ、と環さんは言う。思春期ってそういうことがあるやろ? と、以前誰かに聞いたような理屈をすらすらとそのまま しやべ っている。そんなふうに話しながら──それは違う、と頭の中のどこかがふと思う。きっとぜんぜん違うのだ。環さんは自分の中の違和感を、その不吉な予感を、話しながらようやく認める。たぶん私が期待するようには、物事は簡単には進まない。鈴芽の考えていること、抱えていることは、たぶん、私の想像を はる かに超えている。環さんは理由もなく、でも本能的にそう確信する。

 明後日には戻るからそれまでよろしくねと、もう自分でも信じていないことを稔さんに伝え、環さんは電話を切った。


    ❖ ❖ ❖


 目的地まであと、車でおよそ一時間四十五分。

 私はスマホのマップから引き がすようにして目を離し、雨と潮風に湿った空気を深く吸い込んだ。あとすこし。あともうすこし。先へ先へと焦る気持ちをなだめようと、時間をかけて胸から空気を吐き出す。

 それからマップのメニューをタップし、移動ログを表示してみる。日本列島がスマホの画面に収まるまでズームアウトして、ここまでの経路が青い線で表示される。宮崎から愛媛までのフェリー、そこから車で四国を横断して神戸まで、次に新幹線で東京。さらに太平洋に沿うようにして、千葉、茨城、福島を経由し、現在地点は宮城。列島のほとんどを横断して引かれたその線の横には、1630㎞という数字が表示されている。これほどの距離を、私は来たのだ。だから大丈夫──自分に言い聞かせるように私は思う。常世までだって、きっと行ける。

 その時だった。足元からふいに不快な気配が湧き上がり、私は思わず腰を浮かせた。低い地鳴りが、また聞こえ始めていた。

「──!」

 手に持ったスマホが振動し、「緊急地震速報」という赤い文字が表示された。私はシートに膝立ちになって周囲を見回す。左右に停められた車が、ギシギシと音を立てて上下に揺れている。駐車場の屋根に まっていた雨が、小さな滝となって暴れるように落ちている。しかし数秒ほどで、思い直したかのように揺れは小さくなっていく。やがてスマホが沈黙し、足元の気配も気づけば消えている。私の鼓動だけが、まだ胸の中で跳ねていた。

「……草太さん」

 シャツの中の かぎ を握り、私は思わず つぶや く。

「草太さん、草太さん」

 こんなことを繰り返すのだろうか。この先何年も、何十年も。地震が起きるたびに、あの黒い丘で孤独に一人きりでいる草太さんを、私は想うのだろうか。もし草太さんにはそれが耐えられるのだとしても──私が 絶対に耐えられない。

「草太さん、草太さん……!」

 祈るように必死に思う。もうすぐ行くから。すぐに、助けに行くから。

「──鈴芽!」

 建物の方から聞こえたその声に顔を上げると、環さんが屋根伝いにこちらに走ってくるところだった。今揺れたがね? と言いながら、ドアを開けて助手席に乗り込んでくる。薄紫色のカーディガンに着替えていて、すこし血色を取り戻している。

「嫌な感じやね、地震ばっか……」

 環さんは独り言のようにそう言って、雨に湿った前髪を指先で整える。バックミラーに映った顔に、私は たず ねる。

「芹澤さんは?」

「まだ食事中やっちゃない? あんたは本当に、食事せんでいいと?」

「うん」

「だって、朝から何も」

「お腹 いてないの」

 ふうと聞こえる小さな息を、環さんは吐く。私たちは黙り込む。雨は降り続いている。まだ正午過ぎなのに、スクリーンの光量を最低まで下げたスマホの画面みたいに、あたりは薄暗い。

「……ねえ鈴芽」

 思い切ったように、環さんが言う。

「やっぱり、ちゃんと話してほしいっちゃけど」

「……なに?」

「なして、そんげ実家に行きたいと?」

「扉を──」反射的に私は言い、口ごもる。「……ごめん。 上手 うま く話せない」

「なによそれ……」

 バックミラーから私を見ていた環さんが前席から振り返り、私たちは数時間ぶりに直接に目を合わせる。

「あんた、こんげに人様に迷惑かけちょっとに」

「迷惑って──」勝手に付いてきただけじゃないという言葉を飲み込み、目を らして私は小さく吐き捨てる。「話しても分からないことだから。環さんには」

 環さんが息を む気配がする。バン! と乱暴な音を立て、環さんが突然にドアを開けた。車から降りて、オープンカーの外から私の腕を つか む。

「帰るわよ。バスがあるから」

「え?」

「ちゃんと説明も出来んで、そんげな青い顔して、これみよがしに何も食べんで!」

「離してよ!」

 私は摑まれた手を振り払う。

「環さんこそ帰ってよ! 付いてきてなんて頼んでない!」

「あんた分からんと!?  私がどんげ心配してきたか!」

 環さんの声が怒りに震えている。反射的に私は叫ぶ。

「──それが私には重いの!」

 環さんの目が、はっと見開く。唇を み、ゆっくりとうつむいていく。肩が大きく上下している。まるで周囲の空気が突然に薄くなったかのように、息を深く吸って、吐いている。

「もう私──」 かす れた声で、環さんがゆっくりと言う。

「しんどいわ……」

 私は環さんを にら みつける。駐車場の屋根の下の薄暗がりにまっすぐに立ったまま、環さんは低く言う。

「鈴芽を引き取らんといかんようになって、もう十年もあんたのために尽くして……。馬鹿みたいやわ、わたし」

 え、と私は思う。風に流された雨粒が、ぽつぽつと私の頰を たた く。

「どうしたって気を遣うとよ、母親を亡くした子供なんて」

 ふいに苦笑するように環さんは言う。そのずっと背後には、雨を吸い込み続ける暗い海がある。

「あんたがうちに来た時、私、まだ二十八だった。ぜんぜん若かった。人生でいちばん自由な時やった。なのに、あんたが来てから私はずっと忙しくなって、余裕がなくなって。家に人も呼べんかったし、こぶ付きじゃあ婚活だって上手くいきっこないし。こんげな人生、お姉ちゃんのお金があったってぜんぜん割りに合わんのよ」

 環さんの姿が、ふいに にじ んで揺れる。涙だと、すこし遅れて私は気づく。私の目に、涙が溜まっている。

「そう──」私の声は かす れている。「だったの……?」

 私はうつむく。ダイジンがドアの縁に座っていることに気づく。丸い目を大きく見開いて、ダイジンも環さんをじっと見ている。

「でも私だって──」

 こんなこと言いたくない。

「私だって、いたくて一緒にいたんじゃない」

 言いたくないのに。私は叫ぶ。

「九州に連れてってくれって、私が頼んだわけじゃない! 環さんが言ったんだよ! うちの子になれって!」

 鈴芽、うちの子になりんさい。あの雪の夜に抱きしめられた ぬく もりを、私はまだ覚えている。

「そんなの覚えちょらん!」

 半笑いの声で環さんが言う。腕を組み、環さんは私を怒鳴りつける。

「あんた、もううちから出ていきんさい!」

 環さんの口の端が笑っている。

「私の人生返しんさい!」

 それなのに、環さんの目は泣いている。違う、とその瞬間に私は思う。これは環さんじゃない 。シャーッ!  とダイジンが私の隣で威嚇の声を上げる。環さんは──環さんの体は、両目からぼろぼろと涙を流しながら、口元だけに笑みを浮かべてじっと立っている。

「あなた──」私は思わず訊ねる。「誰?」

「サダイジン」

 子供の声 が、そう言った。

 環さんの後ろに、大きな黒いシルエットが立っていた。

 それは車よりも大きな──黒猫だった。薄暗がりの中で、つり上がった大きな ひとみ がギラギラと緑色に光っていた。

「サダイジン……?」

 私が小さく繰り返したその直後、ダイジンがうなり声を上げて車から飛び降りた。駐車場の地面を り、巨大な黒猫の顔に ちゆう ちよ なく飛びかかる。女の悲鳴のような高い声を上げ、二匹は み合う。黒猫の巨体がどすんと倒れ、転がるように取っ組み合いを始める。

「ええっ──!?

 私は混乱したまま、 ぼう ぜん とその けん らしき行為を眺めた。ふいに、目の前で直立していた環さんの体がふらりと揺れた。 っていた糸がぷつんと切れたかのように、地面に倒れてしまう。

「え、ちょ、ちょっと……環さん!?

 環さんは地面にうつぶせたまま動かない。私は慌てて車から飛び降りて、彼女の脇にかがみ込んだ。

「ねえ、環さん! どうしたの、大丈夫!?

 首の後ろに手を差し入れて、頭を上に向けながら上半身をごろりと回す。胸は上下に動いている。呼吸はあるのだ。ふいに猫の悲鳴が途切れていることに気づき、私は顔を上げた。

「──え!」

 目を疑った。馬のような大きさだった黒猫が、半分ほどのサイズになっていた。ダイジンは首根っこをくわえられ、黒猫の顔の下でぶらぶらと左右に揺れている。まるで親猫と ねこ だった。黒猫はゆっくりとこちらに向かって歩き始め──その一歩ごとに、体が縮んでいった。まるで遠近の法則が狂ってしまったかのようだった。黒猫は私に近づくにつれて小さくなり、横を通過してオープンカーに飛び乗る頃には、大型犬と同程度の大きさとなっていた。

「な──」

 なにが起きているのか、分からなかった。最初の巨大な姿は目の錯覚で、本当は最初からただの大きめの猫だったのだろうか。私はぽかんと口を開けたまま、車に乗った二匹の猫を見つめた。黒猫はダイジンを口から離し、二匹は後部座席にきちんと座った格好で、揃って私を見上げた。真っ黒い毛並みに緑色の目をした大型の猫と、白い毛で黄色い目をした せた仔猫。でも私を見つめる瞳の印象は、とてもよく似ていた。

「ダイジンと、サダイジン……?」

 私は思わず つぶや く。二匹は同じ場所から来たんだ──と、私はなぜかふと思った。彼らの瞳は、私を見ながらも私を通り越していた。この猫たちの瞳は、あちら側 の世界を見つめていた。

「鈴芽……?」

 私の腕の中で、環さんが掠れた声を出した。

「環さん!」

 どこかぼんやりした目で、環さんが私を見上げている。

「私、どうして……」

「環さん、大丈夫?」

 その顔に、突然に生気が戻った。

「あ……あの、私!」と環さんは早口で言って立ち上がり、

「ごめん、ちょっと!」

 そう言って、建物へと小走りで駆けていく。私はとっさには力が入らず、地面に ひざ をついたままの姿勢でその背中を見送ってしまう。環さんの姿が自動ドアの中に消えてから、私はゆっくりと車を振り返った。黒と白の猫二匹は、座席の上でくっつくようにして丸くなっていた。ひと仕事終えたと言わんばかりに、ごろごろと のど を鳴らして眠り込もうとしている。

 いつの間にか、雨はもう小降りになっていた。


    ❖ ❖ ❖


「芹澤くん!」

 背中から声をかけられた時、芹澤さんはソフトクリームを片手に、クレーンゲームの景品を眺めているところだったそうだ。せっかくこんな場所まで来たのだから、記念に何かご当地めいたお土産でも持って帰ろうか──そんなふうにぼんやりと考えていた時に、その切羽詰まったような声に名前を呼ばれたのだ。

「はい?」

 振り返ると、そこに立っていたのは涙で化粧崩れした顔の、環さんだった。──勘弁してくれよ、と反射的に芹澤さんは思った。

「私、ちょっとおかしいみたい……」

「は?」

「なんであんげなこと──」言いながら、環さんは両手に顔をうずめていく。「言ってしまったっちゃろう……!」

 おいおいおい、と芹澤さんは思う。環さんは声を上げて泣きはじめる。

「ちょっとちょっとちょっと……!」

 芹澤さんは慌てて歩み寄る。うええーんとまるで子供みたいに、環さんは泣き声を上げている。カフェテリアや物産店から、店員や客たちが何事かとこちらを見る。勘弁してくれよとまた思いながら、芹澤さんは小声で言う。

「ど、どうしたんすか?」

 環さんは答えない。ひっくひっくとしゃくり上げている。

「え、ちょっと大丈夫? こんなところで泣かないで──」

 環さんの顔を のぞ き込もうと芹澤さんが身をかがめると、

「あ!」

 手に持ったソフトクリームのコーンから、アイスの部分だけがぺちゃりと床に落ちてしまう。──勘弁してくれよ、とまた思う。まだ二口しか めていなかったのに。だいたいなんで俺が──ショートカットの小さな頭と震える細い肩を見下ろしながら、芹澤さんは思う。なぜ俺は知らない田舎の道の駅で、たぶん二十近くも年上であろう知らない女に泣かれているのだ。

「うええ~ん。ひっくひっく。うえええ~ん」

 もうやけくそで、芹澤さんは環さんの肩に手を置き、ぽんぽんと優しくたたく。環さんは一層に泣き声を大きくする。周囲の人々はまるで落とし穴を避けるみたいに、二人からは大きく距離を取って歩く。芹澤さんはこぼれそうになった ため いき を飲み込み、天井を仰ぎ、闇深ぇ、と口の中で呟いた。環さんが更に大泣きしてしまわないように、彼女には聞こえないように小さな声で。


してほしいこと


「けんかをやめて~、ふたりを止めて~、私のために~争わないで~」

 芹澤さんの場違いな昭和歌謡が、私たちに向けられた彼なりのメッセージらしきものであることに、私はさすがに気づいてはいた。

「せからしかね!」

 でも、助手席の環さんはぴしゃりとそう言う。私も同感。うるさい。余計なお世話。

「ええ? ゲストに合わせて選んでるんだけどなあ」

 いかにも心外だという口調で、車を運転しながら芹澤さんは言う。道の駅を出発した赤いオープンカーは ぼう ちよう てい と畑に挟まれたのどかな田舎道を走っていて、すれ違う人も車もほとんどない。ごめんーなさいねー私のせいよ~、二人の心ーもてあーそんで~。聴いたことがあるようなないような懐メロをしばらく口ずさんでから、芹澤さんはちらりと私の方を振り返る。

「鈴芽ちゃん、晴れると気持ちいいでしょー、この車」

「……」

 私は無視をして、両手で持った大きなクリームサンドをかじる。あの後で急にお腹が いて、パック牛乳と一緒に道の駅で買ったのだ。柔らかいパン生地を口いっぱいに頰張り、牛乳と一緒に飲み込む。ごくん。甘いパンは、体中の細胞が喜んでいるのが分かるくらいに みるように 美味 おい しかった。環さんとは、さすがに気まずすぎてあれから口をきいていない。でもあの後からは──駐車場でお互いに怒鳴りあってからは、何かがすこしだけ変わったように、私には思えた。雨上がりの澄んだ空気の中を走るオープンカーは、確かにとても気持ちが良かった。古い額縁が換えられたみたいに、空も雲も一層に鮮やかだった。空気は以前よりも酸素を余計に含んでいるかのように、なんだか呼吸が楽だった。

「空気が重いね」

 黙ったままの私たちを交互に見て、芹澤さんが半笑いで言う。

「なあ、新入り?」

 そう言ってバックミラーをちらりと見る。後部座席の片側シートを埋めるサイズの黒猫が、喉を鳴らしながら白い ねこ の毛繕いをしている。

「まさか一匹増えるとはねえ……しかしでけえ猫だな」

 と面白そうに芹澤さんは言う。

「あ、 にじ !  さい さき いいなー」

 見ると、確かに行く手の空には大きな虹が架かっている。わあ、と私は思うけれど、口には出さない。環さんも何も言わない。

「……全員反応なしっと」

 気にするふうでもなく芹澤さんはそう言って、煙草をくわえて片手で火を付けた。

「鈴芽ちゃん、猫ってさあ」煙を吐きながら、のんびりとした口調で言う。

「理由もなくついてこないでしょ? 犬じゃないんだからさあ」

 そうかもしれない。そうかもしれないけれど、私は今はどちらかと言えば、この状況で一人で しやべ り続けられる芹澤さんのメンタルの強さのほうが気になっている。東京を出発してから八時間以上、私と環さんはドライブ中には一言も言葉を交わしていないのだ。

「その白と黒さあ」と、前を向いたまま彼は続ける。

「よほど鈴芽ちゃんにしてほしいことでもあるんじゃねえの?」

「そのとおり」

 と、子供の声が答えた。

「え」

 全員が、私の隣の黒猫を凝視する。黒猫──サダイジンが首を上げ、緑色の ひとみ で芹澤さんをじっと見ていた。その瞳が、次にゆっくりと私を見る。その目にはくっきりとした知性があった。

「ひとのてで もとにもどして」

「ね──!」芹澤さんと環さんが、揃って きよう がく の表情で叫んだ。

「猫が喋ったあ!?

 その時だった。センターラインをはみ出たオープンカーの正面に、トラックが迫っていた。運転手が驚いてクラクションを鳴らす。

「うわあぁぁっ!

 全員が悲鳴を上げて、芹澤さんがハンドルをぐいっと左に切った。トラックはブレーキ音を響かせつつ、ぎりぎりをかすめて通り過ぎる。私たちの車はぐるりと一回りスピンをし、がこん、と音を立てて土手の縁にバンパーを押しつけて停止した。

 危なかった──と思った直後、よいしょっという感じで、前輪が土手の雑草を乗りこえた。

「え?」

 車がゆっくりと、そのまま前に進んでいく。土手に沿って傾いていく。

「おいおいおい──」

 芹澤さんが慌ててギアを変えアクセルを踏み、車をバックさせる。が、車体は更に前傾し、後輪がふわりと地面から浮く。

「ちょっとちょっとちょっと……!」

 車は完全に道路から外れ、草に覆われた三メートルほどの急斜面をゆっくりと滑り落ちていく。タイヤが必死にバックをしようと、草をむなしくこすり続ける。しかし車は降りていく。がしゃん、と鈍い衝撃と共にフロントが地面にぶつかる。バシュッと派手な空気音を立てて、運転席と助手席のエアバッグが膨らむ。前席の二人がその様子を ぼう ぜん と眺めている。と、今度は私の背中からうぃーんというモーター音が響き出す。見ると、トランクが開き、折りたたまれた屋根がせり出してくる。屋根はスライドしながら二枚に分離し、ばたん、と私たちの頭上を完璧に ふさ いだ。

「あ、直った」

 と芹澤さんが放心したような声で言い、おもむろにドアを開ける。ドアは重力に引かれて芹澤さんの手から離れ、開ききって一度軽くバウンドし、それからバキンという音を立てて車体を離れ、地面に落ちた。サイドミラーが割れるパリンという乾いた音が、のどかな田園に響く。

「──まじか」

 と へい たん な声で芹澤さんが つぶや いた。

 このようにして、私たちを乗せて東京から六百キロもの距離を走ってきた芹澤さんの愛車は、目的地を目前に沈黙してしまったのだった。どこかすぐ近くで、野鳥がぴーぴーと楽しげに鳴いていた。


    * * *


 私が通りかかる車に親指を立て、必死にヒッチハイクを試みていた時──斜面の下の田んぼ沿いの草地では、大人二人が いま だに呆然と、四十度の角度で斜面にもたれている車を見つめていた。

「ほんとに危なかったっちゃね……ていうか!」

 車からようやく目を離し、環さんは声をひそめるようにして芹澤さんに言った。

「喋っちょったがね? あの猫!」

 環さんの隣で愛車の悲しい姿を見つめていた芹澤さんも、その言葉で我に返ったように環さんを見、声をひそめた。

「喋って──ましたよね、やっぱ!?  俺の幻聴じゃなくて!」

「喋っちょった! なんなら最初の仔猫も喋りよった! 『うるさい』って駅前で言うちょった!」

「言ってた! 言ってたよねやっぱ!?  なんなんすかあれ、心霊現象!?

「いやそんなばかなこと──」


 一方で、私のヒッチハイクはとても 上手 うま く行きそうになかった。斜面上の道路はぎりぎり車二台がすれ違える程度の狭い道で、周囲には水の張られた水田しかなかった。道路沿いには電柱が等間隔でどこまでも並んでいるばかりだった。そんな風景の中、十分待ってようやく通りかかったミニバンは、手を振る私の横を一切スピードを緩めることなく通り過ぎてしまった。運転席の作業帽を かぶ ったおじさんは、私を見てあからさまに まゆ をひそめさえした。私の形相が必死すぎたのかあるいは隣にいる黒猫の巨体に驚いたのか、あるいはその両方か、とにかく次は思いきり笑顔で手を振ってみようと決めてはみたものの、それから五分以上が経過しても次の車は一向に現れないのだった。私は斜面下に向かって、声を張り上げた。

「芹澤さーん、あと十キロくらいだよねえっ?」

 こんな場所でこれ以上、足止めされているわけにはいかないのだ。芹澤さんはドアの外れた車体に上半身を差し入れ、カーナビを操作し、私に向かって叫び返す。

「目的地まであと二十キロだってさ! まだちょっと遠いねえ」

「私、走っていく! ここまでありがとう、芹澤さん、環さん!」

 そう叫んで、私は走り出した。二人の驚いたような声が背中に聞こえる。でも、走れない距離じゃない。黒猫もダイジンをくわえたまま私に付いてくる。彼らの得体も目的も知れないけれど、常に私の隣に居続けるその猫たちを、私は今ではすこし心強くも思っていた。


    ❖ ❖ ❖


「え──走るって、え、まじ!?

 一方で大人たちは呆然と口を開け、遠ざかっていく私の背中を眺めたのだそうだ。一度も振り返らずにまっすぐに駆けていってしまう私を眺めながら──環さんはその時、すぐに心を決めたのだという。 はじ かれたように周囲を見回し、草に埋もれた自転車を見つけ、駆け寄った。

「え? どうしました?」

 芹澤さんの言葉には こた えず、環さんは草の中から自転車を引きずり出した。 びついたフレームを両手で持ち上げて、起こす。前カゴのついた黄色い自転車だった。 かぎ はかかっていない。奇跡的にタイヤに空気も入っている。

「芹澤くん、私も行くから!」

 そう言って環さんは両手でハンドルを持ち、自転車を押しながら斜面を駆け登った。

「ええっ!?

「ここまで送ってくれてありがとね!」

 そう言って環さんは道路に出て、自転車にまたがった。

「え、ちょっと」

「君、意外と良い先生になれるかもしれんね!」

 大声でそう言って、環さんは自転車を ぎだした。

「ええ、ちょっとちょっとちょっと──!」

 慌てて道路に登ってきた芹澤さんが見たものは、ずっと遠くを走っていく私と猫の背中と、自転車でそれを追う環さんの後ろ姿だった。やがてカーブを曲がり、全員の姿が木の陰に見えなくなっていく。

「……なんだったんだ、あの二人」

 両手を腰に当て、芹澤さんは あつ にとられて呟く。振り返ると、彼なりに大枚をはたいて購入し大切にしてきた赤いBMWが、同情するように土手下から彼を見上げている。なんだったんだ、と愛車に話しかけるようにして繰り返す。八時間も車を運転し続け、自分なりに場を和ませようと環さんの世代が好きであろう曲をかけつづけ、突然に車を失い、しまいには置き去りにされてしまった。なにやら闇の深そうな めい は、後ろを振り返りもせずにあっさりと行ってしまった。

 ふっと、腹の底から笑いが込み上げてきた。ははっと笑うと、なおさらに愉快になった。

「はははは……っ!

 いっそ そう かい だった。芹澤さんはひとしきり大笑いをした後、空を見上げ、緑の匂いを肺いっぱいに吸いこんだ。そして心に湧き上がってきた思いを、素直に口にした。

「いいなあ、草太のやつ!」

 俺はたぶん、なにかの役割を果たしたのだ──理由も分からずに、でもなぜか芹澤さんにはそう思えた。草太のことはまあ、鈴芽ちゃんに任せておけば何とかなるのだろう。そして鈴芽ちゃんには、あの愛情過多の叔母さんと二匹の謎猫がついている。うん、まあ何とかなるさ、きっと。俺はそろそろ、俺自身の人生に戻る頃合いなのだ──良い先生になれるよと太鼓判も押してもらえたことだし。

 芹澤さんは、くしゃくしゃに つぶ れた煙草をポケットから出して口にくわえ、火を付けた。今までさして 美味 うま いとも思っていなかったけれど──その煙は、初めて感じる伸びやかな達成感のようなものを、芹澤さんの全身に届けてくれた。


    ❖ ❖ ❖


 乗りなさい、と私に言った後は一言も口をきかず、環さんはただただ自転車を漕ぎ続けていた。

 細い道路の両脇には背の高いススキが一面に茂っていて、電柱だけが、私たちを道案内するみたいにずっと途切れずに続いていた。あちこちでヒグラシが包み込むように鳴いていた。九月の太陽はいつの間にかずいぶんと傾いて、左側から世界をまっすぐに照らしていた。

 私の目の前で自転車を漕ぎつづける環さんの背中は、覚えているよりもなんだかすこし小さかった。白いタンクトップが、汗で肌に貼りついていた。首筋からは玉のような汗が、ひっきりなしにころころと流れていた。

「……環さん?」

 私は小さく声をかけた。どうしてこんなに必死なのか、不思議だった。

「──もういいわ」

 弾む息の間に、ぼそりと環さんは言った。

「え?」

「要するに、あんた、好きな人のところに行きたいっちゃろ?」

「え……ええっ!?

「なんか色々ぜんぜん分からんけど、要するに恋しちょるんやろ?」

「え、いや、れ、恋愛とかじゃないしっ!」

 思いもかけなかったことを言われ、私は環さんのうなじに怒鳴った。ふふっ、と環さんは 可笑 おか しそうに笑う。やっぱりこの人ぜんぜん分かってない。耳まで熱かった。

「ねえ鈴芽、こん猫たちって……?」

 そういえばといった感じで、環さんはふいに言う。黒猫は、自転車の前カゴに無理矢理体を押し込むようにして座り込んでいる。ダイジンは、黒猫の前脚とカゴの隙間にぎゅっと挟まっている。

「ああ──」

 そういえば二匹とも、 しやべ った姿を見られちゃったんだなと今さらに私は思い出す。

「ええと──なんか、神さまなんだって」

 いつかの草太さんの言葉を思い出し、「気まぐれな?」と私は付け足す。

「気まぐれな神サマっ!?  なんやとそれ?」

 そう言って、環さんは吹き出した。あっはっはと聞こえる声で、気持ちよさそうにひとしきり笑う。まあそうだよね、と私は思う。私もくすくすと笑ってしまう。笑うなんて、ものすごく久しぶりのような気がする。もしかしたら私たちが一緒に笑うために──私はふと思う。このために、サダイジンはあの場に出てきたのかな。上半身を揺らす環さんと私の影が、右側の地面に濃く長く伸びている。

「あのね、」前を向いたままでふと環さんが言う。

「駐車場で私が言ったことやけど──」

 私は環さんを見る。汗で湿ったショートカットが、風に揺れている。何本か混じった白髪に、私は初めて気づく。

「胸の中で思っちょったことはあるよ……。──でも、それだけでもないとよ」

 うん、と私は言う。分かってる。

「ぜんぜん、それだけじゃないとよ」

 私は息だけですこし笑う。

「……私も。ごめんね、環さん」

 私はそう言って、環さんの汗だくの肩に手を置いて、うなじにぴたりと頰をつけた。環さんの匂いがした。それはお日様によく似た、いつでも私を安心させてきた匂いだった。私の好きな、環さんの匂いだった。

「──十二年ぶりの里帰りやね」

 と環さんが言った。私は声に出さずに うなず いた。ずっと遠くに、防潮堤の灰色の壁が見え始めていた。


故郷


「ただいまー、おかあさーん!」

 外でたっぷり遊んだ後は、そうやって大きな声で母に呼びかけながら、私は家までのこの短い坂道を駆け登ったものだった。十二年ぶりに同じ場所に立ち、私はそのことを突然に思い出していた。そういう時、母はよく私のために甘いおやつを準備してくれていた。さつまいものケーキとか、シナモンシュガーの揚げパンとか、きなこをまぶした豆腐 もち とか。家の間取りも、おやつの柔らかな甘さも、私を呼ぶ母の声色も、長い間すっかり忘れていたのに、今この瞬間は自分でもたじろぐくらいの鮮やかさで、それらの記憶が頭の奥から湧き上がってきていた。あの頃暮らしていた二階建ての家が、今も目の前に見えるようだった。そして家の中には──。

「ただいま、お母さん」

 そういう記憶をそっと押し戻すように、静かな声で私は言った。

  びついた鉄の小さな もん を片手で押して、私は家の敷地へと歩いた。

 そこは、草に埋もれた はい きよ だった。家は低いコンクリートの基礎部分しか残っておらず、それらを色とりどりの植物たちが深く覆っていた。私の家だけでなく、あたり一帯が同じだった。かつていくつもの住宅が並んでいたこの場所全体が、一面の廃墟となっていた。あの頃はあったはずの小さな林もすっかり姿を消し、見渡すかぎりの、そこはほんとうにただの荒れ地だった。ここにあった全てのものは、十二年前に津波にさらわれたのだ。今ではその荒野を、二百メートルほど離れた場所から巨大な ぼう ちよう てい が見下ろしていた。沈みかけの夕日が、それら全てを淡い赤色に染めていた。



 私が四歳の頃、大きな地震があった。

 それは日本の東側半分をまるごと揺らすほどの、本当にほんとうに大きな地震だった。

 地震が起きたその時、私は保育園にいて、お母さんは勤務先の病院にいた。私は園の先生たちに連れられて近所の小学校に避難し、結局、そこで十日ほど過ごすことになったのだったと思う。ずいぶん昔のことだから、ほとんどのことはもう忘れてしまった。毎日とても寒かったこと、防災無線がずっとサイレンを鳴らしていたこと、それからの毎日がおにぎりとパンとカップラーメンの繰り返しだったことなんかを、ぼんやりと覚えている。それと、他の子たちにはちゃんとお父さんやお母さんが迎えに来たのに、私のお母さんはなかなか来てくれなかったこと。私は自分に父親がいないことを寂しいと思ったことなんて一度もなかったけれど(私たちは最初から母子家庭だった)、その時ばかりは両親が揃っている子のことが心底うらやましかった。あまりの寂しさと心細さに、避難所では心だけじゃなくて全身がずっと痛かったことも、なんとなく覚えている。

 そしてある日いきなり、お母さんの妹の環さんが、九州から私を引き取りにやって来たのだった。

 私のお母さんは、結局最後まで帰ってこなかった。



 家の裏庭にあった小さな井戸は、今もまだ残っていた。

 あの頃は井戸には木の ふた がされていて、子供には動かせない重さの石が上に置かれていた。幼い私は、時々蓋の隙間から小石を落とし、水音がするまでの数を数えていたものだった。当時はまだ、水があったのだ。

 今、その井戸の穴は土に埋もれ、雑草が茂っていた。

 私は錆びついた小さなスコップで、井戸の横を掘っていた。環さんは草から顔を出した基礎のコンクリートに腰掛けて、私のやることを黙って眺めている。私が何をしているのかきっと気になっているのだろうけれど、口を出さないと決めてくれたのだと思う。猫たちも、環さんの足元にじっと座り込んでいた。

 スコップの先が、がちん、と固いものに当たった。

「……あった!」

 私は思わず声を出した。スコップで穴の周囲を広げ、土の中に手を入れて、目的のものを持ち上げる。

 クッキー缶だった。蓋の真ん中に、大きな幼い文字で「すずめのだいじ」と書かれている。私は缶についた泥を払い、それを基礎の上に置き、蓋を開けた。一瞬、青い畳の匂いがした──ような気がした。あの頃の、家の匂いだ。

「日記帳?」

 と、横から のぞ き込んだ環さんが たず ねる。うん、と私は言った。

 缶の中に入っていたのは、私の絵日記だった。他にも、当時 流行 はや っていた卵形の小さなゲーム機や、ビーズで作ったアクセサリー、お気に入りだった折り紙なんかが詰め込まれている。ぜんぶ、まるで先週埋めたばかりのようにすこしも古びてはいなかった。プラスチックには滑らかな つや があり、折り紙は染め上げたばかりのように鮮やかだった。これらは当時、私が常にリュックサックに詰めて持ち歩いていたものたちだった。環さんと九州に行く前に、私は一人でこの場所に来て、井戸の横に缶ごと埋めたのだった。そのことを、私はうっすらと覚えていた。日記の内容を確かめることが、この場所に来た目的の一つだった。

「私、あの頃のことって、もうあまり覚えてなくて──」

 ページをめくりながら私は言った。クレヨンの下手くそな文字とカラフルな絵が、どのページからもはみ出すような勢いで躍っていた。三月三日。おかあさんとひなまつりをしました。三月四日。おかあさんとカラオケ大かい。三月五日。おかあさんとくるまにのって、イオンにあそびにいきました。

「私、扉に迷い込んだことがあったはずなの。きっと日記にそのことが──」

 ページをめくっていく。

 三月九日。おかあさんがかみをきって、すずめはかわいくなりました。

 三月十日。おかあさんの34 さいのおたんじょう日。おかあさんおめでとう! 100さいまでいきてね!

 ページをめくる。

「──!」

 三月十一日。

 ページは、真っ黒に塗られていた。クレヨンの油が、まるでさっき塗ったばかりのようにつやつやと光沢を持っていた。私は思い出していた。かじかんだ手。強く握った黒いクレヨン。白いページを塗りつぶしていく時の、下に敷かれた段ボールのごりごりした不快な感触。あの指先の感覚が、その時の爆発しそうな感情が、今、私の中にありありと よみがえ っていた。長い間凍りづけにされていた記憶が、解凍されて あふ れ出してくるみたいだった。私はそれをもう、押しとどめることが出来なかった。

 次のページをめくる。真っ黒に塗られている。

 ページをめくる。真っ黒。

 ページをめくる。黒。

 避難所での生活で、私は毎日お母さんを探して歩いたのだ。毎日暗くなるまで、 れき の町を一人で歩き続けたのだ。どこに行っても、誰に訊ねても、お母さんの行方は分からなかった。ごめんね、ごめんね、鈴芽ちゃんごめんねと、皆はただ言うばかりだった。私は毎日、今日こそはお母さんと会えましたと日記に書きたくて、でも書けなくて、そのことをなかったことにしたくて、毎晩日記を黒く塗り続けたのだ。紙の白い部分が残らないように、丁寧に、必死に、黒いクレヨンを塗り続けたのだ。

 ページをめくる。黒。

 ページをめくる。黒。

 黒、黒、黒。

 ページをめくる。

「……!」

 息が漏れた。目の縁に まっていた涙が、ぽたぽたと日記に落ちた。

 そこには、鮮やかな絵が描かれていた。

 扉の絵だった。ドアの中には、星空が描かれていた。

 そしてその隣のページには、草原に立つ二人の姿があった。一人は幼い少女で、一人は白いワンピースを着た、髪の長い大人だった。二人はにっこりと笑顔だった。

「──夢じゃ、なかった……!」

 私は指先で、そっとその二人に触れた。盛り上がったクレヨンの顔料が、まるで直接過去に触れることが出来たかのように、指先にかすかに付いた。夢ではなかった。あれは本当にあった出来事だった。私は後ろ戸から常世に迷い込み、そこで母に会ったのだ。私の入ることの出来る後ろ戸は、この土地にあるのだ。

「そうだ、月が出てた、あの日! あの電波塔に月がかかってた!」

 後ろ戸の絵の隣には、月と、細い塔のようなものが風景として描かれていた。私は日記から目を上げて、あたりを見回した。

 夕闇に沈みつつある荒野のずっと向こうに、それはあった。薄暗い風景にマッチ棒を一本だけ立てたみたいに、その電波塔は今もまっすぐに建っていた。

 私はそこに向かって駆け出した。

「ちょ、ちょっと、鈴芽!」

 環さんが慌てて叫ぶ。

「え、なに、この扉を探すってこと!?  十二年前の瓦礫なんてもうないやろ?」

 困惑した声が背中で遠ざかっていく。

 私は暗くなりつつある荒れ地を、電波塔に向かってまっすぐに走った。隣ではサダイジンが、まるで私の影のように寄り添って走っていた。背の高い雑草の中には時折、コンクリートの床があり、短い階段があり、タイヤや木材などの放置された瓦礫があった。私は電波塔が視界いっぱいに収まるあたりまで近づき、そこで足を止めて周囲を見回した。

「どこ……?」

 息を弾ませながら目を凝らす。電波塔の左上には、ちょうどあの日と同じように黄色い満月がかかっている。このあたりのはずなのだ。

「すーずめ」

 ふいに、幼い声がした。見ると、すこし離れた場所の暗がりに、 ねこ のシルエットがあった。

「ダイジン……」

 私は駆け寄る。すると、ダイジンは逃げるように無言で走り出した。

「え……ちょっと、なによ!」

 私は後を追った。コンクリートの根本が残った門のような場所を通り過ぎる。そこでダイジンが立ち止まり、こちらを見上げた。

  つた に埋もれた板のようなものが、低い石垣にもたれて横たわっていた。

「これって──」

 私は草に ひざ をつき、板に目を近づけた。ドアだった。私は かされるように、表面を覆った蔦を両手でむしり始めた。ドアを覆った根は強く硬く、力を思いきり入れないとなかなか千切れなかった。葉や茎の鋭さに、手のひらに薄く血が にじ んだ。でもたいして痛くはなかった。私は夢中で蔦をむしり取り、露出させたドアを両手で抱え、石垣に立てかけた。

 それは、どの家の中にもあるようなごく普通の木の扉だった。コの字型の木枠に、 ちよう つがい でドア板が取り付けられている。表面の化粧板はぼろぼろに がれていて、腰の高さには びついた金属のノブがあった。間違いない。このドアだった。このドアが、幼い頃に私が開けた、私の後ろ戸だった。

「ダイジン、あんたもしかして──」ある考えが、突然に私の頭を打った。

「後ろ戸を開けてたんじゃなくて、後ろ戸がある場所に、私を案内してくれてたの!?

  せた顔にぎょろりと開いた黄色い ひとみ で、ダイジンは私をじっと見つめている。

「今まで──ずっと……?」

 自然に気持ちが湧き上がってきて、私は素直に口にした。

「ありがとう、ダイジン!」

 ダイジンが驚いたような顔をし──それからみるみるうちに、瘦せぎすだった体がふっくらと膨らんだ。だらりと下がっていた耳と 尻尾 しつぽ が、 うれ しそうに勢いよくぴんと立ち上がる。

「いこう すずめ!」

 大福のように丸い仔猫に戻ったダイジンが、弾む声でそう言った。

「うん!」

 私はドアのノブを握り、開いた。エアロックを開けたかのように、ぶわっと風が吹きつけて私の体を した。開いたドアの中にあったのは、ぎらぎらと輝く満天の星空だった。

「うわあぁぁ……

 思わず息が漏れた。夢に見続けた星空が、今、目の前にあった。ただ見えるだけではなかった。その風には懐かしい匂いがあり、その光には触れられそうな実存があった。入れるのだ──不思議と、そう確信することが出来た。これは私のための後ろ戸なのだ。いつのまにかサダイジンも、ダイジンと並んで私の隣に立っていた。

「鈴芽ー!」

 その時、後ろから声がした。振り返ると、環さんがこちらに走って来ているところだった。私は大声で叫んだ。

「環さん、私、行ってくる!」

「ええっ!?  どこに!?

「好きな人のところ!」

 そう言って、私はドアの中に飛び込んだ。猫たちも付いてくる。まるでプリズムに囲まれたかのように、色とりどりの まばゆ い光が私を包んだ。


    ❖ ❖ ❖


 環さんが見たものは、ドア枠の中にふっと消える私のシルエットだったそうだ。

 何かの見間違いのはず──そう思って駆けつけたドアのもとには、誰の姿もなかった。 めい の姿も、猫の姿もなかった。そこは風ひとつない、静かな夜の草原だった。石垣に立てかけられた扉のドア板だけが、見えない世界からの風に吹かれているかのように、ギイギイと音を立てて揺れていた。

「鈴芽……」

  つぶや いた声が、 かす れていた。何が起きたのかよく分からなかったし、見たはずのことが信じられなかった。環さんは混乱していた。ただ実家に行くだけでは済まないのではないかという、以前感じた不吉な予感。でもこの状況は、環さんの理解できる範囲を はる かに超えていた。

 お姉ちゃん──。どこにも つな がっていないドアを見つめながら、環さんは思った。

 もしそこにいるのならば──お願い、鈴芽を守って。

 やがてドアの揺れはぴたりと収まり、虫たちがそっと秋の準備を始めるかのように、 ひそ やかに鳴き始めた。