もう二度と
とんとん。
気まぐれなリズムみたいに、くすぐったい音が響く。
とんとん、とん。とんとん。
この音はなんだっけ。
お母さんが朝ごはんを用意する音? 隠れんぼでの「いますかー」のノック? お母さんに気づいて欲しくて、私がナースステーションの窓をノックした音? 潮風に飛ばされた小石が、家の窓を打つ音?
とんとん、とん。
違う。
私は目を開く。
お母さんが、庭で木槌を打っている。私の家の、光がいっぱいに溢れた小さな庭で、お母さんが広げた段ボールの上にあぐらをかいて何やら工作をしている。木の板や棒、かんなや糸のこぎりなんかが入った工具箱が、周囲には並んでいる。
「おかあさん、まだあ?」
と、私が言う。その声は舌足らずで、まだ幼くて甘い。
「まだまだ、まだ」
と、歌うようにお母さんが答える。お母さんの長い髪を、金色の光が縁取っている。長い
お母さんは縁側に私を立たせて、巻き尺を使って脚の長さを測る。のこぎりで棒を何本か切る。電動ドリルを使って、木の板に穴を開ける。料理も運転も工作も、私のお母さんは何でも上手に出来るのだ。
「ピンクと青と黄色、どれが好き?」
ペンキの缶を並べて、お母さんが私に
「きいろ!」
と私は答える。その時ちょうどモンキチョウがお母さんの後ろで舞っていて、それがすごく可愛いと思ったからだ。
ぱかん、という音を立ててお母さんがペンキの缶を開けると、わくわくするような匂いが庭に広がる。
お昼ご飯には、焼きうどんを二人で食べる。午後にはペンキはすっかり乾いている。鮮やかな黄色に塗られた板を触ると、きゅっきゅっと不思議な手触りがする。お母さんはその板に、何本かの棒を挿していく。とんとんとん、と木槌がまたくすぐったい音を響かせる。
「ねえー、まだあ?」
私はちょっと飽きてきて、花壇に小石を並べながら不満げに言う。お腹がいっぱいで、とろりと眠い。
「そうねえ──」
じらすようにお母さんが言う。とんとん、とんとん。そして私を見て、にっこりと笑う。
「完成! お誕生日おめでとう、鈴芽」
お母さんは、黄色い椅子を私に差し出す。
「わあー」
私は
「ねえ、この子のお顔って、ここ?」
と、私は背板を指差して言う。
「え? これ椅子よ、鈴芽専用の!」
お母さんは苦笑し、ちょっと待ちなさい、と私に言う。
椅子を手に持ち、すこし考えてから、お母さんは背板に鉛筆で二つの丸を描く。工具箱から彫刻刀を取り出し、背板に
「はい! どう?」
「うわあぁー!」
私は今度こそ、心からの歓声を上げる。瞳のある黄色い椅子は、今にも
「すずめせんようだー!」
私は椅子に座る。私にぴったりの大きさで、せんようだー、と私はまた繰り返す。
「おかあさん、ありがとう!」
私は椅子に座ったまま、隣にかがみ込んでいたお母さんに飛び込むようにして抱きつく。私たちは三人でもつれ合うように、庭に転がってしまう。お母さんの胸に乗ったまま、私は自信満々に宣言をする。
「ぜーったい、ずっと、いっしょうだいじにするからね!」
「一生!?
それはお母さん、作った
お母さんは笑う。私も嬉しくて笑う。私たちの笑い声も、あの日の庭の光も、海岸から聞こえていた波音も、時折さえずっていたウグイスの鳴き声までも、全てがくっきりとここにある。ずっと忘れていたのに、もうよく覚えていないと思っていたのに、それらは自分でもたじろぐほどの鮮明さで、今も私の中にあったのだ。
温かな泥のようなまどろみを惜しみながら、私はゆっくりと、夢から覚めた。
* * *
耳元で、低く風が鳴っていた。
ちょろちょろと流れる小さな水音が、風の音に混じっている。
私は目を開く。
周囲は暗かった。ずっと高い頭上に、青みがかった淡い光がある。それはあまりにも淡く、
「……」
やがて目が暗闇に慣れていく。ぼんやりとした映像を、私の目は
「ここって……」
「どこ……?」
サイドスイッチを押すと液晶画面が眩しく光り、私は思わず目を細める。マップを開く。いつもよりすこしだけ時間がかかって、地形が表示される。画面いっぱいに川の地形があり、現在位置はその真ん中である。
「川の──下?」
もっと広い範囲を見ようと、地図を指でつまんで縮小する──と、ふっと画面が消えてしまう。充電を促す赤いバッテリーアイコンが画面に表示され、それもすぐに消える。
「ああっ!」
私は肺から息を吐く。バッテリーが完全に死んでしまった。頭はまだ
「あ……」
遠くに小さな光がある。私のいる広間からは何本かの通路が延びていて、その一本の奥に、青く淡い光がある。
「草太さん……?」
思わず呟きながら、私は脚に力を入れて体を起こす。立ち上がる時の違和感で、左足の靴を履いていないことに気づく。
「そうか……」
光に向かって歩きながら、私は徐々に思い出していく。上昇していくミミズから、私は片方の靴を落としたのだ。それから──椅子を──要石を、ミミズに刺したこと。直後にミミズが消え
「……!」
通路を抜け、目の前の光景に私は息を
そこは
「ここって──」
その廃墟は、全てが木と石で出来ていた。屋根は全て
「──東京の後ろ戸!? 」
私はとっさに駆け出す。パシャッと音を立て、足が水を踏んだ。城門の周囲には、冷たい水が薄く
「ああっ!」
門の前に立った私は、驚きの声を上げた。城門の中にはぎらぎらと輝く常世の星空があり、その下に、真っ黒な丘がシルエットとして見えていた。その丘の頂上に、小さく刺さった何かがあった。
椅子だった。
椅子の脚が、黒い丘となったミミズの体にしっかりと食い込んでいた。
「草太さん!」
私は駆け出した。その丘は、ずっと遠くにも、手が届くほど近くにも見えた。遠近が混じり合っていた。走る。門に迫る。扉をくぐり、丘の
「ええっ!? 」
そこは、元の暗い廃墟だった。振り返る。くぐり抜けた城門があり、門の中には、やはりぽっかりと常世がある。九州でダイジンを抜いた時と──最初のドアと、同じだった。
「入れない……!」
でも、見えているのだ。こんなに近くに、彼はいるのだ。私はまた走り出す。が、靴を履いた方の足がつまずき、水の中に転げ込んでしまう。冷たくざらついた水が口に入る。私はすぐに起き上がる。水を吐き出し、右足の靴を
「──!」
だめだ。そこは元の廃墟だ。振り返ると草太さんは門の中、黒い丘の
「……常世にいるんだ」
絶望的に、私は呟く。でも。だって、彼はそこに見えるのだ 。
「草太さん!」
私は叫ぶ。
「草太さん、草太さん!」
返事はない。
「草太さん──草太さん……!」
立っていられなくなり、私は水に膝をつく。叫ぼうとした声が、ほとんど息になる。
「草太さん……」
「すーずめ」
突然に子供の声がした。
「すずめ やっとふたりきり」
「ダイジン!」
白い毛並みから逃げるように、私は立ち上がる。
「あんたのせいで──」怒りが込み上げてくる。「草太さんを返して!」
「むり」
「どうして!? 」
感情のない
「もう ひとじゃないし」
「──!」
私はかがんで、ダイジンを両手で
「わあ!」と、ダイジンは
「草太さんを戻してよ!」
「すずめ いたいよぉ」
甘えた声。私は握る力をもっと強める。
「戻しなさい!」
「いたいってばー すずめー」
「あんたなんか──!」
「すきじゃないのぉ? だいじんのこと?」
「はあっ?」
耳を疑う。
「好きなわけ──」
「すきだよねえ?」
「大っ嫌い──!」
と叫びながら、私は摑んだ両手を振り上げる。猫がまた悲鳴を上げる。握り
「……」
──だめだ。力が抜けていく。私には出来ない。振り上げた腕がもう重くて、だらりと落ちる。私は指を開き、猫を放す。パシャッと水音を立て、ダイジンは私の足元に落ちる。四つ足で立ち、顔色をうかがうような目で私を見上げる。
「……どっか行って」
と私は言った。目の奥が不快に熱い。私はまた泣いている。
「二度と話しかけないで……」
「すずめ……」
ぶるるっと、ダイジンは体を震わせる。ふいに、猫の体が
「──すずめは」
「だいじんのこと すきじゃなかった……」
そのままとぼとぼと、ダイジンはいずこかへと去って行く。小さな足音が、背中で遠ざかっていく。
私は後ろ戸の前に、一人きりで取り残される。
──どうすればいいのよ、と私は思う。
腹が立っていた。不安で、苦しくて悲しくて、孤独だった。これからどうしたら良いのか、私は分からなかった。ほんのこの次
にすべきことが、私にはぜんぜん見当もつかなかった。一分後、五分後、私は何を考え、どこに行き、何をすれば良いのか。何も思いつくことが出来なかった。涙はまだ、両の目から勝手にだらだらと流れ続けていた。それが止まるまで、私はその場にじっと立ちつくしていた。冷たい水に
* * *
城門の大扉には、よく見るとミミズの
閉めないといけないんだ、と私は思った。
分厚く重い木の扉を、私は両手で押した。初めはびくともしなかったが、やがて扉は
私は何度か深呼吸をしてから両脚に力を入れて、首から下げていた閉じ師の
──やがて手の中の鍵が呼吸をするように熱を帯びていき、どこからか
「お返しします」
そう言って鍵を回すと、何かがしっかりと閉じられた感触が手に残った。
風の流れを頼りに、入ってきた通路とは別の方向に、私は歩いた。風の流れは
歩き続けるうちに、周囲の壁がすこしずつ変化をしていることに私は気づいた。
細いトンネルの中の階段を、私は登った。それはしばらくまっすぐに続き、時折広い踊り場があり、またまっすぐに続いた。トンネルの天井には、細いパイプが絡み合ってへばりついていた。私は時々踊り場に座り込んで体を休め、でたらめな模様のような天井のパイプをぼんやりと眺め、足の痛みが引いたらまた歩き出すということを繰り返した。何も考えられなかった。考えたくなかった。私はただ無心で階段を登り続けた。やがて冷たい風の中に、何か異質な臭いが混じりはじめた。
鉄の丸いハンドルを回し、小さなスチール製のドアを開けると、目の前を車が行き交っていた。私は壁から上半身を乗り出して、恐る恐るあたりを見回した。オレンジ色の薄暗い照明に照らされた、そこは自動車用のトンネルの中だった。脇の壁には、緑色の誘導灯や、SOSと書かれた非常用電話が並んでいる。二百メートルほど先に、トンネルの出口が白く光っていた。私は壁に手をつき、たぶん点検用であろう細い通路を早足で歩いた。車とすれ違うたびに、ドライバーが驚いた顔で私を見た。人のいないはずのトンネルを歩く私の姿に、ある人はぽかんと口を開け、別の人は不思議そうに目を細め、またある人は
トンネルの出口には作業員のためのグレイの鉄階段が接していて、私はそこを駆け登った。足裏が鉄板を過ぎ草を踏むと、朝日が目を射した。登り切ったそこは、建築資材が置かれた小さな空き地だった。
「ここって……」
見つめながら、私は小さく声に出した。
眼下には、深緑色の水をたたえた巨大なお
「皇居──」
今まで自分がどの場所の地下にいたのか、私はようやく理解した。
朝の空気を切り裂くように、ヒヨドリが鋭く鳴いた。見上げると、空は今日も無意味に馬鹿みたいに青かった。