四日目


見えるけれど、関われない風景たち


「これ、 すず ちゃんにあげる」

 そう言って、ルミさんは かぶ っていたスポーツキャップをぬいで、私の頭に被せた。

「ありゃあ! ますます家出少女っぽいやんか」

 くすくすと笑う。一人旅なんかじゃないこと、やっぱりバレてたんだ。私は今さらにちょっと赤くなる。ルミさんが、私をぎゅっと抱きしめる。ふいに熱いものが込み上げてきて、私は彼女の柔らかな肩に顔をうずめた。

「ルミさん、本当にありがとうございました……!」

「うん」

 ぽんぽんと、ルミさんの手が私の背中を優しく たた く。

「親御さんには、ちゃんと連絡するんよ」

「はい……!」

  しん こう 駅の前で、背後でひっきりなしに鳴る新幹線の発着ベルを聴きながら、遠ざかっていくルミさんの車が完全に見えなくなるまで、私は手を振り続けた。


 やっばい、 たまき さんのこと完全に忘れてた!

 駅の柱にしゃがみ込み、私は通知をミュートしていたLINEを慌てて開いた。

「ご、ごじゅうごけん……」

 思わず口に出す。五十五件。一日で さんから五十五件のメッセージ。やばい。既読を付けるべきか一生このまま開かずにおくべきかも、もはやよく分からない。いやしかしこの数字が増え続けることに果たして私は耐えられるのか。えーいっ、と、私の指は環さんのアイコンをタップした。

「え、なに? 迎えに行く!?  はあっ!?

「鈴芽さん!」バッグから顔を出した そう さんが、 かすように私に言う。「次の便に間に合う。切符買って、早く!」

「えっ、新幹線で行くの?」

「東京に行くんだったら、それが一番早いだろう!」

 今朝SNSに投稿されていた「#ダイジンといっしょ」タグに写っていたのは、 かみなり もん とか東京タワーとか、田舎暮らしの私でも一目で分かる観光スポットの写真たちだったのだ。

「東京まで新幹線なんて、貯金がなくなっちゃうよ……」

 私はぶつぶつ言いながら、券売機で切符を買う。こつこつと貯めてきたお小遣いの残高の、 けた がひとつ減ってしまう。

「後で払ってくださいね、大学生!」私がそう言うと、

「任せなさい」とスポーツバッグが笑って答えた。

 新幹線に乗ったことは人生でまだ数えるほどしかなくて、私はルミさんからもらった帽子を ぶか にし、緊張しながら自由席車両を見回し、壁に体を押しつけるようにして窓際の空席に座った。新幹線はちょっと信じられないくらい静かに滑らかに動き出し、みるみるスピードを上げていく。何本かのトンネルを通り抜け、ビルがひしめく街の風景があっという間に流れ去っていく。大きな河をいくつか渡ると、次第に風景には畑や田んぼが目立つようになっていった。マップを開くと、見たことのないスピードで地図が左へと流れていく。私が小声で草太さんにその驚きを伝えると、はいはい速いよねといった感じで受け流された。でも、私の感動はそんなことでは水を差されないくらいに不思議に大きかった。窓の外をびゅんびゅんと流れていく風景に、私はさっきから目を くぎ づけにされていた。

 山が見え、海が見え、いろいろな形をしたビルと住宅と工場とお店があり、誰もいないまっすぐな あぜ みち があり、遠くをゆっくりと移動する軽トラックがあった。運転席には小さな人影が見えた。黄緑色に波打つ田んぼの脇にはまるで時代劇みたいな木造の小屋があり、山の斜面には陽射しを反射する墓地があり、川沿いには犬を散歩させるカップルの姿が見えた。私はそんな景色を眺めながら、あの場所に自分が立つことはきっと一生ないんだろうなと、奇妙な驚きとともにそう思った。あのコンビニに入ることも、あのファミレスで注文することも、あの窓からこちらを眺めることも、私の人生ではほぼ確実にないのだ。私の体はあまりにもちっぽけで、人生の時間は限られていて、一瞬で通り過ぎていく風景のほとんど全ての場所に、実際に立つことは出来ないのだ。そしてほぼすべての人間が私には関わることの出来ないそういう風景の中で毎日を送っているのだ 。それは私にとって驚きと寂しさの入り混じった、どこか胸を打つ発見だった。

 そんなことを考えているといつの間にか私は居眠りをしていて、目が覚めた時には車窓は一面の海だった。私は慌ててマップを開く。もうすぐ神奈川県に差しかかるところだった。まもなくー 熱海 あたみ ですー、と合成音声が天井で言う。

「草太さん……!」

 私はほとんど涙声になりながら訴えた。

「もしかして、富士山過ぎちゃったんじゃない!?

「ああ、そういえば──」

「なによ、気づいてたなら教えてよぉ!」

 ごめんごめんとまた軽く流されて、私は腹立ちまぎれに車内販売でサンドイッチとコーヒーとアイスクリームを買って食べ、え、そんなに本気で富士山が見たかったのか? なによ悪い? などとやりとりをしているうちに、景色はあっという間に建物に覆われていった。地平線まで切れ目なく建物が建ち並び、それがいつまでも続くその風景は今までとは明らかに質が違っていて、首都、という社会科でしか見ないような文字が自然と頭に浮かんだ。海や山脈と同じだけの存在感と質量で、ここには人間の造ったものだけが敷き詰められているのだった。

 東京駅で新幹線を降りると、そこにあったのは湿気と人の塊だった。私はほとんど窒息しそうな気分で、スポーツバッグからの声に従って右へ左へと人波に流されながら歩いた。なんとか目的のプラットホームにまで 辿 たど りつき、冷房の効いた電車のシートにようやく座れたと思ったら、次で降りて! とバッグからの声に急かされる。降り立ったのは ちや みず という名前の駅で、私は全面ディスプレイの黒光りするSF的自販機で冷たい水を買い、ホームの端でごくごくと飲んだ。ようやく息をついて、私の肩にお気楽にぶら下がったままのバッグを にら みつける。

「……馬にされてる気分なんですけど!」

 はは、と草太さんは笑って言う。

「ダイジンを探す前に、行きたい場所があるんだ。鈴芽さん、ちょっと電話をかけてもらえないか?」

「え?」

「電話番号は──」

「え、ちょっとちょっと」

 私は慌ててスマホに番号を入れ、コールアイコンをタップして、スマホを椅子の背板に近づけた。コール音が途切れ、もしもし、と女性の声が聞こえてくる。

きぬ さん? ちょっとご しております、草太です」

 え?

「──ええ、元気です。絹代さんもお元気そうで安心しました!」

 やけに親しげな声で草太さんはそう言って、やけにイケメンぶった声ではははっと笑った。はあ?


庭のような部屋


 まるで抹茶みたいに濃い色をした川沿いをしばらく歩き、大きな高校の脇の坂道を登り、静かな住宅街をしばらく歩いた先に、目的のお店はあった。それは想像とはすこし違って、私の地元にもありそうなこぢんまりとしたコンビニエンスストアだった。住宅街の角にある三階建てビルの一階で、入り口の周囲には植木鉢がいくつも置かれていて、草花が車道にはみ出しそうな勢いで茂っていた。ドア上の全国チェーンの青いロゴマークには、二階のベランダから垂れ下がった植物が堂々と覆い かぶ さっていた。細かいことはいいんだよというようなおおらかな投げやりさが、建物全体から漂っていた。

 自動ドアをくぐると、聞き覚えのある入店チャイムがやけに大きな音で響いた。ざっと見渡した店内に、お客さんはいないようだった。

「あの、すみません……」レジカウンターの内側にかがんで何やら作業をしている女性店員の背中に、私はおそるおそる声をかけた。

「え?」

 顔を上げた店員さんはくっきりした目鼻立ちで、胸元のネームプレートには「きゃろる」と書かれている。

「あ、あの、私、 いわ と申しますが」

「え?」

「あの、先ほどお電話で……」

「え?」

「えーと……」

  げん な目付きでじっと見られている。ちょっとどうすればいいのよ草太さん! 念を送りながら背中のバッグをぎゅっと つか む。とはいえここで返事がもらえるわけもなく、これは一時撤退かなと思い始めたところで、「あーはいはい!」とお店の奥から声が上がった。

「はいはいはい。あなたが草太さんのご しん せき の? 伺ってますよー」

 サンダルをぺたぺた鳴らしながらやってきたのは、白髪マッシュルームヘアの小柄なおばあちゃんだった。きゃろるさんと同じブルーのストライプの制服姿で、胸元には「おきぬ」とある。

「はい、こちら草太さんのお部屋の かぎ 。三〇一号室ですから」

 そう言って私に鍵を渡してくれる。ということは、この人が草太さんの言っていた大家さんなのだ。

「ゴシンセキ?」ときゃろるさんが大家さんに き、大家さんは英語らしき言葉で何やら答える。それを聴いて、きゃろるさんが笑顔で私を見る。

「彼は、いつ旅行から帰ってきますか?」

「ええと、すみません、私もよくは知らなくて」

「早く帰ってきてほしいわよねえ」と大家さんがいかにも寂しそうに言い、きゃろるさんがスウィートとかキュートとかと聞き取れる言葉を返し、「ほんとにイケメンなのよねえ」と大家さんがうっとりと言う。人気者だなおい。私は背中のバッグをさらにぎゅっと握る。

「あの、ありがとうございました!」頭を下げる私に、

「お店を出て左手に階段がありますからね。ごゆっくり」

 と言いながら、大家さんは顔の横で小さく手を振った。


    * * *


 鍵を使ってドアを開けると、こもっていた熱気がふわりと顔にかかった。すこし遅れて学校の図書館のような匂いが届き、それから せつ けん や洗剤の生活の匂いがして、最後に知らない外国の町のようなお 洒落 しやれ な匂いが、ほんのかすかに鼻に届いた。大人の匂いだ、と私は思った。

「入って」

 バッグから顔を出している草太さんに促され、私は三十センチほどの奥行きしかない小さな玄関で靴を脱ぎ、部屋に上がった。そこはいきなり台所で、部屋というよりは広めの廊下という程度の広さしかなかった。その先に、八畳ほどの薄暗い空間があった。

「わあ……」

 小さく息が漏れた。カーテンの隙間からの外光にぼんやりと浮かび上がるその部屋は、壁も床も、本で覆われていた。畳には分厚い古書が積み上げられていて、まるで大学の研究室──実際に行ったことはないけれど、そういう何か専門家のための空間のようだった。本の間に挟み込まれるようにして、昭和の文豪めいた座机があり、丸いちゃぶ台があり、大きな本棚が三つもあった。部屋の すみ にIKEA的なスチールデスクとそれに被さるパイプベッドがあり、その周囲の本だけは大学生らしく現代的でカラフルだった。

「暑いだろう、窓を開けてくれないか?」

「あ、うん」

 カーテンを開けると、傾き始めた午後の陽射しが部屋を まぶ しく塗り直した。窓を開けると、気持ちのいい風が通る。私はスポーツバッグを床に下ろし、帽子を脱いでその上に置いた。なんだか小さな庭みたいだと、明るくなった部屋を見渡して私は思った。空間全部がたくさんの物で あふ れているのに、不思議に雑然とした印象がなかった。物たちは植物のように自然に自由にそこにあった。

「鈴芽さん」草太さんが本棚の前でこちらを見て言う。

「ちょっと調べたいことがあるんだ。この本棚の上に段ボールがあるだろう?」

「うん」

「取ってくれないか」

「うん」

 私は本棚の前に立ち、手を伸ばす。高すぎて手が届かない。背伸びをする。だめだ。──よいしょっと、私は草太さんの上に乗る。足の下で、三本脚の子供椅子が私の体重を支えるために慌てて踏ん張る。箱に手が届く。それはずしりと重い。

「……」

 ふいに、私は 可笑 おか しくなる。口元がにやけてしまう。箱を持ったまま、いち、に、とその場で足踏みをしてみる。コンビニを出て「草太さん人気者なのね」と言った私に対し、「それほどでもないよ」と涼しげに返したあのイケメン声。いち、に、いち、に。私は足元を見て笑いながら言う。

「草太さん、踏んでもいい?」

「……乗る前に訊けよっ!」

 足元でばたばたと椅子が暴れる。きゃーっと声を上げて私は笑った。


    * * *


 段ボールの中身も、全て本だった。それを開いて、と草太さんに示されたのは、『閉ジ師秘伝ノ抄』と書かれた古い本だった。写真でしか見たことのないような、ごわごわした紙を ひも じた和装本だ。今にも崩れそうな古い和紙を破いてしまわないように、私は慎重にページを開いた。

 見開きいっぱいに、 が描かれていた。ぞわり、と全身が総毛立った。

 それは噴火の画だった。黒い墨で集落と山が描かれていて、山から噴き出す炎が真っ赤な顔料で描かれていた。ぐねぐねとうねる空の大河のようなその赤は、私の見知ったあの形とそっくりだった。

「これって……ミミズ?」

 そう、と草太さんが画を見つめたまま答える。よく見ると、炎は噴火口からではなく、山の頂上にある鳥居から噴き出している。では、これが うし なのだろうか。画の端には「 てん めい 三年」と読める文字がある。 時代? 草太さんに促され、私は次のページをめくる。

  りゆう の絵図だった。蛇行する長い体の隙間に山や集落や湖が描かれ、龍と土地は一体であるかのような印象を受ける。その端と端、頭と尾のそれぞれに、巨大な つるぎ のようなものが刺さっている。

「これが かなめ いし だ。西の柱と、東の柱」

 そう言いながら、椅子の脚がその二本を順に指す。

「えっ、要石って──」

「そう、二つあるんだ」

「え……じゃああんな猫がもう一匹いるってこと?」

「あの形は、かりそめの けん げん だよ」

 低い声で彼が言う。私はさらにページをめくる。見開きのそれぞれのページに、石碑と、それに祈りを ささ げる群衆が描かれている。二つの石碑には赤い文字で「要石」と書かれていて、山伏のような格好をした数人がその石を地面に埋めようとしているように見える。絵の隙間には私には読めない崩し字で何かの文章が細かく書かれていて、それぞれの要石の横には、かろうじて読める文字で「黒要石収拾之~」とか、「 とら ノ大変白要石~」とか書かれている。

「人を脅かす災害や疫病は、」草太さんがページを見ながら言う。

「後ろ戸を通って とこ から うつし にもたらされるんだ。だから俺たち閉じ師が、後ろ戸を閉めて回る。戸を閉めることで、その土地そのものを本来の持ち主である うぶ すな ──土地の神に返し、鎮めるんだ。だがある種の災い、数百年に一度のような巨大な災害は、後ろ戸だけでは抑えきれない。そういう時のために、この国には いにしえ より二本の要石が与えられている」

 そう言って、草太さんは別の本を示す。表紙には『要石目録』と書かれている。同じような和装本だけど、今見ている本よりは何十年分か(もしかしたら何百年分か)新しく見える。その本を私は開く。古い地図のようなものが描かれている。地形は溶けた石をくっつけたような あい まい な形で、「 そう こく 」と見える漢字が書かれている。島らしき地形の端と端に、大きな剣が二本刺さっている。

「そして要石は、時代ごとにその場所を変えるんだ」

 ページをめくると、また古い地図。でもさっきよりは海岸線の形が写実的になっている。二本の剣は、さっきとはすこしずれた場所に刺さっている。

「これって──」

 私はまたページをめくる。さらに解像度が上がったような地図。細かな街道や国境もびっしりと描きこまれている。剣は、東北 の端と琵琶湖 の下あたりにある。

「日本地図!」

「そう。地図の変化は、日本人の 宇宙観 コスモロジー の変化だ。人の認識が変われば、土地の形も変わり、 りゆう みやく や災害の形も変わっていく。それによって要石を必要とする場所も変わる。ゆっくりと変化しつづける人と土地との相互作用の中で、その時代ごとに本当に必要な場所に、要石は まつ られる。人の眼の届かない、人々に忘れられた場所で、要石は何十年、何百年にもわたり、その土地を やし続けるんだ」

 淡々と語る草太さんのその言葉のほとんどを、私はよく理解できない。でもその言葉は、最初に見た要石の たたず まいを私に思い起こさせた。誰もいない夏の はい きよ 、凍りつくように冷たい みず まり、そこに孤独に立った石像──。あの時、手を触れると、まるで話しかけられるような気配がした。それは百年の使命に飽きた猫が、遊び相手を見つけた喜びではなかったか。そんな想像が、なぜか草太さんの言葉としっくりとなじんだ。まるで私の気持ちを読んだかのように、草太さんが言う。

「九州にあった要石は、今は猫の姿で逃げているだろう?」

「あ、うん」

「もう一つの要石は──」

 脚に促され、私はまたページをめくる。それは完全に見慣れた現代の日本地図で、「明治三十四年」と書かれている。草太さんが一点を指す。関東に、剣の形をした石碑が描かれている。

「東京……!?

「そう、東京にあるんだ。今もミミズの頭を抑えている。俺が知りたいのは、その具体的な場所なんだ。要石は今、東京のどこにあるのか? 覚えている限りでは、どこにも書かれておらず、誰も教えてくれなかった。でも、ここにある本のどこかにその記述があるのかもしれない」

 促され、私はページをめくっていく。めくり終えると、次の本を開く。私にはぜんぜん読めない崩し字に、草太さんはすらすらと目を走らせている。読みながら、重い口調で言う。

「東京の要石がある場所には、巨大な後ろ戸もあるという。百年前に一度開き、関東一帯に大きな災害を起こし、当時の閉じ師たちによって閉められたという、東京の後ろ戸。もしかしたら──」

 声が一層に低くなる。

「ダイジンは、その扉を再び開けようとしているのかもしれない。俺たちを ほん ろう して遊んでいるのだとしたら──先回りして、それを防がなければ」

 窓からは風と一緒に、ひっきりなしに飛行機の音が吹き込んでくる。こんなにも頻繁に飛行機が飛んでいることに、私は驚く。そのジェットエンジンの隙間に、バイクの音があり、救急車の音があり、布団を たた く音があり、下校する子供たちのはしゃぎ声があり、かたん、かたん……という遠い電車の音があった。鳥がさえずり、遠くない場所で誰かと誰かが しやべ っていた。誰かが掃除機をかけていた。何万台もの車が折り重なった低い音が、ずっと途切れずに響いていた。膨大な数の生活がここにはあるのだと、私はあらためて思う。この巨大な街のどこかに、古びた石像だか石碑だかがひっそりとあることが、私には 上手 うま く想像出来なかった。私のめくる本は じから古い大学ノートになり、筆文字は万年筆の文字となり、筆跡も移り変わっていく。今開いている本は大正期の日記のようである。それでも、カタカナ混じりで書かれた達筆な文字は、私にはほとんど読めないのだった。

「──だめだ」

 段ボールの中にあった本のページを全てめくり終えた後に、草太さんが ため いき とともにそう言った。

「日記にそれらしい記述はあるが、肝心な箇所が黒塗りになってる……」

 確かに、開いたページの何ヶ所かが黒い墨で塗りつぶされている。私もすこしは役に立てないかと目を凝らす。墨の前後には、「九月 さく じつ  土 晴」「早朝当直ヨリ使者」「午前八時」「日不見ノ神 あらわ ル」というような文字が読み取れる。うーん……。

「……なるほど!」と私は声に出してみる。

「分かるのか?」草太さんが驚いた声を出す。

「ごめん、言ってみただけ」

 草太さんが苦笑する。

「……じいちゃんに くしかないか」

「え?」

「この日記は、じいちゃんの師匠が書いたんだ」

「おじいさん?」

「ああ──俺の育ての親だよ。近くに入院してるんだ」そう言って草太さんは再び本に目を落とし、小さな声で言う。

「失望させたくなかったな、こんな姿で……」

 すっかり疲れ果ててしまったように、その背中は見えた。おじいさんも閉じ師ってことなのかな、と私は考える。だったら最初からおじいさんに会いに行けば良かったのではないか。それにおじいさんならば失望なんかせずに、孫の心配をするのではないか。力になってくれるのではないか。それとも、それが出来ない事情が何かあるのか──そんなことを考えていると、突然にドアが激しく叩かれた。「ひっ」と思わず声が出る。

「おーい草太、いるのか? いるんだろ?」

 男性の声だ。薄い木のドアをばんばんと叩いている。私は草太さんを見る。特に動揺したふうでもなく、椅子はポーカーフェイスでドアを見ている。

「窓が開いてるのが見えてんだよ! 草太、帰ってきたのか? おーい!」

 ばんばん。草太さんがやれやれといった雰囲気で つぶや く。

せり ざわ だ……。参ったなこんな時に」

「えっ、誰?」

「知り合い。適当に誤魔化してくれる?」

「ええっ!?

 草太さんは壁際に向かってカタンカタンと歩き出している。セリザワなる男は無遠慮にドアを叩き続けている。

「おおい、草太! 開けていい?」

「ええっ!」

「開けるぞ? 開けるからな?」

 ばんばん。すがるように草太さんを見ると、「悪い奴じゃないよ」と言って、カタンと壁に寄りかかってしまう。ばんばん。えええ、どうしよう!

 ──ガチャリ、とドアが開いた。

 そこに立っていたのは、金髪に近いくらいの明るい茶髪のウルフヘアに、真っ赤なサテンシャツの胸元を広く開けた、 やから 然とした若い男性だった。

「あの、こんにちはっ」

 私は彼の目の前でぺこりと頭を下げる。

「おわっ!」

 芹澤さんが驚いた顔で私を見る。なんとか誤魔化すしかない。

「え、あんた誰!?

「あ、妹です!」

「え、あいつに妹いたっけ?」

「あ、妹同然の間柄の……?  です!」

「はああ?」

 冷たそうなつり目が、お 洒落 しやれ 丸眼鏡の中で げん そうに細められる。ひええ。

「あ、あのっ、芹澤さん、ですよね?」

「あ?」

「草太さんから、お名前聞いています」

 眼鏡の中の とげ が、ふわりと弱まった。


    * * *


「教員採用試験?」

 私はにわかには信じられず、聞いたばかりの言葉を繰り返した。

 え、教員採用試験? 芹澤さんは本棚の前に立ち、私に背中を向けたまま不機嫌そうに話を続ける。

「ああ。昨日が二次試験だったのに、あいつ、会場に来なくて。あり得ねえよ」

「昨日が試験日……ええっ?」

 私は壁際の草太さんを見る。子供椅子のふりで西日をじっと浴びていて、私とは目も合わせない。

「馬鹿すぎるぜ、あいつ。これじゃあ四年間の努力がパアじゃねえか」

  あき れた口調で芹澤さんが言う。芹澤さんが見ているのは、本棚にずらりと並んだ参考書だ。『教員採用試験・マスター教職教養』『教員を目指す人の本』『東京都・過去問集』『らくらくマスター・小学校全科』。 いろ せた古書に挟まれて、そこだけが特別な場所のように鮮やかな背表紙が並んでいる。

「昨日はあいつが来ねえのが気になって、俺まで試験の調子が狂っちまったぜ」

 芹澤さんは長い前髪を いら いら とかき上げ、振り返って私を にら む。

「君さあ! スズメちゃん、だっけ?」

 私は思わず身をすくませる。この人、目付きがめちゃめちゃ悪い。

「草太に会ったらさあ、ムカつくから二度と顔見せるなって言っといて」

「え……」

「ああ、でも二万──」芹澤さんはふと思い出したように私から視線を外し、「二万円……貸してるな」とぼそりと言う。それからもう一度私を睨む。

「そっちは早く返せって」

「え……?」

「なんか家業が大変だとかってのは聞いてたけどさあ──」

 細身のブラックジーンズに両指をつっこんで、芹澤さんは玄関へと戻りながらぼそぼそと呟いている。

「あいつは自分の扱いが雑なんだよ……腹が立つ……何があったにせよ連絡くらい出来ねえのかよ。子供かよ。常識ねえのかよ……」

 芹澤さんは私にはもう用事も興味もないといった感じで、玄関で靴を履いている。私も慌てて玄関へと走る。先の とが った靴を履き、芹澤さんはドアを開ける。混乱したままの私をちらりと見て、ごく簡単に言う。

「じゃあね」

 ドアから出ていく。

 その時だった。ポケットの中のスマホが、突然にブザー音を鳴らした。

「うわ!」

 芹澤さんが驚いて立ち止まる。彼のスマホも鳴っている。恐ろしげな不協和音。ジーンズから取り出して画面を見ている。

「地震速報──え、揺れるかな?」

 私は無言で靴を履き、芹澤さんの脇をすり抜けて部屋を出た。背中で芹澤さんが何かを言う。私は返事をする余裕もなく、共用廊下の手すりから体を乗り出して街を見る。

「お、止まった」と芹澤さんが言った。スマホの警報が止まったのだ。

「……ちょっとあんた、大丈夫?」と、芹澤さんが私の顔を のぞ き込んだ。

「……近い」

 彼に返事を返す余裕もなく、私は思わず口に出した。思ったより近くに、それ はいた。住宅と雑居ビルが建ち並ぶその奥、ここから二、三百メートルほどの距離に、赤黒い胴体がうねっている。ビルに挟まれた空間でゆっくりとのたうつ濁流は、まるで都市空間に放り出された巨大で無意味な赤いオブジェのようだ。それを取り囲むようにして、おびただしい数のカラスがギャアギャアと鳴いている。

「うわ、すげえ鳥!」

 私の隣で芹澤さんが、さして驚いたふうでもなく言う。

「あれ、 かん 川のあたりだよな。川に何かあるのか?」

 見えないのだ。肝心なものが、彼には見えていないのだ。カタン、という脚音に私は気づく。

「行こう」

 いつのまにか私の足元に来ていた草太さんが、鋭く ささや く。私は うなず く。椅子を持ち上げ、走り出す。

「え? え、おいちょっと、あんた!」

 背中で芹澤さんが叫んでいる。私は振り向かない。アパートの階段を駆け下りながら、私は考えている。教員採用試験? でも──。

 でも一言も、草太さんは教えてくれなかった。


空の栓が抜けたとしたら


「私、知らなかった──草太さんの試験のこと!」

 西日に照らされた住宅街を走りながら、私は言う。

「昨日だったなんて──どうしよう!?

「君のせいじゃない」

「でも……だって、私が要石を抜いたから!」

 すれ違う学生たちが、子供椅子を抱えて独り言を叫んでいる私をじろじろと見る。

「大丈夫だ」と、宣言するように草太さんは言う。

「今日こそ全てを終わらせよう。後ろ戸を閉じ、猫を要石に戻して、今日こそ俺は元の姿に戻るんだ!」

 私は高校脇の坂道を駆け下りる。眼下の突きあたりには広い車道があり、その向こうには激しくうねる赤い濁流が見えている。坂を降りきり、角を曲がり歩道に出る。増え始めた帰宅の人々を左右によけながら、私は横目でミミズを睨んだまま走る。私の右側、車の行き交う四車線道路を挟んでたった数十メートルの距離に、道路と並行するようにして赤い胴体がうねっている。車道の奥は川の流れる くぼ んだ土手で、ミミズはその上空を うように流れて来ているのだ。何十羽、何百羽ものカラスが川の上を舞っているのを、人々が不安げに見つめている。

「ねえ、後ろ戸の場所って──」走りながら私は言う。

「ああ、この先、神田川の下流か!」私の手の中で、草太さんが言う。

 街路樹に遮られ、ミミズの根本はまだ見えない。この先は御茶ノ水駅だ。帰宅の人通りはしだいに増えていく。よけきれずぶつかり、舌打ちを受け、抱えた椅子に げん な視線を投げられながら、私は走る。早く。早くミミズの根本へ。そこには後ろ戸があるはずなのだ。そしてきっとダイジンも──。

 ふと、私は違和感に気づく。

 あらかわいい、とすれ違った誰かが言う。

 私の足元に、ちらちらと視線が向けられる。

 わあ、猫! と、すれ違いざまに誰かが言う。私は足元を見る。

「すーずめ!」

「──ダイジン!」

 白猫が、いつの間にか私と並んで走っている。私を見上げ、幼い声で うれ しそうに言う。

「あそぼう!」

「要石!」

 草太さんが、怒鳴ると同時に私から飛び降りた。転がるようにして歩道を駆け出していく。ダイジンが逃げる。密集した人々の足の間を、猫と椅子が縫うように走っていく。ええっ、何? 椅子!?  通行人にざわめきが広がり、皆がスマホを向けて写真や動画を撮る。私は引き離されないように、人々を必死にかきわける。

「ああっ!」

 ダイジンが車道に飛び出る。草太さんがそれを追う。車のクラクションがあちこちで響き、皆がシャッター音を響かせる。交通量の多い四車線道路を、二人は何の ちゆう ちよ もなく駆け回る。ダイジンがセンターラインを越え、正面からやってきたトラックの下をくぐり抜け、草太さんはその脇をすり抜ける。間髪を れずに次の車が二人に迫る。ぶつかる寸前に、ダイジンはそのボンネットにひらりと駆け登る。草太さんも車に飛び乗り、その屋根をガタガタと音を立てながら走る。ダイジンが車から大きくジャンプをし、草太さんもそれを追う。両者は頭上に架かったアーチ状の橋に飛び込んでいく。

「草太さん!」

 私は叫ぶ。橋の欄干の向こうに消えていく二人の姿が、ちらりと見える。おいあれ見たか? 猫と犬? 椅子じゃなかったか? 興奮した人々の口調を追い越して、私は橋のたもとに 辿 たど りつく。左手に階段がある。駆け登る。日傘を差したおばあさんと肩がぶつかってしまう。「すみません」が息が上がってうまく言えない。ごめんなさいと口の中で必死に思う。階段を登り切り、橋の上に出る。そこでも人々がスマホを構えている。私はレンズの向く先を見る。

 車の行き交う橋の真ん中に、草太さんがいた。小さな白い猫を、座面でぎゅっと押さえつけている。二人は何か言い争いをしているように見える。カメラを向けた人々が、あれは何だと戸惑っている。行き交う車も驚いてクラクションを鳴らし、路上の異物を けて走る。私はその場に立ちつくしてしまう。

「どうしたら──」

 と、一台の車が減速しないままに二人に突っこんでいくのが目に入った。 かれる──そう思った直後、椅子と猫は はじ かれるようにその場からジャンプする。車はブレーキ音とクラクションを長くたなびかせて走り去る。草太さんは車道の奥、橋の反対側の歩道に飛び込んでいる。私は思わず駆け出す。──と、

「──わっ!」

 すぐ目の前をクラクションを鳴らして車が通過する。私は跳ねる鼓動のまま左右を見、息を止めるようにして一気に車道を走り抜けた。

「草太さん!」

 ようやく私は彼に追いつく。ダイジンの姿は周囲にない。草太さんは欄干に立ったまま、じっと橋の下を見下ろしている。私はその視線を追う。

 ──息を んだ。

 眼下は神田川で、その土手には電車用のトンネルが大きく口を開けている。そこから、赤黒い濁流が噴き出していた。ごぼごぼと不気味に大気を揺らしながら、不快に甘い匂いをまき散らしながら、淡く発光する無数の糸を絡ませて、ミミズは電車用のトンネルから噴き出していた。

「あの奥に──後ろ戸があるの……?」

 ふいに、濁流の中からぬっと電車が顔を出した。銀色の車体が何事もないかのようにトンネルを抜け、ミミズの体を通り抜け、対岸のトンネルへと入って行く。私は絶望的な気持ちで つぶや く。

「あんな場所、どうやって行ったら……」

 ミミズの体は私たちのいるアーチ橋の下をくぐり、川の上流へと伸びている。私は振り返り、その伸びていく先を見る。

 ミミズの先端が、鎌首をもたげている。

 土手に沿ってずっと上流まで伸びた体の、赤黒く光るその先端が、見えない指につまみ上げられるようにゆっくりと空へと昇っていく。カラスの群れもそれを追って上昇していく。夕日を背にして、一本の赤い濁流は奇妙に美しく輝いている。溶けたガラスに細く長い息が吹き込まれるように、ミミズは輝きながら空へとゆっくりと伸びていく。

「……え?」

 その上昇が、ふいに止まった。

 土手の両岸に並ぶ高層ビルと同じくらいの高さで、ミミズはぴたりと静止している。まるで考え込むように固まった形のまま、その体表では濁流が音もなくゆっくりと渦巻いている。

「え……止まった?」

「……いや」

 と草太さんが言う。その声が震えている。私は思わず彼を見る。足元の地面を、草太さんは見つめている。

「……?」

 私も足元を見る。そこはがっしりとした石畳だ。

──っ!

 靴裏を でるような気配をふいに感じて、私は反射的に かかと を上げた。地鳴り? 足元でなにか大きなものが──大きすぎて視界に収まらないような何かが、 きし んでいる。足元からゆっくりと、ぞわぞわと悪寒が這い上がってくる。私は冷たい汗をかいている。気づけば、鳥もセミもぴたりと鳴き止んでいる。乾いた電車の音だけが、奇妙な静寂の中で場違いにのんびりと響いている。

「……だめだ」

 と、とても苦しそうな声で草太さんが呟いた。私が彼に目をやったその瞬間──。

 ドン!

 地面が、大きく縦に弾んだ。私はその勢いで数センチも宙に浮き、バランスを崩して地面に ひざ をつく。橋に並んだ街灯が、大きな金属音を立てながら振り子のように揺れている。と、ポケットの中のスマホが大音量で警報を鳴らし出した。恐ろしい不協和音のブザー音と、『地震です』と繰り返す合成音声。同時に、あちこちで人々のスマホも鳴り出す。悲鳴とざわめきが広がっていく。私は慌ててスマホを取り出し、画面を見る。赤と黄色の文字で、「緊急地震速報・関東内陸・強い揺れに備えてください」と表示されている。

「──!」

 体がこわばる。でも、次の瞬間にその表示は消える。警報も止まる。周囲のスマホも鎮まり、人々のざわめきも収まっていく。地面はもう揺れていない。

「止まった……え、どういうこと!?

 一度の縦揺れだけだった。ミミズは静止したままだ。私は草太さんを見る。椅子の顔が そう はく になっているように、私には見える。

「……抜けたんだ」

「え?」

「二つ目の要石が!」

 どういうこと、という問いが のど に詰まる。トンネルから泡立つような低音が響いてきている。私は弾かれるように橋から見下ろす。トンネルから生えたミミズの根本が、膨らんでいる。まるでホースの先を誰かの足が踏んだかのように、ミミズの根本に巨大な こぶ が出来ている。それはぶるぶると震えながら膨らんでいく。

「──全身が出てくる!」

 草太さんが悲痛に叫んだその瞬間、瘤が弾けた。トンネルからものすごい勢いで濁流が あふ れ出し、ドンという地響きとともに、ミミズの尾がトンネルから抜けた。橋の下を、巨大な蛇のような奔流が流れ去っていく。強い風が巻き上がり、 たた くような強さで私の肌を打つ。と、奔流の上にちょこんと白い猫が乗っているのが目に入る。

「ダイジン!」私は叫ぶ。草太さんが、猫を見たまま低い声で言う。

「……大震災は絶対に防ぐ。鈴芽さん、」

「え」

「行ってくる」

 カタンと欄干から踏み出して、草太さんは突然に橋の下に身を投げた。

「ええ!?  草太さん!」

 私は悲鳴を上げる。追うように上半身を欄干から乗り出す。椅子はミミズの濁流に吸い込まれ、橋の下をくぐって流されていく。反射的に振り返り、私はミミズの行く方向に走り出す。車道に飛び出る。右耳から車のブレーキ音が聞こえ、左耳にはクラクションが迫る。構わずに私はもっと速く走る。左耳のすぐそばで急ブレーキが響き、それは背中を こす るように過ぎていく。橋を横断した私は歩道に駆け込み、その勢いで欄干に飛び乗る。周囲の人々がどよめく。橋をくぐったミミズの濁流は、目の前で急カーブを描いて上昇している。人々には、橋の欄干に乗って宙を凝視する私だけが見えている。でも私には──。

「草太さん、待って!」

 叫びながら、私は橋から飛び降りる。人々が悲鳴を上げる。

「鈴芽さん!?

 上昇するミミズに絡まった草太さんが、驚いて脚を伸ばす。私はぎりぎりでそれを つか む。とたん、ぐん、という勢いで体が加速する。ミミズと一緒に、私の体は空に引き上げられていく。ぶらぶらと揺れるだけの私の足先から、左のローファーが脱げてしまう。靴は回転しながら地上へと落ちていく。私は右手で椅子の脚を摑んだまま、左手では必死にミミズの表面に指を食い込ませる。生ぬるい米粒を握るような感触がある。ぐちゃぐちゃと手の中で つぶ れる粒を、私は必死に摑む。私たちの体はミミズに乗ったまま、カラスの群れを突きぬけて昇っていく。風圧に逆らって、私は必死に体を持ち上げる。

「君は──」

 ようやく草太さんの隣に、私はしゃがみ込む。草太さんが怒鳴る。

「なんて無茶を!」

「だって、一人で行っちゃうなんて──きゃあ!」

 米粒状の体表が、どろりと溶けるようにして抜けた。

「鈴芽さん!」

 彼の声が頭上に離れていく。私は虚空を落ちていく。視界が回る。声にならない悲鳴を、私の喉が上げている。ミミズの支流のような枝が下から迫るのが見え、追い越しざまにとっさに手を伸ばす。摑む。が、それは緩い かゆ のような感触でぐちゃりと崩れてしまう。体が落ちていく。視界が回る。地上のビル群が、夕日を反射しながら私の視界を何度もよぎる。

「鈴芽さん、今助ける!」

 声がどこからか近づいてくる。けれど見えない。

「そ──!」

 何かがお腹にぶつかった衝撃で、ぐっと声が途切れる。椅子だ。ジャンプした草太さんが、私の体を押している。

「ッ!」

 ぐちゃっという感触で、私は椅子を抱えたまま何かに着地し、ごろごろと何度か回転し、ようやく止まった。

「大丈夫か? 鈴芽さん!」

「草太さん!」

 草太さんを抱いたまま、私は上半身を起こす。弾力のある氷のようなものの上に、私たちはいる。ゼリーの奔流のようだったミミズの体が、ここでは やわ く固まっているのだ。ミミズの体内を流れる泡状の粒子が、氷の下の小魚の群れのように透けて見えている。草太さんが腕の中で言う。

「ミミズの表面は不安定だ。俺たちは離れない方がいい」

「うん──!」

 私たちを乗せ、ミミズの体は上昇していく。見上げるとその先端は、夕空にゆっくりと巨大な渦を描き始めている。


    ❖ ❖ ❖


 見えないミミズが東京の上空に広がっていく、その頃。

 学校を終え、会社を終え、人々は解放されたような気分で夕暮れの街を行き交っている。

 大気は人の息と声で満たされ、あちこちの店や住宅からは夕食の匂いが漂い、街には太陽の明るさを置き換えるようにしてカラフルな電灯が とも っていく。ペンキが塗り重ねられていくように、夕暮れ時には人々の営みがだんだんと濃くなっていく。

 人々は気づかない。

 沈んでいく赤い太陽の手前に、いつもとは違う奇妙な揺らぎがあることを。

 高層ビルの つや やかな窓ガラスに、渋滞のフロントガラスに、ミネラルウォーターが注がれたグラスの縁に、ジョギングの人々が行き交う皇居堀の水面に──奇妙な にじ 色がうっすらと映り込んでいることを。屋上に並んで空をじっと見つめる鳥たちの ひとみ に、渦を巻く巨大な濁流が映っていることを。

 人々はうきうきと考えている。

 これから会う恋人との時間を。一人で楽しむ ゆう のことを。待ち合わせた友達との会話を。迎えに行った時の子供の笑顔を。

 人々はもう、ほとんど忘れかけている。

 すこし前に発生した短い地震のことも。

 少女が橋から飛び降りたように見えたことも。

 その少し後でなぜか空から落ちてきた、片方だけのローファーのことも。

 でも鳥たちと──私たちだけには、見えている。

 東京の空に広がった、巨大な赤い渦が。まるで空のてっぺんの栓が抜けて、赤い泥水が回転をしながら吸い込まれていくよう。その渦はいつまでも消えずに、むしろ広がりを増していく。首都にすっぽりと ふた をするかのように、その渦は空を大きく覆っている。

 私は草太さんを抱えて、その渦の上を、走っている。


    ❖ ❖ ❖


「ミミズが──街を覆っていく!」

 私は思わず叫ぶ。草太さんを抱えて、私はミミズの上を走っている。その体表は、今では弾力のあるアスファルトのように半透明に固まっている。私の視界の先には かす んだ地平線があり、眼下には無数の建物が見えている。その全てを覆うように、ミミズの支流が広がっていく。一本一本の支流が、複雑な渦を巻いている。遠目には、それは赤い眼のように見える。無数の発光する赤い眼が、東京を無表情に見下ろしている。

「草太さん、これって──」

「ああ、これが地上に落ちたら、関東全体が……」

 怒りなのか恐怖なのか、その声は震えている。

「もう、要石を刺すしか手はないんだ。ダイジンはどこに……!」

 猫がどこにいるのかも分からず、気づけば私たちはミミズの中心に向かって走っている。とぐろを巻いたミミズの体は巨大な円盤状になっていて、その中心が、今では盛り上がった赤色の丘になっている。地面の中を流れる稚魚のような気泡の群れも、その丘に向かって吸い上げられるように流れている。夕日を後ろに隠し、赤い丘の輪郭は 黄昏 たそがれ の空にぼんやりと輝いている。悪夢の中にいるみたいに、不気味に美しい風景の中を私は走っている。

「すーずめ!」

 幼子の声が、ふいに響いた。

 私は立ち止まる。声の方向を見上げる。細い枝木のようなピンク色の触手が、丘の周りに何本も生えている。その一本の枝の上に、ダイジンがちょこんと座り込んでいた。風に吹かれ、枝ごとゆらゆら揺れている。感情のない黄色い瞳で私を見下ろしている。

「みみずがおちて じしんがおきるよ」

 子供のようなその高い声には、しかし うれ しそうな感情の響きがある。

「ダイジン!」「要石!」

 私たちは同時に叫ぶ。草太さんが私の手から飛び降り、駆け出す。──と、ぎぎっと きし むような音を立て、椅子の動きが不意に固まる。かたん、と草太さんは横に倒れてしまう。

「草太さん?」私は椅子を持ち上げ、「どうしたの!? 」と のぞ き込む。うふふふ、と聞こえる笑いが、頭上から響いた。見上げると、黄色い瞳がさらに大きく見開いている。

「いまからたくさん ひとがしぬ」

──っ!

 私は草太さんを抱えたまま、枝木の根本まで走る。走りながら猫に叫ぶ。

「どうしてそんなことするのっ!?  あんた、いいかげん要石に戻ってよ!」

「むり」そんなことも分からないの? と諭すような声色で猫が言う。

「だいじんは もう かなめいしじゃない」

「え?」

 ふわりと、ダイジンが枝から飛び降りる。椅子の座面に音もなく着地する。草太さんにぎゅっと顔を寄せ、私には聞き取れない言葉で何かを短く ささや く。

「このっ!」

 私は片手でダイジンの首根っこを つか もうとする。が、猫はひらりと椅子から飛び降りる。私はかがんで押さえつけようとする。すり抜けられる。からかうようにダイジンは私の周りをぐるぐると回りながら、決して手を届かせない。だめだ。

「どうしよう、草太さん……!」

 息を切らしながら、私は手の中に たず ねる。返事がない。

「草太さん?」

「……すまない、鈴芽さん」

 ゆっくりと、草太さんが答える。

「え?」

「すまない──」

 草太さんは繰り返す。どうして謝るの 、と私は思う。奇妙にゆっくりと、草太さんは しやべ る。

「ようやく分かった──今まで気づかなかった──気づきたくなかった──」

「え、ちょ、ちょっと」

 冷たい。草太さんを持った私の指先が、冷たい。

「今は──」

 草太さんは冷たくなっていく。うっすらとした霜が、椅子の表面を覆っていく。

「今は──俺が要石なんだ」

「え……?」

 椅子を覆った霜は、だんだんと厚みを増していく。氷になっていく。草太さんの声は、温度をなくしたように へい たん になっていく。

「椅子に変えられた時──要石の役割も──俺に移っていたんだ」

 ああ、そうか、と、感情より先に私の頭が彼の言葉を理解する。でも、私の感情は乱されていく。混乱していく。草太さんの顔が、椅子の背が、氷に埋もれていく。ああ、と長く息を吐くように彼が言う。

「ああ──これで終わりか──こんなところで──」

「草太さん?」

 凍っていく。軽かった子供椅子が、石のように重くなっていく。

「でも──俺は──」

 凍っていく椅子の中から、くぐもった声がする。

「俺は──君に会」

 声が途切れる。その瞬間、抱えたそれは椅子ではなくなる。もう草太さんじゃない 。私はそれを指先で知る。体で分かる。でも、心は理解を拒んでいる。

「草太さん!」

 私は叫ぶ。いやだ、と心が思う。椅子だったものは完全に氷に覆われて、短く とが った剣のような形になっている。いやだ。こんなのはいやだ。私は何度も叫ぶ。

「草太さん、草太さん、草太さん、草太さん──!」

「もうそれ そうたじゃないよ」

 ダイジンが、弾むような足どりでこちらに歩いてくる。

「ダイジン、あんた──!」

 私は猫を にら みつける。視界が にじ んで揺れている。私は泣いているのだ。両の目が、だらだらと涙をこぼしている。そんな私の顔を見て、無邪気な子供の声が言う。

「かなめいし みみずにささないの?」

「そんなこと──」

「だってえ」ちょこん、と私の目の前にダイジンは座る。

「みみずがおちるよ? じしんがおきるよ?」

 そう言われて、私は気づく。

「……落ち始めてる!?

 ミミズの体が、もう充分に重くなったとばかりに、ゆっくりと地上に向かって落ちている。雲がゆっくりと上に流れ、体がかすかに浮き上がるような感覚がある。

「草太さん!」

 私は両手に力を込めて、椅子だったものに向かって叫ぶ。

「草太さん、お願い、起きて、草太さん!」

「もうー」仕方ないなあ、という声をダイジンが出す。前脚でちょんちょんと私の もも をたたく。

「それ そうたじゃないよぉ」

 私は たま らずに片手を振って猫をぶとうとする。するりと、猫はそれをかわす。

 落下の速度が増していく。体の浮遊感が増していく。髪が吹き上げられている。地上がだんだんと近づいている。

「草太さん!」声を限りに私は叫ぶ。

「ねえ! 私どうしたらいいの!?  草太さん、草太さんっ!」

「ひとが いっぱいしぬねえ」

 のんびりと腹ばいになったダイジンが、黄色い ひとみ を見開いている。

「いよいよだねえ!」

 感情のなかったその瞳には、今ではわくわくとした こう よう がある。

 もういやだ──と私は思う。もうこんなこと、私はいやなのだ。

 私には見える。想像が出来る。出来てしまう。いつの間にか空はすでに くら く、星がちらちらと輝き始めている。地上の人々はそれぞれの目的地に向かい、駅を歩き、交差点を歩き、電車に乗っている。誰かと夕食を食べている。コンビニで何かを買っている。誰かにメッセージを打っている。クラスメイトとどきどきしながら並んで歩いている。大好きなお母さんと、手をつないで家に向かっている。夏の終わりの空気を、 ただ れた臭気とはまだ 無縁のすがすがしい夜の匂いを、胸いっぱいに吸い込んでいる。

 私には見える。

 彼らのその頭上には、真っ赤に熟して王冠のように開ききった巨大な果肉が、無言のままに浮いている。

 それが落ちてくる。すぐそこまで迫っている。

 呼吸が苦しくなっていく。さっきから全身の震えが止まらない。いやだ。もういやだ。こんなのって。

「もうやだよ──」

 私は声に出す。心がぐちゃぐちゃになっている。目をぎゅっとつむっているのに、栓が壊れてしまったみたいに涙がだらだらと あふ れている。私は両手に持った要石 を、高く持ち上げる。目を開く。滲んだ視界でそれを見る。それはもう、彼じゃない。先端の尖った、それは氷の やり である。ゆっくりと目をつむる。それを振り上げる。

「うわあぁぁぁっ!

 体に残った力の全部を絞って、私は要石をミミズに突き刺した。


    ❖ ❖ ❖


 とぐろの中心を、青い せん こう が貫いた。

 次の瞬間──関東全てを覆うほどの大きさだったミミズの体は一点に圧縮され、地面に吸い込まれるようにして消え せた。跡には空に吸い上げられていた だけが残されたが、次の瞬間にはそれも一気に はじ けた。それはオーロラのような空の波紋となり、数十秒の間、東京の夜空に明るく鮮やかにたなびいた。 にじ 色にきらめく小雨が、東京中の屋根をさっと洗った。人々は驚き、はしゃぎ、皆が写真を撮り共有し、不思議な夜の虹はいっとき人々の心を楽しませた。

 一方で、同じ頃に夜空を落下する少女の姿に気づいた人は誰もいなかった。ぐったりと気を失ったその体は、ゆっくり回転しながら風を切り裂いて落ちていた。そのすぐ近くを、同じように一匹の ねこ が落下していた。猫は落ちながらも少女の体に爪をかけ、その体に取り付き、少女の頭を守るようにして小さな体で抱き込んだ。高層ビルの高さを過ぎ、いよいよ地表が近づいた時、仔猫の体が突然に膨らんだ。それは人よりも大きな獣となり、少女をしっかりと抱きかかえた。

 次の瞬間、暗い水面に高く みず 飛沫 しぶき が上がった。そこはビルに囲まれつつも東京の中心にぽっかりと のこ された、古く広大なお ほり だった。水音が高い石垣に反響し、眠っていた水鳥が驚いて飛び立ち、水面は大きく波立った。やがてそれも収まり──この出来事は誰にも気づかれぬままに、夜の静寂が再びあたりを包んだ。