三日目


海峡を渡る


「寝起きの悪い人っているよね……」

  に借りたヘアブラシで寝癖を かしながら、私は ため いき まじりの愚痴を言う。

「え、誰? 彼氏?」

「彼氏なんていないってば! 一般論」

 千果のようなさっぱりとしたショートカットに あこが れたりもするのだけれど、小さな時にお母さんに髪を褒められた記憶がなんとなく邪魔をして、私はなかなか思い切って髪を切れない。

「そういう時はなあ──」隣で歯を磨いていた千果はぶくぶくと口をゆすぎ、「キスしたら起きるで!」と得意顔になる。何でも のろ に回収できるんだなと、私は あき れるよりちょっと感心してしまう。

 学校行く準備せにゃシャワー浴びにゃ すず は朝ごはん食べといで! と千果に言われ、食堂でまたしても立派な朝食をご そう になっていたところで、一緒に食事をしていた弟くんが驚いたような声を上げた。

「なあ、見てみて! こいつすごいわい!」

 そう言われて朝の情報番組を映したテレビに目をやり、私はご飯と息を同時に飲み込んだ。画面には「 あか かい きよう おお はし に猫!」というテロップと、白い巨大な り橋が映っている。そこにカメラがぐいーっとズームしていく。橋に架けられた太いケーブルの上を軽快に歩いているのは、白い ねこ である。無害なほんわかニュースですよーという声色でレポーターが言う。

『この猫ちゃん、どこから入り込んだのか、堂々と吊り橋を歩いています! SNSではドライブレコーダーに偶然映った姿も話題となっており──』

そう さん、ちょっと、ダイジンが!」

 部屋に駆け戻った私は、子供椅子を手に持ち、ぶんぶんと上下に振る。

「ねえちょっと、いい加減起きてよお!」

 今朝も昨日と同様、何度声をかけても体温と小さな寝息を返すだけで、草太さんはぜんぜん起きてくれなかったのだ。振る。振り回す。 たた く。畳に置いて手を離す。椅子は無機物のようにコトンと倒れてしまう。だめだ。

「もおぉーっ!

 ──キスしたら起きるで。ふと、千果の得意げな声が よみがえ った。もしかして、と私は思う。あれはもしかして惚気ではなく、 Tips チツプス 的な何かではないのか。無知な私が知らなかっただけで、人を眠りから覚ますための現実的な小技だったりするのではないか。私は両手で椅子の座面を つか み、草太さんの顔に──顔としての背板に──唇を近づける。近づけながら、初めてだ、と思う。ゆっくりと目をつむる。初めての、私のキスが──。

「……ていうか、口がないじゃん」

 ぱちりと目を開けて つぶや いた。いやTipsなわけないじゃん。

「鈴芽さん?」

 唐突に、草太さんが しやべ った。私は顔を離し、草太さんはカタカタと二歩下がる。

「おはよう。……どうかした?」

 涼しい声で彼が言い、急な熱風に吹かれたみたいに私の頰が熱くなる。

「……どうかした、じゃないよ!」

 私は乱暴にスマホを操作する。

「ほらこれ見てよ! ダイジンっ! こいつ一体なにがしたいのよ!」

 軽やかな足どりで吊り橋を渡る猫を、寝起きの悪い子供椅子がじっと見る。もう朝っぱらからなんなのよこの現象! 私の腹立ちをなだめるみたいに、草太さんの冷静な声が言う。

「気まぐれは神の本質だからな……」

「かみ?」

「明石海峡大橋を渡った先は、 こう だ。俺たちも早く──」

「鈴芽ー、そろそろ出るんじゃろお?」

 ドアがノックされ、部屋の外から千果の声がした。

「もう着替えてしもたー?」


 うん、うちが着るよりずっと似合っとる! 千果はそう言って、出会った時と同じように私の姿を上から下までさっと眺めた。私はベージュのキュロットパンツをはいていて、上半身は白いTシャツにだぼっとしたデニムジャケット。子供椅子は、洗濯した制服と一緒に肩掛けの大きなスポーツバッグの中にすっぽりと収まっている。ちなみに寝癖がどうにもならなかった髪は、今日は ひと ふさ の三つ編みにまとめて片方の肩から前に垂らしている。うんうんと満足そうに、千果が うなず く。

「制服姿で椅子だけ持っとったら、目立つけんね。服もバッグも、鈴芽にあげる」

「千果……」どこまでも自然でさらりとした彼女の親切に、鼻の奥がつんとする。「私、どうやってお礼したらいいのか……」

「そんなんいいから、また会いに来て」

 セーラー服姿の千果はそう言って、民宿の玄関口で私をハグする。

「うん、絶対来る……!」

 私は はな をすすりながら、すっかり親友のようになった彼女を強く抱き返す。胸のすくような かん きつ 系の匂いが服からふいに香り、あ、千果の匂いだと切なくなったのは、彼女と別れて小一時間も歩いた頃だった。


    * * *


「バスで行けないだろうか」と空を見上げて困り果てた声で草太さんが言い、

「……六時間後だよ、次のバス」と、壁に貼られた いろ せた時刻表を見て、私は答えた。ばしゃしゃっ! と大きな水音がして、見上げるとトタン屋根に まっていたとおぼしき葉群れが水に押し流されて落ちてくる。私たちは濃い水の匂いに包まれて、薄暗い小さなバス停小屋から絶望的な気分で雨を眺めている。


 千果と別れて山を降り、それなりに車通りのある道に出て、私たちはまずはヒッチハイクを試みることにした。スマホで確認すると電車の駅はずいぶんと遠かったし、目的地である神戸への最短ルートはやはり車だったからだ。赤い がん ばな が群生する田んぼ沿いの道に立ち、私はやってくる車に向かっておそるおそる親指を立てた。「鈴芽さん、もっと強い意志を示さないと。手を大きく振るとかさ」と、五台ほどに無視されたあたりでバッグの中から草太さんに言われ、「椅子がやったら驚いて止まってくれるんじゃない?」と不毛な言い合いをして、しかし考えてみたら私みたいなどう見ても十代の女子に停車する車があったとしたら、それはもしかして乗ってはいけない車なのではなかろうかと考え始めたところで、空が光って大雨が降り始め、私たちは近くのバス停に駆け込んだのだった。


「──鈴芽さん」

 アマガエルの合唱って、雨を喜んでいるみたいなはっきりとした感情があるんだな。そんなことを思いつつバス停のベンチでうとうとと眠気に包まれていると、草太さんが静かな声で私に言った。まるで雨音に遠慮しているかのような、 ひそ やかな声だった。

「なあに?」

「……この椅子は、君のお母さんの形見なのか?」

「あ……うん」

 車が れた道路を走るシャーッという間延びした音が、蛙の鳴き声に差し込まれる。バス停の前の県道は時々車通りがあるけれど、外を歩く人の姿はまったくない。

「なぜ、脚が三本しかないの?」

「ああ……小さい頃のことだから、あんまり覚えていないんだけど──」遠い記憶を探す手触りって、誰かの夢の中にいるみたいだとふと思う。世界がすこしだけ違うルールに支配されていて、 上手 うま く前に進めない。

「昔、まだ保育園くらいの時にこの椅子をなくしちゃったことがあって……。あちこち探して……確か……見つけた時には、脚が一本欠けちゃってたの」

「それって──」

 草太さんの声を遮るように、近づいてくる車の音がふいにした。さっき通り過ぎた車が、同じ車線をバックで戻ってくるような奇妙な響き。小屋から身を乗りだそうとする子供椅子を慌てて持ち上げた直後、青いミニバンが本当にバックで下がってきて、ハザードランプを点滅させながら私たちの前に停まった。雨空を映したサイドウィンドウが、小さな音を立ててすーっと下がっていく。

「あんた、どこまで行くん?」

 運転席でそう言ったのは、薄い色のサングラスをかけて栗色の髪をゆったりと巻いた、女性だった。「そんなとこに座ってたって、バスなんか おへんよ」


 車の中って、それぞれの家の匂いがする。ルミ、と名乗ったその人の車には、夜の街 あか りみたいな大人っぽい香水と、焼き菓子の甘く懐かしいような匂いがうっすらと漂っていた。私は唐突に知らない人の家に迷い込んでしまったかのような落ちつかなさで、淡く発光するような雨の風景を眺め、フロントガラスを滑って流れる雨粒を眺め、ハンドルに置かれた白くふくよかな指をこっそりと眺め、またフロントガラスの雨粒に目を戻した。とっくに廃線になったバス停に座っとったら気になるやんか、と彼女は言った。

「それにしても、ええねえ一人旅なんて。神戸は市内まででええの?」

「あ、はい!」緊張で声が裏返ってしまう。

「鈴芽ちゃん、やったよね?」

「はい!」

「うちはチビたちを松山のおばあちゃんに会わせてきた帰りでね──」

 そう言って、彼女はバックミラーの横に据えられたベビーミラーをちらりと見上げる。鏡には、後部座席の二つのチャイルドシートと、それぞれにちょこんと収まった二人の子供が映っている。年格好も顔もそっくりで、やけに真剣な表情で眠っている。

「双子。四歳。 はな そら

「わあ……双子ですか」

「やんちゃやから、毎日戦争よ」と彼女は笑う。「でね、うちも神戸に帰るとこやから、あんた運がええわ」

「はい! 助かります」

 頭を深く下げると、ふふ、と彼女が 可笑 おか しそうな声を出した。

「そんなに緊張せんと、リラックスしてな。とって ったりせえへんよ」

 薄いサングラスの奥で優しそうに細められたその ひとみ を見て、私は胸につかえた息をこっそりと吐いた。運転する姿を、あらためてちらりと盗み見る。ゆったりとした から いろ のフレアスリーブから のぞ く肌は日焼けとは無縁そうに白く、全身が柔らかそうに丸みを帯びている。首と手首に巻いた細い金色のアクセサリーが、その白さと丸みにとてもよく似合っている。なんだか色っぽい人だなと、声に出さずに私は思う。 たまき さんよりはちょっと下だろうか。 つや っぽいのに、どっしりと頼もしい感じもして──と、後ろからジーッと音がして、私は振り返った。

「──!」

 チャイルドシートに挟まれる形で置かれた私のバッグの(それ後ろに置いときとルミさんに言われたのだ)、そのファスナーを、いつの間にか目を覚ました双子がおもむろに開けている。バッグがぱっくりと開き、椅子の顔が無防備に露出する。

「ママぁ、なんかあるー!」

「なんかあるー!」

 双子が両側から草太さんの顔をぺたぺたと触りながら、声を上げる。ひえー、私は胸の中で悲鳴を上げる。草太さんはされるがままに左右に揺れている。

「こらっ!」ベビーミラーを にら んでルミさんが怒鳴る。

「お姉ちゃんの荷物にさ・わ・ら・な・いっ!」

「はーい」と条件反射的な即答。ごめんなあとルミさんが私に言い、あ、いえ、ぜんぜん大丈夫ですと私はぎこちなく笑顔を作る。後ろを見ると、顔が椅子にくっつくくらいの至近距離で双子は草太さんを凝視している。ひえー。

「……いやや、この子ら、なんかめっちゃ見とる」

「あ、あのぉ、ただの子供椅子なんですけど……」

「ああ、そう……」ルミさんは私を見て、ミラーを見る。「やっぱ、めっちゃ見とる……」

 耐えてね草太さん、と、案の定すぐにまた椅子をいじりまわしている双子を眺めながら、私は心の中でエールを送った。

 車は やま あい の高速道路をひた走り、いくつかのトンネルを抜け、いくつかの橋を渡る。空は次第に明るくなり、また暗くなり、雨は時に霧雨になり、また強くなる。気づけば双子はまたぐっすりと眠り込んでいる。SNSを繰り返しチェックしても、ダイジンのその後の足どりはまだ投稿されていない。やがて緑を切りひらくようにして、遠くに り橋型の おお なる きよう が見えてくる。海面は白い霧に覆われていて、まるで空中に架けられたような橋の上を車は滑るように進んでいく。 あわ 島に入り、再び山とトンネルの景色がひたすらに続く。やがて雲間から幾筋も光が差し込み始め、周囲の緑が輝き出す。そして遂に、今朝テレビで見たあの巨大な橋に車は差しかかる。陽を浴びて輝く明石海峡大橋の せん とう の巨大さに、いっとき私は見とれる。海もたっぷりと陽射しを浴び、どこまでも続く真っ青な じゆう たん のようだ。私はマップを開く。四国を過ぎ、神戸市は目と鼻の先である。昨日からの移動ログを表示すると、日本列島の1/3が見えるほどまで地図がズームアウトして、自宅から588㎞と出る。家から離れ続けているという寄る辺のない不安さと、これほどの距離を自分で来たのだという こう ふん が入り交じり、私の心臓は速くなっていく。まるでゲームのステージが切り替わるかのように、橋の向こうにはびっしりと建物に覆われた土地が広がっている。


「こらあ、こぼさんように気ぃつけや!」

 市内のドライブスルーでハンバーガーを買い、私たちは駐車場に停めた車の中で遅い昼食を食べることにする。

「ほらあんたたち、椅子汚したらあかんよ!」

「分かった!」「知ってる!」

 ルミさんの小言に対し、後部座席の双子たちはいつでも喰い気味に即答をする。私は助手席でハンバーガーをかじりながら、はらはらと行く末を見守る。もはやすっかり双子のテーブル代わりになってしまった草太さんの上に、双子は案の定バンズのくずをこぼし、マヨネーズの付いたレタスを落とし、脂ぎったフライドポテトをばらまく。オレンジジュースのたっぷり入った紙コップを、お姉ちゃんが投げるように椅子に置く。ひえー倒れちゃう! と思ったその瞬間、子供椅子がカタンとバランスを取るように動き、紙コップはこぼれずに安定する。

「──なっ」

 何してるのよ草太さん! 私は心の中で思わず叫ぶ。双子が不審そうに椅子を凝視し、今度は弟くんが、同じようにジュースの入った紙コップを落とす。椅子が跳ねるようにカタンと動く。コップは軽くバウンドするようにして半円を描き、倒れずに安定する。双子はますます げん そうな顔で椅子を見る。草太さんはしれっと沈黙している。ひえー、なに遊んじゃってるのよこの人は!

「あれ、気づかんかったわ」

 ふいに隣の運転席でルミさんが言う。

「え?」

「こっから見えたんや、あの遊園地」

「遊園地、ですか」

「うん、あの山んとこ」

 彼女の視線を追うと、ビルと電線の向こうの山肌に、小さく観覧車のシルエットが見えている。その小さな曲線は、どことなく華やかに あか けた神戸の街並みによく似合っている。

「あそこが開園した頃はほんまに にぎ やかでねえ。うちも小さい頃はよう連れてってもろたんやけどなあ──」

 ハンバーガーを一口かじり、ルミさんは目を細めて言う。

「だんだんとお客が減って十年くらい前に閉園してもうて、撤去の費用もないみたいで今は野ざらし。こないなふうに街のあちこちから見えるから、そのたびになんやちょっと切なくなるんよねえ」

 そう言ってルミさんは紙コップのコーラを飲み、最近そういう寂しい場所が増えたよねえと、独り言のように小さく言った。寂しい場所 。口の中でその言葉を繰り返す。この六百キロの道のりで、私が目にしてきたものもそういう場所ではなかったか、とふと思う。

 ──ぴろりん。スマホが鳴り、しまった環さん! と反射的に思ったけれどそれはルミさんの携帯だった。ハンドル横のホルダーに固定されたスマホを操作して、「ええっ、かなわんなあ!」とルミさんが困ったような声を上げる。

「どうかしたんですか?」

「この子たちを預ける予定の託児所がな、急な発熱者が出たとかで今日はお休みになるみたいで──こらっ!」

 突然に、ルミさんがベビーミラーに怒鳴る。

「わっ!」

 草太さんの上にハンバーガーの空き箱や紙コップやプラ容器なんかをジェンガのように積み上げていた双子が、慌てて居住まいを正す。まったく──と、ルミさんが ため いき をつきながらスマホに向き直る。

「……うちは店を開けなあかんし、誰かこの子らの面倒を見てくれる人を探さんとぉ……。──ああ!」

  ひらめ いた! という顔でルミさんは私を見る。

「え?──ええっ!」

 と、私は自分を指差した。


思い出は四人で


「えーとえーと、じゃあ、何して遊びましょうか?」

「お料理!」

「カレー作る!」

 双子──お姉ちゃんの花ちゃんと、弟の空くんは、私が言い終わらないうちに即答する。楽しいことはもうぜんぶ分かっていて、私たちはそれをこれから順番に遂行していくのです。そんなふうに宣言されているような気分になる。古いアーケード街の隅にルミさんの家はあり、私たちは二階の子供部屋にいる。ルミさんは階下の店舗で開店の準備中である。双子は慣れた手つきでプラスチックの野菜をテーブルに並べ、プラスチックの包丁を握りしめる。よーい、と花ちゃんが言う。

「どん!」

 ずばばばば、とものすごい勢いで二人は野菜を切っていく。おもちゃの野菜は断面がマジックテープになっていて、包丁で切り離されるたびに はじ け飛び、ぽんぽんと私の顔に当たる。ひえーと私は必死にガードする。さあカレーが出来ました! と空くん。

「いただきまーす!」

 二人が揃ってガチン、とプラスチックの野菜に みつく。わああ、食べちゃだめ! 私は必死に止める。

「じゃあ次はこれっ!」ここまでは終了ですとばかりに、花ちゃんがさっと私にボックスティッシュを手渡す。

「え?」

「先にからっぽにした人が勝ちな! よーい──」

 どん! のかけ声で、双子はそれぞれのティッシュをばばばばっと箱から抜いていく。巨大なクラッカーから飛び出た紙吹雪みたいに、白いティッシュペーパーが部屋中を飛び交う。ひえー。

「だ、だめだよー!」と私は必死に止める。

 部屋中に散らばった未使用のティッシュを拾い集め、とにかく元に戻さねばと一枚一枚折りたたんでいる私の背中に、ぽん、と花ちゃんが手を置いて言う。

「お姉ちゃんが さん な!」

「え?」私は部屋の中央に立たされる。よーい、と空くんが言う。嫌な予感。

「どん!」

 どどどどっと二人が私に突進し、私の体を山に見立ててよじ登ってくる。花ちゃんが私の腰骨を足場にし、空くんが右肩に手を掛け、負けじと花ちゃんが左肩に足を乗せ、二人が同時に私の頭を つか む。ひえー。倒れまいと必死にふんばる私の両肩に、二人は誇らしげに立ち上がる。

「はあ、はあ、はあ……」

 もはや息も絶え絶えに両手両足をがっくりと床についてしまっている私の周囲を、双子は「待ち待ちーっ!」と永久機関のようなきりのなさで回り続けている。

「私、子供って無理かも……」

 思わず声が漏れ、その直後に一人が私の背中を跳び箱にしてジャンプをし、追いかけた一人が踏み台にして背を踏んだ。ぐうっとつぶれた声が出る。

「──仕方がない」

 と、ふいに頭上から声。驚いて見上げると、机に置いていたスポーツバッグがもぞもぞと動き、カタン、と子供椅子が床に飛び降りた。

「──!」

 ぴたり、と双子が止まる。床に直立した子供椅子を、目を丸くしてじっと見つめている。

「……なっ! ちょっ、草──」

 何ちょっと草太さん何のつもり!?  と発音できないくらい動揺している私の目の前で、カタンカタンと草太さんはおもむろに歩き出した。

「ほ……ほら、すごいでしょーっ!  良く出来たオモチャなんだよー!」

 私はやけくそに声を上げる。草太さんは花ちゃんの前で止まり、まるでおとぎ話に出てくる忠実な白馬みたいに、無言で脚を曲げて座面を傾けた。吸い寄せられるように花ちゃんが椅子に座る。と、ひひーんとばかりに前脚を おお に振り上げて、花ちゃんを乗せた子供椅子は行進を始めた。一瞬後、ぎゃはははーっと弾けるような歓声が、双子の口から あふ れ出た。

「ねえつぎ、つぎ僕もっ!」

 花ちゃんを追いかけて空くんが言う。子供椅子は双子を交互に乗せながら、部屋中をカタンカタンと歩き回る。これ以上ないというくらい楽しそうな叫び声を二人は上げ続ける。もしかして──と私は思う。草太さんって子供好きなのかな。リズミカルに行進する姿を眺めながら、私の気持ちも り上げられるように浮きたっていく。

「ね、草太さん、つぎ私も!」

「君はだめ!」

「しゃべった!」

 しまった──私たちは黙り込む。立ち止まった椅子から、花ちゃんがおそるおそる離れていく。やばい。私は必死に言葉を探す。

「え、えーと、す、すごいでしょー! 最新AI搭載の椅子型ロボット……です?」

 いやしかし無理があるか。言いながら語尾がすぼんでしまう。が、

「おなまえはっ?」

 と ひとみ を輝かせて花ちゃんが私に いた。

「へ? あ、そ、ソウタ……」

「ソウタ! わあー!」

 AIなら知ってる! とばかりに双子は四つん いになって椅子ににじり寄る。

「ソウタ、 明日 あした のてんきは?」

「ソウタ、おんがくかけて?」

「ソウタ、しりとりしよう?」

「ソウタ、今日のかぶかは?」

 ヘイSiri! とばかりに我先にリクエストをし続ける双子に、私は慌てて言う。

「あのっ、ソウタ、そんなに賢くないから!」

「なんだと鈴芽さん!」

 カタカタと草太さんが私にくってかかり、「またしゃべったーっ!」と双子が叫ぶ。気づけば子供部屋の外はすっかり暗くなっている。何年かしてこの子たちが大きくなったら──部屋中を転がり回るようにして遊ぶ双子と椅子を見ながら、私は思う。今日のこの出来事は、どんなふうに記憶されるんだろう。私くらいの年齢になった時、この子たちは今日のことをどのように思い出すのだろう。子供時代の良くある妄想。あるいは、今となっては説明のしようのない奇妙な現象。幼い記憶はいつの日か、淡く あい まい な夢のようなものに変わっていくのだろう。でもそれがどういう形であれ──今日のこの出来事がこの子たちにとって、誰かと四人で 遊んだ思い出として残ればいいなと、私は思った。


    ❖ ❖ ❖


 これはしばらく後になってから知ったことだけれど──環さんが私を追って神戸に(最終的には東京に)行くことを決めたのは、私がちょうど双子の子守りをしていた頃だったそうだ。

「……家出ですか」と、その日、担当の漁師の家を回ってから漁協のオフィスへと戻る車の中で、運転席の みのる さんが つぶや いた。二日前から元気のない環さんをちらりと横目で見て、励ますように明るい口調を作って彼は言った。

「やけど、ワシもガキの頃覚えがありますよ。そんくらいの年頃って、ほら、町や親元をなんか窮屈に感じちょったもんやないですか? そやから──」

「君の話と一緒にせんでくれん?」

 環さんは冷たい声で稔さんを遮る。稔さんは しよう ひげ の口元に笑顔の形を貼りつかせたまま、「ですよね……」と小さな声で謝るように言った。かわいそうに、 いま だに環さんとの付き合い方が分かっていないのだ。こと私との関係性については、環さんは地雷だらけだ。はあっ──ぶつけるように大きな ため いき をつく環さん。私に送ったLINEのメッセージは、いつまで経っても既読が付かない。独り言としては大きな声で、愚痴としては相手への気遣いが欠けた態度で、環さんは言う。

「──あの子、どこに行くつもりなんか、何が不満なんか、なんべん訊いてもはぐらかすばっかで……今夜泊まる場所だってぜんぜん教えてくれんし」

「あの、スマホのGPSとかは」

「え?」

「ええと、若いカップルなんかがよく使っちょるような、お互いの居場所が分かるアプリとか」

「そんなん入れちょらん」

「それじゃあ──」稔さんはあれこれと考える。彼の環さんへの想いは、環さん以外のたいていの人が気づいている。「あ、口座は見れんとですか? 鈴芽ちゃんのスマホからの支払いに ひも けとる……今どきはなんでんスマホで払いますよね?」

 港沿いの駐車場に車を入れ、サイドブレーキを上げてから、稔さんはずっとスマホを操作していた環さんに尋ねてみる。

「……どんげですか?」

「あの子、神戸に行っちょる」

 白く発光する画面をじっと見たまま、環さんが言う。そこには、私が三日間で使ったお金の明細が表示されている。フェリーのチケット、自販機で買った菓子パン、愛媛のいくつもの駅での切符代や、神戸市内でのハンバーガー。稔さんの余計な一言のおかげで、私の行動履歴は筒抜けになってしまったのだ。

「神戸! そりゃあ、ずいぶん遠かですね……」

「これ以上一人にはさせられん」

 環さんが決心したように呟く。港の青白い街灯に縁取られたその整った横顔に、稔さんは思いきって告白するような気持ちで(無駄なのに)口を開く。

「あ、あの、環さん! 他にもなんでん、ワシに出来ることがあれば──」

「稔くん」

「はい!」

「私、明日からちょっと仕事休むわ。忙しいところ悪いっちゃけど、仕事、二、三日フォローしといてもらえる?」

「え……じゃあ、ワシも一緒に休もうかな……」

「なんでよ?」と、ようやく環さんはスマホから目を離し、稔さんを にら む。

「それじゃ意味がないとよ。あんたは出勤せんね」

「ですよね……」と、稔さんはしょぼくれて言う。私から見ればこの時の稔さんは空回りのくせに私の邪魔をする えないおじさんだけど(あんげな美人に睨まれるとゾクゾクするくらい怖いっちゃわ、と うれ しそうに言っていた。ちょっとやばい)、でもどんな時にでも環さんの幸せを願ってくれているというその一点において、やっぱり応援したくなる人なのだった。


    ❖ ❖ ❖


「鈴芽ちゃーん、ちょっと来てくれんー?」

 大声でそう呼ばれて階段を降りると、ルミさんがバックヤードの狭い台所で私を待っていた。真っ赤なドレス姿で、髪を巻いてうなじを出し、白い肌にほんのり花が咲くようなメイクは まつ もばっちりと上げられていて、唇にはつやつやの濃いグロスがたっぷりと塗られていた。

「わっ、ルミさんすごく れい !」

 思わず口を開けて見とれてしまう。

「ふふっ、別人やろ?」とルミさんは嬉しそうに笑い、上を指差して「チビたち、平気?」と言う。

「はい、ずいぶん遊んで、今はぐっすり眠ってます」

 草太さんを両側からがっしりホールドしたまま、双子は子供部屋ですやすやと寝息を立てている。

「じゃあ鈴芽ちゃん、ちょっとこっち手伝ってくれへん?」

 こないに混むなんて滅多にないんやけどなあと呟きつつ、ルミさんはカーテンの向こうに戻っていく。私は慌てて追いかける。

「──うわあ!」

 二十畳ほどの店内は、お客さんでぎっしりと埋まっていた。カウンターでは初老のおじさんグループが談笑し、二つあるテーブル席では会社帰りらしい男女が にぎ やかに乾杯し、お店の真ん中にあるソファー席のグループでは、ネクタイをだらりと緩めたおじさんが見事な赤ら顔でカラオケを歌い上げている。天井ではミラーボールがきらきらと回転し、あちこちにカラフルな軌跡を投げている。生まれて初めて見る、いわゆるスナックの光景だった。ルミさんは、商店街の隅にあるこのお店のオーナーママなのであった。

「え、ママぁ、この子がヘルプ!?

「そうそう!」

「ええっ!?

 ルミさんは無責任にもお客さんのもとへといそいそと駆けていき、カウンターに一人残された黒髪ワンレンロングの青いドレスのお姉さんが、心底不安そうな目で私を見る。私は当然ノーメイクで、千果にもらったキュロットパンツに いろ せたデニムジャケット──ザ・平均的十代女子・休日編といったいでたちである。

「……あんた、客席には出なくてええから」

「……はい」

 そう言ってはもらえたものの、未だにアルバイト経験の一つもない私にとって、そこからのお手伝いはまさに目が回るような忙しさだった。入れ替わり立ち替わりする満員のお客さんに対して、店員はルミさんと黒髪のお姉さんと私の三人だけだった。私はすぐに足りなくなるグラスとお皿を必死で洗い、おつまみセットのツナピコとさきイカをひたすらにお皿に盛りまくり、タオルウォーマーから取り出したおしぼりの熱さに 火傷 やけど をしそうになり、ワイングラス取って! と言われてもグラスの区別がつかず、ほとんど半泣きになりながらバックヤードとカウンターの間の三メートルを数え切れないくらい行き来した。まるでいきなり洗濯機に放り込まれてぐるぐると回り続けているみたいだった。その間、たくさんのお客さんがたくさんの歌を歌い、その一曲も私は知らなかった。どれもおそらくは昭和歌謡で、見つめ合う視線のレーザービームで夜空に恋模様を描き……という曲には「どういう恋!? 」と驚き、オラこんな村やだ東京へ行くだ東京でベコ飼うだという歌には「どういう意味?」と首を傾げ、飲み過ぎたのはあなたのせいよという歌詞には、しかしそれはちょっと自己防衛が足りないのではと思わされた。そもそもスナックがどういう場所なのかも私はよくは知らなくて、しかしルミさんのお店に出入りし大声を張り上げているお客さんたちは皆、心底から楽しそうなのだった。

「なんやあ、えらい若い子がおるやん」

 カウンターの端っこでせっせとおしぼりを畳んでいると、ヒョウ柄のブラウスを着たおばさんが私に声をかけた。

「おばさんと一緒に飲もうや!」

「それよりおじさんとデュエットせえへん?」

 スキンヘッドのおじさんが隣から割り込み、あんたまた若い子に! いやそやかてグヘヘヘと、なんだか 夫婦 めおと 漫才めいたやりとりをしている。これはちょっと色々とまずいのではと返答に迷っていると、フロアから黒髪のお姉さんがグラス片手に さつ そう と歩いてきて、あら うれ し、ご そう になりまーすと言ってカチンカチンとグラスを合わせた。

「うわミキちゃん強引。あんたにはかなわんなあ」

「まあミキちゃんでもええか」

「ええかって何ですか、ボトル入れちゃいますよ」

 そう言って笑いつつ、このお店の唯一のバイト女子であるミキさんは私にウィンクを投げた。助けてくれたのだ、とすこし経ってから私は気づく。大人たちの社交の緩やかなルールめいたものが、私にもすこしずつ見えてくる。酔って、歌って、大声でうさを晴らして、無神経なふりをしながらも誰かが誰かのことを思いやっていて──ああ、なんだか好きな場所かもと、ゆっくりと私は思う。

「──よっ、お だい じん !」

 ふいに、奥のソファー席から拍手が湧きたった。ご馳走になりまーす! と嬉しそうな男女の声が飛び交う。私はなにげなく目をやり、──え、と目を疑った。

「大尽太っ腹!」「さっすが大尽、ごちになります!」

 わいわいと盛り上がるその場の中心にちょこんと座っているのは──あのダイジン、白い ねこ だった。ダイジン先輩は飲まへんのですか? とか、ダイジン社長はさすがに景気がええねえとか、皆が口々に猫に話しかけている。噓でしょお、と思わず口に出る。

「あ、あの、すみません」私はカウンターに座っているミキさんに近づき、耳元に口を寄せる。「ミキさん、あの席に──」猫がいますよね、という気持ちで私は言う。

「え?」ミキさんは振り返り、私の視線を追う。

「ああ、初めての人やね」

「ひっ──ひと?」

 思わず繰り返してしまう。ミキさんは笑顔で言う。

「物静かな方やけど、常連さんともすぐ仲良うなられて。羽振りがええのになんだか品もあって」

「え……え、えーとえーと、なんかちょっと──猫、っぽくないですか……?」

 おそるおそる口に出してみる。ダイジンはソファー席の中心で、いかにも猫らしく片脚を上げて かん めている。

「猫? そお?」ミキさんはうっすらと頰を染め、見とれたような顔で言う。

「シブめで素敵やない!」

 ひえー、いったいどう見えてるのよ股間の毛繕いしてるのよあの猫!

「──あ!」

 ダイジンが顔を上げ、私と眼が合った。お互いに一瞬固まる。と、カランとベルを鳴らしながらスナックのドアが開き、ダイジンが はじ かれたように立ち上がった。いらっしゃーいとルミさんが歌うように声を上げ、新しいお客さんと入れ替わりに、白猫はドアの外に駆け出ていく。

「あ、あの、すみません、私ちょっと!」

「え、鈴芽ちゃん?」

 ごめんなさい! と言いながら私も店外に走り出た。店の前に立ち、薄暗い商店街を見回す。暗がりの路地の一本を、白いシルエットがちょこちょこと早足で遠ざかっていく。

「草太さん!」

 スナックの二階を見上げて、私は叫ぶ。

「ダイジンが!」

 子供部屋の窓から草太さんが慌てたように顔を出し、私はダイジンを見失わないように、草太さんを待たずに路地に駆け込んだ。人通りがなく あか りも消えた古いアーケード街はなんだか異国めいていて、知らない夢の中を走っているような気分に、私はふいになる。白い小さなシルエットが、曲がり角のたびにちらちらと見え隠れする。やがてアーケードの屋根を抜け、私は夜空の下にぽっかりと開けた道路に出た。

「──あんたっ、何のつもり!?

 数メートル先のアスファルトで、一転してダイジンはのんびりと毛繕いをしている。意図が つか めず、私は距離を空けたまま にら みつけた。

「すーずめ」

 なんだか うれ しそうに聞こえる幼い声色で、私を見上げて猫が言う。

「げんきー?」

「はあ?」

 さわってとばかりに、ダイジンはごろんと寝転がってお腹を見せる。そのまま気持ちよさそうに回転して今度は腹ばいになり、前脚を上げて空を指した。

「みて!」

「え?」

 私は顔を上げる。──分かってたよね、と心がまた言う。甘く ただ れたこの匂い。さっきから足裏に伝わっている、何かが一斉に地中を移動しているようなざわざわとした不快な感触。

「ミミズ……!」

 軒の低い住宅街の向こう、そう遠くはなさそうな山肌から、赤黒く光るミミズが立ち昇り始めている。夜空を背景に、ミミズは今までよりもなおさらに まが まが しく輝いている。──と、木材がアスファルトを るカタカタという音が背中に聞こえた。

「──ダイジン!」

 と叫びながら、草太さんが全速力の犬のようなシルエットで走ってくる。ダイジンは無言で逃げ出し、ミミズの方向に駆けていく。

「鈴芽さん、行かなければ!」

「うん!」

 草太さんが言い終わる前に、私の体も駆け出している。


入れない扉、行くべきではない場所


 静かな住宅街は徐々に上り坂となり、そのうちに山肌に沿って左右に蛇行する道となる。私たちは並んで走り続ける。何台もの車とすれ違い、何人かの通行人に驚いた視線を向けられても、私はミミズから目を離せない。いつの間にかダイジンの姿はないけれど、どうせ目的地は同じだ。早く。一刻も早く、ミミズの根本へ。両脇に建ち並んだ家々がぽつぽつと途切れ始める頃、黒い木々の向こうに観覧車のシルエットが大きく見えはじめた。ミミズはその場所から立ち昇っている。

「あの遊園地だ──!」

 アーチ状の入り口の前には、雑草の絡んだバリケードが並んでいる。脇の看板に「閉園のお知らせ」「四十年間ありがとうございました」という文字があるのが、暗闇の中にもちらりと見える。草太さんはバリケードの下をくぐり抜け、私はハードル走の選手のようにそれを飛び越える。まるで巨人たちがずらりとうずくまり眠り込んでいるかのように、園内には様々な形の遊具が黒いシルエットとなって立ち並んでいる。それらの足元は繁った草に埋もれ、地面のアスファルトはあちこちが がれてひび割れている。そして無言のままに眠り続ける遊具たちの向こうで、真っ赤な奔流が空に向かって伸び続けている。

「──観覧車が!」

 メリーゴーラウンドの物陰にようやく ひざ をつき、息を弾ませたまま私は叫んだ。草太さんが きよう がく したように言葉を引き継ぐ。

うし になっている……!」

 目の前の巨大な観覧車、その一番下にぶら下がったゴンドラのドアから、ミミズの濁流が噴き出ている。誰もいない深夜の廃遊園地で、そのゴンドラの小さなドアだけが、そこだけ強風に吹かれているかのように孤独にバタバタと暴れている。

「ああっ、草太さん見て!」

 観覧車の頂上に、鳥のような影がとまっている──あれは、

「……ダイジン!」

 押し殺した声で草太さんが言う。立ち昇っていくミミズの激流を、ダイジンはまんまるに見開いた ひとみ でうっとりと見つめている。

「鈴芽さん」猫から目をそらさずに、草太さんが言う。「俺はダイジンを捕まえて、 かなめ いし に戻す。その間に君は──」

「うん!」私は首に下げていた かぎ をTシャツから出す。愛媛での戸締まり以降、閉じ師の鍵はずっと私が持っている。あの時にも私は出来たのだ。今だって。

「ゴンドラの扉を閉めて、鍵を掛ける。やってみる!」

 私たちは顔を見合わせて うなず き、合図もないのに同時に駆け出した。やれる。私たちならばやれる。その感覚が、私の肺にもっともっとと空気を送る。私の足はさらに強くと地面を蹴る。

「ああっ!」

 ダイジンが私たちに気づき、また逃げ出した。助走をつけて観覧車の頂上からジャンプをし──落下していく先は、ジェットコースターのうねるレールのシルエットだ。

「鈴芽さん、扉を頼む!」

「うん!」

 横を走っていた草太さんは、進路を変えてジェットコースターに向かう。私は一人で観覧車へと走り、ゴンドラ乗り場への短い鉄階段を駆け上る。暴れるような光の濁流が、目の前の びついたゴンドラから噴き出ている。私は両腕を前に出し、そのドアに突進をする。ドン! 薄い鉄のドア越しにあの気味の悪い感触がまっすぐに伝わってきて、全身に鳥肌が走る。それでも私は歯を食いしばり、必死にドアを押す。ドアは一気に数十センチも押せたかと思えば、急に岩のように固くなったり、あるいは気まぐれに強烈な力で押し返してきたりする。意地の悪い誰か、もしくはまったく思考のない筋肉そのものがドアの向こうにいるような気持ちになる。赤黒く光る濁流が、周囲の全部を濁った夕日色に染めている。靴の下からは、まるで地面そのものがゴボゴボと沸騰しているかのような震動が伝わってくる。──でも。私には出来る。私たちには出来る。その気持ちだけで頭を埋め尽くし、私は全身でドアを押す。


    ❖ ❖ ❖


 同じ頃、草太さんは猫を追ってジェットコースターのレールを走っていた。 一昨日 おととい よりも、昨日よりも、今の方がずっと強い力で走れていることに、草太さんはさっきから気づいている。

「動く、体が動く!」

 彼は思わず つぶや く。自分の心が、魂が、全身の神経が、この四角く小さい椅子の体にしっくりと んできたことが、彼には分かる。それは不吉なことなのかもしれないけれど、今の草太さんには ぎよう こう である。人間の体の重さでは不可能な場所を、獣のように彼は走る。重力がずっと軽くなったような頼もしさで、草太さんは きゆう こう ばい のレールを駆け上る。地上がぐんぐんと遠ざかり、満ちかけた月が視界をよぎり、やがて はる か眼下のレールに、こちらを見上げながら逃げている白猫の姿がある。

「ダイジン! 今日こそ元の姿に──」

  えるように彼は叫ぶ。とらえたと、もう体で分かっている。

「戻してもらう!」

 傾斜したレールを強く蹴り、草太さんは空中に躍り出る。ゆっくりと回転しながら落下する椅子の体が、猫に迫っていく。猫の丸く黄色い目が迫り、その瞳に映り込む自身の姿を見た直後、草太さんはダイジンに激突する。落下の勢いを保ったまま、両者は地上に設置された小さな変電設備へと衝突する。枯れ葉まじりの土煙が舞い上がり──衝撃で、突然に変電機のランプが とも る。低いうなりを上げて、キュービクルが低圧電流をパーク内に流し始める。


    ❖ ❖ ❖


 ビィー!

 頭上のスピーカーから突然にブザーが鳴った。私は驚いて観覧車を見上げる。するといきなり周囲の照明が灯り、観覧車全体がカラフルにライトアップされた。続いてギギ、と巨大な金属が きし む音が響き──ゴンドラが、動き始めた。

「ええっ!?

 観覧車がゆっくりと、回転を始めている。私の目の前のゴンドラも、ミミズを吐き出し続けたまま前に動いていく。私はドアを押しながら、ゴンドラと一緒に進んでいく形になる。次第にスピードが上がり、私は駆け足になっていく。そして当然、ゴンドラはゆっくりと上昇を始める。扉を離すまいと、私の右手が考えるより先にドアに付いたバーを握った。

「え」

 体が持ち上げられていく。ドアを閉めなければという気持ちと、このままではまずいという迷いのその一瞬に、私の つま さき は地面から離れてしまう。

「うそ!」

 ぞくりと身がすくむ。みるみるうちに地上が遠ざかっていく。私は慌てて両手でバーを握る。濁流の噴出にガタガタと揺れるドアに、私はぶら下がる格好になる。だめだ、飛び降りるにはもう高すぎる。私は必死に体を持ち上げ、ゴンドラから張り出した狭い足場に右足先を乗せ、左足もなんとか同じ場所に着く。私の頰のすぐ横で、ミミズは激しく噴き出している。チカチカと暴れる火花のような まつ には、しかし温度も触感もない。私は左手でゴンドラの側面を つか み、右手でドアを支えにし、ゴンドラの半分を抱きかかえるような格好でなんとか立ち上がる。目の前には、ひびの入ったゴンドラの窓がある。

「……!」

 狭く薄暗いゴンドラの内部に、かすかに瞬く何かがあった。私は目を凝らす。それは──星だ。ゴンドラの中に、夜空がある。ふいに誰かが光量つまみをぐんと回したみたいに、星々の輝きが増し始める。それは私のよく知っている、あの草原の星空である。さざ波のように、私の胸によく見知ったあの感情が満ちてくる。悲しいのに心地が い。知らない場所なのに馴染みがある。居てはいけない場所なのに、いつまでも居たい。

「お母さん……?」

 草原のずっと果てに、誰かが立っている。風に揺れる白いワンピース。柔らかそうな長い黒髪。そしてその向かい側に、うずくまった子供のシルエットがある。私だ。子供の私が、お母さんと向き合っている。そうだ、星空の草原で、私たちは えたのだ。打たれたように私は理解する。これは、あの夢の続きだ。どれほど望んでも見ることが かな わなかった、記憶のずっと奥に埋もれていた風景だ。お母さんが、手に何かを持っている。私に向かって差し出している。あれはなに。私は目を凝らす。遠くてよく見えない。もっと。もっと近くで。私はドアの内側に体を乗り出す。ミミズの濁流の中に体を入れていく。何の温度も まぶ しさも抵抗も、そこにはない。それはただの、透明で重みのない泥水である。私は頭をかがめてゴンドラの小さなドアをくぐる。右足を床に着く──と、そこは深く柔らかな草原となっている。さっきよりはずっと近くに、お母さんと子供の私の姿が見える。

「──」

 背中から、誰かの声が聞こえた気がする。でも私の目はお母さんたちに吸い寄せられていく。一歩、足を前に出す。なに。お母さんが私に渡そうとしているものは。あれはなに。また一歩。あれは──。

 椅子だ。脚が三本しかない、小さな手作りの子供椅子だ。……椅子? 私の心が、こちん、と何かに触れる。何かを思い出しそうになる。

「──」

 誰。さっきから、背中で呼ぶ声は。椅子。あの椅子は──。

「鈴芽さん!」

  はじ かれたように、私は目を開けた。

「はっ──!

 小さな窓から、私は身を乗り出していた。目の前には山と夜空、眼下には、ずっと遠くに薄暗いアスファルト。落下の恐怖に、反射的に身を引いた。冷水をかけられたみたいに私は思い出す。上昇するゴンドラの中に、私はいるのだ。もう草原もなく、二人の姿もない。

「鈴芽さん、来い!」

 その声に振り返る。ゴンドラの小さな出口から、ミミズの濁流が外に向かって噴き出ている。その泥水の間から、草太さんが必死に前脚をこちらに伸ばしている。

「草太さん!」

 私は転がるようにゴンドラの床に ひざ をつき、右手で草太さんの脚を摑む。頼もしい力で、草太さんは私をミミズが噴き出るゴンドラから引っぱりだしてくれる。観覧車のフレームに手足を着く。そこは既に、回転する観覧車の頂上に近い。神戸の夜景を見晴るかすほどの高さに、私たちは立っている。

「鈴芽さん、ドアを!」

「うん!」

 私は細い鉄骨を足場にし、バタバタと暴れるドアの外側に回り込み、再びそれを押し始める。足元でドアを押す草太さんの力は、今までよりも一層に強い。ゴンドラのドアは、ぐんぐんと閉じていく。細くなっていく出口に、ミミズの濁流は薄く引き延ばされていく。

「──かけまくもかしこき の神よ」

 草太さんの唱え始めた 祝詞 のりと に導かれるように、私は目を閉じる。かつてこの場所にあったはずの歓声に、私は耳をすます。あそこが開園した頃はほんまに にぎ やかでねえ──ルミさんの声が、ふいに よみがえ る。きっと週末ごとに周辺の道路は混み合って、ゴーカートに、メリーゴーラウンドに、この観覧車に、人々が列を作っていたのだろう。私は想像する。観覧車の高さに、ジェットコースターのうねりに、バイキングの加速度に、皆が驚いて、はしゃいで、悲鳴を上げて、笑い転げている。わあ、高い高い! なあコーヒーカップもういっぺん乗ろ! こら、走ったら危ないで! 初めてのデートで遊園地なんて、うちらベタやねえ。

とお 御祖 みおや うぶ すな よ。久しく拝領つかまつったこの やま かわ 、かしこみかしこみ、 つつし んで──」

 私の胸元で かぎ が青く光りだしたのが、その熱で分かる。つむったままの まぶた の裏に、やがてかつての遊園地の姿が見えてくる。人々は皆笑顔で、足元のアスファルトは鮮やかなパステルカラーに塗られていて、ぴかぴかと輝く遊具たちには さび ひとつない。少女の手を離れた黄色い風船が、青空を小さく切り抜くように空に昇っていく。わあ、いってしもうた。そう言って空を見上げる少女の顔には、しかし寂しさの 欠片 かけら もない。

「──今だ!」

 郷愁を切り裂くような鋭さで草太さんが言い、

「お返しします!」と叫びながら、私は光の鍵穴に鍵を挿した。

 ガチャリ──ドアに鍵が掛かる ごた えがあり、直後、空を覆った赤銅の花が弾けた。まるで重い ふた が突然外されたかのように空気が一気に軽くなり、その数瞬後、夜でも にじ 色に輝く雨が、いっとき はい きよ を洗った。やがて力尽きたかのように園内の照明が全て消え──あたりは再び静かな夜へと戻ったのだった。


 ガコン! 全身に響くような低音で、足元の鉄骨がふいに きし んだ。

「わ、わわ!」

 私は思わずゴンドラにしがみつく。下を見る。地面はずっと遠くで闇に溶けている。吸い込まれそうになる。膝が震える。ゴゴン、と足元がまた軋む。

「中に入ろう」と落ちついた声で草太さんが言い、私はさっき閉めたばかりのドアをもう一度開け、すっかり鎮まったゴンドラの中に慌てて入った。ドアを閉めると、耳元で鳴っていた風の音がふっと弱まった。

「……怖かったあ~」

 スイッチが切れたみたいに脚から力が抜けて、私はゴンドラの床にぺたりと座り込んでしまう。観覧車の頂上に私は立ったのだ 。今さらに全身が震えだし、 じり にはじわりと涙が浮かんでくる。ふえーん、と情けない息が漏れる。ふいに 可笑 おか しそうに、草太さんが笑い出した。

「はははっ! 鈴芽さん、君は すご かったよ──ありがとう」


    * * *


 窓の外には、神戸の街 あか りが一面に広がっていた。あらためて眺めるゴンドラの内部は広くもなく狭くもなく、誰かと一番親密に過ごせるサイズを慎重に割り出しました、というような大きさだった。私たちはプラスチックのシートに向かい合わせに座り、ゆっくりと近づいてくる地上を眺めた。観覧車というものは停電してしまっても、中に人がいたらその重みでゆっくり回転し地上に降りるように設計されているのだと、草太さんが教えてくれた。

 ダイジンはどうしたのと くと、また逃げられた、と草太さんは苦笑した。ジェットコースターから一緒に落下し、その後ダイジンを地面に押さえつけたのだけれど、動き出した観覧車に私がぶら下がっていることに気づき慌てて駆けつけてくれたのだという。ごめんなさいと言う私に、君が謝る理由なんてない、と彼は笑った。次こそは捕まえられるさ、と自信のありそうな声で言う。

「鈴芽さん──」吹き込む夜風にそっと挟み込むように、草太さんが静かに言った。

「え?」

「さっき、後ろ戸の中に何を見ていた……?」

「ああ──」

 まるで夢から覚めた後のように、記憶が急速に淡くなっていることに私は気づく。

「すごく眩しい星空と、草原と……」

とこ だ」と、驚いた声で草太さんが言う。

「え?」

「君には常世が見えるんだ……」

「とこよ?」

「この世界の裏側。ミミズの すみ 。すべての時間が同時にある場所」

 すべての時間が、同時にある場所。頭のずっとずっと奥の方で、何かが み合うような感覚が、一瞬あった。でも──とても手が届かないほど、そこは深いのだった。

「……見えるけど、入れないの」

「常世とは、死者の赴く場所なんだそうだ」

 そう言って草太さんは窓の外を見、私も彼の視線を追った。真っ黒な海の手前に、星を一面にまぶしたような夜の街が広がっていた。ひときわ明るい工場地帯があり、光の塔のようなビル群があり、寄り添って瞬く住宅たちがあった。手を伸ばせばそれぞれ光の粒を指先に乗せられそうなくらい、それらはくっきりと近くに見えていた。

うつし に生きる俺たちには、そこは入れない場所、行ってはいけない場所なんだ。だから、君が入れなくて良かった。入れなくて当然なんだ」

 なぜだかすこしだけ悲しげに聞こえる声で、街を見たまま草太さんは言う。

「この場所で、俺たちは生きているのだから──」

 巨大な金属を軋ませながら観覧車はゆっくりと回転し、夜景はやがて下から迫ってきた黒い木々に隠れ、葉の隙間でいっときチカチカと瞬いた。その光の最後の一粒が消えるまで、私たちは窓の外をじっと見続けていた。


夜のパーティと、孤独な夢


 なんて言い訳したら良いのだろう。もしかしたら、もう戻らない方が良いのだろうか。でもそれじゃああまりに身勝手ではないのか。何度もぐるぐると悩み、スマホの時計を確認し、深夜の二時という時刻に ため いき をつき、でももう一度大きく息を吸い込んで、私はスナックのドアを開けた。カラン、とドアベルが能天気な音を立てる。

「あ、不良娘が帰ってきたわ」

 グラスを磨いていたミキさんがベルの音に顔を上げ、苦笑混じりにそう言った。店内は薄暗く照明が落とされ、お客の姿はもうどこにもなく、うっすらとアルコールの残り香が漂っていた。カウンターに顔をうずめていたルミさんが、ゆっくりと顔を上げ、こちらを振り向く。

「……鈴芽ちゃん!」

 ルミさんは立ち上がり、私に駆け寄る。草太さんを持った手を、私は反射的に背中に回した。ルミさんの疲れ切ったような表情に、胸がずきりと痛む。

「一体どこ行っとったの!」

「すみません、あの──」

「こんな時間に急におらへんようになって、どない心配したか!」

「まあまあ」私に つか みかかる勢いのルミさんに、カウンターの中から取りなすようにミキさんが言う。

「無事やったんですから」

「そやかて──」

「家出なんて、うちらもさんざんしましたやん」

 そうなんだ、と思うと同時に、私のお腹がぐうぅと鳴った。

「わ」

 慌てて手のひらで押さえる。私は思わず赤くなる。やれやれというふうにルミさんが溜息をつき、苦笑しながら私の顔を見た。

「……とりあえず、なんか食べよか」


 それから私たちは小さな台所に三人で立ち、何を食べたいのか候補を出しあった。この時間にラーメンは太る、焼きそばもやばい、お茶漬けは罪悪感は薄いけれど物足りない、やはり野菜的なものにしておくべきちゃうか、いやしかしよくよく考えれば今うちらが求めているものは炭水化物やないですか──という協議の末、野菜をたっぷり入れた焼きうどんを作ることになった。だったら目玉焼きも乗せにゃ、うちは紅ショウガ山盛りで、鈴芽ちゃんは? と問われ、私の家はポテトサラダを入れるんですと言ったら二人は一瞬絶句し、いやでも意外にありやないですか? でもカロリーえぐない? そやかて今うちらが求めているのは結局は──的な協議の末、野菜たっぷりポテサラ焼きうどん目玉焼き乗せが正式メニューとなった。ルミさんがフライパンでごま油を温め、その間に私が野菜をざくざくと切り、ミキさんはラップにくるんだうどん玉をレンジで軽く蒸した。そして野菜をじゅうじゅうと いた めるルミさんの横で、私は同時進行でうどんを炒め、ミキさんがお店の作り置きのポテトサラダを大きなスプーンですくいゴンゴンとうどんに乗せ、私はそれらを さい ばし で絡めた。家庭科の授業での精鋭チームのように私たちは手際が良く、作りながら絶え間なくお しやべ りをし、切れ目なく笑いあった。

「いただきまーす!」

 お店の真ん中のソファー席に座って、私たちは焼きうどんを食べた。 美味 おい しい! とルミさんたちが声を上げ、私はなんだか浮き上がるくらいに誇らしい気持ちになった。これ絶対ビールに合うわとミキさんが言い、ルミさんが冷蔵庫から缶ビールを持ってきて、私にはジンジャエールを渡してくれた。お疲れさまでした! と缶を合わせる。シュワシュワした冷たい炭酸が、焼きうどんの濃厚な味をさらさらと胃に流してくれて、いくらでも食べられていくらでも飲めそうだった。私たちは焼きうどんを平らげると、お店にあったカラムーチョやさきイカやカマンベールチーズもテーブルに並べた。それはなんだか、文化祭の打ち上げパーティのようだった。ルミさんが三年生、ミキさんが二年生で、私が新入生。ルミさんたちの華やかなドレスは、まるで文化祭の衣装のように見えた。黄色い間接照明で照らされた薄暗い店内は、飾り付けされた放課後の教室のようだった。

 ふと振り返ると、教室の片隅で孤高にたそがれるイケメンの先輩のように、子供椅子が壁際でじっとしていた。私はソファーから腰を浮かし、草太さんにかがみ込んで口を寄せた。

「ね、草太さんも一緒に!」

 え、と草太さんが小声を返す。私は有無を言わせず椅子を持ち上げた。「え、お、おい君、ちょっと!」という ささや きをスルーして、私はテーブルの脇にカタンと椅子を置き、その上に座った。

「──!」

 草太さんが息を む。腰に体重をかけても、三本脚の椅子はびくともしない。やれやれ、と彼が小さく息を吐くのが、背中で聞こえた。

「え、なにそれ?」

「あらかわいい。子供用の椅子?」

「どしたの、いきなり」

「あ……神戸の思い出に」

 と私が素直に答えると、なにそれ、意味わからんわ、と二人はくすくすと笑ってくれた。最後に皆で記念写真を撮り、昨日今日ですっかり上達した後片付けスキルで私は食器をささっと洗い、じゃあまた明日学校でねというような自然さで、その夜は解散となったのだった。


    * * *


「──おかしな子だと思われたんじゃないか?」

 さっきまでパーティをしていたソファーに横になったところで、枕元の草太さんが笑いながらそう言った。私はルミさんにシャワーを使わせてもらいブランケットも借りて、Tシャツ姿で眠ろうとしていたところだった。

「あ、椅子に座ったこと?」

「急に姿を消して、夜中にまた現れて」

「そうかなあ」

 ルミさんもミキさんも──それから千果も、誰かのおかしさなんかにはぜんぜん とん ちやく しないようなおおらかさがあった。他人には自分とは違う世界が ることを、しっかりと知っていた。地元を離れてからたった二日間しか経っていないのに、私の世界は以前よりもずっとカラフルになっていた。

「ね、草太さんって、ずっとこんなふうに旅をしてるの?」そういうのって あこが れるなと思いながら、私は いた。

「ずっとじゃない。東京にアパートがある」

「え?」

「大学を卒業したら、教師になるつもりなんだ」

「え」思わず草太さんの顔を見ると、

「え?」と椅子の顔が私を見返す。大学? え?

「えええ! 大学生なのっ!?

「そうだよ」

「え、就職するのっ!?  え、じゃあ閉じ師は?」

 職業・旅人じゃなかったの!?  ポーカーフェイスでごくごく普通のことを語る子供椅子に、私の頭はにわかに混乱してしまう。草太さんは笑みを含んだ声で言う。

「閉じ師は、代々続くうちの家業なんだ。これからもずっと続ける。でも、それだけじゃ食っていけないよ」

「──そうなんだ」

 そうなんだ、と私は思った。食べていけない。生活をしていけない。言われてみればそうなのかもしれない。戸締まりをしたって、誰かがお金をくれるわけじゃない。でも、と私は思った。

「……でも、大事な仕事なのに」

「大事な仕事は、人からは見えない方がいいんだ」

 鳥肌が、さっと背中を走った。そんなふうに考えたことは、考えられたことは、私には一度もなかった。大事な仕事ほどたくさんの人に注目されて、たくさんお金をもらえるものだと当たり前に思っていた。草太さんは私の目を見て、慰めるように優しく言った。

「大丈夫。さっさと元の姿に戻って、教師も閉じ師も両方やるよ」

 その声の穏やかさに私はほっとし、ほどなくして眠りに落ちたのだけれど──それまでのわずかな間に、私の頭はあの観覧車を思い出していた。あのてっぺんは、私たちが立ったあの場所は、私たち以外には誰も 辿 たど りつけないような場所だった。あの頂上に、てっぺんの空に、私たちは他の誰にも見えない秘密のしるし のようなものを、そっとつけてきたのだ。それがとてもとても、全身が静かに震えるくらい、誇らしかった。その感覚を大切になぞりながら、私は眠った。


    ❖ ❖ ❖


 私が夢のない眠りに落ちていたその頃、草太さんは夢を見ていた。それは誰にも共有されることのない、草太さん自身さえ目覚めたらすこしも覚えていないことになる、どこにも つな がらない孤独な夢だった。

 草太さんは、三本脚の子供椅子に座っていた。座ったまま、自分が口に出した言葉を思い返していた。さっさと元の姿に戻って、教師も閉じ師も両方やるよ。──でも、と草太さんは思った。でも、俺はもう。もしかしたら。既に。

 そう考えた途端に、体ががくんと重くなった。ふいに重力が増したようだった。腰が椅子の座面に押しつけられ──体の重さが一点を越えた瞬間、ぼこん、と泡が はじ けるような感触で座面が消えた。

「……!」

 落ちていく。沈んでいく。驚いて上を見上げると、そこには椅子に座ったままの自分が見えた。疲れたように背を丸めて椅子に座り込んだまま、じっと目をつむっている。抜け殻のようなその姿はぐんぐんと遠ざかり、やがて溶けるように暗闇に消えていく。ああ、遠ざかっていく、と あきら めるように彼は思う。彼はもう受け入れている。望んだことではないけれど、そういうものかと受け入れている。やがて地平線の 彼方 かなた に、赤く燃える町が現れる。それはずっとずっと遠くにあるはずなのに、目を凝らすと細部までが克明に目に入る。ごうごうと燃える火を背景にして、折れた電柱や、積み重なった乗用車や、割れた窓で揺れるカーテンや、燃えながら風に舞う洗濯物なんかが、精巧なミニチュアのようにくっきりと見える。見えるのに、その町もただ視界を通り過ぎていく。あそこにすら行けないのか、と彼は思う。では俺はどこに行けるのか。そこはどれほどの 辺土 リンボ であるのか。色も感触もない透明な泥水の中を落ち続けながら、草太さんは世界から切り離されていく。彼と世界とを結ぶ大切な糸が、一本また一本と、順番に切れていく。

 光が消える。

 声が消える。

 体が消える。

 記憶が消える。

 寒い。寒い。寒い。寒い──。

 そして、最後の糸がぷつんと切れる。

「……」

 しかし、心はまだ る。では、ここが。

 彼は目を開く。

 彼はやはり椅子に座っている。顔を上げると、目の前には古びた木のドアがある。周囲を見渡す。そこは波打ち際である。広大な海辺に、一枚のドアと、椅子に座った彼だけがいる。そして海と砂浜の境には、波に打ち上げられた骨がどこまでも一列に並んでいる。人のものとも魚のものともつかない骨たちは、まるでそこだけ塗り忘れられたみたいに かん ぺき に白い。そのまっ白な骨の列は、世界を二つに区切る境界線のように見える。彼はこちら側にいて、ドアはあちら側にある。

 彼はもう一度ドアを見上げる。ドアの表面には植物をあしらった木彫りの装飾が施されている。ペンキがぼろぼろに げている。それはとても懐かしいドアのはずなのだけれど、その感情はどこにも繫がらない。何も思い出せない。感情と記憶を繫げる糸が、切れている。

「……俺は」

 続く言葉を知らぬままに、彼は つぶや く。息が白い。あのドアの向こうには──と心が思う。立ち上がろうとする。が、下半身が動かない。思わず足元を見て、彼は驚く。砂浜に着いた素足が、氷に覆われている。カチカチとまるで虫が鳴くような小さな音を立てながら、分厚い氷がみるみるその範囲を増していく。それは ひざ に達し、 もも を凍らせ、上半身にも広がっていく。彼をこの辺土に縫い付けようとするかのように、氷は意志を持って彼の体を覆っていく。そうか、と彼は思う。深く息を吐く。息までも、きらきらと光る氷の粒になっている。

「ここが俺の、行き着く先か──」

 口元に微笑みの形を浮かべ、彼はうなだれる。氷に覆われていく体はますます重く、しかし凍える冷気がその重ささえ させていく。空白のようなその無感覚は、奇妙に甘い。

「──」

 遠くから、誰かの声がする。しかし広がっていく無の甘さに、彼はまどろむ。

「──」

 誰だ。彼はふいに いら つ。なぜこのままいかせてくれない。俺はまどろみを選んだのに。ようやく、今度こそ、全てが消えるのに。

「──草太さん!」

 その声と同時に目の前のドアが開き、彼は まぶ しさに目を細めた。


    ❖ ❖ ❖


「……鈴芽さん?」

 と、寝ぼけた声で草太さんが言った。まじか、と私は思う。ほんとに起きた。千果、疑ってごめん。ぎぎ、と背板についた目で見上げて、草太さんは私の顔を見る。

「おはよう」

「……やっと起きた」

 私は ため いき をついてみせて、草太さんをソファーに置いた。スマホの画面を彼に掲げる。

「ほら見て、ダイジン! また写真が投稿されてる!」

 草太さんはゆっくりと首を曲げ、SNSの画面をじっと見る。

「……鈴芽さん」画面を見たまま、草太さんがぼそりと言う。

「ん?」

「今、俺に何かした?」

 キスしたら起きるで。あの得意げな声。さすが千果。

「……べーつに」

 さ、次の目的地も決まったし、出かけなくちゃ。そう言って私はデニムジャケットを羽織り、子供椅子をバッグに詰めた。窓の外に見える空は、今日もくっきりと青かった。