二日目


愛媛での猫探し


 私はまだ海外旅行をしたことがないけれど、外国の地面に降り立つ瞬間ってきっとすごく感動するんだろうな。フェリーに せつ げん された狭いタラップを降りながら、ふとそう思った。ローファーが港のコンクリートに着く瞬間、「 こく ーっ!」と心の中で叫ぶ。人生初上陸だ。そのまま立ち止まって、おじさん集団の背中が遠ざかるのをしばらく待ち、充分に距離をとってから私は歩き出した。念のため、子供椅子は背中に隠すように後ろ手に持つ。手ぶらで家を出てきてしまったから、制服姿で子供椅子だけ持っているという謎キャラに私はなってしまっているのだ。あまり目立ちたくない。

 今日も暑いのぉとか、わしはこのまま大阪やとか、がやがやと歩くおじさんたちの声と一定の距離を保ちつつ、トタン屋根が架かっただけの簡素な通路を歩く。またのご乗船を心よりお待ちしておりますと、スピーカーが言っている。地元の宮崎とは何かが違う場所をイメージしていたのだけれど、今のところ、音も空気も港のさびれ具合も、ぜんぜん違いがない。青空の色も潮の匂いも日焼けしたコンクリートの色も、拍子抜けするくらい地元と同じである。

「…… すず さん?」

 カタン。背中でふいに椅子が動き、 そう さんの声がした。私は思わず立ち止まり、

「やーっと起きたぁ」と あん ため いき をつく。

「草太さんぜんっぜん起きなかったから、全部夢だったんじゃないかって思い始めてました!」

 フェリーターミナルを出るとそこはだだっ広い駐車場で、その端っこで私は草太さんに文句を言う。日の出から今までの二時間ほど、何度声をかけても全く起きてくれなかったのだ、この人は。

「寝てたのか……俺……」まだ寝ぼけたような声。はあーっ、ともう一度大きな溜息を私は聞かせる。

「──まあいいわ。さーて、猫! どうやって探しましょうか? まずは港で聞き込みからかな」

「え?」

「ていうか、ここどこだろう?」

 私はスカートのポケットからスマホを取り出す。これだけでも持ってきていて良かった。フェリーの代金すら払えないところだった。

「おいちょっと、君!」

 慌てたように言う草太さんの声を無視して、私はスマホを操作する。画面に居座っている たまき さんからのメッセージ通知をささっと掃くようにスワイプし、マップを開いて現在位置を確認する。今いる場所は、愛媛県の西の端にある わた はま 港。東に歩けば市街地で、電車の駅も歩ける距離にある。ふむふむ。ちなみに我が家までの距離は。移動ログを表示させると、四国と九州が画面に収まるまでマップがぐーんとズームアウトして、自宅まで219㎞と表示される。

「うわ、ずいぶんきちゃった」

「次のフェリーに乗れば、今日中には家に帰れるだろう。昨日話しただろ? 俺のことは心配せず、君はこのまま家に──」

「ああっ!」

 私は思わず声を上げる。

「え、どうした!?

「これって……!」

 地面にしゃがみ込み、SNSの画面を草太さんに見せる。そこに投稿された写真に写っているのは、電車の座席にちょこんと座っている、あの白猫である。

「あいつだよねえ!?

「なんと……!」

 現在地周辺だけに絞り込んだSNSのタイムラインに、ずらりと白猫の写真が並んでいる。昨夜は警備艇のへさきに、夜明けには港のもやいの上に、早朝は橋の欄干に、数時間前には駅のベンチに、数分前には電車内の整理券ボックスの上に、やけにSNS映えするあどけない ねこ ポーズであの白猫が写っている。お遍路中にキュートな出会い! やばいまずいマジ可愛い! 電車に乗ってきたんですけどマジでリアル耳すま! ぬこ駅長にチュール! かわいい……かわいい……さっきからずっと隣におる……。写真には、いずれも 力が低下したような文章が添えられている。あの白猫は行く先々であざとく得意げに(だってそう見える)、人々に写真を撮られているのだ。

「え、ダイジン……?」

 白いおひげが昔の大臣 みたいで超キュート。頰ヒゲの上向きカールがマジ大臣 。そんな投稿がいくつか続き、果ては「#ダイジンといっしょ」というハッシュタグまで発生している。

「まじかー……。そういえばソレ系の顔かな……?」

「こいつ、電車で東に移動している。追わなければ!」

 草太さんはそう言って、カタンカタンと歩き出した。歩きながらギギギと背板を私に向け、決定事項を告げるようにクールに言う。

「ここでさよならだ。今までありがとう鈴芽さん。気をつけて帰りなさい」


 ええと、どこまで買えばいいのかな。まあとりあえずと、私は一番大きいパネルを押す。ピッという電子音が、やけに天井の高い駅舎に響く。

「あのなあ……」

 手元でささやかれる抗議の声を無視し、私は発券機から切符を取る。お腹に椅子を抱えたまま、八幡浜駅の改札をくぐる。

「君は帰らないと、家族が心配するだろう!?

「平気! うち、放任主義ですから」

 私は小声でしれっと言う。何でもないんですよーという顔でさりげなく椅子を持っているつもりだけど、さっきから違う制服姿の同年代たちにじろじろと見られている。 まつ やま 行きーワンマン列車が参りますー。のんびりした声でスピーカーが告げ、やってきた銀色の車体に私たちは乗り込む。 いた車内はいくつかの駅を過ぎるとほとんど貸し切りのようになり、私たちはようやく緊張を解いた。

「……危険な旅になるし、君についてこられても困るんだよ」

  ひざ の上で、子供椅子が困ったような声で言う。

「そんなこと言ったって草太さん、」私は見ていたスマホを、草太さんの顔に近づけた。「これ!」

 SNSに投稿されているのは、坂道を走る椅子の後ろ姿である。素早い動きでだいぶブレていて、それが逆に UMA 未確認動物 っぽい怪しいリアリティを醸し出している。他にも とう を走る姿や、港の近くを歩いている今朝の姿。顔こそ判然とはしないけれど私が写った写真まである。「ヤバイもの見た!」「俺も!」「椅子型ドローン!? 」「傍らの謎の制服少女の正体は!? 」ちょっとした噂になっている。「#走る椅子」というハッシュタグまで、またしても出来ている。

「なんと……!」

「ほらあ! 人前じゃ歩くのも危ないでしょう!?  こんなんじゃ、草太さんが先に誰かに捕まっちゃうよ!」

「う……」草太さんは言葉に詰まり、しばらくしてから、鈴芽さん、と神妙な声で言った。

「仕方がない──。ダイジンを見つけるまで、よろしく頼む」

 ギギと小さな音を立て、椅子が頭を下げる。やった、と私は思う。にっこりと笑って、私も草太さんに頭を下げた。

「こちらこそ!」

 ようやく同行を認めてもらえた。よーしやるぞーっと気合いを入れて顔を上げたら、遠くの座席から幼児が不思議そうにこちらを見ていた。幸い母親はスマホを のぞ き込んでいる。あぶないあぶない。草太さんを元の姿に戻す責任が、私にはあるのだ。草太さんが人間の姿を取り戻すまで、私が彼を守るのだ!


だからいま、私が走るべき方向は


 ──でもせめて。日焼け止めを、最初の駅前で買っておけば良かった。ようやく傾き始めた太陽を恨めしげに にら みながら、私は今日何度目かになる後悔をまたなぞった。私の肌、ぜったいに焼けた。ぜったいに、今夜はお みる。というか、今夜お風呂に入れる可能性が果たしてあるのか。ていうか、このまま陽が暮れたら今夜はどこで過ごせば良いのか。まさかの初四国で初野宿なのか。二晩連続ノーシャワーなのか。私たちの歩いている山道の、ガードレールを挟んだ下の大きな貯水池に目をやりながら、今夜もお風呂に入れなかったら最悪水浴びかなと絶望的な気持ちで思う。

 SNSに投稿された写真を頼りに、私たちは電車に乗ったり降りたりを繰り返し、ダイジンこと白猫の足どりを追い続けた。しかし写真の場所に 辿 たど りつく頃には別の場所の写真がアップされるといった具合で、これではきりがないのだった。さりとて現状だと他の手掛かりもなく、今は二時間前に投稿された写真の場所に私たちは向かっている。ダイジンがみかん畑の中でしな を作っている写真と、「うちの農園に白猫ちゃんがご訪問! #ダイジンといっしょ」という投稿。この山道を登った先が、その農園のはずなのだ。そしてここまでの道のりにコンビニも商店も一軒もなく、日焼け止めは買えないままなのだった。

「……!」

 背後から、バイクの音が聞こえてくる。

「草太さん!」

 私は慌てて声をかけて、数メートル先を歩いている椅子へと走り、背中から持ち上げた。間一髪、椅子を持った私の脇を原付バイクが走り抜けていく。

「……見られなかったよね?」

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」

 と彼が笑う。でも草太さんには危機感が足りないと、私は思う。映画の『トイ・ストーリー』みたいにヘンな人にさらわれちゃったらどうするのよ。猫探索に加え、椅子奪還のミッションまで発生してしまう。とはいえ子供椅子を持ち続けるのも意外と腕が疲れるもので、人目がない場所では結局自力で歩いてもらっているのだけれど。

 ──と、坂の上からガタン! と何かが落ちたような音と、キキイッというブレーキ音が響いた。続けて「やばっ」という女性の声がかすかに耳に届く。

「ん?」私は坂の上を見る。「……ええ!?

 狭い坂道を、大量のみかんがゴロゴロと転がり落ちてくる。さっき通り過ぎたバイクの荷台に大きな箱が積まれていたことを、私は思い出す。

「えええーっ!」

 道幅いっぱいに広がりつつ迫ってくるみかんの群れ。立ちつくしてしまう私の体から、とっさに草太さんが飛び降りた。驚いて目で追うと、道路脇の畑にあった防獣ネットを脚にひっかけ、Uターンして戻ってくる。

「鈴芽さん、そっち押さえて!」

「え、あ、うん!」

 草太さんがネットを引きずったまま私の前を通り過ぎ、私たちは道の両端でネットを広げる格好になる。と、ほとんど同時にみかんたちがドドドドッと網に収まった。

「……噓じゃろうっ!?

 声に顔を上げると、坂の上でヘルメットを かぶ った女の子が私たちを ぼう ぜん と見下ろしていた。草太さんが今さらに無機物のふりをして、コトンと倒れる。転がってきたみかんを一つ残らず、私たちはキャッチすることに成功したのだった。


    * * *


「しんから助かったわー、ありがとう!」

 茶髪をショートボブにした赤い学校ジャージの女の子が、私の両手を握ってぶんぶんと振っている。私はその勢いにちょっと戸惑いながら、いえいえ……とこわばった笑顔を作る。

「あんた、魔法使いみたいじゃねえ! 一体どうやったん?」

「あ……」私は動く椅子を目撃されずに済んだらしいことにほっとしながら、「なんか、とっさに体が動いた……? みたいな?」と あい まい に言う。

「ええ~、しんからすごいわ!」

 なんだか心から感動してくれている様子。ぱっちりとメイクされた丸い ひとみ が、きらきらと輝いている。

「うち、 。高校二年」

 と、彼女が自分の胸を指差す。

「あ、同い年! 私は鈴芽」

「へえ、すずめ。可愛い名前や!」

 うわ、この子距離が近い。でも同じ歳だと聞くと、私にもとたんに気安さが湧き上がってくる。

「ね、鈴芽の制服って──」いきなりの呼び捨て。でもそれがぜんぜん嫌な感じではなく、彼女は私の姿を上から下までじっと見て言う。「このへんの子やないよね?」

「あ、うん──」

 私も呼び捨てで名前を呼ぼう。ふいに浮きたつ気持ちでそう決めて、私は事情を(だいぶ伏せつつも)話した。


「え、猫を探して……九州からあ!?

 スマホに表示されたみかん農園の写真を見ながら、千果が驚いた声を出す。私たちは道路脇の空き地に並んで座っている。あたりを満たしていた蟬の声は、気づけばヒグラシの合唱に置き換わっている。道路下の貯水池の水面の色も、明るい青から緑がかったグレイに沈みつつある。

「この子、鈴芽の飼い猫なん?」スマホを私に返しながら千果が く。

「ええと、そういうわけでもないんだけど……」

 私は返事を濁して、彼女からお礼にともらったみかんを一房口に入れた。びっくりするくらいに甘い。渇いた のど が心地 く湿り、歩き疲れた体に甘さがすーっと染み込んでいく。今度は六房くらいまとめて口に入れる。コンビニのオレンジジュースの千倍おいしい。

「これ、日焼けがリセットされそうなくらいおいしい!」

 そう伝えると、千果はとても うれ しそうに笑った。

「さっきはごめんな。道路が段々になっとってな」

「段々?」

「うん。タイヤで思いきり段差に乗ってしもて、ゴムバンドが弾みで外れてしもて。昨日まではそんな段差なかったはずなんやけど──ってまあ、ケースをちゃんと固定しとらんかったうちが悪いんやけど」

「大変だね……。それって、バイト?」

「ううん、うちの親、客商売やっとるから。このみかんはもうお客さんには出せんから、加工に回してもらうわ。だから好きなだけ食べて。紫外線、ようけリセットして」

 私たちは一緒に笑う。みかんの甘さと千果のからっとした声に、体の緊張がほぐれていく。

「そんで、鈴芽はその農園に行くところなの?」

「え、あ、うん、そう!」

 ちょっと慌てて、私はスマホにもう一度写真を出した。いけないいけない、すっかり放課後井戸端気分になってた。私はあらためて写真を見てから、周囲の風景を確かめようと顔を上げた。

「ねえ千果、この写真の場所ってさ、この近くだと思──」

 思うんだけど、という言葉が、喉で止まった。代わりに口から出たのは、 かす れた息。「……どしたん? 鈴芽?」

 返事が出来ない。千果が げん そうに私を のぞ き込むのが、気配で分かる。でも私の目は一点に縫い付けられてしまったみたいに、それ から離せない。どうして。なぜこの場所に。ヒグラシの鳴き声が、いつの間にかぴたりと止んでいる。貯水池を挟んだ遠くの山肌で、カラスがギャアギャアと群れている。その群れを左右に割るようにして、赤黒い煙がゆっくりと立ち昇ってきている。うっすらと発光しているように見えるそれは──私たちにしか見えない、あの巨大なミミズだった。

「あ、あの──」

 声が震える。足元の草太さんを持ち上げて、千果に言う。

「ごめん、急用が出来て! ごめんね!」

「え、ええ? 急用!?  え?」

 椅子を抱えて、私は反射的に走り出していた。千果の戸惑った声に振り返る余裕もなく、ミミズの見える方向へと山道を駆け上る。

「草太さん、ミミズってどこにでも出るの!?

「この土地の うし が開いたんだ! 早く閉じなければ──」

 また地震が? 足元からぞわりと悪寒が迫り上がり、その不快さを踏み つぶ すように私は足を速める。ミミズは太く長く、空に伸びていく。草太さんが、焦った声を出す。

「この距離を走ったんじゃ間に合わない!」

「そんな……!」

「おーい、鈴芽ぇー!」

 背中から声が聞こえ、振り返ると、原付バイクに乗った千果だった。私の目の前でキュッとブレーキをかける。

「千果!」

「なんや分からんけど、急ぐんじゃろ?」真剣な顔で、私の目を見る。

「乗って!」


 流れる木々の隙間からチラチラと見えるミミズが、ぼんやりと赤銅色に光っている。いつの間にか陽が沈んでいる。車通りのない山道を遠慮なく飛ばす原付バイクの荷台に座り、私は千果にしがみついている。日没後の濃くなっていく藤色の中で、ミミズは空を流れる不吉な赤い夜光虫のようだ。

「ほんとにこっちでええの!?

 前を向いたままの千果が、風とエンジンに張り合って大声で叫ぶ。

「この先は何年か前に土砂崩れがあって、今は誰も住んどらんよ!」

はい きよ なの!?  じゃあそこでいいの、お願い!」そう叫び返し、私は草太さんに口を寄せる。

「ねえ、また地震が起きるの?」

「ミミズは空に広がりながら を吸い上げ、重みを増していく。それが地上に倒れた時に地震が起きるんだ。その前に扉を閉めれば、防げる。今度こそ──!」

 唐突に現れた大型の看板に、ヘッドライトが まぶ しく反射した。千果が急ブレーキをかける。看板には「土砂災害のため全面通行止め」と大きな文字が書かれ、地面にはいくつもカラーコーンが並んでいる。崩れた土砂で、その先の道路がせき止められている。バイクでは行けそうもない。あたりには、どこか ただ れたようなあの甘い匂いが濃く漂っている。

「ここまでで平気!」

 私はバイクから飛び降り、椅子を抱えたまま走り出した。

「千果、本当にありがとう!」

「え、ちょっとちょっと、鈴芽?」

 千果の叫び声が背中で遠ざかる。早く早くと、鼓動が かす。寸断された道路の奥、真っ暗な集落の向こうに、赤黒く発光するミミズが大きく見えている。足元はぬかるんでいる。ローファーで重い泥を り上げながら私は走る。

「──鈴芽さん、君もここまででいい!」

 突然に草太さんがそう言って、私の体を蹴って地面へと飛び降りた。リードから解放された犬のように、全速力で私から遠ざかっていく。

「え、草太さん、ちょっと!」

「これ以上は危険なんだ! あの子のところへ戻って!」

「草太さん!」

 三本脚の獣のように見えるシルエットは、すぐに薄闇の れき にまぎれて見えなくなってしまう。うそ、草太さん! もう一度そう叫んでも、返事は戻ってこない。

「──!」

 思い出したように急に息が上がり、私はその場に立ち止まってしまう。肺が空気を欲しがって、体が勝手に大きく息を吸い込む。すると甘い匂いまでがたっぷりと胸に入ってしまって、私は激しく き込む。必死に息を整えながら、匂いのことは忘れようとする。ないものと思おうとする。感じないようにする。時間をかけて、胸の中の濁った匂いをぜんぶ吐き出す。ようやく息を落ち着けて、私は浅い呼吸を心がけながら周囲を見回す。土砂に埋もれたままの屋根や電柱が、真っ黒な塊として無秩序に散らばっている。その奥には、空に向かって落ちていくような赤い大河がますます明るく見えている。足元の地面からは、その赤に向かってなにかが一斉に移動しているような不気味な地鳴りが、間断なく続いている。

 ──こんな場所に、私は一人でいる。なぜか一人きりで立ちつくしている。まただ 、と私は思う。誰かの何かの手違いで、覚めるはずの悪夢からまだ覚められないままでいるような、どうしようもない不安と恐怖が り上がってくる。置き去りにされた子供のような気持ちになっている。泥に埋もれて傾いた屋根の形や、不思議にまっすぐ立ったままの塀や、何も映さない真っ黒な窓ガラスに、私は取り囲まれている。 じり にたまっていた涙がふいに あふ れ、ミミズの赤色がそんな景色全部に にじ んで広がっていく。家に帰れ、と彼は言った。あの子のところへ戻れ、と草太さんはそう言った。

「……千果のところに戻ったって」

 私は声に出す。

「九州に戻ったって、家に帰ったって──」

 吐き気を催す甘い匂いは、やっぱり今も私を取り囲んでいる。それはもう私の内側に、どうしようもなく既にある。見ないふりができないくらいに、くっきりとした異物としてここ にある。 ろつ こつ の内側から、ふいに怒りに似た感情が湧きあがってくる。なんでまた。ここまできて。今さら。どうやって。

「どうしようもないじゃない!」

 全身から絞り出すように叫び、私は駆け出した。草太さんの消えた暗闇に向かって、闇雲に全力に走る。ローファーが泥を踏み、ガラスを踏み、何かのプラスチックを砕く。一歩走るごとに、恐怖と不安が薄れていく。そうだ、こっちだと私は思う。草太さんのいる方向に走れば、この不安はきっと消える。その逆に走ったら、きっと不安はますます募る。だからいま、私の走る方向は、こっちだ。

 暗い坂道を登り切ると、視界が開けた。折り重なった廃屋の先にぽっかりと校庭があり、ミミズが学校らしき建物から噴き出ている。そこに向かって道を下る。無人の家屋の間を駆け抜ける。行く手に校門が見えてくる。学校の右手が山になっていて、そこから崩れた土砂が校庭の右半分を埋めている。私は門を抜け、校庭に駆け込む。土砂に沿って のう がずらりと並び、それは百メートルほど先の校舎まで続いている。

「……学校が後ろ戸になってるの!?

 広い生徒用玄関口から、ミミズが激しい濁流となって噴き出ている。その光の左下に、小さなシルエットがある。両開きの大きなアルミ戸の片側を、小さな子供椅子が懸命に押している。

「草太さん!」

「──鈴芽さん!?

 私のすぐ頭上を、赤い濁流が流れている。ぬかるんだ地面に、その光がぬらぬらと映っている。

かぎ を……!」

 戸を押しながら彼が言う。草太さんの視線の先、私と玄関の中間あたりに、ミミズの光を受けて鈍く輝くものがある。草太さんが首から下げていたはずの、古い鍵だ。半ば泥に埋もれたそれを、私は走りながら右手ですくい取る。そのまま草太さんのところに駆け込む。足元がずるりと滑り、泥の中に横倒しに転んでしまう。でもすぐに体を起こし、草太さんに覆い かぶ さるようにして、私は左手でアルミ戸の端を押した。

「鈴芽さん──君は!」

 草太さんも椅子の座面で戸の端を押しながら、私を見上げて怒鳴る。

「死ぬのが怖くないのか!?

「怖くない!」

 草太さんが息を む。でも、私は死ぬことなんて怖くない。もうずっと前から本当に、そんなことは怖くないのだ。左手で押すアルミ戸は、まるでその先に言葉の通じない誰かがいてでたらめな気分で押し戻しているかのように、気味の悪い ごた えでガタガタと揺れている。私の右手は地面に着いていて、鍵を泥ごとぎゅっと握りしめている。

「鍵が──」必死に戸を押しながら草太さんが言う。「濁流に押されて吹き飛んでしまったんだ。俺の手では鍵には届かなくて──助かった、君が来てくれて──」

 彼は三本の脚で踏ん張るように、私は左腕に こん しん の力を込めて、すこしずつ戸を押していく。ミミズの噴出は徐々に狭まっていく。もうすこし、あとすこしだ。私は懸命に押しながら、ミミズを見上げる。

「ああっ!」

 ミミズが赤銅色の花となり、空に大きく開いている。校庭を見ると、地面から無数の金色の糸が生え、上空のミミズに向かって伸びていく。ミミズが を吸い上げているのだ。空の たい りん となったミミズは、地気の重さをその内側にたっぷりと蓄え、地面に向かってゆっくりと倒れ始める。

「鈴芽さん、君が鍵をかけろ!」

 私の胸の下で、草太さんが叫んだ。

「え!?

「もう時間がない。目を閉じ、ここで暮らしていた人々のことを想え!」

「ええ!?

「それで鍵穴が開く!」

「そんなこと言ったって──」

 草太さんを見る。彼はまっすぐに戸を にら んだまま、「頼む!」と切実な声で言う。

「俺には何も出来ないんだ──何も出来なかった、この体では……! 頼む、目を閉じて!」

 その言葉の必死さに、私は はじ かれるようにして目をつむった。でも、何をすれば? ここにいた人たちのことを想う? それってどうやって──。

「かつてここにあったはずの景色。ここにいたはずの人々。その感情。それを想って、声を聴くんだ──!」

 ここにあったはずの景色──私は思い描こうとする。山に囲まれた学校。陽に輝く広い校庭。玄関の両脇には、私の高校と同じように蛇口の並んだ水飲み場がある。今は泥に埋もれたこの場所で、きっとジャージ姿の生徒たちが水を飲んだりしていたはず。千果。からりとしたあの笑顔。蛇口の水は甘く冷たく、「ようけリセットしんさい」と友達と笑いあう。おはよう。登校時には にぎ やかだったはずだ。おはよう、おはよう、おはよう。声が聞こえてくる。テストのだるさ、教師の噂話、好きな子への告白のプラン。色が見えてくる。学年別の三色のジャージ。朝日を反射する白いセーラー服。 ひざ うえ まで詰めた紺色のスカート。第二ボタンまで開けたシャツの まぶ しさと、こっそりと染めた髪の色たち。

「──かけまくもかしこき の神よ」

 あの歌うような不思議な節回しで、草太さんが何かを唱えている。

とお 御祖 みおや うぶ すな よ。久しく拝領つかまつったこの やま かわ 、かしこみかしこみ、 つつし んで──」

「……!」

 私の右手の中で、鍵が温度を帯びている。青く光っている。青い束のような光が鍵から立ち昇り、アルミ戸に集まっていく。戸の端を押す私の左手のすぐ横に、光の鍵穴のようなものが出来上がっていく。

「──今だ!」

 草太さんが叫ぶ。その声に押されるようにして、私は鍵を光に突き刺す。

「お返し申す──!」

 草太さんのその叫びと同時に、私は反射的に挿し込んだ鍵を回す。ガチャリと何かが締まった手応えがあり、アルミ戸にはめられたガラスが一斉に割れて私たちの背中に降りそそぐ。──と、膨らみきった泡が割れるような音と共に、頭上のミミズが弾け散った。重い雨雲が一斉に吹き飛ばされたかのように、気圧が一気に軽くなる。

 その数瞬後、きらきらと複雑な光を反射する雨が、シャワーで一吹きしたように私たちのいる はい きよ をざーっと洗ったのだった。


「はあ、はあ、はあ……」

 泥の上に座り込んだまま、私は息を整えながら空を見上げた。いつのまにか、いくつもの星が輝いている。気づけば夜の虫が合唱している。あたりには夏草の みず みず しい匂いが満ちている。学校の玄関は、無言のままに朽ちていく静かな廃墟へと戻っていた。

 はは、と草太さんが隣で息を吐いた。

「え?」

「はは……はははは!」

  可笑 おか しそうに楽しそうに、草太さんが大声で笑う。カタンと体を動かし、私を見る。

「やったな、鈴芽さん。君は地震を防いだんだ!」

「え……」

 地震を防いだ。私が?

「ほんとに……?」

 熱い波のような感情がお腹から湧き上がってきて、私の口元を笑顔にしていく。

「……噓みたい! やった、出来たっ、やったあっ!」

 草太さんも笑っている。彼は体中泥だらけになっている。私の服も、きっと顔も、泥だらけだ。それが何かの あか しみたいで、こんなことまでも誇らしくて うれ しくて楽しい。

「ねえ、私たちって すご くない?」

 草太さんにうんと顔を近づけて、私ははしゃいで言う。背板のくぼんだ二つの穴に、その目に、私は草太さんの表情を見る。優しい笑顔がここにあると、はっきりとそう思う。

「すずめ すごーい」

「え」

 幼い子供の声が、横からした。反射的に目をやる。すこし離れた暗闇の校庭に、ぼんやりと白く小さなシルエットがある。黄色い丸い目がこっちを見ている。長い 尻尾 しつぽ をゆったりと振りながら、白猫が口を開く。

「うしろどは またひらくよ」

「── かなめ いし !」

 草太さんがとっさに駆け出す──が、ダイジンの姿はもう闇に消えている。

「……あいつが扉を開けたの?」

 震える息で、思わず私は つぶや いた。草太さんはしばらくの間、猫の消えた先の暗闇をじっと睨んでいた。


あなたのせいで魔法使いに


『──愛媛におると?』

 電話口で、環さんの絶句したような声が言った。

『ちょっと──ちょっとちょっと、鈴芽、あんた!』

 信じられない、という口調の環さん。その声の後ろには、かすかに電話の音や低い話し声が混じっている。もう夜の九時に近いけれど、環さんはまだ漁協のオフィスにいるのだ。

『あんた昨日、 あや ちゃんちに泊まるって言ちょったよね?』

「ええとね、ちょっと思い立ちましてミニ旅行に……」

 私は努めて明るい声を出し、えへへ、と笑ってみる。それぜんぜん笑えないんやけど、と冷めた声で環さんが言う。──私には見える。以前に社会科見学で訪れたことのある、漁業協同組合の昭和感 あふ れる古いビル。その灰色のデスクに座って、スマホを片手に まゆ にしわを寄せ、頭を抱えている環さんの姿が。

『あんた、 明日 あした こそちゃんと帰ってくるっちゃろうね? 今夜はどこに泊まると?』

「あ、心配しないで! ちゃんと自分の貯金で泊まれるから!」

『そんげな話しとらん!』

  みのる ー、飲み会やぞおと、電話の奥で小さく声がする。先行っとってください、俺、環さんに声かけていきますんで。稔さんの声だ。私には見える。漁協の男たちが電話口で怒る環さんを眺めつつ、「鈴芽ちゃんも反抗期かね」とかなんとか無責任に面白がっている姿が。

『とにかく、今夜泊まる場所を教えなさい。ホテル? それとも旅館? だいたいあんた、本当に一人やっちゃろうね? まさか、誰か私の知らん人と一緒におるっちゃないやろう──』

 ピッ。私は反射的に通話を切ってしまう。──ああ、私には見える。デスクに飾った小さな頃の私の写真を眺め、大きな ため いき をつく環さんの姿が。私も盛大に溜息をつく。いやしかし、このままあの人を放置しておいたら最悪警察に連絡しかねない。なぜ昨日のうちに、もうちょっとちゃんとした言い訳をしておかなかったのか。今日の私に面倒を押しつけたのはどこの誰だ。昨日の私だ。やれやれ、保護者のメンタルケアも子供の役目だわと自身に言い聞かせつつ、私はLINEにメッセージを打った。

 電話切っちゃってごめんなさい! 送信。

 私は元気です! 送信。

 すぐにちゃんと帰りますから! 送信。

 心配しなくても大丈夫です! 送信。

 猫がペコリと頭を下げている可愛い謝罪スタンプ。送信。

 すると間髪を れず、パパパッと既読が五つ付く。その早さが重い。はあ、とまたげんなりと溜息が出た。

 コンコン! と前触れなく、すぐ横のドアがノックされた。

「はい!」私は反射的に背筋を伸ばして、ガチャリと薄い木のドアを開ける。と、

「ご夕食お持ちいたしましたぁっ!」

 と言いながら、仲居さん姿の千果が、にっこりとお ぜん を差し出した。


 子供椅子を抱え泥だらけで集落の出口に現れた私に、千果は多くを かずにいてくれた。今夜泊まる場所はあるのかと問われ、探していると正直に答えると、あんたラッキーやねえと千果は笑った。

「うち、民宿なんよ。今夜はうちに泊まる運命じゃったんやねえ、鈴芽は」

 ジャージが汚れてしまうのも いと わずに、もっとちゃんと つか まりんさいと言ってバイクを走らせる千果の首筋を眺めながら、あんなに暗い場所で一人で待ち続けてくれていた彼女の不安に思い至り、ごめんね、と繰り返し言うことしか私は出来なかった。そして千果は、今夜こそお をという私の宿願も かな えてくれたのだった。民宿の広い浴場で体中の泥とか汗とかを洗い流し、たっぷりのお湯に体を沈めると、案の定あちこちがめちゃくちゃに みた。それが日焼けによるものなのか擦り傷のせいなのか、もはや区別がつかなかった。浴室の端っこで制服を洗わせてもらい、パリッとした薄桃色の 浴衣 ゆかた まで貸してもらって、民宿の部屋まで用意してもらってしまった。そのうえ、お膳の夕食まで千果は運んでくれたのだ。

「うわぁ──ありがとう!」

 まぶたの奥が熱くなる。同時に痛いくらいの空腹に、私は気づく。

「ねえ鈴芽、うちもこの部屋で一緒に食べてもええ?」

「え、わっ、もちろん!」嬉しい! あ、でも。「でもごめん、ええと、あの、一瞬、ちょっとだけ待ってて!」

 私はドアを閉め、小さな洗面台の置かれた前室を一またぎし、ガラガラと居間の引き戸を開けた。畳の上にちょこんと立っていた草太さんが、私を見上げる。

「どうしよう?」

「二人で食べて」優しい笑みを含ませた声で、草太さんが言う。「腹が減らないみたいなんだ、この体」

 そう言いながら八畳ほどの部屋の隅までカタカタと歩き、草太さんは壁を向く。

「大丈夫だよ、遠慮しないで」

 笑って言うその声に安心して、私は千果を部屋に招いた。


 お皿からはみでそうなくらいの大きなお魚は、 うお の塩焼きだそうだ。お はし を入れると皮がパリンと裂ける香ばしい音がして、ふっくらとした白身が湯気を立てた。大きくつまんでお ちや わん の上に乗せ、お米と一緒に口に入れる。

「おいっしいぃ……!

 口が勝手に言う。それは本当に、心底おいしい。さっぱりと甘い脂が口いっぱいに広がり、私のすみずみが歓喜していくのが分かる。何を考える間もなく、熱い塊がまた目頭に込み上げる。

「ええっ、鈴芽あんたちょっと、泣いとらん……!?

「だって、おいしすぎて……」

 あははっと面白そうに千果は笑う。私たちは二つのお膳をくっつけて、向かい合って食事をしている。そんなにお腹がすいとったんじゃねえ──感心したように彼女は言う。

「今日はなんか急にお客さんが増えてしもて、ご飯持ってくるのが遅なって、ごめんな?」

「ええっ!?  いや、もう、とんでもないっす!」千果のあまりの神対応に、思わず敬語が出てしまう。「こっちこそごめんね、泊めてもらっちゃった上に、お風呂に浴衣にご飯まで……!」

「もうええって。これが我が家の通常営業じゃ」

 この民宿は家族経営で、お手伝いさんの出入りもあるけれど、基本はご両親と千果と小学生の弟さんの四人だけでまかなっているという。だから今日みたいにお客の多い日は、千果も仲居姿で接客なのだ。午後十時前のこの時間はお客の夕食も一段落して、ようやく一息つけるタイミングなのだという。

 お刺身はハマチ。サイドディッシュは里芋のいもたき。具だくさんの白いおみそ汁をすすると上品な甘さがあって、知っている味とずいぶん違う。この味初めてと感動して伝えると、ああ、こっちは麦 じゃからね、と千果。ああ私は違う土地に来たんだと、今になってしみじみと実感する。

 ぴろりん。脇に置いたスマホが鳴った。

「うわ」

 手に取って通知の差出人を見て、思わず声が出てしまう。

「誰?」

さん。ちょっとごめんね」

 断って、私はメッセージを開く。げ。環さんからの長文が画面を埋め尽くしている。鈴芽、口うるさいと思われたくはないけれどいろいろ考えた末やっぱり鈴芽には分かってもらいたいと思いこれを書いています/最後まで読んでもらえると うれ しいです/まず鈴芽に理解してほしいのはあなたはまだ子供、未成年だということです/鈴芽はちゃんとしっかりした子だとは思うけれど一般的にも経済的にも身体的にも十七歳というのはやはりまだ子供です/あなたは未成年であり、色々な考え方はあると思うけれど私はあなたの保護者であり──ぴろりん。

「うわ!」

 追伸、私は怒っているわけではありません/ただ混乱して心配しているんです/なぜあなたはそんなそぶりもないままに急に旅行に行こうなんて考えたのですか/なぜ愛媛なのでしょうか/そんな話一度だってしたことはないし私の知っているあなたは必ずしも──。

「はあぁぁ」

 私はスマホを裏返しにし、封印するみたいにして畳に置いた。明日読もう。

「もおー、早く恋人とか作ってくれないかな、この人」と思わずこぼす。

「え、叔母さんって独身? いくつなん?」

「四十歳くらいかな──」先々月にお誕生日会をやったっけ、と思い出しつつ私は言う。私がハッピーバースディを歌うと、毎年必ず泣くんだよなー環さん。

れい な人なんだけどね、うん、すごく」

 あの涙もろさと、長く美しい環さんの まつ を私は思い出す。お箸で里芋をつまみ、お茶碗に置く。

「うち、二人暮らしでさ。叔母さんが私の保護者で」ご飯と一緒に里芋を口に入れる。

「え、なんか複雑なん?」

「ううん!」ごくん、と味のしみた里芋を飲み込む。「でももしかしたら、私が叔母さんの大事な時間を奪っちゃってるんじゃないかって、最近ちょっと思うんだよね」

「ええー?」千果がくすくすと笑う。「そりゃ元カレが言うセリフじゃろ!」

「えっ、ほんとだっ!」そうだ、言われてみれば本当にそうだ。気持ちが、なんだかふわっと軽くなる。私も笑って言う。

「いいかげん子離れしてほしいよ!」

「ほんまそれな!」

 あ、しまった、草太さんにぜんぶ聞かれてた──私が今さらにそう気づいて汗ばんでしまったのは、デザートのみかんゼリーを食べ終えたときだった。


 夕食後は千果と一緒に台所に行き、泊めていただくお礼をご家族に伝えた(これが我が家の通常営業じゃけんと、千果とよく似たご両親は笑った)。私は千果の仕事を手伝って大量のお皿を洗い、浴場をデッキブラシでごしごしとこすった。作業中に「鈴芽は男の子と付き うたことある?」と千果に かれ、一度もないと素直に答えると、それがええそれがええ、男子なんかろくなもんじゃないけんのぉと千果は嬉しそうに愚痴を言った。千果には付き合い始めたばかりの彼氏がいて、自分はLINEの返信もろくにしないくせに焼きもちばかり焼いてくるのだとか、何かと言えば二人きりになれる場所に行きたいと主張し実際このあたりは人目のない場所ばかりだから困っちゃうのだとか、そんな悩みを千果は楽しそうに話すのだった。仕事を終えるとお母さんが入れてくれたアイスハーブティーを皆で飲み、私たちはそこでもたくさん笑って、部屋に並べて敷いた布団に入った頃には深夜の二時に近かった。

「──今日は鈴芽のおかげで、久しぶりに行ったわ、あの場所」

 息が多めに含まれた声で、ふと思い出したように千果が言った。

「え?」

「うちの通ってた中学校、あの場所にあったの」

 あの はい きよ の学校のことだ。鼓動がとくんと勝手に跳ねた。静かな声で千果が続ける。

「何年か前の土砂崩れで、集落ごと棄てられてしもたけど」

「……」

「なあ、鈴芽」優しい声。でも、思い切ったような決心を含んだ声。

「あないに泥だらけになって、あそこで何しとったの? あんたが持っとるあの椅子は、なあに?──なあ」

 天井を見ていた千果が、私を見る。

「あんたって、なにもん?」

「あ……」

 部屋の電気は消えている。枕元に置かれた 行燈 あんどん の和紙を透かした弱い光が、千果の大きな ひとみ に黄色く映っている。私の後ろの壁には、草太さんが子供椅子としてじっと立っている。その存在を背中で感じながら、私は言葉を探す。

「あの椅子は──お母さんの形見なんだ。でも今は……」

 何を言えばいいのだろう。何が言えるのだろう。噓はつきたくない。でも。

「……ごめん、 上手 うま く言えない」

 たっぷり考えて、それでも言葉は出てこないのだった。黙って私を見ていた千果の表情が、ふいにゆるむ。ふうっと息を吐く。

「……鈴芽は魔法使いじゃけんのう、秘密ばっかじゃ」

 冗談めかしてそう言って、千果はまた あお けに寝転ぶ。目をつむり、優しい口元で言う。

「でもなぜじゃろか──あんたはなんか、大事なことをしとるような気がするよ」

「……!」

 私はふいに泣きそうになる。じっとしていられなくて、布団から体を起こす。

「ありがとう、千果。うん、そうだ、きっと大事なことをしてる。私もそう思うよ!」

 後ろの壁にいる草太さんに、私はそう伝える。あなたは大事なことをしてる。誰にも知られぬまま、誰にも見えないものと戦っている。あの廃墟でドアを閉めようと孤独に戦っていたあの姿を、私は思い出す。たった一日前のことなのに、もうずっと昔のことのよう。あれから私は海を渡り、あなたのせいで魔法使いに間違えられて、でもあなたのおかげで、私にもとても大事なことが出来たのだ。

 なあに、自画自賛しとる! と千果が 可笑 おか しそうに笑い、私たちは今日出会ってからずっとそうしてきたように、また一緒になって笑った。