一日目
夢で、いつも行く場所
私には、繰り返し見る夢がある。
見ている最中は、夢だとはたぶん気づいていない。そこでは私はまだ子供で、しかも迷子になっている。だから基本、悲しくて不安。でもお気に入りのシーツにくるまっているような、定番めいた安心感もその夢には漂っている。悲しいのに心地が
頭の上では、星がぎらぎらと光っている。誰かのミスで光量つまみを十倍に引き上げられてしまったみたいに、その星空はばかみたいに
家を見つけると、私は窓から中を
「おかあさん!」
そうやっていくつの家を覗き、どれほどの草を踏み、何度母を呼んだことだろう。誰も答えず、誰にも会わず、一匹の動物も見なかった。おかあさんと叫ぶ私の声は、雑草に、崩れた家々に、積み重なった車に、屋根に載った漁船に、吸い込まれたまま戻ってこなかった。いくら歩いても、あるのはただ
「おかあさん! ねえ、おかあさん、どこーっ!」
ぐしゃぐしゃに泣きながら、私は歩く。吐く息が白い。湿った息はすぐに冷たくなって、私の耳の先をもっと冷やす。泥が詰まって黒く汚れた指先も、マジックテープの靴を履いた丸い足先も痛いほど冷たいのに、喉と心臓と目の奥だけが、そこだけの特別な病気のように不快に熱い。
気づけば太陽は雲の下に沈み、あたりは透明なレモン色に包まれている。頭上では相変わらず、星々が乱暴に光っている。私は歩くことにも泣くことにも疲れ果て、草の中にうずくまっている。ダウンジャケットの丸めた背中から、風がちょっとずつ体温を盗み、代わりに無力感を吹き込んでくる。小さな体が、泥に置き換わるように重くなっていく。
──でも、これからだ。
離れたところから自分を観察しているような気分で、私はふと思う。
ここからが、この夢のハイライトだ。私の体は凍え、不安と寂しさの果てに心も
さく、さく、さく、と、遠くから小さな音がする。
誰かが草原を歩いてくる。ちくちくと
「すずめ」
名を呼ばれる。そのとたん、耳から、指先から、鼻の頭から、その声の波が触れた先端からたちどころに、温かなお湯に浸ったような心地好さが全身に広がっていく。さっきまで風に混じっていた雪片は、いつのまにかピンク色の花びらとなってあたりに舞っている。
そうだ。この人は。この人が。
ずっとずっと探していた──。
「おかあさん」
と
そういう景色のように、美しい人
あれは夢の、いつも行く場所。
今は朝で、自分の部屋。
布団の上で、私は秒で理解する。ちりんちりんと、窓辺の風鈴が小さく鳴っている。海の匂いのする風が、レースのカーテンをゆっくりと揺らしている。あ、湿ってる、と、枕につけた頰で思う。寂しさと喜びの混じった
「
階下から、ちょっと
* * *
『九州全域は広く高気圧に覆われ、今日は
テレビ宮崎のお天気お姉さんが、魔法少女のステッキみたいなカラフルな棒で九州をぐるりと囲みながら、にこやかに
「いただきまーす」
私は手を合わせてから、厚切りの食パンにどさっとバターを乗せる。私、ちょっと好きだな、この人。バターをざりざりと伸ばしつつ、お天気お姉さんを眺める。雪国めいた肌の白さが、なんとなく北国の出身かなと思わせる。バリッ。パンをかじると、香ばしい音が立つ。
「あんた、今日はお弁当忘れんでね」
台所から、ちょっと責めるような口調で──私が勝手にそう感じるだけかもしれないけど──、
「それから鈴芽、私、今夜ちょっと遅くなるわ。晩ごはん適当に済ませてくれん?」
「えっ! 環さんデート!? 」
ごくんっ、頰張った目玉焼きを私は慌てて飲み込む。
「いいよいいよー、ごゆっくり! なんなら十二時過ぎちゃっても大丈夫だから! たまには楽しんでおいでよ!」
「デートじゃなくて、残業!」と、私の期待に
「漁業体験の準備。そろそろ迫っちょるかい、いろいろ処理せんといかんとよ。はい、お弁当」
Lサイズのランチボックスを、私は手渡される。それは今日もずっしりと重い。
空はお姉さんの宣言通りの快晴で、何羽かのトンビがずっと高い場所を得意げに舞っている。私は海沿いの坂道を自転車で下っている。制服のスカートが、深呼吸をしているみたいにばたばたと膨らむ。空も海も噓みたいに青く、土手の緑はどこまでも
私は小さく息を吐く。ふいに
「!」
誰かが、歩いて坂を登ってくる。町外れのこのあたりを歩いている人なんて極めて珍しいから、私はちょっと驚く。大人たちは百パーセント車移動だし、子供たちは大人の車に乗せてもらうし、私たち中高生は自転車か原付バイクだし。
──男の人だ、たぶん。すらりと背が高く、長い髪と白いロングシャツが風になびいている。私はかすかにブレーキを握り、自転車のスピードをすこし緩める。しだいに近づいてくる。見知らぬ青年──旅行者かな。山登りみたいなリュックを背負っている。日焼けしたジーンズに、大きな歩幅。すこしウェーブした長い髪が、海を眺める横顔を隠している。私はまたすこしだけ、ブレーキを握る手に力を込める。すると、ふいに海風が強くなる。青年の髪が風に躍り、その目元に光が当たる。私は息を
「きれい……」
口が勝手に呟いていた。青年の肌は夏から切り離されたように白く、顔の輪郭は鋭くて優雅。長い
「ねえ、君」
柔らかくて低い声。私は立ち止まり、振り返る。その間の一秒の風景が、やけに
「このあたりに、
「はいきょ?」
予想外の問いに、漢字が追いつかない。ハイキョ?
「扉を探してるんだ」
とびら? 廃墟にある扉ってこと? 自信のない声が出る。
「……人の住まなくなった集落だったら、あっちの山にありますけどぉ……」
青年はにっこりと微笑む。なんて言うか、周囲の空気ごと優しく染めるような、とても
「ありがとう」
青年はくるりと背を向けて、私が指差した山に向かってすたすたと歩いて行く。さっぱりと、すこしも振り返ることなく。
「……は?」
間の抜けた声が、思わず口から出てしまう。ぴーひょろろーと、トンビが高く鳴いている。え、だって、なんかあっけなくない?
* * *
頭のすぐ上で、カンカンカンと警報が鳴っている。踏切を待っている私の鼓動は、まだすこしだけ速い。あの人、なんだったんだろう──交互に点滅する赤を眺めながら、私は考えている。芸能人とかモデルとかって、実際に会うとあんな感じなんだろうか。ちょっと非日常的に美しくて、目撃後もしばらく興奮が残るような。……いや、違う。たぶんぜんぜん違う。あの人は、たとえば──。
街灯に照らされた雪景色とか。てっぺんだけ朝日を浴びている山頂とか。手の届かない高さで風にほどかれていく、まっ白な雲とか。イケメンっていうよりは、そういう景色みたいに綺麗な人だった。そして私は、その景色をずっと昔に見たことがあるような気がするのだ。そうだ、夢で行く草原の、あの奇妙な懐かしさのような──。
「すーずめ!」
とん、と後ろから肩を
「おはよ!」
「あ、
走ってきたのか、ボブの黒髪と息を弾ませた絢が隣に立つ。二両編成の短い列車が目の前を通過し、遮断機のバーとスカートを風で揺らす。他にも登校中の生徒たちの雑談が周囲に満ちていることに、今さらに気づく。昨日の配信観たー? とか、寝不足でやべっちゃわとか、皆楽しげに話している。
「あれ? 鈴芽あんた、なんかちょっと顔赤くね?」
「えっ、うそ! 赤い!? 」
思わず両手で自分の頰を挟む。え、熱い。
「
眼鏡ごしの不審そうな
「……どんげしたと?」
ひとり立ち止まったままの私を振り返り、今度はちょっと心配そうに絢が言う。──景色みたいな人。あのデジャヴ。私は自転車の前輪を持ち上げる。
「ごめん、忘れ物思い出した!」
方向転換して自転車にまたがり、来た方向に漕ぎ出す。え、ちょっとちょっと鈴芽、遅刻するが! 背中の声が遠ざかっていく。朝日の圧力で背中を汗ばませながら、私は立ち漕ぎで山に向かう。すれ違う軽トラのおじさんに、高校とは反対方向に急ぐ制服姿をじろじろと凝視される。私は県道のアスファルトを
……あれ、一限目の授業にはもう間に合わないじゃん。山を登り切り、眼下に古い温泉郷が見えたところで、私は息を吐きながらようやくそう思った。
うっすらと、
「あのー、すみませんー!」
それなのに、人の姿だけがない。いつしかお湯が
「いますかー、イケメンの人ぉーっ! 」
だって、他に呼びようがない。私は小さな石橋を渡り、かつてこのリゾートの中心施設だったらしい廃ホテルへと向かう。円形のコンクリート建築で、周囲の廃屋に比べてひときわ大きく目立っている。
「おじゃましまーす……」
広々としたホテルのロビーに、私は足を踏み入れる。
「こんにちはー! ねえ、いますかーっ?」
あたりを見回しながら、薄暗い廊下を歩く。暑い日のはずなのに、実はさっきから背中にぞくぞくと悪寒がある。廃墟なめてたかも。私はなおさらに大声を張り上げる。
「あの、わたしーっ! あなたとーっ、どこかで会ったことがあるような気がーっ!」
口に出してみて、なんだかな、とふと思った。だって、これじゃナンパの
……帰ろっかな。なんだか急にばからしくなる。今さらに恥ずかしくなる。あの青年に会えたとして、私はどうするつもりだったのだろう。もし逆の立場だったら、もし道を尋ねただけの相手がどこまでも私の跡を追いかけてきたとしたら、それはちょっと、だいぶ怖い。ていうかこの場所がそろそろ本気で怖い。
「かーえろ!」
ことさらに明るく大きな声で、私はくるりと方向転換する。──と、目の端にちらりと映ったものが、私の足を止めた。
「……扉?」
廊下から出ると、そこはホテルの中庭だった。すっかり天井の落ちたすかすかの鉄骨ドームの下に、百メートル走が出来そうなくらいの広さの円形の空間があり、地面には透明な水が薄く
「あの人、扉って言ってたよね……」
なんだか言い訳のように私は口に出し、ドアに向かう。中庭へと降りる低い石段の途中で、足が止まる。雨水なのか、それともどこかからまだ水が来ているのか、タイル敷きの床に溜まった水には十五センチほどの深さがある。ローファーを
目が、なぜか離せない。すぐ目の前に、白い扉が立っている。古い木のドアだ。蔦が絡まり、所々ペンキがはげて茶色い木目が露出している。そのドアがほんのすこしだけ開いていることに、私は気づく。一センチほどのその隙間が、奇妙に暗い。どうして。こんなに青空なのに、どうして隙間がこんなに暗いのだろう。私は気になって仕方がない。耳のひだに、風の音がかすかに吹き込んでくる。
「──っ! 」
声にならない息が漏れた。
ドアの中には、夜があった。
満天の星が、噓みたいな
「えっ!? 」
そこは真昼の中庭だ。星空の草原じゃない。
「ええっ!? 」
慌てて周囲を見渡す。変わらぬホテルの
「なんで……」
考えようとしたのに、体が駆け出していた。ドアが迫る。星空が迫る。ドアをくぐる──と、そこは廃墟である。慌てて振り返る。ドアの中の星空に、もう一度駆け込む。それでもやっぱり、そこは廃墟。草原には入れない。入れてもらえない。後ずさる。と、靴が硬い何かにあたり、コオォォォン……と澄んだ鐘のような音が響いた。驚いて足元を見る。……お地蔵さま? 小さな石像が、水面から頭を出している。
「冷たい……」
凍っているのだ。薄い氷の膜が私の体温に追い立てられるように溶けていき、
ドクン!
突然、石像に体温を感じた。見ると、両手は毛に覆われた柔らかな生き物を
「きゃあっ!」
両手から全身に鳥肌が走り、私はとっさにそれ
を放り投げた。ぼちゃん! と離れた場所に水柱が上がる。と、それはバシャバシャバシャ! と激しく
「えええええ!? 」
え、だってだって、石像だったよあれ!
「うわあああ……怖っ!」
私は
私たちにしか見えないもの
昼休みに入ったことを告げるチャイムが、きんこんかんと鳴っている。おう
「……やっと来た」
窓際の席でお弁当をつつきながら
「重役出勤やねえ、鈴芽ぇ」
その隣で、半笑いのマミが卵焼きを口に入れる。
「あー……まあ、うん」
私は笑顔を作りながら、二人と向かい合わせに腰を下ろす。お昼時のざわめきと窓からのウミネコの鳴き声が、思い出したように耳に届き始める。私はなかば自動的にリュックからお弁当箱を取り出し、
「きゃー、出たわー、おばさん弁当!」
二人が面白そうに声を上げる。おにぎりが、
「あのさあ……
と、私は二人に
「え、そうなん? 絢、知っちょる?」
「ああ、あるみたいやね、バブルの頃のリゾート施設。あっちの山ん中」
絢の指差す先を、私たちは揃って見上げる。風に揺れる
「それがどうかしたと?」
「ドアが……」と口にした瞬間、あれほど笑い飛ばしたいと願っていた感情がすっかりしぼんでいることに私は気づく。あれは夢じゃない。でも、友達とシェアできるようなこともでもない。あれはもっと個人的な──。
「やっぱいいや」
「なによ! 最後まで言いないよ!」
二人の声がぴったりと揃う。それが
「ねえ、あそこ、火事かな?」
「え、どこ?」
「ほら、あの山のとこ」
「え、どこお?」
「ほら! 煙が上がってる!」
「ええ、だからどこねぇ?」
「……え?」
伸ばした指先から、力が抜ける。「あんた分かる?」「分からん。どっかで野焼きしとるとか?」
「わっ!」
突然、スカートのポケットの中でスマホが音を立てた。同じ音が周囲からも一斉に湧き立つ。大音量で繰り返される恐ろしげな不協和音、地震警報のブザー音だ。教室中に小さな悲鳴が上がる。
「え、地震やって!」「ええっ、まじ、揺れとる!? 」
私も慌ててスマホを見る。緊急地震速報の警告画面に『頭を守るなど揺れに備えてください』の文字。周囲を見回す。天井から
「わ、ちょっと揺れとる!」「揺れとる揺れとる」「これヤバイやつ?」
皆が揺れの大きさを見定めようと、動きを止め息を
「……止まった?」
「止まった止まった。なんだ、たいしたことなかったな」
「ちょっとびびったわあ」
「最近ちょっと多いね、地震」「もう慣れたわ」「防災意識が
ほっとしたざわめきと
「ん?」
絢たちが私を見る。きっとまた同じなのだと頭のどこかで理解しながらも、私は二人に言わずにはいられない。「あそこ、見て──」
山肌から、巨大な尾のような物が生えている。さっきまで煙に見えていたそれは、今では更に太く高く、半透明な大蛇のようにも、束ねて
「なあ鈴芽、さっきからなんの話?」
上半身を窓から乗りだして山を見ていたマミが、
「あんた、今日大丈夫? ちょっと体調悪いと?」
「……見えないの?」
確認するように私は
「ちょっと、鈴芽!」
返事をする余裕もなく教室を飛び出し、私は走った。階段を転がるように降り、校舎を駆け出て自転車に
「なんで誰も──! なんなのよあれっ!」
確かめなくては。だってあれは。もしかしてあれは。
「まさか──」
私は口に出しながら、
「まさか、まさか、まさか──」
あたりに奇妙な匂いが漂っていることにふと気づく。妙に甘くて、焦げ臭くて、潮の匂いが混じっていて、ずっと昔に
「ああっ!」
やっぱり──と、理由の分からないままに私は思う。あのドアだ。私の開けたあの扉から、それ が出ている。まるで小さすぎる出口に不満を爆発させているかのように、赤黒い濁流が激しく身をくねらせながら扉から噴き出ている。
廊下を駆け抜け、私はようやく中庭に
「ええっ!? 」
目を
「あの人!」
今朝すれ違ったあの青年が、必死の表情で扉を閉めている。そのたくましい両腕が、徐々に扉を押し戻していく。噴出が細くなっていく。濁流が
「何してる!? 」
「え!? 」
私の姿に気づいた彼が、怒鳴った。
「ここから離れろ!」
その瞬間、濁流が爆発するように勢いを増した。ドアが
「ええっ!」
私は慌てて石段を飛び降りて、浅く水の
「大丈夫ですか!? 」
かがみ込んで顔を寄せる。うう──と青年が息を漏らし、自力で上半身を起こそうとする。肩に手を回して助けようとしたところで、私は気づく。
「……!」
水面が光っている──と思った直後、金色に光る糸のようなものが音もなく水面から浮き上がり、まるで見えない指につままれたように、すーっと空に伸びていく。
「これは──」
青年が呟く。中庭の水面のあちこちから、金色の糸が空に昇っていく。その先を見上げると、扉から噴き出した濁流が枝分かれしてぐるりと空を覆っている。まるで扉から一本の茎が伸び、その先端で巨大な赤銅色の花が一輪咲いたかのようだ。金色の糸は、その花に逆さに降りそそぐシャワーのように見える。そしてゆっくりと、その花が倒れ始める。
「まずい……!」
絶望から絞り出されたような青年の声を聞きながら、私は想像する。想像することが出来てしまう。午後の
スカートの中のスマホがけたたましく鳴り出したのと、足元が激しく揺れ出したのはほぼ同時だった。口からは、悲鳴が飛び出ていた。
『地震です。地震です。地震です──』
地震警報の無機質な合成音声と、激しい揺れと廃墟の
「危ない!」
青年の体が私を押し倒す。私の顔半分が水に浸かる。直後にガキン! という重い衝撃音がして、眼前の水面に赤色が散った。血!?
押し殺した青年のうめき声が、頭上で一瞬漏れる。青年は即座に身を起こす。一瞬だけ私を見て、「ここから離れろ!」と叫び、扉に向かって駆け出す。見ると、ドームの鉄骨があちこちで崩れ、落下し、
うおおぉ──と聞こえる
怪我をしたんだ、私を鉄骨からかばって──。
ようやく私は気づく。『地震です』と警報は叫び続けている。地面は激しく揺れ続けている。さっきから私の右手は制服のリボンをぎゅっと握っていて、もう指先に感覚がない。青年の左腕はもはやだらりと体の横に垂れ、それでも彼は背中で必死に扉を押している。この人は──ふいに泣きそうな気持ちになって、私は思う。訳もわからずにそう思う。この人は、誰にも知られず、誰にも見られぬままに、誰かがやらなければならない大切なことを──。私の頭の中で、何かが動き始めている。彼の姿が、私の中の何かを変えていく。地震は続いている。こわばった右手を、私は開こうとする。握りしめているものを、私は離そうとする。
水を蹴って、走り出した。
彼の背中が近づく。私は走りながら両手を前に突き出し、そのまま全力で扉にぶつかった。
「君は──!」青年が驚いた目で私を見る。「なぜ!? 」
「閉じなきゃいけないんでしょ、ここ!」
そう叫んで、私は彼と並んで扉を押す。たまらなく不吉な感触が、薄い板越しに伝わってくる。その不快さを押し
──歌? 私はふと気づく。青年が扉を押しながら、小さく何かを
「え……なに!? 」
聞こえてきたのは人の声──はしゃいだような子供の笑い声と、何人もの大人たちのざわめきだ。パパ早く、こっちこっち! 久しぶりだなあ、温泉なんて──楽しそうな家族の会話が、まるで直接頭に差し込まれるように、私の内側に響く。
『俺、お
『お母さん、もう一回お
『あらあら、お父さんったらまだ飲むの?』
『来年もまた来ようね、家族旅行』
その遠い声は、
バタン! 大きな音を立て、
「閉じた!」
思わず私は叫ぶ。青年は間髪を
「お返し申す──っ! 」
そう叫びながら青年が鍵を回す。と、巨大な泡が割れるような音を立て、濁流が弾け散った。一瞬で夜が明けたような感覚に
気づけば、遠い声たちは消えていた。
空は抜けるような青に戻り、地震は止まっていた。
扉はさっきまでの出来事が噓のように、無言のままに立っていた。
これが、私の初めての戸締まりだった。
* * *
私はあまりにも強く扉を押していたから、そこから手を離すのに引き
「あ、あの……今のって」
「──
「え?」
青年はようやく扉から視線を外し、私をまっすぐに見た。
「……君はなぜこの場所に来た? なぜミミズが見えた? 要石はどこにいった?」
「え、ええと……」
強い口調だった。しどろもどろに、私は口を動かす。
「ミミズ? ええと、カナメイシって、石? え、ええ?」
「なんのことよ!? 」
ふいに腹が立ち、
「……この場所は
またしても謎単語をぼそりと言い、出口に向かって歩き出す。
「手伝ってくれたことには礼を言う。だがここで見たことは忘れて、家に帰れ」
「あ……」それは私をかばって出来た傷なのだ。「待って!」と、私は叫んでいた。
* * *
昼間のこの時間なら、環さんは絶対に家にいない。その確信があるから、家の鍵を開けた。
「二階に行ってて下さい。救急箱取ってきますから」
玄関のたたきに立ったままの彼にそう言って、私はリビングに向かう。
「いや、気持ちは有り難いけど、俺はもう──」
「そんなに病院が嫌ならせめて応急処置!」
さっきから
町の上空には、珍しく報道のヘリコプターが飛んでいた。そのくらい大きな地震だったのだ。
私の家のリビングにも、物が散乱していた。本棚にあった本が床一面に散らばり、壁の銅版画が落ち、観葉植物のトネリコは鉢ごと倒れてフローリングに土がこぼれていた。壁の一面に
私の部屋もさぞ散らかっているだろうなと覚悟して二階に上がったら、こちらは逆に妙にこざっぱりとしていて驚いた。私が救急箱を探している間に青年が片付けてくれたらしく、当の彼は片付いた部屋の真ん中に座ったまま、よほど疲れたのか眠り込んでいた。よく見ると、部屋の隅にあったはずの私の子供椅子に腰掛けている。黄色いペンキで塗られた、木造りの古い小さな椅子だ。片付けられた部屋といい幼い椅子といい思いがけず恥部を見られてしまったような気まずさに、私は大声で「さあまず傷口を洗わないと!」と言って彼を起こしたのだった。
『──先ほど十三時二十分頃、宮崎県南部を震源とする最大震度六弱の地震が発生しました。この地震による津波の心配はありません。また現在のところ、怪我人等の人的被害の情報は入っておりません』
そこまで聞いてから、青年はスマホの画面をタップしてニュースを閉じた。彼の裂傷は血の印象ほどには
「慣れてるんだな」
包帯を扱う私の手元を見て彼が言う。
「お母さんが看護師だったから──ていうか、
「だろうな」と、整った形の唇が
「ええと……ミミズ、って言いましたよね? あれって」
「ミミズは日本列島の下をうごめく巨大な力だ。目的も意志もなく、
「え……?」ぜんぜん頭に入ってこない。いやでもとにかく、「やっつけたんですよね?」と私は訊く。
「一時的に閉じ込めただけだ。要石で封印しなければ、ミミズはどこからかまた出てくる」
「え……また地震が起きるってことですか? 要石って、さっきも言ってましたよね? それって──」
「大丈夫」優しく
「仕事?」
包帯が巻き終わる。サージカルテープを貼って処置を終える。でも、疑問は逆に増えている。
「ねえ」私は声を硬くする。「あなたって、いったい──」
「ありがとう、手間をかけたな」
青年は柔らかくそう言って、居住まいを正してまっすぐに私の目を見、頭を深く下げた。
「俺の名前は
「え! あ! ええと、私の名前は、岩戸鈴芽です」
急な名乗りに驚いてしまって、私はしどろもどろに名前を返す。すずめさん、と口の中で転がすように小さく繰り返し、草太さんはふわりと微笑んだ。──と、
「にゃあ」
「わっ!」
突然に猫の声がして、顔を上げると窓際に小さなシルエットがあった。出窓の手すりにちょこんと座っているのは、
「え、なにこの子、
手のひらサイズの小さな体は骨張ってげっそりと瘦せていて、黄色い目だけがぎょろりと大きい。まっ白な毛並みの中で左目だけ黒い毛で囲まれていて、なんだか片目を殴られて
「ちょっと待ってて!」
猫と草太さんにそう言って私は台所に急ぎ、煮干しを見つけて小皿に入れ、水と一緒に窓際に置いた。仔猫はすんすんと匂いをかぎ、慎重にひと
「相当お腹すいてたのねえ……」
私はあばらの浮き出た体を眺める。このあたりでは見かけない猫だった。
「君、もしかして地震で逃げてきたのかな。大丈夫? 怖くなかった?」
白猫は顔を上げ、私の顔をまっすぐに見て、
「にゃあ」と答えた。
「かわいっ!」
なんてけなげなのっ! 草太さんも隣で微笑んでいる。
「ね、うちの子になる?」と、思わず私は猫に言う。
「うん」
「え?」
返事があった。ビー玉みたいな黄色い目が、じっと私を見つめていた。枯れ木のように瘦せていたはずの仔猫の体が、いつの間にか大福みたいにふっくらと肉付いている。耳がぴんと立っている。ちりーん。思い出したように風鈴が鳴る。白い毛に覆われた小さな口が、開く。
「すずめ やさしい すき」
幼い子供のようなたどたどしい声。猫が、
「おまえは じゃま」
「──!」
ガタン、と何かが倒れる音がした。反射的に見ると、草太さんの座った椅子が倒れていた。椅子だけが 倒れていた。
「え? えっ、ええ!? 」
私は部屋を見回す。
「草太さんっ、どこっ!? 」
いない。一瞬前までここにいた草太さんの姿が、どこにもない。白猫は窓辺でじっとしたままだ。その口元がにたりと笑ったかのように見え、全身が総毛立つ──と、コトッと足元でまた音がした。椅子が倒れている。何かがおかしい。コトン。
「……?」
その木製の子供椅子は、左前脚が欠けてしまっていて三本脚である。そのうちの一本が、ぶん、と振られるように動いた。その反動で、
「え……?」
椅子は三本脚でカタカタと必死にバランスを取りながら、二つの瞳で私をじっと見る。そう、元々その椅子の背板には、目に見立てた
「なんだ、これは……」
椅子から声が出た。あの柔らかくて低い声。
「え、ええええー!」思わず大声を上げてしまう。「そ、草太さん……?」
「鈴芽さん……俺は……?」
とたんにバランスを崩し、椅子は前につんのめる。が、即座に前脚を蹴り上げて身を起こし、その勢いでくるくると回ってしまう。必死に三本の脚を動かしている。カタカタとタップダンスのような音が部屋に響く。椅子はようやく止まり、窓辺の猫を見据える。
「お前がやったのか!? 」
椅子が──草太さんが、気色ばんで叫ぶ。と、猫は窓辺から屋外にひらりと飛び降りた。
「待て!」
椅子は駆け出し、棚を足場に窓辺によじ登り、そのまま窓から駆け出した。
「えーっ、ちょっとちょっとちょっと!? 」
ここ二階なんですけど! うわあ、と草太さんの叫び声が聞こえて、私は慌てて窓から身を乗り出す。椅子が、屋根の斜面を滑り落ちて行く。庭の洗濯物に落下して姿を消し、一瞬後、シーツをひるがえして駆け出てきた。既に庭を抜けて道路を走っている白猫を追って、椅子も細い車道に飛び出す。通りかかった車が驚いてクラクションを鳴らした。
「噓でしょおお!? 」
追わなきゃ! と思った一瞬後に、正気!?
と自分で思った。今日味わった恐怖や悪寒や混乱が、私の中に一気に
床に落ちていた草太さんの
「えっ、鈴芽!」
「環さん!」
玄関を出ようとしたところで、環さんと鉢合わせた。
「ごめん、私ちょっと!」駆け抜けようとすると、「ちょっと、どこ行くと?」と腕を摑まれる。「私、あんたが心配で戻ってきたっちゃが!」
「え?」
「地震! あんた、ぜんぜん電話に出てくれんから──」
「ああっ、ごめんっ、気づかなかった! 大丈夫だから!」
これじゃ見失ってしまう。環さんの手を思いきり振り払い、私は道路に飛び出した。ちょっとこら、待たんけ! 環さんの叫び声が遠ざかっていく。
草太さんたちが走り去った方向に坂を下っていくと、ようやく視界の先にその姿が見えてきた。草太さんは脚をもつれさせながら、転がるように坂を駆け下りている。その更に先から、中学生の男女が坂を登ってきている。と、椅子が前のめりに転び、ずざざーっと坂を滑り、中学生たちの前で停止した。
「おわっ!」「ええっ、なんけこれ?」「椅子?」
驚く彼らの前で、草太さんはすくっと立ち上がり、しかしバランスが取れないのか彼らの周囲をぐるぐると回ってしまっている。
「うわあ!」謎の物体に絡まれ、恐怖の叫び声を上げる中学生たち。やがてようやく方向を定めることが出来たのか、草太さんは彼らから離れて再び坂を駆け下り始めた。
「すみませんー!」
スマホで椅子の後ろ姿を撮りまくる彼らに、私は突進してしまう。彼らをかきわけ、椅子を追う。背中でシャッター音が響きまくっている。わーん私まで撮られてるよー、これSNSに上げられちゃったりしないよね!? 草太さんの先に小さく猫の姿もあり、その先には港がある。
コンビニ前のヤンキーみたいに
「おーい、鈴芽ちゃーん!」
「えっ!? 」
野太い声がして、そちらを見ると海を挟んだ隣の埠頭から
「どんげしたとーっ?」
と今
「ああっ、もう!」
もうやけくそに、私も鉄階段に突進する。
「ほんっとにすみませんー!」
とにかく謝りながらおじさんたちを押しのけてタラップを走り抜け、私もフェリーに飛び込んだ。
『大変長らくお待たせいたしました。本日正午過ぎに発生した地震により出港が遅れておりましたが、安全が確認されましたので、本船は間もなく出港いたします』
いつもは遠くに聞こえる汽笛が、鼓膜を圧する音量であたりに響きわたる。傾いた午後の陽射しに押されるように、猫と椅子と私を乗せたフェリーはゆっくりと港を離れ始めた。
さあ始まるよと、皆がささやく
フェリーのエントランスを抜けると、そこは自動販売機の並ぶロビーだった。長距離トラックのおじさんたちが慣れた様子で丸テーブルに腰掛け、さっそくビールなんかを開けている。
「さっきの見たと?」「見た見た! なんじゃったっちゃろね?」「猫じゃねーとや?」「いやなんか、椅子のごとあるもんが走っちょってよ」「オモチャやろ」「ドローンのごとある。良く出来とったわあ」
ひえー、噂になってる! 私は部屋の隅々に目を走らせながら、草太さんたちの姿を探してロビーを小走りに通過する。汗だくの制服姿を
「どこ行ったのよ、まったく!」
思わず叫ぶ。腹が立つ。まるで自分のペットが人様に迷惑をかけていて、しかもそのペットは理不尽に押しつけられたものだというような気分に、私はなっている。細い廊下を駆け抜けると、そこは広々とした吹きさらしの後部デッキだった。
「──ああっ!」
いた! デッキの真ん中で強い潮風を受けながら、
「なぜ逃げる!? 」
草太さんが怒鳴り、詰め寄った。その距離分、白猫は後ずさる。
「俺の体に何をした!? お前は何だ!? 」
無言のままじりじりと、白猫は後退していく。でも後ろは
「答えろっ!」
椅子がぐっと脚を折り、勢いをつけて白猫に飛びかかった。猫はひらりとすり抜け、フェリーの最後部に立っている細長いレーダーマストを駆け上っていく。
「ああっ」
逃げられた! 私は草太さんに駆け寄り、並んでマストを見上げる。十五メートルほどの高さのマストのてっぺんに、白猫はちょこんと座っている。
「すーずめ」
え。私を見ている。黄色い丸い目が、わくわくと輝いている。
「またねっ」
幼い声が跳ねるように言い、白猫はマストから海へと飛び降りた。私はひっと息を
「えええーっ!」
警備艇はあっという間に私たちのフェリーを追い越していく。
しばらくしてから後ろを振り返ると、私の町の海岸線はもうずいぶんと遠かった。港からへその緒みたいにフェリーの航跡が長く伸びていて、それは沈みかけの夕日を浴びてきらきらと光りながら途切れていった。
* * *
「──だからあ、今日は絢んちに泊まるから。……うーん、だからごめんってば、とにかく
薄暗い化粧室の端っこで、私はスマホを耳に押しつけている。足元から絶え間なく響いているエンジン音が環さんに聞こえないようにと、スマホごと口元を手のひらで覆っている。
『ちょっと、ちょっと待たんね、鈴芽!』環さんの泣き出しそうな表情が、声だけでありありと目に浮かぶ。
『泊まるのはいいっちゃけど、あんた、部屋の救急箱は何に使ったと? 怪我したっちゃないやろね?』
「大丈夫だって。なんともなかったでしょ、すれ違ったとき」
『それにあんた、煮干しなんてそんげ好きじゃないよね? なんで出したと?』
細かい人なのだ。
『私、こんなこと考えたくないけど』
返答に窮している私の沈黙を、環さんが埋める。
『あんた、ひょっとして変な男とつきあっちょっちゃ──』
「違うっ、健全っ、大丈夫っ!」
思わず叫んで、間髪を
夜のフェリーに乗るのは、考えてみれば初めてだった。海はどこまでも黒く、昼間よりもなおさらに深い。こんなにも激しくうねる膨大な塊が足元にあることが、油断するとたまらなく怖くなる。私は想像力をシャットダウンしつつ階段を昇り、外廊下に出た。風に髪が暴れる。廊下の端っこ、展望デッキに
「草太さん! この船、愛媛に朝到着するんですって!」
船員に聞いたことを伝えながら、私は小走りで草太さんに駆け寄った。
「猫の飛び乗った船も、同じ港だろうって」
「そうか……」
草太さんの声と同時に、椅子がカタンと動いてこちらを向く。反射的に身を引きそうになるのをぐっとこらえ、私は明るい声を出す。
「私、パン買ってきました!」
両手に抱えた菓子パンを草太さんの隣に置き、私もその横に座り込む。ロビーの自販機で買った焼きそばパンと牛乳サンド、紙パックのコーヒー牛乳といちごオレ。
「ありがとう」すこしだけ笑ったような声色に、私はホッとする。「でも、腹は減ってないんだ」
「そう……」
そうだよね。椅子の体で食事なんて
「あの……」でもずっと、黙っているわけにはいかない。私は思いきって尋ねる。
「その体って」
「……俺は、あの猫に呪われたらしい」
「呪いって……。大丈夫ですか? 痛かったりとか、しないんですか?」
「大丈夫だよ」と笑う草太さんに、私は思わず手を触れた。
「あったかい……」
椅子は、人の体温を持っていた。魂という言葉がふと浮かぶ。そういうものがあるとしたら、それはきっとこういう温度だ。椅子の
「でも、なんとかしないとな」
月を見ながら、草太さんが小さく
「あの、私、気になってることがあって──」と口に出した。
「
私の話をひとしきり聴き終えた後に、ふいに大きな声になって彼が言った。
「それが要石だ! 君が抜いたのか!? 」
「え、抜いたっていうか……」
手に取ってみただけ。そう伝えようとするが、草太さんは自問するように言葉を重ねる。
「そうか、ではあの猫が要石か! 役目を投げ出して逃げ出すとは……」
「え、どういうこと?」
「君が要石を自由にして、俺はそいつに呪われたんだ!」
「えっ、噓──」私は戸惑う。でも、奇妙に納得してしまう。石像に彫られていた顔は、狐ではなく猫。石が手の中で獣に変わった、あの感触。
「ごめんなさい、私、そんなこと知らなくて──え、どうしよう……」
私を見ていた椅子の瞳が、ふいに床へと落ちる。草太さんが小さく息を吐く。
「……いや、悪いのは扉を見つけるのが遅れた俺だ。君のせいじゃない」
「でも──」
「鈴芽さん、俺は閉じ師だ」
「……とじし?」
ギギと音を立てて、草太さんは体ごと私に向ける。カタッと前脚を跳ね上げ、ふらふらと二本脚で立ち、背板から下げた
「災いが出てこないように、開いてしまった扉に鍵をかける」
カタン。前脚を床に戻し、草太さんは続ける。
「人がいなくなってしまった場所には、後ろ戸と呼ばれる扉が開くことがある。そういう扉からは、
「──」
うしろど。とじし。うぶすな。全然知らない言葉なのに、どこかで聞いたことがあるような気がする。意味が分からないけど、頭のずっと奥の方ではちゃんと理解できているような気がする。どうして──と考えようとしたところで、
「鈴芽さん、お腹すいてるだろう?」
とても優しい声で草太さんが言った。食べて、と前脚で菓子パンを私の膝までそっと押す。
「うん……」
私は牛乳サンドを手に取り、両手でビニールの包装を開いた。甘い匂いがふわりと立ち昇り、すぐに潮風に流されていく。
「猫を要石に戻し、ミミズを封じる。そうすれば、俺もきっと元の姿に戻れる」
こんなにも優しい声なのは、私を安心させようとしてくれているのかも。
「だから、なにも心配しなくていい。君は
パン生地とミルククリームのとろりとした甘みが、草太さんの柔らかな声と一緒にじわりと体に染み渡っていく。見慣れた黄色い子供椅子から発せられるその声に、私はもう違和感を感じなくなっていた。
* * *
その晩、私は夢を見た。
私は迷子になった子供だった。歩いているこの場所は、しかしあの星空の草原ではない。たぶん、そのもっと手前。いつものあの夢には長いストーリーがあって、日によって冒頭部分だったり、中盤を眺めていたり、クライマックスを体験したりするのだ。今日の夢は、物語の最初の部分だと思う。
時間は夜。冬の深夜。家からまだそう離れてはいないはずだけれど、奇妙なことに見知った建物たちは消えていて、自分がどこを歩いているのかよく分からない。がらんとした通りには誰もいない。地面はぬかるんでいて、歩くたびに、冷たい泥が靴を重くしていく。悲しさとか寂しさとか不安とかはもう私の一部になっていて、たっぷりと
「おかあさん、どこーっ?」
そう叫びながら歩く私の目の前に、やがて扉が現れる。雪に埋もれた
吸い寄せられるように、私の手はそのノブに伸びていく。
扉の中へ──
* * *
ガタッ。何かが倒れる音に、目を覚ました。
「……草太さん?」
椅子がひっくり返り、三本脚を上に向けた格好で倒れている。
「すっごい寝相……」
寝相だよね、これ? 私は自分の上半身を起こす。手すりの向こうで、みかん色に染まった海がきらきらと光っている。ウミネコの群れが、集団登校の小学生みたいにかしましく空を舞っている。ぶどう色に澄んだ空と、透明で清潔な太陽。日の出だ。私たちは外廊下のすみっこで眠っていたのだ。
「草太さん」
椅子に手を当てて、揺らしてみる。返事がない。でも、やっぱりあたたかな体温がある。眠っているのだ。私はちょっと安心して、立ち上がる。手すりから身を乗り出し、進行方向を見てみる。いつのまにかフェリーの周囲には大小いくつもの島がある。何隻もの船がいる。
「……どきどきする」
朝日に縁取られた景色を見つめながら、私は思わず口に出した。