7 長城ロングウオールの戦い


 恒星反応弾の迎撃が失敗したという情報は、ただちに地球全土に伝えられた。

 これは、多くの人にとって、精神的な意味で青天のへきれきだった。地球全土でシェルターの建設が進み、モルダー星系の惨劇を知った上で、それでもなお、人々の多くは、〝なんとかなるのではないか〟と根拠のない楽観を抱いていた。

 もし、そういう人に、〝なぜそうなると思うのか?〟と問えば、その人なりの答えが返ってくるだろう。だが、最大の理由は、〝そうならないと困るから〟だ。

 無数にある未来予測。それこそ、地球上に存在する人間の数だけ存在する未来予測の中で、今いる自分を取り巻く日常が維持される未来予測を選ぶ人が多いのは、意識しているか無意識かは別として、そういう未来予測を探し求めているためだ。不確定な未来予測など、どれを選んだところで理由はあとからいくらでもつけられる。日常が破壊され、自分が役立たずになる未来を求め、それを直視したい人間は少ない。

 もし、個人的な資質に頼らず日常が破壊されることを恐れず直視できる人間がいるとするならば、それは、日常の破壊に備えることを仕事としている人間だ。警察や消防、軍隊、そして政治家の中にそうした部署はある。

 長城ロングウオールの現場主任であるホアン・ジェイ宇宙軍工兵隊少佐のもとに感応端末で連絡してきたウォーレン・ライアス議員は、安全保障会議特任補佐官だ。まさに、仕事として日常の破壊に備えてきた男である。ただしそれは、アロイスによる太陽系防衛計画が進んだ一年前からであり、それまでは父親の票田を受け継いだ欧州出身の、顔はいいが頼りにならない新米の二世議員のひとりだった。

 ライアス議員は、落ち着いた口調でジェイ少佐に語りかけた。

「長城による防衛の優先度に変更がある。万難を排し、あらゆる手段を講じて〈ベート・ゲート〉を守るように。これは地球連邦大統領の命令だ」

 木星の衛星イオで、全滅必至と思われた研究ステーションの人々を救った男として知られるジェイ少佐は、これまた静かに答えた。

「命令は受領しました。万全をつくします。ですが、現状では実行は不可能です」

「無理か」

「はい。事前の計画と違いすぎ、変更する時間もありません。この命令は、長城と建設隊の能力を超えております」

 淡々と答えるホアン少佐に、ライアス議員が破顔した。

「そうか。そうだよな」

 うんうん、とライアス議員が砕けた口調になってうなずく。わざと相手を怒らせて反応を探るつもりだったホアン少佐は、はなじろむ思いがした。

 ――こりゃ、面倒なのがきたな。

 ライアス議員を抜擢するにあたり、アロイスはこの若い議員の中に、いかなる危機にあっても心が折れない、よい意味での無責任さを見いだしていた。それは人によっては冷酷なようにも、共感能力の乏しいサイコパスのようにも見なされる気質だが、どうやっても甚大な被害が出る太陽表面爆発に対処するには最適の人間だった。罪悪感で押し潰されて働けなくなるような善人は、今この時にかぎっていえば、不要なのだ。

「問題点をすり合わせよう。時間はとらない。現実時間では一分以内だ」

 ライアス議員は、関連するデータを周囲の空間に浮かべた。

 ライアス議員とホアン少佐がいるのは意識空間に作られた小さな会議室で、そこには長城と太陽、そして地球のリアルタイムの状況が表示されている。

 恒星反応弾が、すでに太陽に到達している。

 現時点で、すでに太陽表面爆発の予兆となるニュートリノや重力の異常が検出され始めている。意識空間内なので時間の流れはゆっくりしているが、現実空間では数分とたたずに太陽表面が死の放射線を放ち始める。

 それから約八分後。その放射線が地球に届く。

 強烈な放射線で大地は焼かれ、海は沸騰し、大気は暴風となって荒れ狂う。神話的な災厄が地球を覆うだろう。

 しかし、ゲートなどの宇宙建造物にとっては、放射線は太陽表面爆発による災害の中でも対処しやすい。地球や月の陰に入れば、放射線を避けることができる。

「事前の計画どおり、〈ベート・ゲート〉以外の二つのゲートは地球の陰に退避する。現在、すでに次元断層を封鎖してタグボートによって移動中だ」

 ライアス議員の言葉に、ジェイ少佐もうなずく。

 地球の静止軌道上に浮かぶ三つのゲートのうちアフリカ大陸上空に浮かぶ〈アジーン・ゲート〉とアメリカ大陸上空の〈タトゥ・ゲート〉は、地球の昼の側にあるからだ。

 太平洋上空にある〈ベート・ゲート〉も、もし季節が少しズレていれば地球の陰に入ることがかなわず、今ごろは地球の陰に入るべく移動を開始しているはずだった。

 しかし、それもわずかな時間だ。ギリギリまでゲートによる避難民の脱出と物資の搬入を行なうために稼働しているが、〈ベート・ゲート〉もまもなく次元断層を閉ざして、以後は地球と長城の陰に隠れる計画となっている。

「この長城は、高エネルギー粒子によるプラズマの津波から、地球と軌道施設を守るためにあります。計画どおり低軌道に三つのゲートが集中して避難していれば、勝算もあります。そのためにわれわれ建設部隊が長城に残るのです」

「静止軌道では、ダメかい?」

「そもそも、そのような高い軌道をピンポイントで守る計画にはなっていません。最初から計画にないのです」

 直進する放射線と違い、高エネルギー粒子の多くは磁場によって軌道が歪み、たがいに干渉しあって複雑な流れを作る。地球の陰に隠れていても安全ではない。それでも、地球に近い、高度数百キロメートルの低軌道であれば、地球による遮蔽が期待できる。稼働状態にないなら、わざわざ静止軌道にゲートを置いておく必要はなかった。

「そうか。だが、これはどうしてもやり遂げてもらわなくてはいけない。地球連邦政大統領に、ケイローン政府主席から直接通信で届けられた命令なんだ」

「ケイローンから? 失礼ながら、いくらケイローンといえども、防衛計画に口を出す権限はないはずです」

 これは指揮系統が違うためだ。長城や〈アルテミスの日傘〉は、地球連邦安全保障会議の指揮下にある。

「ケイローンならね。だけどこの件に関しては、ケイローン政府主席はただのメッセンジャーだよ。命令の出所は銀河文明評議会の上級種族だ。中堅種族と途上種族は、この命令に逆らえない。そういう決まりだ」

「ますます理解に苦しみますな。上級種族様が地球になんの用です? ゲートを稼働状態で維持させて、太陽が爆発するところでやってきて、特等席で見物したいとでも?」

「そうかもね」

 ライアス議員はあっさりと受け流した。

「ぼくたちがいるこの宇宙は、そういうルールで動いている。上級種族が、〝エール片手に太陽が花火のように弾けるところを見物したい〟と言えば、地球はエールと椅子を用意しなくちゃいけない……でも、これは違うとぼくは踏んでいる」

「上級種族が地球防衛の手助けをしてくれると?」

「ぼくはそう思う。上級種族は、この状況を利用して、何かをやろうとしている。それは地球人のためじゃない。連中はそんなに心優しい存在じゃない。けれど、それがどうであっても地球が焼きつくされる現状を打開することに賭けてもいい、とぼくは思う。賭けに失敗しても、失うものは何も――失礼」

「いえ」

 ホアン少佐は首を左右に振った。

 この賭けに失敗すれば、最悪の場合、長城とそこで働くホアンたちの命が失われる。ライアス議員の視点からすれば、失われることも計算に入れている命だろうが、それを面と向かって言いそうになってしまうあたり、政治家としてはこつといえた。

「実行するのに必要なものはあるかい? 地球連邦政府が持っているものであれば、なんでも使っていい。ぼくにはその権限が与えられている。こんな無茶な命令を出した欧州出身の安全保障会議特任補佐官をいけにえに捧げたいというなら、捧げてもいい。今回の件が終わったあとで、だけど」

 笑えない冗談は、ライアス議員なりの謝罪とホアン少佐は受け取った。共感能力は低くとも、知性は高く、頭の回転も早い男なのだ。

 有権者として、この男に投票しようとは思わないが。

「なんでも、ですか」

「うん。ここで後生大事に抱えていても、地球を失えばそれまでだからね」

 言葉としては短いが、感応端末を通じてライアス議員の意識に浮かんだ政府内のあつれきや意見の相違が伝わってきた。ライアス議員はああ言ったが、連邦政府には、その逆の意見も多くあることがわかった。恒星反応弾の迎撃に失敗したことで、地球人が地球を失ってロストゲイアーになることが確定したと判断し、これ以上の資材の投入をためらう動きもあるようだった。地球を脱出したあとの生活のために、残る資材を使いたい連中だ。

 ――戦っている味方を後ろから撃つようなことを平気でするやつらだな。

 ホアン少佐のひようひようとした顔の下に、けんのんな思考が浮かぶ。

 地球連邦政府は、地球の有史以来、もっとも公正な政府であるが、そうなったのは地球人がこの十数年で聖人君子になったせいではない。ドローンや人工知能を始めとする支援システムが充実したことで、誰もがそれなりに有能になって自信をつけ、アロイスの指導で経済規模が膨れ上がったため、みなが裕福になったから寛容さが広がったのだ。

 それが、しゆくせいしやの攻勢で地球が滅びる瀬戸際に追いこまれたせいで、人々は自信を喪失し、社会が不寛容さを出してきたのである。人生に希望を与え、財布に余裕を与えれば、人は全体としてまともになる。逆なら、人は愚かになる。

 ――だが、今はそんなことを考えている場合じゃない。

 ホアン少佐はすぐに怒りを押し殺した。

〈ベート・ゲート〉を生き延びさせるためには、計画の大幅な変更が必要だ。そして、変更した計画に従って、建設部隊は作業しなくてはいけない。

 作業する建設部隊を守る、専用の盾が必要だった。

「連邦政府直轄に、緊急脱出用の特殊シールド艦の部隊がありますね」

「あるね。太陽表面爆発のさなかに、もし地球が直接攻撃を受けたら、それを使って最後の脱出を行なう予定になってる。今は三十七隻が稼働状態にある。三隻が改修と補給中」

「四十隻、全部ください」

「わかった」

 ライアス議員は即答した。

「ほかには?」

「必要であればその都度。何しろ、これから作業計画の練りなおしですので」

「わかった。では失礼する。ぼくのこの回線はこれから太陽表面爆発がおさまるまで常につなぎっぱなしにしてあるから。何かあれば連絡して。ぼくが寝てても、トイレにいても、一秒と待たせず即座に接続するよう秘書AIに設定しておくから」

「はい」

 ライアス議員との通信を終えたホアン少佐は、作業基地になっている旧式の機動戦闘艇母艦の自室に戻った。高い額を揉み、つぶやく。

「食えない男だよ、まったく。話しているだけで疲れるね」

 自分が周囲から似たような評価を受けていることには、ホアン少佐は目をつぶっていた。


 太陽表面爆発で生じた強烈な光が、それまで太陽の周囲に光圧と重力のバランスでたゆたう塵の帯のエリアに到達した。

 塵の帯は一瞬だけはかなく輝き、燃えつきて消えた。


 太陽表面爆発の光が届くまで時間がないのと、相手が地球にいるので、ホアン少佐はふたたび感応端末で通信を行なった。

 相手はインドにいるカーリー少年だ。

『ゲートをひとつ、稼働状態のまま守れるように防壁を組みなおす? 地球から三万六千キロメートル離れてるよね、そこ?』

 カーリーは目を丸くした。両手を大きく広げ、三万六千キロメートルという距離を感覚的に表現している。

『どうしてもゲートをひとつ、稼働したままにする必要があってね。すぐに計画を変更したい』

『ちょっと待って。ちょっと待って。そんなの聞いてないよ、ボク!』

『うん。わたしも聞いたのは二分前だよ』

『太陽表面爆発は、もう始まってるんだよ? なのに、今から防壁を組みなおすなんて、そんなのムチャだよ!』

『うん。宙軍工兵の設計支援AIにもそう言われた。再設計が終わるまで一日かかるので、手に負えませんって』

『だったら、なんでボクに!』

『カーリーくんだけが頼りなんだ』

 ホアン少佐はカーリーを拝んでみせた。

 カーリーは困った顔で、意識空間内に展開した長城の設計図と、現在の太陽の活動をモニタしている画面、そしてホアン少佐を順番に見た。

 そして最後に、きゅっ、とこぶしを握り、首を左右に振った。

『やっぱり、ダメだよ……今から、変えたら……どうやっても、キヤツトウオークがないところでの作業になっちゃう……うん。ダメ』

 カーリーが唇を震わせ、首をプルプルとふった。

 ――やっぱりな。この子には答えが見えている。宇宙軍のコンピュータが総力で演算しても丸一日かかる計算を、この子はすでに終わらせている。

 カーリーは、マインドリセット後の、新しい世代の天才だ。

 最新の研究によれば、地球人の脳にはメンテナンスハッチのようなものがあり、そこを通じ至高者オーバーロードはひとりひとりの脳にアクセスし、マインドリセットをしたのだと考えられている。地球人は、自力でそのハッチを開いたり閉じたりできない。しかし、歴史上の天才や宗教家が時にみせた超人的なひらめきは、このメンテナンスハッチをどうにかして開き、オーバーロードの領域に踏みこんで得たものではないかという仮説がある。

 そしてマインドリセット後の世代には、そういう天才が何人か確認されている。カーリーもそのひとりだ。長城の設計は、カーリーの小さな頭の中だけで行なわれているのではない。彼はオーバーロードの使う領域に問いを投げかけて、その答えを得ているのだ。

 どうやってそれが可能なのかは、カーリーに聞いてもわからない。しかし、それがカーリーに可能だという事実には、希望があった。地球人にも、上級種族に、そしてオーバーロードへ至る道があるという希望だ。

 ――まあ、仙人や神様になりたいかといえば、微妙だけどね。わたしらのことを害虫を駆除するノリで殺しにかかってくる粛清者との戦争を、未来永劫続けるのはぞっとしないよ。ほかの未来もなくちゃあさ。

 未来の子供たちが、新たな選択肢をつかめるように、今の地球を守る。

 ホアン少佐はそのために、現役復帰した。彼のひきいる建設部隊が長城に残ったのも、同じ理由だ。

 そしてホアン少佐と建設部隊が地球を守るためには、カーリーの力がいま必要だった。

『カーリーくんが心配しているのは、作業員の安全だね』

『うん』

『それは、わたしが責任を負うよ。これをごらん』

 ホアン少佐は、地球軌道上にいる特殊シールド艦の映像を見せた。

『あ、脱出船だ』

『おや、知ってた?』

『うん。地球が本気で危なくなったら、ボク、これに乗ることになるって政府の役人に言われたから。太陽嵐が一番ひどい時でも、こいつなら逃げられるからって』

 特殊シールド艦は、恒星反応弾の迎撃に失敗して太陽嵐の吹き荒れる中、さらに地球が直接攻撃にさらされ、地下のシェルターですら安全とはいえなくなる状況に備え、シールド艦を改修して建造されたものだ。

 最悪の中の、さらに最悪に備えた艦である。ややパラノイア気味だが、それを言うならば、粛清者の戦いという現実こそが、地球人にとってパラノイアの悪夢である。

 特殊シールド艦に乗れるのは、ごく選ばれた人間だけだ。

 ――この子が選ばれたのは、その才能に高値がつけられるからだろうね。すでに疎開させた人たちは銀河文明評議会の基準で無作為に選抜したけど、ロストゲイアーになったあとの地球人に必要なのは、第二の地球を手に入れるために金を稼いでくれる人材だもの。

『この特殊シールド艦が、作業員を守る。だからカーリーくんは、作業員の安全は気にせず、ゲートのある空間を守る長城を考えてちょうだいな』

『うん。じゃあ、この部屋使っていい?』

『いいよ』

『じゃ、さっそく』

 カーリーが意識空間内をぐるっと見まわすと、殺風景だった小部屋が、子供がお気に入りのオモチャを詰めこんだ箱のような空間に転じた。部屋の大きさも、小部屋から大会議室くらいに広がっている。中央には、レゴブロックで作った長城のモデルが浮かんでいる。

『ここを、こーして、あーして、と』

 カーリーが素早い指の動きでカチャカチャとレゴブロックを組みなおす。

 組みなおしては、戻し、組みなおしては、戻す。

 繰り返すうちに、組みなおす時間が短くなる。

『うん』

 納得がいくものができたのか、カーリーが笑みを浮かべてうなずく。

『防壁の組み替え時間が最短になるのがこれ。でも、確定じゃないよ。静止軌道ってことは、二十四時間で地球と一緒に一回転するから、長城からみると、位置がすごく動くんだ。常にちょっとずつ組みなおして微調整する必要があるし、そのたんびにプラズマの流れも変わるから、再計算しなきゃいけない。作業はどこまでいっても終わらないし、どんどん増えるよ』

『わかった。見切り発車だけど、ひとまずこれで始めよう』

『ボクは、もっといい手がないか考えるから、ここ、そのまま使うね。長時間の思考ブーストは規則で禁じられてるけど、今ならいいでしょ?』

 カーリーが、黒い瞳を不安そうに揺らしつつ、ホアン少佐を見上げた。

 意識空間内ならば、思考速度を上げることができる。

 一方で、カーリーの脳への負担も大きくなる。だからこれまで医者によって思考ブーストは連続使用を制限されてきた。もし万が一、カーリーの天才が失われれば、地球にとって貴重な資産が失われることになるからだ。

『いいよ。地球のほうにはわたしから言っておく』

『うん! ありがとう! ボクがんばるからね!』

 カーリーがほっと安堵した表情で、ホアン少佐に礼を言う。

 ホアン少佐は感応端末を切って自室に戻った。表情が暗い。

 ――礼を言われるのはつらいな。悪徳商法をやって、逮捕されたあとも被害者によく思われている詐欺師みたいな気分になる。まあ、わたしが悪いオトナだって自覚はあるけどね。

 地球を守るためには、手持ちのカードのすべてを使う必要があった。特殊シールド艦を徴発したように、ホアン少佐はカーリーの天才も、ここで徴発して使いきる覚悟だった。

 カーリーと同年代の少年少女が、アバターを消耗して何度も死にながら、太陽系の外縁部で戦っているように。

 それでもダメだった時には、どうするか?

 ――決まってる。その時になってもまだわたしが生きてたら、もうちょっとがんばるだけだ。

 全力をつくしてダメだったからといって、潔く諦めて腹を切るようでは、悪いオトナとはいえない。

 悪いオトナは、諦めないのだ。


 太陽から五千八百万キロメートル。

 水星の昼の面が、明るく輝く。太陽表面爆発の放射線が届いたのだ。

 これまで太陽のもっとも近くをまわる惑星として、太陽光にあぶられ続けてきた水星としても、今回の熱量は誕生以来、初めての経験だった。昼の面の地表でいくつかのクレーターが崩れ、新たな裂け目ができる。

 しかし、ゆっくりと自転する夜の面にまで被害は及ばない。大気をほとんど持たない乾いた水星では、昼の面の熱が夜の面に届かないからだ。その夜の上空には無人観測衛星がいくつも浮かび、各種センサーが捕らえた太陽表面爆発に関する情報を地球と木星に送っていた。

 観測衛星にはサイズに似合わぬ大型のシールド発生装置が搭載されている。今は夜の面にいれば無事だが、やがてくる太陽嵐のプラズマ津波を前にしては、水星の裏側にいるくらいでは助からない。八時間か、十時間か。シールド発生装置が限界を超えて破壊されるまで、情報を送り続けることが観測衛星の任務だった。


 月の表側。地球を向いた側は、今は夜である。

 たには、ほぼ六十時間ぶりに脱いだ宇宙服の下にできた汗疹あせもをボリボリとかきながら、上空に浮かぶ地球を見上げていた。

 完全な円を描く、満地球だ。黒い空に、青の星が浮かぶ。

「きれいなもんだなぁ」

 ずっと月の裏側で仕事をしていた油谷は、これまで月から地球を見る機会がなかった。

 最後の最後で、自分の目で地球を見ることができた。

「油谷主任、そろそろ閉めます」

「はいよ」

 若い作業員に呼ばれ、見納めとばかりに地球を目に焼きつけ、それから地下へ潜るエレベーターへと向かった。

 がらんとした展望ドームには、ほかに誰もいない。床には高級な絨毯が敷いてあるが、作業員の寝泊まりに使われていたので、あちこちにソースなどの染みがついている。

「もったいないな。この月ホテル、まだできて三年くらいだろ?」

「ええ。地上部の展望ドームも、このあたりで一番空が綺麗に見える場所を選んで建設してあるっす。結婚式場に使ってましたからね。月は条例で、地球から見える表側の開発が制限されてて、候補地の選定は苦労したようです」

「展望ドームと地下のホテル、どうなるんだ?」

「壊れます。太陽嵐が月面に到達すると、高エネルギー粒子のプラズマ流は地表に沿って裏側まできます。質量は軽いですが、速度が速くて、高熱です。シミュレーションでは、月の表も裏も、表面はドロドロに溶けてマグマの海みたいになる可能性大だとか」

「マジか。おれらの打ちこんだ超伝導ケーブル、どうなるんだ?」

「地下なので、ある程度は排熱能力を維持できるようです。ですが、〈アルテミスの日傘〉の仕事は、プラズマ流が来る前の放射線極大期です。プラズマの津波がガンガン来る時まで、熱容量を保ってるところがどれだけあるやら」

「あれだけ苦労して、壊れるのはあっというまか。おれらのシェルターは大丈夫なのか?」

「そっちは問題ありません。長城による軌道施設防衛が失敗した時に備えて、月の地下にでかい穴をあけて資材を詰めこんであります。地球よりも安全ですよ」

「そうか」

 エレベーターのドアが閉まる。

 油谷と作業員は、ドアのあいだに地球が消えるのを見送った。

 どちらも口にはしなかったが、次に青い地球を見られるのは、ずいぶん先のことになりそうだった。

 恒星反応弾の迎撃は失敗した。太陽表面爆発はすでに始まっている。

〈アルテミスの日傘〉も、長城も、地球のすべてを守ることはできない。事前のシミュレーションでも、地球がもとの姿を取り戻すには、最大のテラフォーミング作業を行なっても十年単位の時間が必要だと結果が出ていた。

「シェルターに風呂はあったっけ?」

「超音波シャワーがあります」

「よし、シャワーを浴びてヒゲそって、飯食って寝るぞ。これから何が起きても、すぐに仕事ができるよう、おれらは体を休めておくんだ」

「ういす」

 油谷は通信端末を確認した。

 中国山地の地下にあるシェルターに避難した家族からのメールが届いていた。今のところは全員無事で元気。小学生の長男によると、まだ幼い次男と長女は、キャンプ気分ではしゃいでいるとのこと。長男のメールは続けて〝ちっちゃい子は気楽でいい〟と生意気な口調で書いてあり、油谷は思わず口元をほころばせた。

 ――帰れなくてごめんな。父ちゃんが、絶対におまえらを助けてやるからな。

 家族を守るため、油谷は月にきた。そして今も月にいる。

 家族を守るために何ができるか、どうやれば家族を守れるか、そこまでは油谷にはわからない。太陽は爆発してしまった。その光がもうすぐ月に届く。そのあとはプラズマの津波だ。個人で立ち向かうには、あまりにもスケールの大きな災厄が迫る。

「おれひとりの力はちっぽけだがよ。だから、力を合わせるんだ」

 ひとりひとりが、自分の仕事をやっていく。それこそが災厄に立ち向かう唯一の手段だと、油谷は信じていた。


 太陽から一億一千万キロメートル。

 太陽表面爆発の光が、金星に届いた。

 金星は地球よりも太陽に近いことから分厚い雲に覆われ、温室のように熱をのがさないことで地表温度は四百度を超えている。

 金星の雲は強烈な放射線を浴びて膨張したが、宇宙空間からは、白く輝いている以外に、大きな変化は確認できない。

 むしろ、金星環境にとっては、このあとにくる太陽嵐のプラズマ津波こそが本番だ。金星の雲に激突する超高速プラズマは、分厚い雲をはぎ取って宇宙空間に放出させるだろうと考えられていた。彗星のように、金星が太陽の反対側に長くガスの尾をひく光景が、見られるはずだった。


 広大な意識空間のホールに、大勢の人が集まっていた。

 その数、およそ百万人。世界じゅうのシェルターから接続してきた人々である。全員が、手にモップを握っている。

 全員がポリゴンの粗い、のような体になっている。同時接続数を増やすためと、接続している人間の脳の処理能力を、別の仕事に割り振るためだ。

『お集まりのみなさん。わたしは〈アルテミスの日傘〉の管理AIのセレネです』

 女性の声が聞こえてきた。

『事前のレクチャーで申し上げたように、みなさんにしていただくのはわたしの支援になります。実は、こうして接続していただいているだけで、基本的なお仕事はすんでおります。どうぞ、お気楽にしてください』

 いよいよ本番となり、緊張していた人々の意識が少しリラックスする。

 百万人のひとり、ドリー・スタームはふーっと大きなため息をついて、手にしたモップをぎゅっと握りしめた。

「緊張なさってるごようすね」

 隣にいた女性のポリゴンに声をかけられ、ドリーはうなずいた。

「はい。ウィル……息子は意識空間でやるゲームが好きなんですけど、わたしはどうも慣れなくて。あ、わたしはカンザスのドリーです。ドリー・スターム」

「あらご近所ね。わたしはテキサスのケイトよ。わたしも新しいコンピュータはどうも苦手ね。だから、こういうのはマインドリセット後に生まれた若い子でないとできないと思ってたんだけど」

「はい。でも、こんなモップでちゃんとできるんでしょうか」

『大丈夫ですよ、ドリーさん。それにケイトさん』

 それまでホールの上の方から聞こえる感じがしていたセレネの声を耳元で感じ、ドリーとケイトは身をすくませた。

『驚かせてすみません。大丈夫です。わたしは今、おふたりだけに話しかけています』

「わざわざごていねいに、ありがとうございます」

「本当にね。ほかの人たちはいいの?」

『ほかの人とも、同時に会話をしております。わたしはAIですから』

「便利ねぇ。そんな便利なあなたに、わたしたちがお役に立てるのかしら」

『もちろんです。意識空間内の人間の脳の働きは、柔軟性と精緻さでAIをはるかに上まわります。そのかわり、思考をブーストしていますので、疲弊しやすくなります。こちらでもモニターしておりますので一定値を超えれば自動ログアウトしますが、もし途中でも、疲れや異常を感じたら、ご自分でログアウトしてください』

「いいのですか?」

『はい。ここには今、百万人がいますが、待機されている方が十億人おられます。おふたりが抜けても、すぐに待機されている方がログインされます』

「それを聞いて気楽になりました」

 AIのアドバイスを受けたふたりは、モップを構えてその時を待つ。

 そして――

〈アルテミスの日傘〉が、開く。

 月の上空に無数に浮かんだシールド発生装置が、いっせいに力場を展開した。

 約一秒後、虚空に浮かぶ地球が、闇に閉ざされた。空から太陽が消えた。

 地球の昼の側で、野原を駆けていた獣が、空を飛んでいた鳥たちが、いっせいに空を見上げる。警告の叫びをあげるものもいる。人の手になる日食だ。

『〈アルテミスの日傘〉、正常に稼働』

『太陽表面爆発第一波、来ます』

 はるばる一億五千万キロメートルを駆け抜けた光が、月軌道に浮かぶ〈アルテミスの日傘〉に衝突し、シールドを輝かせる。

 意識空間内のドリーは、暗くなったホールの中で、足下の床を見続ける。

 彼女の見ている足下の床は、〈アルテミスの日傘〉の状態を擬似的に表わしたものだ。床が黒いままならば、問題はない。しかし、床に光が出てくると、そこからシールドが破れ始めていく予兆だ。何万というシールドがたがいに重なり合い、補い合いながら作り出す〈アルテミスの日傘〉は、弱いところがあればそこから周囲が負荷に耐えきれなくなり、破れていく。

「お、光った」

「こすれこすれ」

 ドリーから少し離れた場所から、声が聞こえてくる。

 首を伸ばして見る。人が大勢いるので見えないかな、と思ったら、案山子のように見える人々の体がすっと半透明になって、床のようすが見えた。

「まあ」

 ここが現実ではなく、意識空間であることを再認識したドリーの隣で、ケイトが床に目を向けていた。

「ここね」

 ごしごしとモップでこすり始める。ドリーには判別できなかったが、ケイトにはそこが明るくなっているのが見えたのだ。

 すぐに、周囲の床も、うっすらと明るい円を作り始める。

 ドリーも慌てて自分のモップで床をこする。

 ケイトとドリーの動きは、管理AIのセレネに伝わった。

 セレネは、ふたりの脳の領域を利用して駆動しているモジュールから、〈アルテミスの日傘〉の一部で負荷が高まっている兆候を見つけ出す。

 小さな負荷であれば、周囲のシールド発生装置の展開する力場を、負荷の高い部分に寄せるように動かして補い、軽減する。

 しかし、ケイトとドリーが見つけた負荷の兆候は、かなり大きなもので、周囲のシールド発生器の力場をここに集めてしまえば、今度はほかの場所で負荷が高まる。連鎖的に、バランスが崩れていく。

 セレネに決断をうながしたのは、ドリーだった。正しくは、ドリーの中で駆動しているモジュールが、決断につながるデータを送ってきた。この場所にはもうすぐ、もっと負荷がかかる、と。何か大きな波のようなものがきている、と。コンピュータのプログラムと違い、意識空間用モジュールは、駆動する人間の脳によって働きが大きく異なる。ドリー自身は言語化できないが、彼女の脳の中の何かが、未来予知に近い働きをしたのだ。

 セレネは、予備のシールド発生装置を投入することを決めた。月の裏側に浮かぶ改造型機動戦闘艇母艦に指令を出す。この母艦は、今は機動戦闘艇ではなく、予備のシールド発生装置を積載している。

 ランチャーが迫り出し、シールド発生装置が射出された。月の表側に広げられた巨大な〈アルテミスの日傘〉に、新たな一基が投入される。

 予備のシールド発生装置が動き始めると、ケイトとドリーの足下の床がすっと暗くなった。モップでこすっていたふたりの主婦が、顔を見合わせて安堵の息をつく。そしてモップの柄と柄をこつん、とぶつけた。

 現実時間でわずか〇・二秒後。予備のシールド発生装置で補強された場所に、X線レーザーのようなものが照射された。予備のシールド発生装置がなければ、いくつかのシールドが負荷で機能を停止し、そこから〈アルテミスの日傘〉に大穴が開けられるところだった。

 セレネは、ケイトとドリーのモジュールから得られた情報を、データベースに蓄積した。X線レーザーについても、記録しておく。太陽表面爆発はX線レーザーが生じるようなものではないが、恒星反応弾によるなんらかの意図的な作用とも考えられた。そのすべてを、今は記録に留めておく。原因を解析し、対策を練るのはこの太陽嵐を乗りきったあとだ。

 現実時間では、まだ一分も経過していない。

 地球はまだ、暗闇に閉ざされたままだ。南北アメリカの平原を、涼しい風が吹く。


 長城は、地球から十万キロメートルの月と地球のあいだ、地球側寄りに位置している。

 今はここも〈アルテミスの日傘〉が作った闇に閉ざされている。部下をもたないヒラの作業員であるみやけいは、イカの足をかじりながら食堂のモニターで地球のようすを見ていた。

 長城は常に地球から見て太陽の側にあるので、いつもならば、長城から見る地球は完全な円を描く満地球だ。しかし、今は違う。地球は闇に閉ざされている。

「なんも見えねえな」

「そりゃ、夜になったからね」

 やはり単身残ったアラビア宇宙公社のセルワ・リジーが、った豆をつまみつつ、田宮に付き合う。周囲には、民間の作業員の姿がちらほらとある。

「〈日傘〉はすげえな。最初に聞いた時は、ガキの妄想かと思ったぜ」

 数万のシールド発生装置で、月の上に太陽嵐を遮るシールドを作る。

 シールドの位置をずらせば、新月を挟んで一週間くらいは、効果を発揮できる。

「とにかく思いついたものは、全部やっちまおう、って感じだからね。人工ブラックホールで月を破壊して、月の破片で長城と日傘の両方の役目を果たす防壁を作る〝月食〟っていうアイディアもあったそうだよ」

「乱暴だな、おい! 大丈夫なのか、それ?」

「大丈夫じゃないよ。大きな破片のいくつかは、地球に落ちてひどいことになる。さすがに被害のほうが大きすぎるってんで、月の砂を使って防壁を作る長城計画に切り替わったそうだね」

「世の中には、ムチャクチャを考えるヤツがいるもんだな」

「みんな、モルダー星系の戦いで気がついたんだよ。粛清者がヤバいヤツらだって。だから、それまで持ってたかせのようなものがはずれたんだと思う」

「そうだな。あの戦い、地球人の独立艦隊も参加してただろ? だから、毎日ニュースで、どんだけ活躍したか、被害はどうだったか流してた。ほかの星の連中も一緒だったから、なんかライバルチームみたいでな。あそこの星より地球艦隊のほうが強いとか言って盛り上がって」

「あったねぇ。まだまだ暢気のんきだったよ、みんなね」

「ほかの星のやつらも、ライバルって言っても、仲間だからな」

 地球に何かあっても、仲間が助けてくれる。

 モルダー星系を、地球軍独立艦隊が助けたように。

 そういう甘い考えは、モルダー星が恒星反応弾を撃ちこまれて焼かれた時に消えた。

「それにしても、蜂の連中はブンブン忙しいねぇ」

 セルワが言う〝蜂の連中〟、というのは宇宙軍工兵隊のことだ。蜂のワッペンを作業着や宇宙服につけていることから、民間の作業員はそう呼ぶ。民間の作業員がほとんど退去したので、飯場に残っているのは工兵隊のほうが多い。

〈日傘〉が使われているあいだは、出番がないので休んでおくよう命じられていたはずの工兵隊が、さっきから慌ただしく動き始めていた。

「今になって、防壁の大幅な組みなおしがあるらしい。その準備でてんやわんやだとさ」

「はぁ? 冗談じゃないよ! ちょっとホアン少佐のとこに行って話してくるよ」

 立ち上がろうとするセルワを、田宮がとめた。

「やめときな。少佐の仕事の邪魔になる」

「こっちだって仕事でやってんだ――ああ」

 セルワは浮かした腰を、椅子に戻した。

「仕事なら優先順位があるって言いたいんだろ、じいさん」

「そういうこった。あの食えない男が、今になってドタバタ騒いでるってことは、よっぽどだ。おれらへの説明の優先順位が下になるのは、しかたねぇ」

「わかってるよ。そういうのも、納得してここに残ったんだしね」

 セルワは大きな手で皿の上の豆をまとめてつかむと、口の中に放りこんだ。丈夫な歯で、ボリボリと大きな音をたててかみ砕く。

 田宮は、セルワのコップに冷えた茶を注いだ。セルワが軽く頭を下げてからコップを持ち上げ、田宮のコップとカチンと合わせ、顔をあげて飲む。

 モニタに向けられたセルワの瞳が、細められた。

「じいさん」

「ああ」

 うっすらと地球が見えていた。

 黒く宇宙の闇に沈んでいた地球のあちこちに、ぼんやりと白い斑点があった。それが地球の輪郭を浮かびあがらせていた。

「おお、アラーよ。〈日傘〉に、穴があきはじめた」

「くそったれめ」

〈アルテミスの日傘〉の弱点は、シールドを維持するための排熱能力だ。

 シールドが受けとめた太陽表面爆発の猛烈な放射線のエネルギーは、熱に変換されて捨てられる。〈アルテミスの日傘〉は、月の地下に埋めた無数の超伝導ケーブルを通して、月の冷えた地殻に熱を吸収させる仕組みを作ってある。月を巨大なラジエーターにしようというのだ。

「突貫工事で長くはもたないと聞いてたから、覚悟はしてたが早くないか? まだ五分とたってないぞ」

「ちょっと待って。月のデータを見てるから……排熱能力の低下が予想以上に大きいんだ。管理AIセレネが優先順位を切り替えた。最優先が、長城などの軌道施設。次に海洋が蒸気爆発を起こさないように熱量を抑制すること。今は陸地側の地面の影を薄くして、少しでも〈日傘〉を長く保たせようとしている」

「曇り空ってわけか。あのぼんやり光ってる下にはいたくねえなぁ」

 田宮は両手を合わせて拝んだ。無意識の行動だった。

 セルワがアラーの名を口にしたように、マインドリセットされたのちも、地球人の心の中には古くからの信仰、自然への畏敬の念が残っている。人類という種を作り出したのはオーバーロードだとしても、それを育んだのは、地球という母なる惑星だという意識が、まだ残っているのだ。

 その地球が、いま焼かれようとしている。