リォデ湖の底に大量の鉱石燃料を発見してからというもの、クルァシンはその扱いについて悩みに悩んでいた。場所が中陸有角種の勢力とヴァルハ・セドレの緩衝地帯という事実も話を一層ややこしくしている。多少強引な手段に訴えてでも、一刻も早くこの地を管理下に置きたい気持ちはあったが、それは言うほどに簡単なことではなかった。
(ここの地を手に入れようと言うのなら、ヴァルハ・セドレとの全面戦争、ひいては西栄地域との軋轢も覚悟しなければならない……。それでは大陸を二つに割ることにしかならず、世情不安を誘発したいアルマダートの思う壺だ。だが、ここをこのまま放置しておけば、遠からず誰かがあの鉱石燃料の価値に気付いて利用を始めることも考えられる。そうなれば結局、新たな燃料と技術を巡って、大国同士による奪い合いが起こることになる……)
リォデ湖のほとりをメリェと共に歩きながら、クルァシンはひたすらに思索の海へ潜り続けていた。……すでに次の四満月は目前に迫っており、この地に留まっていられる日数は残り数日もない。同盟勢力としての方針はセレィのもとに帰還してからでも検討できるが、鉱石燃料の秘匿について、この場で打てる手は全て打っておきたかった。
「……メリェ。今のところ、この地には本当に不穏な気配は感じられないんだな?」
「はい、導神さま。活気のある町ですけど、皆さんの心はけっこう穏やかです」
にこやかに言ってのけるメリェだが、その内容が含む異質さに、果たして彼女自身が気付いているのかどうか。──導神と心を繫げる経験を重ねて、彼女の有角種としての感応能力は格段に進歩し、大胆に言い換えれば一種の神性を帯びつつある。導神がわざわざ背負ってまでメリェをここに連れてきた理由もそこにあるのだ。端的に言えば、彼女の一角はそれに触れた相手の心情を汲み取るだけでなく、導神の思考を他人との間で仲介して伝達し、はたまた集落や町といった、より大きく漠然とした共同体の傾向性を把握する領域まで高まっている。
それがメリェ自身にとっての幸運であるのか不運であるのか、クルァシンには未だ判別が付かない。ただ、使える能力であることは間違いないから利用している。そのことに対して罪悪感を抱くべきなのかどうかも分からない。知らず知らずのうちに、あるいは彼自身が無意識に望んだ結果として、この有角種の少女は導神と深く繫がり過ぎている。それはともすれば、彼の深層に住まう亡者の女王と同じように、メリェという少女の人格を、クルァシンの神性に内包する結果になりかねない。
「……? どうかしましたか、導神さま?」
そんなクルァシンの葛藤を知ってか知らずか、メリェの無邪気さは、最初に出会った時から少しも変わらない。そのあどけない横顔に、永遠に変わらないのではとさえ思わせる思慕の情に、導神は思わず問いかけたくなる。──お前は一体、どこまで俺に付いて来る気なのかと。どこまで付いて来てくれるのかと。
「……いや、何でもない」
決定的な答えを先延ばしにして、クルァシンは穏やかな面持ちでメリェの頭を撫でる。……今はただ、こうして普通に彼女を愛でていたい。本当の娘か妹のように、自分が責任に押し潰されそうな時、その心を癒す存在であり続けて欲しい。それが身勝手な願いと分かってはいても。
そうして言葉少なに湖畔を歩き続けていた二人だが、ふとクルァシンの瞳に警戒の色が宿った。そう遠くない距離から発せられた、微弱な『意味性の崩壊』の気配を感じたのである。MPのそれとしては弱すぎるので、〝神狩り部隊〟が発展界の機器を使用した際のそれと見て間違いない。
(ルダ・ガイランの負傷は未だ治りきっていないはず……。新手だとしても、『意味性計測器』で俺の存在は察しているはずだろう。……誘いをかけているのか?)
罠である可能性はもちろんあったが、敵がそういった策略を用いる場所としては、この周囲の地形は余りにも拓け過ぎている。人通りは少なく、身を隠す場所もなく、〝神狩り部隊〟の得意技である周辺環境をえげつなく利用した奇襲には明らかに向いていない。
(メリェひとりなら守るのに苦労もない。……ここは誘いに乗ってみるか)
ピリピリと肌を刺激する『意味性の崩壊』の波動の出所を辿って、クルァシンは引き続き湖の外周を進んでいく。どうやら相手は水際にいるらしいと、導神がそう推測するまでもなく、見るからに怪しげな女の姿が視界に認められた。
「うっわぁぁぁぁァ、この湖すっごい! 豊富な生態系の宝石箱ですよ!? やぁん何これ、魚? 貝? それとも甲殻類? いっそ別の分類を作っちゃうべき? ああもう、いっそ体ごと水中に飛び込みたいですよぉ!」
人目がないのをいいことに、あるいは人目があっても同じなのか、その女は興味と感動の赴くままに全身を使って喜びを表現している。一応現地民らしい変装はしているのだが、分厚い瓶底眼鏡と研究者の白衣じみた白い外套があからさまに異質で、もはや単に余所者というよりは異邦人と表現するべき浮き上がり方だった。
導神はしばし対応に惑った。無視して通り過ぎようかとすら頭によぎったが、『意味性の崩壊』の出所が他ならぬその女であることは感覚が証明している。であれば話しかければ何らかの反応はあるだろう。最低限の警戒は残したままで、クルァシンはその女の背後に歩み寄った。
「……おい。そこの不審者」
「はいはい何ですかー。今私、すっごい忙しいんですけどー」
渋々といった様子で振り返った女だったが、目の前の相手の全容を認めた瞬間、不機嫌そうな表情が、そのままの形で強張った。
「……えっ? あれっ? うわわっ!?」
女はそのまま尻餅を付き、尻から腰までを湖の水に浸した。まったく無防備極まりない一連の挙動に、クルァシンは呆れよりもむしろ警戒を強めた。……新手の戦略か? こちらの油断を誘う搦め手の一環か?
「……まず、確認させてもらう。お前は〝神狩り部隊〟の一員で間違いないか?」
「え? あっ、はい、そうです。〝神狩り部隊〟二番隊所属、環境調査員のヨクです。趣味は現地調査、特技はサンプル個体の捕獲です。以後お見知りおきを」
ヨクと名乗った女は尻餅を付いたままぺこりと頭を下げた。持っていれば名刺でも出しかねないほどの立派な自己紹介だった。クルァシンは頭痛を覚えながら相手を眺める。──何なんだ、この相手は? 本当に敵か? それともただの変人か?
「……えっと、その、互いに積もる話もあると思うんですけど……」
曖昧な笑みを浮かべてヨクが口を開く。湖水の冷たさが腰から全身に回ったのか、ぶるりと肩が震えた。
「……とりあえず、火を焚きませんか? 濡れた服も乾かしたいし、市場で買ってきた魚もあるんです。お昼ごはんにしましょうよ」
警戒は残しつつも、その提案にはさしもの導神も毒気を抜かれた。彼はメリェと共に砂浜に下がってじっと佇み、ヨクが手際よく火を起こしていく姿をじっと眺めていた。
「私ですねー、ちっちゃい時から、とにかく生き物が好きなんですよー」
焚き火の周りで串に刺さってじゅぅじゅぅと焼けていく魚を眺めながら、ヨクが唐突にそんな自分語りを始めた。未だに相手の性格を少しも把握できない導神は、隣に座ったメリェともども、さしあたり聞き手に徹することにする。
「頭はそれなりに良かったんで、生物学を中心にまんべんなく頑張って、まぁそれなりの学歴を身につけました。知っての通り、アルマダにはもうあらゆる意味で「自然」なんて存在していないんで、就職先は大体バイオテクノロジー関係の企業に限られちゃうんですね。それはちょっと私のやりたいことと違うんで、けっこう長いこと、色々と適職を探してました」
興が乗ってきたのか、ヨクは段々と饒舌に語り出す。馴れ馴れしい口調さえ気にしなければ、彼女の語り口は至って論理的で、内容が急に飛躍することもなく、聞き手に対して優しいものだった。
「いくつか候補は上がったんですよ。アルマダと同盟関係にある世界に研究員として行くとかね。学生時代の実績からオファーも来たし、その辺りが落としどころかなーと思っていたら、今度は思いもかけないところから誘いが来たんですよ。それがつまり──」
「──〝神狩り部隊〟に所属する、環境調査員としての求人だったわけか」
クルァシンの補足に、ヨクはこくりと頷く。曖昧に微笑んだ表情からは、未だにどのような真意も窺えない。
「いやー、業務内容を聴いたらびっくり仰天しましたね。なんと植民予定界に直接行って、現地の物理法則だの生態系だのを調べて、その成果を侵略政策の助けにするって話なんです。最初に聞いた時は、心の底から何て面白そうな仕事だろうって思いました。……だって未知の世界ですよ? 前人未到の秘境ですよ? 血沸き肉踊るフロンティアですよ?」
ヨクは熱っぽい口調で語る。クルァシンが意見を挟む間もなく、彼女は猛然と喋り続けた。
「この湖にしたってそうです。独自の進化を遂げた生き物たち、見たこともないやり方で巧妙に循環する食物連鎖。……私からすれば夢の国ですよ。見て、潜って、採って、調べているだけで十年は楽しめます。心の底からここに来られて良かったと思いますね」
「……それは結構なことだがな。そんなに生き物や異境が好きだというのに、結果としてその大部分を破壊しつくすことになる植民界政策の尖兵、〝神狩り部隊〟の一員であることに、葛藤や自己矛盾を感じたりはしないのか?」
導神は容赦なく核心を突く。だが、その追及を受けても、ヨクの曖昧な微笑みは揺るがない。
「ちっとも感じませんねー。だって、侵略政策が進行して植民予定界の生態系が破壊され始めるのは、まだ時間的にずっと先の話ですから。私はそれまでじっくり調査を楽しんで、潮時が来れば別の世界で似たような任務に移れば良いだけの話です。ほら、結果として沢山の世界に行けるわけだし、私の適性に合ったすっごくお得な仕事だと思いませんか?」
その言葉を聞いた瞬間、クルァシンの中で怒りが膨れ上がった。──楽しむだけ楽しんだら、後は滅びても構わない? 結果として沢山の世界が見られるからお得? 吐き気を催すほどに手前勝手な論法だ。そんな人間にとっては確かに〝神狩り部隊〟は天職だろう。異なる世界を愛していると言いながら、それが滅びゆく様に少しの想像も及ばせられないような者には。
無意識に固く握り締められていたクルァシンの拳に、メリェがそっと手を被せる。そうしながら、彼女は柔らかな仕草で首を横に振り、ヨクに向かって口を開いた。
「ヨクさん、とおっしゃいましたね。わたしはメリェと申します。突然ですが、一つお尋ねしてもよろしいですか?」
「かまいませんよー。なんですか?」
「では──どうして、そんな悲しい噓をおっしゃるんですか?」
クルァシンは眼を瞠ってメリェとヨクを見比べた。導神が女の本意として疑いもしなかった仮面の奥の本心を、有角種の少女は完全に見透かしていた。瓶底眼鏡の奥でヨクの瞳が見開かれる。その看破は彼女にとっても予想外だったに違いない。
「あなたが自分の仕事を楽しそうに話すたびに、心がきしきしと音を立てています。あなたは笑いながら泣いています。本当はそんなことを言いたくないのに、誰かに本当の気持ちを分かって欲しいのに……どうしてそんな風に、他の人に見せる姿を、一番そうでありたくない形に歪めているんですか?」
メリェは言葉を飾らず、豊かとは言えない語彙で率直にヨクの真意を質す。……問われる側にとって、それは時に何よりの恐怖でもあるだろう。この少女の無垢なる瞳は、そのまま己の真実の姿を映す鏡になるのだから。
メリェの顔をまじまじと見つめたまま、ヨクはしばらく黙り込んだ。……が、やがて大きな溜め息をひとつ吐き出したかと思うと、顔に掛けていた瓶底眼鏡を取り去った。そこに現れた二つの瞳は、先程までの惚けた印象とは正反対の、鋭い知性の光を宿したものだった。
「……参ったね。そっちの神様の器を測るつもりが、まさかその嬢ちゃんに、こっちの本心を見抜かれるとは思わなかったよ」
皮肉げに吊り上がった口元から低い声が漏れる。眼鏡を外した瞬間を契機に、顔つきの印象どころか、言葉遣いまで完全に一変していた。能面のように張り付いていた曖昧な笑顔は既にない。それが剝がれ落ちた内側からは、深い葛藤と怒りを宿したヨクの真の貌が覗いている。
「まったくその通りさ。あたしは異世界の生き物と、環境と、文化と、それらが有する無限の可能性を心から愛している。その全てを奪っていくアルマダの植民界政策なんざ、余すところなく糞喰らえだ」
「──な」
「だからこそあたしは〝神狩り部隊〟の内部にいる。クソッタレな侵略活動の片棒を担がせられていると分かっていながら、それによって滅ぼされていく世界を少しでも減らすために。……でもね、これは発展界に生まれた人間としての、植民界に対する罪滅ぼしなんかじゃない。そんな上等なもんじゃなくって、こいつはあたしの趣味と矜持の問題だ。価値ある何かがその価値を知らない連中によって踏みにじられていくのが許せない。……そういう、アルマダ内部じゃ煙たがられる類の反骨精神をもった連中ばかりが集まった組織を、あんたもかつては作り上げたんじゃないのかい──奄倉信?」
正しい日本語の発音、かつて人であった頃の正しい名前で呼ばわれて、クルァシンは不覚にも身を震わせた。その反応を見逃さず、ヨクはにやりと不敵な笑いを浮かべた。
「やっぱりそうだったかい。……もう随分昔に、地球で起こった反植民界主義を巡る学生運動についちゃ、あたしたちみたいな連中の間ではちょっとした語り草になっているのさ。その中心人物であった青年が、アルマダの粛清を受けた後にどこへ消えたのか……その先の事についちゃ、いくつか与太話のパターンがあってね」
魚がほどよく焼けたのを認めると、ヨクは串ごとそれをとって豪快にかぶりつく。むしゃむしゃと美味そうに咀嚼して、ごくりと口の中のものを飲み込んでから、彼女はもったいぶって言葉を継いだ。
「その中のひとつに、こういうのがある。──両親を失い、友を失い、恋人を失い、組織を失い、その上にアルマダからの圧力によって社会的に抹殺された奄倉信は、皮肉にもそれを契機にMPとして覚醒した。それから当て所なく彷徨っているうちに、気まぐれに弟子を取ることで有名な祖武神ユンフェイに拾われ、そこで数十年の修行を積んだ。──かくして地球の一活動家に過ぎなかった青年は若き神として生まれ変わった。──それが今のあんた、導神クルァシンだ」
「……そこまで知られているのなら隠す意味もなさそうだな。確認しておくが、その情報は、すでに、〝神狩り部隊〟では周知の事実なのか?」
「祖武神の弟子ってことは、あんたが自分で明かした部分だから知られちゃいるが、他の点に関しちゃあたし以外に知る奴はいないよ。与太話の一パターンだって言っただろ? ……あたしだって確信を持てたのはたった今なんだ」
「なるほどな……。俺の来歴はともかくとして、どうやら話は見えてきた。ヨクと言ったか……お前は腹に一物あって〝神狩り部隊〟に潜り込んでいる。しかもそれはアルマダートの植民界政策に反抗する目的だ。要するにお前は──」
「──お察しの通り、抵抗組織の一員にして〝神狩り部隊〟に潜入中の二重スパイってわけ。……本名はあるけど、まぁ当分はコードネームのヨクで通してちょうだい。任務中に会った時にうっかり本名で呼ばれて、他の連中に妙な疑いを持たれるのも嫌だからね。この地位まで漕ぎ着けるのも並大抵の苦労じゃなかったんだから」
ぼやきつつ、ヨクはあっという間に焼き魚を一匹平らげて次の一匹に移る。その見事な食いっぷりを感心の眼で見やりつつ、クルァシンはさらに情報を得ようと口を開く。
「……どうやら互いにとって有益な交渉が出来そうだな。まずは互いの具体的な目的を明らかにしよう。その上で、このエナ・ガゼという世界の保全について可能な限りの協力体制を──」
クルァシンが本格的な交渉に踏み切ろうとした瞬間、まったくの不意打ちで彼の全身の肌がびりびりと震えた。ヨクも異変に気付いて左腕の『意味性計測器』を確認する。突然の暴風にも似た圧迫感を全身に受けながら、クルァシンは一瞬にして察していた。──〝神狩り部隊〟の活動では有り得ないほどの強烈な『意味性の崩壊』の波動。それは即ち、ここから遠くない位置に、新たなMPが出現したことを示す予兆に他ならない。
クルァシンはメリェの手を摑んで即座に立ち上がった。食べかけの焼き魚を投げ捨てて警戒の視線を周囲へ巡らせるヨクに、導神は強い口調で問いかける。
「……これはどういうことか、お前に答えられるか?」
「……正直、心当たりはあるよ。ヤストターカスの植民王が、子飼いのMPをエナ・ガゼに向かわせるって話だったからね。ただ……そいつとはあたしも面識があるんだけど、いま表示されているのとは『意味性計測器』に登録された固有数値が違う。それがそのまんま別神ってことにはならないだろうけど……」
ヨクの発言も精彩を欠いている。彼女にとっても予想の内とは言い難い状況なのは明らかだ。クルァシンはしばし黙考してから方針を決定した。──新たなMPの正体も狙いも分からない以上、まずは様子を窺いに行くしかないだろう。
「メリェ。お前はソロェリとルァミラの家に帰って大人しくしていろ。俺はとにかく相手を眼で見て情報を得てくる。……もちろん、可能な限り戦闘は避けるがな」
メリェは素直に頷いて、その場から小走りに駆け出す。すでに地元の漁師にも馴染みの顔となっているメリェであるから、ひとりで帰らせることにも危険はない。その背中が曲がり角に消えるまで見届けると、導神はむしろ、目の前のヨクの方に疑いの残る眼差しを向けた。
「……今までの話では、互いに充分な信用を得るには至っていないのは分かるだろう。言うまでもないことだが……お前が今の娘に危害を加えるようなことがあった場合、殺して逃げるにしろ人質にして逃げるにしろ、その後にお前の五体が無事に済むとは思うなよ」
「分かってるよ……。今回の出来事はあたしにとってもイレギュラーの線が濃厚だ、とりあえず身を潜めて様子を見るさ。図々しい話になるけど、相手の情報を手に入れて戻ってきたら、良ければあたしにも教えてくれない?」
「条件と場合によりけりだな。──では、俺は行く。嵐が去るまで、せいぜい息を潜めていろ」
そう言い残すなり、導神は砂地を蹴って風のように湖畔から走り去っていった。──嫌な予感などという言葉では表しきれない。巨大な何かが蠢く予兆が、クルァシンの足を否が応にも急がせた。
導神が気配を断ちつつ駆けつけた先は、リォデ湖畔の町から少し離れた場所にある拓けた草原だった。彼にとっては厄介なことに、身を隠す場所が乏しい。細心の注意を払いながら『意味性の崩壊』の起点に向かって進んでいくと、その視界に意外な光景が映った。
(──少年、だと。それも二人……?)
草原の真ん中に並んで立っているのは、服装も顔つきも一切が同じ印象の、未だあどけなさが面立ちに残る二人の少年だった。上下が繫がった焦げ茶色の衣服に、濃い緑色の上着を羽織って、共に薄緑色の髪の毛を一本に纏めて背中に垂らしている。
もう少しよく顔を見ようと、クルァシンがほんの半歩だけ足を進めた瞬間、二人の少年の瞳が同時に動いて、導神の身体を視線で射竦めた。
「それで隠れているつもりならば」
「無駄である故、早々に出てくるべし」
クルァシンはぎょっと身を強張らせた。気配を断っていたにも拘らず存在に気付かれた事実もさることながら、二人の少年が順番に発した言葉が、別々の口から紡がれたにしては余りにも滑らかだったからだ。熟練の唱歌隊でも及ばないほどに、二人の少年の発声は完全に調和していた。
「……覗き見の非礼は詫びよう。どうやら、そちらにも武の心得があるようだな」
一応の謝罪を口にしつつ、クルァシンは二人の少年に対して姿を晒した。途端、無遠慮な二対の瞳が導神の身体を頭から爪先まで検める。その確認を終えると、少年たちはクルァシンに正面から向き直り、さらには全く同じ動作で佇まいを正し、二人並んで拳を合わせた。
「祖武神ユンフェイ様の直弟子、導神クルァシン殿と御見受けした」
「かの海神ポセイダオンを打倒せし手腕、まさに壮挙の一言なり」
「而して、我らの拳は未だ極みの域に達せず、未熟の誹りを免れぬが」
「願わくば御身の実力を以て、我ら後進の輩に、一手ご指南を賜らん」
ごう、と二人の少年から実際の風圧を伴った戦意が叩きつけられる。それを受けたクルァシンは一瞬にして身構えた。──交渉の余地は一片もない。言葉遣いこそ丁重ではあったが、目の前の二人からは、純粋な戦闘意志以外のどんな目的も感じられないのだ。
「……どのみち否応がないのなら、不本意ながら手合わせには応じよう。──だが、その前に教えて貰おう。そちらも先程言ったように、我が師父は祖武神ユンフェイ、その門下生たる俺の名は導神クルァシン。では、お前たちはいずれの神々か? また、いずこの神に師事した身の上か!」
クルァシンは強い口調で問いかける。その要求を当然の礼儀と受け取ったのか、二人の少年は一拍置いて、先程と同様の完璧な調和を保った輪唱で問いに答えた。
「我らの師父は、豪壮無比なる三面六臂の益荒男」
「武界の頂に君臨する大いなる修羅、その尊名は武皇神アルムトゥガ」
「而して、我らはその直弟子。武皇の教えを一心二体に授かりし者」
「左様なり。我らは二人で一人の双子神。その名をば──」
「「──双竜神イルファ=フィロンと申す!」」
名乗りと共に、導神の視界から二人の姿が搔き消える。──先立った気配はかすかな風切り音のみ。その予兆だけを頼りに攻撃の軌道を読んだクルァシンは、咄嗟に震脚を大地に叩きつけ、左右両面へと向けて渾身の掌底を放った。
「ぐぅっ………!」
したたかな打撃が体幹を揺すぶり、練気を経て繰り出された両掌が、辛うじて衝撃を相殺する。──敵は疾い。受け止めた次の瞬間にようやく、それが蹴りであったことに気付くほどの敏捷さ。だが、打撃そのものの速度や威力よりも、それが左右から完全に息を合わせて繰り出されたという事実こそが、未だ遭遇した経験のない脅威として導神に警戒を促した。
「……互いに師父の名を出した以上、これは流派の名誉を懸けた闘いだ。である以上、未だ数ある武峰の一つとして登り尽くさぬ身の上だが、俺もまた全霊を尽くしてお前たちを迎え撃とう。腹を据えて来るがいい、双竜神イルファ=フィロンとやら……!」
踏み脚が大地を打ち鳴らし、二房の下げ髪が風と共にたなびく。──かくして草原を交差する疾風は二条から三条に数を増し、互いの武門の誉れを懸けて、神々の決闘が幕を開けた。