──八子神の一柱にして、牙種たちの祖神に当たる『牙鋭きヤシュタルガ』。その特性を端的に現す挿話は、ネルマフカ神話の中にも数多い。
例えば、父神ネルマファの思いつきで、子神たちの内の誰の足が一番速いかを確かめてみようということになった。要するに駆けっこである。かくして全ての子神たちが一斉に同じ距離を走った結果、ヤシュタルガは四位という目立たない順位に終わった。だが、彼はその結果に納得しなかった。
「父上、どうも僕にはこの走り方が馴染みません。やり方を変えますから、もう一度だけ全員で競走させてください」
負けん気の強いヤシュタルガの言うことである。無碍に突っぱねれば不機嫌になるのは分かりきっていたので、ネルマファも寛容に彼の言い分を聞いてやった。そうして全ての兄弟が再び競い合ったところ、誰にとっても予想外の事態が起こった。ヤシュタルガは両手を地に着け、まるで四本足の獣のように走って、見事に他の兄弟たちを抜き去っていったのである。
「どうですか、父上! やはり駆けっこでは僕が一番です!」
胸を張って勝利を誇る息子を前にして、父神ネルマファは結果を率直に褒めるべきか、走る姿勢を正すようにきちんと躾けるべきか、それから長いこと悩まねばならなかったという。
「アッッッラァァァァァァァァァァァァイア!」
獣じみた四足走行の他にも、牙種が有する能力は数多ある。他民族よりも一回り優れた運動性能もそうだし、相手を威嚇する際に用いられる大音量の雄叫びもそうである。中陸に生きる多くの生き物は、緋獅子という稀有な例外を除いて、この雄叫びには本能的な恐れを抱く。最強の獣王ですら至近距離で叫ばれれば意に介さぬわけにもいかず、結果としてバニィルは、緋獅子の注意を自分ひとりに引きつけることに成功していた。
「うぉぉぉぉッ……!」
前足による薙ぎ払いが危うく眼前を過ぎ去っていく。直撃すれば全身の骨は砕け、掠っただけでも鋭い爪が肉を抉っていくだろう。一発でも喰らえば全てが終わる。そんな致命的な一撃を紙一重で避け続けるバニィルの有様は、強大な敵に挑む武人の勇姿というよりも、むしろ猫に弄ばれる鼠のそれに近い。
(は、はははッ──今になってようやく思い出して来たぜ、このどうしようもない絶望感。なぁ、昔のおれよぅ、お前さんは一体どうやってこんなバケモノに勝ったんだい。ケチケチしねぇで、ひとつ教えてくれや……!)
バニィルはもはや笑うしかないが、現実には笑っている暇もない。──どこに攻める隙があるというのか。獅子の全身を分厚く覆う筋肉は、尋常の剣や矢で貫けるものではない。ならば長槍で一息に内臓まで突き通すか? それでも甘い。刺さった瞬間の筋肉の締め付けで得物ごと持っていかれるだろう。まだしも可能性があるとすれば大型の弩による一斉射撃だが、もちろんそんな大型の城塞兵器をセレィたちは持ってきていない。
他方、獣王の猛攻から必死に逃れ続けるバニィルの上空では、コリォを始めとする有翼種の天弓隊が懸命に援護射撃を行っていた。既に二十本を越える矢が獅子の全身には突き刺さっていたが、それが戦況に何らかの影響を及ぼしているかといえば、答えは否である。
(なんて生き物……! 矢をまったく意に介さないなんて!)
次の矢を弦に番えながらも、コリォは緋獅子の驚異的な頑強さにひたすら圧倒されていた。筋肉の分厚い背中を避けて、可能な限り効果の高そうな部位を狙い撃っているのだが、胴体の側面、脚の腱、首筋──どこに当たっても、相手は痛がる気配すらないのだ。
(ならば、次は眼を狙えば──!)
コリォは心を決めて弦を引き絞った。動き続ける相手に対して狙う的としては小さすぎる急所だが、幼少より母親から受けてきた厳しい教えの甲斐あって、中距離での狙い撃ちはコリォの得意中の得意である。難易度は高いが、この距離ならば決して不可能ではない。
「───やぁッ!」
コリォの弓から放たれた矢が、獅子の眼へと向かって一直線に突き進んでいく。角度は申し分ない、確実に捉えた──コリォがそう確信した瞬間、しかし、計ったように振り上げられた獣王の前足が、急所を貫くはずだった矢をあっさりと弾き飛ばした。
「な……ッ!」
その光景に、天弓隊の面々は弓手として最も単純な絶望を突きつけられた。──矢の軌道を見切られている。およそ常識では考えられないことだが、理屈を超えた野性の直感、あるいは驚異的な動体視力の成せる技と受け入れる他なかった。
「ど、どうすればいいの……。こんなの、援護の仕様がない……!」
天弓隊の誰もが同じ気持ちだった。もはや次の矢を番えようという気すら起こらない。規格外の敵を前に、有翼種たちの心が成す術なく折れかけた時──コリォはふと、遠間から自分を見守る二つの視線を感じた。
(……姉様……サーリャさん……)
怯える羊たちの周囲を騎兵で固く囲いながら、セレィらは丘の上からじっと戦いの趨勢を見守っていた。忸怩たる思いでいるのは彼女らも同じに違いない──バニィルが正面から単独で緋獅子に挑むことによって、誇り高き獣王は彼との戦いを最も優先している。この上に騎兵が乱入すればその均衡が崩れ、周囲の全員を敵と見なした獣王は見境なしの虐殺を始めるだろう。上空のコリォたちが見逃されているのは、彼女らが敵として見なされてすらいないからだ。いかに己の縄張りを死守する緋獅子と言えども、空を飛んでゆく鳥にまでは注意を向けない。天弓隊が必死に降らせる矢の雨も、獣王からすれば鳥のフンと大差のないものだ。
屈辱的な事実ではあるが、それを逆手に取っているからこそ、コリォたちはバニィルの援護を試みることが出来ている。ゆえに補佐の全ては彼女らに委ねられているのだ。姉と『聴士』の少女から注がれる熱い眼差しから、コリォはその期待を改めて汲み取った。
(何を諦めているんだ、私は……。絶望してる暇があったら、別の手を考えればいいじゃないか!)
そう内心で奮起すると、彼女は何度か深呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻してから目の前の問題と向き合った。──眼の他に効果のありそうな急所はない。だが、射撃を完全に見切られているのだから、どんなに狙い澄ましても、こちらの矢を相手の眼に当てることは出来ない。
(見切られているから当てられない。……見切られているから、当てられない?)
その因果にふとした違和感を覚えた瞬間、コリォの脳裏に予期せぬ閃きが舞い降りた。──見切られているということは、その前に見られているということだ。逆に言えば、見られなければ見切られることはない。そのためにはどうすればいい?
(……答えはひとつ。矢を放つ自分の姿も、的に当たるまでの矢の軌道さえも、完全に相手の死角に隠せばいい!)
可能性を吟味している暇はない。思い立った僅かな希望を実践するために、コリォは両翼をはためかせて、猛然とバニィルを襲い続ける緋獅子の後方へと向かった。
戦いの開始から一時間近くが過ぎ去り、ここまで変わらぬ敏捷さで獣王の攻撃を避け続けてきたバニィルにも、いよいよ体力の限界が訪れつつあった。
「はっ……はぁっ……。くっそ、年は取りたくねぇもんだな……!」
元勇者は悔しげに呻いた。三日三晩を戦い抜いた頃の自分が今は懐かしい。酒浸りの日々は誰よりも逞しかった彼の身体を確実に衰えさせ、全盛期の動きを保ち続けられる限界時間はとうに過ぎ去っていた。最初のうちは紙一重で避けきっていた攻撃も、疲弊しきった身体では逃れられない。腹部を掠めていった爪の傷から内臓が零れ出さないのが唯一の救いだった。
「上空じゃ有翼種の嬢ちゃん方も頑張ってるみてぇだが……いけねぇなぁ。こりゃ、どうにも活路が見えねぇ……」
バニィルは歯軋りして呟く。無論、彼とて一切の勝算なしにこの戦いへ赴いたわけではない。彼の狙いは始めから今に至るまでただ一点、獣王の懐に潜り込むことだけである。それさえ出来れば決着をつけられる。だが、そのための好機がどうしても見出せないのだ。
ひゅぅ、と弱々しい呼吸がバニィルの喉から漏れる。──その一瞬、今まで休みなく保たれていた彼の集中が一瞬だけ緩み、そこに生まれた心の隙を百戦錬磨の緋獅子は見逃さなかった。強靭な後ろ脚が地を蹴り、緋色の巨体が空中からバニィルに襲い掛かる。
「うおおぉッ……!」
真っ赤な口腔がバニィルの視界を覆う。黙っていれば腰から上を食い千切られていただろうが、彼も咄嗟に横へ転がり込んで最悪の事態を回避する。しかし、その動きさえも獣王は読んでいた。次の瞬間、追い討ちの薙ぎ払いがバニィルの身体を直撃した。
「がはッ……!」
バニィルの身体がくの字に折れ曲がり、一撃で受けた勢いのまま遙か先まで転がっていく。……爪の部分が当たらなかったのと、両腕で防御をするのが間に合ったおかげで、どうやら即死は避けられたらしい。幸運に感謝しながら、バニィルはよろめきながらも立ち上がろうとしたが──そのために地面に手を着いた瞬間、彼の両腕に猛烈な激痛が走った。
「ぐぉぉッ……!?」
呻き声を漏らしながら視線を落とし、彼はそこでようやく自分の状況を思い知った。──両腕の至る所が不自然に折れ曲がっている。骨が砕け、肉が潰れ、もはや腕としての体裁を残していない。
(ああ……こいつは、いけねぇ……)
地面にへたり込んだまま、バニィルは悠然ととどめを刺しに近付いてくる獣王の姿をぼんやりと眺めた。──へし折られたのは腕であると同時に前脚であり、さらには戦い続ける意志だ。彼にはもはや立ち上がる気力すらない。
最期の瞬間を待つまでの間、バニィルの脳裏には様々な記憶が蘇った。──不利な戦を共に戦った仲間たち。全てを失ってやさぐれた自分を、それでも温かく受け入れてくれた優しい妻。貧しい生活の中で生まれてきた多くの子供たち。夜毎に語り聞かせてやった数え切れない武勇伝。それを一番楽しみにしていたのは、今は遠い西の国まで出稼ぎに出ている長女だった。
(ごめんな、ソロェリ……。もう、父ちゃん、新しい武勇伝は聞かせてやれねぇみたいだ)
心の中で娘に謝ると、もはや緋獅子の巨体は眼の前まで迫っており、バニィルは死を受け入れるように両眼を閉ざした。まったき暗闇の中、すぐにでも嚙み殺されるだろうと思って待ち構えていると──なぜか、思いもかけない呻き声が、彼の耳朶を震わせた。
「……え?」
バニィルが恐る恐る眼を開けると、そこには奇異なことに、前脚で片目を押さえて蹲る獣王の姿があった。彼には咄嗟に状況が理解できなかったが、緋獅子の巨体よりもやや後方の上空、矢を放った体勢で硬直している有翼種の娘の姿を見た途端、驚愕の念と共に状況を把握した。
(当てたのか──嬢ちゃん! あの位置から、こいつの眼に!?)
およそ考えられぬ神業と言って良かった。──眼を狙うにしても、普通に矢を放ったのでは弾かれてしまう。そう悟ったコリォは、まずは死角からの狙撃を試みた。そこまでは当然の発想だろう。だが、緋獅子は射手が矢を射る様子から攻撃を見切るのではなく、飛んでくる矢の軌道そのものを眼で捕捉して防御してのけるのだ。そんな理不尽なまでの迎撃性能を突破するためには、最初から最後まで放った矢を相手の視界に入れない手しかない。
つまり、コリォは緋獅子の後方から斜め上空に向かって矢を放ち、極端な放物線を描く軌道で眼に命中させたのだ。肉食動物の両眼は顔の前側にあるため、獣王の視点では、命中の瞬間まで矢の影を捉えることも出来なかっただろう。まさしく相手の盲点を突くその発想力もさることながら、曲撃ちも同然の射撃で眼球という極小の的を射止めてのけたコリォの技量こそ、惜しみない勝算に値するものだった。
「……ルオオォォォォォォォン!」
獣王の口から確かな苦痛の呻きが漏れる。今まで絶えず発せられていた絶対的な圧力が、今だけは明らかな綻びを見せている。それを認めた瞬間、バニィルは両腕の激痛も忘れて立ち上がった。──これだ。これこそが、今の今まで待ちに待った好機だ!
「アッッッラァァァァァァァァァァァァイア!」
牙種の雄叫びが響き渡る。完全に壊れた両腕を見限って、バニィルは残った二足で獣王の懐目掛けて走り出した。その気配に気が付いた緋獅子も、すぐさま敵を迎え撃つべく前脚を薙ぎ払う。だが、矢を受けた眼の側から疾走してくるバニィルの位置を、獣王には正確に捉えられない。極端な前傾姿勢で走り抜けたバニィルの頭上で、迎撃の前脚は虚しく空を切った。──それは同時に、バニィルが緋獅子の懐に潜り込んだことも意味した!
「ガアァァァァァァッ!」
待ちに待ったその瞬間、バニィルは口腔から四本の鋭い牙を剝き出し、満を持して緋獅子の喉元に喰らいつく。皮一枚を隔てたその部位に、獣王の唯一の弱点とも言うべき太い血管が存在することをバニィルは知っていた。渾身の力を込めて顎が閉ざされ、四つの牙が血管の壁を突き破って内部にまで達する。──瞬間、牙の先端に開いた極小の孔から、獣王の血管の中に微量の体液が流れ込んでいく。分量にして小匙一杯分にも満たないその液体こそが、牙種という民族が有する最後にして最強の武器──即効性の麻痺毒であった。
「ヴルォォ……! ……ォォ……ォォォ……ォン……」
バニィルを突き飛ばそうとした前脚足が力を失い、全身を激しく痙攣させたと思うと、緋獅子の巨体はぐらりと傾いで大地に倒れこんだ。真紅の眼は瞼で閉ざされ、弱々しい呼吸だけは辛うじて続いているものの、首や手足は一切動かせなくなっているようだった。中陸最強と謳われた獣王のその有様を見届けた瞬間、バニィルは残された最後の体力を振り絞って雄叫びを上げた。失った誇りを取り戻したことを宣言する、それは勝利の咆哮だった。
「バニィル……! よくぞ、よくぞ打ち勝った!」
まだ安全を確認出来ていないと引き止める兵士たちも振り切り、セレィは愛馬を駆ってバニィルのもとまで駆けつけた。空中を旋回していた有翼種たちも次々と地上に降りてくる。あらゆる民族の隔たりを越えて、試練を乗り越えた勇者の功績が祝福されていた。
「へへ、あんがとよ……。でも、誉めるんなら先にそっちの有翼種の嬢ちゃんにしてやんな。奴さんの眼を射抜いたあの一撃がなけりゃ、おれはとっくにお陀仏だったろうぜ」
そう言ってバニィルはコリォを顎先で差した。瞬間、セレィは言われるまでもないという素早さで妹の身体を抱き締める。騎馬民族の視力は伊達ではない。有翼種の少女が成し遂げた神業まで、女皇はしっかりと見届けていたのだ。
「コリォ……あの追い詰められた局面で、よくぞあの機転に思い至った。よくぞあの矢を獣王の眼に当ててのけた。お前という妹を持ったことが、今ほど誇らしく思われた瞬間はない……!」
姉陛下の力強い抱擁を受けて、コリォの瞳にじわりと涙が滲む。口にする声は震えていた。
「じ……自分に、で、出来ることを、それだけを、ひ、必死に考えて、やりました……! サーリャさんに、お、教わった、通りに……!」
遅れてやってきたサーリャが、セレィの抱擁に重ねるようにしてコリォを抱き締める。……もはや誰が彼女をありふれた弓兵などと呼ぶだろう。彼女の活躍がなければ、それに続くバニィルの勝利もなく、おそらく騎馬隊の半数は壊滅していたのだから。
もはや互いに言葉もなく抱き合っている三人の娘たちの姿を、出稼ぎに出ている長女と重ね合わせて微笑ましく見やりながら、バニィルは駆けつけてきた兵たちによって両腕の手当てを施される。複雑に折れ曲がった両腕は元通りに治るかも怪しかったが、その全てを引き換えにしたとしても余りある勝利だと、彼の心はどこまでも晴れやかだった。
「……ああ、ちょっと待て! そりゃダメだ、奴さんにとどめは刺してくれるな!」
腰元から刀を抜き放ち、慎重な足取りで横たわった緋獅子に近付いていく有角種の兵たちに向かって、バニィルは慌てて制止の声をかけた。訝しげな面持ちで見返してくる彼らに、牙種の勇者は難しい面持ちで首を横に振る。
「……麻痺毒の効果は五分程度で切れる。それまで待ってやってくれねぇか」
とんでもない発言をしたバニィルに、正気か、という意味合いの視線が集中する。誤解されるのも当然とは思っていたのか、それでも彼は怯むことなく説明を続けた。
「まあ聞いてくれよ。中陸有角種よろしく殺して毛皮を剝ぎ取る必要なんざ、本当はないんだって。緋獅子は掛け値なしに誇り高い獣なんだ。自分を負かした相手には絶対に危害を加えない。……それによ、ここから目的地までの道中はまだ長いんだ。その間、どうせなら最高の用心棒が欲しくないかい?」
自信たっぷりの表情で言うバニィルに、騎馬隊の面々はきょとんと顔を見合わせた。
セレィらが中陸最強の獣王を下した日の夕刻、ヘィロンの率いる騎馬隊は砂礫地帯を避けた複雑な迂回路を経て、第二競走の目的地であるヴマ・ズォの集落に辿りつこうとしていた。誰の表情にも競走を行っているという緊張感は見られず、いっそ弛緩した空気すら漂っている。唯一の例外は、セレィの安否を気にかけて暗い面持ちでいるヘィロンだ。
「大首長、次の集落が見えてきました。……東方有角種の連中は、今頃どれだけ生き延びていますかね?」
「その運命は中陸の大地が決めるだろう。……下らんことを訊くな」
話しかけてきた同胞に応じる声もそっけない。それほどに彼はセレィと生きて再会する希望を低く見積もっていた。先の集落で会った時に無理にでも負けを認めさせるべきだったかと、今になってから悔やんですらいる。……だが、その苦悩は皮肉にも、
「……っ!? 大首長、集落の手前に騎馬隊が見えます! それに、あ、あれはまさか……!」
中陸有角種の兵士が愕然とした面持ちで前方を凝視する。その視線を辿った瞬間、ヘィロンですら咄嗟に眼を剝いた。──馬の五倍はあろうかという巨軀、その全身を覆う眼にも鮮やかな緋色の毛皮。かつて平原の覇者へと至る試練で彼自身も対峙した、それは中陸最強の獣王の姿に他ならない。
「──遅かったな。待ちかねたぞ、ヘィロン!」
そうして悠然と佇む緋獅子の傍らに、馬上で胸を張って勝利を謳う女皇の姿があった。騎馬隊のほかの面々も誇らしげな面持ちで並んでいる。数えてみればすぐに分かることだが、伴ってきた羊にも一匹たりとも損失はない。ヘィロンの側とてその点は同じことだったが、それはつまり、時間的に先んじて目的地に辿りついたセレィの側の勝利を意味していた。
「……何という女だ、セレィ。おれの予想を裏切って、しかし期待には応えてのけるか」
引き連れた兵たちの焦りとは裏腹に、ヘィロンは陶然とした面持ちで相手を賞賛した。そのまま黙って種明かしを待つ彼の眼前で、セレィは自ら一歩退き、傷めた両腕に添え木を施した牙種の男性を前に出す。
「紹介しよう。──そなたと同様、中陸最強の獣王を打倒してのけた勇者だ。名をバニィル・ゼスカ。そなたが有角種よりも劣った民族だとほのめかし、戦には必要ないとまで言い切った、誇り高き牙種の戦士だ!」
待ちに待った反論の好機に、勝利の結果と過程の両方をもって、セレィはここぞとばかりに意趣返しを実行する。大勢の前で賞賛を受けたバニィルは、そんな事態が久しぶりということもあって、気恥ずかしげに微笑って視線を落とした。
「次に、私たちが伴ってきた羊たちの足を見てみよ。革製の靴を履かせているのが分かるな? この前の集落で、長爪種の職人たちの力を借りて作り上げたものだ。実に頑丈な作りでな、いざ使ってみれば、かなりの悪路でも物ともしない。出発地点から最短距離を突っ切ってきたが、それこの通り、羊たちは傷一つ負っていないぞ。……砂礫地帯は避けて通るものだとばかり考えていたそなたらには、思いもよらぬ方法だったろう」
ヘィロン側の兵たちのざわめきが大きくなる。地の利と経験の蓄積という圧倒的な有利を、他民族との協力と創意工夫で覆されたという事実が、容易には受け入れられないらしい。それも無理のないことだと思いながら、セレィはなおも言葉を続けた。
「この勝利は我らの誇りだ。有角種を至上の存在と置き、他民族を無条件に劣ったものとして蔑視するそなたらのやり方では、決して得ることが適わなかったであろう勝利だからだ。……そしてこの結果こそが、エナ・ガゼ全土を纏める方法が征服であってはならない理由、あくまでも対等の立場における同盟でなくてはならないという証明だ!」
強い口調で言い切ったセレィの相貌を、ヘィロンそこで初めて敵意を含んだ瞳で睨み据えた。──自分の理想は決して絵に描いた餅ではない。具体的な結果をもってそう主張する女皇を、その思想と実力ともども、ヘィロンはついに全霊を懸けて戦うに値する相手として認識した。
「……今は何も言い返すまい。おまえを侮っていた事実を認め、率直に謝ろう。──第二競走はおまえの勝ちだ。その結果だけは、どんな言葉をもってしても揺るがせぬ神聖なものだ」
そう言い残すと、ヘィロンは配下の兵たちを連れて潔く去っていった。その後ろ姿を見送りながら、セレィは背筋にぞくぞくとした感動が上ってくるのを感じた。──あの男に、ついに自分を認めさせた。中陸の半分を統べる王者から、対等の敵として捉えられたのだ!
「これでいい……。互いの力量を認め合った上での競い合いならば、それもまた一種の対話足りうるだろう。ずいぶんと遅れたが、今になってようやく、我々は中陸有角種との交渉の出発点に立つことが出来たのかもしれんな」
感慨深げに呟くと、セレィはふぅと大きく息を吐いて肩の力を抜いた。張り続けていた緊張の糸が切れ、さしもの女皇にも気疲れがどっと襲い掛かったところで、彼女の隣に大人しく佇んでいた緋獅子が、ごく小さな一吼えで、それでも大気を激しく震わせる。獣王の意志をバニィルが代弁した。
「自分の役目は終わったか、って訊いてるぜ。もう帰してやって構わないだろ?」
「それを決められるのはそなたしかいない。勇者の望みのままに」
「んじゃ、その通りに。……ご苦労だったな、獣王さん。昔のも壮絶だったが、今度も本当に善い戦いだったぜ。……ま、さすがに三度目は御免だけどな」
労いの気持ちを込めて、バニィルの掌が緋色の毛並みを軽く撫でる。それを別離の挨拶と理解した獅子は、さらに驚くべきことに、前脚の爪を振るって己の横腹の毛皮を削ぎ取った。湯気の立つ血潮が付着したそれをバニィルの腕の中に落とすと、獣王は悠然とした動作で歩を進め、眼前に広がる果てしない平原の只中へと再び帰っていく。
「アッッッラァァァァァァァァァァァァイア!」
バニィルの喉から手向けの咆哮が迸った。誇り高き獣王は振り返ることなく、だが天を仰いで轟然とした雄叫びを返すと、そのまま夕暮れの紫色を帯びた地平線の向こうに消えていった。
「諸君、今回はよくやってくれた。残すは第三競走のみだが──」
例によって滞在のために用意された屋敷の中、セレィは決闘を締め括る最後の戦いに向けた作戦会議を行っていた。……が、その戦略について話し合いを始める前に、彼女は一度悄然とした面持ちになり、新たな不確定要素が出現したことを捕足する。
「だいぶ先ほどの話になるが、伝令の早馬が届き、ヘィロンの集落に捕らえてあった〝神狩り部隊〟の隠密が脱走したとの報せを受けた。我々が出発した日の夕刻のことだ。……その際に、ルクィツ・ジナ、ナムァ・デルェヌの二名が殉職したらしい。悲しい報せだが、諸君、どうか天地に召された同胞に哀悼の意を捧げてくれ」
仲間の死を知らされた兵たちはまず動揺し、ひとしきり騒然としてから、全員が歯を食いしばって俯いた。犠牲になった二名と親しかった者には眦から涙を拭う姿も見られる。彼らと並んで遺憾の意を示しながら、クェッタが訝しげに問いを返す。
「……どうして今日まで連絡が遅れたのでしょうか。隠密の脱走によって陛下の身に危険が及ぶ可能性が高まることは明らかなのですから、事件が起こったその日にでも伝令を出すべきだったでしょう。第一競走で着いた集落で報せを受けるならまだしも、最後の競走を控えたこの時点でようやく連絡が届くというのは、いくらなんでも対応が遅すぎる」
「その点については、伝令にやってきた兵たちも謝っていた。彼らとしてもすぐに伝令を出そうとしたのだが、競走中の騎馬隊に対する干渉は許さないという決闘の取り決めがあったのだ。そのため中陸有角種の陣営と揉めに揉めた結果、どうにか、両陣営の兵が相互に監視し合いながら伝令に向かうという妥協案に至ったらしい。その決定までに費やされた時間が、そのまま報告の遅れに影響してしまったということだ」
なるほど、と呟いてクェッタは溜め息をついた。……さらに捕足するなら、集落の『聴士』からの音による連絡がサーリャの耳にすら届かないほど騎馬隊との距離が離れるのを待ち、それから脱走を実行に移したギロの判断も狡猾だっただろう。
それからしばし、兵たちの心が落ち着きを取り戻すだけの充分な時間を与えてから、セレィは静かに言葉を継いだ。
「……酷なようだが、悲しんでばかりもいられぬ。〝神狩り部隊〟の行動を牽制するための人質が逃げ出してしまったことで、隠密どもは再び枷を外された。今この瞬間とて、私の命を狙って虎視眈々と機会を窺っていることすら考えられる。第三競走ではヘィロンの騎馬隊との争いに加えて、奴らの動きにも気を配らねばならないということだ。だが……」
言いつつ、セレィは痛ましげな視線を居並ぶ兵たちの後方にやった。そこでは顔色を真っ青にしたサーリャが、弱々しい息遣いで寝台の上に横たわっている。第一競走と第二競走での馬旅を経て、『聴士』の少女の体力は限界に達しようとしていた。
「……見ての通り、弱りきったサーリャにこれ以上の負担はかけられぬ。彼女の耳を当てにせず、我々はあくまでも自分たちの力で隠密どもへの警戒を続けねばならない。具体的には見張りの頻繁な交代と、味方に敵が紛れ込むことを防ぐための符丁の設定などだろう。……色々と段取りが煩雑になってしまうが、決闘が終わるまでの辛抱だ、ここは堪えてくれ」
兵士たちが是非もなく頷きを返す。女皇は満足げに頷き、いよいよ話の本題に踏み込んだ。
「それでは、明日の第三競走の作戦を話し合おう。これまでは多くの羊を伴った上での移動だったが、次はいよいよ純粋な騎馬隊による競走だ。だが、いくつか気に懸けておくべき取り決めもある。クェッタ、お前の口から説明してくれるか」
「はっ。──第三競走は二組の騎馬隊によって目的地までの到達時間の短さを競うものですが、その勝利条件はあくまでもセレィ陛下とヘィロンの二人に委ねられています。簡単に言えば、我々の騎馬隊のほぼ全員がヘィロンより先に目的地に到着しても、陛下自身がそこに至らないことには勝ったことになりません。逆に、こちらの騎馬隊のほぼ全員が途中で脱落したとしても、陛下ひとりがヘィロンよりも早く目的地に達すれば我々の勝ちとなります」
「よく嚙み砕かれた説明だ。──要するに諸君は、いかにしてヘィロンより一秒でも早く私を目的地に届けるかに腐心せねばならない。そのためには大きく分けて二つの方針が考えられる。ひとつには諸君らの努力によってヘィロン側の兵たちに私の疾走を邪魔させぬこと。ふたつには諸君の技術によってヘィロンが疾駆する速度を出来るだけ抑えることだ」
「つまるところ、互いの騎馬隊によって相手側の大将の走りを妨害し合う──そのような展開が予想されるわけです。とはいえ直接的な攻撃などは認められませんので、具体的な手段としては集団による一騎の囲い込みですね。有角種の皆さんには語るまでもないとは思いますが、この布陣が完成すれば、やられた側はそう簡単に囲いの外へは逃げ出せなくなります。一方がそうなった上でもう一方が自由に先行している場合、その状況はもはや詰んだと考えて良いでしょう」
「いかにして私がその状況に陥ることを避けるか、いかにしてヘィロンをその状況に陥れるか。この作戦会議の主眼はそこに置かれるものと思ってもらってよい。……また、互いの戦略が拮抗して、双方とも囲い込みに失敗する展開も充分に考えられる。その場合は私の騎手としての技量に全てを委ねてもらおう。これでも馬を駆る腕前で人後に落ちぬ自負はあるつもりだ」
胸を張って請け負うセレィに、兵たちも信頼の面持ちで返す。彼女の抜きん出た馬術の腕前は、オルワナとの戦における幾多の戦場での活躍でとっくに実証済みだ。
明日の展開に胸躍らせる騎馬民族たちの中にあって、いささか肩身狭げにしている有翼種の中から、第二競走での活躍で一気に尊敬を集めたコリォがおずおずと片手を挙げた。
「あ、あのぅ、陛下……。今回は、私たちの出番は……」
「それについては私も頭を悩ませている。今までの二戦とは違い、今度の競走では全速力での疾走が求められるから、重量が増えるという意味で二人乗りは望ましくない。しかし何らかの形で有翼種の能力を戦略に活かせないかとも思っている」
「有翼種の皆の能力と言えば、やはり飛行能力と弓術ですが……直接の攻撃が認められていない今回の競走では、正直なところ少々扱い辛いですね。順当に勝利を狙うなら、ここは馬に慣れ親しんだ我々だけで挑むのが妥当なところでは……」
クェッタが常道を行く意見を口にした瞬間、何の前触れもなく、部屋の隅に横たわっていたサーリャががばっと身を起こした。兵たちがぎょっとして振り向くと、サーリャは青ざめた顔の中でもはっきりと見開いた両眼で、静かな迫力と共にセレィを見据えた。
「……有翼種の面々は伴っていくべき。奇策の部類だけど、私に考えがある。聴いて」
乗り物酔いで満足に働かない頭を酷使して、残された体力と気力を振り絞り、今度もサーリャは全身全霊の策を弄する。その提案が愚策であるはずがないと、セレィは頷きによって信頼を示し、『聴士』の少女の説明に耳を傾けた。
中陸の大地に運命の朝が訪れた。天の采配もあって、陽光が惜しみなく降り注ぐ雲一つない蒼穹である。出発地点に整然と立ち並ぶ二組の騎馬隊の面々には、ヘィロンの側には未だかつてない緊張が、セレィの側にはより一層の気合が見て取れる。
「……? ヘィロン、あれは何でしょうか。向こうは隊列半ばの十数頭の騎馬に、二人乗りで有翼種を連れています。……ああ、後ろの方には例の盲種の娘の姿も見えますね」
ヘィロンの側の副官が訝しげな顔をする。その視線の先では確かに、馬に跨った有翼種たちが、戦意の昂揚を表すように背中の両翼を広げていた。客観的に見て奇怪な光景と言える。羊の群れを連れた今までの競走とは違い、今回は馬の速度に勝敗が委ねられる部分が最も大きい。余計な荷物を載せている余裕はないはずなのだ。
「『聴士』の娘については知らんが……有翼種どもを連れているのは、先行した際、あるいは囲い込みを行う際に、翼を広げておれの目隠しをするつもりでもいるのだろう。二人乗りの鈍重な馬で一度でもおれの前を走れると思い込んでの戦略だ。浅はかな企てと言わざるを得んな」
なるほど、と頷いて副官は前方に向き直った。ヘィロンも必要以上に相手側の隊列を意識しない。第二競走の前歴を思い返すのなら、どんな奇策を用いてくるか知れたものではないが、今度は平原の民が最も得意とする騎馬隊による真っ向勝負。あらゆる小細工は実力で切って捨てるのが平原の覇者の流儀だった。
出発に備えて集中を高めている彼だったが、一度だけ相手側の騎馬隊の先頭に立つセレィの様子を窺う。炎天下の強い陽射しに備えてのものだろう、頭に薄い被り物をしているため、その顔色までは窺えない。だが、布をよけて聳える真白い一角が、必勝の決意を何よりも如実に物語っているようだった。
「──では、これより第三競走を執り行う! 双方、備えっ!」
監視の兵が決戦の開幕直前を宣言する。双方の騎馬隊の面々も手綱を握る手に力がこもった。全員が心の準備を済ませたことを見て取ると、監視の兵はおもむろに秒読みを始める。
「3、2、1──始めッ!」
八十頭の馬が一斉に地を蹴って疾走を始めた。もうもうと巻き上がった砂埃がそのまま出発の軌跡となり、かくして決闘の天王山は幕を開ける。先頭を行くセレィ、ヘィロンの両名はどんどんと馬の速度を速めていき、続く騎馬隊も整然とした列を保ちつつ、大迫力の走りで追随する……!
「悪いが様子見は無しだ。──囲い込め!」
ヘィロンの命令を受けた隊列前方の兵たちが、鋭い反応で馬の進路を変え、単独先行するセレィを目指して駆けてゆく。──相手を抜き去ってから前方の進路を塞げれば良し、でなくとも後方から圧力をかけるだけで相手の呼吸を乱せて良し、最終的に囲い込むことが出来れば文句なしに最善。騎馬隊同士での競走においては王道をゆく戦術である。
「……ッ……!」
早々に頭を抑えにきた敵の行動に面食らってか、先頭を行くセレィは逃げの足を速めることをしない。その判断の遅れは命取りだ。体力配分を度外視して全力で馬を走らせたヘィロン側の尖兵は、相手側の兵たちに壁を作らせる暇もなくセレィの馬に追いついてしまう。前方にひとり、後方にひとり、左右にそれぞれふたり、と言った具合に包囲はどんどん進み、ついには出発から十分と経たないうちにセレィは十騎以上の兵たちによって完全に囲い込まれた。
「……早くも決着か。もう少し粘ると思ったが、存外に脆かったな──」
そう呟きつつ、ヘィロンは失望の混じった視線で包囲に囚われたセレィを横目で見やる。ヘィロンの兵たちによって形成された囲いの周囲を、遅ればせながら追いついてきたセレィ側の騎兵たちが外側から圧迫するが、その程度で中心の女皇に脱出の好機は生まれない。既に勝負は決した──心中でそう確信したヘィロンの視界に、その瞬間ふと、妙なものが映った。
「……? あの兵、何をしている……?」
囲い込まれたセレィをどうにか脱出させようと足搔く兵たちの中に、よく見なければ分からないが、ひとりだけ我関せずといった様子で馬を走らせ始めた者がいる。他の兵たちと同様に日光を避けるための被り物をしているため、顔は窺い知れない。だが──ヘィロンはそこで電撃的に直感した。被り物の布を内側から押し上げる見事な一角、長い鬣をたなびかせて疾走する美麗な白馬は、他でもない東方有角種の女皇の──。
「……!? いかん、囲い込みをやめろ! おまえたちが囲んでいるのはセレィではない!」
ヘィロンの声を聞いた兵たちがぎょっと視線を巡らせ、自分たちが固く囲い込んでいる相手の様子をじっと凝視する。彼らの熱い視線を受けた本人は、にやりと不敵な笑みを浮かべて、被り物と一角を同時に取り去った。
「すっかり騙されてくれたな。……だが、姉様と見間違われたことは心底から光栄だ!」
囲い込んでいた兵たちは一様に眼を瞠る。さもあらん──彼らが女皇だと思っていたのは、一角と被り物で変装したセレィの妹、コリォ・サリマニュィだったのだ。
先だっては〝神狩り部隊〟を罠にかける際にも用いた方法だが、これは決して付け焼刃の策ではない。コリォが女皇の影武者を務められるようになるまでには、オルワナとの戦が終わった直後からの長い積み重ねがある。決して得意ではなかった馬術にも訓練を重ね、ただ真っ直ぐに馬を走らせるだけならば、女皇と見分けの付かない領域まで進歩した。セレィを意識し続けていたヘィロンですら即座には替え玉に気付けなかった事実が、彼女の努力の程を何よりも証明しているだろう。
「見損なったぞヘィロン! 仮にも嫁に迎えようという相手を、実の妹とはいえ、他の女と見間違えるとはな!」
囲い込みの外側を悠々と走りながら、こちらも被り物を取り去って正体を顕わにしたセレィが皮肉を飛ばした。──遡って種を明かせば、騎馬隊に伴われていたコリォ以外の有翼種たちは、変装した姿で隊列の中央にいた女皇を、大きく広げた翼の暗幕でさらに敵側の眼から見え辛くするために起用されていたのである。
まんまと騙されたことを悟ったヘィロンは、奥歯が割れるほど強く歯軋りした。──結果として、女皇の包囲を試みたヘィロン側の兵たちは、その外側からさらに敵の兵たちによって囲い込まれる結果になってしまった。これは決して些細な被害ではない。何しろヘィロンが囲い込みを任せた兵たちは、仲間内で最も馬術に長けた精鋭揃いだったのである。
「豪快なそなたらしくもないな。好いた女を囲いに閉じ込めるのが大首長のやり方か? そうではなかろう! 本当の意味で私の心を捉えたくば、己自身の実力で、正面から私を負かしてみせよ!」
「────ッ!」
このセレィの挑発に、ヘィロンは愚かと知りつつも乗った。どうしても乗らざるを得なかった。女皇の言葉は彼の精神の最も原始的で強力な部分を的確に刺激したのだ。──戦略も戦術も何もかも鬱陶しい。今はただ只管、この美しく生意気な女を屈服させてやりたい……!
「その挑戦、受けた……。今から全ての小細工は無しだ。──いいか、おまえたち、誰もおれたちの戦いの邪魔をするな! それでも無粋な割り込みを入れたものは、この大首長が直々に斬り伏せてやる……!」
犬歯を剝き出して警告するヘィロンに、配下の兵たちが抗う余地もなく竦み上がる。この極めて衝動的な口約束によって、第三競走は集団対集団の争いから個人対個人の闘いに趣を変えた。客観的には吉と出るか凶と出るか不明であっても、この展開は両者にとって望むところだった。──なぜなら、セレィとヘィロンはどちらも互いに、真っ向勝負で己が負けるなどとは露ほども思っていなかったからだ!
「姉様が馬の速度を速めだした! ……ノィラさん、クェッタさん、行きます!」
ヘィロン側の兵たちによって前後左右を完全に塞がれた位置から、コリォはそれぞれにかなり前方と後方に離れた位置を走る有翼種の仲間とクェッタに向けて合図の声を飛ばす。両者が片手を振って返答したのを確認すると、コリォは力強く両翼をはためかせ、信じがたいことに、乗っていた馬の背中を蹴って上空へ飛び上がった!
「な──っ!?」
ヘィロン側の兵たちの驚きの声が重なる。彼らの頭上に上がったコリォは、大地を踏み鳴らして一斉に進んでいく大勢の騎兵たちを眼下に見下ろし、その中で唯一、自分を見上げて手を振っているクェッタの馬へと精妙に滑空していった。そのまま馬の背中に着地し、するりと有角種の副官の後ろに腰を下ろすと、コリォは彼の腰にしっかりと摑まった。
「御見事です、コリォさん!」
惜しみない賞賛を送りつつ、クェッタは前方の囲いの中に残された空馬の様子を見やる。が、そこにはきちんと隊列の前方から滑空してきた有翼種の仲間が跨っており、馬術に不慣れなりにも最低限の制御を行っていた。……完全に制御を失った馬を囲いの真ん中に放置しては、監視の兵から直接の妨害と捉えられかねない。それを防ぐための保険だった。
「……さて、ここからは私の仕事ですね!」
待っていましたとばかりにクェッタが馬の手綱を引く。それと同時に、彼の隣を走っている二人乗りの馬の騎手も同様に馬の速度を速めたが、そちらの同乗者は他でもないサーリャだった。四人を乗せた二頭の馬は隊列を抜け出して疾走し、すでに遠くなりつつあるセレィの背中に追いすがる。
「……追い付けとは、言わない……。でも、せめて、私の耳が届く距離を保ち続けて……。それと……コリォさんは、いつでも弓を扱えるように準備を……」
「分かっています、サーリャさん。……あまり喋らず、どうか少しでも楽にしていて下さい」
クェッタが気遣うのも無理はなく、サーリャの顔色は真っ青を越えてすでに土気色である。そうなることを承知で頑なに同乗を主張した彼女は、自分からは決して弱音を口にしない。
前方ではセレィとヘィロンが苛烈な一騎打ちを行っている。馬術に絶対の自信を持つ者同士、互いの他に意識をやる余裕など全くあるまい。だがその背後でもまた、万が一の事態に備えた少女たちの必死の闘いは続いているのだった。
他方、激戦を繰り広げるセレィたちからは現在のところ遙かに離れた、しかし競走の終盤に必ず通り過ぎる予定の地点で、〝神狩り部隊〟の隠密たちは草の茂みの中に、まるで獲物を狙う爬虫類のように伏せっていた。
「……時間的には、まだかなり先か。ギロ、集中を研ぐのもいいが、身体は休めておけよ」
「合点承知……と言いてぇところだが、参ったことに、イメージしてると気が紛れてよ。ついでに手足の痛みも紛れるんだわ、これが」
仲間の言い分にゼルは呆れの溜め息をつき、それから慎重に顔を上げて、やや遠い位置で同様の待ち伏せを行っているバズとリガの様子を窺う。向こうも彼の視線に気付いたようで、軽く手を振り返してきた。
「さて、今回はどうしたもんかね……。馬で走ってきた相手の急所を一発で狙い撃つか……それとも、まずは馬を撃って足を止めたところで、走って行って直接襲い掛かるか……」
ぼそぼそと呟きつつ、ギロはお手製のボウガンの手入れを入念に行っている。……消音装置を使った上での任務失敗は多大な費用の浪費になった。そのために、今後の作戦では発展界の武器の使用はなるべく控えたいというのが彼らの本音である。

「しっかし、後ろ側に見える範囲で有角種どもの集落があるってのは、やっぱり落ち着かないぜ。万が一標的の抹殺に手間取った場合、前からやって来る騎馬隊の連中との間で挟み撃ちにあっちまうぞ」
げんなりした顔でギロが背後を見やる。そこには第三競走の到達地点であるヘィロンの集落が遠く見て取れた。もう少し距離が取れれば彼らとしても文句はないのだが、セレィたちが辿ってくる詳細な順路が分からない以上、ゴール地点の手前で待ち構えるのが最も確実なのである。
「『聴士』の娘がやって来た標的の近くにいるかどうか、仮にいたとしても馬旅で完全に参っているかどうかが成否の分かれ目になるな。……旅団に混じっていた盲民族どもの様子を見る限りでは、使い物にならなくなっている可能性はかなり高いと見たぞ」
「ま、同じ相手に二度は負けられないわな。……ちなみに、ゼルから見た今回の勝率は?」
「七割五分といったところだな。……あの『聴士』の娘の知力、体力、そして気力。それら全ての総合値で決まるだろう」
ゼルは静かな声で言い切った。……だが、自分たちの失敗が勝敗を左右する可能性を口にしない辺りに、これまでに多くの過酷な任務を遂行してきた〝神狩り部隊〟隊員としての揺るぎない矜持が見て取れた。
セレィとヘィロンの一騎打ちは、時刻が正午近くにまで至っても、なお一進一退の様相を呈していた。抜かれれば抜き返す、ひたすらにその繰り返しである。大地を踏み鳴らす蹄の音は力強さを増すばかりで、走る馬も、それを駆る人も、まったく勢いが衰える気配はない。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「ぬぅおおおおおおおおおおっ!」
接戦の中に時折、まるで張り合うかのような大声のやり取りがある。両名とも事ここに至れば、もはや複雑な思想の対立を意識している余裕などなく、そこにあるのはひたすらに単純な騎馬民族としての意地の張り合い。──魂を燃やし尽くしてでも勝つ。それが両者の共有する唯一にして最大の想いだった。
「ふ、二人ともすごい速さだ……! これ以上引き離されないようにするのがやっとです!」
長時間の追走を経て、さしものクェッタの口からも弱音が零れた。……無理もない。いくらコリォが身軽さを身上とする斥候兵と言っても、人一人分を余計に乗せて走っているのである。身一つのセレィたちに追いすがれというのがそもそも無茶な注文なのであり、それは隣を走るサーリャを乗せた馬にしても同じことだった。
「しかし、じきに目的地の集落です……! 〝神狩り部隊〟の襲撃があるとすれば、ここが最も警戒すべき頃合! そうですよね、サーリャさん! ……サーリャさん!?」
副官の問いかけにも、『聴士』の少女は騎手の背中にぐったりと寄りかかったまま答えない。クェッタは痛切な心境でその沈黙を受け止めた。──ついに彼女にも限界が来てしまった。いや、限界などとっくの昔に過ぎていたのかもしれない。乗り物酔いに気力で耐え抜いて、今まで意識を保っていただけでも、それは奇跡に等しい僥倖だったのだ。
「コリォさん、サーリャさんが意識を失いました……! こうなってしまった以上、いざという時に陛下を守れるのは我々だけです! どうか覚悟を決めて下さい!」
コリォは固い表情でこくりと頷いた。……とはいえ、その「いざという時」を教えてくれる存在こそがサーリャだったのである。競走に没頭したセレィとここまで距離が開いてしまった以上、有事の際に駆けつけることが果たして可能かどうか……。
寒気にも似た緊張感がクェッタらの全身を強張らせる。もはや決闘の勝敗すら脇に置いて、襲撃が無いことだけを神に祈りたい気持ちにすらなってくる。
彼らの心が最悪の予感によって支配されようとした瞬間、力なく騎手の背中にもたれかかっていたサーリャが、全く唐突に両眼をかっと見開かせた。
「…………きき、き、聴こえ、た…………!」
掠れ声でそう言うなり、彼女は震える手で懐からバチと信号打楽器を取り出す。クェッタらは啞然とした面持ちでその様子を見ていたが、彼女の腕にもはや信号を打ち鳴らすだけの力さえ残されていないことを見て取ると、手の空いていたコリォが率先して小さな両手から打楽器を受け取った。
「何の信号ですか!? 簡単なものは把握しています、教えてください!」
「……さ、左折……大至急……!」
サーリャの意図を汲み取ったコリォは、すぐさま左手に持った打楽器を右手のバチで打ち鳴らし始めた。……事前に話は通してあるとはいえ、競走に熱中している最中のセレィに、これほど遠くからの信号を受け取ってもらえる保障はない。だからこそ、有翼種の少女は切なる願いを込めてバチを振るった。──どうか気付いて、姉様!
「────ッ!?」
遙か後方から響いてきた打楽器の音色に、馬を駆ることに没頭していたセレィの意識はそれでも反射的に反応した。──サーリャからの緊急連絡。指示は大至急の左折。その意味するところは、曲者からの襲撃……!
「はぃやァッ!」
セレィの決断には一瞬の迷いもなかった。渾身の力で手綱を引き、一直線に走っていた馬の軌道を強引に左へ逸らす。その彼女の行動には、むしろ少しの間を空けて隣を走っていたヘィロンの方が度肝を抜かれた。
「何事だ、セレィ! まさかここに来て勝負を捨て──ぐぁッ!?」
言いかけたヘィロンの胸板と肩口に、低空から飛んできた矢が突き刺さった。左折したセレィの後ろ髪にも同じものが掠めていく。事前の警告があったおかげで、女皇は最短で状況を把握して対応できた。だが、備えのなかったヘィロンの方はそうではない。
「ぐぅ、おお……!」
まったくの不意打ちで胸と肩に矢を喰らったヘィロンは、その衝撃で馬から転げ落ちた。が、彼とて中陸の覇者たる歴戦の猛者。すぐさま自分が襲われている状況を理解して腰元から刀を抜き放つ。そんな彼の視線の先では、仕留めそこなった獲物を今度こそ完全に殺しきるべく、〝神狩り部隊〟の二人──バズとリガが、潜めていた身体を起こして疾走を始めるところだった。
「ヘィロン……!」
そのまま馬で走り続けていれば、少なくとも自分は難を逃れられていたはずの女皇だったが、ヘィロンの呻き声が後ろから聞こえた瞬間、彼女は反射的に馬を止めて背後を振り返ってしまった。……一度止まった馬が再び走り出すまでには時間がかかる。〝神狩り部隊〟の追撃から逃れるほどの速度に至るまでには更なる時が要る。つまり、この時セレィが馬を止めたことは、一度は抹殺失敗を受け入れたゼルとギロにとって願ってもない好機だった。
「はッはぁ──! ようやく本当のツキが回って来たぜぇ!」
「セレィ・メル・ロケィラ……その首、貰ったぞ!」
およそ人とは思えぬ速度で二人の隠密が疾走する。平原の真っ只中に忽然と現れた彼らの姿を認めて、セレィも咄嗟に馬の手綱を引いたが、もはや逃げ切るためには反応が遅すぎる。馬の足下まで走り寄ったゼルとギロが、同時に跳躍して馬上のセレィへと右側面から襲い掛かる。女皇も即応して剣を抜き打ったが、大振りの斬撃をギロは容易く短剣で受け止め──
「「───ぐぉッ!?」」
二つの凶刃がセレィの首筋と心臓を貫こうとした刹那、その背後から迸った四条の軌跡が、二人の隠密の両手の甲を見事に貫いていた。
「はァァッ!」
獲物を取り落とした二人の隠密の身体を、セレィは容赦なく剣で薙ぎ払う。共に両手を封じられたゼルとギロは、セレィに襲い掛かろうとした体勢から咄嗟に馬の腹を蹴って後方に跳び、そのまま地面に着地した。そうしてから、両手の甲を深々と貫いた四本の矢を、啞然とした面持ちで眺める。
「姉様──ッ!」
コリォの叫び声と共にクェッタの駆る馬が近付いていた。さらにその背後には、セレィ・ヘィロン両陣営の兵士たちが間を空けて迫ってきている。ゼルとギロはハッと我に返り、現状を把握して目配せを交した。──すでに機は逸した。もはや撤退しかない!
「ちぃぃッ……!」
ギロの舌打ちと共に、二つの黒衣がセレィの目前から風となって消え去る。それと入れ違いにクェッタとコリォが女皇のもとに辿りついた。わずかに遅れてサーリャを乗せた馬もやって来る。彼らはセレィが無傷であることを確認して心から安堵の息をついた。
「……二度、重ねて命を救われた。最初の信号はサーリャであろうが、その後に隠密どもを仕留めた矢は……コリォ、やはりお前が?」
「は、はい。縫撃四条……ほぼ同時に射放つ四本の矢で、脇の下や顔の真横を通して、仲間の背中から敵を狙い撃つ技です。確実に敵の動きを止めるために、今回は武器を持った手を狙わなければならなかったので、ものすごく肝を冷やしました……」
涙ぐんだ面持ちで言う妹を、咄嗟に馬から飛び降りて抱き締めてやりたい衝動に駆られながら、しかしセレィは背後から響いてきた激しい金属音によって現状を思い出した。すぐさま女皇が振り返って背後を窺えば、手負いのヘィロンが〝神狩り部隊〟の二人を相手に奮戦を続けている。常人ならばとっくに殺されているところを粘り強く生き延びているのは、さすがに平原の覇者の底力という他ない。
「いかん、あのままではヘィロンが殺されてしまう……! クェッタ、コリォ、後続の兵たちと共に私に続け! 彼を助けに向かうぞ!」
「……待って、陛下……」
それが全く当然の判断であるかのように馬を走らせようとしたセレィに、半死半生のサーリャが馬上から声を投げる。セレィは手綱を引く寸前で、その声に耳を傾けた。
「……非道を、承知で、言う……。ここでヘィロンを、助けに行く意味は、ない……。それ自体にも危険を、伴うし……彼が死んでくれれば、決闘は陛下の勝ちに、なって……中陸有角種は、否応無く、あなたを君主として仰ぐことに、なる……。逆に生かしておけば、今後の障害にも、なりかねない……」
この期に及んでもなお、サーリャは頑なに自分の立場から意見を口にする。……それはセレィの大志を成就に至らせるための徹底した合理性。導神であれば考えざるを得ないだろう無慈悲な選択を、彼女はどこまでも冷徹に、残酷に、そして誰よりも誠実に女皇へと具申する。
「……天晴れな忠臣ぶりだ、サーリャよ。だが、すまぬ。私はやはり、ヘィロンを助けに行く」
彼女の献身に心から感謝しながら、なおも女皇はその意見に背いて馬を走らせる。サーリャもそれ以上は引き止めなかった。自分の意見を退けて危地に赴く女皇の背中を、けれども少女はなぜか逆に温かな微笑みで見送って──それを最後に、今度こそ意識を失って崩れ落ちた。
「……許せ。だが、たとえクルァシンの忠告であったとしても、これだけは容易に譲れんのだ。──人の生死は利害で計れない。そして何より、同胞を助けに行くことに理由は要らない!」
誰憚ることもない己の信条を胸に抱いて、セレィは窮地にある同胞を救うために駆け出した。それはどこまでも晴れやかに。その行為の貴さを、他の誰よりも信ずるが故に。
「無闇にしぶといッスねー。そろそろ倒れちゃくれませんか、中陸有角種の大将さん」
呆れ混じりにリガが言った。そうやって無駄口を利く間も、満身創痍のヘィロンに対して執拗な攻めを欠かさない。──彼が手にするのは、九節鞭と呼ばれる先端の尖った金属製の棒を鉄の輪で連続して繫いだ中華武器の亜種だ。通常はその名の通り、全九本の部位で構成されるものだが、リガが手にするそれは軽く二十本以上はあり、二十節鞭とでも呼ぶべき異形の武器である。
「まだまだいくッスよー。──それっ、それっ」
「……ぐぅっ……!」
急所を狙った一閃こそ野性の勘で辛うじて防ぐものの、ヘィロンの全身は鉄鞭の鋭利な先端に切り刻まれて血塗れの有様である。しかも、彼が対峙しなければならない脅威はそれだけではない。──ず、と音を立てて腹筋に極小の鉄球がめり込む。バズが両手の指から次々と放つ、俗に指弾と呼ばれる暗器であった。
「本当、呆れるほどに頑丈だね……。こっちの備えの無さにも呆れるよ。致死性の猛毒さえ手に入っていれば、最初の矢で決着は着いていたのに」
「今となっちゃヨクさんを別行動させたのが惜しまれますけど、自力で現地調達出来なかったんだから仕方ないでしょ。牙種の牙から取れるアレは、空気に触れると無害化しちゃって応用が利かないし。……それより手を休めないで欲しいッスよ。この人、下手するとまだまだ反撃してくる気でいますよ? ──ほらっ!」
雑談している姿に隙を見取ったヘィロンが、逆転を期して手にした刀を投げ放つ。奇襲としては決して悪くない攻撃だったそれを、しかしリガは鼻歌混じりにかわしてのけた。年若く飄々としているようでも紛れもなく〝神狩り部隊〟の一員。余程に周到な罠か、さもなくば神業でも用いられぬ限りは、不覚を取ることなど有り得ない。
「ぐ……ぅ……」
最初に喰らった矢の先端に塗られていた毒が回りだしたのか、ヘィロンは強烈な眩暈に襲われて片膝を着いた。その有様にようやく決着を見取ったリガは、最後の手向けとばかりに鉄鞭をじゃらりと鳴らす。
「やっと終わりッスね。〝神狩り部隊〟相手にここまで保ったんスから、冥土の土産には充分でしょう。……それじゃ、さよなら──」
「させるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
とどめの一撃を下すべく鉄鞭を振り上げたリガの鼓膜を、予想だにしない制止の声が震わせた。彼はぎょっとして首を巡らせ、そこに剣を振りかざして猛然と駆けて来る、もう一人の標的の姿を見て取った。
「ちょ……っ、向こうから来ましたよ!? ゼル先輩とギロは何やってんスか!」
「まぁ、普通に考えて失敗したと見るべきだろうね。……というか、ぼくらも少しのんびりし過ぎた。前もあれだけれど、後ろを見てみなよ。……集落の連中も、ここの異常に気付いて駆けつけて来ている」
前から後ろから迫ってくる騎兵たちの疾走が力強く大地を打ち鳴らし、その中間に挟まれたバズとリガは、強烈な圧迫感に苛まれ始める。単騎で迫り来るセレィに向けて、バズが苦し紛れの指弾を放つが、その程度は予想していたセレィも剣の腹を盾にして急所を狙った弾を防ぎきる。リガがさらに鉄鞭で攻撃を続けようとしたが、それはバズの声によって止められた。
「……止めておこうか。ここにこれ以上留まっていると、この前のギロの二の舞になりかねない。自分たちの命を大事にして、ここは撤退しよう」
「……本気ッスか? せめてヘィロンの方くらいは仕留めていきましょうよ。ここまでやってまったく成果ナシじゃ、それこそ二番隊の名折れッス」
「若いね。まだ眼が生きているあの益荒男さんを、あと三秒で殺しきれるって言うなら、それも良いけどさ。……っと、そんなことを言っているうちに三秒経っちゃったか。さぁ潔く撤退だ。中途半端と優柔不断が一番いけないって、訓練で嫌というほど教えられただろ?」
先輩の意見に渋々といった様子でリガが頷くと、二人はそのまま凄まじい速度で走り去っていき、ほどなく平原の風の中に気配を消して紛れた。彼らの撤退と入れ替わりに、満身創痍のヘィロンのもとに馬に乗ったセレィが辿りつく。全身から血を流して蹲る平原の覇者に、セレィはしかし馬から降りて駆け寄ることはせず、ただ馬上から手を差し伸べた。
「──乗れ、ヘィロン。そなたの馬は走り去ってしまった。歩いて集落に戻るのでは、平原の覇者として格好が付くまい」
厳しい口調で言ってくるセレィに、ヘィロンは最後の意地で一睨みを返してから、何か憑き物でも落ちたように表情を和らげた。
「……そうだな。おまえの後席を拝するのも、数日前までのおれならば、到底受け入れなかっただろうが……今となっては、それも悪くないと思える」
「光栄だな、私も似たようなものだ。──さぁ」
眩暈を押して立ち上がると、ヘィロンは馬上から差し出されたセレィの手を取り、彼女の助けを借りてどうにか馬に跨った。二人分の重みを乗せて走り始めた白馬の上で、セレィとヘィロンは言葉少なに会話を交わす。
「……セレィ。お前にとって、有翼種は同胞か」
「もちろんだ」
「では、牙種や長爪種も同胞か」
「言うまでもない」
「そうか。……そして、このおれも同胞なのだな」
セレィに屈託のない微笑みで返されて、ははは──と、平原の覇者の口から笑いが零れた。それは本当に邪気のない、まるで大切なものを見つけた子供の口から零れるような、どこまでも自然で気持ちのよい笑いだった。
「おまえはおれの同胞だ。……ならば仕方がない。有翼種とも牙種とも長爪種とも、おまえという女を通して絆が繫がってしまったのだから。対等の立場での同盟──そういう考え方もあるのだと、そうでなければ得られない結果もあるのだと、おれ自身が納得してしまったのだから。……そして今おれは、おまえの理想が形になるのを見たいと思ってしまっている」
ヘィロンは訥々と告げる。──それは平原の支配者として君臨していた男の敗北宣言であり、それと同時に、セレィという女の在り方に惹かれた男の、不器用な告白でもあった。
「中陸有角種は新たに同盟へと加わり、おれはおまえという盟主に付いて行く。……かつて祖先が願ったものとは違う形だが、共にゴルォグンナ大陸を東から西へ共に駆け抜けよう。おまえが思い描いた新たな未来の形を、いつかおれにも見せてくれ」
セレィは静かに頷いて、ヘィロンのごつごつと節ばった手と固い握手を交わした。──かくして同じ馬に跨って共に集落へ帰還した二人の君主の姿を、奇異の視線で眺める者は少なかった。セレィが手綱を取って馬を駆り、ヘィロンが穏やかな面持ちで彼女の後席を拝する。その光景の意味するところを多くの人々が察して、新たな時代の到来を感じていた。