セレィとヘィロンの決闘が本決まりとなって以来、両者の誇りを懸けて争われる競技の取り決めが、三日がかりの議論を経て綿密に詰められた。そのおおまかな内容は以下の通りである。
・決闘の方法は、基本的には二組の騎馬隊による団体競技である。
・ヘィロンの集落を始発点とし、そこからペィネ・ズォの集落、ヴマ・ズォの集落を経て、最終的に出発地点に戻ってくる。競技全体で費やされる日数は八日ほどである。
・ヘィロンの集落からペィネ・ズォの集落までを第一競走、ペィネ・ズォの集落からヴマ・ズォの集落までを第二競走、ヴマ・ズォの集落からヘィロンの集落までを第三競走とし、それぞれの競走に固有の勝利基準を設ける。
・第一競走において、双方の騎馬隊は各々三十匹の万途羊を伴って競走を行う。目的地への到着に要した時間に加え、どれだけの羊たちを無事に連れて来られたかも勝利の条件とする。
・第二競走において、双方の騎馬隊は各々百匹の万途羊を伴って競走を行う。勝利条件は第一競走のそれに準拠する。
・第三競走において、双方の騎馬隊は純粋な競走を行う。この競走のみ、勝利条件はセレィ・メル・ロケィラとヘィロン・ザカ・トルキォスタのどちらが先に目的地へ辿りついたかどうかに委ねられる。しかし競走の過程で、両者は騎馬隊の仲間から補佐を受けることが出来る。
・第一競走、第二競走、第三競走のいずれにおいても、決闘相手に対する直接的な攻撃や妨害は認められない。が、第三競走に限り、接戦になった場合の位置取り争い、ないし囲い込みなどは技巧的な戦術として認められる。
・第一競走、第二競走に際して、双方の騎馬隊は常に30ルハ程度の距離を保たねばならない。
・第一競走、第二競走に際して、双方の騎馬隊は羊を馬に乗せてはならない。
といった具合に、広大な中陸の大地を舞台として、遊牧騎馬民族ならではの大掛かりな決闘が執り行われることになっていた。
女皇の幕屋に呼ばれ、最終的に決定した競技の全容を把握したサーリャは、しばし難しい顔で考え込み、セレィに向かって開口一番にこう告げる。
「当然だけれど、地の利が圧倒的に向こう側。……厳しい戦いになる」
セレィはこくりと頷く。決闘を挑んだ瞬間から、それはとっくに覚悟していたことだった。
「……今回もそなたの力を頼みとするところは大きいだろう。体調は充分に戻っているか?」
「それは大丈夫。完全に復調した」
サーリャは力強く微笑んだ。顔の血色もよく、そこに無理をしている様子は微塵もない。セレィはほっと安堵したが、それも一瞬のことで、すぐさま厳しい面持ちになって話を続ける。
「……そなたも先ほど言ったように、ここが中陸の大地である以上、地の利は完全にヘィロン側にある。それを可能な限り縮めるために、騎馬隊の面々にはサーリャ、そなたには絶対に加わってもらいたいが……」
「もちろん承知の上。進路上の地形探査は任せてくれていい。私自身は馬を駆ることが出来ないから、誰かの後ろに乗せてもらうことになるけれど……」
「それは大した負担ではない。第三競走はともかく、第一競走と第二競走は多数の万途羊を伴っての争いだからな。必然、馬の速度は羊たちの脚に合わせて抑えられる。……むしろ私が心配なのは、そなたの──」
「乗り物酔いは気力で我慢する。途中の集落で休憩も挟めるし、競技の日程が全部で八日程度なら大丈夫。……さすがに最後まで能力が落ちないとは言い切れないけれど」
やや不安げな表情を覗かせながらも、サーリャは望んで競技に参加すると言った。その健気さに目頭が熱くなるのを覚えつつも、セレィはかぶりを振って作戦会議を続ける。
「……進路の途中では、掠畜獣を始めとした獣どもの襲撃も予想される。騎馬隊が相手をする分にはそう恐ろしい相手でもないが、羊たちを無事に集落まで連れて行くのが勝利条件である以上、可能な限り奴らを隊列に接近させたくない。……となれば、ここは有翼種の弓術に頼らぬ手はないだろう」
東方より伴ってきた有翼種の中から、コリォを含む十数人の手練れを騎馬隊の人員に加えようとセレィは提案した。サーリャもそれには賛同する。騎馬隊を構成する馬の数には四十頭という制限があるが、ひとつの馬に二人以上が乗ってはいけないという決まりはない。馬の速度がさほど求められない第一競走・第二競走では、彼女らは羊の守護者として大いに役立ってくれるはずだった。
「この決闘が終われば、次の四満月はもう目の前だ。……何としても勝たなければな。クルァシンに朗報を聴かせたい気持ちは、私もそなたと一緒だぞ、サーリャ」
慈しむ瞳でセレィは言った。サーリャは何も応えず、ただかすかに頰を赤らめて、女皇からぷいと顔を背けるのみだった。
決闘開始の朝はどんよりとした曇り空だったが、雨は降っておらず、雲の様子から今後土砂降りになるような気配もなかった。雨天順延の取り決めは無いので、これはセレィとヘィロンの両方にとって幸運だったと言えるだろう。
「双方、騎馬隊を前へ!」
号令に応じて、セレィとヘィロンを先頭とする二組の騎馬隊が整然と前に進み出た。セレィの側は四十頭の馬に対して三つの民族から五十三人の人間が乗っているが、ヘィロンの側は四十頭の馬に有角種の騎手が四十人という王道を行く構成である。誇りを懸けた決闘である以上、一切の小細工を用いるつもりはない──平原を統べる王者の横顔が、暗にそう告げていた。
「セレィ。馬肉を食う羽目にならんことを祈るぞ」
出発の直前になって、ヘィロンがそんな言葉を決闘相手へと手向けた。途端にむっとした顔になったセレィに、その斜め後方でクェッタの跨る馬に相乗りしているコリォが、こっそりと目の前の有角種に問うてみる。
「……あの、クェッタ殿。今のヘィロンの言葉は、どういう意味でしょうか?」
「有角種流の揶揄ですね。……騎馬民族である我々にとって、馬は何よりも大切な相棒です。その肉を食べなければならないということは、有角種としての最後の誇りすら擲たねばならないほどの絶体絶命の窮地に陥ることを意味します」
クェッタは憤然と眉根を寄せた。揶揄の内容もさることながら、ヘィロンの言葉には明らかな侮りの意味が含まれていたからだ。
「……忠告として受けておこう」
セレィは苛立ちを胸の内に抑え込み、ここでは些細な皮肉を返すこともしなかった。……導神ならば、あるいはサーリャであっても、相手の侮りは逆に好都合であると判断するだろう。であれば、この屈辱は最終的な勝利をもって晴らせばよいだけのこと。
(こちらの陣営に不足はない。余裕ぶった顔が青ざめる時を楽しみにしているぞ、ヘィロン!)
セレィが心中で毒づいた瞬間、いよいよ決闘の開始を告げる銅鑼の音が鳴り響いた。双方の指揮官が号令を下し、馬と羊が土埃を巻き上げて前進を始める。やや遅れて監視役の騎手がそれらの後を追って行った。……集落に残された人々が固唾を吞んで見守る中、エナ・ガゼに住まう全ての民族の趨勢を占う一戦が幕を開けた。
「……ずいぶんと先行を許されているな」
馬上のセレィが訝しげに呟く。出発から数時間を経て、セレィ率いる騎馬隊と羊たちは、ヘィロンの集団が後方に辛うじて目視できる程度の距離まで差を広げていた。万途羊の体力に合わせた前進なのだから脚が抑えられるのは当然としても、両陣営の速度にはかなりの違いがある。
「余裕を見せているつもりなのか……。あるいはクェッタ、我々の方はどうだ。意識しない内に脚を速めすぎてはいないか?」

「いえ。それは私も常に意識していますが、目的地であるペィネ・ズォの集落までの距離を考えるのなら、これが最善の速度だと思います。よほど羊の体力を温存したいのなら話は別ですが、今回はその意味がありませんし」
クェッタは自信を持って言い、セレィもそれに同意の頷きを返した。彼の意見は誰の耳にも妥当である。というのも、続く第二競走で使用される羊は一番目の集落で新たに仕入れられるため、極論を言えば、今連れている羊たちの体力は第一競走の時点で使い切っても構わないのだ。
「ヘィロンたちの進み方に意味があるとすれば、これからよほどの難所を越えていくか、それを迂回して我々よりも遙かに長い距離を進んでいくつもりなのでしょう。……しかし、山脈にせよ峡谷にせよ、この先にそのような難所があるとは考えられません」
「確かに……。我々が持ち込んだ中陸の地図は古かったが、アヌビシアを出て最初に着いたセン=グォン殿の集落で、こうして最新の地図を譲り受けている。古地図と比べても地形的に大差はないし、平らな土地が続くばかりで、難所などひとつも見当たらん」
セレィは思いつく限りの可能性を考慮してみたが、考えれば考えるほど、ヘィロンたちの行動は自分を侮っているが故の手加減に思えてくる。出発時に浴びせられた揶揄の記憶とも重なり、彼女は増していくばかりの苛立ちを持て余しながら馬を進めねばならない。
鼻から抜ける独特の鳴き声を上げながら、隊列の真ん中に囲い込まれる形で、三十匹の万途羊たちが軽快に平原を走っていく。人の事情に関わりのない彼らは至って吞気なものだ。それからさらに数時間が経過し、もはや後方に影も見えないほどヘィロンらとの差が開いた頃になって、女皇の真後ろで兵の駆る馬に相乗りしていたサーリャが、唐突に声を上げた。
「──陛下、ヘィロンの騎馬隊が進行方向を変えた!」
「何!?」
「目指す集落の方向よりも、ずっと西の方に向かって進んでいく。私にも意図が読めない」
その報告によって隊列の全体がざわついた。しばらくクェッタとセレィ、そしてサーリャを中心に意見の交換が行われたが、それもほとんど先刻話し合った内容の繰り返しに過ぎない。
「……サーリャ。そなたの耳で、この先に難所があるかどうかを判断できないか?」
セレィに問われたサーリャは、馬の側面に備え付けられた袋から銅鑼とバチを取り出し、それを一度だけ強めに打ち鳴らした。しばし眼を閉ざして耳を澄ませてから、彼女はやはり首を横に振ってみせる。
「……少なくとも、山や谷といった極端な地形の変化がないことは確信をもって言える。ここから目的地の集落まで平らな道程が続くことは間違いない。その上でまだ、迂回せざるを得ないような難所というものが存在する可能性を、誰か思いつく人はいる?」
「少なくとも私には思い浮かびませんね。……思うにヘィロンらの行動は、最初こそ余裕ぶってはみたものの、今になって私たちとの差が開きすぎたことに焦りを感じ、我々が中陸の地理に不慣れなことを頼みにして、こちらの動揺を誘おうとしているのではありませんか?」
「……確かに、サーリャの耳で騎馬隊の動向を把握されていることは向こうも承知だろうから、そういった揺さぶりをかけてくることも考えられるが……あのヘィロンの用いる戦術としては、いささかお粗末過ぎる小細工だとは思わんか?」
「私もそう思う。……でも、その他に可能性が浮かばないのも事実」
「……そうだ。サーリャ殿、ヘィロンたちの会話を直接聞き取ることは出来ませんか?」
「無理。向こうもそれを警戒して、ここまでほとんど無言で進んで来ている。……唯一聞き取れたのが、ついさっきヘィロンが発した、『西へ向かう』という号令だけ」
サーリャの諜報活動、悪く言えば盗み聞きに対して、ヘィロン側は決闘開始以前から防備を徹底している。端的に言えば、彼らは作戦会議の類を事前に一切行っていない。全ての戦略はヘィロンの胸の内で練られ、彼に率いられた兵たちは現場で命令を実行するのみ。その徹底ぶりにはさしものサーリャも舌を巻いた。
「……方向転換に踏み切る理由がない。ヘィロンらの思惑はさておき、我々はこのまま直進だ」
セレィの出した結論に誰もが納得せざるを得ない。どこか釈然としない思いを抱えながらも、彼女らはそのまま一定の速度で前進を続けた。……そんな彼女らが、ヘィロンの取った行動の真の意味を最悪の状況下で知ることになるのは、もう少しだけ後の話になる。
(さーて、連中が出発してから随分経ったな。……そろそろ動く頃合か)
セレィとヘィロンの率いる騎馬隊が集落を発ってから半日以上が経過し、七つの月のいくつかが夕焼け空に白々と姿を現し始めたころ、丸太組みの牢獄の中に簀巻きの状態で囚われている〝神狩り部隊〟の一員ギロは、脱出の算段を実行に移そうとしていた。
(そろそろ見張りの兵が飯を運んでくる時間だ。……っと、噂をすればだな。ちっとばかし身体に無理をさせるぜ)
牢の外から響いてきた足音に気付くと、ギロは眼を瞑って覚悟を固め、一定のリズムで鼓動を続ける自らの心臓に意識を向けた。そうして、本来なら不随意筋によって稼動するはずのその臓器を、特殊訓練に基づく体内操作によって強引に沈黙させる。
(うぐっっっ……おおぉぉぉぉ………ッ!)
ギロは必死に苦痛の呻きをかみ殺す。──まずは爆発的な激痛が胸からこみ上げた。ついで全身の血流が唐突に途絶えたため、身体の末端から順番に血の気が失せていき、顔面は蒼白を越えた土気色に成り果て、苦痛に搔き乱されていた思考すらおぼろげに霞んでいく。──かくして誰の眼にも死体としか思われない人体がひとつ出来上がり、丁度その頃合で、見張りの兵士が捕虜のための食事を運んできた。
「おい、飯だ……うぉっ!?」
白目を剝いて横たわるギロの有様を見るなり、有角種の兵士はぎょっとして食器を取り落とした。一兵卒に過ぎぬ彼とて、長きに渡ったオルワナとの戦で死体は見慣れている。その眼が一瞬で判断したのだ──「これは完全に死んでいる」と。
「ほ、報告だ……! クェッタ副長はいないから、とりあえずウチの小隊長に……!」
捕虜の容態に変化があった場合、絶対に現場の判断で牢を開けることはせず、一刻も早く上官を呼ぶ取り決めになっている。兵士は動揺しながらもその決まりを遵守した。彼に呼ばれてすぐさまやって来た上官は、牢の中のギロの様子を慎重に吟味する。
「……確かに、生きているようには思えんな……。だが、仮病や死んだふりには充分に注意しろとの陛下の指示もある。ここは念には念を入れて、本当に死んでいるか確認してみよう」
そう前置くと、上官は見張りの兵士から長槍を受け取り、丸太組みの牢の隙間から中にそれを差し込んだ。簀巻き状態のギロの身体から、わずかに露出した足先、指先、頰っ面を、鋭い切っ先で容赦なく突いていく。新たに開いた傷口から血が流れ出したが、どれだけ刺激してみても、ギロの身体は横たわったままぴくりとも動かなかった。
「……うむ、これは完全に死んでいるな。厄介なことになってしまった」
「どうしましょう。こういう場合の指示は受けていませんが……」
「いや、それは私が陛下から承っている。不慮の要因で捕虜が死んでしまった場合、なるべく死体が傷まないように処置した上で、冷暗所に安置しろとのことだ。……自分の命を狙ってきた刺客に対しても慈悲を欠かさない。セレィ様らしい高潔な処遇ではないか」
上官は感じ入った様子で呟いた。……実のところ、捕虜が死んだ場合の扱いについてセレィに進言したのはサーリャである。綺麗な形で遺体を残しておけば、後の交渉で取引材料として生きる可能性が残るからだ。
「さっそく始めるぞ。ナムァ、お前も手伝え」
「はっ、はい……!」
命令された兵士が重い閂を抜き取ると、久方ぶりに牢獄の扉が開け放たれた。二人の兵士は身を屈めて中に入っていき、簀巻き状態の亡骸を目前にすると、そこにゆっくりと手を伸ばす。
「思えば隠密の生涯というのも不憫なものだなぁ……。故郷から遠く離れた異境の地で、親しき友にも親兄弟にも看取られることなく、薄暗い牢獄の中で息絶えるのだ。我らの君主を害せんとした事実は許せぬが、そこは陛下の慈悲を我らも借り受けて、死体の扱いくらいは人並みにしてやっても良かろう……」
同情の面持ちで呟きながら、上官の兵士は部下の手を借りて亡骸を戒めから解き放っていく。まずは簀巻きに使っていた茣蓙を剝ぎ取ると、今度は幾重にも身体を縛り付ける荒縄を何とかする番だ。ひとつずつ結び目を解いていっては手間取りすぎるので、二人の兵士は腰元から抜き放った刀で荒縄を一息に切断していった。──その刹那、
「…………ありがと、よ」
真っ白に血の気の失せた死体の右腕が、握りの甘かった兵士の手から一瞬で刀を奪い取る。──惨劇は一瞬。意識も肉体も半ば以上死んだままのギロは、それでもなお〝神狩り部隊〟の一員として細胞の隅々まで叩き込まれた暗殺術を実践し、まずは上半身の側に屈みこんでいた獲物の首筋を一息に切り裂いた。
「かっ……!?」
悲鳴を上げる暇もなく、上官の兵士は前のめりに倒れ伏した。残った部下の方も、想定外の事態を前にして咄嗟に身体の硬直が解けない。捕食者の側から見れば哀しいほど鈍すぎた。即座に身を翻して逃げ出せば、まだしも生き延びられる可能性があったものを──。
「じゃあな」
ぽかんと開いたままだった兵士の口に、ギロの握った刀がぞんざいに突き入れられる。舌に冷たい金属の味を感じた瞬間には、もう犠牲者の後頭部から鋼の輝きが飛び出していた。何の抵抗も示せずに兵士の身体がくずおれる。だが、それをぞんざいに払いのけた瞬間──ギロの両眼から血涙が迸った。
(ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぅ…………!)
沈黙していた心臓が活動を再開し、ギロの全身の血管を鉄砲水のような血流が駆け巡る。強引な心肺停止の代償は果てしなく大きい。激烈な不整脈によって生み出される血流の暴走があらゆる臓器と血管を痛めつけ、指先や眼球の脆弱な毛細血管は次々と破裂する。
真っ赤に染まった視界の中、喉が張り裂けるまで絶叫したい衝動を押し殺しながら、ギロは竜巻のように荒れ狂う体内環境が落ち着きを取り戻すまで深呼吸を繰り返す他になかった。強制心肺停止による仮死状態への移行から、心筋の操作による独力での心肺蘇生……隠密として一流の技能を身に付けた〝神狩り部隊〟隊員たちでさえも、【命知らず】の異名で知られるギロを除けば、誰もが出来る限り使うことを避けたがる切り札である。
「……ぜひゅぅ、ひぃ、ぜひゅぅ……よぉぉし、今度もどうやら、生きて帰ってきたぜぇ……!」
ひとり呟くギロの表情には、常人が見れば怖気立つような狂気じみた愉悦が浮かんでいる。──これが堪らない、と彼は心の底から思う。死線の一歩手前から紙一重で生還する快感は、他のどんな悦びでも替えの利かないものだ。
「はぁ……はぁ……さっさと逃げっか……。ゼルたちも首ィ長くして待ってるだろうな……」
そう口にしている間にも、牢の外からは多くの慌しい足音が響いてくる。サーリャの後を引き継いだ『聴士』が異変に気付いて報告したのだろう。ギロものんびりしてはいられない。
本調子からは程遠い体調で、それでも素早く兵士から剝ぎ取った衣服を着込むと、ギロはそのまま牢獄を抜け出し、兵たちの眼を巧みに搔い潜りつつ、夕暮れの集落を走り抜けていった。
完全に陽の光が失われた夜半の大平原、なおも月明かりと星を頼りに目的地へと進んでいたセレィたちだったが、ある時ふと、女皇の隣を走っていたクェッタが異変に気が付いた。
「──陛下、お待ちを! 羊たちの様子がおかしい!」
「む……!?」
副官の求めに応じて、セレィの号令が騎馬隊の進行を停止させる。即座に馬から降りたクェッタは、近くにいた一匹の羊のもとに走り寄って屈みこみ、その足の裏をつぶさに検めた。
「やはり……! 皆、馬から降りて近くの羊を診てやってください! 足を怪我しているものがいるはずです!」
副官の只事ではない口調に気圧されて、他の兵たちも慌てて手近な羊の足を確認する。ほどなくクェッタが予想した通りの結果が出た。群れ全体の三分の一近い九匹の羊が、足の裏に擦り傷を負っていたのだ。
「しかし分からない、どうしてこんな怪我を……!?」
クェッタの疑問に誰も即答できない。集落を出発してからというもの、ここに至るまでに何ら特別な出来事はなかったはずである。無理な速度で羊たちを走らせた覚えもない。夜を徹して移動を続けていることは負担かもしれないが、その程度で足を痛めるとは考え辛い。
「……夜を徹した移動……夜を徹した……夜を?」
が、そこでセレィの脳裏に閃くものがあった。それを確認するために、彼女も馬から降りて地面に屈みこむ。ただし、羊の足を診るためではない。見なければならないのは夜闇に沈んだ大地そのものだった。
女皇が地面に手を着けると、じゃり、と乾いた小石が掌に食い込む。さらに手探りで辺りを調べるが、平原の常である柔らかな芝生の感触はまばらにしか存在しない。その事実を把握した瞬間、セレィはようやく羊たちの身に何が起こったのか理解した。
「まずいぞ……ここは砂礫地帯だ! 万途羊の足には道が悪すぎる!」
セレィは自らの浅慮に歯軋りして叫んだ。さもあらん──それが即ち、セレィらの騎馬隊が知らず陥ってしまった文字通りの窮地であった。
万途羊の足には地球の羊のような蹄はなく、むしろ猫科動物のそれに似ている。彼らの生息地域は基本的に草原地帯であり、進化の過程で柔らかな芝生の上を駆けることに特化したため、硬い砂利道には足裏の強度が対応していないのだ。
この事実に今までセレィたちが気付けなかったのには三つの原因がある。ひとつには草原地帯から砂礫地帯へと至る地表の変遷が緩やかであったこと。ふたつには日が暮れたことで地面の様子が分かり辛くなっていたこと。三つには彼女らの故郷ロケィラに、このような砂礫地帯がほとんど存在していなかったことだ。そうした不運が重なった結果、羊たちが足を引きずるまで事態に気付けなかった。
「……してやられた。ヘィロンの隊が進路を変えたのはこれが理由か!」
セレィは歯軋りして砂利を拳に握り締めた。──とにかく、この事態をどう切り抜けるべきか? 道程は半ばを過ぎたとは言え、目的地であるペィネ・ズォの集落までは未だ長い距離がある。無理に羊たちを歩かせれば、足裏の怪我はどんどん悪化していくだろう。
「……サーリャ! この砂礫地帯がどこまで続くか、そなたの耳で確認できるか!?」
「私の聴覚の守備範囲でも終わりが見えない。……むしろ、ここからさらに道は悪くなっていく様子」
闇に紛れてはいたが、サーリャの顔色もやはり青ざめていた。『聴士』の少女はこの窮地に責任を感じていた。「この先に難所があるか」と問われた時に、羊の足に限定したそれを想定できなかったからだ。生まれも育ちもアヌビシアの森林で、平原での遊牧など経験のない彼女に、それを予想しろと言うのがそもそも無理な話なのだが……。
不測の事態に混乱する騎馬隊の面々を、位置的にも心理的にも外様から見守っていた監視の兵が、淡々とした声で注意を飛ばす。
「セレィ殿。改めて言っておきますが、羊を馬に乗せて運ぶのは反則です。そうした行為を行った場合、第一競走の勝者は自動的に大首長となりますので、よくよくお気を付け下さい」
競走を監視する兵には、セレィの騎馬隊にはヘィロン側の人間が、ヘィロンの騎馬隊にはセレィ側の人間が当てられている。競技の公正を期すための当然の配備だったが、中陸有角種の彼にはずっと前からこの事態が予想できていたのだと思うと、注意を促す抑揚のない声ですら、セレィには自分を嘲るものに聴こえてならなかった。
「ッ……、承知している……! くっ、何か手立てはないものか……!」
セレィとクェッタが懸命に打開策を探っているところで、サーリャがはっとして首を巡らせる。逃げ場のない窮地にあって、彼女の耳が更なる凶報を捉えたのだ。
「陛下、後方から獣の群れがやってくる! 数は四十弱、おそらく掠畜獣の群れ……!」
「……どうやら血の跡を辿られましたね。凶事はさらなる凶事を呼ぶものとは言いますが……」
クェッタの声には既に覚悟が宿りつつある。こうなってしまった以上、もはや勝負に拘ってはいられない。最悪第一競走の勝ちを捨ててでも、自分と羊たちの身の安全を守り切ることが最優先になる。その分水嶺に関しては、セレィも見誤りはしなかった。
「……この足場で羊たちに無理はさせられない。かといって全ての羊を馬に乗せて走っては速度が落ちてしまい、いずれ後背から掠畜獣どもの襲撃を受けることになる」
となれば取るべき選択もひとつに絞られた。女皇は後方に首を巡らせてコリォに目配せする。その意図を受けて、有翼種の少女は張り詰めた面持ちで頷きを返すと、すぐさま地へ降り立って弓を構えた。騎馬隊が伴ってきた他の弓手たちも続々と同様の所作を取る。
「騎兵は羊を囲い込め! 相手は狡猾な獣たちだ、何があっても決して隙を見せるな! 連中の掃討が済むまで競走のことは一旦忘れろ! 人の犠牲はもちろん、羊一匹でも奴らの牙にかかれば、その時点で我々の負けだと思え!」
セレィの激励に大声で応えて、騎兵たちも各々の長槍を手にしていく。……人々の緊張を察した羊たちが弱々しく怯えの鳴き声を上げる中、闇に沈んだ平原の地で、人と獣の血戦の幕が上がろうとしていた。
同時刻、捕虜の境遇から脱出したギロは、手負いの身体に鞭打って、道なき平原をひたすら北に駆け抜けていた。ぜいぜいと息を切らせて走る彼の視界に、三つの影が忽然と現れる。
「おぅ、出迎えサンキュ。……そして悪い、ずいぶん待たせちまったな」
「待つだけでは済まない事態も覚悟していた。……よく自力で生還してくれたな」
そう言ってゼルはギロの肩を軽く叩いた。バズは肩をすくめて、リガは率直に安堵の溜め息をつき、それぞれギロの怪我の手当てに移っていく。手足の創傷に消毒と止血を施されながら、ギロは「いてててて!」と遠慮なく悲鳴を上げた。
「……手足の末端が内出血しているね。また『死んだふり』をやったのかい?」
「ギッチギチに縛られた上で簀巻きにされてたからな。仮病にゃ警戒されてたし、手段を選んでる余裕はなかった」
「大人しく交渉を待つ方針だってあったろうに。毎度毎度、ギロの命知らずには呆れますよ」
「そう言うなって、生きて帰って来たんだから結果オーライだ。それなりの土産話もあるしな」
傷の手当てが終わったのを見ると、ギロはその場にどっかりと座り込み、リガから手渡された棒状の携帯食料をがつがつと貪り食った。そのまま三本ほど腹に収めたところで、彼はおもむろに死線から持ち帰った成果を報告し始める。他の三人はしばしその内容に聞き入った。
「……同盟勢力の主導権を巡る決闘か。これはまた、向こうにも極端な亀裂が走ったものだな」
「こっちは標的が二人に増えましたね。セレィ・メル・ロケィラとはタイプが違うけど、ヘィロン・ザカ・トルキォスタの武力主義的な統率力も侮れないス。同盟であれ征服であれ、エナ・ガゼの諸国がひとつに纏まるのはアルマダの植民界政策にとって好ましくない。民衆を導くカリスマ性を持つ人間は、こっちの傀儡に出来ないようなら、今のうちに残らず排除しておかないと」
「で、今はそのために絶好の好機でもあるわけだね。二人の標的は少人数の騎馬隊を組んで競走を続けている。必然、集落に立て籠もっていた時よりもずっと隙は多い」
「そーゆーことだな。すぐに追って行って喉笛搔っ切ってやろう……と言いたいところなんだが、ホント悪ぃ、ちょっとそれはムリだ」
「見れば分かる。今のお前には休息が必要だ」
「正直それもあるけど、もっと致命的な理由があんのよ。……決闘の内容についちゃ、内耳の集音装置を使って盗み聞きしてたんだけどさ。使用限界時間を意識して休み休み使ってたら、結果的に具体的な順路までは聞き取れなかった。さすがの俺も『意味性の崩壊』は怖いんでね」
ゼルは渋い顔で頷いた。せっかくの好機を活かせないことに悶々とするバズとリガに、ギロはにやりと笑って不意打ちの朗報をもたらす。
「安心しな、こちらから追っていく必要はねぇぜ。むしろ狙うなら決闘の最後だ。……レースの具体的な順路こそ聞き取れなかったけどよ、この決闘が全部で三つの競走から成り立つこと、三つ目の競走の詳細なルールはキッチリ把握してる。それに依ればだな……」
ギロが提案する作戦の詳細に、他の三人が興味深く耳を傾ける。──一敗地に塗れた程度では、標的を抹殺せんとする〝神狩り部隊〟の執念には微塵の衰えもなかった。
トルキォストルの属国に当たるペィネ・ズォの集落に、ヘィロンの率いる騎馬隊は出発日の翌日の正午過ぎに辿りついた。それに合わせて、事前に早馬で連絡を受けていた牙種、長爪種ら集落の住民たちが往来に並び、恭しく跪いて支配者の到来を出迎える。
「馬と羊を厩舎に導け。それから、おれたちに水と食事を」
「万事整えておりまする。羊とお馬様は責任をもって預かりますゆえ、皆様はこちらに……」
長爪種の老人に案内されて、ヘィロンの配下の兵たちが続々と集落の奥に入っていく。しかしヘィロン自身はその列に続こうとはせず、集落の入り口に立って厳しい面持ちで外を眺めた。怪訝に思った牙種の娘が恐る恐る声をかける。
「大首長様……? あの、粗末で恐縮ですが、奥の屋敷に食事のご用意が……」
「おれの分はここに運べ。水と肉とパンがあれば構わん。……それと椅子を用意しろ」
「は、はぁ。御心のままに……」
相手の意図が解らずに困惑しながらも、娘は言われた通りに屋敷から食事と椅子を持って来た。それでは食べにくかろうということで、男手を借りて立派な机まで持ってくる。そんな彼女らに対しては礼のひとつも返さぬまま、ヘィロンは集落の入り口にどっしりと居座った。
「……来たか」
用意された食事を彼があらかた平らげた頃、地平線にうっすらと騎馬隊の影が見え始める。馬の速度はかなり抑えているようで、全体の進行速度はいかにも遅い。だがヘィロンは焦れることなく待ち続ける。やがて集落に到着した騎馬隊の、その先頭で頭を垂れる有角種の女皇に、ヘィロンは椅子に腰掛けたまま声をかけた。
「大平原の洗礼を受けた感想はどうだ、セレィ」
「…………」
セレィは答えず、馬から降りて他の兵たちに羊に関する指示を出した。満足に地上を歩いている羊は全体の半数ほどで、残りは全てぐったりとした身体を馬の上に括りつけられ、怪我をした足には止血のための布が巻かれている。そして何よりも、その頭数が出発時よりも二匹減っていることを、ヘィロンは見逃さなかった。
「掠畜獣の襲撃を受けたな。……だが、被害を二匹で抑えたのなら上々だろう。さらに半数の羊が無事に歩いているということは、砂礫地帯に入ってから勝負を捨てるまでの判断はかなり早かったようだな。……さすがはおれの見込んだ女だ。敗け様も堂に入っている」
それは必ずしも嫌味ではなく、ヘィロンは半ば以上本気でセレィを褒めていた。だが、それが分かるからこそ、女皇は自らの不甲斐なさに胸を抉られる思いだった。自分から決闘などと口にしておきながら、彼女は未だヘィロンにとっての競争相手にすら成りえていないのだ。
「そう落ち込むな、セレィ。平凡な指揮官であれば半数以上の羊を失っていただろう。おまえはよくやった」
「……私の浅慮が招いた敗北だ。敵の慰めなど要らん!」
セレィは強い視線でヘィロンを睨みつける。その気迫さえも微風のように受け流し、集落の住人に案内されて去っていこうとする彼女らに、平原の王者はなおも野太い声を投げる。
「善意から忠告する。──ここで決闘の負けを認めろ、セレィ」
「ッ、まだ言うか……!」
侮辱に耐えかねたセレィがヘィロンのもとまで走っていき、空の食器が並ぶ机を、腰元から抜き放った太刀の一閃で真っ二つに斬り割ってのける。遠巻きに様子を見守っていた人々が悲鳴を上げたが、当の本人たちは真っ向から睨み合ったまま微動だにしない。
「……この決闘は三本勝負。確かに最初の一戦は落としたが、これから挽回すれば良いだけのこと!」
「その負けん気は好ましいぞ。だが冷静になって考えてみろ。それが本当に可能だと思うか?」
「……砂礫地帯の存在は想定外だったが、それも今回の経験で学習した。次の競走では避けて通ればいい」
「余所者のおまえにそれは難しいだろう。砂礫地帯の範囲は、季節や周辺住民の遊牧によって変わってくる。その複雑な変化を把握した上で最短の道を選んでいけるのは、この地を知り尽くしている我々だけだ」
ぐ、とセレィは言葉を詰まらせる。その事実に対しては反論の仕様がなかった。出足を挫かれた女皇に、ヘィロンはさらなる負の要素を打ち明ける。
「それに加えて、次の競走にはまったく別の障害も待ち受けている。……おれが常に身に着けているこの毛皮が、何の獣のものか分かるか?」
そう言って、ヘィロンは大地色の装束に重ね着た、眼にも鮮やかな緋色の毛皮を見せつける。じっと検めても、セレィにはその正体が分からない。彼女の生まれ育ったロケィラには、そんな色の毛並みを持つ動物はいなかった。
「やはり知らんようだな。──これは緋獅子の毛皮。この中陸の大地で最も美しく、最も気高い、最強の獣王の証だ」
「緋獅子……最強の獣王、だと?」
「そうだ。同時にそれは、おれが大首長を襲名するために乗り越えなければならなかった最大の試練でもある。緋獅子には個体ごとの縄張りがあり、その中に踏み入らない限り、危害を加えられる心配はほとんどない。だが、もし一歩でもその領域を侵す者があれば、彼らはその爪と牙をもって容赦なく侵入者を八つ裂きにする。……獣王の異名に偽りはない。おれですら無傷では仕留められなかった」
ヘィロンは自らの顔の傷を指し示す。頰から額にかけて一直線に走ったそれは、一歩間違えれば眼球を抉り取っていたに違いない。それを改めて見た途端、セレィの背筋に戦慄が駆け上った。次の競走に待ち受ける障害とは、つまり……。
「……そうだ。ここから次の目的地であるヴマ・ズォの集落まで最短距離で行こうとすれば、どうあっても緋獅子の縄張りを通り抜けることになる。彼らの脚は馬の全力よりもさらに速い。対決は不可避ということだ」
「……っ。だが、先にそなたは言ったはずだな、緋獅子の縄張りは個体ごとのものだと。いかに最強の獣王とはいえ、騎馬隊が総出で挑んで討ち果たせぬ相手ではあるまい。現にそなたは仕留めたのであろう?」
「確かに仕留めた。……だが、おれと共に挑んだ二十六名の同胞のうち、十八名はその場で殺され、五名は重傷を負った後に息絶えた。五体満足で生き残ったのはおれを含む四人だけだ。もちろん全員が完全武装、しかも精鋭揃いの騎馬隊で挑戦した結果だ」
さしものセレィも絶句する他なかった。顔の古傷を指でなぞりながら、ヘィロンは淡々と粘り強く続ける。聞き分けの悪い子供を諭そうとするかのように。
「……第二競走では百匹の万途羊を隊列に伴うことになっている。騎馬隊を構成する人間の頭数よりも多い羊たちを守りながら、中陸最強の獣である緋獅子に挑むというのか?無謀と言っても暴挙と言ってもまだ足りん。そんなものはただの自殺だ」
ヘィロンは物憂げな溜め息をついた。それも心からセレィの身を案じてのものだろう。……途端、女皇は確と大地を踏みしめているはずの両足が揺らぐのを感じた。絶望的な状況を、他でもない決闘相手から懇切丁寧に諭されて、屈辱を通り越して心が折れかけていた。だが、
「──そろそろお黙りを、ヘィロン殿。セレィ陛下に対して、それ以上の侮辱は許しません」
毅然とした声が女皇のすぐ背後から発せられ、その耳慣れた響きが折れかけたセレィの心を励ました。──背中の両翼を威嚇するように広げつつ、女皇の実妹にして生粋の有翼種、コリォ・サリマニュィがそこに立っていた。
「右に同じ。黙って聞いていれば、さっきから余計なお世話もいいところ。……第一、砂礫地帯のことはともかく、緋獅子の縄張りを越えていかなければならない条件は、互いに同じのはず」
コリォと並び立ったサーリャがさらに援護を飛ばした。セレィと強い絆で結ばれた二人の異民族を疎ましげな眼で見やると、ヘィロンは再び重々しく口を開く。
「……いかに相手が最強の獣王とはいえ、獣の縄張りに怯えながら中陸の大地を走らなければならないような男に、トルキォストルの大首長が務まると思うか? この毛皮を身に着けているおれが隊列の先頭を走る限り、たとえ縄張りに踏み込んでも、緋獅子は襲って来ない。おれこそが平原の真の覇者であることが分かっているからだ」
「……なるほど、納得した。でも、やっぱり余計なお世話。今回の競技は獣狩りじゃない。あなたのように正面から攻めなくても、頭を使えばいくらでもやりようはある」
「サーリャ殿の言うとおりだ。……私たちは民族の境界を越えた絆で結ばれた同胞。それぞれの知恵と技と力をひとつに束ねれば、どんな障害でも乗り越えられる。たとえそれが最強の獣王であったとしても!」
力強く言い切ったコリォの瞳の輝きを見て、セレィは状況も構わず妹を抱き締めてやりたい衝動に駆られた。……サーリャと同様にコリォもまた、導神不在の間は、その代わりとなって女皇を支えようと心に決めている。その想いは今確かに、絶望に屈しかけたセレィの心を瀬戸際で救ったのだ。
「──彼女らの言うとおりだ。負けは認めん、決闘はこのまま続ける。断固としてな」
「……やり切れんな。嫁に迎えようという女を死地に送り出したくない気持ちを汲んではくれんか。はっきり言うが、緋獅子に襲われた場合、羊を見捨てて全員が散り散りに逃げ出したとしても、騎馬隊の半数は確実に死ぬぞ。おまえ自身が生き延びられる可能性も、はたして五分あるかどうか……」
「嫁云々についてもそうだが、杞憂に頭を悩ませるのも大概にしておけ。……次は我々が勝つ。ヴマ・ズォの集落で会う時こそ、そなたは対等の敵として私を見るだろう」
そう言い残すと、セレィは二人の少女と共に颯爽と身を翻して去っていく。その後ろ姿を見送るヘィロンの口からは、無念と諦念の入り混じった大きな溜め息が零れるばかりだった。
「諸君、問題点は単純に二つだ。第一に、いかにして砂礫地帯を越えていくか。第二に、いかにして緋獅子の縄張りを抜けていくか」
集落の住人から借り受けた会合用の家屋の中で、セレィらは第二競走での必勝を期すべく作戦会議を行っていた。第一競走での敗北に意気消沈していた兵たちも、指揮官であるセレィが普段の調子を取り戻したことで士気を復活させつつある。次の戦いに向けての前向きな話し合いが展開していた。
「……とりあえず、第一の問題について、思いつく中で一番簡単な案を出しておく」
真っ先に手を挙げたサーリャに、セレィが目配せして発言を許可する。
「理屈はとても単純。出発地点からひたすらヘィロンの騎馬隊に付いて行く。これなら砂礫地帯に迷い込むことだけは絶対にない」
「……うむ、そなたなら最初にその方法を提案すると思った。だが、それは他に何一つ思いつかなかった場合の最後の手段として取っておきたい。理由は言わずとも分かってくれるな?」
「……先刻承知。とても胸を張って採用できる方針じゃない。感情的な問題を無視しても、そもそも作戦として穴だらけ」
セレィの反応まで完全に予想していたように、サーリャはすぐさま意見を引っ込めた。……今の意見によって、彼女はあくまでも自分の立場を表明したに過ぎない。それは即ち、セレィの勝利のためならば汚れ仕事も辞さず、合理性のみを追求するという彼女の覚悟だ。
「私もそれは考えましたが、互いの騎馬隊は30ルハの距離を取らねばならないという取り決めがありますからね。その方針を採用すると、結果として常に相手の先行を許すことになる。それでは必敗の作戦ということになってしまいます」
クェッタが作戦の根本的な欠陥を補足する。セレィは重々しく頷いて見せた。
「私が思うに、砂礫地帯を避けつつ最短距離を行くという正攻法では、我々は決してヘィロンたちに敵わないだろう。彼らは眼を瞑ったままでも馬を走らせられるほど中陸の地形を知り尽くしているのだ。いかにサーリャの能力があっても、次の目的地であるヴマ・ズォの集落までは距離が長過ぎる。聴覚の守備範囲外の砂礫地帯までは把握できず、場当たり的に道を選んで行けば、やがて袋小路に追い込まれることも考えられる」
説明を続けながら、セレィはサーリャの能力に頼り過ぎないように強く意識していた。気丈な『聴士』の少女はその素振りも見せないが、一日以上続けて馬に乗っていたサーリャは、今も強烈な乗り物酔いに襲われているはずである。会議が終わればすぐにも休ませねばならない。
「……私の記憶によれば、陛下は最初に『いかにして砂礫地帯を越えていくか』と仰いました。それはつまり、迂回という戦略自体を度外視するものと解釈して良いのですね?」
クェッタが思い切った発言をした。ナバザ砦の攻略以来、特殊な作戦の指揮を任されることが重なったせいか、この副官は日毎に聡明さを強めつつある。部下のそんな傾向に頼もしさを覚えつつ、セレィは頷きをもって彼の推察を肯定する。
「私の提案は具体性に欠ける上、いささか以上に強引かもしれん。……だが、ここは思い切って言わせてもらう。クェッタの言うとおり、私はどうにかして、羊たちと共に砂礫地帯を突っ切って行きたい」
女皇の発言に兵たちがどよめいた。ざわつく空気の中、問題の内容を真っ先に吟味し終えた賢臣は、今回もやはりサーリャとクェッタの二人であった。
「……確かに、それが可能なら必勝の作戦。直進に勝る近道はないのだから」
「そうですね。……しかし、その実行のためには新たな問題が浮上してくる。即ち、どうやって羊たちの足を痛めずに砂礫地帯を歩かせるのか?」
二人の視線が同時に女皇を捉える。それを受け止めて、セレィはやや自信なさげに答えた。
「またも具体性が無いことは承知で提案させてもらうが……羊に靴を履かせるのはどうだろうか」
さっきのどよめきとは逆に、今度の発言に対しては、兵たちの間に微妙な沈黙が降りた。率直な反応としては呆れたいところなのだが、女皇の意見に向かって、それはさすがに不遜ではないかと迷ったのだ。
「さっきの前提から導かれる至って自然な結論だと思います。しかし現実的な問題として、羊に履かせる靴というのは、私たちの知る限りでは存在していませんね」
一方のクェッタは失笑ひとつ漏らさず、あくまで真剣な面持ちで真正面からセレィの意見の検証を始めた。……普通なら馬鹿馬鹿しいと一蹴されるような考えから、予想もしなかった活路が見えてくることがある。そういった思考の柔軟さは、知らぬ間に彼が導神から譲り受けたものかもしれない。
「存在しないのなら、新しく作ればいい。……幸いと、この集落はそれなりに商業で栄えている。手先の器用な長爪種の職人なら、探せばいくらでも見つかると思う」
ふわふわと宙に浮かんでいたセレィの発案が、クェッタとサーリャによって見る間に現実味を帯びていく。それが一つの可能性であることを認めた瞬間、兵たちは途端に色めき始めた。
「いけるかもしれないぞ……。ギリェ・イゼンの長爪種も、丈夫な皮製の靴を作っていた憶えがある!」
「いや、落ち着けって! これから職人と交渉してすぐに作らせるとしても、一組や二組じゃない、羊百匹分の靴だぞ? あいつらは四本足だから、実質は二百組だ。そんなに大量に作らせている間に第二競走が始まっちまうよ!」
「そうとは限らないぜ。さっき集落の人間に話を聞いたところ、次の競走に連れて行く羊を用意するのには、まだしばらく時間がかかるそうだ。何しろ全部で二百匹だからな、急な話じゃ手配する側も大変だろうさ」
「じゃあ技術的な問題はどうなんだ? 職人たちだって羊用の靴なんて作ったことがないだろう。そんなもの作れないと言われればそれまでだし、実用に耐えない半端なものを作られても……」
「そんなことを初めから悩んでいても仕方がないだろう! とにかく職人たちを集めて交渉を始めなけりゃ。陽が沈んで仕事納めになる前に、ほら、一秒でも早く!」
交渉の具体的な段取りを話し合い、セレィに許可を受けた兵たちが、慌てて屋敷の外に駆け出していく。クェッタの提案で、まずは直接の交渉には入らず、彼らが集めてきた職人に、それぞれ羊用の靴の試作品を作らせてみようということになった。実物が上がってくれば、候補の中で最も出来が良さそうなものを選び、後は全ての職人にひたすらそれと同じものを作らせる。全てが首尾よく行けば、セレィたちは砂礫地帯を恐れることなく第二競走に挑むことが出来るだろう。
「兎にも角にも布石は打ったか……。だが、未だに第二の問題は手付かずのままだ。中陸最強の獣王、緋獅子の縄張りをいかにして突破するか?」
皆が眉間に皺を寄せて考え込んだが、そうそう都合よく名案が浮かぶわけもない。先行きに大きな障害を残したまま、それでも羊に履かせる靴のことを唯一の希望として、その日の作戦会議は解散となったのだった。
事前の予想を超えて、集落の中には大勢の長爪種の職人が住んでいた。セレィらが想像していたような靴専門の職人というのは存在しておらず、彼らの多くは縫い物や織物といった手工業に関しての万能選手なのである。とはいえ、そんな彼らでさえ「羊に履かせる靴」という要求には大多数が眼を丸くしたが、その中にも一人だけ稀有な例外がいた。
「ああ……そういうもんなら、だいぶ昔になるが、試しに作ったことがありますよ。ちょいと待っていてくだせぇ、確かこっちの奥の方に……」
住居兼商店という印象の小さな家の中で、長爪種の中年男性がごそごそと探し物を続けている。やがて、胸を高鳴らせながら店頭で待っていた有角種の兵たちの目の前に、子供用のそれよりも小さく、それでいて奇妙な形をした革製の靴が運ばれてきた。
「石頭猛牛の革で作ったものでね。羊の移動に便利じゃないかと思って、有角種の皆さんに勧めてみたんですが、材料費が高くついたこともあってか、そんときは見向きもされませんでした。一度使ってみれば、きっと良さが分かると思うんですがねぇ……」
「……おお! その靴、作製には特別な技術が必要か? あなた以外の職人では、同じものを作ることが難しかったりするだろうか?」
「? いや、そんなこたぁ無いと思いますよ。ちっと人間の靴とは勝手が違うが、モノの構造自体は至って単純なもんです。こうやって現物を見せれば、長爪種の職人なら誰でも再現できるかと……」
「よし──その靴、買った! 他の職人も動員するから、明後日までに百匹分用意してくれ!」
「はいはい、毎度あり……って、はぁぁっ!? 明後日までに百匹分!?」
まったく不意に舞い込んできた大仕事だったが、職人たちの動きは存外に素早かった。セレィが国の懐から高額の報酬を約束したこともあり、試作品を提供してくれた男を中心に、彼らは寝食を惜しんで靴作りに没頭してくれた。羊一匹一匹の足の大きさの違いも予想されるので、靴には三種類の規格を用意し、さらには靴底に綿を詰めるなどの改良を加えて、足の受け入れに柔軟性を持たせた。
「あっしらにも矜持がありますんでね。もし靴擦れでも出来るようなら、お代は頂きませんや」
そんなことは万に一つも有り得ないだろうという自信が、職人たちの顔からは見て取れた。セレィの側でも実用性を確かめるために、連れてきた羊の中で元気なものを選んで靴を履かせ、兵に命じて集落の外の砂礫地帯を歩かせてみた。結果は文句の付けようもなし。羊は尖った小石の上を軽快に闊歩し、半日間それを続けても、切り傷も靴擦れもまったく負わなかった。
ただ一つ不安が残るのは、はたして第二競走の開始までに百匹分の靴が完成するのかということだが、それについては職人たちを信じる他にない。それに、仮に出発時刻に間に合わなかったとしても、多少の遅れならば砂礫地帯を突っ切ることで取り返せる。セレィはそう信じて、意識を第二の問題に集中させた。
「緋獅子……噂を聴けば聴くほど、恐るべき相手という印象ばかり強まってくる。騎兵で囲い込んだ程度では到底仕留められそうにない。一体どうすればいい……?」
露店の並ぶ小さな市場を歩いて巡りながら、セレィはぶつぶつと呟きつつ思索にふけっている。不気味に思った人々が彼女の周囲を避けて通る中で、その後ろから、盲種の少女が息を切らして追いすがってきた。
「……陛下! 一応だけれど、緋獅子の問題について、ひとつ可能性が浮かんだ」
「なんと!? それはどのような案なのだ!」
「あまり期待しない方がいい。可能性とは言ったけれど、かなり低い部類のそれ。……ひょっとしたら、ただの酔っ払いの戯言かもしれない」
サーリャの表情はあくまでも険しい。事の望みの薄さが窺われるが、第二競走の開始日が刻々と迫る今、彼女らは藁にも縋りたい心境である。セレィはただ「構わん」と口にして少女に案内を求めた。その意志を受けて、再び駆け出したサーリャの後を、女皇も足早に追っていった。
まもなく二人が辿りついたのは、集落の中心にある酒場だった。長爪主の店主と牙種の給仕の二人で切り盛りされる小さな店である。時刻が午後の半端な時間ということもあって、客はまばらにしか見当たらなかったが、奥まった位置にある席に、まるで隔離されるような形で三人の牙種の男たちが座っていた。
「なぁなぁ、バニィルのおっさんよぅ。今日は何か面白い話ねぇのかよぉ? 黙りこくってねぇで、いつもの武勇伝聞かせてくれよぉ」
「おれも聞きてぇなぁ。一人で有角種の騎兵十人を相手に大立ち回りをしたとか、三日三晩の格闘の末に緋獅子の喉笛に牙を突き立ててやったとかよ。どうせなら一等派手なのがいいな。ヒマな午後の時間潰しにゃ丁度いいぜ」
状況としては、二人の若い牙種が年を食った仲間にねちねちと絡んでいる様子だった。すでに酒も入っているらしく、二人の若者はいかにも上機嫌だが、しつこく話しかけられている方の男は机に突っ伏したまま死んだように動かない。
「……うるっせぇ、くそガキども……。どうせ、信じてもいねぇくせによ……」
恨めしげな声が腕の隙間から漏れると、若者たちはげらげらと愉快そうに笑った。その光景に不快なものを覚えたセレィは、店員の案内も待たず、つかつかと店の奥まで踏み込んでいく。
「そこの若い二人、差し支えなければ席を譲ってくれんか。私たちはその男に話がある」
よく通る声で話しかけられて、二人の酔漢が鬱陶しげにセレィを見やる。が──相手の額に聳え立つ見事な一角を認めると、赤らんだ顔を一気に青ざめさせて即座に席を立った。
「ど、どうぞ……! おれたちはもう帰りますんで!」
支配階級である有角種へのへつらいに加えて、セレィの全身から発せられる君主の風格に畏れを感じたのだろう。二人の若者は給仕に勘定を押し付けてそそくさと店を去って行った。そうして空いた二つの席に、セレィとサーリャは残された男と向かい合って座る。
「給仕の娘よ、この御仁に水を一杯。まずは酒を抜かねば話にもならないようだ」
注文を受けた牙種の娘が、おずおずと水の入った杯を運んでくる。飲み屋であるからには何かを頼むのが礼儀と思い、セレィは店内の壁に張り出された品書きを見て少し考えた後、柑粒果の果汁を二杯頼んだ。それが盆に載って運ばれてきた頃に、机に突っ伏していた男はのっそりと顔を上げた。
「……なんでぇ、有角種のお偉いさんかよ……。……何の用だい……。この期に及んで、おれから何を奪っていこうってんだ……」
ひどく疲れた印象の男だった。髪は伸び放題、髭もすでに何日剃っていないのか。両の眼は酒のせいでどろりと濁って生気がない。唇から覗く上顎の牙は先端が丸く削られている。全身にがっしりとした頑丈そうな体格をしているのに、他の全ての要素が、男の印象を死に際の動物のそれに固定していた。
「そなたの武勇伝を聞きに来た。特に緋獅子のそれについて興味がある。話してくれないか」
男の肩がぴくりと蠢く。セレィの真剣な声色から、からかいの類でないことを察したのだろう。彼は杯の水を一息に呷ると、いくぶん濁りの薄れた眼で正面の相手を見返した。
「……何で今さらそんな話を聞きたがる。あんたらにとっちゃ耳障りなだけの昔話だろ?」
「そんなことはない。私はそなたが真の勇者であるか知りたいのだ、バニィル・ゼスカ殿」
事前にサーリャから教えられていた姓名を呼ばわる。それで対話の準備が整ったと見て、セレィは隣のサーリャと目配せし、自分たちの身の上と現在の状況を話し始めた。バニィルは途中に一言も挟むことなく、静かに二人の話を聞き終えた。
「……東方有角種の女皇さまと中陸有角種の大首長が、互いの誇りを懸けた決闘か。知らない内にでかい事件が起こってたもんだ。なるほど、ここ数日、集落の連中が慌しかったのはそれが原因か」
バニィルは納得した風に頷く。外見から読み取れる通り酒浸りの毎日を送っているようで、世情にはまるきり疎いらしい。だが、聞き手としては至って真面目だし、酔っ払いとは思えないほど事情の理解は早い。そこに一縷の希望を見出して、セレィはいよいよ本題に踏み込んだ。
「率直に聞こう。──そなたは過去に緋獅子を倒したことがあるのか?」
その単純な問いを受けた途端、バニィルは石になったように口を閉ざす。法螺話だと馬鹿にされる経験が重なり過ぎて、もはや返事をすることも億劫なのだろう。だが有角種の女皇は、そういった彼の諦念までも含めて、己が一角の能力で真実を見抜いた。
「なるほど……本当なのだな。驚くべきことだ」
バニィルは眼を丸くして女皇を凝視した。何の冗談でもなく、セレィの瞳には純粋な感嘆の色しかない。誰にも信じてもらえなかった話を一瞬で事実と認められたことに、バニィルは喜びよりもむしろ困惑を感じた。
「詳しい事情を話してくれないか。そなたが最強の獣王と戦うに至った経緯も含めて」
話を急かすことはせず、セレィは真摯な面持ちで相手を見つめる。その様子に、初めて自分の過去を語るに値する聞き手が現れたことを知って、バニィルは震える声で話し始めた。
中陸における覇権の所在が有角種に決まったのは、歴史的に見ればごく最近のことである。それまでも牙種と長爪種は長く劣勢を強いられてきたが、悪化していく戦況の中でも最後まで抵抗を続けた人々ももちろんあった。バニィルはそんな集団の先陣を切って有角種の侵攻に立ち向かう戦士だったのだ。
「元を辿れば、緋獅子の打倒をもって民族の頂点に立つという有角種の掟も、牙種のそれを真似たものなんだ。……だが、牙種の王は有角種との戦の中で戦死を遂げ、当時のおれたちは自分を導いてくれる存在を失ってしまった。おれは焦った……このままでは皆の心が折れてしまうと。不利な状況でも皆が戦意を失わないためには、死んだ王に代わる新たな勇者が必要だと」
そこでバニィルは緋獅子に挑むことを決意した。固い絆で結ばれた十人の仲間を伴って、彼は自ら望んで獣王の縄張りに踏み込んだ。……戦いは熾烈を極めた。仲間たちはあくまでもバニィルを補佐する人員であり、獅子の懐に飛び込んでいく役目は、彼一人に委ねられたからだ。
「そして、おれは勝った。おれ自身はもちろん、仲間にも一人の死者も出さなかった。事前におれが望んだ通り、その結果によって同胞たちの士気は大いに上がった。有角種なんぞに負けるものかと奮い立った。……だが、その奮戦をもってしても、ついに戦局を覆すには至らなかった」
バニィルは歯を食いしばって屈辱の記憶を思い出す。──服属か死か。最後の拠点を制圧し終えた有角種たちから残酷な二者択一を迫られた牙種たちは、悩みに悩んだ挙句、嗚咽を嚙み殺しつつ征服者たちの支配下に加わることを受け容れた。その瞬間、バニィルの率いていた最後の抵抗勢力が消滅し、牙種という民族の全面的な敗北が確定したのだ。
その後、中陸有角種たちは敗者となった牙種と長爪種を無意味に痛めつけたりはしなかった。ペィネ・ズォ、ヴマ・ズォ、ジュド・ズォの三国における両民族の統治は基本的に現地の彼らに任せられ、各地に有角種の徴税官を派遣した。牙種と長爪種に強制された具体的な義務は、農耕と織物業の生産品の一部を一定期間毎に献上することと、牙種に関しては特に、民族の象徴とも言える牙の先端を常に丸く削っておくことが求められた。当事者たちにとってはこれ以上なく屈辱的な仕打ちであったが、皮肉にもこの施策によって、牙種たちの反抗心は効果的に削がれていった。牙を削られることで、牙を抜かれたのだ。
「そうして牙種は今の境遇に至るってわけだ。……有角種どもの采配で、一緒に戦った仲間の生き残りも各地に散り散りになっちまって、そうでもなくても世代は移っていったし、今となっちゃ誰もおれのやったことなんざ覚えてねぇって有様さ。……笑い話だろ。若い連中に酒の肴にされちまうのも無理はねぇのさ」
最後にそう自嘲して、バニィルは再び体ごと机に突っ伏してしまった。彼の事情をすっかり把握し終えたセレィは、打ちひしがれる牙種の敗残兵に容赦なく檄を飛ばす。
「そうやって過去の自分を嘲笑いながら、酒に溺れて過ごすのが望みと言うのなら、それも良いだろう。……だが、かつて民族の運命を憂いて立ち上がった勇者の末路としては、あまりにも無様だな」
「……っ、何だと……っ!」
「聞け。つい最近まで、私もそなたと全く同じ境遇だった。有翼種との戦は劣勢を極め、十三人の兄たちは互いに足を引っ張り合った挙句に討ち死にし、私は国内で分裂した戦力を取りまとめることから始めなければならなかった。……だが敗戦は必至だった。それでも民族を守りたい一心で戦いを続けていたところに、私を導いてくれる存在が舞い降りた」
セレィは拳を机に叩きつけた。その振動に驚いて、バニィルはだらしなく机に付いていた腕を戻し、結果としてぴんと背筋を伸ばした体勢になる。こじ開けた殻の中の魂を狙い撃つようにして、セレィは凜と通る声で相手に運命を突きつけた。
「こう思え。そなたにとっては、今やって来たこの私こそが導き手だ。敗北の日にそなたが失った希望を、それからの無為の日々で磨り減らしていった民族の矜持を、かつては誰よりも熱く燃えていたであろう勇者としての誇りを、そなたに取り戻させるために私は来たのだ」
「な──何を、あんたは──」
「ゆえに、ここで私は問おう。──そなたは今もなお勇者か? それとも、かつて勇者であっただけのろくでなしか?」
バニィルは愕然と眼を見開いた。ただの怒りとは違う、腹の底から湧き上がって来る得体の知れない感情に、彼はぶるぶると全身を震わせていた。それを見た瞬間にセレィは確信した。──この男は抜け殻ではない!
「共に戦ってくれ、バニィル! 最強の獣王を打倒し、今一度、その身に勇者の証を立てよ!」
机から身を乗り出したセレィの両手が、バニィルの両肩を力強く摑んだ。その瞬間、かつて勇者であった男の瞳に、じわりと涙が滲んだ。──失った誇りを取り戻したい。酒浸りの日々にあっても変わらず抱き続けていた唯一の願いが、彼の首を否応なく縦に振らせていた。
セレィの陣営ばかりが奔走する二日間は瞬く間に過ぎ、二百匹の新たな羊の準備が済んだところで、いよいよ第二競走の始まる朝が来た。……だが、集落を出た地点に並んでいる騎馬隊は、ヘィロンの率いる一組のみである。
「……セレィはどうした。この二日間、忙しなく走り回っていたようだが」
「事情あって、少し遅れて出発されるとのことです。そちらは遠慮なくお発ちください」
セレィ側の陣営から派遣されている監視の兵は、不敵な表情を浮かべてヘィロンに先行を促す。出発が遅れるという明らかな不利にも拘らず、その余裕ぶった態度には、ヘィロンも些細な疑念を覚えたが、すぐさま取るに足らぬものと振り切って隊列に号令をかけた。
「付け焼き刃の策略でどうにかなるほど中陸の大地は甘くない。……今回ばかりは馬肉を食う羽目では済まんかもな。次の集落で、生きたおまえと再会できることを願っているぞ、セレィ」
百匹の羊を連れた騎馬隊が大地を蹴って走り出す。……今もってヘィロンには決闘を行っているという自覚はなく、彼は性懲りもなく嫁に迎える相手の安否ばかりを気遣っていた。
「……よし、一匹残らず履かせ終えたな!」
クェッタが確認の声を上げる。ヘィロンらが集落を発った頃、彼らは職人たちが夜なべして作ってくれた特製の靴を羊に履かせているところだった。長爪種たちの努力の甲斐あって、靴自体は出発直前に百匹分が届けられていたのだが、それを羊たちに履かせる作業が思いのほか手間だったのである。結果として、セレィらの騎馬隊の出発はヘィロン側より十分ほど遅れることになった。
「安心しろ、諸君! この程度の遅れは織り込み済みだ! 相手は砂礫地帯を避けた婉曲な迂回路を、こちらは最短距離を真っ直ぐに進むのだから、その有利は今さら語るまでもない!」
セレィの激励に応じて兵たちが気炎を上げる。だが、隊列の先頭に近い位置に、サーリャやクェッタ、コリォと並んで、一人だけ居心地悪そうに肩を縮める牙種の男性がいた。
「互いに命を懸けることになるぞ。妻子に挨拶は済ませて来たのか、バニィル」
「ああ……連れ合いには泣いて止められたが、ガキ共には尊敬の混じった笑顔で送り出されたよ。……ずっとおれの武勇伝を聞かせて育ててきたからなぁ。あんなキラキラした眼で見送られちゃあ、手ぶらで帰るわけにもいかなくなっちまった」
苦笑混じりに言ったバニィルに、セレィは満足げな頷きを返す。……彼の士気は、ひょっとしたら隊の他の誰よりも高いのかもしれない。ふと女皇はそう思った。
「今回は群れの数が多い! 皆、近くの羊に意識を回すことを忘れるなよ!」
クェッタの注意が飛ぶ。全員が真剣な顔で頷いたところで、セレィが高々と剣を掲げた。
「では出発だ! 何も迷うことはない、次の集落までひたすら直進するぞ!」
セレィを乗せた馬が先陣を切って駆け出す。その後に続いて、人と馬と羊の集団が猛然と移動を始めた。
ペィネ・ズォの集落を出発したその日の夕方、既にいくつかの砂礫地帯を越えてきたこともあり、一旦前進を止めて羊たちの様子を診ることにした。第一競走の時と違って、何しろ今度は百匹の群れを伴っているのである。常に気を張っていなければ、個体が群れから離れてしまった場合にも気付きにくい。
「陛下に報告します。伴ってきた百匹の万途羊は全て無事が確認されました。足や身体に傷を負っている様子もありません」
「ご苦労だった。クェッタ、お前も休憩を取れ。羊を見張る者は必要だが、彼らにも交代で休ませるのだ。体の疲れは無理が利くが、集中力の方は知らず知らずの内に落ちていくことを忘れるな」
はっ、と短く返事をしてクェッタは身を翻した。……事が競走である以上、吞気に野営をしている暇はない。かといって完全に休憩なしで突っ切るには目的地までの距離が長すぎる。たまの大休止を挟むことで、騎馬隊全体の性能の低下を防がねばならなかった。
一方、羊の動きに注意を払いながら馬を駆ってきた有角種たちに比べて、有事の際の護衛という任を帯びた有翼種たちの疲労は、掠畜獣などによる襲撃が起こっていないため、今のところ比較的軽い。だからか、彼らなりに緊張感を絶やさないためにも、この休憩時間を使って弓の手入れや射撃の練習を行っている者が多かった。
「……やっ!」
当然のようにコリォもその中の一人だったが、彼女だけは他の仲間たちに比べて少し変わったことをやっていた。一見して立ち木を的にした射撃の練習を普通に行っているようだが、よくよく見れば、彼女が扱っている矢が通常のそれではないことが分かる。かつて掠畜獣の群れを迎え撃つ際にヘィロンが使っていた、先端に刃状の鏃をもつ狩俣と呼ばれる矢なのだ。
「……コリォさん。その矢を使ってみた感想はどう?」
一心不乱に矢を放っていた彼女に、いつの間にか背後に佇んでいたサーリャが声をかけた。コリォが驚いて振り返ると、『聴士』の少女は見開いた瞳で真っ直ぐに彼女を見つめている。その迫力に強がりを封じられて、コリォは自然と本音を口にしてしまった。
「……その、正直に言って、私に向いた武器ではありません。刃状の鏃で射止めた相手を切り裂けるのが狩俣の強みですが、それには強弓で高速の矢を放つことが不可欠です。私たち有翼種の斥候兵が持つ弓は軽量性に重きを置いた小型の作りで、一発一発の威力では、どうしても中陸有角種の弓に遅れを取ります。もちろん私の腕力の不足もありますが……」
口惜しげに言いつつ、コリォはちらりと視線を巡らせ、20ルハほど遠くの射撃の的にしていた立ち木を見やった。全部で十本の矢が放たれていたが、その半数が木の幹に切り込めず根元に落下している。彼女の言うとおり、狩俣を使いこなすためには弓の力が足りないのだ。
「そんなことだろうと思った。……今になって新しい武器を試しているのは、この前の襲撃の反省があるから?」
サーリャの無遠慮な追及に、コリォは肩を落として項垂れた。……第一競走で掠畜獣の襲来があった際、護衛を任されていた彼女らは、結果として三十匹の羊を完全に守りきることが出来なかった。接近される前に射損じた、あるいは一撃で仕留め切れなかった獣たちが羊の群れに乱入し、その内の二匹を殺して攫っていったのだ。
「……仰る通りです。私の弓の腕がもっと磨かれていたのなら、あるいは犠牲を出さずに済んだかもしれません。群れに乱入した獣の一頭は、私が一撃で急所を射抜けなかったばかりに接近を許してしまったのですから」
「責任を感じているのは分かる。けれど、そこでヘィロンの真似をしても仕方がない」
「でも……私にはサーリャさんのような戦略眼や、『聴士』としての能力がありません。この身は一介のありふれた弓兵に過ぎず、このままでは陛下や導神さまの足手まといになってしまいます。それを避けるためにも、何か新しい戦力を身に付けないと……」
「気持ちは分かるけど、焦ってはだめ。……人一人に出来ることはとても限られている。私は陛下のように馬に乗れないし、コリォさんのように弓も扱えない。それどころか、足の速い乗り物に乗っていればすぐに体調を崩してしまうという体たらく。クルァシン不在の今は作戦の組み立てにも出しゃばっているけれど、本当は一人では何もできない小娘に過ぎない」
絶えず周囲に神経を張り巡らせ、時に導神顔負けの策略を巡らせる一方で、サーリャは自分がセレィらの庇護下で生かされている事実を自覚している。だから彼女は決して驕らない。手厚い庇護を受けているからには、それに見合った働きを見せるのは当然だと思っている。……加えて、人生の恩人であるクルァシンが絡むことには、義務感や責任感を越えた特別な感情が働く傾向もあるのだが。
「まずは自分をよく見つめ直して。コリォさんにはコリォさんの役割がある。……その上で、より自分を高めたいのなら、安易な脇道には逸れないこと。昔から長く積み重ねてきた技術の中に、必ず成長の突破口はあるはずだから」
そこまでを淡々と言い終えると、やはり乗り物酔いが響いているのか、サーリャは幾分よろめきながらコリォの前から去っていった。……その背中を不安げに見送りつつ、ひとり残されたコリォは、『聴士』の少女が残した忠告を思い返しながら、自分の手に馴染んだ愛用の弓をじっと見つめるのだった。
大休止を終えた騎馬隊が再び出発し、長い暗夜行を経て、夜明けの光が再び平原の大地を照らし始めた頃──ぼんやりとした表情で馬に乗っていたバニィルの目つきが、まるで人が変わったように一瞬で険しくなった。
「……女皇さま、仲間に警戒を強めさせろ。どうやら奴さんの縄張りに入ったぜ」
バニィルの警告に即応して、セレィは羊たちを守る騎馬隊の陣形をより強固なものにした。広範囲の索敵能力をもつサーリャに先んじて、バニィルが縄張りへの侵入に気付けたのは、牙種の有する鋭敏な嗅覚に加えて、おそらく風向きに恵まれたおかげだろう。隊列が慎重に前進を続けていくうちに、やがてサーリャの耳にも異常が感知された。
「……陛下。前方の進路上、目の前の軽い丘を越えていった辺りで、大きな獣が二頭、激しく争っている。体格と形状から察するに、一方は大型の石頭猛牛。けれど、もう一方はおそらく……」
サーリャの顔色が青ざめつつあるのは、何も乗り物酔いのせいばかりではあるまい。彼女の鋭敏な聴覚は他の誰よりも早く、この先に待ち受ける最大の脅威の全貌を知覚しているのだ。その戦慄を全員が共有するのは時間の問題でしかない。
「覚悟を決めて。もうじき、視界に入る……!」
震える肩を両手で抱いてサーリャが叫ぶ。その宣告から五秒と置かず、隊列の全体が丘の頂きに至った瞬間──羊さえも含む全員の眼が、その凄まじい光景に釘付けにされた。
「グルオオオオォォォォォォォォォォォォォン!」
野性が猛っている。平原の真っ只中で、二頭の猛獣による壮絶な殺し合いが行われていた。
一方はサーリャの予測に違わず石頭猛牛。平均的には馬より一回り大きい程度の動物だが、セレィらが眼にしているそれの体格は平常の二倍近くはある。額からは角ではなく、剛骨と呼ばれる分厚く発達した頭蓋骨がせり出しており、それを利用した石頭猛牛という名の由来でもある強烈な頭突きは、まさに岩をも砕くほどである。
だが、そんな猛牛の圧倒的な重量感と迫力に比較しても、それと対峙する獣の風格は少しも劣るものではない。高密度の筋肉でみっしりと張り詰めた後ろ脚、短刀と見紛うばかりの長く鋭い爪を有する前脚。鋼のように引き締まった胴体は、機能美を感じさせる筋肉の他には一切の贅肉が削ぎ落とされている。その体軀は相手取っている大型の石頭猛牛よりも更にふた回り大きく、セレィらの跨る馬と比べれば五倍以上の体格差、馬上の乗り手からでさえ見上げるほどである。そして何よりも強い印象をもたらすのが、巨体の全身を覆う眼にも鮮やかな緋色の毛皮と、その色をさらに煮詰めたような、深い真紅の両眼──。
「な──何という、威容。あれが中陸最強の獣王、緋獅子か……!」
強大なる野性へと向ける畏怖の念に、セレィが知らず身を震わせている間も、二頭の猛獣による闘争は決着に近付いていく。巨体の随所に深い傷を負っている石頭猛牛に対して、緋獅子の側は全くの無傷。この戦況だけでも両者の力量差を測るには充分すぎた。
「ヴゴオオオオオオォォォォォォォッ!」
ゆえに、追い詰められた石頭猛牛にはもはや意地しか残されていない。これまでの生涯で数多の勝利をもぎ取ってきた額の剛骨に懸けて、全ての命運を託した突進を敢行するのみだ。そこに敗北の運命しか待ち受けないことが、誰の眼にも明らかだったとしても。
「ゥルォォッ!」
瀬戸際の猛牛が勝負をかけた最後の突進を、獣王は避けるに値する脅威とすら見なさなかった。獅子の前足が突撃してくる石頭猛牛の剛骨を正面から受け止め、さらには後ろ脚による踏ん張りで、相手の突進の勢いを完全に殺し切る。
「ヴゴッ……!? ゴォォオオオオッ!?」
渾身の頭突きが正面から受け止められた──おそらく生まれて初めての経験であったろうその出来事に愕然とする暇もない。猛牛の突進を防ぎきった獅子は、頭を押さえつけた右前足とは反対の左前足の爪を振り上げ、そのまま無防備を晒した相手の首筋を切り裂いたのだ。
傷口から噴水のように血潮が噴き出し、石頭猛牛の巨体がゆっくりと大地に倒れ込む。……それは果たして勝負とすら呼べたのかどうか。二頭の実力は余りにもかけ離れており、強大な敵を仕留めた直後にも拘らず、獣王は息一つ荒げていなかった。
「……ッ、おい、ボサっとしてんな! あっちの決着が着いた以上、今度はおれたちが狙われる番だぞ! 呆けたまんま死にてぇのか!?」
眼下の光景を呆然と眺めていた騎馬隊の面々が、バニィルに檄を飛ばされてやっと我に返る。セレィとクェッタの指示を受けて彼らが事前に打ち合わせておいた陣形を組み始めるのと、一戦を終えた獣王が新たな獲物に眼を付けるのは、危うくも全くの同時だった。
「来るぞ……! 援護は我々が請け負う! だがバニィル、本命はそなたに託した!」
「……分かってらぁ! ここまで来ちまったら、もう腹を括るしかねぇよなぁ……!」
馬から飛び降りたバニィルが、そのまま上体を屈めて両手を地に着く。十本の指は猛禽類のそれのごとく大地に突き立ち、太腿の筋肉がみしみしと音を立てて膨れ上がる。さらには久方ぶりに鋭く研ぎ上げられた、牙種の身上たる四本の牙が開いた口腔から覗いた。
「初めに言っておく! おれがどんな窮地に陥っても、絶対にあんたらは助けに入るんじゃねぇ! むしろおれが殺られた時点で迷わず散り散りに逃げろ! そうすりゃ半分は生き延びられるからよ!」
「何も聴こえんな! 私が聞きたいのはただ一言、必ず勝ってくるという約束だけだ!」
「……ちっ! ほんとに呆れるぜ、この女皇さまにはよ……!」
減らず口を叩きつつも、バニィルの唇は嬉しげに吊り上がっている。女皇からの信頼を種火として燻っていた勇者の気概を燃え上がらせ、今バニィルは一匹の四足獣となり、死闘の舞台へ向かって颯爽と丘を駆け下りた!
「アッッッラァァァァァァァァァァァァァァイア!」
疾駆するバニィルの口腔から、およそ人のものとは思えぬ声量と迫力を備えた咆哮が迸る。それは彼が獣王に叩き付けた挑戦状だ。──まずはおれと戦え。後ろの連中を蹴散らしたければ、その前に自分の屍を越えていけと!

「……グルオオオオォォォォォォォォォォン!」
己の十分の一にも満たない相手からの挑戦を、それでも誇り高き獣王は迷わず受諾した。たとえ体軀は小さくとも、戦うに値するだけの闘志を、バニィルの咆哮から感じ取ったからだ。
「認めてくれて嬉しいぜ。……これでも元勇者って触れ込みだ、あっけなく殺られて失望させるつもりはねぇからよ。最初から全力でかかって来いやぁぁぁぁぁ!」
戦意の昂揚に伴い、バニィルの毛髪がざわざわと逆立つ。──かくして過日より長い時を隔てて、今や誰もが忘れ去っていた牙種の英雄と緋獅子の死闘が、広大なる中陸の大地の只中で再現した。