サーリャも予想したように、ギロの身柄を捕らえた晩から、ヘィロンの集落は急激に賑やかさを増してきた。オルワナ、ダマカスカ、ギリェ・イゼン、アヌビシアの四国から会談への参加者が到着したことに加え、トルキォストルの各地からも次々と族長たちがやって来たからである。
「セレィ、おれから提案がある」
食い扶持の増加に伴う物資確保の段取りに忙殺されながらも、ヘィロンは同胞たちの希望を汲んで精力的に動き回っていた。この日、セレィに持ちかけられた話もその一環だ。
「次の四満月まではまだ間があるが、どうやら双方とも八割方の顔ぶれは揃ったようだ。中には東方有角種の女皇であるおまえに興味を抱いている者も多い。よって、全員の歓迎と会談の露払いも兼ねて、今夜にでも顔合わせの宴を開こうと思うが……おまえは参加してくれるか?」
「断る理由がない。喜んで出席させて頂こう」
セレィが二つ返事で了承したのを見届けると、ヘィロンは微笑みを浮かべて頷き、そのまま幕屋から立ち去った。それと入れ替わりに、今度は女皇の妹である有翼種の少女が入室してくる。
「セレィ陛下、サーリャ殿にお食事を届けて参りました」
「御苦労。体調は取り戻しているようだったか?」
「はい。本人はもう仕事に戻れると言って聞きません。事実、顔色もずいぶん良くなっていましたが……その、私の希望としては、もう少しゆっくり休ませてあげられればと」
うむ、と頷いてセレィは妹の思い遣りを汲んだ。アヌビシアの外交使節が『聴士』を伴って来ていたのを幸いとして、サーリャにはここ数日、体力回復のための休暇が与えられている。同じ年頃の娘ということもあって、身辺の世話にはコリォが宛がわれていた。
「『聴士』の起用に当たっては、最低でも二人……欲を言えば三人を交代で任に就けたいものだな。今回のような神経戦になると、どうしてもサーリャの能力に頼らざるを得なくなるが、彼女の身体を壊させては、ネレィク殿に合わせる顔がない」
セレィは物憂げに呟いた。とはいえ、アヌビシア国内においても貴重な人材である『聴士』を何人も気軽に借り出すわけにはいかない。現実的な方針としては、サーリャが休んでいる間の隙をいかに他で補うかだろう。
「我ながらひどい手落ちだな。ともあれ、今はゆっくりと休ませてやることか。……ということで、コリォ、今夜はお前に私の付き添いを頼むことになりそうだ」
「はっ。──付き添い、でありますか?」
「これまでに集まった面々で顔合わせの宴を開くらしい。クルァシンの方針を引き継いで、私の立場を明確にするために、宴の席では両脇に異なる種族の者を置いておきたい。サーリャは休ませねばならんし、今は側役のメリェもおらんから、お前とクェッタに頼もうと思っている。──嫌か?」
「と、とんでもございません! 身に余る光栄であります!」
コリォは直立不動の姿勢で返答した。妹の生真面目さをよく知るセレィは、もとよりそれ以外の答えが返ってくることなど予想していなかったが、その様子からは今少し「無理をさせている」感じが拭えなかった。女皇は安心させるように言葉を繫いだ。
「……心配するな、コリォ。今までと違い、今夜の宴には有角種以外の出席者も多くいる。オルワナからはキュリマイェ女王陛下も直々にお越しになっていることだし、お前が肩身を狭くするような結果にはならんだろう」
「お、お気遣いを頂き感謝の至りであります。何の風雅も知らぬ斥候兵ゆえ、不安はございますが、せめて陛下に恥をかかせる結果にならないよう……」
なおも硬い言葉を連ねようとするコリォを遮って、セレィは彼女の身体を問答無用で抱き寄せた。柔らかく滑らかな感触の翼を指で撫でてやりながら、女皇は顔を真っ赤にした妹の耳元で囁く。
「……二人きりだ。肩肘を張らずに姉と呼べ」
「は、はいぃ……」
「影武者の一件では危ない目に遭わせてしまったな。……本来ならこの身が受けるべき危険を、他ならぬ妹のお前に押し付けてしまったのだ。冷酷な姉と思っても無理はあるまい」
「そ、そんなことは決してありません! お姉様に代わって受ける傷は、たとえそれが心の臓を抉るものであったとしても、このコリォの生涯最大の誇りであります!」
「……そう言ってくれるお前こそが、私には最大の誇りだ」
偽らざる真意を口にして、セレィは妹を抱き締める腕に想いを込める。陶然とした面持ちで姉の抱擁を受け容れていたコリォだったが、ふと表情を曇らせて、小さく口を開いた。
「……お姉様。ひとつだけ、教えて頂けますか」
「なんだ?」
「お姉様は……あのヘィロンという男を、好ましく思っていらっしゃいますか?」
その問いと共に、堰を切ったように流れ込んでくる感情の波を、セレィは己が一角を通して受け止めた。──思慕、嫉妬、不安。それはアヌビシアの森林を抜けた直後、女皇が中陸有角種と再会を果たした瞬間から、コリォの中でずっと渦巻き続けていたものだった。
疼きにも似た胸の痛みを妹と共有しつつ、セレィは誠意を込めて答えた。
「正直に言えば、多くの面で相通ずるところはある。これから轡を並べる相手として心強いとも思っている。……だが、同族であるという理由から彼を特別扱いするつもりはない。有角種も、有翼種も、盲種も、牙種も、長爪種も、未だ見ぬ西方の諸民族も──私は等しく、エナ・ガゼの同胞として接したいのだ」
女皇の掌が慰撫の手つきで妹の背中をさする。その腕の中に、コリォは安堵しきった面持ちで身を預け、多忙な日々の中のいっときの幸せを嚙み締めるのだった。
「各々方、杯を手に」
ヘィロンの声に合わせて、全員が乳酒の杯を掲げ持つ。広大な幕屋の席を埋め尽くす人数もさることながら、五つの民族が一同に会することになった点において、この宴は歴史的な出来事と言って良かった。
「乾杯!」
酒宴は和やかに始まり、賑やかに進行した。酒が回ったところに歌と踊りが重なり、宴もたけなわとなる頃には、出席者の半分以上は床に突っ伏して舟を漕いでいた。……だが、酔い潰れた人々の大部分は中陸各地からやって来た有角種の族長たちであり、東方諸国やアヌビシアといった国々からの参加者は、羽目を外しすぎることなく冷静な部分を心の中に残していた。それも当然と言えば当然のこと。彼らは馴れ合いに来たのではない、外交に来たのである。
「さて──どうやら宴も煮詰まってきたことであるし。そろそろ腹を割ったお話をしませんかね、素面のまま残っておられる皆さん」
ダマカスカからやって来た牙種の使節、ウェンジォ・ナグルハンが端緒を切った。その隣にいた長爪種の国ギリェ・イゼンの外交長、エルミェ・ベミジェ女史も同意の頷きを示す。
「頃合よの。出来の良い乳酒のおかげで、舌の回りもすこぶる滑らかであるわ」
長い爪に付いた乳酒の滴をちろりと舐めとる音を聴きとって、彼女からはやや離れた席にいたアヌビシアの税務総督兼外務大臣のヤイカ・スオゥダが、途端にげんなりとした顔になった。
(よくもまぁ、こんなもんをガブガブ飲めるもんだな……)
内心で愚痴る。その胆力を買われて、鎖国政策を続けていたアヌビシアにあっては久方ぶりの外務大臣に就任した彼であったが、最初に注がれた一杯を飲みきれずにいる様子から見て、どうやら乳酒は口に合わなかったようだ。
「女王陛下……女王陛下!」
「……ん……む? なんじゃ、レモィズ。騒がしいの。……妾は今、とても良い気分で……」
「どうか眼を覚ましなさってください。ほら、大事な話が始まる流れのようですぞ」
他方では、半分眠りこけていたオルワナ女王キュリマイェが、護衛隊長のレモィズに揺り起こされていた。頼りないこと甚だしいが、酒の入る席では彼女はいつもこんな調子である。
ちなみに補足しておくと、今回の会談にはコーチアドからの人員は参加していない。当国はロケィラ、オルワナ、ダマカスカ、ギリェ・イゼンの四国からやって来た諸民族の商人たちによって構成される通商国だが、その成り立ちゆえに、純粋なコーチアド国民と呼ばれる人間は国内にほぼ存在していない。彼らの大部分は生まれ故郷を他の四国のいずれかに持っている。長期間に渡って腰を据えて店を開く者、行商で他の国との間を頻繁に行き来する者など、それぞれに個人差はあっても、結局は商売のためにコーチアドへ訪れている人々なのである。常設の軍の兵ですら、コーチアド商会が金で雇った傭兵たちだ。そういった事情のために、東方五国の一つとして数えられてはいるものの、実のところコーチアドは国として認識するには曖昧な共同体なのだ。ゆえに、その動向はあくまでも、この会談における東方四国の決定の後を追う形になる。
「今宵はあくまで顔合わせの宴。だが、私としても論をぶつけ合うに異議はないぞ」
単なる和やかな宴では終わらないだろうと、この展開を先読みし、宴の始まりから努めて酒量を控えていたセレィは、明晰さを保った声で各国の重鎮たちと張り合った。その傍らには緊張した面持ちのコリォが座っている。
「…………」
最上座に座るヘィロンは、時折杯を口元に運ぶだけで、その流れに対して何も発言しない。他の全員がそれを様子見の沈黙と受け取って、まずは牽制の問いや意見をぶつけ合い始めた。
「いや、セレィ陛下、それにしても大したものですな。オルワナとの戦でまさかの逆転勝利を遂げてから、ついでアヌビシアの開国・同盟入りに成功、さらにはトルキォストルと与することでより盤石の勢力を得ようと? ……もとより中陸の半分を有角種が支配しているという状況も含めて、もはや天意があなたに味方しているとしか思えない」
「全くよの。これほど電撃的な征西活動は、エナ・ガゼの歴史を振り返っても類を見んわ」
ウェンジォとエルミェが棘のある言葉を放つ。ダマカスカとギリェ・イゼンの二国が同盟に対して慎重であることも、セレィの大志に対して懐疑的であることも、事前の外交から存分に思い知らされていたことだ。多少の嫌味は歯牙にもかけず、セレィは正面から言葉を返す。
「天意の有無は知るべくもないが、今の私には多くの頼れる同胞と、ひとりの素晴らしい友神がいる。エルミェ殿が言うところの電撃的な同盟政策の進行は、彼らの活躍は言うまでもなく、時勢のもたらす必然と思っているが?」
「……女皇陛下に同意だな。ネレィク陛下に代わって言わせてもらうが、アヌビシアとしちゃ征服されたつもりは全く無いぜ。鎖国政策は再開しようと思えばいつでも出来るし、今はお隣さんとの付き合いを深めた方が合理的って判断からの同盟入りだ。その勘繰りは見当外れと言っとくぜ、お二人さん」
セレィの発言に対して、ヤイカがそれを援護する論陣を張った。実際に同盟入りした国からの意見だけに、立場の対等性を重視するセレィの姿勢を保証する効果は充分である。当然、オルワナの代表にも同様の意見を期待したいところだったが……。
「陛下……ほら、陛下も何か御意見を」
「ほぇ……? ああ、ええと、その、うむ……」
酔いの回った頭では気の利いた援護も浮かばないらしく、傍らのレモィズが深い溜め息をつく。話し合いはキュリマイェ女王陛下の存在を無視して続けられた。
「見当外れ、のぅ……。なるほど、盲の民が言うように、今はまだそうなのかもしらん。しかし、中陸有角種との同盟が成された後ではどうなのじゃ? その時でもなお、対等な立場での同盟などという御題目が保ち続けられるのかのぅ……?」
「東方と中陸の有角種が一致団結すれば、もとより中陸有角種の傘下にある我らの同胞も含めて、未曽有の一大勢力の誕生です。ただし、あくまでも有角種が主導する──ですがね」
ウェンジォとエルミェの意見が露骨に重なった。つまるところ、ギリェ・イゼンとダマカスカは同盟内部における各民族の権利的不均衡を危ぶんでいる。西栄に住まう三貴種のように、有角種が他民族に対する優位性を主張するのではないかと恐れているのだ。
「許しやれ。対等を旨とするセレィ女皇の言を、必ずしも疑うわけではない。むしろ我らにとって最も不安なるは、中陸諸国における民族間の有利不利が、なし崩し的に東方まで持ち込まれてしまうことよ。──のぅ、ヘィロン殿?」
エルミェが右人差し指の長い爪でヘィロンを指し示す。誰の眼にも不躾な彼女の仕草は、この話題の鍵を握る人物を、強引にでも重い沈黙から引き剝がそうとする試みであろう。
「おれの名を呼んだか、長爪種の女」
「……無礼は御互い様じゃな。せめてエルミェと呼ばわれ」
「ヘィロン殿、あなたの意見をこそ、この場の誰もが聴きたがっている。セレィ陛下と同様、あなたも同盟政策に積極的なのでしょうか? また、遠からず始まる外界からの侵略という、にわかには信じ難い話を含めて、あなたはセレィ陛下の言葉にどれほどの信頼を置いているのか……」
瞼を細めてウェンジォが問う。場の全員の視線がヘィロンに集中し、それで彼もようやく重い口を開いた。
「……外界からの侵略という話は、初めこそ呆れた大法螺にも聴こえたが、今はそうでもない。最近になって身柄を捕らえた隠密という物的な証拠もある。何より、セレィがおれに噓をつくことは、この一角に誓って考えられん」
「ぬしらに関してはそうであろうの。しかし、懸念は他にもあるな。そも、セレィ女皇に外界からの侵略云々という話を吹き込んだのは、導きの神を名乗る謎の男だったという話じゃ。今は席を外しておるようじゃが……」
「その男に信を置くべきか否かは、未だおれも知るところではない。が、セレィが信任している以上は、さしあたり彼女の顔を立てても良いだろう。……だが、仮に大噓であったところで構わないとは思っている」
「ほう? 思い切ったことを……」
「大陸を東から西に駆け抜けるは有角種の悲願。それが外敵への備えになるも、ならぬも、おれたちからすれば些事に過ぎぬ。仮にならなかったとして、その時は例の男の首を刎ねてけじめとすれば良し」
豪快過ぎるヘィロンの意見に、ウェンジォとエルミェはおろか、セレィですら眼を丸くした。眩暈がするほどの問題意識の差が見え隠れするが、とはいえ、さしあたりセレィが必要とするものはおおまかな意見の統一である。それはヘィロンとの間では成されているという確信があり、よって彼女は同盟政策の展望そのものに不安を抱いてはいなかった。──次の瞬間までは。
「だが──もはや、同盟という形態に拘る必要がないことは感じている」
場の温度が急激に下がり、ウェンジォとエルミェとヤイカが揃って全身を強張らせた。そのヘィロンの発言は、彼らが危惧していた部分を、もっとも単純な形で直接に突くものだったからだ。
「……ヘィロン、それはどういう意味だ?」
「おまえの努力が報われたという話だ、セレィ」
柔らかな声でヘィロンはセレィの問いに応じた。その表情には一片の負い目もなく、むしろ慈しみの感情すら帯びている。セレィは嫌な予感がした。それはつい先日、サーリャを問い詰めた時に感じたものと同種の寒気だった。
「全ての男兄弟が先に逝き、後は敗戦を待つだけという状況下から、おまえはそれでもオルワナとの同盟を成し遂げた。……女の身でそれほどの大業を成し遂げるに当たって、捨て去らねばならぬ矜持もさぞ多かったことだろう」
ロケィラとオルワナの戦争が同盟という形で収められるまでの事情をヘィロンは知らない。セレィから伝え聞いた断片的な情報を、自分なりの観点から組み合わせて推測したのみである。そして、その推測によれば、
「減耗した兵力で、戦には大変な苦戦を強いられたのだろうな。……結果、完全な勝利を得られる状況ではなかったがゆえに、おまえは苦渋の選択で同盟という決着に事を落ち着けた。混血という忌まわしき身の上を武器に変えてまで」
同盟という選択は、否、世界同盟を目指すセレィの大志の全ては──苦境にあったロケィラが対外的に提案せざるをえなかった妥協案、という解釈を成されていた。
「──なん、だと?」
セレィが強張った喉から声を絞り出す。だが、彼女が満足な反論を口にする前に、ヘィロンは彼女のへのさらなる侮辱を無自覚に並べ立てる。
「安心しろ、セレィ。おれが味方に付くと分かった以上、もはや屈辱を耐え忍ぶ必要はない。おまえが有角種として誰よりも純粋な精神を持っていることは、おれが他の誰よりも理解している。ゆえに、対等の立場における同盟などという腑抜けた題目は捨てて、ただ号令を出せばよい」
ヘィロンは不敵な笑みを浮かべ、平原を統べる王者の風格をもって杯を頭上に掲げた。
「有角種が大陸を征す。抗う意志を持たぬ限り、他民族はそれに付いて来い──とな」
その発言を契機に、各国の重鎮たちが一斉に立ち上がる。乳酒の杯を足下に投げ捨てた彼らの瞳には、燃えるような反抗の意志が宿っていた。
「やはり、それが本音であったか……。我ら他民族を服属せしめ、ゴルォグンナ大陸全土を有角種の支配下と置くことが!」
「この分だと、外界からの侵略などという話も方便と捉えざるを得ませんね。……第一、この宴の顔ぶれからして妙だとは思っていたのです。ペィネ・ズォやヴマ・ズォといった国々から、我々牙種の同胞が呼ばれている様子がない。仮にも民族間の対等を標榜するのであれば、彼らの今後の扱いを協議することは最大の要点だったのではありませんか?」
非難の視線がセレィを射竦めた。ヘィロンの言葉を有角種全体の本音と考えるなら、偽りを口にしたのは彼女ということになる。だが無論、セレィにそのつもりはない。同盟政策が妥協の産物ではないことを示すために、彼女はまずヘィロンに食って掛かった。
「ヘィロン、勘違いも甚だしいぞ。私は断じて、征服が叶わなかったから同盟に移行したわけではない。大陸全土の国々はあくまでも対等な立場で手を組まねばならんのだ。外界からの侵略者たちに、万全の体勢で抵抗するために!」
「分からんな、セレィ。おまえは理不尽なことを言っているぞ」
「理不尽だと? 一体どこが──」
「大陸をひとつに纏める手段が、どうして征服であってはならんのだ?」
セレィは咄嗟に言葉を失った。あまりに根本的な問いでありながら、それに即答する言葉を持たない自分が信じられなかった。
「前提として、中陸有角種はおまえに与する。大首長であるおれが言うのだから、これはもう決定事項であると見ていい。それは即ち、残る東方の国々が束になっても敵わぬほどの圧倒的な戦力を、我ら有角種が持つということだ。最も力のある勢力が全体の主導権を握るのは当然だろう。どうしてそこに対等の立場などという雑音が紛れ込む?」
「……雑音……だと?」
「混代の昔、中陸の地には多くの民族が流れ込み、互いに覇権を競い合った。それに勝ち残ったのがおれたち中陸有角種だ。だからおれたちは長爪種や牙種を服属している。勝者の正当な権利として、だ。戦の血潮が聖なるものであるように、戦の結果もたらされた立場の差も受け容れるべきものだ。その理を、セレィ、おまえに理解できぬはずがあるまい?」
セレィは息を吞んだ。ヘィロンの口にする論理は生物として最も単純で強力なものだ。強者が弱者を喰い物にする、あるいは支配下に置くという構造は、悠久の歴史を通じて解けることのない呪いにも似ている。否定はできない。あらゆる脆弱な倫理観念をねじ伏せるだけの、根本的な正しさがそこにはある。──だが、
「……それは違う。ヘィロン、そなた言うところの強者も弱者も、一面的なものでしかない」
セレィは静かな声で、それでも断固として告げた。──弱肉強食が唯一の理でないことを、女皇はすでに知っている。過ぎ去りし日の導神の教えが、脳裏にまざまざと再生されていった。
「──俺の生まれ育った世界には、差別という言葉があった」
アヌビシアの森林を通過していく短脚馬車の中で、クルァシンは以前と同じように授業を続けていた。一言一句を聞き漏らさぬ真剣さで聞き入るセレィに、導神も惜しみなく知識を注ぐ。
「一言で言えば、それは不当な区別のことだ。たとえば、セレィ……お前は女なのだから戦場に立つべきではないな。まして一国の君主を務めるなど以ての外だろう。すぐにでも皇位を男に譲り渡し、婿を取って子を成せ」
「……馬鹿を言うな。皇族が他におらぬのに、他の誰に皇位を譲れば良いというのだ。女だから戦場に立つなというのも道理が通らぬ。雑兵を相手に不覚を取らぬ程度には、私もロルゴ流一刀術を修めているぞ。そもそも戦場における私の役割は指揮官だ。私が女皇の立場を去ることがあるとすれば、それは君主として力及ばないと、民草から三行半を突きつけられた場合だけであろう」
憤然とした面持ちで反論するセレィに、クルァシンは苦笑混じりの頷きを返した。
「まったくその通りだ。女だから君主にはなれない、女だから戦場には出られない──どちらも著しい因果の飛躍であり、何ら客観的な根拠のない決め付けに過ぎない。……だが、そういった決め付けは、どんな文化の中にも例外なく存在している」
「ふむ……?」
「混血であるお前が、ごく最近まで翼を隠していなければならなかったのも同様の例だろう。それは民族原理主義に根ざす不当な区別の一例だ。有角種は有翼種とは相容れない──この決め付けを完全に克服するためには、お前の努力をもってしても、まだ長い年月が必要だろうな」
クルァシンの発言をしばらく咀嚼してから、女皇は不安げな面持ちで口を開いた。
「では、クルァシン。このエナ・ガゼは、そなたの言うところの「サベツ」……すなわち不当な区別で満ちているということか?」
「それは難しい質問だ。その通りであると答えるのは簡単だが、何をもって不当な区別とするかは、外様の俺が好き勝手に決められるものではない。また、ある種の差別は土着の文化と融合している場合も多く、安易にけちを付ければ感情的な反発を引き起こす」
「……難しいな。そなたが以前に言っていた、異文化の構造を理解するという作業の、さらに先の領域にある話と見た」
「まさにその通りだ。──そこで問うが、セレィ、差別はどうしていけないことだと思う?」
「む……? 不当な区別だから、ではないのか」
「それでは五十点というところだ。……実例を出してみよう。ある国に肌の白い人間と黒い人間が半々で暮らしている。両方の能力に基本的な差異はない。しかし、肌の白い人間は、肌の黒い人間を自分たちよりも劣った人種であるとして、彼らを奴隷同然の待遇で酷使している。さぁ、この明らかに間違った状況を正すために、お前ならばどんな言葉を挟む?」
「考えるまでもない。肌の白い人々に対して、肌の黒い人々の待遇を向上させるように説得するしかなかろう」
「正攻法だな。だが、それで肌の白い人々を説得できるだろうか。お前の忠告を聞いた彼らが、『なるほど、自分たちの行ってきたことは不当な区別だったようだ。よし、これからは可能な限り改めよう』という具合に心を入れ替えると?」
「そう上手くはいかんだろうな……。では、どうすれば良いのだ?」
眉間に皺を寄せて考え込むセレィに、クルァシンは微笑んで解答を始めた。
「まずセレィ、肌の白い人々に対して『肌の黒い人々を不当に区別することはやめろ。それはいけないことだ』と諭すのは、お前の倫理観を一方的に提示しているに過ぎない。肌の白い人々にとって、それは戯言にしか聴こえないだろう。なぜなら彼らにとって、肌の黒い人々を服従させている現状は基本的に好ましいものであり、競争の結果として得られた正しい権利であるとさえ思っているからだ。その既得権益を手放す必然性がない。つまりは損得勘定の問題だ」
「腹立たしいな……。同じ人間に平等な待遇を求めるだけのことに、損得勘定が絡むのか?」
「悲しい話ではあるがな。現実的な問題として、白い肌の人々を説得するために、お前は一旦彼らと同じ土俵に立たなければならない。それを踏まえた上で、さっきの正答はこうなる──『まぁ冷静に聞いてください。黒い肌の人々を不当に区別することを止めた方が、あなたたちにとっても有益ですよ』、と」
セレィの表情にあからさまな嫌悪が浮かんだ。予想通りの反応に苦笑を浮かべつつ、クルァシンはさらに続ける。
「反発を覚えるのも分かる。お前は現在のエナ・ガゼで数少ない、『感覚的に他民族を同胞として捉える』ことの出来る人間だろうからな。……だが、他の人間はそうはいかない。いがみあってきた歴史を持つ諸民族が融和のきっかけを摑むには、いがみ合いを無くした方が対立を続けるよりも互いに得であることを理解させる必要がある」
「分からんな。白い肌の人々と黒い肌の人々の例だと、それは具体的にどういう話になるのだ?」
「単純な適材適所だ。能力が互いに同じであるのなら、黒い肌の人々を奴隷として単純な肉体労働で酷使するよりも、各々の素養に合った職業を選択させた方が、総合的な生産性が高まるに違いない。その利益は白い肌の人々にも社会を通じて還元されるのだから、大きな視点で見れば誰もが得をすることになる」
「……それはさすがに、都合の良すぎる話に聞こえるが」
「もちろん、これは極めて単純な状況を想定した上での楽観的な思考実験だ。差別が蔓延っている場所には様々な状況が想定される。限りある土地や資源を取り合っているかもしれないし、二つの人種の間に能力的な違いがあるかもしれない。……だが、それでも基本的な方針は変わらない。『互いにとって最も心地良い状況』を具体的に進言するのがお前の役割であり、同盟政策を進めていく上での原則と言えるだろう」
なるほど、とセレィは頷く。着実に理解を深めていく教え子に喜びを覚えつつ、導神はなおも訓示を続ける。
「心に刻み込め。これは極めて重要な点だ。単にアルマダートからの侵略に対抗するべく諸国を纏めるというのであれば、その手段が同盟である必要はない。お前は盟主ではなく強力無比な征服者であればよい。だが、なぜ俺がそのやり方に、つまり専制君主による一元的な征服という手法に否を唱えるのか?」
クルァシンは熱心に語る。それは発展界の植民界政策へと向ける明確な反命題でもある。
「それは、征服の後に発生する社会の構造の中で、失われていくものが余りにも大きいからだ。征服した側と征服された側の間には、多かれ少なかれ、前者によって後者が軽んじられる傾向が生じる。先の白い肌の人々と黒い肌の人々の例はまさにそれだ。黒い肌の人々が本来発揮していて然るべきだった能力を、白い肌の人々は不当な抑圧によって封じ込めてしまう。そればかりか、抑圧された黒い肌の人々の中に溜まっていった負の感情は社会不安を誘発し、じきに革命や暴動という形で爆発するだろう。差別は差別される側にとって辛いばかりではなく、差別する側も含めた社会全体にとって好ましくない結果をもたらすのだ」
セレィは親指の爪を嚙んで考え込んだ。聡い彼女であっても、今の話を消化するのには少々の時間がかかるようだ。悩んでいる女皇の姿を見かねて、導神が助けを挟んだ。
「……少し大きな話をし過ぎたようだな。そう難しく考える必要はない。むしろこの手の問題については、闇雲に観念を捏ね繰り回すのではなく、実生活と結び付けて考えていかねばならない。お前が実際にしなければならないことは、目の前で不当な区別が起こっていることが明らかな時──例えば、ある民族が他の民族を軽んじようとしている時──そこに感情的な反発をぶつけるのではなく、可能な限り理路整然と『その差別によって失われるもの』を説明してやることだ。その言葉が説得力を持てば持つほど、お前の唱える世界同盟という大志は、それを聞く者を頷かせる真実味を帯びてくるだろう」
導神の教えを余すところなく思い出して、セレィは眼が覚めたような気持ちになった。──ヘィロンによって正面から問われることによって、彼女はようやく実感として理解することが出来たのだ。征服であってはならない理由。今までもこれからも、自分が頑なに同盟という方針を貫かなければならない理由を。
「……ヘィロン。ひとつ問うが、そなたは支配下にある長爪種や牙種をどう扱っている?」
「織物業と農業の義務を負わせ、生産品の一部を租税として献上させている。特に許可を下した場合を除いて武装は禁じている。その代償として、連中にはおれたちの武力による庇護がある」
「なるほど。……東方からやって来た長爪種と牙種にも、それと同様の扱いを望むか?」
「戦は有角種の仕事だ。他は土を耕すなり魚を獲るなりして租税を納めつつ、おれたちの庇護下で安穏と生活を送ればよい」
断言するヘィロンに一切の悪気はない。彼は心の底からそれが最善の体制だと思っている。有角種が全民族の頂点に君臨することに一片の疑いもなく、その構造の中で失われていく各民族に固有の特性というものには、ひとかけらの想像も及ばせようとしない。
セレィの視界の端では、ウェンジォとエルミェが顔を真っ赤にして屈辱を嚙み締めている。彼らと同じく胸の内に滾るものを感じながら、それでもセレィは深呼吸を繰り返して気を落ち着かせようとした。──感情的な反発をぶつけてはならない。あくまでも理路整然と、ヘィロンのやり方によって失われる多くのものを挙げていくのだ。
「ゆえに、セレィ。もう、おまえが耐え忍ばねばならない時期は終わったのだ」
ひどく優しげな声でヘィロンが言った。──だが、その後に続く言葉が引き起こしたものは、
「東方と中陸の有角種が一つに還る。その証として、おまえはおれのもとに嫁に来い。混血という事実を嫌う族長もいるだろうが、おれに任せろ、その不格好な翼は何の痛みもなく切り取ってやる。生まれてこの方、そんなものを付けたままでいるのはさぞ不愉快だったことだろう。だが安心していい、穢れは今からでも払い落とせる。そうやって純粋な有角種に戻ってから、おれと共に大陸を制覇する喜びを分かち合おう」
女皇自身すら予想だにしなかった、理性を吹き飛ばして猛り狂う爆発的な激情だった。
「──ッ!? 姉様っ!」
隣のコリォが止める間もなく、セレィは席から立ち上がるや、腰元から刀を抜き放って上座のヘィロンへ斬りかかった。配下の有角種たちが割って入る暇もない。が、ロルゴ流一刀術を修めた女皇の剣閃は、ヘィロンの首筋を斬り抉る寸前でぴたりと止められた。
「誰も動くな」
頭目の危機を見取って駆けつけようとした配下の兵たちを、しかしヘィロンは盤石の一声で押し留める。首筋に冷たい鋼の感触を覚えながら、なおも彼は余裕の表情を崩さない。
「……剣を降ろせ、セレィ。何をそのように憤っている」
「分からいでか! 寸止めで済ませられた自分の忍耐に、むしろ感心するほどだ……!」
怒りの余り、剣の柄を握る手がぶるぶると震えている。相手の首を一思いに切り落としてやりたい衝動を辛うじて腹の中に留めながら、女皇はせめてそれを言葉として吐き出す。
「……とくと聞け! この両翼は我が両親の愛情の結晶にして、眼に見える形として表れた有翼種との絆、ひいてはエナ・ガゼに住まう諸民族、その全てが融和しうる未来を指し示す証! それを不格好だなどと、あまつさえ穢れなどと言ってのけることは、私個人のみならず、私がこれまでに轡を並べてきた異民族の愛すべき同胞たちの全てを罵るものと見なす! 失言を認めるのならば速やかに訂正しろ、ヘィロン・ザカ・トルキォスタ!」
苛烈極まりない怒声がヘィロンの耳朶を打つ。ともすれば斬り合いに発展しかねない両者の状況を啞然として眺めながら、心中で燃え盛っていた怒りの念もいっとき忘れ去り、ウェンジォとエルミェは身を寄せ合って小声で囁きあう。
「ウェンジォ。……この争い、有角種どもの茶番と思うか?」
「いえ……これは本気のぶつかり合いでしょう。周囲の有角種の兵たちの様子を見てください、エルミェ。誰もが凄まじく緊迫した表情で額に汗を滲ませ、多くの者は刀の柄に手をかけてすらいます。この背筋が凍るような修羅場の空気……とても演技で作り出せるものとは思えません」
ウェンジォとエルミェは互いに頷き合い、目の前で起こっている対立が掛け値なしの本物であることに同意する。一方、セレィの怒りを間近に受け止めたヘィロンは、それに慌てるでも気圧されるでもなく、むしろ哀れみの籠もった視線で女皇の顔を見やった。
「……不憫な女だ、セレィ。混血として祀り上げられたばかりに、有角種としての正しい誇りの在り方まで見失いかけているのか。それもやはり、あの神を名乗る男の影響か?」
その言い回しを聞いた瞬間、セレィはこれまでにも何度となくヘィロンから向けられていた不可解な哀れみの感情の正体を知った。──この男は、有角種の父と有翼種の母の間に生まれた自分の境遇を哀れんでいるのだ。混血という身上を、純血の有角種でないという事実を、セレィという人間にとっての巨大な不幸としか捉えていない。
「……そなたの言うところの正しい誇りとは、有角種を至上の存在と置いて、他の民族全てを蔑みの視線で眺め下ろすことか? 呆れるほど浅はかな優越感だ。いかに武力に優れようと、有角種は決して万能の民族ではない。他の民と頼り合うことによって互いの欠落を補い合い、そうして初めて衣食住を彩られた豊かな生活を送ることが出来る。ならばそこに優劣を見出そうとするのは愚かなことではないか」
「その全ては、中陸有角種の武力がヴァルハ・セドレのそれと拮抗しているおかげだ。おれたちが守ってやらねば、長爪種や牙種の連中は明日をも知れぬ身となるだろう。人のあらゆる営みは、外敵から手厚く保護されてこそ発達するものだ。であれば、強さこそが至上の価値であることに疑いはあるまい。その点で優れる有角種は、すなわち最優の民族と呼んでもいいだろうとは思わんか?」
「驕った発言だな、ヘィロン。では今後の戦に際して、他民族の助けは一切要らぬと言うのか?」
「ああ、要らん。戦うのは有角種の同胞だけでいい。これまでもずっとそうしてきた」
中陸有角種の誇りを懸けて、ヘィロンも断固として譲らない。二人の君主はしばし間近で睨み合っていたが、やがてセレィの方が剣を引き、それを鞘に戻しながら言い放った。
「……ならば、その言葉、実際に証明して貰おう」
「む……?」
「技比べを提案する。そなたと私の信条を懸けた決闘だ」
セレィの宣言に、場の全員が息を吞んだ。──無理もない。曲がりなりにも自分に好意を示していた相手との間に、彼女は自ら望んで決定的な亀裂を走らせたのだ。
「主眼としては、私とそなたの遊牧騎馬民族としての腕前を競うということで良かろう。そういった競技はロケィラにもあったし、ここにもあるはずだ。詳細な取り決めは後に回すとして、今回は団体競技を提案する。そなたは配下の有角種たちと共に隊を組むがいい。私はここまで共に連れ立ってきた異民族の仲間たちを含めて隊を構成する。……理屈は分かろう?互いの主張のどちらが正しいか、この闘いの結果をもって証明されるということだ」
不敵な面持ちで挑みかかるセレィの姿に、ヘィロンは愉快そうに唇を吊り上げた。
「……正面からの比べ合いで白黒を付けるか。おまえのそういった潔さは実に有角種らしい。おれは何よりも好ましく思うぞ」

「賛辞として受け取ろう。……無論、互いの信条を懸けるからには、この決闘には条件が付く。敗者は勝者の言い分に従わねばならない。それがどれほど屈辱的なものだったとしても。それを踏まえた上で、先ほどの戯言をもう一度口にしてみろ、ヘィロン」
「良い覚悟だ。ならばもう一度言おう。──その忌まわしい翼を切り落とし、おれのもとに嫁いで来い。外界からの侵略が噓であれ真であれ構わん。大陸を席巻する喜びを共に分かち合おう」
ヘィロンは朗らかに笑って言い切った。彼が考えうる中で、それは惚れた女に対する最善の求婚なのだ。……だが、セレィに彼の好意を受け止めている余裕はない。この決闘で敗北を喫することがあれば、世界同盟というセレィの大志はそこで潰え、ヘィロンの号令のもとに有角種を支配階級とした大陸全土の支配が試みられるだろう。そうなってしまえば、全ての民族を等しく同胞と呼ぶことができるような、そんな世界の実現は叶わなくなるのだから。
「承知した。ならば私からも言わせてもらおう。──この決闘に私が勝てば、中陸有角種は他民族と同じ立場、同じ権利をもって同盟入りする。エナ・ガゼ全土を纏め上げるに当たっても、征服という手段は用いず、盟主である私の方針を尊重してもらう。異存はあるか?」
「ない。中陸有角種の大首長として、その決闘を受けよう」
各国の重鎮たちが固唾を吞んで見守る中、二人は決闘の実行について合意した。……競う内容についての詳細も問わぬまま、打てば響く速さで挑戦を受けたヘィロンの表情には、中陸の半分を支配する民族の頂点に立つ者としての余裕がありありと見て取れる。己こそが平原の覇者であるという、それは圧倒的な自信であり、敗北の想像も許さないほどの揺るぎない自負だ。
恐ろしく物騒な形で話が纏まりかけたところで、ふと憑き物が落ちたようにセレィが普段の平静さを取り戻す。いくらなんでも自分が感情に任せて先走り過ぎたことに気付いたのだ。そうすると彼女はすぐさま、周囲の重鎮たちに向けて、詫びの意志を込めた視線を巡らせた。
「……すまぬ、醜態を晒した。この翼について侮辱されてしまったばかりに、盟主としてあるまじきことだが……さっきまでの言動には自分でも抑えが利いていなかった。勢いに任せて決闘などと口にしてしまったが、無論のこと、私の一存で全てを決めるつもりはない。オルワナのキュリマイェ女王陛下、アヌビシアのヤイカ殿、ダマカスカのウェンジォ殿、ギリェ・イゼンのエルミェ女史──そなたら全員の同意を受けぬ限り、この決闘を実行に移すつもりはない」
女皇の殊勝な発言には、その場の全員が驚いた。仮にも「誇りを懸けた決闘を執り行う」と口にしてしまった以上、他国の事情を汲み取っての事とはいえ、その発言を自分から覆すのは、セレィの誇り高い性格からしても大きな勇気のいることだろう。ともすれば君主としての沽券にも関わる。
だが、それを承知の上でなお、女皇は諸民族の代表たちの意見を尊重したかった。己個人の矜持などとは量りにかけるべくもない。対等な立場での民族間の交流──それこそ彼女が全霊で志した、いずれエナ・ガゼ全土を遍く満たすはずの理想なのだから。
「……今後の方針を巡る決闘、ね。ウチとしては賛成だぜ。民族混成で隊を組むってことは当然、アヌビシアの誇る最優の『聴士』も、その人員に加えられるんだろうからな」
まずはヤイカが女皇を支持する旨の発言を口にした。セレィのみならず、元『大央聴』であるサーリャの能力へ全幅の信頼を置いてのものだろう。決闘の実行それ自体に異存はないとしながら、ただし──と彼は付け加えた。
「決闘の内容についての詳しい取り決めには、ウチも含めた全民族の代表が出席させてもらうぜ。地の利についちゃ仕方ないとしても、それ以外の面じゃ、中陸有角種に有利すぎる内容には出来ないからな」
言い終えてから、あんたらはどうだい、とヤイカが他国の重鎮たちにも話を振る。ウェンジォとエルミェの両名はしばし黙り込み、熟慮の末、難しい面持ちでこくりと頷いた。
「……ヤイカ殿の言う通りの条件であれば、我々も決闘の実行に反対はしません。というより、未だ同盟に与していないダマカスカとギリェ・イゼンの両国には、その決定を左右する発言力がそもそも無いでしょう」
「我らは様子見を決め込む他にあるまいて。……無論のこと、それが許されるのであれば、決闘の取り決めについては多少の口出しをさせてもらうがの」
二人の意見は日和見で一致したが、彼らにとってもセレィに勝ってもらいたい心情はある。今後ヘィロンが主導でゴルォグンナ大陸の征服活動が行われるとすれば、いずれ東方の牙種、長爪種もその支配下に組み込まれる可能性が高いからだ。不幸中の幸いとして、ここまで激しい対立が起こっている有様を目撃したことで、対等な立場での同盟というセレィの大志を疑う気持ちは彼らから薄れていた。
「え……あぅ、その、妾は……」
ひとり話題に付いていけずに取り残されていたキュリマイェ女王陛下は、咄嗟にどう答えるべきか分からず、付き添いのレモィズに助けを求める視線を送った。彼は溜め息をつきながら女王に何事か耳打ちし、ようやく事態を理解した女王から返答を受け取ると、彼女の代わりにそれを口にした。
「……女王陛下もヤイカ殿と同様の意見です。セレィ陛下を信頼してお任せし、仮に有翼種の力が必要な局面があれば、そちらに預けた天弓隊の活躍を期待すると」
レモィズの発言を締め括りにして、この場に居合わせた重鎮たちの意見はどうやら決闘の実施で一致した。セレィが緊迫した面持ちで彼らの信頼と期待を受け止めたところで、ふと思い出したように、ヘィロンが言葉を付け加える。
「……おれが決闘に勝った場合の条件に、ひとつ追加したいことがある」
「聞こう。何だ」
「簡単な話だ。──あのクルァシンという男が帰り次第、奴と一対一で徹底的に闘わせろ。どちらかが負けを認めるか、闘えぬほどの怪我を負うか、さもなくば死ぬまで」
先ほどまでとは打って変わった殺意を瞳に滾らせて、ヘィロンは凶暴な要求を口にする。それを聞いたセレィは一瞬だけ眼を丸くしたが、すぐに余裕の微笑を取り戻して頷いた。
「……なるほど。その件については決闘の勝敗に拘らず、そなたの望みを叶えよう。結果はあまりにも見え透いているが、安心して良いぞ。我が友神であれば、そなたに大した怪我もさせず、穏便に事を収めてくれるであろうからな」
セレィは挑発的に言ってのける。先の侮辱に対しての意趣返しだったが、途端、ヘィロンが手にしていた杯が炸裂するように砕け散った。手中に残った破片はそのまま粉になるまで磨り潰され、さらさらと掌から零れ落ちて床に小さな山を作っていく。とっくに酔い潰れていた人々ですら、幕屋の空気を振るわせる殺気を感じて、眠りの淵から次々と眼を覚ましていた。
「……その約束、決して違えるなよ」
重く沈んだ声でヘィロンは言った。……この宴が始まって以来、あくまでも大首長としての威厳を絶やさなかった男が、初めて子供じみた憤激を露にした瞬間だった。
(……何だぁ? 外が妙な空気だな)
やや時は遡る。セレィが寝泊りする幕屋とはちょうど対角の位置にある丸太組みの牢の中、サーリャの策によって囚われた〝神狩り部隊〟の一員ギロは、荒縄で何重にも簀巻きにされた上で地面に寝転がされていた。捕獲の際に打ち据えられた全身には最低限の手当てがされていたが、全身の負傷は決して軽くない。
(──つぅッ。打ち身の痛みはだいぶ退いたが、左の肋にゃヒビが入ってんな。くっそ、あの先住民ども、こっちが動けないのを良い事に、遠慮なく袋叩きにしてくれやがって……)
さすがは〝神狩り部隊〟と言うべきか、それともギロ個人の図太さを褒めるべきか、彼の精神はすでに任務の再開に向けて働きつつある。状況から鑑みるに、セレィらが彼の身柄と引き換えにゼルたちを牽制していることは想像に難くない。である以上、ギロが自力で脱出することが出来れば状況は五分に近いところまで戻る。吞気に助けを待つような真似は出来なかった。
焦燥に駆られる内心を持て余したギロが、簀巻きにされた状態のまま瀕死の芋虫のように全身を蠢かせていると、牢の外側で見張りを行っていた兵士が、その有様を嘲りの視線で眺めた。
「なんだ……異世界の隠密って肩書きに理由もなくびびってたけどよ。縄できつく縛った上で簀巻きにしときゃ満足に身動きひとつ取れやしねぇ。導神さまの言うとおり、こいつも俺たちと同じ、ただの人間じゃねぇか」
もとより気の短いギロであるから、その言葉には一瞬でカチンと来た。──〝神狩り部隊〟の実力を侮っている先住民どもに、どうやって眼にもの見せてやろうか──その思考の全てが衝動的な復讐に向けて暴走を始めかけたが、その寸前で、彼はどうにか自制心を働かせて冷静さを取り戻す。
(……けっ、勝手に言ってな。こうして捕らえられてんのは確かに業腹だが、この状況は見ようによっちゃチャンスと取れなくもねぇ。なにせ同じ集落の中に標的がいることは確かなんだからな。今はせいぜい勝ち誇ってろよ、今度こそ確実に首を取ってやるぜ……)
必殺の意気を新たにしていると、そこでふと、牢の外から遠く怒声が響いてきた。潑剌とした通りの良い女の声──高い確率でセレィ・メル・ロケィラのそれだ。何かしらの揉め事が起こっているものと推測したギロは、咄嗟の判断で内耳に埋め込まれた集音装置を起動する。
【──らいでか! 寸止めで──せられた自分に──】
雑音交じりではあったが、セレィとヘィロンが言い争う声が聞こえてきた。ギロは耳を澄ませて必死にその内容を把握しようとする。他の機器と同様、内耳に埋め込まれた集音装置にもシビアな限界稼働時間があり、こればかりは少しの超過も許されない。万が一にも機器が体内で『意味性の崩壊』を起こすようなことがあれば、本人の命に係わるからだ。
(……仲間割れか? 思いのほか白熱してやがるが……へぇ、ついには決闘と来たぜ)
ギロは唇を吊り上げてほくそ笑んだ。集落の内部で争いが起これば、その揺らぎが巡り巡って警備の綻びに繫がることもあるだろう。一度は完全に背を向けたと思われた幸運の女神が、ここに至ってギロに気まぐれな微笑みを差し向けたらしかった。
(追い風だな。今は大人しく捕まってやってるが、まだ俺も切り札の一つや二つは残してるぜ。後は最低限の体力回復と脱出の好機を待つだけだ。一日一食の食事で生かさず殺さずの状態を保てると思ってんのなら、そいつは〝神狩り部隊〟をナメ過ぎってもんだよ。本気で捕らえておきたいなら、手足の腱くらいは最初に切っとくのが当然の処置だぜ)
低い含み笑いが牢の中に響き渡った。……焦らず急がず拙速に過ぎず、傷付いた身体を獣のように横たえつつ、歴戦の隠密はただ静かに逆転の機会を待つ。
単なる顔合わせの宴のはずが、激烈な口論の末、盟主としての誇りを懸けた決闘にまで発展した事実を報せにセレィがサーリャの幕屋に向かうと、その報告を受けるまでもなく、『聴士』の少女はすでに状況を把握していた。
「あれだけ怒鳴っていれば『聴士』でなくても聴こえる。私にとっては嫌な予感が当たった形。……クルァシンが出発した晩、陛下にヘィロンの印象について尋ねたのを憶えている?」
「ああ、確かに。そなたがクルァシンを引き留めようとしていたことも記憶に新しい。……つまり、あの時点から既に、そなたにはこの展開が予想できていたのか?」
「いいえ、あの時点では漠然とした不安に過ぎなかった。……その内容も内容だったから、疑いを言葉にして進言することまでは憚られた」
気まずそうに言葉を濁すサーリャに、セレィは視線で許可を送った。──遠慮は要らない。思うままを口にしろ、と。その意志を受けて、サーリャは躊躇いを振り切って口を開いた。
「──陛下はおそらく、相手が同じ有角種であると知った時点で、互いの全てを分かり合ったつもりでいた。遊牧騎馬民族としての価値観を共有しているという油断に加えて、他人の内心を見透かす一角の能力を過信していた。それが今回のすれ違いを生んだ原因」
「──っ」
「陛下とヘィロンが君主として相容れないことを、誰かがもっと早くに気付くべきだった。有角種の同胞として接する時、陛下とヘィロンは本当に気さくな友人として付き合えていた。だから他の誰も、そして本人たちでさえも気付かなかった。……陛下が理想とする同盟と、ヘィロンが悲願とする征服が、それぞれ全く別の考え方であることに」
セレィには返す言葉もない。サーリャの見解は的確に事態の核心を突いていた。オルワナ兵士二人を犠牲にした先日の一件に続いて、今回の事態を招いたのも、灯台下暗しの教訓を念頭に置かなかったセレィの不注意であると言える。女皇にはもはや歯嚙みする他なかったが、その後悔を諫めるようにサーリャは首を横に振った。
「……陛下だけの責任ではないし、今さら悔やんでも仕方がない。水と油ほども思想が違うのだから、いずれ避けられない衝突だったと思うこともできる。今とにかく重要なのは、決闘という形式を提案した以上、全霊で勝利を目指すこと。私の体調もすっかり回復した。この件に当たっても、前と変わらず陛下のために尽力する」
「……すまぬ、サーリャ。そなたに頼りすぎていると知りながら、今はその言葉が何よりも頼もしい。決闘の内容は未定だが、おそらくは遊牧と馬術の腕前を同時に比べあう、変則的な集団での競走になるだろう。詳しい取り決めなどは後日に相談を経て決めることになる。……戦略家のそなたからすれば、この時点で戦いは始まっていると見るのだろうな」
「そういうこと。どんな競技にせよ、中陸で行われる以上はヘィロン側に地の利がある。それを覆そうと言うのなら、こちらも時間をかけて万全の策を練らなければならない」
毅然とそう告げるや、サーリャは正座の姿勢から立ち上がった。数日の休暇が効を奏してか、彼女の顔色に疲労の残滓は見て取れない。その姿を見ている内に、セレィは自分の気持ちもまた自然と引き締まっていくのを感じた。次なる難題へと立ち向かう不屈の意志だけが、少女の見開いた瞳の中に煌々と燃えていたからだ。
「もっかい行ってくらぁ! ミラ、あんま根詰め過ぎんなよ!」
威勢よく同居人を気遣って、ソロェリが昼の漁のために湖へと出て行く。遅めの昼食を摂りながらその背中を見送ったクルァシンとメリェは、すでに見慣れてしまった光景でありながら、牙種の少女の底なしの体力に感心するばかりだった。
「朝に食っては働きに出て、昼に食ってはまた働きに出て……。ここに来て以来、あいつが夜以外に休んでいる姿を一度も見たことがないぞ。たまの休日も取らずに身体がもつのか?」
「ソロちゃんは牙種ですから、私たちよりもずっと身体が頑丈です。……と言っても、あんなに毎日休まず働いているのは、この辺りでもあの娘くらいのものですけれどね」
湖から汲んできた水で食器を洗いながら、やや沈んだ声でルァミラがそんなことを言う。その様子に何らかの事情を汲み取って、クルァシンはそれとなく探りを入れた。
「あれほど精力的に働いている割には、その稼ぎを日々の暮らしに使っている様子がないな。二人とも年頃の娘なのだから、もう少し生活に華やぎを求めても良さそうなものだが」
「お客様には不便な思いをさせていますね。もともとの建て付けが安普請なものですから、雨漏りも隙間風も、これ以上はどうしようもなくて……」
ルァミラは申し訳なさそうに言った。──現在、クルァシンとメリェの二人は、ソロェリとルァミラが暮らしている家の隣に建っている──というよりは辛うじて崩れ落ちずに残っている空き家に身を寄せている。ルァミラの申し出もあり、朝・昼・晩の三食は彼女らの家で共に摂ることになっており、必然的に四人の交流は日を追うごとに深まっていった。
「我々に不満はないさ。何しろ三食布団付きだ、仮の宿としては充分すぎる。……だが、傍から見ていると、お前たち二人の日々の労働と生活は、いささか釣り合いが取れていないように思えてな」
家主に対して不躾になり過ぎないよう、またいつでも黙秘に逃げられるよう、導神はあえて質問の形を取らない。それでも言外の意図を察したらしく、ルァミラは食器を洗う手を止めて、彼の疑問に答え始めた。
「……お察しの通り、私たちは仕事で稼いだお金を、なるべく使わずに貯めています。というのも、私とソロちゃんは元々、故郷から出稼ぎのためにニレフリクへ来ているからです」
「出稼ぎに……。つまり、故郷は中陸有角種の属国か」
「ソロちゃんはペィネ・ズォの、私はヴマ・ズォの出身です。漁にも農耕にも適さない土地柄ではありませんが、支配層である有角種からの税収は甘くありません。織物や収穫物の半分は彼らに格安値で買い叩かれます。……だから、いずれ来るだろう凶作の年にも家族が生き永らえるためには、年頃の誰かが外へ働きに出なければなりません」
「そこでニレフリクか。……ここは中陸有角種とヴァルハ・セドレの緩衝地域だ。日常的に不安定な情勢下ではあるが、少なくとも両勢力から租税を搾り取られることだけはない」
「その通りです。……ここで三年働いて帰れば、故郷の家族を少なくとも五年は養うことが出来ます。私は末っ子ですが、ソロちゃんは年下の兄妹をペィネ・ズォに残して来ていますから……休む時間も惜しいと思う気持ちは、その辺りの事情から来ているのかもしれません」
洗い終えた食器を手早く布巾で拭いて棚にしまうと、ルァミラはすぐさま機織りの仕事に移った。両手の長い爪が淀みない動きで機器を操り、美麗な刺繡の施された布を編み上げていく。降って湧いた大仕事に集中していることもあるが、彼女の勤労ぶりも決してソロェリに劣るものではない。
その様子を見守りながら食後の茶を飲み干すと、クルァシンは黙って席を立つ。彼女らと同様、導神にも寸刻を惜しまねばならない事情があった。
「うっす、有角種の兄さん。干し魚を炙ってんだが、あんたも食っていくかい」
クルァシンが一人で湖畔の砂浜を歩いていると、焚き火を中心に座り込んだ三人の男たちに気さくな声で呼び止められた。当初の疎まれようからすれば噓のような気安さだが、それもソロェリが導神らを「大切な客人」として周囲に紹介してくれたおかげである。ソロェリが地元の漁業組合に所属していることに加え、彼女個人の人徳も手伝って、クルァシンとメリェは地元民から早くも好意的に受け容れられていた。
「頂こう。……この時間は漁も一休みか?」
「水温が上がって、獲物が深みに潜っちまうんでな。獲れないこともねぇが効率が悪い。それでも粘ってんのはソロぐらいのもんだ。ったく、昼にはちゃんと休みを取れっていつも言ってんのに……」
「あいつは獲物を深追いする悪癖があってなぁ。今のところ事故はないが、正直見ていて危なっかしいよ。つっても男衆の中にもあいつに素潜りで勝てる奴はいないんだから、こればっかりは強く言おうにもなぁ……」
「ったく、格好の付かない話だぜ。……そういや有角種の兄さん、あんたソロが溺れてると思って助けに入ったんだってな。俺たちからも礼を言うよ。あいつ自身は笑い話と思ってるが、俺たちからするとそうでもねぇ。これからも見ていて妙だと思ったら、また飛び込めとは言わねぇから、迷わず近くの漁師に声をかけてくれ。……年季の入った漁師の間でも、月に数人は溺れる奴が出る。やる気と根性に溢れた奴が一番危ねぇんだ」
クルァシンはこくりと頷いて漁師たちの思いを汲んだ。快活で気風のいいソロェリは、老若男女を問わずに地元の誰からも好かれているようだった。
「ところで話は変わるが……ここ最近、西側に特別な動きはあるか?」
「やっぱ気になるかい? ま、安心しな、特に物騒な話は聞かねぇよ。南とも連絡は取り合ってんだが、情勢は至って穏やかなもんだ。むしろ血気盛んな東側の連中が気になるね。そっちはどうなんだい?」
「……少なくとも、先の族長会議では外征の案は出なかったようだ。大首長個人の思惑までは分かりかねるがな」
曖昧に応じつつも、クルァシンは胸が痛むのを感じた。──セレィの同盟政策が西に向かって進めば、ここの情勢も否応なく激変する。そうなれば彼らの生活に影響が出ないはずがない。話がこじれれば多くの血が流れることもあるだろう。外交とはそういうものだ。
(だが、収穫はあった。……我々の動きについて、西側諸国は未だ関知していない。ヴァルハ・セドレが独自に東側への侵攻を始める気配もない。つまり、ダマカスカとギリェ・イゼン、そしてヘィロンの説得に専念するだけの猶予は、まだ我々に残されているということだ)
導神は内心で安堵の息をつく。リォデ湖に到着してから今に至るまで、時間をかけて慎重に情報収集を続けた成果がそれだった。──となれば、導神はここでの仕事を果たしたことになる。残してきたセレィやサーリャの安否を思えば、引き上げを考える時期だった。
「……御馳走になったな。俺はそろそろ行くとする」
「そうかい? ……ま、そろそろ俺たちも仕事に戻るか。夕方までに舟の手入れを終わらせねぇと」
残った干し魚を回収すると、男たちは手早く焚き火を踏み消していく。その光景を尻目に、導神は彼らに短く別れを告げて立ち去った。またな──と背中を追ってきた親しげな声に、クルァシンは胸が締め付けられるように痛むのを感じる。……彼らに何も告げず去ることもまた、導神が吞み込まねばならない苦い罪だった。
ソロェリの姿を求めて湖岸線沿いにクルァシンが散策を続けていると、存外に早く目的は叶った。切り立った崖の直下、湖面に小舟を浮かべて素潜りを繰り返している少女の姿が眼に入ったからである。まだかなり距離があるので、ソロェリの方は導神に気付いていない。
「さて……どうするか」
クルァシンは顎に手を当てて黙考する。──大した用も無いのに岸まで舟を漕がせるのは気が引ける。となれば自分から足を運ぶしかない。不沈水歩は論外としても、泳いで近付くことは可能だが、せっかくなら驚きを演出してやろうという悪戯心が芽生えた。
「……それなら、陸地を迂回だな」
そう決めるや否や、クルァシンは下げ髪をたなびかせて疾走を始めた。風を切る速度で斜面を駆け登っていった導神は、瞬く間に崖の上、漁を続けるソロェリの直上まで辿りつく。
「さて……」
上体を乗り出して眼下を眺め下ろし、少女が水中に飛び込んだ頃合を見計らって、彼はとん、と軽く宙に身を投げ出した。──落下は数秒。卓越した軽身功によって、着地の瞬間も舟はほとんど揺れなかった。
「……ぷはぁっ! あー、さすがにちょっとしんどい……って、ああんっ!?」
ほどなく獲物を満載した網籠を抱えて水面に上がってきたソロェリは、次の瞬間、舟上に涼しい顔で立っている導神の姿を認めて眼を丸くした。周囲に他の舟がないことを首を巡らせて確認してから、彼女は幽霊でも見たような面持ちのまま舟に上がってくる。
「有角種の兄さん……どうやってここに来たんだよ? 近くにゃ跳び移れるような足場もないし、服が濡れてないから泳いだってわけでもなさそうだし……」
「崖の昇り降りは、昔から得意でな」
怪訝な視線を送ってくるソロェリに、導神はそう言って頭上の絶壁を指差す。つられて上空を仰いだソロェリだったが、到底納得しかねるという様子で眉根を寄せた。
「冗談だろ。あたしが水中に潜ってたのは、せいぜい三十秒ってところだよ。それだけの間に、あの高さからここまで下りて来たってかい?」
「やってやれないことはない。真似事は推奨せんがな」
「……。ま、そういうことにしといてやるよ。で、何の用だい? 見ての通り、あたしは忙しいんだけどな」
ぶっきらぼうな口調で問われる。しばし答えに迷ってから、導神は言った。
「漁を手伝いに来た……というのはどうだ。泳ぎにもそこそこの自信がある」
「足手まといだよ。浜まで送ってやるから昼寝でもしてな」
取り付く島もない。が、その反応も予測済みだったので、クルァシンはおもむろに服を脱ぎ始める。きょとんとした顔で立ち尽くすソロェリの前で、導神は地元の漁師と同様の、腰下を覆うだけの漁衣を穿いた裸身を惜しげもなく晒した。
「三十秒よこせ。足手まといかどうか、その結果で判断してくれればいい」
「おい、ちょっ……!」
ソロェリが止める間もなく、クルァシンは躊躇ない動作で水中に飛び込んだ。残された牙種の少女は呆れの心境で波立った水面を見つめる。──泳ぎに自信があるのか知らないが、銛のひとつも持たずに何を獲ろうというのか?
ソロェリにとっては幸いなことに、待ち時間はそう長くなかった。二十秒と経たない内に、彼女が見下ろしていた水面が盛り上がったかと思うと、そこからクルァシンが顔を出す。
「──ぷぅ。本格的に泳ぐのは久しぶりだが、水の透明度が高くて助かったぞ」
「満喫してくれたんなら何よりだよ。……で、あたしは何の結果を見ればいいって?」
小舟の縁にしゃがみ込んで見下ろしてくるソロェリに、導神は何を言い返すでもなく、ただ水中の両腕を引き上げて見せ付けた。
「……おおぅっ!?」
さしもの牙種の海女も頓狂な声を上げずにはいられなかった。さもあらん──導神は両手の指の間に、計八匹、余すところなく魚を挟み止めていたからだ。
「ふふふ……。さて、これでも俺を足手まといと呼べるかな?」
勝ち誇った口調でクルァシンが言う。いささか子供じみた振る舞いではあるが、彼としても無様極まりなかった初対面の雪辱を晴らしたい思いがある。自信満面の導神によって鼻先に突きつけられた魚類を見つめて、ソロェリは真面目な表情で吟味を始めた。
「──これ小さすぎ。こいつらは毒持ちで食べられない。こいつは時期外れで値がつかない」
「……む?」
「こいつは今年になってから獲れすぎで捨て値状態。こいつは逆に数が減ってるから組合の取り決めで獲っちゃだめ。こいつとこいつは……うん、まあ良し」
基準に適わなかった魚たちが次々と湖に投げ捨てられていく。してみると、最終的に導神の手の中に残ったのはたったの二匹だけだ。肩まで水に浸ったまま呆然と硬直しているクルァシンに、ソロェリはにやりと余裕の笑みを浮かべて見せる。
「八匹中二匹が合格か。素人さんの成果としちゃ上出来だね。うん、足手まといってのは撤回するよ。けっこう見所はありそうだから、あたしの見習いから始めてみるかい? 有角種の兄さん」

「……今は師事する屈辱に甘んじよう。だがな、すぐにその顔から不愉快な笑みを消してやる!」
「おうおう、鼻息の荒い見習いだねぇ。ま、そういう負けん気は嫌いじゃないよ。そんじゃ、まずは毒のある魚の見分けから始めようか」
愉しげに言ったソロェリが、そのまま小舟の縁を蹴って水面に飛び込んだ。水中深く沈んでいく少女の背中を追って、クルァシンも潜水を開始する。……少女に乗せられて童心に返っている自分に、それがどれだけ久しいことであるかも含めて、導神は少しも気付いていなかった。
「……あー、潜りに潜った。さすがのあたしも疲れたわ」
一日の獲物を台車に載せて市場に卸すと、クルァシンとソロェリは浜辺に大の字で並んで寝転がった。すでに陽もずいぶんと傾いているが、気温はそれほど低くない。浜風が疲労した全身を撫でていく心地良さを感じつつ、二人はぼんやりと身体を休めていた。
「……あんがとな、有角種の兄さん」
柔らかく気だるい沈黙を破って、ソロェリがぽつりと呟いた。導神は寝そべったまま、顔だけを相手の方に向けた。
「今日、あたしを心配して様子を見に来てくれたんだろ? 組合のおっちゃん方とも仲良くやってるみたいだし、あたしとルァミラの事情は、もうある程度知ってるよな。……あたしも一応、無理し過ぎてるって自覚はあるんだ。でも、なかなか休む気になれない。故郷に残してきた親兄妹の顔がちらついてさ」
「…………」
「でも、少なくともミラに関しちゃ、その生活も終わりが見えたね。いきなり降って湧いた二万フュロの大仕事だ。こいつは大きいよ、あたしたちが三年かけてようやく稼げる額だ。そう遠くない日、あの娘が胸を張って故郷に帰れる……本当に、我が事のように嬉しいよ」
ソロェリは訥々と言う。その言葉の裏側に隠された寂しさを、導神は見逃さない。
「……約束の二万フュロだが、お前とルァミラに半々で支払う。これは晴れ着の代金ばかりでなく、ここで俺たちが活動し易くなるように便宜を図ってくれたお前への正当な報酬だ。……決して過分な額ではない。ルァミラとも話は付けてある、受け取れ」
ソロェリは驚きの表情で導神を見返した。喜びと、疑念と、困惑と、少女の顔にはそうした一通りの感情が次々と表れては消えていったが──それもやがて、複雑な微笑として落ち着く。
「……気前の良すぎる話だね。やっぱり訳ありなのかい?」
導神は答えられない。……報酬を受け取り次第、早々に準備を済ませて故郷に帰れと、その忠告は喉まで出かかっている。だが、それを口にすれば、ソロェリに東側で起こっている情勢の変化を察せられる可能性がある。訳ありを疑われている現状さえ好ましくはないのだ。きな臭い噂を地元に広められれば、結果として西側諸国を刺激してしまうかもしれない。
それでも導神は葛藤する。……中陸有角種の領土であるペィネ・ズォやヴマ・ズォならば、西側との対立が深刻化した際にも、間接的にであれ彼女らの安全を図ってやることが出来るだろう。しかし、ヴァルハ・セドレと隣接する位置にあるニレフリクではそれも難しい。にも拘らず、現状でクルァシンに出来る最大の譲歩は、出稼ぎの成果として充分なだけの大金を少女たちに渡し、一刻も早く故郷に帰るよう言外に促すことだけなのだ。
(……分かっている。これは偽善と呼ぶことさえおこがましい、ちっぽけな贖罪ごっこだ。この娘たちを首尾よく故郷に返しおおせたところで、ここニレフリクにはどれだけの牙種と長爪種の民が残されることになる? 仮にトルキォストルとヴァルハ・セドレの全面戦争という事態になった場合、彼ら全員の身の安全は誰が保証するというのだ?)
無論、そうならないために全力を尽くすのが導神の務めではある。だが、それは最悪の可能性を想定しなくても良いということにはならない。彼の策略で人は死ぬが、今となっては彼の沈黙ですら人は死ぬのだ。その事実が、クルァシンには恐ろしくて堪らない──。
「……どうした、有角種の兄さん。ひょっとして寒いか?」
ソロェリに言われて、導神は初めて自分が肩を震わせていることに気が付いた。……不吉な想像のせいで心が凍てついている。いつもは無碍に突っぱねているメリェの身体の温もりが、今は無性に恋しかった。
「ずいぶん泳いだからね。焚き火でもありゃ湯も沸かせるんだけど、ちょっと薪になる枯れ木が見当たんないな……」
立ち上がって辺りを見回すソロェリだったが、やがて何かを決意したように頷くと、クルァシンに「すぐ戻る。ちょっと待ってろよ」と言い含めて湖に飛び込んでいった。ひとり浜辺に残された導神は、夕陽に照らされた湖面が赤紫色に変じていく有様を眺めながら、心細い心境でいるしかない。
すぐ戻ると言い残した割に、今度の待ち時間は長かった。十五分ほども経った頃だろうか、ソロェリの身体が水面に飛び出したと思うと、一抱えほどもある硬い質感のものを両手に持って浜辺に上がってくる。座り込んでいたクルァシンの前にそれを落とすと、ずしんと音を立てて砂にめり込んだ。
「ごめんよ、思ったより時間かかっちまったね。手ごろな大きさのが無くってさ、泳いで運ぶのに一苦労だ。もう重くって重くって」
苦笑して謝るソロェリをよそに、クルァシンの興味は眼の前の物体に注がれた。やや濁った青緑色をした大きめの結晶である。同じものが二つあるが、自然物らしく不揃いな形をしており、研磨される前の宝石の原石のようにも見える。
「ソロェリ、これは何だ?」
それ以上は推測の仕様がなかったので、クルァシンは単純に問うた。その質問には即答せず、ソロェリはどこか感慨深い面持ちで、二つの結晶の前にしゃがみ込んだ。
「……これは、あたしとミラだけのちょっとした秘密でね。他人に見せてやるのは、地元の連中も含めて、有角種の兄さんが初めてだよ」
そう前置きすると、ソロェリは辺りに人気がないことをざっと確かめ、それから二つの結晶を両手に握って高々と持ち上げた。何かしら物騒な展開を予感したクルァシンは、腰を下ろしていた姿勢から立ち上がって、ソロェリから一歩距離を取る。
「いい判断だよ兄さん。──えいやぁっ!」
両手から放たれた結晶が地面すれすれで激突する。硬い衝突音と共に強烈な火花が散り──次の瞬間、二つの結晶の接触面から、それ自体と同じ青緑色の炎が猛烈な火勢で燃え盛った!
「……なっ!?」
クルァシンは言語に絶した。眼の前に出現した青緑色の炎に一瞬にして魅入られた。彼が現状を分析するだけの冷静さを取り戻す前に、ソロェリが自慢げな調子で言う。
「不思議な石だろ? 一部の湖底で採れるんだけどね、あたしは火石って呼んでる。強い衝撃を与えたり熱したりすると、こんな感じで燃え出すんだ。この大きさだと、ほっとけば五~六時間はゆうに燃え続けるかな。でも不思議と煙は出ないんだよね」
熱気に炙られない程度の距離を取って座り込み、ソロェリはじっと青緑色の炎を見つめる。呆然と立っていたクルァシンもようやく理性を取り戻し、上手く回らない舌で、ぎこちなく問いを発する。
「湖の底で採れる、と言ったが……そのことを、お前とルァミラ以外に知る者は?」
「いないと思うよ。兄さん以外には誰にも言ってないし、あの深さまで潜れるのは、牙種の海女の中でもあたしくらいのもんだから。……それにさ、こういう綺麗なものって、ついつい独り占めしたくなるだろ?」
ソロェリの言う通り、一定の火勢で揺らめき続ける青緑色の炎は妖しくも美しい。紫色の夕陽に染まった湖面を背後に、その対照は幻想的ですらある。
「兄さんに見せてやったのは、まぁお礼のつもりかな。……出会った時の事と、大きな仕事をくれた事と、それに今日付き合ってくれた事も、全部ひっくるめてさ」
ソロェリの言葉には少なからぬ親愛が表れていた。普段の導神であれば、その事実に素直な喜びを覚えたことだろう。だが──今のクルァシンには、眼の前の炎を単なる「美しいもの」として楽しむ余裕はない。
「……どこで採れる?」
詰問の口調になってしまったことは導神の不覚だったろう。普段の余裕が失せ、声色から表情まで別人のように一変した彼の様子を見て、ソロェリの顔に怯えが浮かぶ。
「だ……だから、湖底だよ。かなり深いとこだから、さすがの兄さんでも無理だと……」
「構わん。具体的な位置を教えてくれ。……決して他言はしないと約束する」
なおも追及してくる導神の迫力に押されて、ソロェリは誰にも教えたことのない秘密の場所を口にする。その内容をつぶさに聞き届けるや、クルァシンは鋭い眼で湖を睨みつけ──ソロェリが止める間もなく、躊躇のない動作で水中に飛び込んでいった。
「ちょ、兄さ──」
追いすがってくるソロェリの声も、水中に潜るとすぐに聴こえなくなる。彼が祖武神のもとで積み重ねた修行の内容には水練も漏れなく含まれていた。遊び半分で潜っていた昼間とは違う。ひとたび彼が本気で泳ぎ始めれば、その技量は牙種の海女ですら遠く及ぶところではない。
(だが、時刻は既に夕方。俺の眼をもってしても湖底は暗い。……見つけられるか?)
ソロェリに教えられた場所の辺りまで辿りつくと、クルァシンは水中で懸命に視線を巡らせて探索を開始した。潜水深度にしてとうに六十メートルは越えている。熟練の海女ですら獲物を追うことを諦める深さ、その水圧たるや甲高い耳鳴りと共に内耳を軋ませるほどだ。遠い水面から差し込むわずかな夕陽だけを頼りに、クルァシンは青緑色の輝きを捜し続け──岩に挟まれた湖底の一角で、ついにそれを見出した。
(これか……!)
導神はすぐさまその結晶へ近付いていく。ソロェリが持って来たものよりも更に大きく、両腕で抱え込もうとしても足りないほどの巨大な鉱石だ。その様相を検めながら、クルァシンは背筋を駆け上る戦慄と共にある予想を抱いた。……もし、岩盤から露出しているこの結晶が、まだ全体のごく一部に過ぎないとしたら……?
確かめなければならない。導神は覚悟を決めて岩盤に両足で降り立ち、青緑色の結晶を前に地上で外敵に対する際のそれと同様の半身の構えを取った。……新たな呼吸が不可能である以上、気息の導引は完全に体内で賄われることになる。だが、それでも充分すぎた。
(……憤ッ!)
水中で斜めに傾いだ姿勢から震脚を岩盤に打ちつけ、クルァシンは精妙に威力を抑えた拳の一撃を結晶へと見舞った。ごおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉん……と長く尾を引いて、澄んだ印象の打撃音が残響する。結晶そのものには罅一つ入らないが、彼の目的はそれで達せられた。
(何ということだ……。この湖底には、鉱石燃料の一大鉱脈が存在している……!)
拳をぶつけた際に返ってきた反響音の質から、表面に露出している結晶と同様の物質が、周辺一体に埋もれていることがクルァシンには判別できた。推測していた通りの結果ではあるが、その規模において予想を遙かに超えている。途方もなく重大な発見であった。これはニレフリク一国どころか、中陸全土の問題にすら留まらない。エナ・ガゼという世界に生きる全ての人間、その営みを根本的に変えてしまいかねないほどの可能性が、この仄暗い水底で静かに目覚めの時を待っているのだ……。
(そう遠くない未来、ここはおそらく、エナ・ガゼにおける産業革命の起点になる。この資源の活用によって文明の発展が劇的に加速される時代が来るだろう。それは輝かしい栄えを生むか、それとも無残な滅びに繫がるか……いや、落ち着け! 今はそんな遠い未来の話よりも!)
動揺を必死に押し殺しつつ、クルァシンは湖底を蹴って急激に浮上していく。ほどなく水面に辿りつくと、久方ぶりの深呼吸を繰り返し、鈍っていた頭の回転を復活させようとする。──そうして改めて、明晰になった意識の中で、彼は自分が向き合うことを余儀なくされた問題の巨大さと繊細さに愕然とした。
「どうすればいい……。正の因子も不の因子も渾然一体とした、こんな巨きすぎる可能性の爆弾を……! 俺は一体、どのように扱えば正しいというのだ……!?」
クルァシンの喉から絶叫が迸った瞬間、湖面を照らしていた夕陽の残滓が完全に消え去った。……暗闇に沈んだリォデ湖には寂として音もなく、忽ち辺りを支配した冷たい沈黙は、導神の葛藤を孤独の最果てに誘うかのようだった。