水面下の激戦



「ふぅぅ……。……はぁぁ……

 め息はすでにいくとも知れず、有翼種クロトアこのへいたちによってげんじゆうに守られる馬車の中からひんぱんれ出していた。そのかたわらを馬に乗ってける近衛兵長のレモィズ・タンタァクは、主君のうつぶりを見るに見かねて、馬車の側面にしつらえられたまどをコンコンと指でたたく。

「失礼いたします、へい、キュリマイェ女王陛下。……あまりぶんすぐれぬ様子ですが、長旅におつかれのようなら、ここらでいつたん休みを取りましょうか?」

「よしや、レモィズ。こんなじようきようで気分など良いわけがなかろ。……ああもぅ、どうしてこのようなことになってしもうたのか。今回は何としても、わらわが自ら中陸まで出向かねばならんなどと、うちの大臣どもが口をそろえて言うから……」

 ふっくらとしたどうたいに愛らしい丸顔を乗せた初老のじよせい──オルワナ女王キュリマイェ・セトントラ・オルワナは、ぎよしやの中で頭をかかえてうずくまった。その様子を見て、レモィズはややあきれたひようじようで口を開く。

「仕方がありますまい。あのセレィへいが残った東方の二国、ひいては中陸の半分をどうめいに組み入れるべく、ここトルキォストルの大平原で会議を開きたいとおつしやったのですから」

「だからといって、どうしてもわらわちよくせつ行かねばならんのか? きようぼうけものどもに加えて、いまだ原始のままの生活を続けているという、ばんな中陸有角種ユルフイネクばつするいきにまで。ああ、レモィズよ、妾はおそろしい……」

「陛下のお気持ちも分かります。げんにダマカスカとギリェ・イゼン、そしてアヌビシアの三国は、王自らが外地におもむくくことをけいかいして、この折にも代理の外交使節をしておりますゆえ。……しかし、ならばこそオルワナだけは、女王陛下がおんみずから足を運ばれないことには、ロケィラへのが通りますまい。せんだっての戦でセレィ陛下にほどこされたのこと、よもやおわすれではござらぬか?」

「わ、分かっておる……。だからこうしてまんしておるのではないか。だがのぅ、レモィズよ、妾はどうしても心のかたすみから不安がぬぐえんのじゃ。あらうまに乗ったどうもうな連中が、今にも平原の彼方から大挙してやって来るのではないかと……」

 女王はぶるぶるとふるえるかたを両手でいた。そのねんを拭い去るように、レモィズは自分のむねをどんとたたいて、力強くけいかんすいけ負った。

「ご安心を、陛下。われおうしつこのたいはいずれもしも押されもせぬせいえいぞろいにございます。たとえくせものが大挙してせようと、そのきようじんが陛下の馬車にれるより前に、彼奴きやつらをひとり残らず弓矢でたおしてらんに入れましょう。……それに、そのようなたいめつなことでは起こりますまい。冷静になって周りをご覧ください。どの国の者たちも、陛下と同様の不安をいだいているからこそ、こうして四国合同でりよだんを組んでいるのではございませんか」

 そう言うと、レモィズは首をめぐらせてざっと周囲をかくにんした。キュリマイェのものをふくむ各国の馬車を中心に、五百えるけいの兵たちが整然とならんでいる。そうかんと言ってよい光景だ。かんぜんそうの騎兵がこれだけそろっていれば、野党やけものれなどおそれるに足らない。

 だが、その事実があってもなお、女王の不安は一向に晴れなかった。

「……レモィズよ、そなた、早くも忘れたのか? かつて妾をそそのかしてくれた、あのおそるべきかいおんみつどものことを。あのような連中から命をねらわれたとき、ちがいなく妾を守りきれるという自信が、そなたにはあるというのか……?」

 女王にとって、それはちょっとした気晴らしのつもりの意地悪なしつもんだった。いつぺんとうの近衛兵長のこまりきった顔を見るのは、彼女がひまを持てあました時のひそかならくなのだから。

 だが、意外にも女王が期待したはんのうはなく、レモィズはげんしゆくおもちで言い切った。

「無論、ございます。……その時は、この命をしてでも」

「……そ、そうかの……。たのもしくて何よりじゃ……」

 近衛兵長の意地にされて、女王にはもはや不満を口にする気も失せてしまった。丸っこいなかからびたりようよくが力なくしおれてしまう。……やがて彼女はぎよしやの小窓をめなおすと、それを最後の一回と心に決めて、長くせいだいめ息をき出すのだった。



「……ギロ、バズ、リガ、喜べ。どうやら好機がおとずれたようだぞ」

 小高いおかの上、とおづつによってかくだいされたかいの中に、ゼルはヘィロンの集落を目指してやって来るりよだん姿すがたとらえた。そうてんけんをしていた三人は、それを聞いて、待ちわびたというひようじよういつせいに立ち上がった。

「あの旅団、この様子だと、集落にくまでにもう一夜を野外ですことになる。おれたちが中にまぎむならその時だ。いくら『聴士ラルゴウ』でも、どうめいこくからの使者と、これから同盟に組み込もうという連中をに追いはらうわけにはいくまい」

「でも、ゼル、その作戦は当然向こうにも読まれていると見るべきだよ。……これまでのり合いからも、そうかんたんすきを見せてくれる相手じゃないことは分かってるだろ?」

「そうッスね。……正直、ここまで手こずらされるとは思っていなかったス。遊牧に出てきたひつじいと入れわろうとか、集落の外まで馬で走りに出てきた時にねらおうとか、色々とさくめぐらせてみましたけど、どれも見事にけいかいされてましたし。……くやしいけど、今んところは向こうの完全試合ッス」

「今度もそうならねぇってしようはねぇな。……んで、ゼル、どうやってうらをかくつもりだ?」

 ギロのひとみが期待をめてはんちようを見やる。ゼルは力強くうなずいて頭上にこぶしかかげた。

「リガは完全試合と言ったが、俺たちも決してに時間をつぶしていたわけじゃない。何度ものアタックを重ねたことで、集落のどの辺りに目標がとまりしているのか、それはすでにあく出来ている。……だから、集落の中にさえしんにゆうできれば、目標をめるのに大した時間はらない。そのわずかな時をかせぐために、今回は消音装置サイレンサーを使用する」

「やはりそうなるかい。……でも、具体的にはどうするんだい? 600メートルというきよは身をひそめながら進むには長すぎると、以前にきみも言っていたじゃないか」

「順を追って説明しよう。……まず、俺たちの中から二人がいんに乗じて旅団に紛れ込む。必然、その二人は旅団と共に目標のいる集落へ辿たどりつくことになる。が、もちろん向こうも、俺たちが味方の中にへんそうして紛れているのではないかと警戒している。おそらく、旅団の人間は一人一人がげんじゆうけんを受けるだろうが、中に紛れ込んでいたうちの一人が、そこでわざと自分から見つかってやる。すぐに集落はおおさわぎになる。そいつが兵どもを引きつけてげ回っている間に、もう一人が消音装置サイレンサーを使って目標にせつきんする」

「なるほど、敵の警戒をさかに取るわけか。……でも、当たり前だけど、わざと見つかるおとりやくはリスクが大きいね。完全に包囲される前に逃げるにしても、あるていは向こうのを引きつけなければ陽動にならないし……」

「その点もはいりよする。囮役が逃げやすいよう、旅団に紛れ込んだばん、侵入した者は馬車に細工するなどして、集落へのとうちやくが夜になるよう進行の速度を調節してもらう」

 バズはなつとくしたおもちでこくこくとうなずいた。が、そこでふと、ゼルのていあんした作戦の根本的なけつかんいたリガが、あわててていせいの声を上げる。

「ちょっと待ってください、はんちよう。この作戦、りよだんの中に『聴士ラルゴウ』がふくまれているのうせいのがしてませんか? 運が悪ければ最初の一手、旅団にまぎだんかいから失敗しますよ」

「いいところにいたな。だが幸いと、今回はその心配はなさそうだ。これで旅団の様子をよく見てみろ」

 ゼルにわたされたとおづつで旅団の様子をしばらくながめると、やがてリガはとくしんした風にうなずきをり返した。──全部で四台ある各国のじゆうちんを乗せた馬車のうち、アヌビシアのものとおぼしき一台が、ほろを開け放って内部をしゆつさせている。そこでは二人の盲種メルキエーナが真っ青な顔色でしんだいに横たわり、あまつさえ両耳をあつい耳当てでふさいでいたのだった。

「あの二人のどちらかが、あるいは両方が『聴士ラルゴウ』であるにせよ、あの有様ではとうていまともな働きなどめないだろう。……見ればかなりの速度で馬車を走らせているようだし、そのせいでれにったのかもしれないな。きよくたんに耳の良い連中のことだから、おれたちで言うところのさんはんかんに当たる部分が弱いのだろう」

 に説明しつつ、さすがのゼルも苦笑をきんじえない。それで今度の作戦にたしかな勝算を見取って、ギロのひとみたかぶりの炎がともった。

「オーケイ、悪くないプランだ。残りの二人は集落の外からバックアップに努めるってわけだな。……そんでかんじんのとこだが。直接集落にせんにゆうするおとりと本命の二役は、四人のうちのだれまかされるんだ?」

「一番リスクの高い囮役は俺がやる。けいけんの面から言ってもとうなところだろう。本命の方は、同じ理由でバズか……そうでなければ本番強さを買ってギロだろうな。もちろんリガのりように不足を感じるわけじゃないが、だんりにずいぶん時間もかけていることだし、ここは石橋をたたじんで行きたいところだ」

 やや申しわけなさそうなゼルの説明に、リガは軽くめ息をついてかたをすくめた。

「……別に不満はないッス。気持ちよくバックアップに回りますよ、人にはてきざいてきしよってもんがありますからね。自分からハイリスクを買って出てくれるギロには、毎度のことながら、いくらかんしやしても足りません」

「ハハッ、そりゃちがうぜ、リガ。このていのリスクもたのしめずに〝神狩り部隊ヴエル・グルン〟の一員がつとまるかってぇの。……んで、バズ、お前はどうすんの? 希望がかぶるならコインでも投げっか?」

「それにはおよばないよ。ぼくも時にはリスクを愉しむ性質たちだけど、一番やりがいのありそうな役回りはもうゼルに取られちゃってるしね。今回はせんぱいかんろくで、ギロにがらゆずってあげる」

 特にめることもなくぶんたんは決まった。それからもう一度全体のがいようかくにんし、きんきゆうさいはいふくめた細部のめをませると、四人はばんじやくかんしよくうなずき合う。かくしてほうしんは決定し、かい狩人かりゆうどたちは各々のきばを研ぎませながら、首を長くして始まりの夜を待つのだった。



 きゆうしやの中は苦しげないきづかいで満ちていた。見れば、ゆかめられたわらの上には、一頭のめすうまが大きなはらばらかかえて横たわり、後ろ足の間からけつえきじりの羊水をこぼしている。その様子をそばで見守るのは二人の有角種ユルフイネクの君主だった。

つらいか、ミリク。……もう少しのしんぼうだ」

 産みの苦しみにえる雌馬に、ヘィロンはやさしい声をかけつつひたいでた。そのとなりではセレィがめたおもちでいる。彼女とてみんぞくじよおう、馬の出産に立ち会う経験は初めてではなかったが、だからこそ、自分に出来ることの少なさも思い知っているのだ。

 ミリクとばれた雌馬がひときわ高い鳴き声を上げ、かと思えば、小さなひづめの先が産道から飛び出してきた。いつしゆん色めきかけたセレィだったが、ヘィロンのひようじようが逆にけわしくなったのを見て、彼女はいつぱくおくれてその事実に思いいたる。

さかか……!)

 セレィのなかを冷たいあせが伝う。前足の蹄と後ろ足の蹄では形がちがうため、彼女らの民であれば、一見したところで逆子かどうかをはんべつ出来る。二人の目の前に飛び出しているのは明らかに後ろ足だった。その事実だけで出産のけんせいはぐんと高まる。

「……はらの中であばれたか? なかなか見所のあるうまだ」

 じようだんめかしてつぶやくと、ヘィロンは両手を組み合わせてごきごきとほねを鳴らした。一体何をするつもりなのか──セレィが不安なしんきようでいると、彼は大きな右手で仔馬の足をつかみ、あろうことか、そのまま中に押し込み直した

………ッ!

 耳をつんざくような鳴き声が厩舎にひびわたり、セレィはとつがんぜんの光景かららした。その間もヘィロンはうでの力をゆるめず、仔馬の身体からだきゆうまでもどすと、そこでさらに深く腕をんで前足さくする。──だがそのしゆんかんつうえかねためすうまが、後ろ足でヘィロンのどうたいりつけた。ずむ、と蹄が肉にめり込むいやな音が響く。ろつこつのひとつも折れていておかしくないしようげきに、しかし彼はこう退たいするどころか、がんとしてまゆ一つ動かさなかった。

「それ、摑まえたぞ。……ちがえるな、おまえが生まれ出るべき産道みちはこっちだ」

 ようやく子宮の中で前足をにぎると、ヘィロンは残った左手を外側から馬のふくに回し、せいみようちからげんもとづく両手のそうによって仔馬の姿せいを反転させた。しよ上手うまくいったのをみとめると、ヘィロンはそのまま握った前足を引っって、子宮から赤子を引きずり出す。にゆうはくしよくまくに包まれた頭がのぞき、上体が覗き、やがて大量の羊水と共に全身が生まれ落ちた。

 しっかりとうまに息があるのをかくにんすると、ヘィロンは軽くうなずき、手をすのはここまでとばかりに、生まれたての命から身をはなした。

「──立て。中陸有角種ユルフイネクの持ち馬として、この大平原を自力で生きく生命力をしようめいして見せろ」

 きびしく言い放ち、ヘィロンは弱々しくふるえる仔馬の姿すがたを見下ろした。──その声が聞こえたのだろうか。かたを飲んで見守るセレィの前で、仔馬は少しずつ、けれど確実に、四本の足に力を込めていく。知らず感動がこみ上げて、東方有角種ユルフイネクじよおうこくげんじつと戦う命にげきれいを送った。

「……おお、そうだ……! がんれ、その調子だ……!」

 震える四足で必死に自重を支えて、ほどなく仔馬は立ち上がった。それを見た母親も、出産にしようもうしきった身体からだを起こし、最初の試練に打ち勝ったが子へのほうとしてぶさを口にふくませる。仔馬はけんめいに、それこそむさぼるように母のちちった。そこまでとどけると、セレィは気がけたようにゆかこしを下ろした。

「……いやはや……何度見ても、馬の仔には感心させられる。生まれ落ちてすぐさま立ち上がり、母の乳房から自力で乳を吸う。この原始的な力強さは、われら人間にはないものだ」

「そうだな。さすがのおれも、生まれたその日に立ち上がったおぼえはない。だからこそ、おれたちは馬と共に生きるのだろう。人の身ではあらがいがたい、大平原の苛酷な現実にくつさぬために」

 そう言って、ヘィロンもセレィのとなりに腰を下ろした。そのまましばらく、二人は一言も発しないまま、馬の親子の様子をじっと見守った。

「……セレィ。ひとつたずねてもいいか。前々からいてみたかったことだ」

 先にちんもくやぶったのはヘィロンだった。頷きを返すセレィに、彼は少しつらそうにしつもんする。

「いくら東方有角種ユルフイネクの生活が昔と変わったとはいえ、女のおまえがおうの立場にいたのは、よほどのじよう……おそらくはこくなんがあってのことだろう。訊いて良いことか分からんが、今、親兄弟はどうしている」

「そのことか。……前皇であった父はオルワナとのいくさで死に、十三人いた兄上らも残らず戦場に果てた。有翼種クロトアの母はオルワナのへんきようで生きながらえているようだが、いまだ再会はかなっていない。しかし、父親ちがいの妹として、ここにも連れてきたオルワナ兵のコリォ・サリマニュィがいる。乳母うば姉妹のメリェも、ほとんど家族のようなものだ」

「そこまで国ごと追いめられたのか。……よく敗戦にいたらなかったものだ」

「まったくそう思う。それというのも、兵たちのふんとうに加えて、あのクルァシンがロケィラのためにぜんれいくしてくれたからだ。……今にしてかえりみても、あの勝利はせきだった」

 未だおくの中であざやかさを失わない光景に思いをせながら、セレィは無意識のうちにやわらかな微笑ほほえみを浮かべている。が、それとは反対に、ヘィロンの顔はみるみるじゆうめんになった。

「あの男の話はいい。……それで結局、一方的な形での敗戦をけて、なんとかオルワナとのどうめいまでけたはいいが、そこでこんけつのおまえが輿こしとしてかつぎ出されたわけか」

「む……? 少しへいがあるが、たしかにそう言えなくもない。両種族がゆうするあかしとして、この身体からだほど分かりやすいしようちようは他にないからな。有角種ユルフイネクでありながら有翼種クロトアでもある生い立ちをかし、みちびきの神のあとしを受けて、めいしゆとしての私はここにいる」

 セレィがむねって口にした内容に、ヘィロンはむずかしいおもちでうつむいてしまう。──そこでふと、以前と同じように、セレィはおのれ一角つのが彼の心にれるのを感じた。それは言語化することも難しいふくざつな感情のつぼだった。いきどおりと、親愛と、しつと、悲しみと、あわれみと……。

(やはり、哀れみがある……。しかし何に対しての? 父と兄を残らず失った私の過去……ろん、それについてのあいとうの意はあるだろう。……だが、それだけではない。ヘィロンはもっとそれ以外の何か、今ここにいる私のげんじようについて、何らかの強い哀れみをいだいているように思える)

 セレィはまどった。相手がこちらをにくからず思っていることは分かるし、心から自分の身を案じてくれているのも伝わってくる。しかし、その事実だけではきほぐせない複雑でみような心のがある。有角ユルフイネクじよおうは生まれて初めて、おの一角つの能力ちからの不自由さを思い知ることになった。

「……よく分からないが、ヘィロン、ひょっとしてそなたは、何か大きな思いちがいを……」

 思い切って問いただそうとセレィが口を開いたしゆんかん、その日何度目かの『聴士ラルゴウ』による信号がきゆうしやの中にまでとどいた。それがてきしゆうを告げるけいしようではなく、自分ひとりをげんていしてんでいるものだと察したセレィは、のうめていたねんのこともすっかりき飛ばされた。ヘィロンに短くことわりを告げると、彼女は努めて平静をよそおった足運びで厩舎から立ち去っていった。



「……やっぱり、このころあいねらってきた」

 とっぷりとれた大平原のさなか、『聴士ラルゴウ』としてやぐらの上で働き続けていたサーリャは、その広大な音界に四人のおんみつたちがあんやくする姿すがたをつぶさにとらえていた。えいを始めたりよだんに息をひそめてちかいた彼らは、おそらくその中にまぎむ好機を待っているのだろう。

(場所はここから6000ルハほどはなれた地点。案の定、私のちからもそこまではおよばないと思い込んでいる。……長いり合いだったけれど、け引きには私が勝ったと見ていい)

 彼女が小さな達成感を得ているところに、かつかつと小さな物音を立てて梯子はしごを上ってくるかげがあった。サーリャは正座をたもったまま、それでもうやうやしく一礼してそのらいほうしやむかえる。呼び出しの信号を聞いてやって来た東方有角種ユルフイネクの女皇、セレィ・メル・ロケィラであった。

じようきようが動いたか、サーリャ」

「はい、女皇へい。それも、おそらく決定的に」

 サーリャはたんたんと告げる。が、彼女なりに思うところがあって、「各国のじゆうちんを乗せたりよだんちかいている」という事実は明かさない。ただ言外に、これまでずっと相手取ってきたおんみつたちが、決定的な行動に出ることをしめすのみである。

 やぐらの中、サーリャのとなりこしろしたセレィは、だまって少女の話に耳をかたむける。

「前から話しておいたわなを実行にうつそうと思う。じゆんは出来ている?」

かりない。あみしつらえもばんたんだ」

りようしよう。……クルァシンに聞いた話だと、てきさいれんさぁという道具を使って、ごく短い時間だけ物音を消して動くかもしれない。でも、まったく音を立てない相手ならともかく、本来あるべき音のない場所があれば、私にも必ずける。敵があなたをねらってやってくるだろう場所もこれまでのり合いでゆうどうしてある。安心して、事故は起きない。敵は今、完全に私のてのひらの上にいる」

 うっすらと不敵な笑みをかべたサーリャのひようじようにして、セレィはかすかなと共にいたましさを感じた。──この少女らしくなく好戦的な発言は、長時間にわたって持続しすぎた集中がもたらす、おそらくろうちくせきひよういつたいの、そうてきこうふんから来るものではないのかと。

「……しんらいはしている。だが、そなたの体調はだいじようなのか、サーリャ。昼間に見た時も顔色が良くなかったし、以前にくらべると少しせたように見える。いくら敵をらえられても、だいしようにそなたがたおれるのでは意味がないのだぞ?」

「大丈夫、ちゃんと自分の体調はあくしている。へいには分からないかもしれないけれど、『聴士ラルゴウ』の疲労の度合いは、集中して耳をませた時間と範囲の乗算で求められる。ノランドットで『大央聴ラルゴウ・オオデキム』をつとめていた時に比べれば、ここでは重点的にかんしなければならないたいしようが四人の敵にかぎられる分、むしろたんの少ない仕事」

 サーリャの発言は半ば以上本当だった。数ヶ月にもわたってノランドットぜんいきからルダ・ガイランを発見しようとぜんれいくしたけいけんくらべれば、今回のにんなんで大きく下回る。それにもかかわらず彼女にろうつのらせているげんいんは、せいかつかんきようちがいと、昼夜を問わないけいかいたいせい、それに何より、この集落にいたるまでしのんできた長い馬車旅にこそあるのだが……。

「……それも、この罠が成功すれば終わりが見える。おんみつがらを捕らえられれば大きながら。……クルァシンも、帰ってきたらきっとめてくれる」

 最後にぽろりとこぼれた本音を、聞こえなかったりで平然と流しつつ、それでもセレィは内心でサーリャのことを微笑ほほえましく思った。──『聴士ラルゴウ』としてのみならず、せんりやくとしてもきようてきゆうしゆうさを見せる彼女だが、それでも根っこのところではじゆんすい乙女おとめなのだろうと。

(まったく、いつも無自覚で女に身体からだらせて……。つみ作りなことだな、われらが導神どのは)

 セレィはめ息をついて夜空をながめた。──そこにならんでかがく七ツ月を、はるか西の地でいまごろ、クルァシンとメリェの二人も、同じようにあおぎ見ているのだろうかと思いながら。



 よくじつの夕方、ヘィロンの集落を目指してさいしゆつぱつしたりよだんの中に、ゼルとギロの二人はすでにへんそうしてまぎれていた。商隊などとちがって、軍隊としてのげんかくりつがあり、定期的なてんも行われる集団の中に紛れむのはかんたんなことではなかったが、そこは〝神狩り部隊ヴエル・グルン〟のほんりようはつである。

(いやはや、オルワナのえいたいにはいい兵がそろってんなぁ。牙種ヤシユタルガ長爪種イゼイリグの連中はどいつも気ィゆるめておしやべりしてんのに、こいつらだけはぜつたいぐちひとつたたかねぇでやんの。……紛れ込む側としちゃ、ボロを出すがない分、こんなに好都合なこともないんだがね。おあつらえ向きに顔が見えにくいかぶとまでかぶってやがるし)

 隊列の後方で馬のづなを引きながら、ギロは内心でほくそ笑んだ。その外見は、今やふくそうからなかりようよくいたるまで、一分のすきもないオルワナこのへいのそれにまとめられている。顔つきやかみの色にすら、もはや元のギロの印象はあとかたもない。

(しっかしこの変装、やってる間はいいんだけど、後でえらく顔が引きつるんだよな……。ま、ヤルィス・ダコバにイリムッツ・フルジのお二人さん、せいぜい安らかにねむりな。なぁに安心しなって。せいふくさくしゆよく進めば、遠からずお仲間も後を追うからさ)

 いまげんざい、ゼルとギロは昨夜までぞんめいしていたオルワナ近衛兵の姿すがたと名前を借りて、有翼種クロトアの隊列の中に紛れ込んでいる。顔つきを変えるほどのこうみような変装は、しかし発展界のがくじゆつたよったものではなく、現地で調達した材料を使した上で、生身の身体が持つのうせいきよくげんまで追求したものだ。

(ったく、いくら『聴士ラルゴウ』っても、たかがむすめひとりのためにな遠回りをさせられたもんだぜ。……だが、それもようやくしまいだ)

 ギロはけんき出しにしてきようぼうな笑みをかべた。いささかせんにゆうしやとしてのつつしみを欠いたそのひようじように、となりを馬で走っていたゼルがきびしい注意のせんを向ける。しゆつしたがねあわてて取りつくろうと、ギロはもはや目と鼻の先にまでせまった集落をするどにらみつけた。



 各国のじゆうちんを乗せた旅団が集落にとうちやくしたというしらせを受けたとき、セレィは少なからずこんわくして、そのほうこくを持ってきた部下にたずね返した。

「それは本当か……? サーリャからは、そのような報告は受けてないが……」

たしかなことです。たった今、私もこのかくにんしてきました」

 セレィは思案げにだまんだ。──そのようにだいな旅団のせつきんをサーリャが聞きのがすわけはない。ならば、おんみつどもをわなにかけるという計画のために、何らかの理由で自分にすらせられていたじようほうなのだろうと、じよおうはそうかいしやくする。彼女が『聴士ラルゴウ』の少女に向けるしんらいはすでにばんじやくのものなので、このじようきようにもそこまでの不信感はなかったが、どこか落ちかない感覚がぬぐえなかった。

「……と、ともあれ、サーリャから合図があるまで、私はここに待機している。長旅の苦労をねぎらってやれず、りよだんの面々には申しわけないが……」

 セレィは不本意そうに言った。てきわなめるに当たって、女皇自身はぜつたいまくの中を動いてはならない──それも『聴士ラルゴウ』の少女からげんに言いふくめられていたことだ。いかに礼節を重んじるセレィであっても、サーリャがだいな労力を費やして完成させようとしているいつけいを、そのためににする気はない。

(しかし、この様子だと、味方の旅団の中に敵がまぎれているということになる。どうするつもりなのだ、サーリャ……。そして何故なぜ、この事実を私にだまっていた……?)

 答えのない問いが積み重なる。ちよくせつてきに敵をらえる決めの一手についてはセレィも知るところだが、おんみつどもをその地点にみちびく計画について、そのぜんぼうを知る者は発案者たるサーリャのみ。だが、彼女を信頼して事をまかせた以上、セレィにはもはやろうほうを待つ以外に仕様がなかった。


「──おつかれのところ、大変に失礼いたします! おそれながら、こちらで得られた情報から、みなさまの中にくせものが紛れているのうせいじようしました! 集落に入られる前に、各人の身の上をかんたんかくにんしたいと思います!」

 クェッタの大声が夜の平原にひびわたり、それを耳にしたゼルとギロは、やはり、というおもちでたがいに軽くうなずきあった。とはいえ、まだきよくたんな行動には出ない。六百人からいるりよだんの面々を一人ずつあらためていくのは向こうにとってもげんじつてきだ。けんあなくぐっておん便びんしんにゆうできるのならば、それにしたことはない。

「もちろん、一人一人のしんたいけんをするような無礼な真似まねはいたしません。われわれみな様を信用し、その確認についても自主的な行動にまかせます。──指定させていただきたいのはただ一つ。兵の皆様は、周囲のごどうりようと、互いのぞくこうせいについてご確認ください」

 その内容に、ゼルとギロはいよいよかくを固めた。──他の兵士との会話を強要されれば、さすがににわか仕立てのへんそうではボロが出る。本命をかすために、おとりやくがわざと見つかるのは今しかなかった。

「皆、聞いたな! あちらの言うとおり、ただちに近くの仲間と互いの家族構成をたずね合え!」

 ダマカスカとギリェ・イゼンの隊列からは不満の声も上がったが、ロケィラへのてが念頭にあってか、オルワナのこのへいちようレモィズ・タンタァクがそつせんして部下にじゆんしゆするよう命ずる。初めこそまどいを見せていた有翼種クロトアの兵たちだが、やがてぽつぽつと互いにしつもんを投げ合い始めた。

(んじゃ、おっぱじめるかい。──下手へたむなよ、ゼル)

(こっちの台詞せりふだ。だんするなよ、ギロ)

 そんな会話をせんだけで交わして、二人はすぅとはいに息をむ。丁度そのころあいでゼルにも、彼を仲間と思い込んでいるとなりの兵から声がかかった。

「おい、ヤルィス、お前のぞくこうせいだとよ。……どうした? さっさと答えちまえ」

 無言のまま返事を返さないどうりように、有翼種クロトアの兵が少しずつげんひようじようになる。──そのしんの念がかくしんに変わる前に、〝神狩り部隊ヴエル・グルン〟の一員は自らその正体をさらけ出した。

「……ふ……かれたのなら、仕方ないなッ!」

 ゼルの両足があぶみからけ、さらには乗っていたくらつまさきって、その全身がちゆうう。──やみに飛び上がったくせもの姿すがたぎもを抜かれた有翼種クロトアの兵たちは、さらに次のしゆんかん、ゼルが両手の指から打ち放った八本のびようによって乗っていた馬のくびすじをぶすりとかれた。それがこんらんばくてん。人がじようきようかい出来ずにぼうぜんとしている間に、げきつうによってしりたたかれた馬たちが、かんだかいななきと共にきようらんを始めた!

「う、うわっ……! こら、あばれるな、落ちけって──がぁっ!」

 一転してあらうまと化した愛馬をどうにかなだめようとした兵が、それを成しげる前に、ゼルの放った回しりをらって力なく落馬する。ぎよしやを失った馬は完全に混乱し、そのきようこうが周囲にでんせんしていくのにも、さほどの時間はらなかった。

「み──みなあせってけんくよりも、まずは自分の馬をしっかりとおさえろ! それが出来てからでいい、隊列を組み直してへいを守れ……!」

 すかさずレモィズの指示が飛んだ。──いくら混乱が伝染したと言っても、ゼルのしゆうによってかいらんさせられたのはえいたいの二わりに満たない。残りの大半はじようきようを正しくあくし始め、馬から馬へと舞いおどるように飛び移るゼルの姿にを丸くしつつも、そのきように真っ向からたいしよすべくかくを固めている。だが──周囲の注目を集めるという一点において、ゼルの行動は万全の成功を見ていた。

(さすがにかんゆうしゆうだな。ちっとキツい状況だが、後はまかせたぜ、ゼル……!)

 周囲の兵士がゼルに気を取られている間に、ギロは落馬をよそおって隊列の中からだつすると、こしもとくくりつけたぼうじよう消音装置サイレンサーどうさせ、やみまぎれて集落の中にせんにゆうする。言うまでもなく、そのねらいはただ一つ──東方有角種ユルフイネクじよおう、セレィ・メル・ロケィラの首であった。



(動いた……)

 集落のはしからひびわたけんそうを、遠くはなれたやぐらの中、ひとりサーリャだけが予定調和のものとして受け止めていた。おんみつかたれが消音装置サイレンサーを使い始めたこともふくめて、このてんかいは彼女にとって事前にそうぞうされくされたものである。

(音を消す道具……たしかにそれは私にとって未知のもの。でも、よく考えた方がいい。本当にそれは今の状況でも有効?)

 たくえつしたちようかくによってこうせいされる音界の中、ゼルのしゆつげんによってこんらんする有翼種クロトアいちだんから、不自然に音の欠落した空間しのび出てくる。それは直進する光をくつきよくしたかがみねじじ曲げるのにもて、その欠落をもってぎやくせつてきに、自然のじようゆがめんとするさくをつまびらかにしていた。

(兵のごうや悲鳴、あるいは馬の足音……そういったもろもろの物音が、ある一点をつうすると無かったことになる。一秒前まで聞こえていた金切り声が、なたで切り落とされたようにすっぱりと止む。そんな不自然に、私がけないはずはない)

 あわれみすら込めてサーリャは内心でつぶやく。──『聴士ラルゴウ』がさくてきを行うとき、それはたんじゆんに物音へ耳をませているわけではない。ちようかくおよかぎりのりよういきにあるおんげんあくし、こうじようてきなものに関しては二次的に利用し、はたまた音と音の間のいんかんけいまでも理解し、せいで立体的な世界のぞうを頭の中に作り上げる。それはすでに音をたんするという次元をえて、ありうべき音界のちつじよみだすものを察知するという領域にまで達しているのだ。

 そもそも『聴士ラルゴウ』ののうりよくとは何なのか? あえて科学の言葉で説明し直すのなら、受動音波探信儀パツシブソナー能動音波探信儀アクテイブソナーの両機能を高度な三次元感覚とろんてきすいさつのうりよくゆうごうはつてんさせたふくごうにんしきのうりよくということになるだろう。それは本来なら認識の主力であるべきという感覚器官をほうした盲種メルキエーナゆうきゆうの年月をかけて進化させてきたどくの世界観。耳をじよてきな感覚器としてしか利用しない人間が、どうしてその世界のことわりについて理解しうるだろう、どうやってその中にまぎむことが出来るだろう。たんじゆん消音装置サイレンサーを用いたところで、それは光の中に闇が紛れ込もうとするようなものだ

 結局のところ、〝神狩り部隊ヴエル・グルン〟は無自覚のうちに大きなあやまちをおかしたのだろう。それは他でもない発展界のじゆつに対するしんであり、言い方を変えれば一種のちゆうどくだ。後発世界よりもはるかに進んだ科学技術を持っているという自負のあまり、自分たちが先住民とぶ相手の能力をいちだん低く見積もってしまった。しんりやくしやとしての立場ゆえ、異文化を真摯に理解しようとする姿勢に欠けていたのだ。もしそれが少しでもあったのなら、サーリャのかんから消音装置サイレンサーひとつでのがれられるなどとは楽観しなかっただろう。

 あるいは別の言い方も出来る。サーリャとのいくとないぜりり合いをて、おおくのさくりやくが未然にふせがれ、おんみつたちは予期せぬ苦戦にあせりを感じていた。『聴士ラルゴウ』の少女と正面から争い続けるじゆうあつに、彼らの心は次第にえ切れなくなってきた。だから消音装置サイレンサーというあんな逃げに走ったのだ。サーリャと同じひようで戦うことをけようとしたのだ。そうして逃れていった先さえ相手の土俵の中であったことも知らず、さながらしやてのひらそんくうのように。

 あなどっていたから、だんした。おそれていたから、とうした。このふたつは正反対のようでありながら、じつさいは同じ一つの病理に由来するものだ。それは『しんりやくする側の高等なそんさい』と『侵略される側の下等な存在』という神話にもげんろんであり、アルマダ人のほねずいまでんだ後発世界へのゆうえつしきである。最初から相手を下等なものとして見下げているから、その相手が実際はどのていきようであるのかはんべつできない。そこに自分たちのかいえた何かがあることをだんとしてみとめられない。そのごうまんが、そのがんめいが、いまひやくせんれんの〝神狩り部隊ヴエル・グルン〟をして必然的な敗北へ向かわせようとしていた。



 サーリャのさくてきからおのれのがれおおせていると信じて、ギロは集落の中をひた走っていた。オルワナ兵にふんするためのしようはすでにて、その外見はやみける黒衣のおんみつもどっている。それに消音装置サイレンサーのうが加われば、もはやちがってもじようじんとがめられる心配はない。二分というせいげんかんを長すぎるとさえ感じつつ、ギロは二十秒とたないうちに目標がとまりしているはずのまく辿たどりついた。

(さすがにげんじゆうけいだな。よっと……!)

 幕屋の周りを十数人もの有角種ユルフイネクの兵たちが守っているのをみとめると、ギロはまず手近な幕屋の屋根に飛び乗り、そこからさらに目的の幕屋の屋根に向かって飛びうつった。消音装置サイレンサーの助けもあり、ちやくさいにもほねみがきしむ音ひとつひびかない。こしもとからいたがたなで屋根のぬのをわずかにくと、ギロはそっと中の様子をのぞき込んだ。

(よし、いるなぁ……?

 さまかいの中、つくえに向かって一心に地図とにらめっこを続けている女の後ろ姿すがたに入った。なかにはりようよくを、ひたいには見事な一角つのそなえ、身にまとうは白地にぎんしゆうぎよくとうこんけつとしての身上をじることなくさらいさぎよたたずまいは、セレィ・メル・ロケィラのそれにちがいない。

(手こずらせてくれたじゃねぇか)

 ものを前にして、ギロはへびのように舌なめずりした。──ろん、彼としても、今夜のさわぎをけいかいしたじよおうが、念には念を入れた用心でしんじようつしているのうせいこうりよしており、その場合はただちに標的をサーリャへこうするはずだった。『聴士ラルゴウ』としての働きがさいだいげんに必要とされるこのばんに、彼女が自分の仕事場をはなれている可能性はかぎりなく低いからである。その時は消音装置サイレンサーかんせいげんが少しきびしくなるみだったが──最後の最後でツキを味方にけたようだと、ギロはややあんにそう思った。

(安心しな、先住民。──自分が死んだことにも気付かせねぇよ!)

 殺意を固めたギロはてんじようの布を大きく切り裂き、その間から自分の身体からだすべり込ませる。着地、せつきん、殺害。一連の作業には三秒とかからないはずだった。が、その最初のこうていに移る直前、彼の身体がいまだ空中にある間に、ゴォォォン……とサーリャのじようちゆうするやぐらから、何らかの信号がもたらされた。

「………なッ!?

 それを合図に、ギロの目の前で目標が走った。向き合っていたつくえのすぐとなりまくかべにあらかじめしつらえてあったかくとびらし開けて、女のなかはそこから外へとけ出して行ったのだ。反射的に後を追おうとしたギロだが、いやな予感がすじかすめ──それをしようめいするように、幕屋全体が内側に崩れ落ちてきた

「うおおおぉぉッ……!?

 ぬの雪崩なだれに全身をからめ取られながら、ギロはそれでもけんめいだつしゆつしようとき続けた。が、彼の自由をうばうのはやわらかな布ばかりではない。内側からは見えなくとも、かたきようじんあらなわから作られたあみもまた、布の上から包み込むようにギロの全身をあつぱくしている。それは壁とてんじようの布の中にあらかじめまれていたものであり、つまり幕屋全体が巨大なねずみりだったのだ。

「全力で引けぇ──ッ! ようしやなくしぼり込めッ!」

 クェッタの号令にこたえて、ギロの身体からだける網にいつそうの力がもる。幕屋の周囲をけいしていた兵たちの全員が、今や一人一人の手に網のいつたんを持ち、それをこんしんの力で引き絞っているのだ。手にしたがたなていこうを試みるギロだが、すでに両手足の自由はかず、彼は半ばきに近い状態で地面に引きたおされた。

「よぉぉーし! しんちように布を取り去れぇ!」

 二十人あまりの人員で網を引き絞ったまま、さらにやって来たぞうえんが、くずれ落ちた幕屋からぶんな布を一枚ずつ取り去っていく。網にき込まれたものまで器用に取りのぞくと、そこには全身をがんじがらめにされて身動き一つ取れない、無残な〝神狩り部隊ヴエル・グルン〟隊員の姿すがただけが残った。

「なッ、なんだこりゃァ──ッ!? てっ、テメェら、一体どうやってこんな……!」

 ギロにはじようきようかいできず、もちろん兵たちにもそれを説明してやるはない。完全にゆうを失ったしんきようで、それでもたいあくに努めたギロは、委細はともかく、まず自分がわなめられたという事実を受け入れねばならなかった。

「あ──ありえねぇ、じよおう本人がえさになっての一本りかよ!? この先住民ども、リスクも考えずにふざけた一計こさえやがって……ぐぇッ!」

 またもや網にどうたいを締め付けられて、ギロの口から苦しげな悲鳴がこぼれる。それさえもはいからしぼりつくしたころ、ぐったりとなった彼のせんの先に、一角つのつばさの両方を一身に有する女がゆうぜんと立ちはだかった。

「女皇とは私のことか、くせもの

「……て、てめぇ……セレィ・メル・ロケィラ……!」

 ギロがにくにくしげに標的の名前を口にする。その名を受けて、女はにっとうすわらいをかべた。

「残念ながらひとちがいだ。──お前のようなの前に、ねえさまを立たせるつもりはない」

 そう告げるや、女は借り物のぎよくとうぎ去り、かつらを外し、ひたいから真白い一角つの取り外す。してみると、そこにあるのはうすものの衣服に身を包んだ有翼種クロトアの少女、コリォ・サリマニュィだった。ギロはぎょっとしてその顔をぎようし、ついでおのれおかしたたんじゆんあやまちにみした。

かげしやか……! クソッ、おれとしたことが、こんな古典的な手に!」

 ギロは犬歯をき出してさけんだ。とはいえ、もちろん彼の不注意だけがげんいんではない。実の姉妹であるセレィとコリォは顔の印象がかよっており、たいかくには多少の差があるが、それも底のあつくついてぎよくとうればほぼかくれてしまう。さらに決め手はひたい一角つのだ。かつてコーチアドに兵を通すさいこうかんじようけんとして作成され、オルワナとのいくさが終わると共にじよおうへんかんされたそのけいは、他ならぬセレィ本人の一角つのから作られたがたちゆうぞうされたものであり、さわった際のかすかなしつかんちがいをのぞけば、色・形ともに本物とすんぶんたがわない。

「打ちえろ! 動かなくなるまで、決してようしやするな!」

ッ……! クソォォォォォッ!

 たびクェッタの号令が飛んだ。包囲のじんけいから一歩進み出た有角種ユルフイネクの兵たちが、切っ先を取りはらったながやりを手に、ギロの全身をしたたかに打ちえ始める。肉をたたにぶかんしよくが兵たちの手に返り、だんまつけもののような叫び声が、集落の中にいつまでもざんきようした。



…………ギロ!?

 ぜいぜいじようきよう、それでも単身でねばり強く陽動のやくわりを果たし続けていたゼルだったが、仲間の悲鳴を遠く耳にしたしゆんかん、さすがに身体からだの動きをこわらせた。自分をねらって放たれた数本の矢からかみひとのがれつつ、彼はつとめて冷静に状況をはかる。

(まさか、失敗したのか……!? それも最悪の形で!)

 発案者としてゼルも事前に想定こそしていたが、しんじようとしては有り得ないてんかいだった。何らかの原因でセレィ・メル・ロケィラの暗殺に失敗し、兵たちにしんにゆうかれる──そこまでは有り得るはんたいだろう。だが、仮に大勢の兵から包囲されたとしても、そのていの状況からげおおせてこその〝神狩り部隊ヴエル・グルン〟である。せいかんというぜつたいじようけんだけは、何をさしおいても守られなければならないはずだった。

(信じられん。あのギロをして、なおしん退たいきわまるほどの状況だと……?)

 さしものゼルにもこの状況下でギロを助けに向かうほどのゆうはない。外にいる仲間からのサポートが約束されているからこそ、ここまでだいたんに兵の注目を引きつけていられるが、それもじきにげんかいが来るだろう。引きぎわあやまれば、ゼルまで不覚を取る結果になりかねない。

(……ゆるせ、ギロ!)

 心の中であやまると、ゼルはふところから取り出した閃光手榴弾スタン・グレネードのピンをく。──次のしゆんかんくらやみしずむ大平原のさなかにを焼く極光がしゆつげんした。ぜんえいでゼルににくはくしていた者ほどごうおんせんこうを強くび、もんどり打ってたおんだ彼らの身体からだが後続の兵たちのしようがいになって、戦列の全体が一時的なのうぜんおちいってしまう。そのすきのがさず、ゼルは隊列のわずかなほころびをいて包囲をけ出した。



──────ッ!

 ピンを抜く音をばくはつの前兆としてき、両手で耳をふさぐことでぼうりよくてきな轟音から身を守ったサーリャは、すぐさま『聴士ラルゴウ』のにんふつして状況のあくに努めた。──集落の中にしんにゆうした方のおんみつはクェッタのする兵たちによって完全にばくされた。陽動をになっていたもう一方も、てんかいの不利をさとってか、今の爆発を最後にてつ退たいしたようだ。

「……やった」

 結果に一分の手落ちもないことを見取って、サーリャは深くあんの息をいた。け引きからくくりのわないたるまで、つねに状況のしゆどうけんにぎり続けた結果である。最小のせいで最大の成果をげたと言っていい。

「……次は、へいのところに、説明に行かないと……」

 まったろうに加えて、てきけんせいし続けるためにきゆうみんを不定期に取っていたことが重なり、サーリャは手足がなまりになったような気だるさを感じている。それでもけんめいに自分をし、最後まで務めを果たすべく、彼女はやぐら梯子はしごを下っていくのだった。



「サーリャ、よくやった。……だが、説明はしてもらうぞ」

 少女がまくに入ったたんねぎらいの言葉と共にしつもんが投げかけられた。こしけたままきびしいおもちでいるセレィの前でうやうやしくひざまずき、サーリャは求めにしたがって説明を始める。

へいも知っての通り、ここしばらく、私は〝神狩り部隊ヴエル・グルン〟の四人と水面下の争いを続けていた。八方手をくして集落の中にしのび込んでこようとする連中を退しりぞけている内に、自然とあちらが大勝負に出てくるころあいも読めてくる。それが今夜──各国合同のりよだんが集落にやって来る日」

「それはかいできる。旅団の人員に成りすまして集落へのしんにゆうを試みたのだろう。そしてまんまとわなにかかった。……だが、私が問いたいのは、どうして旅団が今日来ることを、事前に私へほうこくしていなかったのかだ。そなたの耳をもってすれば、そのせつきんにはずいぶん前からいていたはずだろう?」

 めるつもりはなかったが、セレィにはどうしても口調がきつもんじみてしまうことをけられない。それを当然のものとして受け止めて、サーリャはしゆくしゆくこたえ始めた。

「言わずにむのが一番と思っていた。けれど……問われれば、話す」

「……?」

「陛下も言った通り、おんみつたちは旅団の人員に成りすまして集落に侵入してこようとした。……でも、各国のじゆうちんともなってやってくる旅団のせいしつは、けいの人員もふくめてほとんど軍隊に近い。その中へ一時的にせよまぎむためには、高度なへんそうじゆつは当然としても、元からいた人物と入れ替わるこうていがどうしても必要になる。人数がえていれば、それだけでてんの時点で気付かれてしまうから」

 ばくぜんとしたいやな予感がセレィの頭をよぎる。こうべれたまま、サーリャはたんたんと続けた。

「予想通り、隠密たちは今回、オルワナえいたいの人員と入れわる形で旅団の中にせんにゆうした。……必然、彼らの席を空けるために、二人の兵士が排除されていることになる

「待て……サーリャ。待て」

 セレィがとつに続く言葉をせいした。その口調はかすかなふるえを帯びている。

「まず、聞かせてくれ。そのてんかい──そなたには、いつから予想がついていた?」

敵の存在を察知した最初の晩からやがて有り得る可能性として想定はしていた

 サーリャはそくとうした。セレィはいつしゆんにしてげつこうし、椅子をたおして立ち上がった。

「なぜ、私にそれを伝えなかった!?

 悲鳴にもた怒鳴り声が幕屋の中にはんきようする。……だが、そのかんじようてきはんのうすら、『聴士ラルゴウ』の少女には悲しいほど予想の内だった。

「……それを事前に報告していれば、陛下はおそらく、今回の作戦を私に実行させなかった」

「当たり前だ! こちらのじようをまるで知らぬりよだんの中からせいが出ると分かっていれば、まず考えるべきは、それを如何いかにしてふせぐかだろう!? そなたがせつきんを察知した時点で伝令を出すなど、彼らに注意をうながす方法はいくつかあったはずだ!」

たしかに方法はあった。……でも、どれをさいようしても、結果としておんみつたちがせんにゆうする好機をやすことになる」

「なぜだ!? 入れわりを事前に防げば、そもそも隠密どもは旅団にまぎれ込めまい!」

「今回に限って言うなら、確かにそう。……でも、もう少し広いで見ると話は別になる。この集落のけいは、今夜をさかいにして、やくてきすきを増やし始めることになるから」

 セレィはこんわくしてまゆせた。いかりの念がじやをして、彼女にはだんの察しの良さがはつできていない。それとは対照的に、サーリャはどこまでも冷静な、冬のものを思わせるせいえをたもっている。

「……この集落にとって、旅団のとうちやくおおぜいの来客を意味する。平たく言えば食いが増えるということ。いくらヘィロンの集落であっても、私たちのらいほうからして不意のごとであったことをこうりよすれば、ちくぶつには近くげんかいが来るはず。足りない分は他の集落から分けてもらってくることになる。……てきに、集落に人の出入りが増える」

………!

「人の出入りが増えるということは、隠密たちがけ入る隙が増えるということ。けいかいしなければならない部分がぞうふくざつし、守る側のしようもうは今までとはかくにならないほど大きくなる。……そうなれば、クルァシンが帰るまでというじようけん付きでも、私にはてき退しりぞけ続ける自信がない。〝神狩り部隊ヴエル・グルン〟とのけつちやくは、何としても今夜のうちに付けなければならなかった」

 セレィは言葉をまらせた。……思えば、『聴士ラルゴウ』としてのゆうしゆうさを当てにして、この少女ひとりにだいたんわせていたのは、他ならぬ自分自身ではなかったか。

「前にも言ったように、私が『大央聴ラルゴウ・オオデキム』だったころしよくは今よりもずっとはんざつだった。……それでも、アヌビシアという国の性格もあって、首都ノランドットはおおむねへいかんきようだったの。外から来るものについてつねに警戒を続ける必要はなかったし、耳のとどかないはんは他の『聴士ラルゴウ』がおぎなってくれていた。都内には公安大隊もじようちゆうしていたから、私はいつも『大央聴ラルゴウ・オオデキム』として専業的に働き続けることが出来た」

 だが今はそうではない、と少女は暗に語っている。導神から後をまかされた以上、表にうらさくという策をくし、何としてもセレィ・メル・ロケィラの命を最優先に守りきる。それがげんざいの立場における、サーリャ・ラプスェトエナシェのかくなのだと。

 サーリャの言葉を聞いているうちに、セレィは自分の中で怒りがしずまっていくのを感じた。だが、それに代わって彼女の心中を満たしたのは、自分のなさへと向けるさびしさにもかんじようだった。

「……サーリャ。おくれをしようで言うが、もし仮に、今の話を事前に私へ通してくれていたとして……より良いしゆだんを、共に考えることは出来なかっただろうか」

 しばらくもつこうしてから、サーリャは苦いおもちで首を横にった。

「……オルワナ兵士二名のせいんだ今回の作戦は、最終的な成果との差し引きで考えて、これ以上は望むべくもないものだと思う。もし出来たとすれば、犠牲をどこから出すかの調整……つまり、オルワナ兵士の代わりに陛下の部下を死なせるというせんたくくらいのもの」

………っ

「見えいたわなに乗ってくるほど相手はあまくなかった。だんりに時間をかけた上で、そうおうの好機をえんしゆつしなければ、ここまでの結果にはなっていないはず。……えさいていないはりりは出来ない。それなら、人命を餌とする選択でへいなやませたくなかった。その玉套ふくも、一角つのも、両翼つばさも、ずっとじゆんぱくのままでなくてはならないから」

 それが事前に話を通していなかった理由だと、サーリャは告げた。……じよおうの立場とこうけつせいかくをよくあくした上での、あまりに深いおもんばかりだった。セレィには返す言葉もなかった。

「今の私は、クルァシンの役目を引きいでここにいる。陛下をきずけるもの、陛下をあざむくもの、陛下をけがすもの、その全てから身をていして陛下を守りきらなければならない。……だから、確信的に誰かを死なせるというよごれ仕事は──少なくとも、そのはんだんせきにんは──私が代わりにけ負うべきだと思った」

 おもてを上げ、見開いたりようではっきりと女皇を見つめて、サーリャは負い目なく言い切った。──ている、とセレィは思った。つみも責任も、他人にし付けるくらいなら自分でもうとするり方が、あまりに導神とかよっていると感じてしまった。だから次のしゆんかん、こみ上げる愛しさのかんじようまかせて、セレィはサーリャの身体からだりよううでめていた。

「……陛下……?」

「すまぬ、サーリャ。……私にそなたをめるかくはなかった。そなたが私を慮ってくれていた分の半分ほども、私はそなたの内心について察してはいなかったのだから」

 まなじりからなみだこぼれ落ち、小さな身体を抱き締める両腕に力がこもった。……自分のけつぱくを守るためにどうほうが手を汚していく姿すがたは、それがちゆうしんであればなおさらのこと、セレィのむねつうれつえぐっていく。

 ろん、彼女とてぐんぜいする身である。戦争で傷付き死んでゆく兵たちには、胸を痛めこそすれ、それ自体を負い目と思うことはない。その辺りのりんかんはクルァシンよりもじゆうなんで、むしろヘィロンに通ずるものがある。いくさしおは聖なるものであり、後になっているとすれば、おのれしきさいはいいたずらせいやしてしまった場合のみだろう。

 だが、必死の命令はちがう。あるいは作戦のていで、無関係の人間をせいにした場合も違う。それらは両方とも彼女のきようを傷付け、君主としての高潔さをそこなうせんな選択だ。決死の覚悟で戦に臨む兵はよい。だが、必死の作戦に兵士を動かさねばならない指揮官は単なるのうだ。戦果のためならば無関係の人間を死なせることも厭わない指揮官は無能以下のどうだ。そのかんからすれば、〝神狩り部隊ヴエル・グルン〟をわなめるためにだれかをせいにするというせんたくは、セレィ・メル・ロケィラが思い至ることさえあってはならない

 だからこそサーリャが働いた。彼女が代わりに思いつき、代わりに考え、代わりに実行した。作戦のみにくい部分はセレィのあずかり知らぬところで『聴士ラルゴウ』の少女がみ込んでいた。事実、彼女は殺害されたオルワナ兵士たちのだんまつの声さえもいていたのだ。おんみつたちによって口をふさがれ、弱々しく空気のれ出す音にしかならなかったそれを、彼らを見殺しにした自分へのじゆとしてしゆくしゆくと受け容れていた。じよおうの命とめいを守りきる、ただそれだけのために──。

「私が勝手にやったこと。知らなかったへいに、せきにんはない」

 その言葉こそ、どうしようの作戦でサーリャが勝ち取ったものだった。彼女自身、同じ立場ならばクルァシンも同様のほうしんっただろうとかくしんしていた。それは全く正しいと言わざるを得ない。……結局のところ、少女はあまりにゆうのうぎたのだ。本当の意味で導神の代わりがつとまってしまうほどに。

 セレィは泣いた。自分の君主としての力不足を思うと、なみだあふれて止まらなかった。

「そなたにつみわせるつもりはなかった。……思えばクルァシンとの別れぎわ、そなたが友神ともの代わりを務めると言い切った時、どうしてそのかくを察してやれなかったのか。他人ひとの心に近しいはずの有角ユルフイネクの女皇が何というざまだ。これほど私をおもんばかってくれている相手の苦しみすら、満足にみ取ってやることも出来ぬとは」

 灯台の直下はつねに暗い。ヘィロンとの交流にかまけて、もっとも身近な相手のしんじようを置き去りにしていた。彼女にはそれがくやしくて仕方なかった。

「私がおろかだった。そなたがいつわらざるせいをもって私とクルァシンに仕えてくれている──この一角つのによってしようされたその事実を知っているだけで、自分が全知者であるかのようにおごっていた。だが、私はこれまでそうぞうもしていなかったのだ。偽らざる誠意ゆえにかたかくされる、そういったどくな思いりもまた、この世にはそんざいするのだということを」

 それはセレィにとって思いもかけない学びだった。……彼女の一角つのは他人の感情をばくぜんと感知する。通りいつぺんきよとうかいはそれでけるが、負い目や後ろめたさ、そういった負の感情がともなわない場合に関してはそのかぎりではない。

 自分が他人の心について少なからず無知であることをさとり、それによって女皇のとらえる世界はまたひとつ深みをした。心のいたみを伴う成長は、しかし──この後に彼女らを待ち受けるたいを思うのなら、心のすれ違いというげんしようの存在を一足早く実感できた分だけ、まだしも幸運なころあいであったと言えるのかもしれない。



 よくあさ、セレィは配下の兵士十数名で小隊を組ませ、肉筆のしよじようを持たせて集落の外に向かわせた。エナ・ガゼの言語で「こうしよう」と書かれたはたを頭上にかかげた彼らがしばらく歩き続けていると、兵たちの前に黒衣のひとかげ姿すがたあらわした。

「……ゼルだ。こうしようおうじよう」

 予想された通りのてんかいに、兵たちはたがいに目配せを交わしてうなずき合い、その内のひとりが堂々としよじようないようを読み上げた。内容はこうである。──そちらの仲間はげんじゆうかんの下にらえている。必要以上にいためつけるはないが、そちらが身内のだつかん、ないし集落へのせんにゆうを引き続き試みる場合、そのかぎりではない。さしあたり導神がかんするまでは、集落から半径4000ルハにはちかかないことを約束しろ。仲間の返還をふくもろもろの交渉は、導神の帰還後に彼をふくめてり行う。ろんげんそくてきに受けつけない。

「……しようした。4000ルハ以上はなれた場所で、次の交渉のれんらくを待つ」

 おどろくほどなおに要求を受けれると、ゼルの姿はそのまま平原の風にまぎれた。──セレィがクルァシンから事前に教えられていた通り、〝神狩り部隊ヴエル・グルン〟に戦死をほまれとする信念はない。仲間の命を引き合いに出されれば交渉に応じるていじゆうなんさはある。クルァシンが帰るまでの時間をかせぐ程度のことなら、仲間の命をしようするというだけで、さしあたりじゆうぶんじようけんだった。

 サーリャに一度完全な敗北をきつしている以上、仲間のけんしようで、彼らが再びしんにゆうを試みてくることは考えにくい。長らく集落をし包んでいたきんちようはここにきてようやくかんし、『聴士ラルゴウ』少女もかたの力をくことがゆるされた。だが、彼女にはそつせんしてやらねばならない仕事がひとつだけ残っていた。行方不明になっているオルワナ兵士二人のそうさくである。

 そのあんからたいせいかくな位置にいたるまで、サーリャはすでにざんこくな事実を知っていたが、もちろんそのことは明かさず、彼女はあくまでも『聴士ラルゴウ』ののうりよくを捜索にかすという名目で捜索隊に加わった。かんじようかばない横顔から、そのしんきようはかるべくもなかった。

 集落へと至るまでにりよだんが通ったみちすじさかのぼっていくうちに、二人の兵士の遺体はたけの高い草の中にもれたじようたいで見つかった。両者ともするどい刃物で首を切りかれ、しんぞうひときにされていた。同じ隊の者たちはなみだを流して仲間の死をいたみ、かくしてヤルィス・ダコバとイリムッツ・フルジの二名は、めいの戦死者として中陸の土にほうむられることになった。

「サーリャ殿どの、かたじけない。……あなたのおかげで、ともあれ部下たちをねんごろにとむらってやることができます」

 そうばん、死者たちの直接の上官だったオルワナこのたいちようのレモィズ・タンタァクは、サーリャに面と向かってそのように礼を言った。そのしゆんかんばかりは『聴士ラルゴウ』の少女も平静ではいられなかった。彼女は両方のこぶしを固くにぎめて一礼すると、そのままレモィズの前から全力で走り去った。──近衛隊長のまぶたは、だれにもそうと分かるほど赤くれていた。