サーリャが〝神狩り部隊〟の接近を感知した頃、メリェを背負った導神は中陸地域を半ばまで横断し、すでに中陸有角種の勢力圏を越えるところまで来ていた。ヴァルハ・セドレとの緩衝地帯、中央に広大なリォデ湖を挟んで存在する南北二つの国家のうちの一つ、牙種と長爪種が不安定な情勢下で共存する国──北方のニレフリクである。
「……ふぅ。長く辛抱させたな、ようやく着いたぞ。……おい、メリェ?」
クルァシンに声をかけられても、彼の背負った侍女は一向に返事を寄越さない。怪訝に思った導神が首を巡らせて様子を窺えば、メリェは彼の背中に頰をすり寄せて幸せそうに熟睡している。その図太い有様に、導神は感心と呆れを同時に抱いた。
「……ふぁ? ……あ、導神さま、おはようございます。もう朝ごはんですか……?」
一拍遅れて眼を覚ましたメリェが、指で眼をこすりながら吞気な挨拶を口にする。クルァシンは溜め息をついて腕を伸ばし、少女の身体を背中から地上に下ろした。
「お前はよく、あの体勢で熟睡できるものだな……。俺も可能な限り気遣いはしたが、それでも走っている間は相当に揺れただろう?」
「導神さまの背中ですから、すぐに馴染んじゃいました。それにわたし、背中が揺れるのには馬で慣れているんです。これでも有角種のはしくれですから」
「そういえばそうだったな。……まさかとは思うが、お前も馬に乗れたりするのか?」
「えへへ、もちろん乗れますよー。セレィ様ほど上手には走れませんけど」
メリェがのほほんと答えた内容を、導神は少なからず意外に思った。だが──今にして顧みれば、瀕死のクルァシンを庇ってオルデンダラィムと対峙した時も、アヌビシアの森林を徒歩と短足馬車の長旅で通り抜けた時も、この小さな侍女は少しも参った顔など見せず、常に平然とした様子でいたのである。愛らしい見た目とは裏腹に、身体も心も芯から頑丈なのかもしれない。ただ鈍いだけ、という可能性もなくはないが……。
「……まぁ、いずれにせよ、丈夫なのは良いことだ。お前の弟子の方は、馬車での長旅にかなり参っていたようだからな」
「サーリャちゃんのことですか? ……あの子、すごく責任感が強いから心配です。乗り物酔いのことも、顔色が真っ青になるまで、ずっと人に言わないで我慢してました。放っておけばどんどん無理しちゃう性格の子です。その辺り、ちょっとだけ導神さまに似ています」
メリェは心配そうな表情で背後の大平原を振り返った。クルァシンにも同様の懸念はある。彼は『聴士』としてのサーリャの能力を頼みにしてセレィの傍を離れたが、それは裏返せば、サーリャひとりの双肩に過大な負担を強いることになりはしないか。
「何事も無ければいいんだが……」
思わずそんな呟きが漏れていた。が、ここまで来てしまった以上は悩んでいても仕方がない。クルァシンは身体ごと視線を前方に戻し、惜しみなく降りそそぐ陽光を照り返して輝く広大な湖面をそこに捉えた。漁師のものと思われる小船も多く見受けられる。それがニレフリクの水産資源を一手に担う中陸最大の湖・リォデ湖の姿であった。
「よし、行くぞ。しばらくはここで情報を集める」
「え? すぐに通り抜けて、ヴァルハ・セドレに向かうんじゃないんですか?」
「そこまでしては移動に時間を食いすぎるし、ふたつの勢力の境目にあるニレフリクの民の方が、かえって大国の動向には敏感だろう。ここは見たところ開放的な土地のようだし、俺たちのような異邦人がうろついていても怪しまれそうにない」
そう説明すると、クルァシンはメリェの背中から荷物を取り上げて自分で背負い込み、そのまま湖の方へ向けて歩き出した。メリェも嬉しそうな顔で彼に付き従う。
「さて──今から俺たちは従兄妹同士という設定だ。親子や兄妹にしては顔立ちが違いすぎるが、これならば通用しなくもないだろう。ここに滞在する間、俺のことを人前では兄と呼べ」
「はい、お兄様。でも、そうすると、お兄様のおでこには大切なものがないですよ?」
「その点については抜かりない」
不敵に笑ってそう言うと、クルァシンは懐から小ぶりな一角の模型を取り出し、その断面に背囊から取り出した粘性の樹脂を塗って、額の中央にぴたりと貼り付けた。メリェはきょとんと眼を丸くして、にわかに有角種の一員となった導神の顔をまじまじと見つめた。
「以前、コーチアドでセレィの一角の模型を作ったことがあったのだがな、こんなこともあろうかと、その際にこれの制作も頼んでおいたのだ。どうだ、お前の眼には作り物だと分かるか?」
「ううーん……。……いいえ、かなり近くに寄っても本物に見えます」
「そうか。有角種のお前にも分からないのなら、ここの民に見抜かれることもないだろう」
安心したように頷くと、クルァシンはメリェの手を取って歩みを再開した。二人とも旅装束の外套を羽織っているので、服装や下げ髪の目立つ部分は隠れ、微妙な違和感さえ大目に見るのなら、傍目には確かに仲の良い従兄妹同士のように見えなくもなかった。
「ほう、市が立っているな」
湖に近付くにつれて人通りが増していき、やがて道の両側に所狭しと露店が並ぶ賑やかな通りに差し掛かった。牙種と長爪種の店主が威勢の良い声で客を呼び、湖で取れたばかりの新鮮な魚や、長い爪で編んだ色とりどりの衣服をこれでもかと見せつける。
「おい、そこのちょっと変わった有角種の兄さん、今晩のおかずにウチの魚を買っていかねぇか? そこの湖で今朝獲れたての七鰭魚だぜ! 煮てよし焼いてよし蒸してよし、じゃなきゃ内臓を取ってから一晩陰干しにすると、これまた思いもかけない旨さだ。そっちのお嬢ちゃんの分も合わせて、二匹でたったの十フュロぽっきり。どうだい、値段の分の味は保証するぜ!」
「ちょいと旅人さんたち、長旅のようなら替えの服はいらないかい? 万途羊の毛糸で編んだ暖かい上着に、石頭猛牛の革をなめして作った頑丈な手袋や靴もあるよ。どれも私が丹精込めてこさえたものさ、不良品なんてひとつもありゃしない。大事にすれば五年は着られるよ」
進めど進めど露店の列は絶えない。客引きの大声に挟まれながら、ふたりは色も形も様々な鮮魚と、驚くほど細緻な刺繡の施された衣料品に眼を楽しませた。
「それにしても活気があるな。人種の構成はコーチアドとほぼ同じだが、この騒がしさは湖畔の町に特有のものかもしれん」
感想を述べつつ、とりあえず腰を落ち着けられそうな場所を探すクルァシンだったが、ざっと見回しても宿や食堂の類は周りに見当たらない。そのまま露店の列に沿って歩き続けていると、やがて市が途切れ、眼前に赤みを帯びた砂浜と、それに続く広大なリォデ湖の水面が見晴らせた。
「む、湖まで出てしまったか。これは誰かに道を尋ねたほうが良さそうだな」
丁度近くにいた牙種の漁師に宿の場所を問うたクルァシンだったが、その男はちらりと二人の顔を見て額の一角を確認すると、一言も発しないまま黙って斜め後方を指差した。露天商たちとは対照的な無愛想さには、有角種への少なからぬ悪感情が含まれているようでもあった。
大体の方角は分かったが、そのまま直進しては辿りつけそうにもなかったので、ふたりは宿場に入る道が見えるまで水際を歩いていくことにした。市から離れるにつれて人気が失せ、辺りには浅黒く日焼けした漁師たちがうろつくばかりになる。その彼らも、クルァシンらを一目見ると視線を逸らして足早に去っていく。導神は歩きつつ、その疎外の理由を思った。
「ふむ……。予想していたことではあったが、この中陸では、有角種はあまり彼らから快く思われていないようだな。覇権の所在が彼らに決定するまでに、民族間での長い争いがあったことを思えば、それも納得のいく話だが」
「すっかり嫌われちゃっているんでしょうか、わたしたち?」
「さて、石を投げられるわけでもなし、そこまで極端に嫌悪されているわけでもなさそうだが……色々と話を聞いてみないことには、何ともな」
メリェの質問を、クルァシンは曖昧に濁して話を打ち切った。そのまま無言で水際を歩きながら、ふと視界の端に気になるものが映り、導神は視線を湖の側に巡らせる。
「あれは、海女か……」
凪いだ水面に一人用の小舟を浮かべて、そこを基点に素潜りを繰り返す若い牙種の姿があった。他の漁師たちと同様に浅黒く日焼けしてはいたが、しなやかな身体の線は少女のものだ。唇から飛び出した二本の鋭い牙が、負けん気の強そうな顔立ちによく調和している。
獲物を満載した籠を小舟の上に載せると、少女はそれと入れ替わりに自分の身長ほどの長さがある銛を持ち出し、力強く肺に息を吸い込むと、再び水中へと潜っていった。湖岸を歩きながらその様子を眺めていたクルァシンたちだが、そのまま数分経っても水面に変化がないので、いささか不安になってくる。
「導神さま……。これ、ちょっと長すぎませんか……?」
メリェの右手がくいくいと服の裾を引っ張る。彼女に言われるまでもなく、少女の消えた水面にじっと眼を凝らしていたクルァシンだったが、それから三十秒ほど待っても状況に変化が無いことを認めると、彼は外套を脱ぎ捨てて湖に身を躍らせた。
「浮ッ……!」
ぱぁん、と水面が爆ぜた。着水した足が水中に沈み込むことなく湖面を蹴り返し、そのまま二歩、三歩、四歩と、波紋を生み出しながら水上を疾駆する。──軽身功に属する高度な応用技である不沈水歩の奥義。凪いだ水面を不足ない足場として駆け抜け、クルァシンは一気に少女が残した小舟の前まで辿りつき──
「……ぷはぁっ!」
瞬間、少女の顔が水面に浮き上がり、かと思えば猛烈な水飛沫が導神の全身を襲った。自分の倍近くはあろうかという巨大な魚に、少女は銛を突き刺して両腕でしがみ付いていたのだ。必死に暴れ続ける巨大魚の鰭と尻尾が水面を叩き、その影響で激しく波立った水面にはもはや立ち続けることが出来ず、集中を切らしたクルァシンは一気に水中へ沈みこんでいった。
「暴れんなっ! あーもう観念しろってのに!」
彼のそんな顚末など露知らず、牙種の少女は一心に巨大魚との格闘を続けている。それは水面に上がってから三分あまりも続いたが、やがて少女が渾身の力で魚の胴体部分を締め付けると、巨大魚はまるで絶息したように口をぱくぱくとさせて、そのまま動かなくなった。
「……よしっ!」
獲物の気絶を認めると、少女はすかさず小舟の上に戻って荒縄を持ち出した。まず彼女は腰から抜き放った小刀で魚の口内に穴を開け、次にその穴に縄を通し、さらに結び目がほどけないように縄で輪を作った。ものの数秒とかからず、少女は鮮やかな手並みで魚体を小舟に括りつけてしまった。
「ひさしぶりの大物だ、こいつは高く売れるぞ! ……んっ?」
小舟の上に仁王立ちして勝鬨を上げていた少女だったが、そこでふと足下の気配に気付いて視線を落とす。……すると、紅と翠の見るも鮮やかな衣装を纏った男が、その鼻から上だけを水面に覗かせて、恨みがましい視線を彼女に送っていた。
「……なにやってんの、有角種の兄さん。ここ結構深いから、服着たまんまで泳いだら危ないだろ?」
咎める口調で少女が言った。首まで水に浸した導神には返す言葉もなく、咄嗟に助けに走った自分の判断を後悔しながら、溜め息代わりの気泡をぶくぶくと吐き続けるしかなかった。
「あたしが溺れたと思って助けに来たぁ?」
正午過ぎの湖に頓狂な声が響き渡った。小舟を岸まで着けると、牙種の少女は獲物を地上に運ぶ作業の傍らで、岸まで乗せて来てやったクルァシンから事情を聞き、その内容に遠慮なく呆れ返っているところだった。
「こりゃまた、いくら余所者にしても物を知らない兄さんだね。牙種の海女がそう簡単に溺れるわけないだろ。あたしゃ毎日のようにこの湖に潜ってんだよ」
顔と髪に付いた水滴をメリェによって拭われつつ、水辺の岩に腰を下ろして、クルァシンは仏頂面で少女の言われるままになっている。憤懣やる方ない思いであったが、自分の浅はかさ以外に責める相手がない。沈黙だけが彼に許された最後の矜持だったが、それにもさすがに飽きがきた。
「……要らん手間をかけさせて悪かった。これを教訓に、今後は人が浮かんでこない状況に出くわしても、慌てず騒がず、本当に溺れているかどうかじっくりと確認して、それから助けに入ることにしよう」
「ははっ、おもしろい拗ね方する兄さんだね。ひょっとして結構育ちがいいのかい?」
あらかじめ用意してあった台車に今回の獲物を載せ終えると、彼女はクルァシンらの方に向かって身振りで付いて来るように示す。──色褪せた赤髪を短く刈り込み、浅黒く日焼けした身体に小さな漁衣を纏った、いかにも健康的な牙種の少女だった。日常的に素潜りを行っているためか、全身の肉付きは無駄なくしなやかに引き締まっている。
「付いてきなよ。余計なお世話だったけど、一応はあたしを助けようとして飛び込んでくれたんだろ? 代わりの服と昼飯くらい用意するさ。もちろんお嬢ちゃんの分もね」
ぶんぶんと大袈裟に手招きして、少女は目の前のふたりに誘いをかける。なおもクルァシンは重く黙り込んでいたが、隣のメリェに脇腹を突かれて、ようやく渋々といった様子で立ち上がった。それを見た少女はにっと快活に笑った。
「話は決まったね。──あたしの名前はソロェリだ。よろしく頼むよ、有角種のお二人さん」
ソロェリの案内で連れて来られた彼女の家は、水辺から三分と歩かないところにある、御世辞にも綺麗とは言えない粗末な造りの長屋だった。立て付けの悪い扉を容赦なく蹴り開けると、彼女は玄関で「ただいまー!」と叫ぶ。
「お帰りなさい、ソロちゃん。今日は豊漁だったかしら。──あら、お客さん?」
ソロェリに続いてクルァシンとメリェが家に入ると、室内には原始的な紡績機を操作している長爪種の少女がいた。万途羊の毛から糸を紡ぐ傍ら、彼女は両手の長い爪を驚くほど器用に扱い、おそらくは売り物であろう衣服に細緻な刺繡を編み込んでいる。それはクルァシンらが思わず見惚れてしまうほど鮮やかで無駄のない手並みだった。
「あたしの命の恩人になり損ねた兄さんさ。悪いけど服を貸してやってよ。売れ残りの男物がいくらか余ってただろ?」
「構わないわよ。ところで、漁の方は順調だった?」
「へへん、今日は大物を仕留めたね。五尺越えの子吞鯉さ。これから市に売り込んで来るよ」
自慢げにそう言うと、自宅ならではの気安さか、ソロェリは傍にクルァシンがいることも忘れて漁衣を脱ぎ始めた。胸の覆いが取り去られて、控えめながら形のいい乳房が晒されたところで、導神は眼筋が引き千切れんばかりの速度で視線を逸らした。そんな彼の心境など露知らず、ソロェリの手が下穿きの方にまで手がかかったところで、慌てて長爪種の少女が止めに入る。
「ちょっと、ソロちゃん! お客様がいらっしゃるんだから、少しは気を遣いなさい!」
「ん? ああ、悪い悪い。すぐ終わるから、有角種の兄さんはちょっと眼ぇ瞑っててよ」
その宣言どおり、彼女の着替えは十秒とかからず終わった。下穿きを穿き替え、飾り気のない肌着に袖を通しながら、ソロェリは同居人らしき少女に向かって声をかける。
「あたしが戻ってくるまで、ミラは二人の相手をしてやってよ。昼飯も四人分用意してさ」
長爪種の少女が微笑んで頷いたのを確認すると、ソロェリはさっき蹴り開けた扉から再び外に駆け出していった。その一方で、家に残った方の少女は紡績機の前から離れ、衣類を仕舞ってあるのだろう部屋の隅の簞笥まで歩いていく。
「お客さん、ちょっと待っていてくださいね。売れ残りですから、あまり上等なものもありませんけど……」
「いや、本当に助かる。それよりも急に押しかけてすまない。俺の名はクルァシン、こちらは従兄妹のメリェだ。……ええと、君の名前は……」
「ルァミラと申します。どうぞミラとお呼びになって。……ああ、これが丁度良さそうね」
簞笥から白い上着と暗緑色の下穿きを取り出すと、ルァミラと名乗った少女は服の埃を軽く払い、それらを綺麗に畳み直してからクルァシンに手渡した。礼を言って受け取った導神だったが、どこで着替えたものかと彼が迷っていると、ルァミラは人差し指の長い爪をすっと持ち上げ、あらかじめ用意してあった着替えのための暗幕を引き、簞笥の周囲とそれ以外の空間を隔てる。
「狭い家ですので、これくらいしか配慮出来ませんが」
「……充分すぎる心遣いだ。重ねて言うが、本当に助かる」
濡れそぼった深衣と貫頭衣を脱ぎ捨てると、クルァシンは渡された衣服を手早く着込む。どこの寸法も測ったようにぴったりだった。装いを整えた導神が暗幕を開くと、待っていたルァミラが彼の足下から濡れた服を拾っていき、その生地や模様の具合をまじまじと眺めた。
「変わった造りの衣装ですね。こういう生地は今まで扱ったことがありません。それに、どんな染料を使っているんでしょう、とっても鮮やかな緑と赤……」
引っ張ったり裏返したりしつつ、ルァミラは興味深げに導神の衣服を検める。が、やがて我に返ったように手を止めると、恥ずかしそうに俯いて、導神の前から一歩引いた。
「ごめんなさい、はしたないことをしました。……幸いとまだお昼ですから、今から洗って乾かせば、たぶん今日中にはお返しできると思います。それまでは今の服で凌いでください」
「何から何まで、本当にすまない。ここは好意に甘えさせてもらう」
部屋の中央に据えられた食卓に着くと、ルァミラが手際よく家事をこなしていく様子を、クルァシンとメリェはそこからじっと眺めていることになった。洗濯を済ませ、洗い物を窓の外に干し、倉庫に貯蔵されている食材から作れる料理を想像する。二人も何度か手伝いを申し出たが、彼女は「お客さんは座っていてください」と微笑むばかりだった。
「たっだいまー!」
そこに再び入り口の扉を蹴り開けてソロェリが帰ってきた。彼女は出発の時とは打って変わって不機嫌そうな顔で歩いてくると、そのままどっかりと食卓に着いた。
「ったく……タルグンの親父、こっちの足下見やがって。あの子吞鯉が千五百フュロだって? ぼったくりもいいところだ! くそっ、どうせ西か東に数倍の値で売りつけるくせによ!」
ソロェリの腕が荒々しく食卓に叩きつけられる。そこに鍋を持ったルァミラがやって来た。
「こら、ソロちゃん、食卓に八つ当たりしちゃ駄目でしょう。お昼ご飯が出来たから、食器を出してお客さんの分も盛り付けてちょうだい」
「……あー、そうだな……。こりゃ、旨い飯でも食わなきゃやってらんないや」
ぶちぶちと愚痴をこぼしつつも、ソロェリは横の食器棚から人数分の深皿を取り出し、鍋の中身を均等によそっていった。魚の切り身と青野菜をふんだんに使った煮込み料理である。甘く豊かな香りがクルァシンとメリェの食欲をそそった。
「んじゃま、リォデの恵みに感謝して」
「ええ、いただきましょう」
言うが早いか、ソロェリは匙を手にとって勢いよく料理を口に運び始めた。その見事な食べっぷりに感心しつつ、他の三人も食事を開始する。平原の遊牧生活では手に入りようもない新鮮な野菜と魚が惜しみなく使われ、それらの滋味が溶け出した芳醇な出汁を口に含むと、クルァシンとメリェは幸福一杯の溜め息をついていた。
「ところで有角種の兄さん。あんたは何の買い付けに来たの?」
早くも自分の分のおかわりをよそいながら、ソロェリは率直な言い回しで尋ねる。有角種がここに来るからには、何かの入用があってのことだろうと思っているのだ。クルァシンは適当に言い繕った。
「あー……遠乗りのついでに、この娘の晴れ着を買いにな」
「へぇ。じゃあ、そっちのお嬢さん、もうじきお嫁に行くのかい?」
クルァシンは深く考えずに頷いたが、その作り話はいささか本人のお気に召さなかった。むっと頰を膨らませたメリェは食卓の下で手を滑らせ、導神の脇腹を軽くつねった。
「……っ。まぁ、そういうわけだ。ヴマ・ズォやペィネ・ズォも回ったが、もうひとつ気に入るものがなく、気が付けばここまで来てしまっていた。なにしろ一生に一度のことだからな。可愛い従兄妹のためにも、妥協した適当なもので済ませてやりたくはない」
「そりゃそうだよね。……でも、そっか、あんたら従兄妹同士だったんだ。それもアリかな。顔の雰囲気が全然違うから、あたしゃてっきり年の離れた夫婦かと思ったんだけど」
それを聞いた途端、むくれていたメリェの顔がぱっと輝いた。一方の導神は極めて複雑な面持ちで視線を落とす。……その設定も事前に考えないではなかったが、仮に滞在先で夫婦として振舞うことになった場合、それを盾にしたメリェの暴走が予想されて恐ろしかったのだ。
「でも、それならミラに仕立てを任せてみたらどうだい? 腕はあたしが保証するよ」
ソロェリが食卓に身を乗り出して提案する。それを聞いたルァミラが匙を止めて、少し焦った様子で言葉を挟んだ。
「ちょっと、ソロちゃん、安請け合いしちゃダメじゃないの。有角種の晴れ着というからには、それなりに贅を凝らしたものじゃなきゃまずいでしょう? 私がいつも編んでいるのは普段着よ。生地や染料だって、そんなに高いものは扱ったことがないし……」
「大丈夫だって、ミラの仕立てた服は余所者にも評判がいいじゃないか。実際、市に出せば、いつも他の店より先に売り切れる。みんな言ってるよ、ミラの服は売り値が安いのに手抜きのない良心的な仕上がりだってね。確かな実績があるんだから、ここらでひとつ大きな仕事を受けてみてもいいじゃないか」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、でも……」
ルァミラが遠慮がちにクルァシンとメリェの表情を窺う。思いがけない話の展開に、クルァシンはしばらく黙考して、この状況を目的のために利用することを思いついた。
「……そうだな。このまま市を回り続けたところで気に入るものが見つかるとも思えんし、こうした状況になったのも何かの縁だろう。彼女に任せてみるのも良いと思うが、メリェ、お前はどう思う?」
「お兄様がそう思われるのなら、わたしも反対しません」
メリェも上手く話を合わせた。その返答にうむと頷いて、ソロェリとルァミラに向き直ると、導神は懐からずっしりと重い巾着袋を取り出した。
「ここに二万フュロある。全て使って構わんから、最高の晴れ着を仕立ててくれるか」

「……!? にっ、にっ、にににっ、二万フュロっ……!?」
ソロェリとルァミラが愕然とした面持ちで巾着袋を凝視する。相手の背後にロケィラ皇室の財力があることなど、もちろん彼女らには知る由もない。動揺する二人の少女を前に、クルァシンは畳み掛けるように続けた。
「もちろん、これは純粋な必要経費だ。出来上がった服を受け取る時には、また同じ額を報酬として支払おう。……その代わりと言っては何だが、我々がここに滞在する間の便宜を図ってもらえるとありがたい。情けない話だが、なるべく安宿で頼む。手持ちの金銭は大方そちらに支払うことになるからな」
目の前に押し出されてきた巾着袋を見て、ソロェリは危険物でもあるかのように身を引き、一方のルァミラは恐る恐るといった様子でそれに触ってみる。長い爪をもつ両手が、薄い革に包まれた大量の貨幣の、ずっしりとした感触を受け止めて──これまでの人生で感じたこともない重みを前に、彼女はほとんど反射的な動作で、受諾の頷きを返していたのだった。
早朝、けたたましい警告音が集落の中に鳴り響いた。セレィの伴ってきた兵らが泡を食って馬に跨り、指揮官の指示による整然とした隊列を組んで、勇ましく平原へ駆け出していく。
(──始めたか、サーリャ)
自らも飛び出していきたい衝動を辛うじて抑えながら、セレィは幕屋の中でまんじりともせず外の状況を想像していた。その念頭にあるのは、先だって『聴士』の少女と話し合った、〝神狩り部隊〟の襲撃に対処するための作戦の詳細だ。
「──まず、わざと敵を集落に近付かせる。でも、それは半径800ルハ前後の地点まで。そこまで敵が至ったのを感じたら、私がすぐに警告音を鳴らす。その中に方向を指示する簡単な信号も含めるから、兵たちには即座に、だけど、なるべく敵から慌てて見えるように出撃させて」
サーリャの提案した作戦は、概要を聞いただけでは意図を把握しかねるものだった。が、その効果についての説明が捕足されるにつれて、徐々にセレィにも彼女の目論んでいることが分かってきた。
「こちらに気付かれたことが分かれば、もちろん敵は撤退する。追っ手を振り切ってから、慎重に体勢を立て直して、彼らはもう一度潜入を試みてくるはず。これを二、三日は繰り返す。兵を出すのは常に敵が半径800ルハ前後まで近付いた時。……これによって、敵の側に、それが私の能力の限界だと思い込ませる」
「……なるほど。半径800ルハ──この距離までなら気付かれないという、敵の思い込みを誘うのだな」
小高い櫓の中、傍目には何気ない風を装って、ふたりは密談を交わす。サーリャはこくりと頷いて話を続けた。
「……敵には未知数の部分が多い。そんな相手を安全に捕らえるためには、こちらも入念な段取りを踏む必要がある。これはその第一段階」
「承知した。……して、見事奴らを騙しおおせたとして、その後の段取りは?」
「それは相手の対応によって微妙に変わってくる。……とにかく、今は兵たちのところに行って、絶対に深追いはしないように言い含めて。追っ手は出しても、それで敵を捕捉する必要はない。むしろ800ルハを越えたところで、敵を見失って戻ってくるのが彼らの仕事。なるべく整然と隊列を組ませて、ばらばらに散っての捜索は絶対にさせないで」
(クェッタを連れてきたのは正解だった。地味ながらも堅実な用兵が、しかも持続的に必要とされる作戦だが、彼の指揮する隊なら、それもやり遂げてくれるだろう)
ナバザ砦の攻略以来、表に裏に役立ってくれる優秀な副官の顔を思い描いて、セレィはわずかな不安すらも払拭されていくのを感じた。──大軍を伴わず異境にあり、最大の頼りである導神さえ不在の現状ではあったが、幸いにも彼女は自分の陣営に不足を感じてはいなかった。
「──あー、ゼル先輩。残念ッスけど、また気付かれちゃったみたいッス」
「むぅ、今度は風下から慎重に攻めてみたんだがな。……仕方ない、撤退だ」
警告音が遠く鳴り響き、集落の中から整然と隊列を組んだ騎馬兵たちが駆け出して来た。その様子を遠見筒で確認すると、ゼルたちはすぐさま身を翻そうとしたが、いい加減苛立ちも募ってか、ギロひとりが駄々を捏ねた。
「おいおい、またかよー。……なぁ、たまには出てきた連中をこっちから蹴散らすってのは?」
「いつもながら呆れるねぇ。……ギロ、きみは自分が神話の英雄にでもなったつもりかい?〝神狩り部隊〟の任務はあくまでも隠密行動が前提。最小のリスクで最大のリターンを目指すのがぼくらの義務であり矜持なんだ。ゼルもぼくもリガも寛容だから、きみの命知らずは個性として受け容れてあげているけどさ。そのせいで組全体を危険に晒すのは勘弁して欲しいね」
バズの諫言を渋々と受け容れて、ギロを含めた四人の隠密は舌打ち混じりに後退を開始する。無論、人の身で馬の足に追われる状況も、彼らにとっては何ら窮地たりえない。気配を消して平原の風に紛れれば、常人の感覚で彼らを捉えることは不可能になるからだ。
「ったく……。それにしても、『聴士』ってやつは予想以上に厄介だな。俺たちの技量じゃ誰一人、相手の耳を誤魔化せねぇとは」
安全地帯まで逃げ延びてくると、ギロは芝生を蹴りつけて忌々しげに言った。そこにバズが余裕のある口調で意見を挟む。
「精度に関してはギロの勘が当たったね。でも、範囲に関してはその限りでもないんじゃないかな? 向こうがこちらの接近に気付いて迎撃を出して来るのは、いつも集落から直線距離にして600M程度の地点。ルダ・ガイランの報告にあった情報よりも、最大索敵範囲にして400Mほど狭い」
「それは間違いなさそうっスね。騎馬隊の追撃も、600M地点を越えた辺りで諦めて引き返しますし。平原って地形がむしろマイナスに働いたのかも。音が散りすぎるとか」
リガもバズに賛同した。彼らの意見を把握したゼルは、しばし黙考してから口を開く。
「……何にしても、正攻法では攻め辛そうだな。『聴士』も不眠不休で働けるわけじゃないとはいえ、気付かれていないと思ってノコノコ忍んでいったら、それが罠だったということも有り得る。懐に誘い込まれてから兵どもに包囲されるのは、いくら俺たちでも少々厄介だ」
「もういっそ現代兵器使っちゃわねぇ? 光学迷彩でも消音装置でも、いっそ遠距離狙撃って手もあると思うぜ。女皇の首さえ取ればこっちの目的は果たせるわけだし」
「それはコストまで視野に入れての意見か? 現実的な話、消音装置を継続して稼動させられるのは二分が限界だぞ。全速力で駆け抜けるならともかく、身を潜めながら慎重に進むには、600Mという距離はちょっと長すぎる。光学迷彩を併用するにしても、その場合は両方の限界稼働時間が半分以下になってしまう」
「ゼルの言うとおりだね。まして遠距離狙撃なんて論外さ。『意味性の崩壊』のせいで有効射程が極端に下がるから、必中を期すには、最低でも目標から100Mの距離まで近付かなきゃならない。それじゃ本末転倒だよ。ぶっつけ本番で射撃地点が都合よく見つかるとも思えない。……ま、前任の誰かさんは、その辺りも全部承知した上で狙撃を強行したそうだけど。しかも本命の一撃に繫ぐための見せ球として」
「四番隊の真似事をしたところで何も始まらないッスよ。二番隊には二番隊の流儀がある。功を焦って博打に急がず、ちゃんと話し合って慎重で確実な方針を採りましょう。所詮は先住民の警備体制、冷静になればいくらでも隙は見出せますって」
「ああ、リガの言うとおりだ。ここは焦らずに機会を待とう。いくつか条件さえ揃えば、俺にも考えが無いでもない。……ただ、可能ならば、敵MPが戻る前に決着をつけたいところではあるがな」
そう呟くと、ゼルは左腕に巻かれた腕時計のようなものを見やる。今は何の数値も示さず沈黙しているが、それは『意味性計測器』と呼ばれる発展界の機器であった。微細な『意味性の崩壊』の波動を感知・表示することによって、周辺にMPが存在するかどうかを見極める材料になる。他のどんな装備にも勝って、〝神狩り部隊〟の隊員にとっては必須の道具と言えよう。
「安易な強攻策には出ない。が、600Mの境界線を頻繁に出入りして、せいぜい相手を疲れさせてやることにしよう。どこかで隙が生じればこちらのものだ。たとえ針の穴ほどの隙であっても、それを確実に通してみせるのが、俺たち〝神狩り部隊〟なんだからな」
互いに頷き合うと、四人の姿は再び平原に吹きすさぶ風の中に紛れた。……互いに間合いを保った状態から、まずは牽制打の応酬にも似た精神の削り合い。〝神狩り部隊〟とサーリャの駆け引きは、まだ序盤戦が始まったばかりである。