神代、混代、人代の三時代から構成されるエナ・ガゼの歴史にあって、混代の前半、盲民族の祖であるメルキェーナは、自らの両眼を潰したクロトァらへの復讐を終えた。が、西栄地域に住み着いた兄神たちの不興を買って、結局は彼もアヌビシアの森林に追いやられてしまう。
以来、東方と中陸を隔てる分厚い壁として機能していたアヌビシアだが、混代から人代に至るまでの長い歴史の中で、その壁を通過していった者たちも少なからずあった。豊かな西栄地域を独占して住み着いた兄神たちが、今度は中陸地域に食指を動かしたと見るや、恨みを忘れていなかったメルキェーナは彼らに間接的な復讐を試みたのである。彼は東方の民をあえて中陸に通してやり、西からやって来る兄神たちの民と衝突させ、大陸の中央で覇権を競わせた。その間、東方からは有翼種を除く全ての民族が、断続的に中陸地域へと流入していった。
かくして現在、中陸の情勢は少々込み入ったものとなっている。まず、中陸の東域に広がるトルキォストルの大平原には主として有角種が住まい、国号としてもトルキォストルを称している。そこに隣り合うペィネ・ズォ、ヴマ・ズォ、ジュド・ズォの三国には有角種、牙種、長爪種が混合して暮らしており、ここまでが中陸有角種の勢力圏と言える。さらに西へと進むと、大陸最大の湖であるリォデ湖を挟んだ上下の国々──バスコスとニレフリクには、やはり牙種と長爪種が住んでいるのだが、この二国は西栄地域から進出してきた国家とトルキォストルとの間の緩衝地帯でもあり、東西から圧力を受け続ける曖昧かつ剣吞な立場にある。そして、もう少しだけ西へ進んだ所に中陸最後の国がある。それこそが西栄より伸び来たりて、東方から流入してきた諸民族と鎬を削り続ける大国──ヴァルハ・セドレである。
「──と、概要はそんなところか。言葉にすると長いが、大事なのはただ一点。今現在、中陸の東半分は我らの支配下にあるということだ。……ささ、もっと飲まれよ、飲まれよ!」
幕屋の中は賑わいに満ちていた。床には長爪種の手による華麗な刺繡を施された絨毯が敷き詰められ、人々は所狭しと並べられた肉料理や果物の皿を中央に囲んで談笑している。幕屋自体は遊牧民らしい移動式の簡素な作りだが、内部の空間は百人をゆうに容れるほど広く、複雑な意匠の縫い込まれた色とりどりの壁布が、地壁の殺風景さを打ち消している。
「い、痛み入る、セン=グォン殿。……しかし、これは実によく出来た乳酒だ。酒精こそ強くないが、口当たりがよく、知らず量を過ごしてしまいそうになる」
族長の手から何度目とも知れぬ酌を受け、セレィはかすかに赤らんだ顔で礼を言った。入り口の対角線上にある最上座の位置には族長が着座し、セレィ、クルァシン、メリェの三人は、その隣で客人として迎えられている。
「それは良かった。発酵の具合が程良い時期のものを選りすぐって来ましたからな。これより若ければ乳臭さが抜けぬし、古いと口当たりが硬くなってしまう」
「うむ。私が故郷で飲んでいたものより味が濃く、何よりもこの野趣溢れる香気が素晴らしい」
同民族ならではの気安さで言葉を交わすセレィと族長を横目にしつつ、クルァシンはふと、隣でちびちびと乳酒を舐めている侍女に耳元で囁いた。
「……メリェ、しばらくセレィを見ていてくれ。俺は少し他を回ってくる」
少女が頷きで返したのを確かめると、導神は物音一つ立てずに席を立ち、誰に気付かれることもなく幕屋を出て行った。騒がしくも和やかな酒宴であったが、彼には今少し他に気がかりがあったのだ。
幕屋の外はすっかり暗くなっていた。遠くアヌビシア側の地平線に沈んでいった太陽が、わずかな紫色を空の端に残しているだけである。が、ひとたび地上に眼を戻すと、トルキォストルの大平原にはクルァシンが出てきたものを始めとして五十を越える幕屋が並び立ち、その大部分からは布越しの灯りと酒宴の喧騒が漏れ出ている。セン=グォンの一族を挙げた、それがセレィらへの歓迎であった。
「気前の良いことだな。備蓄に大きな余裕があるわけでもなかろうに……」
クルァシンは呆れ混じりに微笑んだ。とはいえ、同胞との数百年ぶりの再会という慶事に、彼らが委細を忘れて浮き足立ってしまう気持ちは彼にも理解できる。宴は夜空が白むまで続くだろう。導神らが伴ってきた三百余りの有角の兵たちにとっては幸運な出来事に違いない。
「……が、やはり、その輪から外れる者もいるようだな」
見覚えのある姿を遠目に捉えると、導神は早足に歩み寄り、その肩に軽く手を置いた。
「わわっ……!? あっ、ど、導神さま……?」
「ぽつねんと独りでいるのが見えたのでな。今夜は見張りの任は無いはずだが、どうかしたのか、コリォ」
「ああ、ええと、その……いえ、特別に何かがあったわけではないのですが」
背中の両翼を萎ませて、コリォは言い淀む。その心情を推し量って、クルァシンは言った。
「やはりお前も、あの席には居辛いか」
「……あ……。その、導神さま、も?」
クルァシンは苦笑した。よくよく辺りを見渡せば、幕屋と幕屋の間にぽつぽつと、目の前のコリォと同じように所在無さげな有翼種の兵たちの姿が見受けられるのだ。導神には彼らの気持ちがよく分かった。
楽しげに飲み騒ぐ有角種たちの陰影がぼんやりと浮かび上がる幕屋を背中にして、クルァシンは草原にどっかと胡坐をかいて座り込んだ。
「さすがに、な。アヌビシアの時のように、のっけから露骨な不信と敵意を向けられるのであれば、こちらにも開き直りようがあるのだが……。生憎と今夜に関しては──つまり、東方と中陸の有角種の歴史的な再会という大事件の中にあっては──俺は無粋な雑音でしかない。であれば気を利かせて席も立とうというものさ」
コリォは軽い驚きを込めて導神を見下ろした。が、その体勢が不遜とでも思ったのか、彼女は少しだけ戸惑った後、クルァシンに視線を合わせるようにして草原に腰を下ろした。
「……姉さ……女皇陛下は、宴を楽しんでおられましたか?」
「まぁな。酒杯を断れずに往生していたが」
それを聴いたコリォは表情を暗く沈ませ、恐る恐るという様子で、さらに問いを重ねた。
「……導神さまは、前々から知っておられたのですか? その……中陸の半分が、すでに有角種によって支配されていることを」
「もちろん知っていた。セレィと面識を持つ前に、ゴルォグンナ大陸はあらかた巡ったからな」
「では、導神さまが姉さまを選んだのは──」
思わず口から出かけた自分の考えを、コリォは寸前で慌てて喉の奥に押し戻した。が、その胸の内すら余すところなく汲み取って、クルァシンはきっぱりと首を横に振った。
「それは勘繰り過ぎだ。俺が盟友としてセレィを選んだことに、その事実は関係がない」
「え……?」
「混血という稀有な生い立ちと、そこから育まれたセレィの人格に、俺は未来に繫がる可能性を見た。勢力範囲や保有する領土の大きさで選ぶくらいなら、始めからトルキォストルの大首長に話を付けているとは思わないか?」
導神の言葉に、コリォは膝を抱えて自分の浅慮さを恥じ入った。だが、クルァシンは続く言葉で彼女を励ました。
「安心しろ、コリォ。いくら中陸の有角種と交友を深めようとも、あいつは自分の背中にある両翼を忘れたりはしない。──それが、俺の信じたセレィ・メル・ロケィラだ」
途端、コリォの頰にさっと朱が差した。浅はかな疑念も、子供じみた不安も、何もかも見抜かれていたのだと──それを察したばかりに、彼女は羞恥で死にそうになった。
「気にするな。お前の素直さは多くの局面で美徳だ。……どうにも俺の周りには、一筋縄ではいかない女ばかり増える一方でな。お前の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいではある」
からからと笑いつつ、導神はコリォの頭を片手で軽く撫でた。それも子供の扱いだとコリォは思ったが、大きな掌に撫でられる気持ちよさが勝って、結局最後にはどうでも良くなった。そうやって機嫌を直してしまう辺り、やはり彼女はまだ少し子供なのだった。
(しかし、油断は出来ない。この展開、セレィにとって吉と出るか、それとも……?)
いかな深慮遠謀をもってしても未来は闇の中にある。今の導神にはなぜか、暖かな光に満ちた幕屋の中よりも、それとは対照的な暗闇の大平原にこそ、次の運命が待っている気がしてならないのだった。
翌日の午後遅く、セレィらはセン=グォンの一族から中陸の案内役を借り受け、大平原の中心部へと向けて再び出発した。族長は別れを惜しんで滞在を引き伸ばすようセレィに勧めたが、彼女は自分が引き連れた四百余りの兵たちの食い扶持を考慮し、長逗留の負担としては余りに重すぎると、先方の事情を気遣って勧めを断ったのだった。
「……仕方あるまい。あのまま我らが留まっていれば、おそらく毎日のように祝いの宴が開かれ、三日も経つ頃には一族の備蓄が空になっていただろう。彼らの好意に甘えては、この恩を仇で返すことになってしまう」
溜め息混じりに漏らしつつ、幸先のいい追い風が背中を押す平原の只中、セレィは隊列の先頭で愛馬に跨り手綱を取っていた。その傍らを生身の二本足で駆けながら、息一つ乱さずにクルァシンが応じる。
「確かに、あれは受けていて空恐ろしくなるほどの歓迎だったな。昨夜の宴だけで、一体どれほどの家畜をつぶしたことか」
「それを愚かと笑ってくれるな。見たところ、彼らは我々──つまり半農半畜化した東方の有角種と比べて、より純粋な形で遊牧騎馬民族としての性質を残しているようだ。文字を持たず、歌と踊りを愛し、一所に長く留まることがない。……ゆえに彼らにとって、全ての出会いは等しく一期一会なのだ」
セレィの瞳に深い親愛と理解の色を見取って、クルァシンは複雑な感慨に眼を眇めた。……先だってのアヌビシア攻略で、それと同じ表情を彼女が盲民族に対して見せるまでに費やした苦労を思うのなら、その手間がない分だけ、今回の状況は幸運と言えるのかもしれない。だが、たった今セレィが何気なく使った「我々」という単語に──正確にはその意味の狭さに、導神は小さな不吉の兆しを見て取った。
「……セレィ。背中の両翼は、やはり馬で走る時には邪魔か?」
「? 何を唐突に。伸ばせば無用に風をはらんでしまうが、それ、こうして畳んでいれば何の不自由もないぞ」
その言葉通り、セレィの背中では小ぶりな両翼が肩身狭そうに縮こまっていった。大地色の装束にも、重ね着た白銀の胸甲にも、翼を自由にするための穴が設えられているため、それらは彼女が皇子を称していた時期のような惨い扱いを受けてはいない。だが、額の中心から屹然と聳える一角に比べては、その存在感の乏しさも否めなかった。
ふむ、と鼻を鳴らして会話を打ち切り、導神は無言の疾走を再開する。
「……何にでも適材適所はある。だが、その言葉だけで凌ぐには、トルキォストルの大平原は有翼種にとって広すぎるかもしれんな……」
口の中だけで呟きつつ、クルァシンはちらりと隊列の後方を窺う。活き活きとした精悍な顔つきで馬を駆る有角種たちと、どこか覇気のない面持ちで彼らに追いすがる有翼種たちの対照が、ひどく強い印象をもって導神の瞳に焼きついた。
平原をひた走る旅が一週間を越えた頃、案内役を買って出てくれた中陸有角種の青年が明るい声を上げた。中陸の半ばを支配する遊牧騎馬民族国家トルキォストルの頂点、大首長の率いる集団が、すでにそう遠くない位置にいるはずだと言うのだ。
目の上に掌で傘をして辺りを見回しながら、青年はセレィに話しかける。
「家畜に草を食ませながら移動していますから、そうそう正確な位置までは分かりません。さしあたり、この辺りをぐるりと一周してみますか?」
「いや、そういうことなら、こっちにはうってつけの人材がいる」
馬の足を止めて隊列の後方を振り返ったところで、セレィはふと訝しげに眼を細めた。──二頭の馬によって走る小型の馬車から、見覚えのある二人の少女が降りてきている。一方は体調でも優れないのか、もうひとりによって肩を支えられながら、おぼつかない足取りでセレィの所まで寄って来るところだった。有角種の侍女メリェと、盲種の『聴士』サーリャである。
「お前たち、どうした? サーリャについては、たった今呼ぼうとしたところではあるが……」
セレィにそう問われても、メリェは困惑した面持ちでサーリャの背中をさするばかり。よほど気分が悪いのか、片手で胸を押さえながら、青ざめた顔で『聴士』の少女は言う。
「……予想していなかった状況だけれど、緊急性ありと、判断した。だから、口頭で直接、報告する……」
「……ふむ? 事前に定めておいた音の信号では伝えることの出来ない、敵襲以外の緊急事態ということか。しかしサーリャ、何よりもまず、そなた自身の容態が思わしくないようだが」
「私のことは、いい。──それよりも、聞いて。西に二半里先、大型の素早い獣の群れが、それよりも小さな動物の大群……たぶん放牧中の万途羊……に襲いかかろうとしている。馬に乗った羊飼いもひとり近くにいる……でも、二十七頭の獣が相手では、多勢に無勢」
聴力の及ぶ範囲の出来事を網羅する『聴士』の能力を知らず、そのために眼をぱちくりする案内役の青年をよそに、セレィとクルァシンは瞬時に状況を理解した。
「クルァシン、そなたは──」
「分かっている。先に行くぞ!」
阿吽の呼吸で意思疎通を済ませ、馬に勝る足を持つ導神はすぐさま全速力で駆け出した。彼の背中が遠ざかる前に、セレィも兵たちに号令をかけて、蹄の音も高らかにその後を追うのだった。
トルキォストルの大平原に生息する大型の肉食獣はそう多くなく、種類を数えても五指に満たない。その中でも掠畜獣は性質の悪さで代表格を張っており、中陸に住まう諸民族からは蛇蝎のごとく忌み嫌われている。
その最大の理由に、この獣が捕食対象としてほぼ必ず家畜を狙うという点がある。彼らは常に二十~三十頭程度の群れで行動し、放牧中の万途羊の大群を狙う際には、野生の獣とは思えぬほど狡猾な役割分担で狩りを行うのだ。一部は羊の群れに突っ込んで全体の統率を乱し、一部は羊飼いを取り囲んで牽制し、残りは恐慌状態で逃げ惑い孤立した羊に集団で襲い掛かる。万途羊は地球の羊よりも遙かに身軽で敏捷だが、掠畜獣たちの連携にかかっては、高い確率で群れから数十匹もの犠牲を出す。
掠畜獣は六足獣であり、その姿形は地球のどんな動物にも似ていないが、強いて言うのなら蟷螂と狼の合成獣とでも表現するのが印象としては近しい。腿の筋肉が著しく発達した後ろ足と中足は主に疾走のために用いられ、鋭い爪が鎌のように伸びる前足は、牙以上の武器として獲物を襲う際に使われる。また、顔面には進化途上の複眼が二つあり、大小様々な数十の眼胞が角膜の中にびっしりと並んでいる。
「……ヴズォォオッ! ズオォォォッ──!」
平原をひた走る先頭の一頭から濁った咆哮が迸った。大群で草を食む万途羊たちの姿を複眼で捉えたのである。途端、掠畜獣の群れは一気に散開して前述の連携作戦を始めた。捕食者の気配を察した羊たちも逃げの体勢に入るが、数が多い分だけ全体の意思統一には時間がかかる。重大な被害なく群れが逃げおおせるには、もはや明らかに時を逸していた。
「ヴオオオオッ! ズオ、ヴォ、ヴォォッ……?」
この狩りは成る。確信に胸を滾らせて疾走する掠畜獣たちだったが、直後、その尖兵がわずかに動揺した。全体の方向転換に手間取っている羊どもを守るように、馬に跨ったひとりの男が捕食者の群れの前に単独で立ち塞がったからだ。数の差を鑑みぬ暴挙である。まともな羊飼いの取る行動ではない──経験則に反する相手の動きに彼らが訝しさを覚えた瞬間、鋭い風切音が獣たちの耳朶を打ち、群れの先頭を走っていた掠畜獣の首が胴体から跳ね飛んだ。
「──ッ!? ズオオオォォォッ!?」
傷口から噴水のように迸った仲間の血を全身に浴びて、後続の一頭が驚愕の呻きを漏らす。首を飛ばされた個体は、自分の状態に気付いていないかのようにしばらく走り続けたが、やがて糸が切れたように前のめりになって地面へと倒れ伏した。
先頭を走る若い一頭が即死し、捕食者たちの群れは少なからず動揺したが、仲間の死に様は彼らにとって忌々しくも既知のものであった。見れば、彼らが複眼で捉えた視界の中では、あの羊飼いの男が馬上で長大な弓を構えている。そこから放たれた一矢──先端に刃状の鏃をもつ狩俣と呼ばれるその矢こそが、獣の首を一息に切り飛ばした中陸有角種に特有の武器である。
「──フゥッ!」
仲間の死の衝撃から彼らが復帰する前に、間を置かず二の矢が掠畜獣の群れを襲う。今度の狩俣は胴体部分から垂直に切り込んで獣の身体を二枚におろした。ついで飛来した三の矢は深い角度で抉りこみ、不運な一頭の六足を纏めて胴体から切り落としてしまった。
「ズオオオッ……! ヴズォォォッ、ズォォォゴォォォウ……!」
だが、その戦果は必ずしも羊飼いにとって幸運には働かなかった。射手には知る由もないが、三頭目に仕留めた個体は孕み腹の雌だったのだ。どんな獣にも肉親への情はある。足を落とされた雌の番の雄が、今まさに息絶えんとする妻の前で悲痛な鳴き声を上げ──それを聞き届けた全ての仲間は、仇への憤怒の激情を滾らせた。
「「「「「ズォォォオオオアアアアアアアアアアアアッッッ!」」」」」
獣たちは駆けた。もはや狩りの成否すら度外視し、ただ仲間の仇を討つために。獲物を駆り立てるための陣形は崩れて、残った二十四頭全てが一斉にひとりの相手へ襲い掛かる。一方、群れをほぼ丸ごと相手取る形になった羊飼いの男は、己が陥った窮地に焦るでもなく、むしろ愉しげに唇を吊り上げ、馬の側面に下げてあった己が得物を引き抜いた。
「おれが憎いか、畜生ども。この身体を八つ裂きにしたいか。はらわたを撒き散らしたいか」
男は頭上に両手で掲げるようにして得物を構えた。しかし、それは剣でも槍でもなく、十尺を越える長大な鉄の杵だった。両端には脱穀を円滑にするための無数の突起があり、重量の面からも機能の面からも、およそ獣と相対する際に用いるべき器物ではない。
「なら、試してやるぞ。──その憎悪、どこまで保つものか」
強靭な四足を活かして飛び掛かってきた一頭を、羊飼いの男が振るう鉄杵が迎え撃つ。柄の中央部から伸びた二本の握り棒を中心に男がそれを操ると、鈍重な外見からは考えられぬほどの速度で全体が回転し、斜めに打ち下ろす軌道で空中の掠畜獣の身体を捉えた。
骨が砕け、肉が爆ぜた。それは殴ったというよりも挽いたのに近かった。地面にめり込んだ鉄杵の先端を男が引き上げると、ぐちゃりと音を立てて血の糸が引き、そこにもはや亡骸と呼べるものはない。……哀れな獣は屍を晒すことも許されず、生物から一足飛びに挽き肉へと成り果てたのだ。
「ウオオォォォォォオオン!」
一帯の大気を揺すぶるほどの声量で吼え猛りながら、男は襲い来る獣どもを片っ端から蹴散らす。ひとつ鉄杵が振り下ろされるごとに、亡骸ではなく挽き肉が増えていったが、それも七つ目を数えたところで中断した。──男が敗れたからではない。襲いかかる獣たちの方が、憎しみに勝る恐れの感情を、目の前の相手に対して抱いてしまったからだ。
「ここまでだ、畜生ども。──おまえたちの憎悪よりも、おれの恐怖の方が強い」
六足をがたがたと震わせて獣たちが怯えている。その有様を一通り眺め回してから、連中の中に一頭の例外もないことを見て取ると、男はつまらなさげに馬を一歩進めた。──それが最後の一押しだった。恐怖が飽和し、集団を律していた全てが崩れ去って、掠畜獣たちは散り散りに大平原を逃げ去っていった。
「これは……」
足下に転がる数多の屍──というよりは地面にめり込んだ無数の肉片を眺め下ろして、導神はその場で疾走を止めた。そして、血生臭い地面から徐々に視線を移し、馬に跨って悠然とそこに在る、巨軀の男の姿を視界に捉える。その面貌の細部に至るまで視認できる距離で。
「──妙だな。この平原を自前の足で駆けるのは、虫けらと獣だけだったはずだが」
焦茶色の瞳がじろりと導神を見下ろす。その視線と怯むことなく向かい合えるのも、クルァシンが多くの修羅場を越えてきた神の身であればこそ。外見から惹起される畏怖の感情だけでも万民を従わせるに足るだろうと思わせてしまうほど、その男の風格は圧倒的だった。
まず体軀が規格外に巨きい。乗っている馬と比較すれば普通に見えるのだが、それは馬の方も平均よりずっと大きいからであって、男の身長は少なく見積もっても六尺半を下らない。黒の下穿きを穿いた上に大地色の長着を纏い、さらにその上から眼にも鮮やかな緋色の毛皮を羽織っている。野生的に整った顔面にはいくつか大きな傷が刻まれており、とりわけ右の頰から額にかけての切り傷は強烈な存在感を放つ。有角種の証たる一角は、セレィに比べれば若干短いものの、均整の取れた三角錐形が見る者に潔い印象を与えた。
互いに交流の端緒を摑みかねて、上と下から両者が睨み合っているところに、同盟軍の兵たちを率いたセレィが追いついてきた。ついで、彼女は半ばまで地面に埋まった掠畜獣らの成れの果てに驚き、隣のクルァシンに小声で尋ねる。
「……クルァシン、これはそなたが?」
「たとえ獣を倒しても、俺はこんなところで挽き肉にはしない。……あの得物を見てみろ」
導神が視線で示す方向には、男の跨った馬の側面に下げられた長大な鉄杵がある。両端に無数の突起を備えた脱穀器さながらの凶器は、今なお生々しく匂い立つような鮮血を滴らせていた。
「……いささか血腥くはあるが、見事な御手前だ。単騎でこれほどの戦果を上げるとは、さぞかし名のある武人と御見受けする。──いや、失礼した、こちらから先に名乗ろう。私の名はセレィ・メル・ロケィラ。東方有角種の女皇にして、ロケィラ・オルワナ・アヌビシア三国同盟の盟主を務める者だ。もし良ければ、そなたの名前を聞かせてもらっても構わないだろうか、偉大なる有角の戦士よ」
礼を尽くして尋ねたセレィの態度と、その口にする内容に、さしもの男も眼を瞠って彼女に視線を移した。彼は数秒だけ思案にふけると、硬い表情のまま、おもむろに口を開いた。
「凜々しき有角の女よ。おれの聞き間違いでなければ、おまえは今、東方の地──我らが古の故郷より来たと言ったのか。それが本当であれば甚だ嬉しい。だが、噓であればひどく悲しい。おれが笑うべきか泣くべきか、おまえにはそれを決めることができるのか」
男の言葉を聞き、これは自分が場を取り持つべきかと考えた案内役の青年が、馬上から小声で女皇に耳打ちする。しかしセレィはやんわりと首を振ってそれを断ると、手綱を引いて馬を歩かせ、男の方に向かってゆっくりと進んでいった。
「なら、感じてくれ。──私はそなたに、笑って欲しいと思っている」
距離が近付くにつれて両者の一角が共鳴し、小舟が岸に着くように、ふたつの心が柔らかに触れ合った。セレィの微笑みが一角を渡って移り住み、男の口元も次第に緩んでいく。──ふたりの有角種が互いの信頼を望むとき、その関係にはどのような虚偽も挟みようがない。男は満足げに頷いて口を開いた。
「……どうやら悲しむ必要はないようだ。よって喜んで名乗りを返そう。──おれの名はヘィロン・ザカ・トルキォスタ。トルキォストルの大平原に生きる全ての有角種たちの長にして、二百七十の諸族を頂点で統べる大首長だ」
男が述べた身の上にも、セレィは少しも驚かず、穏やかな微笑みを浮かべたまま応えた。
「お会いできて光栄だ、ヘィロン殿。一目見た瞬間から、そなたの風格は王者のそれと確信していた。……だが、私の前ではもう少しだけ肩の力を抜くといい。我々の立場は驚くほど近いのだから」

セレィは言葉を飾らず忠告した。それを聞いた途端、ヘィロンははっと息を詰まらせると、持ち前の厳つい顔面をくしゃりと歪めて──意外なことにも、ほんの一瞬ではあったが、含羞むように優しく笑ったのだった。
純粋な遊牧騎馬民族として大平原に生きる中陸有角種は、その内部構造に二百七十の諸族を持つ。百から三百人程度の人員によって構成される彼らの家族は、それぞれの族長の下で緊密な身内の絆を有し、時には近隣の家族とも助け合いつつ、主に遊牧によって生計を立てている。
そして年に一度、全ての族長が一同に会して酒を酌み交わす機会があり、その際に広大な幕屋の中で最上座に座る人物こそが大首長である。これは中陸有角種の最高権力者を示す称号であると同時に、それを襲名した人間がその後の人生で名乗り続けなければならない名前でもある。かの人は個としての己を捨て、その喪失によって存在を更新し、新たな大首長として歴代の支配者に身を連ねるのだ。
「大首長が帰ったぞ! 客人をお連れだ!」
平原にずらりと立ち並ぶ五十棟以上の幕屋から、家長の帰還を見て取った人々がぞろぞろと姿を現す。当のヘィロンは二百匹もの万途羊とセレィらの集団を背後に引き連れて集落に入り、馬上で片手を上げて族員らの視線に応えた。
「東方の地から訪れた客人たちだ。おまえたち、手抜かりなくもてなせ」
「「「「「「「御心のままに!」」」」」」」
逡巡の暇もなく、集まった全員が声を揃えて即答し、その瞬間から慌しく宴の準備が始まった。幕屋を片付けに向かう者、食器を抱えて走る者、乳酒の蓄えを確認しに急ぐ者。ヘィロンの一声で沸騰した集落の空気を、セレィとクルァシンは驚きを隠さずに見つめた。
「夕刻までには席を整える。その前に、まずは客人らの馬を預かるぞ」
ヘィロンの手招きに応えて走ってきた十数人の有角種たちが、馬から降りたセレィらから手綱を預かり、こなれた手捌きでそれを引いて、数百頭の馬たちを次々と厩舎に連れて行く。その間、ヘィロンは放牧を終えた万途羊を柵の中に帰してやり、そこから一匹の若い雌を連れて戻ってきた。
「これぐらいしか歓迎の作法を知らんが」
ぶっきらぼうに言いつつ、ヘィロンは腰元の鞘から小刀を抜き放った。──万途羊は混代の時代から有角種が家畜として重宝してきた温厚で従順な動物だ。体格は地球の羊よりやや細身で、ふさふさとした長く柔らかい体毛を全身に蓄え、しなやかな四肢と黒目がちの両眼を備えている。その肉は食用として言うに及ばず、搾った乳は微量の酒精を含む乳酒として加工され、体毛から歯に至るまで余すところなく生活用品に利用されるため、農耕文化を持たない中陸有角種にとっては、馬と同じくらいに必要不可欠な獣と言えるだろう。
夕陽の光を不吉に照り返す白刃を前にしても、雌羊は何ら警戒する様子もなく、二つのつぶらな瞳は目前のヘィロンを通り過ぎて、セレィら見慣れない異邦人に向いている。飼い主が剃毛のために刃物を持ち出すのはままあることだからだ。
「──御霊を天に 身体を大地に」
祈りの言葉を囁くと、ヘィロンは小刀を持つのとは逆の手で雌羊の足を摑み、その身体をごろりと仰向けにした。それでも雌羊は警戒しない。「あれ、いつもは背中から剃るのにな」──その程度の不審ならば、そろそろ感じ始めた頃合だったかもしれない。
小刀の切っ先が音もなく雌羊の下腹部に入った。それは刺したというよりも隙間に入れたという感覚だった。ゆるく開いた傷口に、すかさずヘィロンの右手が潜り込み、そのまま迅速に体内を進んでいく。やがて指先が心臓の隣の大動脈に辿りつくと、彼はそれを五指で摑み取り、腕に力を込めて迷わず引き千切った。──びくん、と雌羊の身体が痙攣する。こと切れる瞬間には、末期の一鳴きさえもなかった。
「鮮やかなものだな。……この羊には、痛みを感じる間もなかっただろう」
屠殺から肉の解体へと、作業の行程が流れるように移っていく。その様子を尊敬の眼差しで見やって、セレィは感想を述べた。休まず両手を動かしながら、ヘィロンもそれに応じる。
「五歳の誕生日、初めて羊の世話を任された。まだ生まれたての赤ん坊だった。……今でもよく憶えている。小さく脆く、毛もろくに生え揃っていなくて、放っておけばすぐに死にそうだった。だから幼いなりに必死で育てた。草を食ませ、寝床の藁を取り替え、寒い日には毛布を被せて抱いて眠った。その甲斐あってか、大きく健康に育ってくれた」
ヘィロンは訥々と語る。その間も決して肉を切り分ける手は休めない。
「だが、おれが八歳を迎えた日──その羊を、自分の手で殺して、解体して、喰らった。親父がそうさせた。泣いて嫌がるおれに、親父は言ったものだ。『殺さねば肉は取れん。この事実から眼を逸らすな。お前が今日まで口にしてきた肉も、そうやって得られたものなのだ』と。おれには言い返しようがなかった」
「厳しい御父上だったのだな」
「おれが最初の羊を殺すときも、祈りの言葉と作業の手順だけを事前に教えられて、後は何の手助けもしてもらえなかった。当然のように手際良くはいかず、無用の苦しみを羊に与えてしまった。おれは辛かった。どうしても殺さねばならないのなら、せめて恐怖や痛みを感じさせたくなかった。……どうにかそれが出来るようになったのは、せいぜい三十匹目からだったが」
ものの五分と経たないうちに雌羊の亡骸は完全に解体され、地面に敷かれた己の毛皮の上に、鮮紅色の肉の山となってうず高く積み上げられていた。洗練された様式美を感じさせるヘィロンの手際を見て、導神が後ろからぽつりと質問を挟む。
「……そこまで徹底して、血を流さないように処理するのはなぜだ?」
「父神の大地を、不浄の血で穢してはならないからだ」
「その割には、あの掠畜獣どもは随分と乱暴に扱っていたようだが」
「異民族が知ったような口をきくな。あれは戦の血潮だ」
眼光鋭く導神を睨みつけ、ヘィロンは低い声で続けた。
「……我らの祖神ユルフィネクは、神代に末弟メルキェーナの両眼を損なってしまった際、父神ネルマファにひとつの誓いを立てている。二度と無用の血は流さぬ、とな。しかし、戦の中で流れ落ちる血潮だけは別だ。それは不浄の血ではなく、かえって我ら有角種の武勇を示す証拠となる。戦の血潮は、大地そのものとなられた父神への捧げ物なのだ」
ヘィロンの説明を最後まで聞くと、クルァシンは納得のいった様子で頷き、その場から慎ましく一歩身を引いた。それは単純に知的好奇心を満たしたせいではなく、先の対話、ともすれば反発を呼びかねないほど踏み込んだ問答を通して、相手の人間性を捉えたと思ったからだ。
「──大首長! 席の準備が整いました!」
ひときわ大きな幕屋から駆け出してきた男が報告する。それを聞いたヘィロンは頷きで返して、積み上げた肉を毛皮ごと慎重に持ち上げながら、セレィらに視線で手近の幕屋に入るよう促したのだった。
全ての席が埋まったのを見て取ると、ヘィロンは手で合図して幕屋の入り口を閉めさせる。そうして、大勢が沈黙を保ったままのしんとした空気の中で、ごく自然に口火を切った。
「まだ誰も杯を持つな。馬鹿騒ぎは後に回し、今は客人の話を聞くことにする」
すんなりと発言権を譲られたことに安堵しつつ、セレィは感謝を込めた目配せを隣のヘィロンに送った。すぐにでも本題を切り出したがっている彼女の思いを考慮しての采配だろう。その気遣いを汲んで、東方有角種の女皇は真摯な面持ちで話を始めた。
「いきなり話されても、到底信じられぬ話かもしれないが、どうか戯言と思わずに聞いて欲しい。──世界の存亡に関わる危機が、このエナ・ガゼに迫っている」
その切り出しに、中陸有角種たちからは何の反応もなかった──というよりは、できなかった。話の規模が大きすぎて、平常の認識範囲からの乖離が著しく、どう受けとめてよいものか判じかねたのだ。
「そこからの説明は一旦俺が代わろう。──お前たちの住まうこの世界とは別に、長い歴史と強大な武力を持った「発展界」と呼ばれる世界が存在する。かの界の民は他世界への侵略を生業としており、その一環としてエナ・ガゼに眼を付けてきた。今現在も、〝神狩り部隊〟と呼ばれる発展界の尖兵が、ゴルォグンナ大陸全土に世情不安を引き起こすべく暗躍している。このセレィもすでに二度、奴らの凶刃に斃れかけた」
導神の発言を保証するようにセレィが頷く。まだまだ困惑の色が濃い聴衆に向けて、女皇は持ち前のよく通る声で続けた。
「東方、中陸、西栄──三つの地域で二十五もの国々が乱立している有様では、とても侵略者たちの企みに対抗できない。世界の全てが一丸となって抗う態勢が必要になるのだ。そのために私は宿敵であったオルワナの有翼種たちと和解し、鎖国状態にあったアヌビシアの盲民族たちにも協力を取り付け、そなたらの住まうトルキォストルの大平原にまでやって来た。……その全ては、侵略者たちの猛威に屈することのない、盤石の世界同盟を組み上げるためだ」
幕屋の中にざわめきが満ち始めた。熱っぽい興奮を宿した無数の瞳が、セレィの一挙一動に対して凝然と向けられる。──大陸を東から西に駆け抜け、世界をひとつに纏め上げる。その大望は、かつて彼らが中陸地域に移り住んだ際に抱いた夢と、余りにもよく似ていたからだ。
「すでにロケィラ・オルワナ・アヌビシアの三国は同盟し、東方に残る二国──ダマカスカ、ギリェ・イゼンとも前向きな交渉を続けている。仮にそれが成功し、さらにそなたら中陸有角種が仲間に入ってくれるのであれば、すでにゴルォグンナ大陸の半分は協調したことになる。無論、分からないことがあれば何なりと訊いて欲しい。疑念や不信は当然のこととして、私たちは誠意をもってそれを晴らそう」
セレィの口にした内容は聴衆の有角種たちを沸かせていたが、意外にも、その中から率先して意見を口にしようとする者はいない。誰もが言いたいことや問い質したいことを我慢している風ではあるのだが──一向に寄せられない生の声に、セレィとクルァシンは怪訝に思って顔を見合わせた。
「許せ、セレィ。この席はおまえの知るような、政治の重鎮を集めての会合ではない。おれは中陸有角種を統べる大首長だが、平時は己の家族を取り仕切る一介の族長に過ぎず、こいつらもその族員でしかない。国と国の同盟などという大事について、堂々と意見を述べられる立場にはないのだ」
「なるほど、そうだったのか……。ここでの裁量を把握せず、いささか話の進め方を逸ったかもしれぬ。不躾であったのなら、どうか許して欲しい」
「いや、構わん。……さっきは平時の話をしたが、時が有事ともなれば、おれは大首長として号令を出すことになる。おまえの発言が事実であれば──すなわちエナ・ガゼ全体が別の世界から侵略を受けようとしているのなら、今が平時であろうはずもない」
セレィに向かって鷹揚に頷いて見せると、ついでヘィロンは自分の族員たちに視線を移し、威厳に満ちた声で告げた。
「そういうことだ、おまえたち。──今年の大集会はもう終わったが、大首長の名のもと、全ての族長たちを呼び集めた会合を再び開くことにする。何か問題はあるか?」
「「「「「「「御心のままに!」」」」」」」
「よし。ならば今すぐ諸族のもとへ連絡に走れ。分担は先の大集会の際と同じだ。次の四満月までに、二百七十人の族長たちを一人残らずここに連れて来い。一日の遅れも恥と思え」
大首長の命を受けて、多くの男たちが幕屋の外へ駆け出していく。それから数分もすると、慌しく旅の装備を整えた者から順に出発しているらしく、馬の嘶きと蹄の音が、がらりと空いた幕屋の中にまで響いてきた。望むべくもない展開の速さに、セレィとクルァシンは二人揃ってあっけに取られた面持ちでいたが、我に返った女皇が捕足する。
「じ、迅速な対応に感謝する。そこで提案なのだが、これを機会として、東方の諸国からも要人を呼んでも構わないだろうか? そちらには私の方から人を遣わせる。急げば次の四満月までには間に合うだろう」
「承知した。こちらとしても、顔合わせは早いほうがいい」
セレィの提案をふたつ返事で受け入れると、ヘィロンはぱんぱん、と両手を打ち鳴らした。
「──話は一区切りついた。空いた席に残りの客人を通せ。ここからは純粋な歓迎の宴だ」
会合を締めくくるヘィロンの言葉を合図にして、料理の皿が幕屋の中に運び込まれる。杯に乳酒がなみなみと注がれ、誰かが弦楽を奏で始めると、それに合わせて踊り子が舞い始める。──セン=グォンの集落でのそれに輪をかけて賑やかな、夜を徹しての宴が始まった。
平原の夜がとっぷりと更け、飲み騒いでいた人々の半数が酔い潰れた頃合になると、導神は例によって音を立てずに幕屋から出ていった。夜露にしっとりと濡れた草原を進んでいくと、集落から少し離れた辺りに、身支度を整えた有角の少女・メリェが待っている。
「すまん、待たせたな。忘れ物はないか?」
「ばっちりです、導神さま。いつでも出発できますよー」
膨らんだ背囊を後ろ手に示して、メリェは元気一杯に受け答えする。そうか、と頷いて身を屈めようとした導神だが、ふと自分たち以外の気配を背後に感じて振り向き、たった今出てきた集落の方向からやって来る二つの人影を認めた。
「……セレィと、それにサーリャか。話は通してあっただろう。見送りは要らんぞ」
「そう邪険にするな、導神どの。酔い覚ましに冷たい夜気は丁度よい。……それに、そなたの忍び足でさえサーリャの耳を誤魔化せんという事実が、なんだか可笑しかったのでな」
「む、確かに。……帰って来たら、次は本気で忍んでみることにしよう。隠形の実力でルダ・ガイランに劣ると思われては、俺の沽券に関わる」
いつもの軽口を応酬する両者に、少し躊躇ってから、サーリャが言葉を挟んだ。
「……どうしても、今、行かなくては駄目?」
その問いは予想外だったために、クルァシンは不思議そうな面持ちでサーリャを見た。
「前々から言ってあっただろう? 今後の趨勢を先読みするために、中陸の西側に位置する『三貴種』の国家──ヴァルハ・セドレの様子を見ておきたい。ここでトルキォストルとの同盟が成功しても、それを警戒した西側の諸国が、態度を徒に硬化させることを避けたいのでな」
「それは知っている。でも、あなた自身が向かわなくても、斥候を出せばいい」
「いくら早馬で駆けても、人の身では、ヴァルハ・セドレでの情報収集を済ませてから次の四満月までにここへ戻ってくることは難しい。それが可能なのは馬に勝る足をもつ俺だけだ。それに何より……ルダ・ガイランの負傷が癒えきらない今のうちでしか、俺がセレィの傍を離れられる機会はない」
クルァシンの言葉に、サーリャはぎゅっと唇を嚙み締めて項垂れた。それを言われてしまうと、もはや彼女には反論の仕様がない。一刀鬼という規格外の隠密を相手取って、『大央聴』の聴力は一度完全な敗北を喫したのだから。
「気を悪くするな、サーリャ。俺がこうして自由に動けるのも、セレィの身辺をお前が張ってくれている安心感があってこそだ。……たとえ〝神狩り部隊〟を相手にしても、お前の聴覚は充分に通用するものだと確信している。いかに発展界の兵器を駆使し、各々が抜きん出た隠密技能を有するとはいえ、あの連中も斬られれば血を流す生身の人間に過ぎない。セレィの身辺を守る兵たちにも、いざ敵として対峙した時、奴らに恐れず立ち向かえるよう万全の訓練を施したつもりでいる。サーリャ、お前もアヌビシアでの事件については一旦忘れろ。ルダ・ガイランのような怪物は、そうそう二人目が現れるものではない」

導神が言葉で信頼を示しても、サーリャは拳をきつく握り締めて押し黙っている。気遣ったメリェが傍に寄っていって頭を撫でるが、一向に曇った表情が晴れることはない。その様子を困り顔で眺めつつ、ふと導神は思い至った──彼女が今抱いている感情は、元『大央聴』としての自負を傷付けられた、その痛みだけではないのだろうと。
「何か……拭いきれない不安があるのか? 俺が今、ここを離れることに対して」
「……ない、とは言えない。でも、それでは具体的に何が不安なのかと言われると、私にもはっきりと言葉に出来ない……」
「曖昧でも構わない。とりあえず口にしてみてくれ」
クルァシンに促されると、サーリャは少し思案して、セレィに話を振った。
「……女皇陛下。中陸有角種の民族性と、ヘィロンという男の人柄について、あなたはどういう印象を受けたの?」
「……ふむ? それはもちろん、遊牧騎馬民族としての彼らの性格は、同じく有角種である私にも親しみ易いものだ。勇猛で義理堅く、人との出会いを一期一会と捉え、大地への畏敬を忘れない。他には、そうだな……美点ばかり並べ立てても誠実さに欠けるから、少々気になる点として……何事につけ気風が良いが、それが裏返った時の無責任さが予想されることだろうか」
ほう──と導神はセレィの冷静な洞察に感心した。数百年を隔てた民族の再会という事態に、何やかやと少しは浮き足立っているものかと思ったら、美点と欠点の両方を見透かす客観性をきちんと保っている。最初に会った瞬間から今に至るまでの著しい成長ぶりが窺えて、クルァシンにはますます、彼女の傍を一時離れることへの不安が薄れた。
「そう……。じゃあ、クルァシン、あなたは?」
「おおむねセレィと同じだが、そうだな……あのヘィロンについて些細なことを言うなら、セレィとの意気投合ぶりに比べて、俺にはあまり良い印象を抱いていないようだ」
「それについてはアヌビシアの時も同じであったな。ふむ、困ったものだ。どうやら我らの導きの神は、初対面の相手にはよほど胡散臭く映ると見える」
親しみのこもった女皇の皮肉に、クルァシンもまた苦笑で応じる。──実のところ、その問題については、当人たちも気付いていない微妙な男女の機微をサーリャは察していたが、それはある意味で言わぬが華であったし、何よりも彼女の不安の源泉はまた別だった。
「……女皇陛下。率直に言って、あなたはヘィロン・ザカ・トルキォスタと心を通わせられた?」
「無論だ。その事実があるからこそ、クルァシンが傍を離れることも受け入れられる。我々を歓迎するヘィロンの心に偽りはないし、同盟について前向きな姿勢でいることも確かだ。もちろん私がヘィロンに欺かれているということも有り得ない。この一角にかけて、絶対に」
女皇の発言は自信に満ちており、生半可な不安などでそれに異を唱えることは憚られた。問題を明確に出来ない自分に内心で忸怩たるものを感じながらも、サーリャはこれを潮時と見て、慎ましく一歩身を引く。
「……時間を取らせてしまった。ごめんなさい。今の話は忘れていい。あなたがここを離れている間、私は全力で務めを果たすことにする。どんな不測の事態が起こったとしても」
「頼もしい限りだ。……信頼しているぞ、サーリャ。他の兵たちと共に、セレィの助けになってやってくれ」
サーリャが静かに頷いて、衣服の随所を飾る装飾具がちりりぃん、と澄んだ和音を奏でる。それを送別の音色と受け取ると、クルァシンはその場で身を屈め、メリェの身体を背中に担ぎ、布を使ってなるべく楽な姿勢で固定した。
「では、しばしの別れだ。──ふたりとも、次の四満月まで息災でな」
「行ってきまーす! セレィ様、サーリャちゃん、お元気で!」
背負われた状態でぶんぶんと手を振るメリェの姿が、ひとたび導神が疾走を始めると、残像を残して遠く離れていく。セレィとサーリャが見送る中、仲睦まじい親子のような二人の姿は、あっという間に大平原の夜に溶けて消えていった。
ヘィロンの集落から遥か北に離れた地域。夏の盛りに申し訳程度の遊牧が行われる以外には、有角種たちの中にも顧みる者とてない中陸の辺境。そこにぽつりと、大地に落ちた赤い染みのように、一人用の小さな天幕が立っていた。
「……アレだな。どう見ても」
明らかな違和感のある光景を、遠目に窺う影が五つあった。体格はまちまちだが、どの人物も共通して、闇夜に溶けるような黒衣を着込んでいる。ふと──その内の一人が、自分の中の何かを抑えかねるように、うずうずと抱いた肩を震わせた。
「なぁ、ゼル。……なぁなぁなぁ! ちょっくら挨拶してきてもいいだろ?」
「やめておけ、ギロ。冗談の通じない相手だぞ」
隣の影が呆れたように諭す。そこに、さらに別の影が笑み混じりの声を挟んだ。
「ぷくくくっ……いや、ぼくは賛成だね。所属の隊が違うぼくたちでは、一刀鬼の実力を試せる機会なんてザラにはない。ここで最強のメッキが剝がれるにせよ、順当にギロの首が飛ぶにせよ、とっても面白い見物だと思うけど……リガ、きみはどうだい?」
「オレは反対っすね。皆で生きて帰りたい。ギロは馬鹿だけど、いちおう仲間だし」
「んだよ、固いなぁ。……えっと、ゼルとリガが反対、俺とバズが賛成で、今のところ二対二? んじゃ、瓶底さん、あんたの意見で決まりだな」
四つの影の視線が最後のひとりに集中する。しかし、当の本人は話を聴いていた風でもなく、ひたすら足下を見下ろして不満げに何事かを呟いていた。
「……つまんない……ここ、植生が単純すぎて面白くない……動物にもろくに会ってない……どうせなら東の森林地帯に行ってみたかった……」
「……おーい、瓶底さん、帰ってきてー」
リガが目の前で掌を上下させても、その人物はまったく反応を返さない。見かねたゼルが溜め息混じりに肩を叩いた。
「……ヨク。ちょっといいか、ヨク」
「……はぇっ!? ははは、はいっ! 何か御用でしょうか、班長さん!」
「いや、別に御用って程じゃないんだが。……今までの話、聞いてたか?」
「へっ? ……そ、それはもちろん。一字一句漏らさず聞いておりましたとも!」
「……そうか。じゃあ賛成? 反対?」
「賛成です! 全身全霊でポジティヴです! 諸手を挙げて支持させて頂きます!」
首をぶんぶんと上下に振ったせいでフードが滑り落ち、その中から、分厚い瓶底眼鏡をかけた化粧っ気のない女性の顔が月明かりの下に浮かび上がる。それを珍獣でも見るような眼で眺めつつ、ギロは気を取り直して口を開いた。
「と、とにかく、これで三対二だな。それじゃ、行ってくるぜ!」
「……仕方ないな。過ぎた真似はするなよ」
「待った。せっかくだし、ぼくからルールを提示しよう。天幕に触れて来られたら「可」、テントの中に入れたら「良」、本人に触れたら「優」。テントにも辿りつけなかったら、もちろん「不可」。これでどうだい?」
「おもしれぇじゃん、受けて立つぜ! ちなみに「優」と言わず「秀」を取るには──」
「おい、調子に乗るな、ギロ!」
ゼルの一喝が飛ぶ。その剣幕に、ほんの冗談さとばかりに薄笑いで返し、ギロはいよいよ本格的に息を殺して、問題の天幕に近付き始めた。
(静かな夜だな……。傷付いた身体を横たえて、さぞやぐっすりお休みだろうぜ)
夜風が草を揺らす音に紛れて、ギロの足音はすっかり分からなくなってしまっている。一歩、また一歩と、慎重かつ迅速に足を進めていくと、二十秒と経たないうちに、彼はすぐに天幕の目の前まで辿りついた。
(さて、まずはこれで「可」と……)
順調な展開に気を良くして、大した緊張もなくギロは天幕の手を伸ばす。が──彼の指先が布に触れようとした、まさにその瞬間だった。分厚い段平の切っ先が天幕の内側から突き出したのは。
「──、へ?」
ギロは咄嗟に飛び退くことさえ出来ぬまま、首筋に血の玉が浮くまで突きつけられた切っ先を見下ろした。さながら虫ピンで縫い止められた昆虫のようだった。もはや指一本動かせなくなっている自分の有様に、彼はただ愕然とするしかなかった。
「五秒で選べ。黙って死ぬか、名乗って死ぬか」
天幕の裂け目から漏れ出した低い声が問うた。そこに脅しの響きはない。端的な事実として、このままでは五秒後に死ぬと確信したギロは、形振り構わずに声を張り上げた。
「ヴェ──〝神狩り部隊〟二番隊所属のギロだ! 殺さないでくれ、あんたのお仲間だよ!」
必死の命乞いが功を奏してか、段平の切っ先が天幕の中に消える。情けなく尻餅を付いたギロの背中から非常事態を見取ったゼルたちが、慌てて天幕まで走り寄った。数秒の後、入り口の布を押し上げて出てきた姿は、六尺強の長身に赤く筋の入った黒衣を纏った、燻したように艶のない銀髪の男だった。
「増援の合流か」
黒衣を纏った五人の姿を視界に捉えて、ルダ・ガイランは重々しい声で質した。ゼルも、ギロも、バズも、リガも、ヨクも、咄嗟に答えを返すことが出来ない。ギロの悪ふざけに反応した殺気の名残が、五人の心境を断頭台に据えられた罪人のそれにしていたのだ。
「……ど、同僚が、失礼をしました。ご推察の通り、私たちが事前に予定されていた増援です。向かって右から順にバズ、リガ、ヨク……そこで尻餅を付いているのがギロ。私が班長のゼルです」
「何人かの顔は覚えている。全員が二番隊の所属か?」
はい、と素直に答えつつも、ゼルは背筋に冷たい汗が流れるのを止められなかった。ルダ・ガイランの質問には、暗に「なぜ己が単独で先遣している状況に、四番隊から増援を出さないのか」という疑念が含まれているからだ。
〝神狩り部隊〟は一番隊から四番隊までの計四隊で構成され、ルダ・ガイランは四番隊の隊長を務める立場にある。基本的にあらゆる工作技能を身につけている彼らではあるが、各々の隊ごとに微妙な方針の違いがあり、隊を跨いだ人員による組の構成は滅多に行われない。今回の人選は例外的であり、一刀鬼が疑問を覚えるのは当然だった。
「よ──四番隊からは既にイド殿がリタイアし、相棒のオド殿もしばらく復帰は見込めないとのことでしたから、司令部としては、あまり一つの隊に偏った欠員が生じることを避けたいのでしょう。第一位の実績を誇る四番隊であればこそ、その隊員には代えが利きませんから」
言いながら、弁解がましく聞こえないだろうかと、ゼルは生きた心地がしなかった。──〝神狩り部隊〟内部に入った不可視の亀裂。今回の増援が一刀鬼の生還を望まぬ人々による確信的な陰謀であると彼に悟られれば、もはや互いに「お仲間」ではいられないだろう。
「了解した。ならば、今後の方針について意見を聞こう」
今の説明でどこまで納得したものか、無骨な無表情からは一切の情動が読み取れない。ゼルは目隠し状態で爆弾を処理するような、不安すぎる心境のまま話を続けた。
「ル……ルダ・ガイラン殿の傷が癒えるまでは、我々五名が工作活動を続けます。さしあたりは敵性MP「クルァシン」と、奴に与する現地民たちの動向の監視。とりわけ角人の女皇については、警備体制に確実な隙を見取り次第、抹殺に移りたいと思いますが……」
ゼルは気まずそうに言い淀んだ。女皇セレィは当然としても、当のMPの方にまで、独断で手を出して良いものか迷ったのだ。最強の神殺しに手傷を負わせてのけるほどの相手ともなれば、いささか自分たちには荷が重いかもしれない、と。
「怖じるな。隙あらば首を狙え。例え力及ばずとも、攻めの姿勢を鈍らせるべきではない。その身をして〝神狩り部隊〟の一員であり続けたいのならば」
「は──はいっ!」
腹中に抱いた謀略のことも綺麗に忘れ去り、ゼルは反射的にぴんと背筋を伸ばして敬礼した。その返答を見届けて深く頷くと、ルダ・ガイランは身を翻して天幕の中に戻っていく。その様子はさながら、これから冬眠に入る熊か何かを思わせた。
「おそらく三ヶ月は要らんだろうが──己の体調が万全を期すまで、第一次征服施策の委細をお前たちに任せる。己とイド・オドが収集した情報を参考にして最善を尽くせ。状況が動けばその都度連絡を忘れるな。──以上、健闘を祈る」
天幕の中に消えていった背中に向けて、気が付けば、五人全員が心からの敬礼を返していた。数秒後、ようやく我に返ったゼルが、他の面々を促して早足にその場を去っていく。
「……マジで死ぬかと思ったぜ。あれで手負いかよ……」
「だから言ったんだ、冗談が通じる相手じゃないと。……最後まで止めなかった俺にも責任はある。が、ギロはもちろんとして、バズ、けしかけたお前も反省しろ」
「安心してくれ、これでも猛省しているよ。いやはや、おふざけ半分に嚙み付ける相手じゃなかったね。全員で不意を打ったところで、それでも殺れるかどうか……」
「よしましょうよ、まだ先の話でしょう。今は目の前の仕事に集中しないと。それに……いくら上からの指令でも、まだオレは身内殺しには納得してないス」
リガの愚痴を最後に会話が途切れる。そうして無言のまま並走すること数分、人数分の馬が停めてあった場所に辿りつくと、彼らは各々で鞍に跨って手綱を引いた。
「あのー、班長さん、ひとつ提案があるんですけど……」
「? なんだ、ヨク」
「私、単独で西に向かってもいいですか? この辺りは地形にも生態系にも変化が無さ過ぎて、環境調査員の私としては、これ以上腕の振るいようがないんです。せめて湖の辺りまで行ければ、色々と新しい要素が見つかると思うんですが……」
「いや、それは──」
許可できない、と口に出しかけたゼルが寸前で思いとどまる。赴任地での活動の原則に勝って、より現実的な打算が彼の頭をよぎっていた。
今回の増援の中でも、女性という点も含めて、ヨクは少々特殊な立場にある人物だ。彼女の役割はエナ・ガゼという世界に固有の環境を調査し、その結果をもって植民界政策の助けとすることであり、現地民たちの世情不安を誘発するべく尽力するゼルら工作員とは根本的な役割が違う。もちろん〝神狩り部隊〟の一員を名乗るくらいだから、格闘術を始めとした一通りの技能は身に付けているが、ゼルらと比べると数段練度に劣る。必然、戦闘を視野に入れた作戦には要員として組み入れ辛い。
(事実、これまでの任務でも、環境調査員は工作班から独立して少人数で動くことが多かった。……しかし、単独というのは前例がない。ルダ・ガイランのような達人ならまだしも、彼女に単独行動を取らせるのは、さすがにリスクが高すぎはしないか……)
ゼルは大いに悩んだ。ギロ・バズ・リガのうちの誰かとヨクを組ませることも考えたが、彼らが今回相手取らねばならないMPは、かの海神ポセイダオンを滅ぼしてのけたほどの強敵である。貴重な戦力の目減りは可能な限り避けたい──そのことを考慮に入れると、妥協点はひとつしか見当たらなかった。
「……わかった。前例はないが、今回だけは特別に許可する」
「えっ、本当に……!? 班長さん、ありがとうございますっ!」
「ただし、定期的に連絡は欠かすなよ。危険の気配を感じたらすぐにその場を離れろ。重い怪我を負った場合は無闇に動くな、必ずこちらから拾いに行く。それに、調査よりも何よりも……自分が生き延びることを最優先に考えるのを忘れるな」
ゼルの忠告に逐一こくこくと頷いて、それもどうやら全て終わったようだと見て取ると、ヨクは黒衣をはためかせて馬の身体を翻し、そのまま西の方角に向かって全速力で走り去っていった。その後ろ姿を心配そうな顔で見送るゼルに、バズが励ましの声をかける。
「正しい判断だと思うよ。ぼくらと一緒に行動するよりも、今は単独行動を許した方が、かえって彼女の身の安全を図りやすいさ」
「……だと良いけどな。俺たち工作員と比べて、彼女のような調査員の育成には五倍以上の費用がかかっている。多少どんくさく見えても、俺たちの中で一番命の値段が高いのは彼女なんだ。調査に夢中になり過ぎて、あまり無茶をしなければいいんだが……」
そう呟きつつ、しばらくの間ヨクの消えていった夜闇を見つめていたゼルだったが、やがて名残を振りきって馬の手綱を引いた。疾走を開始した彼の背中に、すぐさまギロ・バズ・リガの三人も追いすがる。かくして新たに投入された〝神狩り部隊〟の面々は、各々の任務を果たすべく目的の地に向かうのだった。
クルァシンが出発してから四日目の朝、ヘィロンはトルキォストルの属国であるヴマ・ズォからの使者らと謁見用の幕屋の中で向き合っていた。どっしりと椅子に座って構えた平原の覇者の風格に対して、長爪種と牙種の二人の男たちは分かりやすく縮こまっている。とても自分から話を切り出せたものではないと彼らが押し黙っているところに、それを察したヘィロンが声をかけた。
「……何の求めがあって来た。朝餉の前だ、手短に済ませろ」
「は、はぁっ! 大首長様の御予定も鑑みず、まことに申し訳ございません……!」
平身低頭して謝罪する使者たちだったが、彼らとて朝食前などという非常識な時間帯に面通りを願ったわけではなく、むしろ慎んで相手の身が空くまで待っているつもりだったのを、ヘィロン本人の求めから呼び出されたのである。セレィという賓客がいる以上、面倒事は早々に片付けておきたいという心理の表れであったが、使者たちにはそれを知る由もない。
「それでは、畏れながら我らの請願を切り出させて頂きます。……我々が農耕を行っている西部の地域では、去年は雨が不足したせいで作物の出来が悪く、有角種の皆様に納めるべき租税が滞ったばかりか、我ら自身も飢えに怯える有様でございました。つきましては、今後は同じ轍を踏まぬためにも、近隣の河から支流を引いてくる工事を提案させて頂ければと……」
上目遣いに支配者の顔色を窺う使者たちの前で、ヘィロンはふむ、と思案げに眼を閉ざす。
「……ヴマ・ズォの西部ということは、ユルジォノ河から支流を引いてくることになるか。あの河は水量も豊かで乾きとは無縁だ、それ自体は構わんだろう。だが、おまえたちの畑の位置から考えると、それなりに規模の大きい工事になる。人手は足りるのか?」
「は……。それは無論、近隣の集落からも働き手を集めまして、全力を尽くして事に望む所存であります。しかし、工事の完遂には二~三年を要すると予想され、その間はどうしても農耕の方に回す手が減ることになり……何というか、その……」
長爪種の使者がごにょごにょと言いつつ両手の爪を絡ませる。ヘィロンの側としても言われるまでもなく要求を汲み取って、溜め息混じりに頷きを返した。
「……わかった。これから二年間、その工事に大きく関わる集落からは、租税の徴収を免除することにする」
「……! あ、ありがとうございます! 大首長様の寛大なる御心に感謝を……!」
「へつらうな、鬱陶しい。……それに、勘違いするなよ。おれは二年の間だけ租税を免除すると言ったのだ。工事が終わるまでの間ではない。二年が経った後に未だ支流が引かれていなかったとしても、その時からは容赦なく租税の徴収を復活させる。……飢えたくなければ、これから必死で作業に励め」
激励というには余りに酷な言い様に、二人の使者は震えながら仰々しく頷いた。……ヘィロンの統治は暴政ではないが、かといって、属国の民を自民族と等しく慈しむものでもない。牙種と長爪種の両民族は、その支配下で暮らしつつ、飢えずとも栄え過ぎずという統治原則のもとに、各種の税を厳格に徴収されていた。
一方で、セレィらは万途羊の鳴き声と共に朝早く起き出し、中陸有角種の面々と並んで幕屋の中で朝食を摂っていた。一杯の乳酒、湯に溶いた乾酪、何種類かの新鮮な果物。主食にはヴマ・ズォの長爪種から買い付けた夏熟麦のパンがある。大平原の一日を生き抜くための必然か、全体に分量はかなりのものだった。
「──許せ。少々政にかかずらっていてな」
その席の最上座に、やや遅れてやってきたヘィロンが謝罪を口にしながら座った。隣に陣取っていたセレィは気さくな微笑みを浮かべて頷き、大皿から取ってきたパンを彼の皿に載せてやる。
「セレィ、今日は遠乗りに行かないか。おまえが馬を駆る姿をじっくりと見てみたい」
乳酒の杯を片手に朝食を摂り始めたヘィロンが、何気なく女皇に誘いをかける。この数日で互いの気心はすっかり知れていると見えて、普段の会話はこのようにざっくばらんな調子になりがちだ。
「遠乗りか。……ふむ、悪くないな」
ヘィロンの提案に惹かれるものを感じたセレィは、乳酒の杯を片手にふたつ返事で受けようとした。が、その寸前、左隣で食事を摂っているサーリャから困ったような視線を送られていることに気付いたために、口から出かかった返答を思い留める。
「……悪くない。悪くないのだが、すまぬ。あまり気軽に走り回って、ここに残った兵たちを不安にさせたくない。この集落から見える範囲でならば、いくらでも付き合えるのだが」
「では近場で走るとするか。腕比べに興じるもよし、互いの愛馬を鑑賞し合うのも面白い」
断られて機嫌を悪くした風もなく、ヘィロンはセレィの都合に合わせて鷹揚に計画を変えた。その気遣いに感謝の言葉を返し、パンの最後の一切れを乳酒で飲み込むと、セレィは席を立って足早に幕屋の外へと向かう。その背中にサーリャも続いた。
「すまぬ、サーリャ。知らずお前の気を揉ませたようだな。……やはり遠乗りはまずいか?」
「大勢の護衛を伴うならともかく、あの話の流れだと、たぶん二人きりで行くことになる。それだと何かあった時に助けが間に合わない」
「……そうだな。ヘィロンは信用のおける男だが、〝神狩り部隊〟という連中のこともある」
セレィは納得した様子で頷いた。女皇が自制心を保っていることを確認して安堵すると、サーリャは恭しく一礼して一旦彼女と別れる。その帰り際、幕屋の陰から二人の様子を窺っていた有翼種の少女に、彼女は不意打ち気味に声をかけた。
「……コリォさん。そんなに陛下が心配?」
「うひゃっ!? い、いや、そのっ、これは……」
幕屋の陰から気まずそうな顔のコリォが姿を現す。元『大央聴』の少女を相手にして、息を潜めた程度で隠れおおせると思うのがそもそもの間違いだ。が、サーリャは彼女の盗み聞きを咎めるでもなく、むしろ優しげな微笑みすら浮かべて声をかけた。
「……大丈夫。陛下はいつも通り。私の忠告も、真摯に受け入れてくれた」
「そ、そうですか。それは何よりです……」
コリォは消え入りそうな声で言って、そのまま悄然とした面持ちで歩み去った。サーリャは軽く溜め息をつく。──彼女を始めとする有翼種たちの士気の低下も、見過ごしがたい問題には違いない。
(かといって、これから同盟しようという相手と、あまり仲良くするなとも言えない……。ただでさえ陛下には、今朝の遠乗りの件のように、身辺を守るための采配で窮屈な思いをさせているのだから)
集落の中に金属装飾の音色を振りまいて歩きつつ、サーリャは複雑な難題に頭を抱えていた。……無理もない。四日前まで、それは他でもない導神の役割だったのだ。『聴士』としての役割に加えて、クルァシンが不在の間は自分がその代わりを務めようとするサーリャの自負は強く、もとより回転の速い彼女の頭は、いまや昼夜の区別なく猛然と働いていた。
(どうしても不吉な予感が拭えない。……でも、今はこっちに集中しないと)
伏せていた面を上げて立ち止まり、サーリャは目の前に建つ木組みの櫓を仰ぎ見た。彼女の『聴士』としての能力を十全に活かすために、クルァシンの命令で兵たちが建てた即席の仕事場だ。『栄の塔』ほどの集音性能は望めないが、高所で務めに集中出来るだけでも、サーリャにとっては有難い。もちろんヘィロンの許可も取ってある。
櫓を梯子で上がっていくサーリャの姿に、中陸有角種たちの物珍しげな視線が地上から集中する。その注目にちょっとした気恥ずかしさを覚えつつも、手早く櫓の頂上に辿りつくと、サーリャはその場に正座で腰を下ろし、両耳を覆っていた銀の耳当てを取り去った。
(───ッ───!)
反射的に両眼が閉ざされ、失われた視界の代わりに、サーリャの中ではそれよりも遥かに広大な音界が像を結ぶ。その日の体調や気候にも左右されるが、信号を受け取ることの出来る限界距離とは別の、主に索敵のために用いられる彼女の音界の守備範囲は実に40000ルハ=30KM四方にも及び、平均的な『聴士』のそれを倍以上も上回る。導神の信頼もむべなるかな──このサーリャが『聴士』として働く限り、どのような曲者であれ、セレィに肉薄することは不可能に近いのだ。まして周囲の地形が障害物の少ない大平原となれば……。
(……!? 誰か近付いてきている! 北に七里半。獣じゃない。かといって有角種でも有翼種でも牙種でも長爪種でもない。それ以外の、馬に乗った四人組……!)
サーリャの背筋に緊張が走り、小さな両手は知らず拳を握り締めている。そうして彼女は口の中ではっきりと呟いた。──今度こそは負けられない、と。
導神不在の状況下、かくして新たに投入された〝神狩り部隊〟の面々を相手取り、元『大央聴』の誇りを懸けた復讐戦が、大平原の中心で静かに幕を開けたのだった。
「……うん? おい、ちょっと待て、ゼル」
先を行くゼルの背中に向けて、ギロが意味ありげな声を投げる。それを聞いて一旦馬の足を止めると、ゼルはリガ・バズにも合図を送り、四人は馬に乗ったまま互いに寄り集まった。
「どうした、ギロ。何か発見があったか?」
「発見つぅか、ちょっと嫌な感じが。……俺たち、見張られてねぇよな?」
「見張られている? まさか、この遮るものとてない大平原のどこからだい?」
バズに問い返されると、ギロは困ったように首を傾げて辺りに視線を巡らせたが、結局は懸念の出処を明白に出来ない。が、それでもゼルは彼の発言を戯言と切り捨てなかった。
「見張られている、か。他ならともかく、お前の直感は侮れんな。……逆に分析するが、ギロ、それはおそらく、ルダ・ガイランの報告にあった『聴士』の少女の存在を念頭に置いての警戒じゃないか?」
「あ、うん、多分それだ。あの報告書には、『最低でも半径1KM圏内で起こった物音を、委細漏らさず把握する』ってあったんだけどよ。森ン中や街ン中と、ここみたいな平原の真っ只中じゃあ、音響の条件がまるきり違ってくるだろ? それがあっちにとって吉と働いた場合の守備範囲は、どこまで伸びるもんかな、と」
「……ふぅん。ちょっと気にしすぎとも思うけど、ギロにしては至極まっとうな点に気が付いたね。確かに、相手の索敵範囲も分からない状況で、無神経にパカパカ馬を走らせていくのは馬鹿のやることだ」
「といっても、ここから徒歩に切り替えるのも効率が悪すぎませんかね。肝心の角人の女皇が滞在している集落の位置さえ、まだオレたちにはハッキリと分かっていませんし……」
リガの意見を考慮に入れたゼルは、そこでふと思い立って馬から降り立ち、ギロに言った。
「ものは試しだ、一度跳んでみるか。ギロ、お前が台になってくれ」
「ういす、合点承知!」
威勢よく返事して馬から降りると、ギロはゼルから少し離れた位置で身を屈めて待ち構えた。そうして互いに目配せを交わすと、ゼルは両足で力強く大地を蹴りつけ、ギロの方に向かって猛然と駆けていく……!
「──いよぅしッ!」
両者の身体が衝突する直前、すくい上げるようにして相手の両足を掌に捉えたギロは、そのまま上体を逸らし、渾身の力でゼルの身体を上空に放り投げた。その動作に合わせて絶妙のタイミングで跳躍したゼルは、二人分の力でもって遥か上空に飛び上がる。
「よし──いい高さだ」
懐から遠見筒を取り出して右目に宛がいつつ、跳躍が限界地点まで達したと見るや、ゼルは下降を始める身体にひねりを加えてぐるりと回転し、周囲の遠景を余すところなく一望した。落下の衝撃は五点着地で和らげ、曲芸じみた軽業をやってのけた〝神狩り部隊〟の一員は、起き上がり様に力強い笑みを浮かべて仲間を見やる。
「このまま南南西に四里強といったところだ。幸いと大した距離じゃない。──バズ、リガ、二人とも馬から降りろ。ギロの直感を信用して、ここからは隠密機動に移行する」
ゼルの命令を受け、残った二人も地に足をつける。途端、全員の足音はおろか、息遣いさえも皆無に等しくなった。──それぞれの気配を煙のように希薄化し、隙あらば討つの心構えを胸に、四人の隠密はいよいよ作戦を開始した。
(……極端に物音を立てなくなった。かなり距離があるのに、もう隠密行動を始めたの?)
敵の慎重さに警戒を強めつつ、それでもサーリャは内心でほっと安堵していた。──隠密機動に入った敵の存在を、未だ音界に捉え続けていられるからである。
(隠密としての練度は四人とも相当のようだけれど、あのルダ・ガイランに比べると、技量の面で数段劣ると見て間違いない。……まずは一つ、私が確実な有利を手にした)
今この瞬間も、サーリャは敵全員の一挙一動を詳細に把握することが出来る。である以上は、彼女の方で守りに徹してやる義理はない。そう決めたサーリャはすっくと立ち上がって天井から吊るされた信号打楽器を鳴らし、事前に決めておいた符牒で連絡の兵を呼ぶ。すると、ものの一分と経たない内に、有角種の副官クェッタが櫓の下まで駆けつけてきた。
「失礼致します! セレィ陛下、今すぐお耳に入れたい報告がございます!」
ヘィロンとの交流に備え、厩舎の中で愛馬の手入れをしていた女皇のもとに、クェッタが張り詰めた面持ちで報告を持ち込んだ。臣下の只事ならぬ雰囲気を察したセレィは、馬の身体を磨いていた毛櫛を地面に置いて、跪いた副官の眼前に歩み寄る。
「面を上げよ、クェッタ。何があった?」
「はっ。──櫓で『聴士』の務めに当たっていたサーリャ様からの報告です。内容は陛下のみに伝えるよう言われておりますので、失礼ながらお耳を拝借いたします」
セレィが頷いて体を横に向けると、クェッタは一礼してから彼女の耳元で報告を済ませる。それを余さず聞き届けた女皇は、その内容に少なからぬ戦慄を覚えながらも、周りにそれを見抜かれぬよう努めて呼吸を整え、それから副官と共に厩舎を出て櫓に向かった。
「調子はどうだ、サーリャ。少し様子を見に来たぞ」
何食わぬ風を装って話しかけると、櫓の上のサーリャは女皇に向き直って恭しく頭を垂れる。彼女の反応にうむ、と頷きで返したセレィは、勤めに励む臣下を慰労しにいく君主といった様子で、そのまま梯子の上まで登っていった。
「……状況はどうだ。隠密どもはすぐにでも攻めて来そうか?」
櫓の中で二人きりになると、セレィはサーリャの隣に座って小声で話しかけた。『聴士』の少女は両眼を瞑ったまま淡々と応じた。
「馬から徒歩に切り替えたから、集落までの距離はまだ大分ある。相手の正確な目的が分からないので、これからどういう行動に出るのかは不明だけれど、仮に女皇陛下の命が狙いだとすれば、警備の隙を突いてこちらに侵入してくると見るべき」
「であろうな。……さて、どのように対処する。即座に敵襲の信号を鳴らさず、こうして私への報告に留めたということは、お前には何らかの考えがあるのだろう?」
「話が早くて感謝。──ここで迎撃を出しても、向こうも警戒しているだろうから、まず間違いなく逃げられる。今はまだ気付かない振りをして、もっと懐に引きつけてから応戦するべき」
「それで奴らを倒すこと、ないし捕らえることが出来るか?」
「……分からない。この敵には未知の部分が多すぎる。仮に首尾よく大勢の兵で囲い込めたとしても、ルダ・ガイランがそうだったように、瀬戸際でどんな切り札を用いてくるか分からない。だから、状況がこちらに有利でも、あまり追い詰めるのは上手くない」
セレィが顎に手を当てて考え込む。そこにサーリャは小声で、しかしはっきりと提案した。
「少し、駆け引きに出てみる。……まずは向こうに悟られないよう、兵をいつでも動かせる状態にしてから、私が説明する今後の段取りを聞いて」
「ほう──。おまえの命を狙う、異世界からの隠密か」
サーリャとの話し合いを終えてから、セレィは急ぎヘィロンの幕屋へと走って事態を告げた。彼女はまず厄介事を持ち込んだことを心から謝罪し、そして自分を狙ってやって来る敵であるからには、中陸有角種の手を借りるまでもなく、手持ちの兵力で対処して見せると約束した。
「寂しいことを言ってくれるな、セレィ。この一角が示す通り、おれたちは生まれながらの同胞だろう。仲間に助けを求めることに何の遠慮が要る?」
そう応えて薄く笑うと、ヘィロンは傍らに置いてあった強弓を手に取り、矢は番えぬままに弦だけをぎりぎりと引き絞った。その返答に目頭が熱くなるほどの感謝を覚えながら、それでもセレィは頑なに首を横に振った。
「そう言ってくれるのは本当に嬉しいが、今回の敵は大軍をもって迎え撃てばどうにかなる類の相手ではないのだ。神出鬼没にどこにでも現れ、異界の理に基づく見たこともない道具を駆使し、ある者は単独で千人の兵からなる我が軍の包囲を突破してみせる。何度かの窮地を経て、私は正攻法で奴らに立ち向かうことの難しさを痛感しているのだ。したがって、今回はこちらも搦め手を用意してある。……虫のいい話だが、もし協力してもらえるのなら、そちらの兵も我々の作戦に沿って動かしてはもらえないだろうか?」
「おまえがそれを望むのなら。だが、中陸有角種の誇りにかけて、おれたちは隠密ごときに遅れは取らんぞ。委細を任せられれば、すぐにでもおまえの幕屋まで連中の首を届けてやろう」
「そなたの強さはよく知っている。だが、この因縁はぜひとも我々の手で片付けたいのだ。これは女皇としての私の意地でもある。今後の私が、臣下たちにとって頼れる君主であり続けるためにも。……この気持ちは、そなたにも分かってもらえるのではないだろうか」
女皇の吐露した偽らざる心情に、ヘィロンは視線を落とし、握っていた強弓を床に置いた。そこでふと、セレィの一角がかすかに疼き、彼女は己の心が目の前の男と触れ合うのを感じた。真白い一角を通して、言葉にならない複雑な感情の波が、彼女の中に押し寄せてきた。
(……親愛と、同情と……これは、哀れみ?)
いささか不可解な感情が紛れ込んでいることに気付き、セレィは内心で首を傾げた。──同胞に向ける親愛は分かる。同じ君主としての立場の者に向けられる同情もあるだろう。しかし、哀れみとは何だろうか。今の自分には哀れみを受ける謂れなど一つもない。信頼する友神に導かれ、種族を異にする多くの臣下たちに慕われ、世界同盟という大志のもとに世界を駆けている。それは誇りでありこそすれ、断じて他人から哀れみを受けるような生き方ではないはずだ。
一角の感応能力はセレィの方が一段勝ると見えて、ヘィロンはまだ自分の心情が知られていることに気付いていない。そのせいで自分から疑問を追及することも出来ず、セレィが何とも歯がゆい思いでいるところに、ヘィロンが再び口を開いた。
「おれたちに任せるのが一番早いことは間違いないが、あえて回り道を選ぶのも良いだろう。それもおまえの生き方だ。……だが、無粋は承知で、ひとつだけ訊かせてもらえるか」
「何だろうか、ヘィロン。どのような問いにも誠意をもって答えよう」
セレィの真っ直ぐな眼差しを受けて、ヘィロンは珍しく言い淀む。何かに耐えるように両の拳をきつく握り締めて、やがて彼は暗い声でぼそりと問うた。
「……今、あのクルァシンとかいう男が傍にいれば、おまえは奴に頼ったか?」
「え──?」
セレィは返答に窮した。そのような問いは予想もしていなかったのだ。──クルァシンがこの場にいれば、自分が彼に頼ったかどうか、と? そんなこと、女皇にとっては考えるまでもない。仮にそうであれば、彼女は固い絆で結ばれた導神と共に敵を迎え撃ち、その戦果を喜びと共に分かち合ったことだろう。想像を繫げていくのは余りにも容易かった。それは水が高きから低きに流れるのと同じくらい、彼女の中では疑問の余地なく自明のことだったからだ。
「……すまぬ、質問の意味がもう一つ分からない。もとよりクルァシンは私の仲間なのだから、こういった事態に彼を頼みとするのは当然のことだ。だからといって勿論、そなたの力量を軽んじているわけでは……」
「もういい。分かった」
セレィの言葉を途中で遮って、ヘィロンはふぅと重い息を吐き出した。傷だらけの顔に苦々しい感情が浮かび、生来の強面がいっそうの迫力を帯びる。途端、セレィが感知していた様々な感情が、それらを圧倒する真っ赤な怒りで塗り潰された。両隣で待機していた二人の女官が恐怖に顔を引きつらせ、手の中から乳酒の杯が乗った盆を取り落とす。
「こちらの兵を使いたい時は言え。おれの指示でおまえの望むように動かす。……ただ、これだけは心の片隅に留めておけ。もし事態がおまえの手には余ると思ったのなら、おれはいつでも、その全てを代わって背負う気構えでいると」