強い風が正面から吹き込んだ。それを先駆けにして、緑の闇が果てた。
「──抜けたか」
導神が呟いた一言を追って、多くの溜め息がその背後から漏れた。久方ぶりに受けた陽光の恵みに、誰もが心から安堵していた。翼で空を行く有翼の民、騎馬で大地を駆ける有角の民──そのどちらにとっても、アヌビシアの森林は多くの面で馴染むことの難しい異境だったのだから。
「ああ……眩しいな。陽射しに心が洗われるようだ」
導神の隣に立ち並んだ有角の女皇セレィは、そう言いつつ、目前に広がる果てしない草原を熱っぽい瞳で見やった。馬を駆るのに適した平らな土地と、世界を横一文字に割る地平線──その両方を久方ぶりに眼にしておいて、騎馬民族である彼女に血を騒がせるなという方が無理な話である。
「諸君、ここでしばらく大休止を取ろうと思う。馬で駆けるも、翼を伸ばすも、各々の好きにせよ。これからは我らに馴染みの平原の旅だ。早めに普段の調子を取り戻しておけ」
君主の許しを受けて、歓声と共に兵たちが青空の下へ走り出した。馬に乗って駆け出す者、草原に寝転がって昼寝を始める者、堅実に装備の点検を始める者と、空いた時間の過ごし方は様々である。
「…………」
一方で、そうやって浮き足立つ空気の中でも、メリェと並んでクルァシンに寄り添う盲民族の少女・サーリャだけは、何ら喜色を表すでもなく澄ました表情で佇んでいた。両眼は開かれていたが、そこに感情の揺らぎは見て取れない。導神は内心で訝った。余人はともかく、彼女にとっては生まれて初めて眼にする、念願の外の世界のはずなのだが……。
「………あっ」
が、ふらふらと前方に二、三歩進んだかと思うと、サーリャは丈の低い草の他には何もない地面で見事に足を滑らせた。咄嗟に導神が手を伸ばして背中を支えたが、そうされてもまだ、本人はぽかんとした表情で仰向けに空を仰いでいる。その様子を見たクルァシンは、ようやくある事実に気が付いた。
「サーリャ……お前、ひょっとして、それでも昂揚しているのか?」
苦笑混じりの問いかけに、サーリャは困惑した面持ちで返す。
「……分からない。でも、何だか、足下がふわふわする」
クルァシンに助けられて身体を起こすと、サーリャは感情の読み取れない瞳で眼前の光景を見やり、そのままじっと黙り込んだ。導神もそれ以上は声をかけなかった。生まれてこの方アヌビシアの森林を出たことのなかった少女が、陽の当たる世界を眼にして抱いた感慨の程は、想像するに余りあったからだ。
「トルキォストルの大平原か。我らの大業も、ようやく中盤に差し掛かったと見えるな」
セレィが何気なく発した一言に、クルァシンはこくりと頷いて返した。
「……ああ。アヌビシアが長らく鎖国状態にあった事実を思うのなら、ここからが本当の意味での中陸地域の始まりと見るべきだろう。この平原がお前たちを受け入れるかどうかは、今後のやり方次第というわけだ」
「そしてあわよくば、攻めずに陥とすのが望ましいと」
「無論だ。アヌビシア攻略では最終的に武力を用いざるを得なかったが、対話による相互利益の擦り合わせで同盟まで漕ぎ着けるのが理想なのは依然として変わらない。……まぁ、その対話にしても、背景に互いの武力の比較が存在している部分は否めないが」
歯切れ悪く言ったクルァシンの面持ちは、内心の懊悩を覗かせるように苦々しい。彼の表情を横目で窺ったセレィは、むっと眉根を寄せ、その背中を平手で勢い良く叩いた。
「また悪い癖が出ているぞ、クルァシン。詮無いことをいつまでも悩むな」
「……悪かった。まずは目の前のことを、だったな」
苦笑で応じたクルァシンの視界で、ぼうっと地平線を眺めていたサーリャが、ふと何かに気付いて肩を揺らす。ほんの数秒耳を澄ませてから、彼女は導神とセレィに向き直り、整然と報告した。
「騎馬隊が近くを走っている。数にして百二十六騎。武装はしているけれど、全体の統制は緩いから、おそらく軍隊じゃない。まだこちらには気付いていない……でも、この分だと、五分後には互いに目視可能な距離まで近付く。早急に警戒を強めるべき」
彼女の報告に頷きを返す間もあらばこそ、セレィは間髪入れず兵たちに檄を飛ばした。
「総員警戒! 休止を切り上げ、直ちに隊列を組み直せ!」
緊張を解いていた兵たちが熱湯をかけられたように反応した。昼寝していた者は飛び上がり、馬を駆っていた者は急ぎ手綱を引いて、大慌てで自分の隊列へと戻っていく。彼らが点呼を始めた辺りで、遠い蹄の音が導神の耳にも聞き取れた。
「元『大央聴』の面目躍如か。耳に関しては完全にお株を奪われたな」
賞賛の言葉に一瞬の微笑みで応えると、サーリャはメリェと共にクルァシンの背後に下がった。そうして五分後、彼女が予告した通りの時間で、無数の騎影が地平線上に浮かび上がった。
「騎馬隊か……。ならば、ひょっとして」
かすかな期待のこもった声がセレィの口から零れた。地を蹴る蹄の音がどんどん近付き、盤石の態勢で待ち受ける彼女らのもとに、やがて茶色い毛皮を身に纏った平原の住人たちが辿りつく。途端、セレィの背後でどよめきが起こった。その原因は他でもない、彼らの額に突き出す、見間違いようもない同胞の一角だ。
「おおぉい! お前たち、一体どこの部族の者だ!? それだけの大人数でこの土地を通り抜けようと言うのなら、事前に挨拶があって然るべきだろうが! それとも何だ、我らセン=グォンの一族に喧嘩を売るつもり、で……」
語気も荒く文句を付けてきた先頭の男は、セレィの背中から伸びた両翼と、彼女が引き連れた兵たちの渾然とした顔ぶれ──有角種と有翼種が半々で入り混じり、あまつさえ盲種のサーリャまでもが含まれる──をざっと見渡し、呆然とした面持ちで尻すぼみに言葉を絶やした。一方で、セレィは万感入り混じる微笑みを浮かべて、馬上の同胞に言葉を投げた。
「久しいな、混代の昔に中陸へと移り住んだ同胞たちよ。実に数百年ぶりの再会になるだろうか……。この日まで、よくぞ息災であってくれた」
その言葉を受けて、馬上の男たちははっと眼を見開き、セレィらの姿と彼女らの背後に鬱蒼と生い茂る森林とを見比べた。……その構図が意味するところに、彼らがすぐさま思い至らなかったのも無理はない。アヌビシアの森林を抜けて来る者など、この数百年は皆無に等しかったのだから。
「まさか……お前たち、東方から?」
男たちの顔に驚愕がありありと浮かび上がる。セレィはこくりと頷いて身上を告げた。
「──私の名はセレィ・メル・ロケィラ。今はロケィラ皇国と称するそなたらの故郷からやって来た、東方有角民族の女皇だ。見ての通りの混血であり、現状ではロケィラ・オルワナ・アヌビシアの三国同盟を束ねる盟主を務めている」
「同盟……。有角種と有翼種が?」
「そうだ。そして、次はそなたらと轡を並べる番だと思っている。その状況に至るまでの事情は順を追って話そう。……ともあれ、まずは我らを客として迎え入れてくれるだろうか」
大平原に沈黙が降りた。隔てた時の長さの分だけ、互いに気持ちの整理が必要のようだった。