糸縛り
京都のタクシー運転手から聞いた話である。
「寝ようと布団に入りますとね、感覚で五分、十分くらいですかね。首以外の体が動かなくなるんですよ。そうですよ、金縛り。もうなれたもんです。若いころから頻繁にありますから。それからすぐ、ふわ~ふわ~って浮かんでいく感覚があるんです。首をこう、動かしてね、下を見るじゃないですか。寝ている自分がいるんです」
幽体離脱タイプの金縛りである。
この現象自体はそれほど珍しいケースではない。
だが、この方は大変まれなケースも体験している。
三十代のころ。
寝ようと布団に入るとすぐ、身体が固まったように動かなくなった。
まもなく浮遊感があり、ゆっくりゆっくり、上に向かって浮かんでいく。
(ああ、またいつものヤツか)
いつもは天井付近まで上がるのだが、その夜は違った。
天井がない。
天井があるはずのところには、真っ暗な穴がどこまでも続いている。
その穴の向こうへ、絶対に行ってはいけないと感じる。
穴の向こうに行けば、きっと帰ってこれない。
抵抗したくとも身体が動かない。
やだやだ、行きたくない、行きたくない、行きたくない!
ぴたり。
上昇が止まる。
その位置で、ずっと停止している。
「ほっとしましてね。で、よく見ると、自分の身体に何十本もの黒い糸がついているんです。その黒い糸みたいなものが下から伸びていて、自分に繋がっているんですよ」
アドバルーンみたいに、その黒い糸の長さの分だけ浮いている。その糸と繋がっているおかげで、暗い穴に吸い込まれずに済んだのである。
「その糸って、下で寝ている自分の本体から伸びているんですか?」
「いえ、それが違うんです」
糸は隣の部屋から伸びていて、長押にひっかかっていたという。
隣の部屋のどのあたりから糸が出ているのかは見えない。というより、隣を見ようという気にもならない。それよりも、この糸が切れたら、もう戻ってこられないという怖さがある。
「――どうやって戻ったかは覚えていないんです。二度目は五十代のころでした」
金縛り体験自体は、一度目とまったく同じである。
天井がない。真っ暗な穴が上にあり、そこに向かって上昇していくが、ぴたりと止まる。
体は無数の糸でつながっていて、そのおかげでそれ以上は上に行かない。
ただ、この時の糸は黒くない。
白い糸である。
「次は何色の糸か楽しみにしている自分がいます。天井の穴は怖いんですが、糸で繋がっている安心感といいますか、スリリングでわりと楽しい体験なんですよ。これは予感なんですが、そろそろ三度目が来るような気がして。今夜あたり、来ないかなって」
タクシーを降りてから、しばらくして私は思った。
その糸は髪の毛なのではないか。
体験者の年齢におうじて変わっていって。黒髪から白髪に変わって――。
もしそうであるなら、次の糸の色はなんだろう。
髪の毛は、いずれ抜け落ちる。
もしそうなって、自分を繋ぎとめる糸がなくなれば。
私は運転手のことが急に心配になった。