げんこつ



「八年前に母親を、五年前に父親を亡くしています」

 両親の命を奪ったのはガンであるという。

 豊継さんは自身の身体にも不安を感じ、父親が亡くなった年から喫煙量をそれまでの半分以下にまで減らしていた。

 一方、豊継さんの弟は楽観的で、自分は死ぬまで健康なのだと根拠のない自信を持っていた。だから、煙草も酒も減るどころか年々、増えていた。

「弟はよく父親に叱られて、げんこつをくらっていました。結構な大人になってもね、少しは生き方をまじめに考えろって。だからあいつ、たまに実家に帰ってきても、父親と出くわさないよう、こそこそしていましたよ。見つかったら雷とげんこつを落とされますからね」


 そんな弟が二年前、実家にふらっとやってきて、こんなことを言い出したという。

「おれ、当分、酒をひかえようかと思ってさ」

 豊継さんは驚いた。そんな言葉は弟の口から一生聞くことはないと思っていたからだ。

「本気か? いったいどういう風の吹き回しだ?」

「いや、その額縁がさぁ――」


 実家の居間の壁に掛かっている額縁のことだ。

 父親が勤め先の会社で授与された賞状が入っている。いろいろ貢献していたらしい。

 褒められなれていない父親は、よほど嬉しかったのだろう。家の中で一番、自分の目に入る場所に掛けたのだ。

 仕事から帰ったら、それを見ながらくいっと一杯やる時間を、毎日楽しみにしていたんだろう。

「この額縁がなんだって?」

「今はまっすぐだけど、俺が見るとよく傾いてんのよ」

 実家に帰るとなぜだか、まず額縁に目が行く。

 すると、少しだけ左側が下がっているので、そのたびに直しているのだという。

「いいことをしてるじゃないか。珍しい」

「それがどうも、親父からのメッセージに思えてならないんだよ。ほら、おれ逃げ回ってばっかだったから、聞き損ねている親父の言葉もあるはずだろ?」

 それにしても、傾いた額縁が亡き父からのメッセージとは、ずいぶん飛躍した発想だと思ったが、「いいんじゃないか」と弟の断酒に賛成した。


「しかし、俺は傾いているところなんて見たことないな」

「アニキはちゃんとしてるから、とくに言うことないんだろ、親父も」

「ちゃんとなんてしてないよ。普通にしてるだけだ。それより、禁酒はいつからだ? 今日からなら、うちでの晩酌もなしってことだな」

「へ? うーん……来年からでいいかな」

 カタン

 額縁の左側が下がって傾いた。

「わ、わかったよ、親父」

 弟が居心地悪そうな顔で額縁の位置を直した。

 ――ということがあったが、結局、弟は今も好き放題しているという。


「額縁が左に傾くのは、親父のげんこつなのかなと思います。あいつ、もう何年も前に死んだ親父に今でも叱られてるんですよ。ほんとガキですよ」

 豊継さんは今年からもう少し、煙草の量を増やすつもりだという。

 父親のげんこつをもらう弟が最近、羨ましいのだそうだ。