トイレに行きたい



 病院で夜間の救急受付をしている田中さんから聞いた。


 その日、怪訝な表情をした二人の看護師が小声で何かを話していた。

 なにかあったんですかと聞くと、

「四階のトイレが、ちょっと」

 勝手に流れるのだという。

 そこは車椅子が入れる大部屋のトイレで、センサーがあるので便座から離れると自動で水が流れるのだが、ここ何週間か、それが無人で流れるそうなのだ。

 四階には、自力でベッドを下りて歩いてトイレに行ける入院患者はいない。よって、トイレの使用は必ずナースコールでの呼び出しがあるはずなのだが、つい先ほどもトイレから水の流れる音がしたので見に行くと、室内は無人。まだ水がちょろちょろと流れていたという。

 田中さんはこの時に初めて聞いたが、四階トイレのことは看護師たちのあいだでよく噂されており、無人のトイレから水が流れる音を聞いた人も何人もいるらしい。

「でもそれって、センサーの故障じゃないんですか?」

「それが、そうではないみたいでね」

 こんなことがあったのだという。


 ある夜、四階でナースコールが鳴った。

 夜勤の看護師たちは、ライトの点滅する部屋番号を見てゾッとする。

 噂のトイレに、いちばん近い個室だからである。しかも、その病室を使っていた患者は先日亡くなったばかりで、今は空室になっていた。その患者は、自力でトイレに行くことができず、それでも看護師に介助を頼むことをひどく嫌がり、我慢をしてしまうのでよくベッドの中に粗相し、そうなってから渋々ナースコールを押していたという。

 どうせ、行っても誰もいないのはわかっている。だからといって放っておくこともできず、念のために確認をしに行った。

 ナースコールはやはり、無人の個室から鳴らされていたという。


      ※


 私はその亡くなった患者の気持ちがよくわかった。

 現在、入院中の父がそうだったのだ。

 下の世話を人にしてもらわねばならない恥ずかしさ、情けなさ、申し訳なさ。それらがトイレの介助を拒絶させてしまう。限界まで我慢をさせてしまう。

 だから、私はこう思った。

「その患者さんは亡くなられたことで、ようやく自由に一人でトイレへ行けるようになったんですね。今もそれがうれしくって、四階のトイレを使っているんでしょうね」

「いえ、違うんです」

 田中さんは首を横に振る。

「その前からなんです」

「前……から?」

「その患者さんが亡くなる前から、四階のトイレは無人で勝手に流れていたんです」


 看護師たちのあいだでは、このように言われているそうだ。

 誰の力も借りず、自分の足でトイレに行きたいという強い一心で、その患者の生霊がトイレに行っていたのではないか、と。

 また、こうも考えられている。

 四階のトイレには、なにかがいるのではないか。

 そのなにかがいることを知っていたから、患者はトイレへ行くのを拒絶していたのではないか、と。