移動する死臭
二十年ほど前の私の体験である。イベントなどでも語ったことがあるが、当時と少々事情が変わった部分もあるので、情報の更新もかねて新たに書き起こすことにした。
当時、私の勤め先では、よく猫が死んだ。
奥まった突き当たりに工場があり、車はめったに入ってこない。猫たちにとっては安全な溜まり場で、そこで子供をたくさん産むため、工場の敷地内は猫の楽園になっていた。
普段は安全だが、夜になるとたまに迷い込んでくる車があり、行き止まりだとわかれば工場の敷地にケツを突っ込んでUターン。そこが楽園だとは知らないので仔猫だろうがなんだろうが
社長は大の猫好きなので、そういう猫を敷地内に埋めてあげてほしいと私に頼んできた。
私も大の猫好きなので毎回引き受けていたら、いつの間にか、死んだ猫を敷地内に埋める担当みたいになっており、多いときは月に三匹の猫を埋める羽目となった。
すぐに埋めてあげられる猫はいいが、跳ねられてどこかに入り込んでしまうこともある。また、瀕死の状態で人目のないところに入り込み、そこで命尽きていることもある。
「最近、見ないな」という猫がいると、しばらくして工場の敷地内で異臭がし始める。
私はうんざりしながら、どこかにあるはずの猫の死体を探す。
カラスにつつかれたりして、たいてい無残な状態で見つかるので、いつか自分の心が病むのではと思っていた。
ある年の梅雨入り前後の蒸し暑い時期であった。
パートの女性たちが、なにかが臭うと話していた。
言われてみると確かに工場敷地内のどこからか、
死体特有の臭いである。
みんなが「出番だよ」という空気を出してくる。
厭な出番だが、私は自分の仕事を中断して臭いの元を探し出す。
だが、今回はわからない。
臭いは当然、本体がいちばん強く発している。
だから、臭いが強くなっていくほうへと向かえば自然に見つかるものなのだが、この時の臭いは居所をまったくつかませない。
鼻に神経を集めて工場内を巡る。
浴場周辺がとくに臭う気がする。ここだと思って入ると――違う。
じゃあこっちかと覗き込むが、もう鼻は臭いの尻尾を逃している。
数日かけて、工場の隅から隅まで探したが、私をあざ笑うように死臭は神出鬼没であった。
腐敗が進めば厭でも場所がわかるだろう、そうあきらめかけた時。
「ハエがぶんぶん飛び回ってるところがあるんだけど……」
ネコちゃん、そこにいるんじゃない?
パートの女性が教えてくれた。
どこですかと聞くと、アパートだという。
工場に隣接する二階建てのアパートである。昔は寮として使われていたが、今はもう社員は住んでいなかったので安い家賃で貸し出していた。
嫌な予感しかしない。
このアパートには独居老人が多いのだ。
どの部屋かはすぐにわかった。玄関のまわりを黒い粒が行き来している部屋がある。
ドアに近づくと、わあん、と無数の黒い粒が舞い上がった。
間違いなく臭いの発生源はこのドアの向こうにいるとわかった。
いや、ある、というべきか。
台所の窓の桟には大粒のハエが震えながら転がっている。大物のハエは動きもスローだし、飛びもしない。換気扇のファンの隙間を勢いよく出入りしている。ドアの下から米粒のようなものがぽろぽろと転がり出てくる。これらを集めているのが猫ではないことは間違いなかった。
部屋からは高齢男性の遺体が見つかった。
ブリーフ一枚で、柔らかくなった台所の床板に沈んでいた。
運ばれる遺体は「
それにしても。
なぜアパートの他の部屋の住人は臭いに気づかなかったのだろうか。
マンションほどの密閉度があるならまだしも、エアコン風呂なし築四十年以上の隙間風が入る木造アパート。ハエの量も普通ではなかったというのに。
私がなかなか死体にたどり着けなかったのは、臭いが動き回っているからだと思っていたが、動き回っていたのは臭いではなかったのかもしれない。
そう思わせる出来事があった。
この日、死体が運ばれるのを見届けた私は、業務を終えて浴場へ向かった。
一日、死臭にまみれた身体を早く洗い流したくて、洗面器と垢すりを持ってガラス戸を開けた。
うっ、と呻いて、それ以上進めなかった。
湯船に垢のようなものが大量に浮いていたのである。
猛暑のなか、老人はバターのようになって死んでいた。
死後、涼しい場所を求めて移動し、最後に風呂に入って垢を落としていった。
そう考えると、私はいくらか救われた気持ちになるのである。