足りなかった



 玲美さんの体験である。

 島根で開催される野外ライブにどうしても行きたくて、同県に実家のある専門学校時代の友人に久しぶりに連絡し、「一緒に行かない?」と誘った。宿泊費を浮かせたいという下心あっての相談である。

「そろそろ帰る予定だったから別にいいけど、うちでいいの?」

 ホテルをとったほうがいいんじゃないのと確認をとってくる。

 正直に現在のふところ事情を話すと、

「事情はわかったけど、ほんとにうちで大丈夫? 後悔しない?」

 しつこいほど、何度も聞いてくる。

 友人がそうする理由があった。

 以前に玲美さんはこの友人宅に泊まったことがある。その時、友人の母親に怖い話を聞かされ、怖い体験までさせられた。この時の記憶がトラウマになり、玲美さんはしばらく一人では眠れなかった。

 そのことがあったから「本当にうちでいいの?」と確認しているのである。

 本心で言えば、玲美さんは二度と彼女の家には行きたくなかったのだが、それ以上にこのライブに行きたいという気持ちが強かった。自分の追いかけているロックバンドを間近に生で見られる滅多にない機会だったのだ。

「玲美がいいなら別にいいけど。あ、なら、プチ同窓会やんない?」

 その方が人数も増えて賑やかでしょと言う。

 玲美さんは賛成し、他にも二人に声をかけた。


 ライブはとても良かった。みんなで熱くなった。誘った友人たちも大ファンになり、またこの四人で行こうねと盛り上がりながら友人宅へ到着した。

「いらっしゃい。玲美ちゃん、お久しぶり」

 友人の母親・咲江さんが笑顔で出迎えてくれた。

 玲美さんは急に熱が冷めていくのを感じた。

 身体が覚えていたらしい。

「うちに何泊していってもいいけど、みんな覚悟はしておいてね。とくに玲美ちゃん」

 この場でその言葉の意味がわかるのは、この家の人間と玲美さんだけであった。


 友人の部屋で四人並んでした。

 旅とライブの疲れが出たのだろう。ゴロンと横になるとみんなすぐに寝息をたてた。

 玲美さんは眠れなかった。

 数年前の体験の記憶がまだ根を張っていた。

 部屋の中に、なにかの気配を探してしまう。

 友達の唸り声や物音に敏感に反応する。

 余計な想像をしないように今日のライブのことだけを考えた。


 玲美さんは目が覚めた。

 いつのまに眠っていたのだろう。あんな状態から眠れたことに驚く。

 部屋の中は青暗い。明け方のようだ。

 ぞくっ。

 冷水を浴びたように玲美さんは身体をこわばらせる。

 声が聞こえる。

 ぼそぼそとした、陰気で乾いた声だった。

 玲美さんは首を動かさず、声のする方に目だけを向けた。

 窓際にだれかが立っている。

 大人。男の人だ。

 家に泊まらせてくれた友人のそばにいる。なにかを話しかけているようだ。

 どうしよう。今すぐ友人を起こしたほうがいいだろうか。それとも、ここで大騒ぎしてみんなを起こしたほうがいいか。

 すると今度は、別の声がぼそぼそと聞こえてくる。

 友人の声だ。

 しゃべりかけてくる男に言葉を返している。

 そっと頭を起こして様子を見ると、友人は目を閉じたまま口だけを動かしていた。

 アカン……今ぜったい、見たらイカンもの見とる……。

 寝返りを打つふりをして背中を向け、ぎゅっと目をつぶった。

 そのまま夜が明けきるまで起きていようと思った。

 友人が連れて行かれたらという不安があったからだ。

 でもまた、いつの間にか眠ってしまった。


「生きてる? ちゃんと生きてる?」

 起床すると玲美さんはすぐに友人の無事を確認した。

 きょとんとしている友人に、今朝のことを伝えなければいけないと思った。

「わたしな、ぜったい見てもうた」

「なに?」

「幽霊」

「……マジ?」

 他の二人はなんのこっちゃわからない、そんな顔をしている。

「あ、それって、もしかして六時ごろ?」

 玲美さんは頷いて、

「たぶんそれくらいやわ」

「それ、お父さん」

「――は?」

 友人の父親は、娘の友達が大勢泊まりに来るからと気を利かせ、近所の義母の家に泊まりに行っていた。娘はめったに帰ってこないので、今朝、仕事に行く前に会っていこうと家へ寄っていったのだという。そういえば、父親は仕事で夜が遅く朝が早いから、たまに帰ってもほとんど会えないと友人から聞いたことがあった。

 そんな久しぶりの親子の再会を、幽霊が友人を連れて行こうとしている光景だと勘違いしてしまったのだ。これも咲江さんのせいだと思った。

「ほんとやめてや、ちびったわぁ」

 玲美さんはほっとして笑った。


 夕方、友人の父親が帰ってきた。

 娘と一緒に夕食を食べようと早めに仕事を切り上げてきたらしく、上等な肉をたくさん買ってきていた。その肉を使った豪華なすき焼き鍋が夕食に出されたが、玲美さんはまったく箸が進まなかった。

 目の前にいる友人の父親は、明け方に見た男の人ではない。

 暗くて顔をほとんど見ていなかったが、決定的な違いがある。

 今、ここにいる父親には、ちゃんと両手両足が揃っている。

 しかし、玲美さんが明け方に見た友人の父親は、手も足も一本ずつ足りなかった。