菊の花



 岸本さんは二つ下の妹を交通事故で失った。

 中学の入学式のさなか、その報せが届いた。

 家族が急に一人いなくなって、暮らしは大きく変わった。

 兄妹で使っていた部屋が急に広くなった。妹がうるさいから一人部屋がいいと親に直談判したことがあったが、一人がこんなに静かなものだとは思わなかった。

 突き放してもどこまでもついてくる、寂しがり屋で甘えん坊の妹だった。

 自分は妹に怒ってばかりだった気がする。泣かせた思い出しかない。

 いまさらだが、兄らしく妹に優しくしてあげたい。

 今からでも何かできないかと考えた。


 両親の寝室には、妹の小さなお仏壇がある。

 妹がいなくなってからはそのお仏壇が妹みたいなものだった。

 妹が喜ぶものをここに供えたい。ここに供えれば妹に届く。

 何がいいのかと親に相談すると、オヤツやジュースでいいという。

 食べ物ではないなと思った。なにかもっと特別なものをあげなくては。

 しばらく考えたが、なになら喜んでもらえるのか、まったくわからない。

 そんなある日の夕刻。

 自分の部屋にいると、妹がキーボードを弾くときに使っていた楽譜スタンドが倒れた。

 なにもなく、勝手に倒れるものではない。

 これはきっと妹が教えてくれたのだ。キーボードが弾きたいよ、と。

 とはいえ、そんな大きなものをお仏壇に供えるわけにもいかないので、妹がよく見ていたアニメの楽譜を探し、それを供えた。

 それから幾日も経たない、ある日。

「おまえの部屋からピアノの音が聞こえたよ」

 同居の祖父がそんなことを言い出した。

 音が鳴るものは妹のキーボードぐらいしかないが、ちょっとできすぎな話の気もする。祖父がたった一度聞いただけで、他の家族は聞いていないのだ。祖父が変に気を使って作り話をしているか、聞き間違いということもあるので真に受けないようにした。

 それにほんの少し、怖い気持ちもあった。

 妹とはいえ、もう死んでしまったものだ。

 もし夜、枕元に立たれて、顔を覗き込まれたりでもしたら――。


 妹が天国で喜んでくれていると思えば、怖いという感情も消えると思った。

 だが、どうしても気になってしまう。

 キーボードが視界に入るたび、もし今、ひとりでに鳴り出したら――。

 考えるだけで鳥肌が立った。

 そんなふうに考えることが妹に悪い気がして、キーボードをしまおうと両親に相談した。そして、キーボードは押し入れの奥へとしまわれた。


 その後、祖父が体調を崩した。急に足元がおぼつかなくなり、自立が困難になって、這って家の中を移動するようになった。

 食事中に吐いてしまうことも増えた。

 かかりつけの医者に診てもらったが、胃が荒れているが深刻なものではないとの診断結果が出た。しかし、その後も吐くので他の病院へもかかったが、はっきりとした原因はわからず、本人は心底怖がっていた。


「ピアノを出してやったほうがいいんじゃないかな」

 祖父が突然、そんなことを言い出した。

 自分の体調が悪いのは、妹のキーボードをしまったせいだというのである。それというのも、自分が余計な報告をしたからだと――。

 そんな祖父に岸本さんの父親は激しく怒った。

 岸本さんも横で聞いていて腹が立った。妹がいくらキーボードが弾きたかったからといって、祖父にそんなひどい真似をするわけがない。第一、もしそれで恨まれるのなら、恨まれるのは祖父ではなく、キーボードをしまうという提案をした自分だ。

 父親の激しい剣幕に祖父は、声を震わせて謝っていたが、その日の夜も夕食を全部吐いたので「やはりピアノを……」と話を蒸し返し、また父親に激怒されていた。

 次の日に学校から帰ると、部屋に妹のキーボードが出されていた。

 鍵盤の上に何か細かいものが大量にちらばっている。

 祖父がやったのかと本人を問い詰めると、

「あれは菊の花弁だよ」

 と言った。

 祖父の中では、死者へのご機嫌取りは菊の花ということになっているらしい。

 馬鹿らしいと思ってすぐに片付けたが、それから不思議と祖父は吐かなくなり、歩けるようにもなって、すっかり体調がよくなった。

「もうピアノを隠さないと約束したから許してくれたんだ」

 祖父以外の家族のだれもが、そんなことは思っていなかった。だから、たびたびキーボードを片そうとしたのだが、すぐに祖父がやってきて物凄い形相で阻止してきた。

 その様があまりに異様なので、祖父が亡くなる日までキーボードは部屋に出されていたという。