おきて



 品川さんは明け方に目覚め、強い尿意にかされてトイレに飛び込んだ。

 用を足し終え、便座に座ったまま覚めぬ眠気にぼんやりしていると、

 じりりん おきておきて

 じりりん おきておきて

 トイレの隣の部屋から、聞き覚えのない音声が聞こえてくる。

 黒電話のような「じりりん」と、子供に話しかける母親口調の「おきて」。それが機械的に繰り返されている。

 目覚まし時計型の知育玩具から鳴りそうな音声だが、そんなものが家にあるはずがない。

 音は間違いなく隣の部屋の中から聞こえる。

 気味が悪い。

 何が鳴っているかは知らないが、なにもトイレに入ったタイミングで鳴ることはないだろうに。

 今すぐに確かめに行く勇気はなく、そのうち鳴りやむのではないかとしばらくうかがっていたが、そうしているうちに眠気が覚めていき、現実的な思考になっていく。

 もし目覚まし時計的なものが鳴っているのなら、止めなければ音も止まらない。

 このまま放っておいたら近所迷惑になるだろう。

 トイレを出ると「うるせぇっ」と言いながら隣の部屋の扉を乱暴に開けた。わずかにこびりつく「気味の悪さ」を怒りの勢いで振り払うためである。

 じりりん おき――。

 音声がぴたりと止んだ。

 なんで今度は止まるんだよ――。

 気味の悪さが這い戻ってくる。

 部屋に入ったから止んだ? ならさっきも偶然に鳴ったのではない?

 意図的に鳴って、意図的に止まったというのか。

 そんなばかげた話はない。あの音は機械の音だ。きっと買って忘れている音の鳴るなにかが、偶然このタイミングで誤作動を起こしただけだ。

 現実的に持っていこうとしても、どんどんこじつけっぽくなっていく。

 そうだ。正体がわかればいいのだ。

 品川さんは部屋の中をあちこちひっくり返して探した。しかし、あのような音声の鳴る物は見つからない。

 なにも納得できなかったが、ないものは仕方がないので探すのをあきらめた。

 仕事が休みなので昼まで寝る予定だったが、すっかり目が覚めてしまった。

 朝から土砂降りなので遊びにも行けない。

 週間予報でも見ようとテレビをつけると『大雨洪水警報』の文字が目に飛び込む。

 品川さんの住んでいる地域には避難勧告が出されていた。

 二十数年前。観測史上最大規模の台風が接近しているさなかの出来事であった。