食うぞ



「ちゃんと書いておいてくださいね。外出自粛要請が出される前のことだって」

 李依さんは彼氏と甲府へ旅行に行った。

 これが最低の旅となった。

 まず、ネットで選んで予約したホテルが大失敗だった。

 素泊まりなので安さだけで選んだのだが、ネットで見た以上に古くて汚い。サイトの画像は詐欺だった。

 汚いのは我慢できるが厳しいのは臭いである。

 髪が焦げた臭いに排泄物を混ぜたような異臭がロビーに満ちており、夕食を食べる前だったが一発で食欲を失った。

 彼氏がチェックインの手続きをとっている間、李依さんはソファで利用案内のパンフレットをパラパラめくっていた。

「どらあっ」

 怒鳴り声が聞こえてくる。

 ロビー奥のソファにスキンヘッドの男性が座っている。

 肩パット入りのスーツ、手首にじゃらつかせる趣味の悪いゴールドのアクセサリー。

 アウトロー漫画から飛び出てきたような人物だった。足元の大きな黒いボストンバッグに両足のかかとをのせ、スマホの通話相手に怒鳴りながら、もう一台のスマホをいじっている。

「だからオレはさぁ、スマートにやりたいんだよ。お前ら次第なんだよ、何回いわせんだよ」

 盗み聞いていると、どうもコロナの影響で仕事がうまくいっていないらしく、そのことに対して相手に怒りをぶつけているようだ。絶対コロナ関係ないやろと思って見ていると、スキンヘッドは怒りのせいか酒が入っているのか、あるいはどちらもなのか、顔色が見る見る赤くなっていく。怒り方も漫画みたいだ。血管が切れて破裂するんじゃないかというほど真っ赤になっていく。

 受付の中年女性は見て見ぬふり。注意などできるはずはない。

 ロビーには李依さん、彼氏、そしてスキンヘッド。とばっちりで絡まれたらすごく嫌だが、友達に話すいいネタにはなるのでバレないように気を付けながら観察していた。

 スキンヘッドはただ馬鹿みたいに怒鳴らず、言葉と声に妙な緩急をつけながら、通話相手をねちねちと陰険に追い込んでいた。

「お前よぉ、いい加減にしねぇと食うからよ。なぁ、オレに食われてぇのか?」

 そんな脅し文句もあるのか。

 李依さんが感心していると、男性の顔が真っ黒になった。

「え?」と声が出てしまった。

 光の加減? ――ではない。

 そういうレベルの変色ではなかった。どんなに位置を変えて見ても、顔が真っ黒に染まって見える。赤から黒に一変したのである。

 何がどうなってああなるのか、もっとちゃんと顔を見たい。少しでも近づこうと李依さんは座ったままソファの端に移動し、じっと観察を続ける。

 顔が黒いというより、

 ない。

 焦げ潰れたようにくしゃっとなって、目も鼻も口も見当たらない。喋っているのに、顔のパーツのどこも動いていない、というか黒くてなんだかわからない。

 手続きを終えて戻ってきた彼氏の腕を引っ張って隣に座らせる。

「なに?」と言う顔の彼氏に、口の前に指を立てて「しぃっ」とやると顎と目線でスキンヘッドをさす。

 彼氏はこわばった表情で小さく首を横に振ると、李依さんの腕をつかんでエレベーターに連れ込んだ。

「見た? ねぇねぇ、今の見た?」

「ああいうことほんとやめろって。絡まれたらシャレんなんないだろ」

「そうじゃなくて、顔すごくなかった?」

「ヤバいに決まってるだろ。あれ本物だぞ」

 どうも話がかみ合わない。よく聞くと彼氏は絡まれるのを恐れ、スキンヘッドの顔を見なかったらしい。

 李依さんは一から見たものを説明したが、彼氏には信じてもらえなかった。


 翌日、チェックアウトでロビーに下りると、まだうっすらと臭っていた。

 彼氏がカウンターで道などを聞いている間、李依さんはぼんやりと、昨日スキンヘッドが座っていたソファのあたりを見ていた。

 何か黒光りするものが床に落ちている。

 まさか、拳銃とか?

 近づいていくと臭いが強くなる。

 落ちているのは布切れだった。黒く、ベタッとした濡れた光沢があり、くしゃっと丸められている。髪の毛か布の繊維のようなものが絡まって、なんの布かはわからないが、ひどく不快な見た目だった。

 異臭はその布切れと、男が座っていたソファあたりに集中している。

 もしかして。

 李依さんは、厭な想像をした。

 スキンヘッドが足をのせていた大きな黒いボストンバッグ。

 あの中には、もっと大きな臭いの元が入っていたのでは――。

 あの時に見た赤い顔と黒い顔は、あの男に〝食われた〟人の顔なのかもしれない。

 その時はじめて、李依さんは昨日の自分の軽率な行動を反省したそうだ。