鶏が先か、卵が先か



 奥田さんが独身時代によく行っていた銭湯が火事で全焼した。

 火の手は両隣の商店にも及び、名物豆腐店と高齢の夫婦が営む八百屋が焼けた。

 八百屋がなくなったことが、奥田さんにとっていちばんショックだった。この八百屋は珍しく、野菜や果物以外に自家製のアイスを売っていた。駄菓子屋にあるようなアイスクリーム用の冷凍庫を置いて、カットして凍らせた果物などを売っていたのだ。ここでしか買えない冷凍パイナップルは風呂上がりのなによりの楽しみだった。

 この火災では死者も怪我人も出なかったが、八百屋の旦那が首を吊ったという話を耳にしてしまった。

 長年、妻と守ってきた店を失ったことに絶望したのか、あるいは他の理由があったのか。奥田さんは残された奥さんをびんに思った。


 八百屋の旦那の幽霊が出る。

 そう囁かれだしたのは、火事からまだひと月も経たないころだった。

 ばかばかしい。奥田さんは幽霊の噂をたてた人間を心から軽蔑した。嫌悪した。不幸な最期を遂げたなんの罪もない人を勝手に化け物扱いして怖がるなんて最低なことだと。

 焦げ臭さがこびりつく火災現場には、元・八百屋の一部であったすすけた壁が解体を待ってぼんやりと佇んでいた。

 壁の中央には、縦に細長い黒い跡があった。煤汚れである。

 幽霊の正体は、どうもこの煤汚れのようであった。

 横向きにぶらさがる人の姿に見える――らしい。

 人の姿に見ようと思えば見えるが、それが首を吊った八百屋の旦那の姿だというのは少々無理があった。それでも、いい大人たちが真顔で「八百屋の幽霊を見た」と話しているのを間近で見聞きしていると、もしかするとあの煤汚れとは別に、本当に旦那の幽霊が出るのかもしれないと考えたこともあった。

 しかしその後、すべてがひっくり返るような出来事が起きてしまう。


 ある朝、現場に残った煤けた壁の前で、八百屋の旦那が首を吊った状態で見つかったのである。

 これは、どういうことなのか。

 実は、八百屋の旦那の幽霊の噂がささやかれていた頃、旦那はまだ生きていた。

 自殺したというのは誤った情報だったのである。

 しかし、旦那は結局、噂の通りに首を吊って自ら命を絶ってしまった。

 死んだ旦那の姿だといわれた煤汚れに重なるようにして、下がったのである。

 噂されていた旦那の幽霊も、やはり見間違いだったのだろう。

 あるいは、住人たちは旦那の未来の姿を見ていたのだろうか。