「い」
数年前の初春、大重さんが院長をされている整体院に義兄から施術の予約が入った。
急なので面食らった。喋らない仲ではないし、とてもいい人なのだが、二人だけで会ったことはこれまでない。ここ二年ほどは親戚の集まりにも来ていなかった。
それに義兄は近所近辺の人ではない。わざわざ遠路はるばる来るということは、施術が目的ではなく、きっとなにか訳あってのことに違いない。
電話でも様子が少し変だった気がする。わりと深刻な話をしに来るのかも……と、大重さんは妙に緊張してしまった。
来院してすぐに義兄の体調が優れないことがわかった。
顔色が悪いどころではなかったからだ。
額に
聞けばここ二週間ほど、背中に異常な痛みがあり、今この瞬間も痛みでつらいらしい。ずっと握りこぶしを押しつけられているような痛みで、深刻な病ではないかと内科にかかったが異常は見つけられず、整形外科へも行ったがそちらも異常なしとの診断が出され、どうにもならないのだという。
「とにかくやってみましょう」と施術をはじめた。
風呂に入っていないのか、体臭がきつい。首の後ろには爪で掻き出した
というのも、義兄には他に心配なことがあったのだ。
大重さんの姉、つまり義兄の妻が四年前に亡くなり、それから義兄が
ここ最近は回復しつつあると聞いていたのだが……。
それとなく最近の生活について尋ねてみた。
すると、笑いながら「見ちゃってさ」という。
「……なにをですか?」
「見たんだよね、おれ」
妻を亡くしてから、ひと月ほど経ったころ。閉店時間になって店の
今までにない異常な感じがあったので、脳の病気ではないかと心配になった。片付けの手を止め、頭に冷却ジェルシートを貼ると椅子を並べてそこに横になった。
しばらく目を閉じていたら、
がち、がち。
顔のすぐそばで音が聞こえた。
えっ、と目を開ける。
目の前に、つぶつぶとしたものが並んでいる。
「歯なんだよ、それ」
寝ている自分の顔の真上で、だれかが口を「い」の形にし、歯を見せていた。
慌てて起き上がる。そこに人がいれば相手の顔と頭がぶつかったはずだが、なにともぶつかることはなく、厨房だけ電気のついた薄暗い店内に義兄は一人だった。
口の中に違和感があり、洗面所にいって鏡を見た。
前歯が二本なかった。
「ほら」と、施術台にうつ伏せの義兄は首だけ曲げて大重さんに向くと、
「いいいいい」
と歯を見せてきた。
歯のないところから赤い舌を出し入れする様が薄気味悪かったという。