エルモント王国の訓練場は許可さえ取れば、24時間いつでも使用OKという便利な共同施し設せつだ。

 ある日の早朝、朝もやがまだ晴れないというのに訓練場ではすでに数十人の屈くつ強きような兵士たちが真しん剣けんな表情で一人の女性を見み据すえていた。

 しかし中心に立つ女性は涼すずしい表情、むしろ囲んでいる連中の方が緊きん張ちようの面おも持もちだ。

 タンクトップにスパッツ、見事なボディラインの女性は手足に赤い宝石のある特殊な手てつ甲こうとブーツ。常人ならばまともに扱あつかえない魔道具『炎ドラゴ龍ニツク・爪クロー』。彼女──炎の女王と称たたえられるジュリア・E・カルヴァドスの代名詞とも言われる代しろ物ものだった。

 自らの燃える魔ま力りよくを炎龍爪へと共鳴させ、それぞれの赤い宝石が淡あわく輝かがやく。そしてジュリアは静かに言った。

「……来い」

「「「「「「おおおおおおおおおお!!!」」」」」」

 それが合図、囲んでいた屈強な兵士たちは一いつ斉せいにジュリアへ襲おそい掛かかった。

 近きん距きよ離りからは木ぼつ剣けんを打たれ、遠えん距きよ離りからは魔ま力りよく弾だんを放たれる。

 常人であれば絶対に大おお怪け我が確実な逃にげ場の無い波状攻こう撃げき。

 しかし、そんな息吐つく暇ひまも無い攻撃を、ジュリアはその場から動く事無く体たい捌さばきのみで受け流して行く。

 打ち下ろされた木剣を右みぎ腕うでを回していなし、横よこ薙なぎの木剣に左手を添そえて側転、無数の魔力弾を左足のみで受け止め、最後に突つきを繰くり出した兵士の木剣の先せん端たんに右足で乗った。

 対たい峙じする兵士ですら魅み了りようされる刹せつ那なの動き、しかし一撃げき目めがかわされた事を自覚した兵士は乗られた木剣を素す早ばやく引く。

 何しろこの訓練の一撃目は彼女には防ぼう御ぎよの訓練、二撃目からは攻撃の訓練に入るのだ。

 兵士が警戒したのは正解だったのだが「ヒュ」と息を吐はく音が聞こえたと思った時、切っ先を見ていた兵士の下から声が聞こえた。

「ワンテンポ遅おそい」

 その瞬しゆん間かん兵士は腹部に食くらった強きよう烈れつな一撃で吹ふっ飛ばされた。体格の小さい女性が大男を吹っ飛ばした事に驚おどろきもせず、別の兵士たちが木剣を手に殺さつ到とうする。

「覚かく悟ご!!」

「甘い……」

 振り下ろされる木剣を横からいなして、そのまま木剣を握にぎった兵士ごと地面に引き倒たおす。後ろから迫せまる兵士を水面蹴げりで倒し、倒した二人を遠距離で構えていた魔ま導どう士したちへとブン投げ吹っ飛ばす。

 それが全すべて一いつ瞬しゆんの出来事、ダメージを食らった兵士の呻うめきが後から聞こえてくる。

「おおおおおお!」

 そして最後に残った一番体格の良い兵士とジュリアはわざと組み合った。

「があああああ!」

「……」

 体格では優に三倍はありそうな力比べ、しかし体格で勝まさるはずの兵士の方が苦く悶もんの表情で押され始めた。

「ぐああああ……おおい! お前らも手伝え!!」

 必死の表情の男の声に周りで見ていた三人の兵士が加わった。いずれも同じように力自じ慢まんで体格の大きい男たちである。加わった計四人の男の力で一瞬だけ押し返したかと思われたその時、ジュリアは不敵な笑えみを浮うかべた。

「はああああああ!!」

 ジュリアが吼ほえると四し肢しの宝石が激しく輝きを増す。そして……。

「「「「おおおあああああああ!!」」」」屈強な男たちは一瞬で押し負けて吹っ飛んだ。



「ふう……」

 一息吐いて汗あせを拭ぬぐうジュリアに力負けした兵士から声が上がった。

「参りました。まったく……俺たち『紅ぐ蓮れん』は、姉あね御ごを守る為ために結成された部隊なのによ。これじゃあ立つ瀬せがねぇや」

 各おの々おの立ち上がりながら苦く笑しようを漏もらす兵士諸君。彼らはエルモント王国騎き士し団第三部隊、その中でもジュリアを守護する為結成された特殊部隊『紅蓮』の者たちだ。

「大だい丈じよう夫ぶか? なにぶんお前らとの演習は腕うでが立つ分加減が出来ん」

「そりゃあ喜んで良いところなんすかね? どの道一瞬でやられちゃ世話ねぇよ」

 心配するジュリアに愚ぐ痴ちを漏らしたのは巨きよ軀くの兵士。

「何度も言っただろう? 私の動きや力は炎龍爪を使った反則技だと。本来の力比べだったら私はお前の足下にも及およばない」

 それは世辞でも何でもなくジュリアにとって厳然たる事実。体内のエネルギーを火の魔導具で爆ばく発はつ的に燃やす事で得られる力なのだから。

 ようするに火の魔ま法ほうによる瞬間的なカロリー消費、世の女性たちには垂すい涎ぜんの技術だ。

「……にしても珍めずらしいっすね? 姉御が演習に参加するのは」

「本当だな。いつもは月一くらいなのに……」

 非常に目め敏ざとい部下たちからジュリアは顔を背そむけて頰ほおを搔いた。

「少し……思うところがあってな……」

「はあ……」

 数日前にあったパーティー、その翌日にジュリアのもとに三等分された緑色の果実が届けられたのだ。ある人物から怒りを込めて……。

 その人物からのメッセージを正確に受け止めて以来、彼女はモヤモヤを吹き飛ばそうと訓練に勤いそしんでいるのだ。

 その事を思い出し、ジュリアは忌いま々いましげに呟つぶやく。

「……言われなくても……」

 固く握った拳こぶしから自然と魔力の炎ほのおが漏れる。

 そんな中、ジュリアは訓練場から見える王宮の陰かげから怪あやしいくらい周囲を警戒する人ひと影かげがいる事に気が付いた。

「?……あれは」


    *


 エルモント王国の主要都市エルモントシティは王城を中心に城下町が広がる形で形成されている。城下町のだいたい西側、少し外れた場所にその駅舎は立っていた。

「ここが民間の風馬馬車の停留所か。え~っと……目的の馬車は……」

「水神国行きの馬車は駅舎から二番目のアレだ。ほら、あの青い旗を付けてるヤツ」

「ああ、ありがとうございます……ってあれ? ククールさん?」

 背後から聞こえた声は友の為に影を演じる銀ぎん髪ぱつのクールガイ、諜ちよう報ほう部隊隊長のククールさんのものであった。

「はよっす。どうしたんですか? こんな朝早く……」

 現在は日が昇のぼって少し、日本から持ち込んだ時計は六時半を指している。

「それはこっちのセリフだ。君が水神国に赴おもむくと聞いたものでね」

 そう、俺はこれから件くだんの水神国へ行くところだ。

 ルーチェの情報だけでは、また闇やみ渡わたりに出し抜ぬかれるかもしれない。そう思い、表向きはラーメンの水を探す水質調査の名目で研究員として……いわば出張のようなものだ。

 ただ今回は親善大使として向かったエクレアとは違ちがい、王女のティアを連れて行く訳には行かないので俺一人である。その辺を説明するとククールさんは鼻を鳴らして苦笑する。

「そりゃまた……よくティアが納なつ得とくしたな」

「いえ……揉もめまくりました。私も行きたいですって見えざる尻尾しつぽを振りまくり、瞳ひとみをウルウルさせる子犬を振り切るのが……断腸の思いで……」

「ああ……それは分かる」

 元々はティアやキリカさんと一いつ緒しよに幼少期を過ごした幼おさな馴な染じみであるククールさんにはその辺の感覚に覚えがあるようだ。

「しかし、その罪悪感を振り切ってまで行く理由は……聞かない方が良いのか?」

「……そうしてもらえると、ありがたいです」

「そうか……」

 元々悪役を演じている彼は、俺が何かを隠かくしている事を何となく察しているようだ。

「でも、気を付けて行って来いよ? 大っぴらじゃないがあの国の情勢は決して安全とは言い難がたいからな」

「やっぱり……内乱?」

「そこまでは言わんが、東のベルガと西のアンダイルは今もって犬けん猿えんの仲だからな。一いつ触しよく即そく発はつってヤツだよ」

 聖水の湖デネルを有する水神国は、元々『デネル』という一つの国だったらしい。

 ところがお決まりの後こう継けい者しや争いで何百年も前に国は分ぶん裂れつ、『西水神国アンダイル』と『東水神国ベルガ』に分かれてしまった。

 そして現在も両国のいがみ合いは続いているのだとか。

「何も無ければ俺が一緒に行ってやりたいが……あいにく我が国の王宮も情勢が不安定でね。大臣の腰こし巾ぎん着ちやくとしては動きが取れないんだよ」

 彼の本ほん性しようを知ってから理解したが、基本的にククールさんは酔よって愚ぐ痴ちるキリカさんが言うところの〝昔のアイツ〟のままだった。

 ようは義理人情に厚い、気の良いアンちゃんなのだ。

「気にしないで下さい。そっちの仕事を邪じや魔ましちゃ悪いし……。でも不安定って?」

 俺の言葉にククールさんは少し考えてから口を開く。諜報部として俺に漏らして問題無いか情報を整理したようだ。

「王宮内部で派は閥ばつが勝手に出来上がりつつあるんだ。『雷らい迅じん』派か『炎の女王』派かでな」

「あ~なるほど……」

 それだけで大体の察しは付いた。つまりあのパーティーでの延長、水神国と同じで後継者争いか。現状分裂している他国を思うと何かやるせない気分になってきたな……。

「まあ……そんな訳で、ほら!」

「え!? わとと……」

 ククールさんが急にほうってよこした小さな布ぬの袋ぶくろには、銀貨が詰つまっていた。

「! ククールさん、こんな大金は……」

「さる筋の方から、路銀の足しにしろって君に渡わたすよう頼たのまれたんだよ。綺き麗れいな金だから心配すんな」



 そんな感じで思わぬ臨時収入を手に、俺は西水神国アンダイル行きの風馬馬車へと乗り込んだ。早朝だし乗客は少なく、五十人は乗れそうな客席にせいぜい五人程度がまばらに座っているのみだ。行商人風の男や、ローブをまとったいかにも魔導士っぽい人等々。

 二人がけの椅い子すに一人で座ると、間も無く風馬が鳥に似た甲かん高だかい嘶いななきを上げて走り出す。相変わらずサスペンションも無い馬車の乗り心地ごこちは最悪で、揺ゆれと衝しよう撃げきにしばらくすると腰こしが痛くなってくる。

 しかしそれでも人力よりはるかに速い。あっという間にエルモントの町並みが見えなくなり草原が目の前に広がる。

 そこには魚屋の大将の話が噓うそではない証しよう拠こに、至る所で魚が浮ふ遊ゆうしていた。

 水族館の水すい槽そうを眺ながめているような不思議な光景、そんな景色を眺めながら2時間はたった辺りで馬車は急に停車した。ガクンといきなりの衝撃に前につんのめってしまう。

「な……何だあ?」

 行商人の男が不満を漏らすと御ぎよ者しやが客車に乗り込んで来て頭を下げる。

「お客様申し訳ございません。ただいま進路上をカツオの大群が通過中です。しばらくお待ち下さい」

「カツオの大群? それってもしかして……刺ささりガツオ?」

 俺の疑問に御者さんは人のよさそうな顔をしかめて肯こう定ていする。

「はい、秋の風物詩ではありますが……最近多いのですよ」

 そう言われて俺は客車から降りて進路上の草原へと目を向けた。

 前方に広がる緑の草原に張り付く道を、黒い線が塞ふさぐようにかかっている。いや、良く見るとそれは線ではなく点の集合体。昔テレビで見た事のある蝙蝠こうもりの群れに酷こく似じしている。

 ただ、スピードが尋じん常じようではない。たまたま進路上にあった小さな岩山が、群れに巻き込まれた瞬しゆん間かんに砕くだけ散り、爆発音が後から聞こえてきた。

 すみません。昔のコントとか思って申し訳ありません。

 大将の言った事は大げさでも何でもなかったのだ。

「タタキにしたヤツは普ふ通つうに美味うまかったのに……」

「はい、あれは本当に美味おいしかったです」

「そうだろ……ん?」

 俺は背後から聞こえた声にとっさに振ふり返る。しかしそこには俺同様興味本位で客車から降りて来た乗客たちしかいない。

 ……何か今、凄すごく聞き慣れた声が聞こえたような。

 しかし考える間も無く御者さんが言った。

「刺さりガツオの通過まであと少しですので、そろそろ乗車して下さい」

 そう言われて俺を含ふくめた乗客は全員ゾロゾロ客車に乗り込んだ。扉とびらが閉まろうとしたその瞬間いきなり何者かの手が隙すき間まから突つっ込まれ、バンと強ごう引いんに開かれた。

「ハー、ハー、ハー……ヒー」

 その人物は俺の良く知っている人物、息も絶え絶え、滝たきのような汗あせを流ながし、乱れまくった前まえ髪がみの奥から光る眼光が激しくギラついている女性騎き士し。

「キリカさん?」

 足をふらつかせ乗り込んで来たキリカさんは確かく認にんの必要も無いくらいに疲ひ労ろう困こん憊ぱいだが、その瞳は明らかに怒りに燃えていた。

「ハーハー……ゴホ、ダイチ……」

「いったいどうしたんですか? そんなフルマラソン後の選手みたいに」

 激しい息切れでしゃべる事もままならないらしい。

 水すい筒とうを差し出すとキリカさんは引ったくり、一気に水を喉のどの奥へと流し込む。

「ブハ……サンキュー。少し……落ち着いて来た……」

 口元を拭ぬぐうキリカさんの仕草にいつもの爽さわやかさは無く、阿あ修しゆ羅らのごとく迫はく力りよく満点だ。

「な、何か用っすか?」

 発言を間ま違ちがえた時点で身に危険が及およびそうなので、おっかなびっくりキリカさんに聞く。

「いや、用があるのは君じゃない……」

「は?」

 そう言いつつ呼吸を整えたキリカさんは客車の中心をツカツカ歩いて、ローブを着た魔ま導どう士し風の人物の前に立った。

 その瞬間、あからさまにその人物は体をビクつかせた。

「用があるのは、こっちのバカ娘むすめの方よ!」

 キリカさんがそう言って魔導士風のローブを剝はぎ取ると……。

「……ティア、何してんの?」

「ア……アハハ……」

 それは見間違えようもない、いつもと同じ三つ編みで町娘姿が板に付きまくり、そろそろかまぼこになれる王女様であった。

 キリカさんは怒いかりの形相でティアの背後に回って両拳こぶしで頭をグリグリする。

「な、に、してんのよ! 王宮じゃいきなり王女が消えたって大おお騒さわぎなのよ!!」

「イタイ、イタイ、イタイ……だってコウさんデネル湖に行くって言うから……」

 ……大体の察しは付いた。今回連れて行けないって事に納得の行かなかったティアは、城から無断で抜け出して付いて来ちゃったのだろう。

「……私今日は非番だったんだけど、ティアがいなくなったって王宮から緊きん急きゆう連絡があったのよ。思い当たるのがダイチが行くデネル湖だと思ったら案の上……」

「しっかし……キリカさん、よく追い付けたな。エルモントから既すでに結構離はなれてるのに」

「スカイダッシュの連続運用で何とか。馬車が止まってなければお手上げだっただろうけどね。……おかげで魔ま力りよくも体力もスッカラカン、今日はもうスカイダッシュは使えないわ」

 そう言ってキリカさんはティアの腕うでを摑つかんだ。

「さ、帰るわよ」

「え……」

 その途と端たんにティアの表情が絶望に染まる。当然といえば当然、今回は王女を守れる態勢での移動ではない。キリカさんが追い付いて来たのはティアの安全確保の為ためだ。

「コ……コウさ~ん」

 あからさまに俺に助けを求めるティア。一いつ瞬しゆん助けてあげたくなるが、さすがにな。

 俺からも今回は帰るように説得しようとすると、御者さんが口を挟はさんだ。

「何だか分かりませんけど……引き返すのは無理ですよ?」

「え? いや馬車ごと引き返せなんて言いませんよ。途と中ちゆうで下車して……」

「いえその、そういう事ではなくてですね……」

 御者さんは口ごもりながら黒い線に見える刺さりガツオの群れを指差した。

「あの刺さりガツオの群れはどういう訳かこの時季には草原を蛇だ行こうする感じで回遊するんですよ、水神国からエルモントへの道に沿って。今回は運良く前方に発見できましたけど、運悪く直ちよく撃げきされたら怪け我がじゃすみません」

「は? つまり……魚群が抜ぬけるまでは草原を戻もどれない?」

「はい、一つの魚群が草原を抜けるまで二~三日はかかります」

「にさんにち!!」

 驚きよう愕がくの表情を浮うかべるキリカさんとは対照的に、パアッと表情を明るくするティア。

「水神国へ行くのは大だい丈じよう夫ぶなんですね?」

「それは問題ありません。魚群は後退はしませんし、次の魚群が来るのは一~二週間は掛かかりますから」

「では魚群より上空を、翼よく竜りゆうを使って行けば……」

 最後の希望とばかりに別の方法を口にするキリカさん。だが御者さんは眉まゆをひそめた。

「残念ですが翼竜は魚群がいる場所は飛んでくれないんです。危険を本能的に察知するみたいで……」

「く……」

「こうなっては一いつ緒しよに行くしかないね……」

 俺が半分諦あきらめろと感情を込めてそう言うと、キリカさんは舌打ちをしてティアの隣となりにドカリと腰を下ろした。

「キリカ?……あの……怒おこって……ますよね?」

 恐おそる恐るティアが話しかけると、キリカさんは腕を組んで「ふん」と鼻を鳴らした。

「私が何を怒っているか……分かるかしら?」

「え?……それは」

 目を伏ふせて悲しげな目をするティア。そんな彼女の頭をキリカさんは急にホールドして右拳をグリグリする。

「どーせやらかすなら私も巻き込めって言ってんの! 何年アンタの親友やってると思ってんのよ水みず臭くさい!!」

「みゃ~~~ゴメンなさいゴメンなさい!」

 途端に笑い合いじゃれ合う女子二人。仲良き事は美しきかな……。

 結局今回の調査もいつもの面子メンツで行く事になったようだ。

「これも一つの予定調和なのかな?」


    *


 それから馬車は幸いにも今度は途中で止まる事も無く、数時間のうちに目的地である西水神国アンダイルへと到とう着ちやくした。しかし……。

「これが聖水を湛たたえるデネル湖?」

 俺は目の前に広がる光景に思わず絶句してしまった。

 ティアやルーチェの話から俺は、透すき通るくらいに青く美しい湖をイメージしていた。だが実際の湖は毒々しい程ほど緑色に濁にごり、周辺にある木々は軒のき並なみ立ち枯がれている。

 見た目の印象を言うなら──地じ獄ごく絵図だった。

「そんな……あんなに美しかった湖が……」

「これじゃあ飲用どころか魚だっているかどうか……」

 ティアの反応とキリカさんの言葉で元からこうではなかった事がうかがい知れる。

「こいつは水の精せい霊れい様さまの怒りじゃ……」

 精霊の怒りという物ぶつ騒そうな言葉に振り返ると、いつの間にか見知らぬ爺じいさんが立っていた。黒い口くち髭ひげを生やした、何と言うか頑がん固こそうな爺さんである。

「精霊様の……怒り?」

 ティアの呟つぶやきに爺さんは目をむいて詰つめ寄ってくる。

「そう、精霊様は怒っておる! いつまでも憎にくき東のベルガをのさばらせている事に!」

「は……はい?」

「湖の中心にある水精霊の神しん殿でん、そこに精霊様は封ふう印いんされておるのだ」

「精霊が……封印?」

 エクレアのボルフィン火山にかつて封ふうじられた火の精霊がいた。前回は辛からくも再封印する事が出来たけど……まさか、またその類たぐいなのか?

「数百年も前の事じゃ。まだ国がデネルだった頃ころ、ベルガの先祖共は事もあろうに我らの守り神である水の精霊を封印しおったのじゃ!」

「ベルガが?」

「そう……じゃが奴やつらはその事実を認めようとはせず『封印したのはアンダイルの人間だ』などと言いがかりを付け、更さらに『精霊様は自分たちのモノだから返せ』と……盗人ぬすつと猛たけ々だけしいにも程がある!」

 自分語りで怒りを露あらわにする爺さんは顔を真っ赤にしている。

「じゃから、精霊様は言っておられる。さっさとベルガを滅ほろぼして我が封印を解けと……」

「そ、そんな……」

 悲痛な顔をするティアを他所よそに、俺は一応持参したバケツに湖の水を汲くんでみた。

 ひどい悪あく臭しゆうを放つ水、そして水面に浮かぶ緑色の物体。かなり汚お染せんされた状態なのだが、こんなのを日本でも見た事がある気がする。

 思わず顔をしかめつつ湖周辺の状じよう況きようを確認すると、西水神国アンダイルの町並みから繫つながる水路が見えた。そこから湖に流れ込んでいるのは多分生活排はい水すいだろう。

「もしかしてこれ……アオコか?」

 だとしたらこれは魔ま法ほうとか精霊とか以前の問題なんじゃ?

「爺さん、ちょっと聞いても良いかな?」

「何じゃ若いの。話の腰こしをおってからに……」

 調子良く隣りん国ごくの悪口を並べ立てていた爺さんは少し不ふ機き嫌げんそうだ。

「湖がこんな感じで緑色になったのはいつからなんだ?」

「……ここ数ヶ月ほどじゃ。最初は少し緑色の物が浮いてるくらいだったがの……」

「ここ数ヶ月? 爺さん、町から湖に流れ込んでいるあの水路はいつからの物なんだ?」

「? ワシが幼い頃からあのままじゃ。何百年も前じゃと思うが……それがどうした?」

 排水は何百年も続いていて、汚染は最近始まったというのはさすがに計算が合わないな。

「ふうーーーーん……」

「コウさんどうしたのです?」

 考え込む俺を心配したティアが覗のぞき込んだ。

「んー正直俺の知識はティアにとっては異次元の事だし、何しろ世界観が違ちがうからそれが合っているとは断言出来ないんだが……」

「はあ……と言いますと?」

「水質汚染の原因は精霊様が怒ったとかじゃないんじゃないか?」

「貴様! 何を根こん拠きよにそんな根も葉も無い事を!」

 俺の言葉に傍そばで聞いていた爺さんはそう怒ど鳴なると、ハッとした表情になった。

「そうか貴様……ベルガの者じゃな? デネル湖の状況の責は自分たちには無いとアンダイルにデマを流そうと企たくらんでおるのじゃな……」

「は? 何言ってんの」

「そうはいかん! 貴様らの思い通りにはさせんからな!」

 そんな事を言って爺さんは見た目の年ねん齢れいよりもはるかに機き敏びんに立ち去って行った。

「何だったんだ? あの爺さん」

「あんまり不用意な事言わないでよ? 水神国は精霊信しん仰こうの厚い国なんだから」

 俺が疑問に思っているとキリカさんが手を腰に注意してきた。

「……それで? この湖の状態に対する君の見解は? 副所長」

 キリカさんの言葉にティアも「ふんふん」と頷うなずく。

「あそこに水路があるのが分かる? あそこから生活排水が湖に流れ込んでいるだろ?」

「え~っと……そうですね。でもそれがどうしたのです?」

「細かい説明は端折はしよるけど、流れ込んでくる排水は栄養があり過ぎる水なんだよ」

「栄養が……あり過ぎる?」

「それが……どうしたの? 栄養があるとダメなのかしら?」

 俺の説明に首を傾かしげる二人。俺は彼女たちにさっき汲んだバケツの水を見せる。

「この水に大量に浮かんでいる緑色のコレなんだけど……俺の世界での知識と同じなら、コイツは植物の一種、アオコだと思う」

「アオコ? 植物なんですか? コレが?」

 どうやらティアたちにとって範はん疇ちゆう外の知識のようだ。まぁ普ふ通つうの人間は知らないよな。

 おそらくこの湖は過か剰じような栄養によってアオコが増ぞう殖しよくしてしまい、そのせいで太陽光が遮さえぎられて湖中の生物が死し滅めつし、腐ふ敗はいし、汚お泥でい化してしまったのだ。そもそもアオコ自体が発生させる毒素も一つの原因だとは思うけど。

 いつの間にか体育座りで俺の話を聞いていた二人の表情がみるみる暗くなっていく。

 気持ちは分かる。俺もこの手のドキュメンタリーなんかを見ると気持ちが鬱うつになって、必要以上に排水に気を遣つかうようになるものだ。

「そんな……人間の生活排水の為に……湖が……」

「じゃあダイチは精霊じゃなくて水神国の人間がこの湖を汚染しただけと言いたい訳?」

「うん、ただそれは原因の一つだと思う」

「一つ? 他ほかに原因があるの?」

 そう、それだとどうしても納なつ得とくのいかない事がある。単純に計算が合わない。

「あの爺さんが言うには生活排水を垂れ流していたのは何百年も前からなんだろ? だったら何百年も前からこの湖はアオコだらけじゃないとおかしい」

「ああ! 確かに!!」

 ティアが両手を合わせて立ち上がった。

「あのお爺さんの話では汚染が始まったのは数ヶ月前、それはおかしいです」

 それにそんな状態の湖だったら、幼少期に訪おとずれたティアが見た透き通る湖の思い出がある事もおかしくなる。

 ただ、ここからは地球での常識からは外れた発想で考えなければならない。

「汚お水すいを浄じよう化か出来る何かがこの湖にはある……もしくは数ヶ月前まであったんじゃないかと思うんだけど……」

「浄化する何か……って何です?」

「水質汚染の講義に比べて自信無げね」

「そう言われてもなぁ……水質汚染の改善っていうかアオコの処理って実際はスゲー大変なんだよ? 各自治体やらボランティアやらが協力して何年もかかってようやく改善するかもしれないって問題なんだから……」

 そう、汚水処理は簡単にはいかない。何百年も前から生活排水を垂れ流していたのに透とう明めい度を誇ほこっていたのなら、なおさら高度な浄じよう水すいシステムが無い訳はない……はず。

 そう、それこそ何というか科学的ではなく異世界的な。

「ティア……前ここに来た時と何か違いは無いか? 細かい事でも良いからさ」

 漠ばく然ぜんとした質問だが、こうなると以前を知っているティアだけが頼たよりだ。

「そうですね……私の記き憶おくでは透き通るような青い湖と……」

 そう言ってしばらく唸うなっていると、急に彼女は声を上げた。

「あ! そうです思い出しました。確かデネル湖の湖畔には見事なバラの木が無数に生えていたはずです。バラの花がそれは見事に咲さき誇っていたのを覚えています」

「バラの木?」

「ええ。紅白に彩いろどられた美しいバラがデネル湖の湖畔に映はえて、それは美しい光景でした」

「紅白とは、まためでたいな。誰だれかが意図的に植えたのならいいセンスだ」

 うっとりとしながら話すティアにそう応じると、彼女は首を振ふった。

「いえ違います。赤と白のバラを植えてあるのではなく、同じ木、同じ枝から赤と白のバラの花が咲くのですよ」

「同じ枝から!?」



 ティアの記憶を頼りに昔湖畔で見たというバラの木の群生場所へ足を運んだ。

 距きよ離りとしては数分程歩いた場所なのだが、俺たちが目にしたのは見事に立ち枯れてしまっている木々であった。

「やっぱり……ここもですか……」

 あからさまに落ち込むティアの肩かたをキリカさんが支えてやる。元の光景を知るだけにショックは大きいのだろう。立ち枯れた木々の葉は茶色に染まり、花もほとんど落ちている。

 ただその花が俺は気になった。落ちている花も、かろうじて枝に付いている花も、全すべてが白なのだ。

「ティア。本当にこのバラの木は紅白の花が咲いていたのか? ここに落ちてるのは全部白だけど……」

 一つ拾ってみるが、端はしは茶色く変色していてもそれはやはり白色のバラだった。

「そんなはずはありません。幼い頃私は紅白のバラを頂いた事があるんです」

 少しムッとして言うティアの顔には噓うそは見えない。っていうかこの娘こが噓を吐つけるとは思えないしな……。

 俺はそれを踏ふまえて枯こ死ししたバラの木を良く見てみると、奇き妙みような事が分かった。

「……枝に花をもぎ取った跡あとが大量にあるな」

 それは枯死したバラの木全体に言える事だった。剪せん定ていとは違う。白いバラの花とは別の……まるで半数はあった紅いバラの花を全てもぎ取った跡のような……。

「見付けたぞ、ベルガの手先どもめ!」

 静せい寂じやくを切り裂さくように、突とつ然ぜん後ろから叫さけび声が聞こえた。振り返るとそこにいるのはさっき走り去った黒くろ髭ひげの爺じいさん。よっぽど急いだのか息切れしている。

「ぜえ、ぜえ……どこに隠かくれたかと思えばこんな所におったとは」

「おいおい……無理すんなよ爺さん」

「そうですよ。お体は大切になさって下さい」

「う……やかましい! ベルガの手先が優やさしくするな! 最近孫すら冷たいというに」

 何やら悲しげな家庭事情が聞こえたが、そんな事を言っていられないようだった。

 爺さんの背後から手に武器を携たずさえた二十人程ほどの自警団っぽい連中が現れたから。

「皆みなの衆! こいつらが精せい霊れい様さまを侮ぶ辱じよくしアンダイルにデマを流そうとするベルガの手先どもだ! 今も湖こ畔はんでよからぬ事を企んでおったに違いない!」

「え?……いやいやいや、ちょっと待って下さいよ。俺は別に侮辱なんか……」

「そうですよ。むしろコウさんのお話は湖の今後について非常に重要な……」

「黙だまれ! 問答無用! 口答えするのが既すでに敵である証しよう拠こ! 皆の衆、やってしまえ!」

「「「「「「うおおおおおおおおお!!」」」」」」

 膨ふくれ上がった殺気を爆ばく発はつさせた血気盛んな自警団の若者が押し寄せて来た。

 状じよう況きようを確かく認にんしたキリカさんは槍やりを構えて俺とティアの前に立つと、押し寄せた先頭の三~四人の武器を目にも留まらぬ速さで叩たたき落とした。

「え? ゴハ!」「あれ? グボ!」

 自警団たちは武器を落とされた事を自覚した瞬しゆん間かんには顎あご、鳩尾みぞおち、後頭部へと正確無比な打だ撃げきを受けて昏こん倒とうしていた。この間彼女は俺たちの前から一歩も動いていない。

 しかしキリカさんの射程圏けん内ないに入る事の危険性を把は握あくした彼らは、距離を保ったまま俺たちを囲み始めた。それを見み据すえてキリカさんは一筋の汗あせを流ながして舌打ちをする。

「……頭に血が上っても戦術の基本は押さえているようね……」

 確かに敵の射程範はん囲い外から囲むのは戦術の常じよう套とう手段。ただ、キリカさんの戦いを何度か見た事のある俺には今日の戦い方に違い和わ感かんがあった。

「キリカさん、スカイダッシュは? いつもならこのくらいの人数一いつ瞬しゆんで……」

 スカイダッシュを併へい用ようした空中奇き襲しゆう攻撃、キリカさんが最も得意とする戦い方のはずなのだが、今日は地に足を着けて槍やり捌さばきのみで戦っている。

 俺がそう言うとキリカさんは苦く笑しようして言った。

「忘れたの? 言ったでしょ、私今日は魔ま力りよくを使い切ったって……」

「あ……」

 そうだった。キリカさんは今日は非番だったのに、ティア不在の報を受けて慌あわてて馬車に追い付く為ために魔力を使い果たしたのだ。おまけに全力疾しつ走そうを繰くり返したせいで体力も底を突きかけているはずだ。

 更さらに問題なのが戦えない足手まといの存在──俺とティアがいる事でキリカさんはその場から動かないのではなく動けない。俺たちが背後にいなければ、槍捌きだけでもキリカさんはこの場を切り抜ぬけるのだろうが……。

 そんな事をしていると自警団の集団の中で、手から赤い光を発する連中が前に出る。

「げ……あれって……」

「……当然、次はそう来るよね……」

 それは俺にも見覚えのある火の散さん弾だんを放つ遠えん距きよ離り攻撃、囲みの外から蜂はちの巣すにする魂こん胆たんがアリアリだ。

「「「「火弾丸フアイヤーブリツツ!!」」」」

「伏ふせろ!」

 火の魔力による無数の散弾、それらが殺さつ到とうするのとキリカさんの声はほぼ同時。俺は咄とつ嗟さにティアへ覆おおいかぶさった。

「はああああああああ!!」

 裂れつぱくの気合いでキリカさんは槍を振り回して無数の散弾を受け止める。甲かん高だかい金属音が連続して聞こえるが、弾はじき損そこねた何発かが背中を掠かすった。

「アジィ!!」

「コウさん! 大だい丈じよう夫ぶですか!?」

 腕うでの中でティアが心配するが、大変なのはむしろ俺よりキリカさんの方のはずだ。

 止とどまる事を知らない魔ま力りよく弾だんの集中砲ほう火かをエンドレスで捌さばき切れる訳が無い。次し第だいに槍捌きから、回転速度と正確さが目に見えて落ちて行く。そして火弾が止やんだ時にはキリカさんは息も絶え絶え、目も虚うつろになり今にも倒たおれそうな程だった。

 フルマラソン後の全力無酸素運動、幾いくら何でも無む茶ちやにも程がある。

「ハア……ハア……マッ……ズ……力が……」

「なかなか頑がん張ばるが……次じ弾だんは避さけられまい」

 自警団たちから嘲ちよう笑しよう混じりの言葉が聞こえた。マズイ、次魔力弾を放たれたら終わりだ。

 かざした手から再度赤い光を放ち出す自警団たち。キリカさんは虚ろな目で、それでもティアの前に立ち槍を構える。

 万ばん事じ休す──俺は覚かく悟ごを決めた。

「全員魔力弾、一いつ斉せいそ……ゴガ!」

 だが次の瞬間、号令を上げようとした自警団の男は妙みような声を上げて倒れた。

 余りの突然の出来事に自警団たちの反応がワンテンポ遅おくれる。そこに現れたのは、一人の女性だった。

「貴様、何者だ!!」

 警けい戒かいの声を上げる男に、オレンジ色の髪かみの女性は不敵に笑った。

 声を上げた男の真横で。

 遠目に見ていた俺には彼女が瞬間移動をしたようにしか見えない。それくらいの速度。

「ゴハ!?」

 自分の真横に彼女がいる事に気付く事も出来ずに男は裏うら拳けんを食くらって意識を失った。

「遅おそい。不ふ審しん者を視し認にんしたなら有う無むを言わせず即そく行動に移れ。それが不審者でなく敵対者であった時はこうなる……」

「おのれ火弾丸、撃うてえええ!」

 女性の呟つぶやき、いや指導に同調したように一気に魔力弾を放つ自警団たち。

 しかし女性は散弾が殺到する前に、地面に右足をいわゆる震しん脚きやくのように踏み込んだ。

「炎レツ脚グレツ爆ドウオ壁ール!」

 その瞬間彼女の前の地面から激しい火柱が立ち上って無数の魔力弾をかき消した。

「炎脚爆壁だと!? 実戦であの高度な火か炎えん魔ま法ほうを使いこなすとは何者だ!?」

 激しい火柱に驚きよう愕がくする自警団たち。しかしその間にも女性は火柱を突つき抜いて来る。

「何! ガゴッ!」

 腹部に膝ひざ蹴げりを食らい妙な声を漏もらして昏倒する。慌てて別の自警団が魔力を放とうと手を向けても既に遅く上段回し蹴りが当たって吹ふっ飛び、勢いそのまま体全体を捻ひねって後ろの敵に踵かかとを落とす。

 無む駄だの無い動きは完全なるワンサイドゲーム。彼女が動きを止めた時、その場で意識を保っていたのはさっきの頑がん固こ爺さんのみだった。

「ひ……ひい!!」

 戦神の如ごとき彼女の戦いに爺さんは完全に腰こしを抜かしていた。女性は静かに爺さんの前にしゃがむと鋭するどい目付きでゆっくりと口を開く。

「この者たちも、そして私もベルガでもアンダイルでもない……ただの旅人だ。ご老体、勘かん違ちがいなさらぬようお願いする」

「は……はひ!」

 黒髭の爺さんは若じやつ干かん涙なみだ目めでコクコク頷うなずくと、はいつくばった姿勢のまま器用にその場から退散して行った。

 後に残されたのは倒された男たちの中心に佇たたずむ光景が異様に似合う女性。

 今日は軍服ではなく、スッキリとした旅人風の若草色の服にスカーフを巻いているが、明るい特とく徴ちよう的なオレンジの短たん髪ぱつ、鋭い眼光とそして何よりも四し肢しに輝かがやく紅い宝石の魔ま道どう具ぐ。

「ジュリア……姉上様……」

 ティアがその人物の名をうわ言のように呟く。

 ティアの実じつ姉しでありエルモント第一王女、またの名を『炎ほのおの女王』ジュリア・E・カルヴァドスその人であった。だが次の瞬間、キリカさんが前のめりに地に倒れ伏した。

「キ、キリカ!!」

「キリカさん! 大丈夫か!?」

 俺たちが心配していると自然な動きでジュリア王女が近付きキリカさんの手をとる。そして簡単な触しよく診しんをすると息を一つ吐はいた。

「おそらく大丈夫だ。目立った外がい傷しようもないし、極度の疲ひ労ろうによる衰すい弱じやくだろう」

「そ、そうですか……」

「よかった……」

 ホッとする俺とティアだったのだが、次の瞬間パンと心の底に響ひびく乾かわいた音が響いた。

 それはティアがジュリア王女に頰ほおを叩かれた音、ティアは何が起こったか分からず頰を押さえて固まってしまう。

「姉上……様?」

「ティアリス、お前はこんな所でいったい何をしている……」

 見据えるジュリア王女の目は静かな怒ど気きを孕はらんでいた。

「大方の察しは付くが、お前には王女である自覚が無いのか? 主あるじの行動は偏ひとえに部下に影えい響きようを及およぼす」

「あ……」

「護衛師キリカの今の姿はお前がもたらした災わざわいだ」

 姉からの冷たくも厳しい正論にティアは膝ひざを突いて真っ青な顔を押さえる。

「わ……私のせいで……キリカが……」

「王たる者、己おのれの意図しない事でも部下の命運を左右する。そんな事も分からんのか」

 その言葉が止とどめだったようだ。ティアは気を失ったキリカさんにすがり付いて嗚お咽えつを漏らし始める。

「ごめんなさい……私のせいで……こんな……」

 確かに今回のティアの行動は軽けい率そつ過ぎた。容よう赦しや無いとは思うけどこの説教について俺は口を挟はさむつもりは無い。

「あの……ありがとうございます。危ないところを」

 踵きびすを返して背を向けるジュリア王女に頭を下げると、彼女はムスッとした顔を向けた。

「大した事はない。妹の不始末を処理したに過ぎん……それに君には借りもあるからな」

「借り?」

 そんなものあったっけ? どちらかと言えば例のパーティー以降彼女に対しては無礼しか働いていないと思うのだが……。

 冷静に考えるとこんなに強い人に対してあの時は強気に出過ぎていた。俺がその辺についても謝罪した方が良いかとか考えていると、ジュリア王女の目付きが変わった。

「!……待て、庭師。何か聞こえないか?」

「何か……て?」

 言われてからなるべく耳を澄すまして周囲の情報を拾ってみる。

 これでも耳は良い方で、学校では必要以上に女子たちと近い所にいたせいで、要いらない情報が自然と入ってきたものだ。どういう訳かこういう時には明るい話題は入って来ないのだが、どうやら今回も例に漏れず悪い情報が入って来る。

「湖の水音、風が枯かれたバラを揺ゆらす音、何か金属がカチャカチャぶつかる音……に交じって『こっちですじゃ、兵士の皆みなさん』とか言ってる爺じいさんの声……」

 自分が並べ立てて言った言葉に背筋が凍こおった。

「……どうやら空耳ではないようだ。私にも同じものが聞こえる」

 そう言って渋しぶい顔をするジュリア王女。つまりさっき腰を抜かして退散したと思われた爺さんが、今度は自警団ではなくアンダイルの兵士たちを連れて来た!?

「あの爺さん無駄に根こん性じようだけはあるな!!」

 絶ぜつ叫きようする俺に対してジュリア王女は冷静に状じよう況きよう分ぶん析せきをする。

「庭師、さすがにこれ以上の戦せん闘とう行こう為いは外交問題になりかねない。ティアリスたちを連れて一いつ旦たん引くぞ」

「異議無し!」

 俺はそう言ってまだ泣きじゃくるティアに駆かけ寄った。

「ティア、新手が来る! 早く逃にげないと!」

「でも……コウさん……キリカが……」

 未いまだにキリカさんを負傷させた罪悪感に押しつぶされ、ティアは腰が抜けたように動けないようだ。俺は涙で濡ぬれまくった彼女の顔面を両手で摑つかんでムリヤリ顔を合わせた。

「コウ……さん?」

「いいかティア、確かに今回お前の行動は軽率だった。姉ちゃんのお叱しかりはごもっとも、反論の余地は無い」

「………………」

「だけど、俺もキリカさんもそれを嫌いやだとは一つも思っていない。それを間ま違ちがえるな」

「……でも現にキリカは……」

 また下を向きそうな顔を俺はグイッと無理やり上げて、キリカさんの心情を代弁する。

「『やらかすなら私も巻き込め』ってキリカさん言ってたろ? あれは『私には迷めい惑わくをかけろ親友だろ』って事なんだからな!」

「あ……」

 本人不在での憶おく測そくの代弁だが、あながち間違っていないと思う。

「猛もう省せいなら後で幾らでも出来る。それこそ謝罪なら後で本人に目め一いつ杯ぱいすればいい。何なら抱だき付いて泣いてやれ、絶対喜ぶから! だから今は……」

「……はい」

 返事をしたティアの目にはわずかに光が戻もどっていた。

 こうなればもう大丈夫。そう思った瞬しゆん間かん、背後から寒け、いや殺気を感じた……また?

 俺は最も早はや反射的にジュリア王女の方を見てしまう。咄とつ嗟さに目をそらしたジュリア王女だが、間違いなく彼女は俺にガン付けてたよな……。何やら拳から炎が漏れているし。

 借りがあるって言ってみたりガン付けて来たり……いまいちこの人の行動が良く分からん。印象的には次期国王を狙ねらう質しつ実じつ剛ごう健けんな女戦士って感じだったんだが。

 ……それに勢いに押されて思い付かなかった事が一つあった。

「ジュリア……王女。少しお聞きしたいのですが?」

「……言い難にくそうだな。君は軍人ではないし敬けい称しよう敬語は不要だ」

 大おお仰ぎような事を言うジュリア王女である。……何か俺には敬称を使う王族の知り合いが少ない気がするのは気のせいか?

「じゃあ……ジュリアさん。何で今ここにいるんですか?」

 ピシ……その言葉にここまで厳格だった彼女の表情が固まった。おや?

「水神国行きの馬車は刺ささりガツオの回遊のせいで俺たちが乗ってた一台のみ。でも確か貴方あなたは今朝けさも国内にいたはずですよね?」

「な……何を根こん拠きよにそんな事……」

「というか城内にいたはずですよね? メイドのシェリーさんが、今朝もジュリア王女が演習に出ていたって言ってましたし……」

「庭師のわりに無駄な交友範はん囲いを……」

 アレだけの敵を相手に涼すずしい顔をしていた炎の女王が、滝たきのようにダラダラ汗あせを流し始める。俺がなおも質問しようとすると彼女は「む?」と真しん剣けんな表情に戻った。

「話は後だ庭師! あれを見ろ!」

 ジュリアさんが指し示した方角を見て俺はギョッとした。すでにアンダイルの兵たちがガチャガチャと鎧よろいを揺らしながらすぐ傍そばに近付いてきていたのだ。

「とにかく隠かくれるぞ! あそこの森林に」

 俺は気を失ったキリカさんを慌あわてて背負い、ティアは彼女の槍やりを持って、バラの群生地帯から少し離はなれた場所にある森林に向かって走り出した。背後から「いたぞ! 逃がすな!」なんて声が聞こえて来る。

 最早振ふり返って確認するまでもなく間違いなく発見されたようだ。

 方向も何もかも気にしていられず草木を搔かき分けて森林の奥へと進んで行く。

 しかしアンダイルの兵士諸君は優ゆう秀しゆうなようで正確に俺たちの後を追って来る。だいぶ走ったはずなのに気配は消えず、樹木に隠れて姿は見えなくても時々「どこだ! ベルガの手先ども!」なんて声も聞こえてくる。

 しばらくすると当然というか、専門外である俺とティアの息が上がって速度が急激に落ちて来た。それを見たジュリアさんが大きな木の根元を指し示した。

「二人とも少し休きゆう憩けいをしろ。このままでは護衛師の二の舞まいだ」

 確かにその通り。俺たちは木の根に隠れる格好で腰を下ろす。用心深く背後を覗のぞき込むと木々に隠れてたまに兵士たちの鎧が光って見える。

「く……逃げ切れないか?」

「最悪……もう一暴れするしかないか?」

 ジュリアさんはそう言って手てつ甲こうに触ふれる。

 だがその時、兵士たちの声が聞こえる方に急に白い靄もやのようなものが立ち込めてきた。

 それは段々森林内部に広がって行き、ついには辺り一面、白一色に変えて先が全く見えなくなる。

「こ、これは水みず魔ま法ほうの《白霧の幕ホワイト・アウト》?」

 背後から当とう惑わくした兵士たちの声が聞こえてくる。

「くそ! だとすると奴やつらはベルガの手先じゃない。盗とう賊ぞく団の一味だったんだ!」

「盗賊団デネルの連中か。自警団で太刀たち打うち出来ない訳だな……」

「……仕方が無い。一旦引くぞ、このままでは遭そう難なんしかねない」

 おそらくリーダー的な男の声に兵士たちの声や鎧の音が遠ざかり始める。そして数分もすると森林自体の音以外何も聞こえなくなった。

「助かった……のか? 連中、引き上げたっぽいけど……」

「そのようですね……」

 俺とティアは安心感から脱だつ力りよくする。しかしジュリアさんは厳しい表情で拳こぶしを正面に構えたままである。

「ティアリス、それに庭師よ。気を抜ぬくのはまだ早いぞ?」

「え……?」

「この霧は魔法によるもの……これを使用した者が味方とは限らない」

 ジュリアさんは構えたまま正面に向かって声を張り上げた。

「礼を述べるべきなのか否いなか判断が付かない。我らとしても助けて貰もらった立場ゆえ、敵対者とは考えたくないのだ。とにかく姿を見せては貰えないだろうか?」

 ジュリアさんがそう言うとその声は結構間近から返って来た。

「君たちは水神国の者ではない。だから一応確認したかったのだけれどな」

 その瞬間、白く辺りを染めていた霧が一いつ瞬しゆんにして晴れた。

 そしてジュリアさんの構える正面には無ぶ精しよう髭ひげを生やした青年と幾いく重えにもスカーフを頭に巻いた勝気そうな女性、その周りを取り囲み武器を構えた人々が立っていた。

「こんな近くにこんなにいたの!?」

 俺と一いつ緒しよにティアも驚おどろく辺り、察知していたのはジュリアさんだけだったようだ。

 こげ茶色の髪かみ、アウトロー風な青年は軽く笑うと手を広げてみせた。

「まずは構えを解いて貰えないか? 我ら『盗賊団デネル』に本気の君と戦せん闘とう出来る程ほどの猛も者さはいないよ。炎ほのおの女王、ジュリア・E・カルヴァドス王女?」

 いきなり本名を言われたジュリアさん。

 しかし彼女はそことは違ちがうところに驚いたようだった。

「盗賊団……? 言っている意味が分からないのだが……アンダイルのナッシュ王子とベルガのマール王女」

「「えええ!!」」

 盗賊団のリーダー格っぽい二人にジュリアが言った正体に俺とティアはユニゾンしてしまった。