山本たちのトラックは倉庫群の間を突っ走った。

 ゲシュタポの車も追ってくる。

 正面にヘッドライト。

 山本たちのトラックは急いで路地に入り込んだ。

 港とは反対側の方向になる。

 突っ走ると、正面に霧が立ち込めている。

「ここは」

 と山本がきいた。

「操車場に入り込んだのです」

 渡辺がいった。

 運転席の後の窓を通して、霧の中に乱れ動く人影が見えてきた。

 両側に板塀のようなものがつづいている。

 すぐにそれが二本の列車であることに気づいた。銃声が背後から迫る。

 前方にも人の群れが見えた。

 その間にトラックは突っ込んでいく。

 人込みが片方に寄った。

 そのわきをすり抜けていく。

「これは」

 と宇垣がうめいた。

 みすぼらしい男女の群れ。まるで家畜のように押しやられ、精気がないように見て取れる。

「収容所に入れられる人々だ。どうしてここに」

 と宇垣がいった。

「彼らは、ここで列車を乗り継いで、ポーランドまで運ばれます」

 とクリス大佐がいった。

「なんということだ」

 温和な山本が怒りの声を漏らした。

 ふたたび銃声がした。

 人々のうちの数人が群れから逃れて、駆け出しはじめた。

 列車の下にもぐりこんで車両の向こう側に逃れようとしている者もあった。

 拳銃を抜いたゲシュタポが、脱走者を次々と射殺していく。

 人々の中にあどけない少女の姿があった。

「あの子は」

 と市村が声をあげた。

 見覚えのある赤いコートはすっかり汚れ、くすんでしまっている。長かった黒髪は今では無残にられている。だが、いかに汚れていても白い肌は際立っていた。濃いまゆの下のつぶらなひとみが春日に気づいて、助けを求めたように思えた。

「春日さん、あれはアムステルダムでゲシュタポに捕まったユダヤ人の娘ではありませんか」

「確かにそうだ」

「本当か。止めろ、あの娘を救うのだ」

 と宇垣がうわずった声でわめき、運転席の後ろの窓をたたいた。前方を指差して突っ込めという仕種をする。助手席のクリス大佐がわかったという顔をして、拳銃を上げてみせた。

 トラックはゲシュタポたちの中に突っ込んだ。ゲシュタポが飛びすさって逃れる。

 速度を落としたトラックから市村が飛び降りた。

 そのまま娘のところへ駆けていく。倒れている娘を小脇に抱えてトラックに向かって走った。

 荷台から春日たちが手を伸ばしてふたりを引き上げた。

 追ってきたゲシュタポが発砲する。

 れた銃弾が人々の列に飛び込み、何人かぎ倒した。

 山本たちのトラックは機関車の吐く蒸気に紛れて線路を横切り、ふたたび倉庫街に飛び込んだ。

 トラックは増えたゲシュタポに追いまくられて、港の方角に向かって行った。

 いきなり正面に海が見えた。


 夜の海。海面が常夜灯に光っている。

 とうで左折して、さんばしに沿って突っ走った。

 赤いガントリークレーンが連なっている。

 追手の放つ銃弾がクレーンに弾けて青白い火花を散らした。

 トラックの中で、市村は娘をかばって身を伏せていた。娘は眼を閉じたままだ。長いまつが震えているのが生きている証拠だった。弾丸は当たっていないようだ。

 このままでは海に突っ込んでしまう。追手の銃弾が荷台のほろに火をけた。

 ぽっと燃え上がり、風を食らって火勢が広がっていく。

 幌が破れて鉄のはりあらわになった。


「とうとう追い詰めた。やつらは袋のねずみだ」

 SSのケルト軍曹は、キューベルワーゲンの上でほくそ笑んだ。

「隊長、やりますか」

「日本との仲がこじれるから、逮捕するわけにもいかないな。やつらには消えてもらわねばならない。よし、やれ」

「は」

 キューベルワーゲンのサイドボディにはロケット砲が備えられている。

 助手席の兵がロケット砲の引き金に手をかけ、前方を行くトラックに砲口を向けた。

 今まさに引き金をひこうとした瞬間──。

 暗い海で何かが光った。

 とみると、砲弾が飛来──。

 だが、軍曹にとってはそれが何なのか考える余裕もなかった。白熱とともにキューベルワーゲンはこの世から消滅した。



「これは……」

 SS指揮官のワグネル中尉はうめいた。

 彼の眼前で、キューベルワーゲンが消滅した。

 視線を巡らせると、海に潜水艦の黒い姿があった。

 それもUボートとはあきらかに違う。

 ドイツにはあのように大型の潜水艦は存在しない。

 アメリカ軍かと思ったが、そうではないことはすぐにわかった。ブリッジに日の丸が見て取れたからである。

 伊四〇六だった。

 埠頭からの距離は三百メートルほどである。随分近くまで接近したものだ。

 ふたたび、潜水艦が発砲した。

 爆風を食らったワグネル中尉のキューベルワーゲンは埠頭から海に向かって突っ込んだ。



 山本たちのトラックは桟橋に乗り入れた。

 そのまま突端に向かって突っ走っていく。

 突端に着くとトラックを止め、助手席からまず渡辺参謀が飛び降りた。

 山本特使一行は全員そろったことになる。娘は相変わらず市村の腕の中で、意識を失ったままだった。

「大丈夫か」

 と山本が市村一飛曹にきいた。

「ええ。しかし、このままでは死んでしまいます。恐らく栄養失調と疲労で、熱もあるようです」

 桟橋にフランスの漁船が停泊していた。

 渡辺が、拳銃を抜いて漁船に飛び移った。

「申し訳ないが、船をお借りしたい」

 といいながら発砲する。

 船内にいた漁師たちは、仰天して海に飛び込んだ。

「さあ、長官」

 と渡辺が一行を促した。

 宇垣が先頭で、山本長官、春日大尉、少女を抱いた市村一飛曹、伊集院と飯島、そしてクリス大佐が漁船に飛び乗った。

 渡辺がエンジンをかける。

 焼き玉エンジンがぽんぽんと音を立てはじめた。

 桟橋の付け根に敵があらわれ、銃撃をしかけてくる。げんそくで銃弾が弾けた。

 漁船は港の中に走り出た。

 高台の砲台が動きはじめていた。チカッと光がまたたく。

 海面に水柱が上がる。

 頼りの伊号潜水艦の姿はもはやない。



 漁船にできるのは、せめて沖合まで離れることだった。

 エンジンの音は、港に響きわたるてきの音にかき消された。

 サーチライトが海面を流してゆく。それを縫って漁船は進んだ。

 シュルルッと頭上に音がして、前方に水柱が立った。

 埠頭の砲台が攻撃してくるのだった。

 みず飛沫しぶきが山本たちにかかった。

 これで終わりか。その思いがすべての者の頭をよぎったことだろう。

 しかし──。

「長官、あそこに」

 宇垣が叫んだ。

 ふたたび前方に潜水艦が浮上した。

 伊号四〇七。

 甲板の砲に砲兵たちが取りついて砲撃をはじめた。高台の砲台の一基が沈黙した。

 そのすきに、漁船を伊号潜水艦の舷側に横づけにする。潜水艦からロープが投げられ、先端のかぎが漁船のふなべりにかかった。



 伊四〇七の乗組員が手を差し伸べ、ひとりひとり乗り移らせていく。まず少女を抱いた市村一飛曹、山本、宇垣、春日大尉、外務省の伊集院と飯島にクリス大佐、そして渡辺参謀。

 出撃態勢にあった警備の魚雷ていが一隻、発砲しながら接近してくる。

 潜水艦の砲が魚雷艇を吹き飛ばした。

 最後の渡辺参謀が艦の中に飛び込むと、ハッチがただちに閉められた。

「急速潜航」

 伊号潜水艦は潜航を開始した。

 幸い砲弾を受けることもなく、潜航に成功した。

「一番、三番魚雷発射」

 魚雷が防潜網を切断。その間を伊号潜水艦がすり抜けてゆく。

 しかし──。

 伊号潜水艦の周囲にUボートが接近しているのが探知できた。

 その数は六隻。

「取り囲まれました」

 伊号潜水艦は絶体絶命の立場に追い込まれた。

 こちらは完全に位置をそくされてしまっている。

「長官」

 と宇垣。

 いよいよ最期の時か。みんながそう思った。



「すまなかったな、艦長。きみたちを巻き込んでしまった」

 山本が伊四〇七の艦長に声をかけた。

「渡辺参謀から暗号で、帰還予定が早まったとの知らせを受けたのですが。長官をお救いできないのが、残念です」

「われわれを収容してくれただけで、十分だ」

 と山本はいった。

「この上は──」

 自爆という言葉を艦長は飲み込んだ。

 そのとき、見張りの声が飛んだ。

「敵が……退いていきます」

「なんだと」

 エコーの音に、全員が耳を澄ました。

 いくつも重なった音が、次第に遠ざかっていく。

 なぜだ。

 ともかくも──。

「微速前進」

 伊号潜水艦はゆっくりと進みはじめた。

 港を離脱していく──。



 それより三十分前のこと──。

 おおかみの巣の司令部で、作戦会議が開かれた。

 一方の眼に眼帯をかけたドイツ陸軍の中佐が、アタッシェケースを手にキューベルワーゲンを降り立った。

 小鳥の鳴き声が森の静けさを感じさせた。

 将校はそのまま、司令部の建物に入っていく。

 国内軍司令官フロム将軍の参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐である。彼はレニングラードの戦場で地雷原に踏み込んで左目と、両手の指二本ずつを失った。

 眼帯をかけ、両手の指に包帯を巻いていた。先祖代々の誇り高きドイツ軍人で、はくしやくという最高位の身分だった。

 作戦会議場の円卓テーブルには将軍たちがいて、新たなソ連侵攻についての役割分担の打ち合わせをしていた。

「遅くなりまして」

 シュタウフェンベルク大佐はいって、ヒトラーの隣の席に腰をおろした。

 かばんを置き、バインダーをテーブルに出し、万年筆のキャップを取った。

 会議は紛糾していた。

 目標はモスクワと決められた。

 モスクワの攻略はこれで二度目である。前回はモスクワ陥落寸前まで迫りながら、ヒトラーが急に目標をレニングラードに変更して前線部隊を転戦させたりして、あぶはち取らずになった。

 その雪辱を果そうというのだった。もともとモスクワを取ったところで、得る物は少ない。レニングラードやスターリングラードのように石油も出ない。それでもモスクワにこだわるのは、ひたすらヒトラーの面子メンツの問題だった。

「ロンメル、きみがやってくれ」

 とヒトラーは向かいの席に座ったせきがんの将軍にいった。エル・アラメインで英軍を破ったドイツの英雄。エルビン・ロンメル元帥。

 期せずして、隻眼の軍人がふたり顔を合わせた。

「きみに侵攻軍の指揮をまかせる」

「了解しました。つつしんで」

 とロンメルは起立してかかとを鳴らした。

「総統、ちょっと待っていただきたい」

 と割って入ったのはゲーリング国家元帥だった。

「総指揮官はわたしに。わが空軍がタマネギ屋根をぼこぼこにするのです。モスクワを見事焼き払ってごらんにいれましょう。失礼ながら、ロンメル元帥は『砂漠のきつね』といわれている。北国ではわたしの方がふさわしい」

「国家元帥閣下」

 ロンメルは皮肉を顔に出さないようにしていった。

「ソ連人は、逃げるとなれば自らモスクワを焼き払っていくでしょう、われわれに何も残さないために。われわれの職務はそれをさせないことに尽きます。焼け跡に入ったところで、何の益があるというのでしょう」

「これから攻撃するのに、それはないだろう──」

 と絡もうとするゲーリングをヒトラーが制した。

「国家元帥、きみの空軍はロシアの他の地域の航空戦力を引き受けるのだ。モスクワにこだわっている暇はないのだよ」

「わたしは、クレムリン宮殿の中に立ちたいのです。あそこには幾多の名画が保存されているはずですから」

 ゲーリングが絵画や美術品、宝石類を集めるのが趣味であることは、ヒトラーも知っていた。苦々しくはあったが、実害はなかろうと放っておいたのだった。

「閣下」

 とロンメルがいった。

「よろしければ、さっそく参謀長と部隊編制に入りたいのですが。味方をベルリンから呼び寄せる手配も急がねばなりません」

「おお、やってくれ」

「失礼します」

 ロンメルは参謀長とともに立ち上がると、部屋を出ていった。

 フォン・シュタウフェンベルク大佐は、さりげなく足元の鞄のふたを開け、中のダイヤルを回した。

 チキチキと小さな音が立ちはじめたが、蓋を閉じると消えた。

「どうした、シュタウフェンベルク大佐」

 とヒトラーがきいた。

「すみません。飛行機が乱気流に巻き込まれ、酔ってしまいました。まだなおらないのです」

「それなら、奥で休みたまえ」

 とヒトラーがいった。

「それでは失礼して、表の空気を吸ってきます」

 シュタウフェンベルク大佐は会議室を出ていった。

 ヒトラーはあらためて将軍たちを見回し、会議をつづけようとした。

 そのとき、SSのヒムラー長官がせかせかと入ってきた。

「どうした」

 とヒトラーはきいた。

 ヒムラーは総統の耳に口を寄せた。

「なんだと、逃げられた」

「は。しかし、Uボートが捕捉しました」

「よし、ご苦労」

「いかがいたしましょう」

「沈めてしまえ。すべてをアメリカのせいにすればいいのだ」

 ヒトラーは怒りを抑えかねていた。

 日本が軍事同盟を拒んだことが、怒りをますますき立てる。

 拳を振り上げ、何かいおうとしたが言葉が出ない。一瞬、眼が宙を泳いだ。

 だが、そこまでだった。

 シュタウフェンベルク大佐の鞄にしかけられた爆弾が爆発。ヒトラーはぼろ布のように天井に当たり、ついで地面に叩きつけられた──。

 SS長官ヒムラーも爆発に巻き込まれた──。


「やったか」

 とロンメル元帥。

「は」

 とシュタウフェンベルク大佐。

「よし、やろう」

 ロンメルが元帥づえをつかんで、立ち上がった。

 ただちにロンメルが幕僚とともに会議室に入り、将軍たちを逮捕した。

 ロンメルのもとには海軍長官デーニッツからも祝福の電文がとどいた。

 ロンメルが、伊号潜水艦の爆破を中止させたのはもちろんのことだった。



 伊四〇七はドイツの海域を脱した。

 浮上すると、無線が傍受できた。

 ドイツのラジオが国民向けに、ヒトラー総統が死亡し、ロンメル元帥を首班とする臨時共和政府が樹立されたことを宣言していた。

 またSSのヒムラーも死亡し、ゲシュタポが解散することになったと伝えられた。一方、総統に忠誠を誓っていたSSが、フランス戦線から引き返し、反撃のためにベルリンに向かっている。ロンメルの政府軍は、SSと激突することになろう──。


「しっかりしろ」

 市村一飛曹が声をあげた。

 抱き上げた少女がき込んで息を吹き返したのだった。

 少女は、はっとおびえて市村の腕を振りほどき、壁に背中で張りついた。

 骨が浮いた両足のひざがじりじりと引き下がる。

「怖がることはない」

 と市村がいった。だが、ますます少女は怯えるばかりだ。

 代わりに山本がしゃがんで少女と眼の高さを同じにした。

 いがぐりあたまをつるりとで、ドイツ語で話しかけた。

 少女の頰に血の気がもどってきた。

「きみの名前は」

 少女の唇がわなないた。

「……アンネ・フランク……」

 と少女は弱々しい声でいった。

「ご両親はどうしたかな。おじさんは、そしてペーターは」

「どうして、それを……」

 と少女は弱々しい中でも、はっとなってきいた。

「きみの日記を預かっているからさ」

 と市村一飛曹がいった。

「収容所は閉鎖されるだろう。助かるよ、みんな」

 と山本はなぐさめた。

 少女には市村たちの手で水や食事が与えられた。

「長官、着せるものがないのですが」

 と市村がいった。

「水兵の制服があるだろうが」

 と山本がいった。

「結構、可愛かわいくなるんじゃないかな」

 そこへ艦長がやってきた。

「長官、伊四〇六から電信です。無事出港を祝し、合流海域に向かう」