「なんだと、それは確かなのか」

 ヒトラー総統はゲーリング元帥とゲッベルスとともに総統官邸の私室で、くつろいでいたが、SS長官ハインリッヒ・ヒムラーの報告を受けてまゆをひそめた。鼻の穴が大きくなって、くちひげうごめいた。

 ヒトラーはアルコールも煙草たばこもたしなまない。空軍大臣・国家元帥ゲーリングはひとりでスコッチをぐいぐいやっていた。すでに真っ赤な顔をして、苦しそうに腹をあえがせている。

 宣伝相ゲッベルスはきちんと背筋を伸ばし、コーヒーを飲んでいる。

 ヒトラーはといえば、ミルクの半分入ったコップを前にしているだけだ。ぐるぐると部屋の中を歩き回って、昔、売り出す前のビヤホール・プッチの自慢話をしていた。ちなみにプッチとはクーデターのことで、創成期のナチがワイマール共和体制に対して企て、ヒトラーたちが逮捕された事件だった。他のふたりには耳にたこの話だが、神妙に聞いている。

 そこへ割って入ったのがヒムラーなのだった。

「間違いありません」

 とSS長官ヒムラーがいった。眼鏡めがねが冷酷にきらりと光る。

「情けない話だな。これだけ親切にしているというのに、どうして日本の連中はわれわれの気持ちがわからず、のぞきのようなことをやるのだ。それで、彼らは強制収容所の様子を見たのか」

「ハイドリッヒの報告では、見張りが彼らを発見したのは鉄条網の外でした。中をうかがっていたと思われます」

「処理室に気づいたかな」

「それはわかりません」

「あれさえ見られていないなら、どうということはない。収容所のことはもともと隠すつもりなどなかったのだからな」

 ヒトラーは腕組みをし、あごに指を当てた。

「で、そいつらが日本人だと、どうしてわかったのだ」

「ハルダー元帥はゲシュタポとともに彼らのホテルを訪ねました。すると、あのふたり──春日と市村ですな、彼らはトランプをやっているように見せかけていましたが、まだ泥のついた靴をはいたままでした。脱ぐ暇がなかったのでしょう」

「しかし、見張りに目撃されたのはふたりだったのだろう。その彼らを助けたのはいったいだれだったのだ」

「それはわかりません。だが、そいつは警備犬二匹を射殺しています。銃のうまい男ですな」

「では三人組だったんじゃないか。日本側の仲間がもうひとりいたんじゃないのか。誰が考えられる?」

「山本の参謀長をやっていた宇垣という男、調査によると彼は海軍兵学校時代射撃の成績がよかったということです」

「ずいぶん昔の話だな。しかし、収容所はホテルから遠いぞ。彼らはどうやって行ったのだ」

「恐らく行きは線路伝いでしょう。問題は帰路です。なにしろ追跡を受けていたのですから。われわれが知らせを受けてホテルに急行したのは、三十分後です。それなのに彼らはもどっていました。車を利用したとしか考えられません。しかし近所で車が駆り出された様子はありません」

「では、どういうことになるのだ。誰かが手引きしたというのか。本物のパルチザンが」

「パルチザンとは思えませんね」

 とヒムラーがいって煙草に火をけた。

 ヒトラーはそれを睨んで、

「おまえの悪い癖だ。やけに遠回しないい方をするじゃないか。はっきりいいたまえ。誰が手引きをしたというのだ」

「クルーガー大佐ではないかと」

「馬鹿いえ、彼は赴任したばかりではないか」

「収容所の警備兵が彼らを追跡すると、彼らは松林を抜けていきました。その先には街道があるだけです。隠れる場所はありません。ところが、追手が街道に出たときには、誰も見当たらなかったのです。ただちに警備隊が出動し検問を設けましたが、一般の車は通りませんでした。馬車も同様です。なにしろ深夜のことですから。しかし、ただひとり引っかかったといえるのが……」

「それがクルーガーだというのか」

「そうです。大佐は赴任途中でしたが、ワルシャワでパルチザンの攻撃を受け、車が破壊されました。しかも運転兵も死んだので、仕方なくちようはんのトラックを自ら運転して出発しました。つまり、車には同乗者はいなかったはずです。そのトラックが検問を通ったのです」

「それで」

「警備兵は、トラックの荷台をあらためることはしませんでした。なにしろ、相手は司令官ですから」

「敵はそのトラックに乗っていたというのか。しかし、なぜクルーガーが」

 ヒトラーは不機嫌な表情になった。

「クルーガーはきつすいの貴族です。ナチの方針を快く思っていなかったのではありませんか。ユダヤ人の隔離政策には反対だときいています」

「あいつめ、目をかけてやったのに。ハイドリッヒに連絡してクルーガーを拘束するのだ」

「もう拘束しました。いや、しようとしたのですが──」

 とヒムラーは口ごもった。

「抵抗されて、彼らは拳銃を抜いたのです。仕方なく──射殺しました」

「なんだと」

 さすがのヒトラーも眼をいた。

「殺してしまっては、背後の関係がわからないではないか」

「申し訳ありません」

 ヒムラーはいったが、まったく謝っているようには見えない。

「ヒムラー、反逆者を探せ」

ぎよ。それで、山本たちはいかがいたしましょうか。このままでは帰国して、収容所のことを話すでしょう。そうなれば軍事同盟は水に流れます」

「その通りだな」

「今や、あの者たちは邪魔でしかありません。いっそ──」

「そうだな。山本たちを処分しよう。ただし、犯人はアメリカ人のスパイということにしよう」

「よく、わかりました」

「くれぐれも気づかれてはならない」

 ヒトラーはいいきった──。



 一方──はるか地球を半周した、日本占領下のオアフ島──。

 真珠湾には戦艦大和の威容があった。

 南国の陽光を浴びて、ふくするを思わせる。

 真珠湾中央のフォード島からは零戦が飛び立っていく。


 米軍が駆逐されたあとにはトラック基地から、連合艦隊司令部が進出した。

 オアフ島には軍政が敷かれ、連合艦隊司令長官代理となった小沢治三郎が、占領軍司令官を務めていた。

 小沢は、『大和』から、もと米太平洋艦隊司令部のあった高台に連合艦隊司令部を移した。

 破壊されていたアンテナや電波塔は再建され、レーダーも米軍時代にまさる数が島には配備され、稼働していた。

 元来連合艦隊司令部は『長門』や『大和』のような戦艦上にあったが、小沢の主張で陸上に移ったのだった。もともと米軍では艦隊司令部を陸上に置く慣習があったわけで、軍令部も小沢の要望を入れたのだった。留守の山本が同様のことを主張していた影響は大きかっただろう。

 今、小沢は司令部の長官室で、六航戦の大西滝治郎長官と語り合っていた。

「いよいよ、山本長官がもどってこられる。これで、わたしも重責から解放されるよ」

 と小沢がいった。その日、ベルリンの山本五十六一行から、ベルリンを出発すると知らせが入ったのだった。

「小沢さん、それは無理だ」

 と大西が笑った。

「今ではきみは押しも押されもせぬ連合艦隊司令長官だ。山本長官はもどり次第、海軍大臣に就任されるだろう」

「それは戦争が終わってからにしてほしいな。連合艦隊司令長官の激務がようやくわかったよ」

 夜明けには、警戒活動のために東太平洋に出撃する六航戦の空母群が、湾内に集結して、物資積み込みの最中だった。すでに湾の外には積み込みを終えた艦船が艦隊編制をはじめていた。

 ハワイを抑えた日本軍は、同時にガダルカナル島とラバウルなどのニューブリテン島の基地を強化、アメリカに対して鉄壁の布陣を敷きつつあった。

 南のニューギニアでは、新しく奪ったポートモレスビーに艦隊を置いて、豪州侵攻に備えていた。

 豪州にはマッカーサー元帥がいるが、反撃の態勢は到底取り得ないでいる。

 今や日米対決の戦場は東太平洋へと移動していた。ハワイは米国から日本へ、攻守所を変えたのである。

「しかし、戦争は本当に終わるのか」

 大西がきいた。

「そう願いたいが、アメリカ大統領は日本憎しで凝り固まっている。簡単には終わるまい」

 と小沢は首を振った。

「山本長官はそれを読んでおられて、手を打とうとされている。あの人はドイツに対してもアメリカに対しても策を講じていかれたのだ。うまくいってくれればいいと思う」

「策を?」

「伊四〇六が山本長官を迎えに向かっている。まもなくカレーに到着するだろう。ついでに四〇四と四〇五が再度ニューヨーク爆撃に向かっている」

 小沢はいって、思いを大西洋にせた。



 きゆうじようの御文庫執務室では、近衛総理を前に天皇が珍しく落ち着きなく歩き回っていた。

 庭園の紅葉が窓ガラスに弾けて、赤い光の雨を室内に降らせていた。

 天皇はこれまで、閣僚や軍の指導者を前に私人の部分を見せることはなかった。だが、この太平洋戦争では、大元帥の役割を果すため、積極的に姿をあらわしていた。神格化が薄まると、木戸内府などは反対しているが、天皇の気持ちは変わらなかった。

 祖父の明治天皇は、もっと私人の部分を見せていたではないか。

「山本の迎えは万全なのだろうな」

 と天皇はきいた。会見中これで三度目だった。

「わが潜水艦は、カレーに向かいました。すでに目標海域に入っております」

「Uボートは見つけていることだろうな」

「それは仕方がありません」

「もしも、山本がいうようにドイツで政変が起こったなら、Uボートはただちにわが潜水艦を攻撃するのではないか」

「それはなんとも申せません。逆かもしれません」

「うむ」

 と天皇はまだ心配そうだ。

八百やおよろずの神に祈りたい心境だ。今は山本に無事にもどってほしいだけだ」



 山本五十六の一行は、いつたんベルリンにもどると、ライン川下りやニュールンベルクの古都を見たりして、五日を過ごした。それはほとんどがヒトラーの指示によるもので、昔からのプロイセンやオーストリアの文化の素晴らしさを示す一方、軍備の見学もそれとなく織り交ぜられていた。ドイツ国内にはたくさんのようさいが造られているが、とりわけそれらを結ぶアウトバーン(高速道路)のすごさは、山本たちの目を奪った。戦車の走行はおろか、戦闘機の発着も可能にする幅広く長大なものだった。これによってドイツ圏内の交通は格段に便利なものになっていた。

 六日め、山本たち一行の送別会が総統官邸で行われた。

「もういいのだ」

 軍事同盟を受け入れることができなかったことをていねいびる山本に、ヒトラーはそういって笑顔で答えた。すでに山本殺害命令を出しているのだから、まさに百万両の役者である。

「依然として、わがドイツは日本を好意的に見ております。はるか東の彼方かなたに日本があること、心強く思いつづけるでしょう」

「お心のこもったお言葉、恐れ入ります」

 と山本は礼をいった。

「帰路のご無事をゲルマンの神オーディンにお願いしましょう」

 ヒトラーは山本の体をしっかりと抱いた──。

 翌朝、山本たちは旅客機でカレーに飛んだ。そこで迎えの潜水艦に乗ることになっている。

 カレーに着いたのは夕刻だった。ドーバー海峡の向こうで英国の山並みが赤くハレーションを起こしていた。

 迎えの潜水艦は翌朝未明に到着することになっていた。

「今夜はヨーロッパ最後の夜です。町に出てみませんか」

 そう誘ったのは、カレー駐在の海軍司令部のルドガー・クリス大佐だった。

「馬鹿をいえ、そいつは危険だ」

 と宇垣が目をいた。宇垣にしてみれば、収容所事件以来SSの手が伸びないことが不思議でならなかった。

 あの夜、宇垣たちはホテルの部屋に逃げ込むと、宇垣はシャワーを浴び、春日たちは仲間とポーカーをやっている振りをしてちよくの手を逃れた。だが、あれ以来、ドイツ側のもてなしが、なんというかいんぎん無礼になったように思えたのだ。

 彼らは気づいている。

 知った上で、放任しているに違いない。

 収容所の残虐行為を知ってしまった山本たちは、今やナチにとって邪魔者でしかなかった。まして日独軍事同盟など成り立つはずもない。

 宇垣たちは、観光旅行の最中もSS側の動きを警戒していたが、何も起こらなかった。

 となれば、山本たちがドイツ本国を離れる最後の晩が危うかった。

 今夜だ。

 伊号潜水艦に山本たちが乗り込んだところをUボートで撃沈し、米側の責任にする方法もあるが、伊号潜水艦は油断をおこたらないだろう。

「いや、町の様子を見てみよう」

 と意外にも山本が同意した。

「カナリス提督のご好意だ」

 クリス大佐の上司であるカナリス提督は海軍のカリスマ的存在だった。誇り高き海軍軍人の生き残りで、兵たちの人望を一身に集めていた。

「長官」

 と宇垣がたしなめようとしたが、山本が目配せしたので黙った。そのとき、宇垣も山本の気持ちを理解したのだった。

 カレーは、町中にあっても港から吹いてくる潮風が感じ取れる町だった。

 もともとはドーバー海峡を挟んで英国と最短距離にある港町である。

 漁港であるとともに、貿易港であり、連絡港であり──それが今ではなによりも重要な軍港になっていた。

 もしも英国からの反攻があるとすれば、それはこのカレーの海岸だった。なにしろ対岸のドーバー市から三十数キロしか離れていないのだ。

 確かに潮風を感じ取れる町だったが、今では海がどこかと思えるほど、港は巨大化していた。

 さんばしまで貨物鉄道が引き込まれ、英国との連絡船は軍艦の陰に隠れて打ち捨てられていた。待合室のある港湾ビルは、輜重部隊の倉庫になっている。

 港湾施設を見下ろす高台には迷彩を施された砲台が林立していた。カレーは巨大な要塞と軍港にへんぼうしたのである。

 ただし、港湾に大型艦はない。魚雷ていの類だけだ。なにしろ英国からの空爆圏なのだから。

「港の近くにはレストランや酒場がまだ残っています。まいりましょう」

 クリス大佐がいった。

「いいですな」

 山本はクリス大佐と並んでいた。前方を宇垣たちが行く。

 山本たちと宇垣たちの間に距離ができたとき、クリス大佐がいった。

「軍事同盟に関するご協力ありがとうございました」

「…………」

「もしも日本が軍事同盟を結んだなら、総統は息を吹き返すのです。それを阻止してくださった提督に感謝いたします」

「われわれは自国の利益にならないと考えただけのことです」

「まもなくドイツは変わります。ナチは滅び、栄光あるドイツ陸海軍がよみがえることでしょう」

 とクリス大佐は辺りをはばかるような押し殺した声でいった。

「そうなったら、日本の支援は期待できますかな」

「もちろんです。ご成功、お祈りします」

 と山本はいった。

 コツコツと彼らの足音が響く。

 シルエットが長々と、濡れた石畳の舗道に流れた。

 いつのまにか、人通りが途絶えている。

 漁業会社のビルと倉庫が入り混じって道の両側に広がっている。前方の通りがぼうっと明るくなっていた。

 そこには人影がいくつか見られた。小さなり看板がいくつも浮かび上がっている。その辺りが漁港の繁華な通りらしい。

 列車の汽笛が聞こえてきた。

 引き込み線が近いのだろう。

 クリス大佐が先に立って、道を渡ろうとした。

 そのとき、ビルの間でヘッドライトが灯った。

 エンジンを吹かす音。

 運送会社のトラックと見えるものが道に飛び出してきた。排気が白く路上に流れた。

 一行の後方から迫ってくる。

 エンジンの音が強さを増した。

 振り返った宇垣の目の色が変わった。

 トラックは両眼をらんらんと輝かし、突っ込んでくる。

「逃げろ」

 と宇垣が叫んだ。

 山本をかばって宇垣やクリス大佐たちが駆けた。

 迫るトラック。

「こっちへ」

 クリス大佐が路地を指差した。

 一行が転げ込むと同時に、トラックが銃撃しながら走り過ぎた。

 ズガガガガッ。

 銃弾が古びたビルの壁面を削って通った。



「何者でしょう」

 と宇垣が山本にきいた。

「もどってきます」

 とクリス大佐がいって、一行を促した。

「こちらへ行けば、鉄道の操車場に出ます。そうすれば敵は追ってはこられません」

 山本たちは路地に飛び込んだ。

 漁具やおけが乱雑に置かれた間を抜けていく。

 漁港特有の魚の臭いと、ゴミの臭いが磯の風に乗ってくる。

 折れ曲がった路地をクリス大佐の先導で走った。

「恐らく、オランダ人のパルチザンでしょう」

 とクリス大佐がいった。

「今にSSかゲシュタポが助けにきてくれるでしょう。あまりうれしくはありませんが、背に腹は代えられません」

「痛い」

 宇垣が、転がっていた緑色のガラスの浮き玉につまずいて舌打ちした。

 鍵のかかったてつさくを、クリス大佐が乗り越えて鍵を拳銃で破壊した。

 銃声がしたが、仕方のないことだったろう。

 鉄柵を乗り越え、さらに走った。

 いきなり、通りに出た。

 エンジンを吹かす音。

 そこにもトラックが先回りしていた。

 ヘッドライトを輝かせながら、突っ込んでくる。窓から拳銃の銃口が突き出され、地面に弾着の火花が散った。銃声が建物にこだました。

 クリス大佐が拳銃を取り出し、発砲。ヘッドライトの一個が砕け散った。

「向こう側へ渡ってください」

 通りを突っ切って、向かいの路地に駆け込んだ。

 トラックが行き過ぎて停止した。ほろが上がって、拳銃を手にした男たちが飛び降りた。発砲しながら駆けてくる。

 こちらの武器はクリス大佐の拳銃だけだ。

 何かが飛んできた。

 しゆりゆうだんだった。爆発して、爆風が襲ってきた。

 路地は行き止まり。

「ここへ」

 と宇垣がいった。右手の倉庫にくぐり戸があった。そこから中へ入った途端、ふたたび背後でドカンッと爆発音がした。

 鉄のはりが落ち、戸口をふさいだ。

 戸口に自動小銃の銃弾が撃ち込まれた。

 山本たちは、倉庫の奥へと引き下がった。倉庫の中にはニシンなどの魚の箱が山積みになっていた。その間を逃げるのだった。倉庫自体が冷蔵庫になっていて、吐く息が白くなった。

 爆発とともに扉が破られ、男たちが入り込んできたが、硝煙で眼が見えない。

 クリス大佐がひとりを射殺した。さらにひとり。宇垣も撃った。

 しまいには男たちは倉庫の外に逃れた。

「やつらが逃げていくぞ」

 と宇垣。

「やつらは倉庫ごと破壊するつもりですよ」

 とクリス大佐がいった。

 さらに奥へ。手榴弾の爆発にもかかわらず、非常灯はまだ点いていた。

 ふいに爆発がきて、硝煙とともに電気が消えた。

 一瞬、暗闇の中に取り残された。

 だが、焼けげた臭いとともに、めらめらと炎の明かりが伝わってきた。

「やつら、火を点けたようです」

 と宇垣がいった。

「扉があります」

 と春日がいった。

 階段の下に扉が見えた。

 宇垣が飛び降りて揺すったが、鍵がかかっている。

 宇垣が拳銃で鍵を破壊した。

 炎が迫ってくる。

 熱気がどっと襲いかかってきた。

 一同は扉の内側に逃げ込んだ。

 まっすぐに暗いトンネルが延びている。それが背後の炎に浮かび上がっているのだった。正面にも扉が見えている。

 火の手を防ぐため、背後でドアを閉めると、またも真っ暗だ。

 眼の裏に焼き付けてあった通り、まっすぐに進んだ。

 すぐに扉に突き当たる。これはクリス大佐が拳銃で開けた。



 ゲシュタポの司令官ギーガー中尉は、キューベルワーゲンの助手席から、前方に炎を認めた。

 男たちが群がっているのが見えた。散発的に銃声が聞こえている。

 キューベルワーゲンの数は五両で、完全武装の隊員十数名が乗っていた。

 山本を襲った男たちが、逃げようとした。

 車からゲシュタポが降り、男たちを銃撃しはじめた。

 男たちがばたばた倒れた。

 男たちはトラックに乗って逃げようとしたが、銃撃を受けてトラックは壁に激突、横転して炎上した。

 倉庫は今や盛大に燃え落ちようとしていた。

「ギーガー中尉」

 と運転していたハンス軍曹が声をかけた。

「なんだ」

「やつらは、目的を遂げたのでしょうか」

「この様子ではな」

 とギーガー中尉はいってから、死体の一つをり転がした。

「片付けはあとだ。引き上げるぞ」

 ゲシュタポたちは一斉にキューベルワーゲンにもどり、引き返していった。



 山本たちが地下のトンネルを抜けると、そこもまた倉庫だったが、今度は空っぽだった。土と油の臭いのする中を駆け抜けて、扉にとりついた。

 鍵はかかっておらず、外に出ることができた。

 冷たい夜気がせいの思いを一行に感じさせた。

 そこはもとの道で、隣の燃える倉庫の前にるいるいと倒れている男たちが見えた。

 クリス大佐たちは、男たちの死体をあらためた。

「これは、ユダヤ人ですね」

 とクリス大佐がいった。

「どうして、わかるのです」

「ほら」

 とクリス大佐は死体の腕をまくってみせた。

 二の腕にダビデの星が刺青いれずみされていた。

「しかし、どうしてユダヤ人が」

「この刺青は収容所で入れられたものです。彼らは収容所から連れて来られて、パルチザンに仕立てられたのです」

「どうしてそんなことを」

「あなたがたを殺して、パルチザンのせいにするためです」

「なんですって」

「これは総統命令で、ヒムラーのSSが動いたものです」

 とクリス大佐がいった。

「なぜ、われわれを」

 と春日がいった。

「軍事同盟に反対だからですか」

 と宇垣がきいた。

「いいえ。もしや、あなたがたはポーランドで収容所をごらんになったのではありませんか」

 とクリス大佐が探るようにいった。

「それは──」

 と春日。

「やはりね。隠しても遅いのです。総統が一番恐れているのは、収容所の存在が世界の人々の前にあらわになることです。あなたがたは、それに首を突っ込んだのですね」

うわさを確認したかったのだが、われわれは早まったのかもしれないな」

 と山本がいった。

「とにかくそういうことで、彼らはあなたがたを抹殺しようと決めたのでしょう。収容所のユダヤ人を使ってパルチザンに仕立て上げ、あなたがたを襲わせたのです」

「われわれだと……気づかれていたとはね」

 宇垣がうめいた。

 そのとき、車のエンジンの音がした。

「やつらが、引き返してきました」

 クリス大佐がいった。

 ゲシュタポの車のサイレンも聞こえてくる。

「どうしましょう」

 市村がうろたえた声を出した。

「ともかく、港に逃げるより他にないだろう」

 と宇垣がいった。

 そのとき、魚を積んだと見られるトラックが港の方角から接近してきた。

 生臭い空気が吹き寄せる。

 いきなり、トラックは宇垣のわきで止まった。

 助手席から顔を出したのは、渡辺参謀だった。

「早く乗ってください」

「どうして──」

 きいている暇はない。荷台の幌から顔を出したのは外務省の伊集院と飯島だった。

「こちらです」

「おう」

 宇垣は山本を押し上げ、全員が荷台に転がり込む。がっと体が一方へ投げ出された。

 銃声がして、幌にぱらぱらと穴が空いた。

 トラックはユーターンして、だっと走り出した。



「どうして、ここが」

 と宇垣が、渡辺にきいた。

「長官に頼まれて、わたしがあなたがたを尾行していたのです。危険が予測されるので手を打ちました。それで漁師からトラックを借りて、こうして駆けつけたのです。間に合ってなによりでした」

「馬鹿やろう。長官の身に何かあったらどうするのだ。それなら送り出さなければよかったじゃないか。少なくともわたしには言い置いてくれるべきだった。そうすべきだった」

 宇垣が渡辺のえりくびをつかんだ。

「まあ、いいじゃないか」

 と山本がいった。

「わたしたちは、ドイツ側の反応を見とどける必要があったのだ。きみに教えなかったのは、きみが感情を表に出してしまうからだ。必ずわれわれが外に出ることを止めただろう」

「それはその通りです。こんな危険な目に遭う必要はない」

「しかし、これで彼らの態度ははっきりしたよ」

 と山本はいった。

「あとは逃げ出すだけだ」

「そうです、急ぎましょう」

 渡辺はすばやく宇垣の大きな手から逃れていった。

「とぼけた男だ」

 宇垣があきれたような表情をした。

 そのとき、銃声とともに銃弾が送り込まれてきた。

「桟橋まで突っ走ります」

 いいながら渡辺は拳銃の撃鉄を上げた──。