ドイツ海軍の開発した氷山空母『オーディン』は、艦載機によるニューヨーク爆撃を終えると、帰還の途についた。

 西経三十度が近づくと、僚艦の戦闘艦『ビスマルク』『テルピッツ』と別れ、北に針路を変更した。随行するのは駆逐艦だけだ。

 粉雪が水平線を覆い隠している。

「おわかりでしょう。この空母は周囲を氷で補強しています。氷結装置は備えていますが、どうしても、南の海では性能が落ちるのです。ですから行動は北が多くなります」

 ロッド・スティーゲル大尉がふたりのパイロット──春日松五郎大尉と市村定一一飛曹に、笑顔を浮かべていった。

 日本語に堪能なスティーゲル大尉は『オーディン』の艦内での案内役を務めていた。

 これまで──。

 春日大尉と市村一飛曹は、伊四〇一の搭載攻撃機『せいらん』のパイロットだった。

 伊四〇〇型潜水艦二隻は、はるばる南米大陸南端のホーン岬を抜け、フォークランド諸島の沖合を抜けて、ついにワシントンとニューヨークの空爆に成功した。といってもたかだか六機で攻撃したにすぎない。

 ところが、時を同じくしてドイツ海軍もまた巨大氷山空母『オーディン』を開発し、その艦載機でニューヨーク攻撃を行ったのだ。

 この、日独個別の攻撃は、アメリカにとっては大打撃となった。

 そして──。

 出撃にあたって生きて帰らないつもりだった春日大尉と市村一飛曹は、晴嵐が被弾し、燃料切れになった結果、氷山空母に救われることになった。

 母艦の伊四〇一はアメリカ軍の追手を逃れて、米西海岸から離れてしまっていた。

 春日と市村は、ドイツ海軍の客人としてベルリンに向かうことになったのである。

 氷山空母『オーディン』は、外殻部分に氷結パネルを有した十四万八千トンという巨大な空母だった。洋上基地ともいうべきものだが、その巨大さゆえ速度は十八ノットが限界である。

 外殻部分は被弾してもすぐ凍らせて、損傷を打ち消してしまう機能があった。

 もともとは英国海軍の発想だったというが、ドイツ海軍がいち早く実用化したのだ。

 十四万八千トンというのは、もちろん外殻部分の氷が重いせいもあるが、それにしても三百機の戦闘機・爆撃機を搭載するというすさまじさだった。

 これと並行して、ドイツ海軍は続々と空母を進水させているのだった。

 もともと陸軍国だったドイツには港も少なく、遠征のための空母を持つ力がなかった。ところがフランスとの戦いに勝利を得ると、フランスの港プレスト、ボルドー、シェルブール、カレーとどこからでも大西洋に打って出ることが可能になった。

 空母さえあれば、英国も落とすことができる。

 その目標に向かって、ドイツ海軍はひた走っていたのである──。

 ところで──。

 春日も市村も、自分たちがドイツにとってていのいい人質であることを自覚していた。

 人質?

 軍事同盟締結のための脅迫材料だ。

 いまだに日本はドイツと軍事同盟を結んでいないのだから、ふたりを人質にとって、同盟締結を迫るということは十分にあり得ることだった。

 それでも──。

 覚悟を決めてしまえば、春日にしても悪い気はしなかった。とうに捨てた命。それなのにただでベルリン旅行ができるというのだから。

「これが本当に命の洗濯ですよ」

 と市村一飛曹はとりわけご機嫌だった。

『オーディン』の速度は遅い。

 それでも一週間後には、アイスランドの南のフェローズ諸島沖合を抜けて、北海に入った。

 そこでふたりはオランダのアムステルダムに上陸するため、駆逐艦に移乗させられた。

 ベルリンに行くには、アムステルダムの港が交通至便なのだ。

『オーディン』の艦隊は補給のため、そのままさらに北方のキール軍港に向かうという。

 打って変わって時速三十五ノットと駿しゆんそくの駆逐艦は、その日の夕刻には、アムステルダムに着いた。

 もちろんオランダはドイツ占領下である。ベニスと並ぶ水の都は、今ではかぎ十字の旗のはためく艦船で一大軍港と化していた。

 ランチでさんばしに上陸すると、そこに黒のリムジンが待っていた。



 春日大尉と市村一飛曹は、リムジンの後部座席に乗せられた。助手席のスティーゲル大尉がひじを背もたれにかけて、ふたりを振り返った。

 スティーゲル大尉は海軍から、ふたりの通訳としてつけられたのだった。以後、行動をともにすることになる。

「アムステルダム空港に行きます。そこからベルリンまではひとっ飛びです」

 車は運河を渡って町中に入り込んだ。窓を開けると、港の魚の臭いが伝わってきた。

 春日大尉は故郷の広島を思い出した。日本ならどこに行っても見かける漁港の臭い。それがビルの町並みに漂う様は不思議な感覚だった。

 網の目のように走る水路は近くで見ると、かなり汚れていた。それでも古いあかれんの建物が連なり、折り重なって造り出す光景は、木と紙の国から来た春日たちの眼を見張らせるに十分なものだった。

 一見すると町の人々は平時と同じくのんびりしているように見える。人々の服装も原色が結構多く、決して地味なものではなかった。平時とまるで変わらないように見える。

 ところが、交差点や橋に至ると様子が一変する。

 そこには装甲車があり、兵士たちがたむろしていた。

 春日たちの乗ったリムジンは、入り組んだ町並みを抜けていった。

 くすんだ町並みの向こうに風車の連なりが広がっている。案外に町は狭いのだ。

 ひとのない街路に入り込んだ。

『プリセンフラハト通り』

 という標識が街灯から突き出ていた。

 そのとき、聞いたことのないサイレンが聞こえてきた。のどかな感じのする人工音だった。ビルにこだましながら移動している。

「あれは」

「ゲシュタポ(ドイツ国家秘密警察)です。近くに逮捕者が出たのです」

 とスティーゲル大尉が助手席から振り向いていった。不快そうに顔をしかめたように、春日には受け取れた。

 ゲシュタポのことは、春日も市村も聞いていた。

「ドイツの憲兵みたいなものでしょう」

 と市村一飛曹がいった。

「ちょっと違いますね。もっと凶暴です」

 とスティーゲル大尉が苦笑した。

「憲兵は陸軍の警察ですが、ゲシュタポは一九三三年に作られた秘密国家警察です。軍から独立した強い権力を有しているのですよ」

 角を曲がると、前方の舗道に寄せたゲシュタポの車が見えてきた。屋根の上に赤い標識灯が回転している。背後にほろつきのトラックが従っていた。

 トラックの幌の中から、機関銃の銃口がのぞき、兵士が銃座に着いていた。中には拳銃を腰のホルスターにもどしているものもいた。銃身の長い海軍様式のルーガー自動拳銃である。

「トラックの中にいるのはSS(ナチス親衛隊)の隊員です。総統直属の親衛隊で、今では装甲師団まで持つ巨大戦力になっています。残念なことに総統は陸海軍が信じられないのです。V2部隊の指揮もSSが担当しています」

 ビルから、黒い制服姿の男がまず最初に出てきた。ベルトを引き絞り、ブーツをはいている。

 腕章には鉤十字。帽子の深いひさしが目元を隠して恐ろしげだ。背後に黒のコートを着て帽子をかぶった私服姿の男がふたり。

「あの将校はSSです。これが一番凶暴ですから、注意なさってください」

 スティーゲル大尉がいった。

 間に挟むようにして数人の民間人を拘束していた。

 中年の男や女。いずれも猫背で、長いコートを羽織っていた。手には重そうなトランクを提げている。

 男女の前に、短いコート姿の少女が見えた。白い足が寒々としている。少女は女学生のような短靴をはいていた。ベレー帽の陰から黒髪が伸びて肩にかかっていた。

 春日たちの車は、徐行して街路を通り過ぎようとしていた。

 ゆっくりと情景が迫ってくる。

「あれは、何なのですか」

「あまりお見せしたくはなかったのですが……あれはユダヤ人の家族です。見つかってしまったのですよ。ユダヤ人はすべて収容所に送られます」

「どうしてユダヤ人がいけないのです」

 と市村がきいた。

「それは──」

 とスティーゲル大尉はいいよどんだ。それから、

「あまりその質問はなさらないでください。われわれは、ゲルマン民族、つまりドイツ民族を世界有数の人間とみなして、その民族統合のために戦っています。ユダヤ人はドイツに害毒を流しました。金融関係をぎゆうり、いいようにドイツ民族をさくしゆしたのです。第一次世界大戦の敗北の裏にも、彼らの陰謀があったとナチは主張しています。ですが、われわれ軍部には関係ないことです」

 と一気に話した。まるで、暗記しておいたように。

「しかし、ひどい話じゃありませんか。あんな女の子に何の罪があるというのです」

 市村は食い下がった。

「単一民族国家の日本にはわからないことかもしれません。この話は他では決してしないでください。国家の方針にかかわる問題です。あなたがたは危険分子として逮捕される恐れがありますから」

 スティーゲル大尉がこわばった顔でいった。

「それはおかしいですね、われわれは客のはずではありませんか」

 と春日がいった。

「その通りです。ただ、政権の中枢に触れる事項には、たしなみを持っていただきたいということです。われわれが天皇のことをとやかくいったら、嫌な気持ちがするでしょう。それと同じだと思ってください」

 ユダヤ人の男女は、銃口でつつかれながら、トラックの荷台に押し込まれた。

 少女の両手を男がつかんで引き上げようとしている。

 いきなり少女が男の腕を振り払って、こちらに向かって駆け出した。

 運転手があわてて、ブレーキを踏んだ。

 少女の帽子が飛び、黒髪が風に吹きちぎられそうだ。

 濃いまゆの下にあるつぶらなひとみは、恐怖のために凍りついたようだ。逃げ場を探すように、せわしなく視線を周囲に走らせている。

 ゲシュタポの兵士たちが銃を上げるのが見えた。

 ニヤニヤと笑って、ゆとり十分といった様子だ。将校も拳銃を抜いた。このままでは少女は射殺されるだろう。

「いかん」

 スティーゲル大尉が車を止めるよう命じ、助手席から飛び降りた。春日と市村一飛曹も続いて舗道に降りた。

 春日の足が思わず先に出た。

 少女が春日を見た。

 目が合ったのだ。その目に絶望を見て、春日は胸を締めつけられたような気がした。

 SSの将校が投じた警棒が少女の足に当たった。

 少女は植え込みに弾き飛ばされた。その手から何かが落ちた。

 SSの将校がやってきて、少女の腕をつかむと引きずり起こした。

「待て」

 と春日は両手を広げて、割って入った。

「乱暴にするな、痛がっているじゃないか」

「なんだ、貴様は」

 ゲシュタポの将校が春日をにらみ返した。手を上げると部下の隊員たちが銃を手に駆けつけてきた。私服のゲシュタポもやってきた。

 スティーゲル大尉がSS将校の前に立った。

 相手が大尉なので、SS将校もハイル・ヒトラーの礼をとった。

「わたしはナチス親衛隊のカール・ヨーゼフ・ジルバーバーグ少尉です」

「お役目、ご苦労です」

 とスティーゲル大尉はいった。

「あの者たちは、まる二年、あのビルに隠れていたのです。通報者があって、捕まえました。年貢の納め時というわけです。で、この無礼な者は?」

 と春日を睨みつけた。

「この方たちは、ワシントン攻撃にあたった日本海軍のパイロットです。総統のひんかくとしてベルリンに向かいます」

「それは──」

 とジルバーバーグ少尉の態度ががらりと変わった。

「勇敢なお働き、聞き及びます。しかし、われわれの公務に口を挟まないでいただきたい」

「この方たちは欧州は初めてで、驚いたのだ」

 とスティーゲル大尉はいった。

「そうだな春日大尉」

「違う」

 といったが、スティーゲル大尉の目付きに、違った恐怖のようなものを見て取って、口を閉ざさざるを得なかった。

「これは、残酷な──」

「黙れ」

 とスティーゲル大尉がいつかつ。拳銃に手がかかっているのに気づいて、春日もすくみ上がった。

 少女は引かれていった。トラックの幌の中に押し込められる。

 SS将校が春日たちを冷たい表情で見た。

 スティーゲル大尉がゲシュタポの指揮官に向かって何かいった。

 SS将校は、もう一度、春日たちを睨んだ。それからくるりときびすを返し、車にもどっていった。

 ふたたびサイレンが鳴り渡り、車とトラックは走り去っていった。

「行きましょう」

 スティーゲル大尉は何かを吹っ切るかのように助手席にもどっていく。

「隊長」

 と市村が春日を促した。

「しょうがないではありませんか。郷に入っては郷に従えですよ」

「しゃれたこというな。あの女の子の悲しげな目、忘れることはできない」

 と春日は目をそらそうとして、植え込みに落ちている本のようなものに気づいた。

「これは……」

「あの子が落としたものですね」

 と市村がいった。

 春日は手にとってみて、それが本ではなく、赤いしおりひものついた立派な装丁のノートであることに気づいた。

 中には鉛筆やペンで、びっしりと文字が書き込まれていた。ドイツ語なので、よく読めない。ただ、日付らしいものが、ほぼページごとに記されているのがわかる。

「どうしたのです」

 車にもどると、スティーゲル大尉がきいた。

「あの少女がこれを落としていったのです」

 春日が差し出すと、スティーゲル大尉は表紙を見て、中をぺらぺらとめくった。

「あの子がつけていた日記ですね」

「なにが書いてあるのでしょう」

「あの家族は長いこと、屋根裏部屋にでも隠れていたのでしょう。長いこと……。そこでの日記でしょうかね」

「なんという名が書いてありますか」

 と春日がきいた。

「アンネ・フランク、とありますね」

「優しい名前ですね。あの人たちはどこへ連れて行かれるのでしょうか」

 と市村がきいた。

「わかりません。とりあえず、ヴェステルボルグの通過収容所に入れられ、そこから列車で運ばれて、東方の強制収容所に入れられることでしょう」

「収容所から……もどってこられるのですか」

 と春日がきいた。

「まず、無理でしょう」

「まったくひどすぎる。ドイツ国民はそれを許しているのですか」

「許す……ですか。もともとユダヤ人に対する差別意識はあったのです。その意味では許していたのですよ」

「国民が……信じられません」

 春日が吐き捨てるようにいった。

「今では後悔しているでしょうが、もとは国民の責任です。ナチスはその思いに火をけただけです」

「恐ろしい話だ」

「恐ろしい?」

 とスティーゲル大尉は苦笑したが、その目はぞっとするように冷たかった。

「そんな……なまやさしいものではありません。地獄ですよ。ところで、こんなものはゲシュタポには見せられません。わたしの方で処分しましょう」

「いや」

 と春日がいった。

「どうするのです」

「ぼくに預からせてください。ドイツ語の勉強になりますから」

「……いいでしょう。だが、決してゲシュタポには見つからないように」

 スティーゲル大尉はノートを春日に渡した。かすかなラベンダーの匂いがするのは、アンネという少女のたしなみであろうか。

 春日はノートをかばんの中に押し込んだ。



 春日と市村、そしてスティーゲル大尉の乗ったユンカースが、灰色の密雲の垂れ込めたベルリン空港に着いたのは、翌日の夕方のことだった。

 一九四三年三月二日のことである。

 空から見下ろすベルリンは、くすんだ中世の町の記憶を残していた。

 タラップを降りようとした途端、迎えのぎようぎようしさに、春日は息を飲んだ。市村は春日の左手をがっちりとつかんでいる。

 スティーゲル大尉が先に立って、タラップを降りた。

 タラップの下に黒のリムジンがずらりと並び、その前に革のコートに中折れ帽をかぶった男たちがいた。その背後に陸軍の兵士たちが控えている。

 スティーゲル大尉が、先頭の小柄な男にさつそうとハイル・ヒトラーとやってのけた。

 春日と市村はぎょっとなった。空母でも駆逐艦でも、ナチ式敬礼は行われることはなかった。敬礼は通常の形で行われていたのだ。

 小柄な男が答礼した。黒革のコートが光沢を放っている。

「大尉、ご苦労だった」

 と小男がいった。

「は」

 とスティーゲル大尉は小男に答えると、春日と市村に向かっていった。

「紹介しよう。宣伝相のヨゼフ・ゲッベルス閣下だ」

「ようこそ、第三帝国へ」

 とゲッベルスはいって、春日と市村の肩をぽんとたたいた。

「総統がお待ちかねだ」

 くるりと身をひるがえして、車に乗った。リムジンはそのまま走り出した。

 春日と市村もスティーゲル大尉に促されて後続の車に乗った。

 ふたりが乗った途端に車はがっと発進した。

 飛行場は、メッサーシュミットやフォッケウルフ、ユンカースなどの軍用機であふれていた。首都防衛の陣容だった。

 ベルリンの市街地に入り込むと、ビルや街灯にくくりつけられた無数の鉤十字に度肝を抜かれた。まるで鉤十字の形をしたロボットが行進しているようだ、と春日は思った。

「ドイツは国を挙げてあなたたちを歓迎しているのです」

 とスティーゲル大尉がいった。

「東洋の同盟国からの若き使者なのですから」

「同盟はまだ結んではいませんよ」

 と春日が口をとがらせていった。

「いずれそうなるでしょう。なにせドイツも日本も、同じ敵アメリカと戦っているのです。アメリカは強大です。しかしドイツと日本が力を合わせれば、倒すことができるでしょう」

「確かにその通りですよ」

 と市村がのぼせたような表情でいった。

 議事堂前の広場に出ると、陽は暮れかかっていた。

 松明たいまつの明かりとけんそうが広場を満たしていた。

 赤い布地に、白く丸が切り抜かれ、その中央に黒い鉤十字が埋め込まれた垂れ布が、ビルというビルに掛かっている。松明を手にした兵士たちが広場を埋め尽くし、中隊ごとの先頭にはローマの軍団を思わせる鉤十字ののぼりが掲げられていた。

 車は、重々しい赤煉瓦の建物の前に寄っていった。鉄の門扉が開き、その中に吸い込まれていく。

 車寄せに停まったときには、すでに陽は落ちていた。

 先に降りたゲッベルスは、ちらりとこちらを見ると、つかつかと建物の中に消えた。

「行きましょうか」

 とスティーゲル大尉が春日にいった。

「ここはどこなのです」

「総統官邸です」

「ということは、われわれがこれから会うじんとは」

「総統です」

 とスティーゲル大尉はぶっきらぼうにいって歩きだした。

 春日と市村はよろよろとつづく結果となった。

 エントランスの吹き抜けの天井には、巨大なクリスタルのシャンデリアが光を放っていた。

 ふたりが案内されたのは、せん階段を上がったところにある一室だった。

 豪華なヨーロッパ風調度品のある部屋だった。

「一時間さしあげます。その間にに入って、着替えていただきたい」

 とスティーゲル大尉はいった。

 テーブルの上に、ドイツ海軍の制服とシャツ・靴下・下着類、そして床にブーツが、用意万端おこたりなく置かれていた。

 そのわきにトレイに乗せられてワインのデカンタとグラスが、いちごの皿とともに置かれていた。

「えらいことになりましたね」

 と市村がいった。

「相手はヒトラー総統ですよ」

「しょうがないだろう」

 と春日が投げやりにいった。

「第一、こんなドイツ軍の制服をどうして着られる。俺たちは日本の軍人だぞ」

 そういいおいて、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。

 ふたりの飛行服とブーツは『オーディン』乗組員の好意で、血と汗と油は落とされていた。以後、ふたりは、ドイツ海軍の勧めてくれた軍服をしりぞけ、かたくなに白シャツか飛行服で通してきたのだった。

 そして今、ベルリンにおいて、ドイツ海軍軍服に着替えさせようというドイツ側の気持ちはわかったが、それはできない話だった。

 市村一飛曹が隣室のドアを覗き、浴室があるのを確かめてもどってきた。

「風呂はどうしますか」

「よかったら入ってきな。俺はめんだ」

「それでは、ぼくもやめます。失礼」

 といって市村もまた、ベッドに仰向けに倒れた。

 どっと疲れが出た。

 ふたりとも、たちまち寝込んでしまった。



「どうにもしょうがありませんな」

 スティーゲル大尉がベッドの脇に立って、春日たちを見下ろしていた。どうやらスティーゲル大尉は腹立ち紛れにベッドをったらしかった。その衝撃で、ふたりは目を覚ましたのだった。

「どうして支度をしないのです。総統に会うのですよ。汚い恰好では恥をくではありませんか」

「われわれは軍人です。戦場から招かれたのですから、ボロボロで当然ではありませんか」

 春日はついむきになった。

 戸口でせきばらいがした。

 ゲッベルスが立っていた。にたにた笑っている。背後にSSの隊員が数人いた。

「いいだろう」

 とゲッベルスはいった。

「総統はかえってお気に入りになるかもしれん」

 ふたりは飛行服のまま、とにかくも顔の汚れは落とし、SSたちに前後を挟まれるようにして、赤いじゆうたんの敷き詰められた廊下を歩きだした。

 丈高い扉が開いていて、中からしわがれた声が聞こえてきた。

 ラジオで聞いたことのある声。

 春日と市村は、脚から力が抜けたようになっていた。

 ドアから、室内が見えた。

 高い窓がずらりと並んでいる。赤いビロードのカーテンが絞られている。中央の地味なテーブルに地図が広げられ、その上にのしかかるようにして、けばけばしい勲章と階級章だらけの将軍たちがいた。

 その真ん中にいる幾分小柄な男がアドルフ・ヒトラーだった。

 前髪が垂れかかり、その間から熱っぽい目が覗いている。目にはくまが見て取れた。

 ゲッベルスが近づいて、そっとヒトラーに耳打ちした。

 ヒトラーが顔を上げて、春日たちを見た。

 途端に、笑みがその顔に広がった。それまでの厳しい表情が打って変わったような砕けたものになった。

 満面の笑みを浮かべたまま、将軍たちの輪から抜け出てくると、春日の手を取り、次いで市村の手を両手をつかんで一杯に振った。

「ようこそ、勇士たち」

 とヒトラーはいった。

「なあ、ゲーリング」

 と太った大男に声をかけた。大男のベルトははち切れそうで、えりからは首のぜいにくがはみ出ていた。

「東洋から来た空の英雄を紹介しよう。春日大尉と市村一飛曹だ。はるばる太平洋と大西洋を渡って来てワシントンDCを爆撃した勇士だよ」

「なかなか」

 と国家元帥・空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、首を振りながら、ふたりの手を取った。

 ぼそぼそと何かいったが、聞き取ることはできない。

 でっぷりとした肉の中から豚のような小さな目が覗いていた。その中に感情を読み取ることは難しい。

 ヒトラーは、春日と市村の汚れた恰好を見てから、すぐに両手を一杯に伸ばし、春日の体を抱いた。自分が汚れるのをまるで気にしていない様子だった。

 春日大尉の背中をぽんぽんとやって、それから市村一飛曹に同じことをやった。

 それからヒトラーは秘書らしき女に何かいった。

 秘書は壁際に飛んでいって、窓を開けた。

 バルコニーを通して、広場の喧噪が伝わってくる。

 ヒトラーは春日と市村の背中を抱えるような恰好で、バルコニーに出た。

 夜ではあったが、広場は人込みで一杯だった。

 ヒトラー総統が群衆の前に春日と市村を抱いて立っているのだ。

 あらかじめ用意してあったらしいスポットライトが、ヒトラーに当てられた。

 群衆がヒトラーに気づいた。

 歓声があがる。

 ヒトラーは春日たちの手を取って挙げた。

(ハイル・ヒトラー!)

 群衆の声が高まった。

 ヒトラーがふたりを両側にして演説をはじめた。

 当初にこやかだった顔が、やがて緊迫したものに変わり、くちひげを震わせ、こぶしを振り上げて群衆に話しかけている。

 春日たちには何をいっているのかわからない。

 演説が終わると、ヒトラーはスティーゲル大尉たちにふたりを託し、作戦用のテーブルにもどっていった。それからは、もはや春日たちの方を見ることはなかった。



 春日と市村は、部屋にもどされた。

 すると、ベッドの上に別の洋服が置かれていた。

「これは」

 春日は息を飲んだ。

「日本海軍の制服です。ちゃんとあなたがたの階級章もつけてあります。これをおしください。今着ている軍服は、帰国の日までお預りしましょう」

 とスティーゲル大尉はいった。

「どういうことです」

 と春日。

「総統閣下は、あなたがたの愛国心を試したのです。あなたがたは自国の軍服に、あくまでもこだわられた。見事合格ですよ」

「そんな……。ぼくたちはこれからどうなるのです」

 と市村一飛曹がきいた。

「当分、ドイツ国内にいていただくことになります」

「帰れるのはいつなのです」

「今、外相が日本に向かっています。その交渉次第でしょう」

「つまり、ぼくたちは捕虜なのでしょう」

 市村がいった。

「はっきりいってください」

「そんなことはありません。あなたがたは客人です」

「それなら好きなときに、帰国できるはずだ」

「もちろんです。その件でしたら、どうか貴国の大使と相談なさってください」

 戸口で咳払いがして、口髭を蓄えた男が入ってきた。濃紺に白のストライプがらのダブルのスーツに身を包んでいた。

「あなたは……大島大使」

 大島浩。駐独日本大使である。

「大使、ぼくたちを大使館に連れていってくれるのですね」

「もちろんだ。きみたちには大使館に部屋を用意してある。しかし日々の日程はドイツ政府に従ってもらう。きみたちは日本海軍の親善使節なのだから」

 と大島大使はいった。

「大使、伊四〇一はどうなったのですか」

 市村一飛曹がきいた。大島ははっとなったが、すでにドイツ側関係者の姿はドアの外に消えていた。大島はいった。

「艦隊は一隻の犠牲もなく、新たな作戦に向かった。四〇二号も同様だ。きみたちのことは艦隊司令に連絡してある。安心してこの流れを楽しんでいればいいのだよ」

 この機会を逃すまいと、春日がいった。

「大使、自分たちはアムステルダムで、ユダヤ人の家族がゲシュタポに捕まるのを見ました。なぜユダヤ人を捕まえるのかわかりませんが、何かこの国はとても恐ろしい感じがするのです」

「確かに、彼らの思い込みはかたよりすぎている。だが、戦争ともなれば敵の敵は味方なのだよ」

「ぼくたちは早く戦線に復帰したいだけです」

「それなら、もう戦線にいるよ。きみたちは日本海軍の代表としてドイツ相手に行動する。きみたちがどうするかは、われわれ日本政府が決めるのだ」

「…………」

「わかったな」

「はあ」

 春日大尉は市村一飛曹の顔を見ながら、不得要領にうなずいた。

「よし、今夜は総統官邸の夜会パーテイに呼ばれている。そこにある制服を身に着けて、出席するのだ」

「夜会でありますか」

「そうだよ」

 大島は肩をすくめた。

「総統はにぎやかなことがお好きなのですね」

 と春日が皮肉っぽくいった。

「いや、主催するのは宣伝相だ。ゲッベルスは派手好きでね」

 大島はまたも両肩をすくめた。それが欧州で身につけたマナーでもあるかのように。