『昨日、お酒を飲んだわ』
『友達と』
『あ、誕生日が来たから?』
『そう』
『ビールを飲んでみた』
『どうだった?』
『苦いとは聞くけど』
『そのとおり』
『苦かったわ』
『また飲みたいって味じゃなかった』
『慣れたらおいしくなる』
『のかな?』
『当分やめとく……』
『私は二月だからまだ先』
『知ってる』
『年下なのね、今』
『
『逆っぽくない?』
『そう?』
『うーん』
『言ってなんだけど私に夏っぽさはないか』
『そうね』
『春を連想するわ』
『なんで春?』
『春に出会ったから』
『あはは、そのままだ』
『
『冬のイメージ』
『私は落ち着いてるわけじゃなくて』
『うん』
『それでいいわ』
『ちょっと気になる言い方』
『でもそっか、お酒か』
『
『いつかね』
『うん』
『そういう日が、来るといいな』
前は使われていなかった二階の音をぼぅっと聞いていると、カップの
そして店長である
「顔色悪いねぇ」
パッと見て指摘されるくらいには露骨なのだろうか。コーヒーカップから漂う香りが、
「なにか悩み事? 乗れる相談だといいんだけど」
「うーん……」
「随分と頭痛そうな顔してるじゃない」
「はい」
肯定した私に、
「頭痛がずっと続いてます」
額を押さえるようにして訴える。
「あら、夏風邪?」
横に首を振る。なるほど、顔色の悪さもあってそう取られるのか。
でも実態はもう少し情けない。
「多分、昨日飲んだお酒のせいじゃないかと」
知識だけでのことなので、正しい症状を
ただ、朝から治まることのない頭痛と
「二日酔い?」
「なんでしょうか」
私の発した疑問には、
「それじゃあまずはこっちで」
コーヒーの横に水入りのグラスが置かれる。手にとってよく見ると、水にしては少し濁っていた。そっと口をつけると味も透明ではなく、やや甘い。
「いわゆるスポーツ飲料。塩分と糖分も取れるからね」
「どうも……」
意外なものが用意してあるんだなと思った。自分で飲んだりするのだろうか。
差し出されたグラスの中身を少しずつ飲みながら、時計を確かめる。
アパートから帰った後、家でベッドに横になったらそのまま朝まで意識が飛んだ。深夜の
そこから
そんな私の様子を、
「お酒は初めて飲んだの?」
「ええ、誕生日を祝うという名目で」
「あらおめでとう」
「うーん」
「あの、なにか?」
「そのコーヒーを無料にするか、悩んじゃった」
「お気持ちだけで十分です」
それよりも、とグラスを置いてから顔を上げる。
「ちょっと話を聞いてほしい、というか」
前にもこんなことが、こんな構図があったような気がする。前というには少し時間が
「ふむ」と
「少し落ち着いてからでいい?」
「はい」
「二日酔いのところ申し訳ないけど、少し待っててね」
二日酔いは関係ないのでは、と否定したかったけれど頭を動かしたらまた奥から鋭い痛みがやってくる。関係は根深いようだ。頭と目がぐるぐるしているのはアルコール以外にも原因があるとは思うけれど、飲み方が軽率だったのは
普段の私なら飲む前にもう少し調べてから実践したと思う。
少し、浮かれていたのかもしれない。
それから、
私はこれまでになにか、夢を
待っている間に頭痛も少し落ち着いていた。これなら真面目な話にも支障はないと思う。
「お待たせ。あ、お酒の飲み方なら、お
手を拭きながら、
「しばらくは飲みませんけど、ありがとうございます……」
「最初に酔った時は私もそう思ったよ」
そう笑う
子供と大人だけでなく、
そういう人だと思っているから、この店に来たのだ。
カップに手を添えるようにしながら、やや
「先日、告白されました」
「あら」
言ってから、先日どころか昨日だと思い直す。まぁそのあたりの細かい部分は省いてもいい。
「相手は? 大学の子?」
「ええ。一年生だから、一つ下の子」
「かわいい子? それとも美人系かな?」
聞き方と笑顔から、どちらにも特定のモデルを思い浮かべていそうだった。
ここに私と来た相手を考えれば、すぐに心当たりに行きつく。
相手が男性だったら、私は恐らく悩まないだろうから。
「どちらかといえばかわいい方の子だと思います」
そして、私がこれまで好きになってきたのは美人の方だった。
興味のあるものは驚くほどはっきり記憶して、そうでないものは
「悩むってことは、その子のことは嫌いじゃないのね?」
「それは、はい」
むしろ、と言いかけて、むしろ? と疑問を覚える。
「……中学生の時にも告白されたことがあるんです」
「モテるわねぇ」
茶化される。なんなら高校時代も何度か告白されているけれど、そのあたりは重要ではない。
「その時は好きってどういうものか分からないまま付き合って……後付けで好きにはなったんですけど結局、
だから、誰かの好意を少なからず疑ってしまうのかもしれない。
自分は簡単に人を好きになってきたのに。
こういうところ、割と自分に甘い気もする。
「またそうなるかもって?」
「ちょっと」
一度失敗すると、変に賢くなって臆病になる。祖母が以前、そんなことを言っていた。
今の私はまさにその通りで、だけど。
賢くなることはきっと、悪いことじゃない。
「ただ、今度は前向きに悩んでいる。……変な言い方だけどそんな風に感じてます」
あの時とはきっと、なにかが違う。そのなにかこそ、自らの知性の高まりだと思いたい。
「うん」
時々、意地悪だけど。
「たくさん悩むといいよ。そういう生真面目なところ、魅力的だと思うから」
「どうも」
さらりとした
接客業に従事している故かもしれない。
「相談ってほどじゃないけど、話すだけでも気が楽になるよね」
「はい……」
実際、そういうものだと思う。
動物だっていつまでも
意思は、生き物だ。ずっと閉じこめてはいられない。
「それにしても大学かぁ。もう随分と
指を一つ二つと折って数えだしたけれど、途中で何かに気づいたように
その一部始終を見届けていた私に、
「あはははは」
「あはは……」
大げさに勢いよく笑って流されていく。
「そういえば、付き合ってみないと分からないって行動に移した誰かもいたわ」
「……
「しっかり青春してるねぇ」
軽くからかわれて、青春という表現に後ろめたさみたいなものを覚える。
年齢的な問題で。
「青春って高校生くらいまでじゃないですか?」
「大学生もあんまり変わらないでしょ」
「なんなら、私もまだ青春してるつもりだよ」
「それは……えっと、若いですね」
「冗談だったんだけど……」
お互いに
大学生だって、あまり変わらない。
そうだろうかと考えてみると、確かに、と思う。
高校生と大学生の自分の違いは、明確に見つからないのだった。
私のことを好きな私の後輩と、大学で当たり前のように鉢合わせる。
「よ、よっす」
そんな調子だっただろうか。
「おはようございます……」
ぎこちなく頭を下げてくるけど、これまた今までの
正門近くで立ち止まって、夏の日に
「いやこんな風じゃなかったよね、えぇと、普段はどういう態度だったかな……」
「いつも通りで……あ、そのいつも通りに悩んでるのよね」
改めて悩む姿を見せられると、こちらも以前の関係というものを見失いそうになる。それから、告白されたのだと遅れて意識する。考えておくとは言ったし実際たくさん考えたけれど、答えは出ていない。でもそれはそれ、これはこれで、私たちには大学での生活がある。
とはいえ並んで歩くと、ややぎこちなさを挟む。
「
「ええ、特に問題なかったわ」
少し
電車に乗って、座ってからは意識が途切れ途切れだった。景色に光がついたり、消えたり。車両の揺れ具合に合わせて夢と
目が合うと、私を見上げる
夏とは異なる温かさを、私の目の中にも届けてくる。
「どうかした?」
「どうかしたって、した、よね。しました。思ってること、全部知られた」
「そうね」
そんなことを直接言われると、私の方まで同じ心境に引きずり込まれてしまう気がする。
「心丸裸で好きな人の前にいるって、相当恥ずかしいなって」
「……そうねぇ」
高校を卒業してから
「返事聞くまで会わない方がいいのかな」
「そうね……」
返答に窮して同じ反応ばかりになってしまう。でも私に言われても、その、困る。
私だって悩んでいるのだから。
悩むということは少なくとも否定的ではない。それは
そう私は否定しているのではなくて、足を止めて、警戒している。
自分がなにを警戒しているのかは既に分かっていた。だからこそ一層、真剣になってしまう。
真剣で、でも答えはすぐに出せなくて。
たくさん学んできた、そんなつもりだったのに。
それでも、それなりに色々な好意というものに触れてきて、そして今。
改めて、多様なものを手に取り、見比べて、考える。
好きって、なんだろう。
『明日は大学に来る?』
『行くよ』
『なんでしょうか』
『話すことがあるの』
『会える?』
『喜んで!』
『ああでも待って喜んでいい?』
『いやいやいやそういう話?』
『ああああああああ』
『落ち着きなさい』
『そういう話をするつもりだけど』
『落ち着くの無理』
『無理無理』
『無理ならそうね』
『諦めましょう』
『割り切るの早いよせんぱい』
『でも普段から落ち着いているかっていうと』
『そうでもないかもわたし』
『そうよね』
『じゃあまた、明日』
『ええええ』
『今日はまだ六時間もあるじゃないか』
『明日って遠い……』
『安心なさい』
『そこまで悪い話じゃないわ、多分』
翌日、顔色の悪い
「こんにちは」
「まだ昼にもなってないわよ」
「
「ひどいっ」
「……
少し訂正すると、
「これは、ほとんど寝てなくて……化粧でごまかせるはずだったんだけど、汗かいたらあんまり意味なかったね」
あははあはと
「慌てなくてもいいのに、ともう何度か言っている気がするわね」
「慌ててるつもりはないんだよ。気持ちに追いつこうと思うと自然、走ってるだけで」
急ぎ足の理由を自分なりに説明してくる。私には縁が薄く、とうに失われた理由だ。
自然と走るなんて、子供の頃、猫を追いかけていた時まで
なにかに飛び乗るように、
「……あなた、お酒の匂いがするわね」
「えっ」
真っ先に気づいたことを指摘する。後輩はバツが悪そうに目を
「落ち着こうと思ってつい、なぜか冷蔵庫にビールが入っていたんですよね」
「あんなもの飲んだらかえって気分が乱れそうだけど」
世に言う寝酒というやつだろうか。効果は顔色を見る限り薄いようだ。
「それに、飲みすぎるのは感心しないわ未成年。社会のルールよりも、あなたが健康でいてほしいから」
「いやそんな常飲してないよ?」
「ちゃんと、悪い話じゃないと言ったのに」
「そんなこと言われたら余計寝られないよ……そこまでって部分が特に」
嘆きながらも、
「でも
なんの話? と目の動きで問うと、
「
こちらを向き、後ろへ足を動かしながら、
夏の日差しよりも鋭く、声は頭の奥に差し込む。
「ああ……」
よく分かる、と思った。
自分からの気持ちが走りすぎていると、不安になる。どこまで行けばいいのか、通りすぎていないのかって。だから応えてくれるものがあれば、それだけで足を止めて安心できる。
心は離れすぎては細く、弱いものになっていく。自分からも、そして相手からも。
私はそんな、人並みに弱い人間だった。
「それで、どこに行くの?」
取りあえずついてきて、足を動かしている
「講義棟の裏」
「ん? ベンチ?」
「人気のない所の方がいいでしょう?」
「え、うーん……うん、そうだね。わたしがまた泣くかもしれないし」
「……そうね」
涙は、感情の
最初に見た
「暑いねぇ」
「本当に」
途中の会話は、それだけだった。
そうしていつものベンチにやってくる。いつもの……いつものというほどでもないけれど、私と
背筋を伸ばすように座りながら、広がる景色を眺める。
以前に囲われていた自然とはまた異なる緑の連なりと、季節を示すような熱の輝き。
先輩とは中庭で、
その始まりと終わりの場所を立ち去る時、私は。
今度こそ、涙の一粒も流さないだろうか。
「答える前に質問していい?」
「ど、どうぞ」
日焼けした肌によく似合っていた。
「あなたは私をどうして好きになったの?」
ベンチを覆う陰のせいか、自分の声が少し冷たく聞こえた。
「これは、あれ? 誠実さみたいなものを確かめてるのかな?」
「単なる好奇心よ」
好きとはなにか、
「どうしてって難しいな……その、
「
つい
「だから、顔に
「……ふむ」
分かる話で、大いに納得してから少し照れる。この顔がね、と
「なるほど」
「そうなんですよ……」
目を強く開くように、彼女を見据える。
「じゃあ、言うけれど」
「うん……」
「正直に言うとね、今、あなたのことが好きでたまらないかというとそうでもないの」
そこは彼女も感じているだろうと思って切り出す。
と。
「えっ」
「こっちがびっくりしそうよ……好きでたまらないと思ってた?」
指摘されると気恥ずかしくなってきたのか、
「いや……さすがにそこまで自信は……あ、でもそうでないと困るよね……」
ぐむむむ、と
どうしよう、と途方に暮れそうになる。ここは、なかったことにして話を続けてしまおうか。
待ってみても、なにも変わらず
「……………………………………」
なかったことにした。
「前にもこんなことがあった。そして、私はその人を本当に好きになった」
話を急に戻したことで、
「……前に付き合ってた人だよね? わたしと正反対の」
小さく
「あの時は、好きというものがなんなのか分からなくて、知りたくて、付き合ってみようと思った。先行きもさっぱり分からないままね。割と不純な理由かもしれないけれど、それがきっかけで。今は、その時と状況がとても似ているように思う」
まったく違う相手なのに、状況だけが
人にはそれぞれ至る道があり、そこをなぞれば、同じようなものを避けて通ることはできないのかもしれなかった。
「えぇと、つまり?」
きっと、この子の好意には
なのに、あの時の結末が拭いきれない。
だって、私の先輩への好意だって最後は
今度は私が裏切る方になってしまったら、なんて考えてしまう。
そんな風に、手が宙を
近寄ることもしなくて、かといって離れることもできない。
「付き合うとはまだ言わないけれど、一緒にいてみましょう」
言い切ってから、
聞いた
こんなことを
「あなたがよかったら、だけど」
こんな言い訳みたいなものまで添えてしまう。
「喜んだ方が、いい、のかな?」
「お任せするわ」
我ながら少し、面倒くさい態度を取っていると思う。
「試供品みたいなものかな」
「試供品?」
「あ、お試し期間っていうかね。満足できそうなら継続してお願いしますってやつ」
「……ごめんなさい、どっちつかずで」
好意的な解釈をされると心苦しい。
「どっちつかずなら、こっちに来る可能性もある! ってことで」
おいでおいでとばかりに、
「……ほんと、前向きね」
私は彼女の目指す『前』にいるのだろうか。
……いや、いなかったとしても
「よろしく!」
彼女の迷いのない声に、私は、
「うーん……うん? んー……」
「どうかした?」
「いや、二人で大学を歩いてさ……」
「ええ」
「今までとこれなにか違うのかなって考えてた」
告白を終えた翌日から、私と
その景色の一部に、私と
「なにかないと困るんだよね。なにもなかったら、なんにも変わっていかない気がするから」
「………………………………………」
変わらないことを選んで、それに応えようとした自分を。
変わることを怖がるように、慎重に、臆病になっている私。
「それじゃあ」
参加する講義が違うので別れようとすると、
「なに?」
「
太陽が背後で揺らめくように、一瞬、景色に
随分と情熱的なさようならだった。
「急になに?」
「いえ確認のために」
確認とは、と問う前に
超って。「ちょう」となぞるように
自分が言ったわけでもないのに、湧き上がる気恥ずかしさは大きかった。
「ちょーすきー」
遠くから大きく手を振って、大声でそんなものを追加してくる。
「やめなさい」
私のたしなめなど当然、小声で届かないのだった。
手を振るか最後まで迷っている間に
好きでもないのに、側にいろなんて。
我ながら、後輩に
あまり長い時間、わがままで振り回すわけにもいかない。本当は短い時間でもいけない。
罪悪感のようなものが、彼女と顔を合わせない間に少しずつ私を
そんな私を責めるような気持ちは、
「……ないんでしょうね」
態度を見ていれば、それくらいは分かる。
さっきもきっと普段の
だけどそれでは今までと変わらない。
なにも変わるものがなかったら、自分で変えていく。
彼女は私のややこしい気持ちなんて考えている余裕もなくきっと、一生懸命なのだ。
とてもいい子だとは思う。
だけど根本的な問題かもしれないけれど、今、そんな彼女のことを心底から好きというわけではないのだ。
……でも、それでは本当にいけないのだろうか?
お互いが完全なる好意を得なければ、付き合うことはできないのだろうか。
それしか恋の形はないのだろうか。
完全たり得る好意とは、なんなのだろう。
とても居心地のいい関係を築ける、きっと。
分かっていながら、私は、その好意というものを
今度こそ、失敗しないために。
……失敗するくらいなら、初めからやらなければ、という考えも一瞬ちらつく。
でもその気なら、すぐに断ればよかったはずだ。
私は、そんな穴蔵に潜むような答え以外のものを見つけたがっている。
暗闇ではなく、明るいものを。
まるで水面を見上げるように、空を仰ぐ。
あっという間に訪れる光に目がくらんで、手のひらでひさしを作った。
光を一気に吸い込んだ目の奥が重い。慣れるまで、景色が回るようだ。
手のひらの向こうで太陽が雲に紛れて、段々と光を弱めていく。
機を見計らい、手を
その
きっとどんな答えに行き着いても、太陽の輝きは変わらない。
雲の形も、空の青さも。何一つ変わりなく、流れていく。
それでもそれは、一つの世界を揺るがすほどに大きな悩み。
すべては、私の心の問題だった。
家に帰ってから思うところがあり、久しぶりに友人に電話する。
出なければまた今度でいいような用事だったけれど、電話はすぐに
『あ、
高校時代の友人の声は、電話越しだとまた別人のようにも聞こえる。
「久しぶり」
『相手誰? あ、
もう一つの声が耳元に寄ってくる。
みどりと同じ部屋で暮らしている
『
「三回目?」
『私じゃなくてみどりに電話したの』
「え……と。そうね、うん」
なんでそんな回数を把握できているのだろうと考えれば、二人がいつも一緒にいるからだった。それならどちらに電話してもこうして二人と話すのだから変わらない、そのうえで自分ではなくみどりに電話したよと、
指摘されて、なるほど、確かにそうしていると今更気づく。
高校三年時のクラス替えで、私とみどりは同じクラスになった。
そうしたほんのわずかなきっかけから差が生まれるのだから、人間関係は不思議で、面白く、そして油断ならない。
「
『それはあるねぇ』
本人があっさり認めてしまったので、話題が終わる。
彼女のペースに付き合っていけるのはみどりくらいなのだろう。
「それで、ちょっと変なことをお願いするんだけど」
『変? おぉーいいねぇ、変な
『それはある。いつもまともな
割と好き放題言われている気がする。まともな私ってなんだろう。まともじゃない私の方は、お酒が入った後を振り返ればすぐに分かる。それは今のところ、
「じゃあ変なこと言うわよ」
『私もがんばるよ、変を』
『あんたはがんばらなくても変だから』
まったくその通りと同意しつつ、軽く
私が知りたいのは、そんな繊細な違いだった。
「私に、好きだと言ってみてほしいの」
言ってから、なんだかとても
「好きじゃなかったら申し訳ないのだけど」
『いやそんなことないよ。え、と、わたしが言えばいいの?』
『それとも私?』
「……取りあえず、みどりで」
『フラれたよー』
嘆く
若干気になる。
『じゃ、言いますよ』
みどりが一拍置いて、『はずかし』と一言ぼやくように
『好きだよ、
「……ありがとう」
友人からのありがたい好きは、春風のように私に届いて吹き抜けていく。
胸に留まることなく、淡く。
『あ、今
『頼まれたからだし、
『いや私ってみどりに好きなんて言われたこと多分ないよね』
『え、あー……ないかな』
『多分ね』
親しい間柄だと、そうした言葉での表現を省いてしまうことは往々にしてある。
私だって家族との間で、好きなんて言葉が行き来したのはいつ以来か分からない。
当然、好きであることを前提としてだ。
でも人が日々、施設や装置の点検を欠かさないように、私たちはもっとお互いの感情を確認していくべきなのかもしれない。
心や気持ちなんて目に見えないことを知りながら、私は、あまりに浅薄だった。
感情は生きている、空気のように確かに巡っている。
いつの間にか
『あ、そうだ。ねぇねぇ、
「え、私?」
今度は
『あんたこそなに堂々と
『いや今思いついたから……』
『思いついたことなんでも口にするのやめなさいよ……』
「…………………………………………」
私から言う方も、か。それもいいかもしれないと思った。
「好きよ、
私からお願いしたこととはいえ、友達同士でなにをやっているのだろうといささか照れる。
『いいねぇー』
『みどりも言って』
お菓子でもねだるような感覚でお代わりを求める
『なんとなくやだ』
『え、好きじゃないの?』
『えーいや、好きだけどさぁ』
みどりが面倒くさそうにしているのは、照れ隠しの一種だろうか。
『まいったな、二人に告白されちゃった。二股はよくないよね、うん』
『よくないねー』
みどりはもう投げやりだった。
「私のことは忘れて二人で幸せになってね」
『なに言ってんの
『うん分かった。ここはみどりの気持ちに応えとくよ』
『わぁうれしぃなぁ』
みどりの声のでこぼこ具合に、つい噴き出しそうになる。
二人と話していると高校の教室を思い出すように、時がうねる。
「フラれたわ」と小さく
違うんだな、と明確に意識する。
友人の思いつきが、思いがけない形で私に答えを見せる。
『ごめんね
「そう、後で猫に伝えておくわ」
友人への
『あ、猫いいよね。ねぇみどり、猫とも一緒に暮らしたいね』
『ここペット禁止』
『今じゃなくてさ、もう少し先。大学出た後だよ』
『卒業してからも、
『猫の名前は私が決めるね。みどりに任せると武将の名前とかにしそうだし』
『……わたし飼うなら鳥がいいなぁ』
『えー、なんで?』
『なんでって、鳥の方が好きだし。それと猫っぽいのは間に合ってるもの』
『鳥って羽
『だけの意味が分からない。猫だって尻尾生えてるだけじゃない』
「あの」
『いや耳もあるよちゃんとほら猫耳。こうねこう。大体みどりはさぁ』
「切っていい?」
『もうちょっと聞いてて』
なぜ。
結局、それから二十分くらい二人のやり取りを黙って聞いていた。
不毛で、騒々しくて、そして退屈ではなかった。
「超好きだよ、先輩っ」
「あなた、超好きね」
不意打ち気味な告白ながらも、少し慣れてきた。
「え、そんな先輩からも熱い告白してくるなんて」
「あなたね」
「冗談だよ」
その日も昼ご飯をどうですかと誘われて、
空調の強く回る音が頭の上で、からからと鳴る。
本当は空き時間に図書館に行くつもりだったけれど、
足を崩せる場所は大学の中にはないのだった。
「一応言っておくと、告白自体はちゃんと伝わってるわよ」
何回も好きだと伝えてくるので、そういう部分が不安なのではと思った。
違う違う、と
「はっきりしないものって消えていく気がしてね。だから気持ちだって、はっきり、目に見えるんじゃないかってくらいに形を示したいだけ。とても難しいことだとは思うけど」
お
耳の中で、彼女の声は石の
「いや
ははは、と
「……そのための超?」
「他に思いつかなくて」
硬い壁を押すような調子で繰り返してきた。思いつかなくても、即行動に移す。
私に足りない思い切りを、
彼女は多分、周りからの好き嫌いもはっきりしているのだと思う。
「話してると、
「そ、そうかな」
そういう賛辞には
「だけど見習い続けたら、私まで
「あーそれは困るなぁ」
「わたしは今の
なんてことないように好意を
「今の私って、なに?」
自分でもまるで分からないそれが分かっているような口ぶりに、つい反応する。
そして抽象的な質問にも関わらず、
「わたしの目の前に見えてる先輩が全部だよ。他に説明はできない」
エアコンから吹き出す風よりも強く、それは私の肌を
「その人の裏側とか、本当はなに考えてるとかそういうのはもういいんだ。もういいってほど理解してないし、できないけどさ……大事なのは
続く風と共に、自身の表面から出たものを全面的に訴えるように、
「……説明できないって言ったけど、割とできたかも」
やや得意げな
「
箸を置き、尋ね返される。瞳を
見つめ続ければ、浮かぶものはまだ輪郭めいて。
けれど、その形の意味を分かってはいた。
こちらもとうに止まっていた食べる手を、完全に休める。
「もう一度、好きだと言ってみてくれない?」
私の要求は意外だったらしく、
「割と毎日言ってない?」
「そうだけど、今お願いしたいの」
「
「やっぱり?」
私の疑問を無視して、
伸びきった腕と背もいい
「好きです、
前より落ち着いているのか、やや丁寧な告白になる。
告白は熱波のように、私の全身に降りかかる。
それは表面で留まることなく確かに、私の内面までも焼いていく。
「うん、うん」
吟味するように、二度
「え、なになに。なにを納得しちゃったの」
目を
こちらに
だから、とても分かりづらくて。
それでも。
少しあがくようにしてみたけれど、この辺で、限界らしい。
目を
「あなたの好きは、違うわね」
「え?」
相手の口から発して、こちらの耳を通り、胸に届くことは同じなのに。
友達からの好きとは、違うものに変化する。
感情は科学と常識を時々超えるのかもしれない。
「思うに、私は」
特別に感じる好意の先にあるものは、つまり。
「私には、あなたをこれから好きになる予感しかない」
好きになれば、私はまた変わっていく。
その自分でも驚くほどの変化を踏み出す前は恐れて、それでも。
「だから私があなたを好きになるまで、あなたには好きでいてもらわないと困るの」
一方通行に、相手にずっと走り続けて、どこにも
そういうのはもう、そろそろ終わりにしたい。
だからようやく本当の意味で、返事をする。
「付き合いましょう、
それが、私の答えだった。
努めて穏やかに言ったつもりだったけれど、
でもそうやって動き続ける方が、私とは相性いいのかもしれない。
「ほんと?」
「遊びだったとか冗談だったとか言われるのも言うのも大嫌いなのよ、私」
嫌なことを思い出して引き合いに出したのに、多分、私は今笑っている。
「ほ、ほ、ほ」
再び近づこうとした
本当に、おかしな子だ。

「なんていうか……いや、現実だよね。うん、
「どういう納得なのよそれ」
夢の私は一体、どんな顔をしているのか。
「あなたの方こそ心配よ。飽きやすいんでしょう?」
「ああ、それ」
そして、私に手を差し伸べてくる。
「毎日、たくさんの
「なるほど……」
私の中に、変わり続けるものを見つけて安心を得ようとする
私は逆に彼女から変わらないものを見つけて
今まで出会ってきた多くの人の誰とも似ていない。
今まで好きになってきた人の誰からも遠い、その雰囲気。
それを、私は今受け入れようとしている。
かくして私は、
そんなことがあって、今度は私が寝付けない番だった。
ベッドの中で何度も寝返りを打って、しばらく努力していたけれど成果が表れないので最後は諦める。薄い
目の奥に光があるようで、
真っ暗な部屋で壁を見つめていると、
明かりもつけないまま、ぼんやりと時間を過ごす。そわそわとしたものはあるけれど、気分は悪くない。何かが始まる前のような、緊張と高揚が入り混じって指先を伝っていた。
家人は猫含めて当然眠っている時間なので、家の中は
閉じたカーテンの向こうにあるはずの星を、目の中に感じてしまう。
その星は自分から輝いているのか、それとも光を受け取っているのか。
私にとっての光とは、今。
「………………………………………」
……一人暮らしの
距離とか、忙しさとか、たくさんの言い訳をもって
そうやって考え事を増やしてしまって、余計、眠れなくなる。
結局そのままほとんど眠れない夜を過ごして、朝を迎えた。
役目を満足に果たしていないベッドから下りて少し
「彼女ができた」
思わず声に出す。そして、部屋を落ち着きなく歩き回る。外はもう明るかった。町と人は動き出している。それに慌てて追いつくように、ぐるぐると歩く。
交際は二度目になる。
一度目の交際にいい思い出はない。……でもそれは嫌な部分だけしか覚えていないからそう思ってしまうだけなのかもしれない。先輩はああいう人だったけれど、でもその先輩に確かに
今度の出会いも、永遠と言えるほど長く続くかは分からない。けれど、もしお互いの道が離れて途切れるとしても、いい思い出をたくさん覚えていたい。まず、そう思った。
「だからまず……まず、何すればいいのかしら」
経験の浅い私には、まずこうでこうでこう、と理路整然とした筋道が立てられない。前は先輩に呼ばれて、話をしてたまに電話もして、とそれくらいだった。それはもう
動き回っていて視線を感じて廊下を見ると、
こんな早起きはお互いに珍しい。
「お、おはよう」
一部始終を見られていたのだろうか、と
その猫の視線でようやく立ち止まれて、それから崩れて肩にかかっていた髪に目が行く。
髪の毛を手に取り、指の間に流れ落ちる様を眺める。
伸びた髪は、確かなる時間を感じさせて。
だけど少し引きずって、伸ばしすぎた。
言い方は少し淡泊かもしれないけれど……もう、関係ないのだ。
「よし」
最初にやることを決めて、うろつくのを終えて着替える。
部屋を出て顔を洗う。夏場に影響されてやや
やるべきことを見つけて、
晴れ晴れと、
でも靴を選ぶところで、振り返り、家の廊下の薄暗さを見る。
「まだやってないわ」
玄関まで来てようやくそんなことに気づいて、慌てて引き返した。
その足取りさえ、いつもより速い。
二限目の講義が終わってから、『今どこ?』と
『だいがくー』とだけ帰ってきた。数秒後、次の返信が来る。
『会おう!』
「そのつもりよ」
返事で待ち合わせ場所を決めてから、電話をしまって前を向く。
どうも彼女と付き合うと、毎日が
走り抜けて、学食の前まで来ると既に
走り抜けたことを、ほんのわずか後悔するほどには。
そんな私のもとへ軽快に駆け寄ってくる
「おぉっ」
「髪切ったんだ」
これがまず、私がやろうと思ったこと。高校を卒業してから伸び続けたそれを、断ち切る。
「わたしとその、付き合うことと関係ある?」
「どうかしら……まぁなんとなくね」
なんとなくか、と
「失恋はまだしてないから関係ないね、うんっ」
「ええ」
大丈夫と言いながらまだ少しだけ引きずっていたそれを、今日切り落としてきたのだ。
「あなたが好きだと言った髪は早速短くなったけれど、どう?」
「うーんそうだね……」
「美人」
満面の笑みで、
「ますます好きになったかも」
またすぐに寄ってきた
「この美人が、わたしと……その、付き合うなんてちょっと信じられないな」
目を輝かせながら、同時にその端に不穏を抱くように
「
「
たとえば、恋をするということだけに憧れて相手は誰でもよかったら。
そして私の髪から手を離して、
「ずっと
理由があるものを、私は好む。それが
「この間も言ったけど、見えるものがわたしの全てだからね」
それに
よりいい自分を見せようとすることは、相手の
「昨日はよく寝られた?」
「
「大丈夫なのそれは……」
私もお酒を飲んだ日は人のことを言えないので、語尾が弱まる。
「
「あまり寝られなかったから。
寝不足の頭に
「ハルでいいよ」
いつものやり取りを挟んで、「そうね」と肯定する。
「これからはハルと呼ぼうかな」
その時と比較して、すんなりと彼女の名前を口にすることができた。
でも
言いやすい名前というのがあるのかもしれない。
そんなことを真面目に考えていると、
「おぉ……」
「なに?」
「いや、これまでのはお約束というか、本当に呼ばれる時が来るとは思わなくてつい」
話しながらまたすぐ側に戻ってくる。縁日の水風船を
「ぇえっとー……
「混乱してるわねこれは」
ハル。言いやすいし、語感もいい。生活に
「ハルっていい名前ね」
「今は夏だけどね!」
ハルの顔がへらーっと
「ごめん今最高につまらないこと言った」
「確かに……」
これより上のつまらなさは難しそうだ。さらりと頂点に立つのも
「ん、その、そうね」
「コメントに窮するなら何も言わないで」
いやいやするようにハルの頭が左右に振られる。それから、そのまま細かく飛び跳ねる。
本人の発言はともかく、動きは面白い。
後悔さえ動き回るハルという女の子は、見ていて飽きるものがない。
「……………………なるほど」
面白くて、飽きなくて、私をめいっぱい好きでいるかわいらしい女の子。
客観的に見て、私からも好きにならない理由は少なかったのだ。
『
『急にどうしたの?』
『割と聞かれて困る質問なのだけど』
『いや服とか買うときにそういう色選んだ方が』
『いいかなーって』
『それはあなたの好きな色でいいんじゃない?』
『
『よくない?』
『そうかもしれないけど』
『あなたは、あなたの好きなものを選べばいいと思う』
『私はそういうハルを好きになりたいと思うもの』
『……ハル?』
『おぉ……』
『なによ』
『ボールがぼこーんって鼻に当たった感じ』
『どういう感じ?』
『一応答えておくと緑色が好きよ』
『緑かぁ』
『春って緑っぽくない?』
『うーん、黄色?』
『もしくは桜の色』
『あ、わたし桜色好き』
『やったねっ』
『やってるかしら……』
『じゃあ好きな食べ物はある?』
『前にも聞いた気はするけど、今聞いたら』
『ちゃんと答えが返ってきそうな気がして』
『好きな食べ物』
『そうね……』
『お
『ソバ』
『
『……手打ちじゃなくていい?』
『修行してきて』
『冗談よ』
『じゃあ今日は来たらお
『楽しみにしてる』
『それから、そのお礼に』
『私も明日、なにかご
『明日会う約束だったけれど』
『一人連れて行っていい?』
『いいですけど、誰ですか?』
『
『いやそんなわけないか……』
『なんの意味があるのその遠回りは……』
『いやぁ』
『でも大学で一人ぼぅっとしていると』
『
『そんな感覚がまだ残ってるんです』
『少しですけどね』
『……そうね』
『そういうものかもしれない』
『あ、大学の友達ですか?』
『前に話していた子』
『……そうというか』
『なんというか』
『友達ではなくなったというか』
『友達じゃない?』
『
『いや
『でもまだ半分くらいは友達な気もするわね』
『よく分かりません』
『えっと簡単に言うと』
『私の彼女を紹介したいの』
『はぁなるほど』
『うん……』
『えっ?』
「ここが
「私が支配しているように聞こえるわね……」
大学周りの方がよほど物に
「実家には帰っていないの?」
「大学来てからはまだ。電話とかでは話してるし、家遠いと面倒で」
横断歩道の白線だけを選んで渡るハルの声が上下に弾む。子供か。その上、いつものように速足なもので追いかけようとすると私までやや歩幅を広げて白線だけを踏むことになる。こちらまで小学生にでも戻ったような心境だった。
「でも夏休みのどこかで一回は帰ろうかな」
渡り切ってからハルが振り向く。私と違い、日焼けも
「それがいいと思うわ。普段は言わなくても、親は顔を見たいと思うんじゃないかしら」
「そういうものかな……うん、
ハルが納得してしまう。あまり私を信頼されても困るのだけど。
つい応えたくなって、背伸びしてしまいそうだから。
ハルを連れて地元を歩くと、私まで
待ち合わせは
だから今日は、外の店ではなく友人の家へ遊びに来たのだった。
「本屋?」
「友達の実家がここなのよ」
青果店の前を通って案内した先は、個人経営の書店。
その名前を見上げて、ハルが顔をしかめる。
「まいったなぁ……わたし漫画もほとんど読まないよ。話合うかな」
「本屋が本の話ばっかりしてるわけじゃないのよ……」
むしろ
ハルは不思議そうに首を
書店からではなく、回り込んで家の方からここを訪ねるのはやや新鮮だった。
すぐに
「
ハルの自己紹介に、
その姿や髪型の変化を見て、大分
一つしか違わないのに、随分と年上の気分だ。
「家の方に上がるのは初めてね」
「そうでした? あーでも、そうですよね。わたしだって
部屋の中を順繰りに眺めて、ベッド脇にある小型のプラネタリウムに目が留まる。割と高そうだ。
「あのぬいぐるみかわいいなぁ」
ハルが棚の上を指差す。
「丸いわね」
「丸くてかわいい」
ハルはニコニコしているけど、あれはいったいどういう生き物なのだろう。
丸くて、潰れた謎の生き物がハルの好みらしい。
「……うーん」
自分の顔に触れる。丸くて潰れているとは思えない。思いたくない。
色々と、見なかったことにして。
案外緊張して、奇行でも見せてしまったかもしれない。
お茶を用意して戻ってきた
でも、うん。
「もう言ってあるわ」
「あら」
ハルが拍子抜けしたように
「知られているのかっ」
声の大きさに驚いてか、
「先輩の言うとおり、元気ですね」
「いい意味で言えばね」
気を遣わない言葉で言うと、時々騒々しい。でも大学内のどこにいても声のする方向が分かるので合流しやすい。ハルの声は大きいのもあるけれど聞き取りやすいようにも感じる。
迷わないで
その在り方を肯定して、前向きに捉えてしまうのは
「
なぜか背筋を伸ばして、ハルが言う。
「あ、
自己紹介の順番が逆になっていた。それに、名前は既に名乗っている。
名乗り終えたハルが、私に目をやり、照れ笑いのようなものを浮かべた。
「言ってみると恥ずかしくて耳が熱くなるけど、なんだか、ちょっと
「私も……耳が熱くなってるわね」
つい触って確かめてしまう。でもそこに生じるむず
ハルが
それはハルと見つめ合っていると、両方ともじわじわ増え続けていく。
「あのぉ、わたしいない方がいいのでは?」
「ここはあなたの部屋よ」
「そうなんですけど」
「初めまして」
前につんのめるような勢いもあって、変に礼儀正しくなっている。
「こちらこそ」
釣られて
それと挨拶もさっきしたのに。
「
「ハルでいいよ」
みんなに言っているのだろうか、と横で聞きながら思った。
「
なんの確認だろう、と少し疑問を抱きつつも答える。
「ハルね、そのまま」
つい最近呼び始めた名前なのだけど。
「じゃあ
そのじゃあがどこにかかっているかを少し考える。……私と同じ呼び方を遠慮したのだろうか?
そういう細かい思考や配慮は嫌いではない。
「わたしも名前でいいよ」
「
「大学一年」
応えるようにハルが人差し指を立てる。
それから、用意してもらったお茶を
「どっちから告白したんですか?」
一瞬、答えに詰まっていると。
「あ、わたしから」
ハルがあっさりと答えてしまう。「なるほど」と
その視線はなに、と意味を図りかねていると
「告白って、怖いよね」
ハルは一度、目を丸くして。でもすぐに深々と同意する。
「うん、怖い」
下級生同士、共感するものがあるのか言葉少ないながらも通じ合っているようだった。
私も告白はしたことあるのだけれど、怖いという感情はあまりなかった。
そんなことを感じている余裕もなかったのかもしれない。
私は、長々と
そこがこの二人との違いだろうか。
特に
あの子、割と
だから。
「あなたは、よくがんばったと思うわ」
心から尊敬する。その意を簡単な言葉に添えて、彼女に届ける。
「……はい」
幼く見えていた後輩も、もう立派なものとなっている。
私を追い抜くくらいに。
「む」
「どうかした?」
眉毛が少し動いたので首を
「
ハルが尋ねると、
「割と、ですかね」
「そうね、結構多いかも。他に会う人も少なくなったのよ」
「むぅ……」
なんでかハルが難しそうな顔になる。唇をすぼめて、目もきゅっと縮む。
「地元に残っている人も案外少ないですからね」
「そうなのよね」
生徒会の後輩も卒業後は散り散りとなってしまった。それもみんな、自分の進む道を選んだ結果だ。こうして実家から通っているのは、私と
もっとも
「今日も泊まりに行くのね」
言い当てると、
「だから、どうして分かるんです?」
どこどこ、と謎を
その慌てふためく様子が楽しいので、今後も気づくまでは教えないでいようと思った。
「内緒」
そんな風に笑っていると、隣から、「むぅぅ……」と
「
「え?」
しばらく話し込んで
なにかと言われても、心当たりはない。疑われる理由も。
「ハルに疑われるようななにかはないわよ」
「いや気安いっていうか、楽しそうだったから」
「友達といれば楽しいものじゃない」
ごく普通の理由を述べたつもりだけど、ハルは承服しかねるように眉が曲がっている。
「
私が彼女に向けるものはあくまで友愛に留まり、決してそこから動くことはない。
だって、
恋愛はもっとどろどろとして、良くも悪くも不透明だと知っていた。
「なら、いいですけどねー」
いいもですもけどもなさそうな調子で声が低い。
ハルとの間にあるものはほら、今こうしてどろりと流れている。
「友情よ、単なる」
「友情と愛情に違いなんてないよ。相手を大切に
ハルがはっきりと否定してくる。
「だからわたしは、家族も、友達も、
そこで私の目を
「……ハルはそういう風に考えてるのね」
「ん、まぁ。
「私は、整理整頓が嫌いじゃないの」
自分の感じているものに、名前をつけて、棚にきっちりとしまう。
その方が必要になった時に取り出しやすいから。
そうすれば新鮮味はないかもしれないけれど、適切であれるとは思う。
一方、名前のない感情の
価値観や思考がとことん
「んー……」
「なに考えてるの?」
珍しく、歩き方も私の後ろを行くくらいゆっくりになっている。
「
「一緒に暮らしているのは親と祖父母で四人ね」
「よし、じゃあ目標五位!」
ハルが指を大きく開いた手のひらを掲げて、見せつけてくる。
「五位?」
「
「ああそういう………それと家には猫が二匹いるわ」
「猫……猫かぁ……」
左手の指がそろそろと上がりかける。でも留まる。下がるか迷っている。
「目標五位!」
妥協しなかったみたいだ。
「がんばって」
「そのためにまずは、まずはー……まずはさぁ」
「どうするの?」
苦悩に合わせて頭の上下するハルに意地悪する。ハルは悩みぬいた末、
「
「あなたね……」
イチゴ味の
ピンク色の三角形を描く
「
ハルの方も
「なにしろわたしは甘くないからなぁ。指を
「なんだか、深い話に聞こえるわ」
「いやぁ単なる思いつきを口にしてるだけ」
「でも家族ってほどでもないけど、
足の動きを加速させながら、ハルが吐露する。子供の小さな不満のようだった。
私はそれを聞きあえて、笑い話のように突き放す。
「心配なら、私に大事でいさせて頂戴」
「いさせますとも」
ハルは自信を見せびらかすように、笑顔で応える。
「
「努力はしてるわ」
この後輩と一緒に歩いて、ふと隣を見るとその姿に安心めいたものを覚える。
知らない間に随分と髪が伸びていたように、心も変わっていくものだった。
「ひっさびさに
「
取りあえず、友人にそこだけは言っておく。
大きなパラソルの下でお茶を飲みながら、大学生たちの様子をなんとはなしに目で追う。友人はテーブルに潰れていた。
「最近、
「そうかしら」
心当たりはあるけれど、軽く流す。ハルとばかり会っているからに決まっていた。
どうも私の恋愛ごとは、他が
他の人たちも、
「
「そういうのじゃないわよ」
笑って流す。そういうのだけど。ストローに少し口を付けてから、ん、と思った。
「も?」
「他のご学友も大層励んでおられるようですから」
潰れ友人がぐぇぐぇと悲鳴のようなうめきを漏らす。自主休講というものが増えていると思っていたけれど、そういう
どうでもいいけれど、突っ伏しながらもぺらぺらと
「あ」
なんかなーと言い続けている友人に適当に
ハルはパッと顔を輝かせたけれど、側の友人を
「前に見た気のする後輩」
「そうね」
あの時もこの友人といて、ハルはああして去っていった。
違うのは、そのハルの消えた方をずっと、私が見ていること。
私とハルの関係。
少し考えて、動く。
「用事を思い出したわ」
うそぶいて、席を立つ。少し露骨だっただろうか?
でも急がないと、ハルには追いつけないのだ。
「おぉ
友人が
「ごめん」
「じょーだん。じゃあね」
頼りなく上がった手をふらふらと旗のように振って見送ってくれた。
へらへらと笑っている友人は穏やかで、でも
力尽きたように動かない友人を残して、ハルの背中を追いかける。ハルは足が速いので、ただ歩いていてはいつまでも距離を縮められない。厄介ね、と笑いながら走り出す。
さすがに走り続ければ、早歩きのハルに手が届くのもすぐだった。
横に立ってから、軽く息を整える。
走って、けれど一つの成果が出るというのは充実感があるものだ。
隣に並んだ私を見上げてから、ハルが後ろを振り返る。
「いいの?」
「いいと思うから来たの」
私は、自分のやりたいことをやった。それだけだ。
先輩と付き合った時、それが一つもできないまま終わっていったのを反省して。
ともすればそれは、わがままを押し通すということかもしれない。
中学生の時も、高校生の時も、私はいい子だったと思う。
善良に縛られて動けなくなっていたと思う。
今度こそ、動かないと相手が逃げてしまいそうだった。
「うん。いいね」
ハルが私を認めるように、白い歯を
「ついてきた後に聞いてしまうけど、どこに行くつもり? 用事?」
用があるなら私はわざわざついてきても邪魔になる可能性があった。
「一旦家に帰ってなにか食べてくる予定だったけど……
「いい用事ね」
私の望む行き先だった。二人して、早歩きで彼女のアパートを目指す。
誰かといる時間はあっという間なんて言うけれど、ハルとなら、その時間を少しでも長く確保できそうだった。
「
アパートに着いて昼ご飯の用意をしながら、ハルが
「値段分の元はもうとっくに取ってると思うわ」
本日の食事への
食べ終えて休みながら、この部屋に歯ブラシも用意すべきかもしれないなんてぼんやり考える。でもそうなってくると
そうした私の変化について、勘のいい祖母以外にも、家族になにか言われるだろうか。
洗い物を終えたハルが私を
急に来るものだから一瞬、目の前が真っ白になりそうだった。どぎまぎする、というのはこういうことなのだろうか。
「あ、ごめんね。びっくりした?」
声が耳の脇からささやくように聞こえて、ぞわりとした。
そうでもないと強がりかけたけれど、こんなに近いと
「なんていうかこういうのは……慣れてなくて」
「こういうのって?」
「くっつかれるの」
首筋にかかる吐息がくすぐったい。しかもそれを聞いたハルは更に
「あなたねぇ」
「ひっつくだけでかわいい
調子に乗っている後輩を横目で
「……まぁ、大きい猫だと思っておくわ」
そういう風に思っていないと、変に胸が弾んで緊張してしまうのが分かっていた。
ハルからは少しの汗の匂いと、彼女自身の香りが混じって届く。
「
「ええ。猫は好き?」
「好きだけど、よくある比較だと犬の方が好き」
自分の意見を語り、合わせる様子もないハルに目を細める。
怒ったわけではなく、過去と重ねてしまう。
私は先輩に特に好きな分野でもない小説を勧められて読み、面白いと
結果としてそれは先輩の笑顔を生んだけど、もっと正直だったら
もう少し、後悔しなかったのだろうか。
「意見が合わないわね」
「そこがいいんじゃないかな、うん多分」
「私もそう思う」
どうせ違う人間がこうしてくっつくのなら、別々のものも感じていたい。ハルは私の首に腕を回して寄りかかり、そのまま動かない。思えば、誰かとこんな距離で触れ合うのは本当に初めてだ。
ハルは確かに、私を求めてくれていた。
そのハルが珍しく黙って、視線をじっと投げかけている。注目の行き先は顔ではない。どこだろうと探っていると、それは私の肩より下みたいだった。更に特定を進める中で、
「
ハルがなにか言いかける。でもすぐに目を
「いやこれは言うのよくないかもって、わたしにしては冷静だ」
「怒らないから言ってごらんなさい」
むしろ、ハルが私をどうやって怒らせるか興味さえ湧く。少なくとも私よりはいい子だと思うのだ。そんな子が、私の怒りをどう買うのか。少しわくわくするくらいに待っていると。
「じゃあ言うけど」
「うん」
「けっこう、胸大きいよね」
「………………………………………」
ここまでのハルの視線の意味を理解する。
「怒らないって言ったのに」
「怒ってはいないわ」
反応に困っているだけだ。面と向かってそこまで堂々と言われたことがない。
向かってないけど、と目を
「セクハラとかではないごくありふれた感想なんです」
「それセクハラした人の言い訳」
「いやわたしさぁ、あんまりないからさぁ、
「
「よそよそしくなった!」
つい自然と
「友達からやり直しかー。へこむ」
「冗談に決まってるじゃない」
多分。間近で顔を見合わせたハルと、一緒に
心なしか、ハルが背中から少し離れた気がした。
「いやわたしはね、こんな近くで見ていられるだけで、幸せっていうか」
「……胸を?」
「顔だよ顔!」
話の流れから思ったことを、ハルが全力で否定してくる。若干、怪しかった。
少しの間、無言が続いた。
「あ、そうだ。先輩、プールに行こっ」
「……あなた、分かりやすくない?」
前に誘ってきたのもひょっとして、下心に導かれた結果だったのだろうか。
ぐむ、とハルが一瞬喉を詰まらせる。でもすぐに切り替えて、開き直ってきた。
「じゃあはっきり言っちゃうけど、
悪いかぁ、とハルが人の肩の上でぐらぐら揺れる。
「悪いというか……」
だから、そんなことを直接言われても困るのだ。
生徒会のみんなとプールに行った日のことを思い出す。私は、
ハルのことを言っていられない。
「見せてくださいお願いします」
「じゃあ、今度ね」
「いつかの次は今度かー」
ハルが苦笑して、しかしまったくめげない。
「明日でいい?」
「……あなたって、たくましいわね」
こちらが根負けしそうになる。
ハルは、いつかという口約束を走り抜けて、追いついて、
「………………………………………」
波紋が静かに広がる、プールの水面を
いつかのプール。その水中で、私の見たもの。
あの日見つけたものが、なんだったのか。今の私なら、向き合えるだろうか。
……なんて、そんなことがあって。
「プールっていうからどこに行くかと思ったら……」
翌日、金曜日。本当に予定を立ててきたハルに付き合って、どこまで遠出するのかと思ったら大学の
「うちの大学のプールじゃない」
「時間指定はあるけど一般開放もされてるんだよ」
さぁさぁとハルが浮かれながら私の手を取る。どちらもここの学生だけど、利用料はちゃんと取られた。時間は今から二時間ほどと決まっていると説明を受けて、更衣室の場所も教えてもらった。そうした案内を担当するのも学生らしい年頃の女性だった。
「二日酔いの人は入らないでね、だって」
「なんでそこで私を見るの……」
注意書きの前を通りかかって読み上げたハルが
「考えて選ぶ時間もなかったから、あまり水着を見せたくないんだけど……」
「大丈夫だよ」
「なにが大丈夫なの」
「
すらすらと、照れる様子もなく賛辞を惜しまないハルにこっちが
「ハルって、
「回りくどく
当然のことのように、言葉を飾らないハルが言う。
その素直さが、時々
更衣室での着替えについては割愛して。
水着姿の私を見たハルが
「おぉ、おぉぉ、おおおお」
「うるさい」
オットセイみたいに騒ぐハルの肩を押して、プールに向かう。
「
「生足って……」
それで感動を伝えているつもりだろうか。
「ちょっとそこで立ち止まって」
ハルが私を立ち止まらせてから、後ろに下がる。そして、じっくりと私を眺めてくる。
「恥ずかしいんだけど」
「いやぁもう……ほんと」
うん、とハルが多分満足している。
「
ハルが口をあけ放ったまま停止する。
固まった笑顔のまま、
「きれいだね」
「今なにかごまかしたでしょう?」
追及されたハルが
「エロいね」
「今なにか言った?」
前を向かないまま、ハルがてっててってと走っていく。
「危ないわよ」
ハルを追って足元の消毒を越えると、すぐに塩素の匂いと水の音が出迎えた。
六つに仕切りがあってコース分けされた、細長いプール。
小学校の時に通っていたスイミングスクールを
「誰もいないわね」
小さな足音が無人のプールに反響する。水面には波紋もなく、波が静かにたゆたう。
「解放されてるって言ってもわざわざ来る人なんて少ないし」
プールサイドで屈伸をしながらハルが説明する。
「それに、わざわざ学校で遊ぼうなんて大学生は物好きなんだろうね」
「なんで
はははとハルが笑ってプールに飛び込んだ。派手に上がる水柱と、
確かに、学校へ遊びに来るという感覚は私に馴染んでいない。
昔なら考えられなかったな、と思いながらハルに続いて
ゆっくりと、湧き上がるような水の音を聞いてから浮上した。
水面に上がった私の前に、先んじていたハルが泳いでくる。
「貸し切りみたいでいいじゃん」
「そうね……」
プールに二人きり。こんな状況が、そう前にもあった。
思えばあの日が、全ての始まりだったのかもしれない。
その水を帯びた思い出は、私の記憶を
決して、そのことを忘れないように。
「競争してみようか」
ハルが提案してくる。普段の足早なハルを思い浮かべる。
「負けそうだからやめとく」
「えー、やろうよ」
子供のようにせがんでくるハルの態度につい笑って、勝負することにした。
潜って仕切りの下を通って、隣のコースに向かう。ゴーグルを下ろして位置を整えてから、隣のコースを見る。日焼けした女の子が、水泳コースの隣にいる。
強い既視感があった。
そしてその時も、私は負けたのだ。
「じゃあ行くよ」
ハルが奥にある大きな時計を
私はコンタクトも外してきたので、その時計の針さえぼやけて見えた。
「どん」
ハルの声に従って、水中に沈む。
確かこう、と壁を蹴って腕を動かすと当時の感覚が
幼少期の習い事なんて、大体忘れてしまっていたかと思っていたけど。
過ごした時間は、決して消えないのかもしれない。
肩から足の爪先まで区別を失い一つの塊となるような、夢中の感覚で泳ぎ切る。
壁に手をついてからゴーグルを外して振り返ると、ハルは思いの外遅れてやってきた。
「泳ぐのはそんなに早くないのね」
「わたし陸上生物だから」
「私をなんだと思ってるのあなた」
なんてくだらないことを話しながら、水の感触を楽しんで
やることなんて特にないのに、ハルと水が跳ねるだけで満足している自分がいた。
「……………………………………」
うぅん。
「どしたの、ぼーっとして」
プールの中央付近で立ち止まっている私をハルが
「なにも起きないなって思っただけ」
「そりゃあ、わたしたちしかいないし」
「そういうことじゃないのよ」
ハルと付き合っていて、問題とか、不穏な空気とか……そういうものが見えてこない。
今来る、さぁ来ると内心身構えているのに、ちっともなにも起こらない。
おかしいな、と思ってしまうくらいに。
幸せや喜びが安定しすぎていて、かえって不安になる。
その不安の正体は恐らく、未知。
なぜなら私はこれまで、恋愛事で順調に行った経験がないのだ。
……我ながら、物悲しいことを言っている気がしてならない。
失敗すればもちろん悲しくて、
私は一体、どうなったら満足できるのか。
「あれ、さやかせんぱい……」
ハルの声は途中から泡に包まれたように
空気を吐き出しながら、プールの底へと沈んでいく。胴体から空気が抜けて、手足の先の方が重くなるように感じる。そのままプールの底に背中がくっついたところで、四肢を広げた。
ゴーグルを外したままの目が、水中を不確かに捉える。
水面の向こうに電灯の光が見える。その光に向かって、手を伸ばす。
とても近くにあるように錯覚する輝きを
指先は舞うように水をかき乱して、そしてそれ以外のなににも触れることはない。
ごぽごぽと、耳の近くを流れる空気の音がする。私から少しずつ失われていく空気の音だ。泡は水面へ上っていき、決して手の届かない光の向こうに消えていく。
普段感じ続けている、重力というものも水の奥では和らぐ。
この空気のない世界に、わずかな時間しかいられないことを
少し息苦しくなってきた頃、別の流れがこちらに来るのを感じる。目を向けると、ハルが潜ってきていた。潜る際に外れたのか、帽子が取れて髪が共に泳いでいる。悪い子だ。
一向に上がってこない私の様子を見に来たのだろう。
追ってきたハルの手を取る。水の温度を無視するように、ハルの手のひらの熱がそこにある。手を取られたハルは一度大きく泡をこぼして、その後に手を握り返してきた。
日に焼けたハルの手の方が、水の中では鮮明に映る。
引きずり込むようにその手を引っ張って私に寄せる。ハルは足を
何をしていたのだろう。
あの時、何を求めていたのだろう。
空気の減った頭は、思考を濁らせていく。
行動の制限が失われて、
ハルの無防備な首筋に、唇を寄せる。
びくりとするハルの動きを無視して、押しつける。
あの時とは立場が逆なのに、心臓は力強く跳ねた。
ぶれる頭、ずれた唇とハルの肌の間から、泡がこぼれる。
その泡を、ハルが
私から離れたものが、ハルの中に。
どくどくと、鼓動にも似た流れの音が強まっていく。水中なのにまるで、耳鳴りのように。
変わって、ハルも私の首筋に吸いつく。
意味分かってる? と笑いながらその唇を受け入れる。
残り少ないハルの空気が上がってきて、それが私を包む。
ぼんやりと、ハルの唇の感触だけ感じる。
呼吸も、重力も、たくさんのものを忘れて、ハルと心臓の音だけを水中に残す。
そうして放たれた心臓は、残り続けたヒビが、埋まるように思えた。
そのあたりで、限界が来た。吐き出す空気もなくなって、
光へと、跳ねる。
水面を越えた先には、沈む前となんら変わりない景色が広がっていた。
当たり前の場所に、ハルと戻ってくる。
二人して、大きく息を吸い込んだ。
ざわついていた指先に、血が走っていくのを感じる。
音は鮮明になり、人気のないプールで水を割った音がゆっくりと響いていた。
「分かんないんだけど……」
ハルがそう前置きして、私と自分の手を掲げる。
「手のひら、あったかいね」
そう、ハルの温度は
私が、ここにいられる温度だ。ここにいたいと思わせるあたたかさだ。
もう、どこにも逃げる必要はなかった。
今だからこそ、水中で見つけた景色を
心臓にヒビが入るような、強い痛み。
その

あの時、それが痛いということを知った。
恋愛というものの感覚を理解して、世界にそれがあることを知って、私は。
たくさんの、痛みを感じてきた。
その痛みと失敗を少しずつ切り取ってつぎはぎして、今の私がいる。
そうして
そういうことを、幸せと呼ぶのかもしれない。
『文化祭の演劇かぁ』
『楽しかった?』
『ええ』
『ハルはそういうのは苦手そうね』
『偏見だよぉ』
『いや……多分苦手だけど』
『でも案外見たら好きになるかも』
『その内見に行きましょうか』
『そういえば』
『今度、人に会ってくるわ』
『いえ会うつもり』
『今度? 人? どなた?』
『高校生の時に好きだった人』
『一応、ハルには言っておいた方がいいかなと』
『ちょっと思ったから』
『
『ハルとの間に陰を作りたくないだけよ』
『あなたは明るい方が似合うし』
『そういうあなたを見ていたいから』
『うわぁ』
『やばば』
『やばば?』
『今の好き』
『やばばが?』
『そこの一個前!』
『冗談よ』
『ちょっと恥ずかしくなっただけ』
『もう一回言って』
『スクロールして見なさい』
『ちぇー』
『うん』
『もちろんいいけどね』
『いってらっしゃい』
『ありがとう』
『
『できないわよ』
「できないのよ」
私は決して、
『今度会えない?』
『何をするのでもないのだけれど』
『ただ少し、顔が見たくなったの』
『少し前に会ったけれど』
『でも、いいね』
『私も言われたらそんな気分になった』
『楽しみだよ』
『私も楽しみだわ』
『
「二人でここに来たことあったかな?」
喫茶店の奥の席に腰掛けながら、
「前に一度だけ」
夏休みに二人で来たのを、
ごまかしているとも言う。
「さすが
「なにがさすがなのよ……」
安易な賞賛に笑ってしまう。
「生徒会のみんなと来ることが多かったから、その辺
荷物を横に置きながら、あの頃を
生徒会劇の相談のためにみんなで集まって、頭をつき合わせるようにした日々。
多分、私がこれからどれだけ遠くに行っても忘れてはいけない大切な時間だ。
店員さんに注文を済ませてから、向かい合う
完成されていると思うくらい美しい彼女だから、外見が変わる必要はないのかもしれない。
だけど、その所作には細かな違いがある。
誰かを演じることのない、
「文化祭の時も会ったけど、改めて。久しぶりだね」
朗らかな調子で、
だけど返事は少しだけ、素直さから逃げる。
「こっちはあまり久しぶりって感じがしないわね。
「え、そうなの?」
「聞いてないの?」
「よくの部分は聞いてない」
「……
私はどうしてみんなに
それはさておき。
その
ああ、と心に渦巻くような風を感じながら笑ってしまう。
「さぁ?」
冗談ではぐらかすと、
「いや冗談だよ? 冗談だけどね」
「ええ」
肩を揺らすのを我慢できないでいると、
彼女の時折見せる幼い仕草が……私の視線を、いつも奪っていた。
「さっきその
「なに買ったの?」
「
袋を開けて本の表紙を見せる。小説を買うのなんていつ以来だろう。
「あ、
「知人の初出版だもの。お祝いも兼ねてね」
「私なんて直接会ってサインもらったよ」
「なに張り合ってるのよ」
得意げな
「どうかした?」
「いやサインをもらう時にね、すらすら上手に描くものだから練習したの? って聞いたらすごく恥ずかしがっちゃって……あれはちょっと失敗だったかなぁと」
「
「私が誰にするの」
「役者の道に本格的に進むなら、そういう機会も巡ってくるかもしれない」
前に
「それは……まだ分かんないな」
「そうね。先のことは、
「うん」
素直に
昔も、そうやって素直に人の言うことを聞いてくれたらよかったのに。
ちょっとだけ、今更な不満を楽しみながら。
注文したコーヒーが届く。その店員さんの向こうで、忙しそうにしている
お互いがカップに少し口をつけてから、
「そういえば、いやそういえばっていうのもおかしいけど……彼女、できたんだよね?」
上目遣いにも見える
「この間、初めて知ったけど」
「
「直接言ってくれればいいのに」
「それは……そういう機会もなかったし」
聞かれてもいないのに、唐突に彼女ができましたと報告するのもおかしいだろう、多分。
そんなのだったら私がよっぽどのろけ話でもしたいみたいだ。
……そんなことは、ないはずなのだけど。
「どんな子?」
「
少し聞いた、と
「
なんだか、どこかで聞いたやり取りにも思える。
店の
「元気な子よ、とても」
彼女を誰かに紹介する時、最初にそれを必ず挙げる。私の中で一番、そういう印象が強いのだろう。実際、ハルは快活だ。止まることを知らないように走り続けている。
本人の言う通りに感情の回転が速く、それに
私はそれに付き合って、これまで知らなかった速さで日々を生きて……それが、いいのだ。
「あの子を好きになったから、
「素敵な子なんだね、きっと」
とても、と口の中でだけ返事をする。
「あと、とても料理上手」
「あ、それ
「私も自炊は毎日がんばろうと思ってるんだよ?」
「なんで私に言い訳してるの」
ごまかすようにカップに口をつける
「
「分かったわ」
子供の
「一人暮らしはどう?」
「慣れてきたけど、素直に大変」
そうして簡単に弱音を認める
「思ったよりできないことがずっとあって、でもそれに手をつけていくのがとても楽しい」
「…………………………………」
私が知ることのできなかった
本当の
「演劇もそうなんだけどね、私は知らないことがまだたくさんあって……知らない世界があって。そういうものに触れて変わっていくのが前は怖かった」
けど、と
瞳に満ちる輝きが、すべてを物語る。
「何をやっても、変わっていってもいいって
「……そうなの」
その一言を
私と
かなわないなぁ、とコーヒーから立ち込める湯気にのせて、天井にこぼす。
それからは言葉も少なく、コーヒーをゆっくりと
もう、
それだけで、満足だった。
「やっぱり、そんなに改まって話すことはないわね」
これまでたくさんの時間、
「そうだね。でも会えてよかったと思うよ」
「それは私も思うわ、
恐らく、これから私たちはもっと離れていく。
平行線であることを止めた私たちは、時を重ねるごとに距離を生んでいくだろう。
こうして二人きりで会う機会がめったになくなっていく前に。
今、やりたいことをやっておこう。
「ねぇ。
「ん?」
「ここの支払い、負けた方が払うことにしない?」
提案しながら、軽く握った手を突き出す。
なにかに困るわけでも、意図があったわけでもなく。
ただ、そうしてみたかっただけだ。
「いいね」
そういうの、
私もきっと、同じ気持ちで。
「じゃん、」
「けん、」
そうして彼女の出した手は、私の予想と同じだった。
だから私は、勝つことも、負けることも、簡単に選ぶことができた。