『昨日、お酒を飲んだわ』

『友達と』

『あ、誕生日が来たから?』

『そう』

『ビールを飲んでみた』

『どうだった?』

『苦いとは聞くけど』

『そのとおり』

『苦かったわ』

『また飲みたいって味じゃなかった』

『慣れたらおいしくなる』

『のかな?』

『当分やめとく……』

『私は二月だからまだ先』

『知ってる』

『年下なのね、今』

が夏で、私が冬』

『逆っぽくない?』

『そう?』

『うーん』

『言ってなんだけど私に夏っぽさはないか』

『そうね』

『春を連想するわ』

『なんで春?』

『春に出会ったから』

『あはは、そのままだ』

は落ち着いてるし』

『冬のイメージ』

『私は落ち着いてるわけじゃなくて』

『うん』

『それでいいわ』

『ちょっと気になる言い方』

『でもそっか、お酒か』

とそのうち飲んでみたいね』

『いつかね』

『うん』

『そういう日が、来るといいな』



 前は使われていなかった二階の音をぼぅっと聞いていると、カップのかなでる音がした。

 うつむいている間にいつの間にか、注文したコーヒーが用意されていた。

 そして店長であるみやこさんの笑顔もカウンターの向こうにある。

「顔色悪いねぇ」

 パッと見て指摘されるくらいには露骨なのだろうか。コーヒーカップから漂う香りが、みやこさんの喫茶店の輪郭を形作る。鮮明でなかった視界が少し晴れやかなものとなる。

「なにか悩み事? 乗れる相談だといいんだけど」

「うーん……」

「随分と頭痛そうな顔してるじゃない」

「はい」

 肯定した私に、みやこさんがきょとんとした顔になる。恐らく、物のたとえのつもりだったのだろう。でも私からするとそれはそのままの意味でこちらを苦しめているのだった。

「頭痛がずっと続いてます」

 額を押さえるようにして訴える。

「あら、夏風邪?」

 横に首を振る。なるほど、顔色の悪さもあってそう取られるのか。

 でも実態はもう少し情けない。

「多分、昨日飲んだお酒のせいじゃないかと」

 知識だけでのことなので、正しい症状をつかめているかはさだかじゃない。

 ただ、朝から治まることのない頭痛とだるさの正体は、恐らく。

「二日酔い?」

「なんでしょうか」

 私の発した疑問には、みやこさんが破顔で答えた。一旦引っ込むようにして、何かを用意して戻ってくる。

「それじゃあまずはこっちで」

 コーヒーの横に水入りのグラスが置かれる。手にとってよく見ると、水にしては少し濁っていた。そっと口をつけると味も透明ではなく、やや甘い。みはそこまでなくても知っている味だった。

「いわゆるスポーツ飲料。塩分と糖分も取れるからね」

「どうも……」

 意外なものが用意してあるんだなと思った。自分で飲んだりするのだろうか。

 差し出されたグラスの中身を少しずつ飲みながら、時計を確かめる。

 えだもとさんから告白されて、まだ丸一日っていない。

 アパートから帰った後、家でベッドに横になったらそのまま朝まで意識が飛んだ。深夜のちゆうはんな時間に起きなかったのはありがたいけれど、客観的に見るとお酒を飲んで帰宅して朝までひっくり返っていたことになる。大胆な二十歳デビューだった。

 そこからあさに入り、落ち着いた頃に頭の締め付けるような痛みを意識して、今に至る。

 そんな私の様子を、みやこさんはのぞくように面白がっていた。

「お酒は初めて飲んだの?」

「ええ、誕生日を祝うという名目で」

「あらおめでとう」

 みやこさんが簡単に祝福してくれる。それから、目を泳がせる。

「うーん」

「あの、なにか?」

「そのコーヒーを無料にするか、悩んじゃった」

「お気持ちだけで十分です」

 それよりも、とグラスを置いてから顔を上げる。

「ちょっと話を聞いてほしい、というか」

 前にもこんなことが、こんな構図があったような気がする。前というには少し時間がってしまっているけれど、みやこさんは変わらず落ち着いていて、私はそれを見上げていた。

「ふむ」とみやこさんが店内を見回す。以前には見なかったような客層でテーブルが埋まっている。

「少し落ち着いてからでいい?」

「はい」

「二日酔いのところ申し訳ないけど、少し待っててね」

 二日酔いは関係ないのでは、と否定したかったけれど頭を動かしたらまた奥から鋭い痛みがやってくる。関係は根深いようだ。頭と目がぐるぐるしているのはアルコール以外にも原因があるとは思うけれど、飲み方が軽率だったのはいなめない。

 普段の私なら飲む前にもう少し調べてから実践したと思う。

 少し、浮かれていたのかもしれない。

 それから、大人おとなしくみやこさんを待っていた。にぎわっているので、コーヒー一杯で長居する方が申し訳ないくらいだった。以前、みやこさんが店をはんじようさせたいと夢を語っていたけれど、それは十分にかなったのではないだろうか。その景色をカップの向こうに眺めていて、ふと思う。

 私はこれまでになにか、夢をかなえたことがあっただろうか。

 待っている間に頭痛も少し落ち着いていた。これなら真面目な話にも支障はないと思う。

「お待たせ。あ、お酒の飲み方なら、おなかになにか入れてから飲んだ方がいいよ」

 手を拭きながら、みやこさんが私の前に戻ってきた。そして聞いてもいない助言をくれる。

「しばらくは飲みませんけど、ありがとうございます……」

「最初に酔った時は私もそう思ったよ」

 そう笑うみやこさんが一段上の大人おとなに見えるのは私にまだ、子供の部分が残っているのだろうか。

 子供と大人だけでなく、大人おとなにもきっとたくさんの段階と線引きがあるのだろう。

 そういう人だと思っているから、この店に来たのだ。

 カップに手を添えるようにしながら、ややうつむいて言う。

「先日、告白されました」

「あら」

 言ってから、先日どころか昨日だと思い直す。まぁそのあたりの細かい部分は省いてもいい。

 みやこさんがまえかがみになるようにして、話を聞く姿勢を取る。

「相手は? 大学の子?」

「ええ。一年生だから、一つ下の子」

「かわいい子? それとも美人系かな?」

 聞き方と笑顔から、どちらにも特定のモデルを思い浮かべていそうだった。

 ここに私と来た相手を考えれば、すぐに心当たりに行きつく。えだもとさんはそのどちらにもまるで似ていない。そして告白してきた相手が女子であることは前提のようだった。それもそうか、と思う。

 相手が男性だったら、私は恐らく悩まないだろうから。

「どちらかといえばかわいい方の子だと思います」

 そして、私がこれまで好きになってきたのは美人の方だった。

 えだもとさんの方は、どうだろう。前の彼女とやらの顔は大学内で見かけたけれど、一目見た程度なのではっきりと思い出せない。思えば私は関心の差が極端な面もあった。

 興味のあるものは驚くほどはっきり記憶して、そうでないものはにじんで流れて消えていく。

「悩むってことは、その子のことは嫌いじゃないのね?」

「それは、はい」

 むしろ、と言いかけて、むしろ? と疑問を覚える。

 とつに出たそれは、むしろなのだろうか。そんなに勢いよく出るほどの好意は自分に感じない。

「……中学生の時にも告白されたことがあるんです」

「モテるわねぇ」

 茶化される。なんなら高校時代も何度か告白されているけれど、そのあたりは重要ではない。

「その時は好きってどういうものか分からないまま付き合って……後付けで好きにはなったんですけど結局、くはいかなかったんです。告白したのはあっちで、フッたのもあっち」

 だから、誰かの好意を少なからず疑ってしまうのかもしれない。

 自分は簡単に人を好きになってきたのに。

 こういうところ、割と自分に甘い気もする。

「またそうなるかもって?」

「ちょっと」

 一度失敗すると、変に賢くなって臆病になる。祖母が以前、そんなことを言っていた。

 今の私はまさにその通りで、だけど。

 賢くなることはきっと、悪いことじゃない。

「ただ、今度は前向きに悩んでいる。……変な言い方だけどそんな風に感じてます」

 あの時とはきっと、なにかが違う。そのなにかこそ、自らの知性の高まりだと思いたい。

「うん」

 みやこさんのあいづちは優しい。それは出会った時から変わらない。

 時々、意地悪だけど。

「たくさん悩むといいよ。そういう生真面目なところ、魅力的だと思うから」

「どうも」

 さらりとしため言葉が心地いい。人をめるのがいという、珍しい感覚。

 接客業に従事している故かもしれない。

「相談ってほどじゃないけど、話すだけでも気が楽になるよね」

「はい……」

 実際、そういうものだと思う。みやこさんは特に助言してくれるわけでもなく。

 動物だっていつまでもおりの中にいては不満を持つように。

 意思は、生き物だ。ずっと閉じこめてはいられない。

「それにしても大学かぁ。もう随分となつかしい場所になっちゃったな」

 指を一つ二つと折って数えだしたけれど、途中で何かに気づいたようにみやこさんが中断する。

 その一部始終を見届けていた私に、みやこさんが快活に笑う。

「あはははは」

「あはは……」

 大げさに勢いよく笑って流されていく。

「そういえば、付き合ってみないと分からないって行動に移した誰かもいたわ」

「……はこざき先生ですか?」

 みやこさんは直接の返事をしないで、回顧するように微笑ほほえむ。

「しっかり青春してるねぇ」

 軽くからかわれて、青春という表現に後ろめたさみたいなものを覚える。

 年齢的な問題で。

「青春って高校生くらいまでじゃないですか?」

「大学生もあんまり変わらないでしょ」

 みやこさんくらいになれば、そんなものかもしれない。

「なんなら、私もまだ青春してるつもりだよ」

「それは……えっと、若いですね」

「冗談だったんだけど……」

 お互いにあいわらいみたいなものを浮かべながら、独特の空気に包まれる。

 大学生だって、あまり変わらない。

 そうだろうかと考えてみると、確かに、と思う。

 高校生と大学生の自分の違いは、明確に見つからないのだった。



 私のことを好きな私の後輩と、大学で当たり前のように鉢合わせる。

「よ、よっす」

 えだもとさんが慌てたように挨拶する。「おはよう」と返しつつ、やや困惑する。

 そんな調子だっただろうか。

「おはようございます……」

 ぎこちなく頭を下げてくるけど、これまた今までのえだもとさんから離れている。

 正門近くで立ち止まって、夏の日にさらされながら混乱を深める。

「いやこんな風じゃなかったよね、えぇと、普段はどういう態度だったかな……」

 えだもとさんが苦悩するように眉を寄せて、首をかしげる。

「いつも通りで……あ、そのいつも通りに悩んでるのよね」

 改めて悩む姿を見せられると、こちらも以前の関係というものを見失いそうになる。それから、告白されたのだと遅れて意識する。考えておくとは言ったし実際たくさん考えたけれど、答えは出ていない。でもそれはそれ、これはこれで、私たちには大学での生活がある。

 とはいえ並んで歩くと、ややぎこちなさを挟む。

先輩、あれから無事に家に帰れた?」

「ええ、特に問題なかったわ」

 少しを張ってうそぶく。無事かどうかはあいまいだ、なにしろ過程を覚えていない。

 電車に乗って、座ってからは意識が途切れ途切れだった。景色に光がついたり、消えたり。車両の揺れ具合に合わせて夢とうつつを上下に行き来していたように思う。前後不覚とはこのことか。

 ただれた大学生になってしまった、と自虐していると視線に気づく。

 目が合うと、私を見上げるえだもとさんが段々と色づく。ほおを中心に、淡く、暖色に。

 夏とは異なる温かさを、私の目の中にも届けてくる。

「どうかした?」

「どうかしたって、した、よね。しました。思ってること、全部知られた」

「そうね」

 そんなことを直接言われると、私の方まで同じ心境に引きずり込まれてしまう気がする。

「心丸裸で好きな人の前にいるって、相当恥ずかしいなって」

「……そうねぇ」

 高校を卒業してからとうとあまり会おうとしてこなかったのも、そんな簡単な理由に近いのだろう。認めて向き合うのは、少し難しいけれど。

「返事聞くまで会わない方がいいのかな」

「そうね……」

 返答に窮して同じ反応ばかりになってしまう。でも私に言われても、その、困る。

 私だって悩んでいるのだから。

 悩むということは少なくとも否定的ではない。それはみやこさんにも言われたことだ。

 そう私は否定しているのではなくて、足を止めて、警戒している。

 自分がなにを警戒しているのかは既に分かっていた。だからこそ一層、真剣になってしまう。

 真剣で、でも答えはすぐに出せなくて。

 たくさん学んできた、そんなつもりだったのに。

 それでも、それなりに色々な好意というものに触れてきて、そして今。

 改めて、多様なものを手に取り、見比べて、考える。

 好きって、なんだろう。



『明日は大学に来る?』

『行くよ』

『なんでしょうか』

『話すことがあるの』

『会える?』

『喜んで!』

『ああでも待って喜んでいい?』

『いやいやいやそういう話?』

『ああああああああ』

『落ち着きなさい』

『そういう話をするつもりだけど』

『落ち着くの無理』

『無理無理』

『無理ならそうね』

『諦めましょう』

『割り切るの早いよせんぱい』

『でも普段から落ち着いているかっていうと』

『そうでもないかもわたし』

『そうよね』

『じゃあまた、明日』

『ええええ』

『今日はまだ六時間もあるじゃないか』

『明日って遠い……』

『安心なさい』

『そこまで悪い話じゃないわ、多分』



 翌日、顔色の悪いえだもとさんが走ってくるのを見た。体調不良を訴えるような色合いでも走り方はいつもと変わらない。その陰ることを知らない元気は頼もしくさえあった。

「こんにちは」

「まだ昼にもなってないわよ」

 かたくりと混ざりでもしたように固まった挙動だった。直角に曲がったひじの先で、上げた手がふらふらと旗のように揺れる。やがてその力もなくなったのか、ぎくしゃくと腕が下りる。

ひどい顔ね」

「ひどいっ」

「……ひどい顔色ね」

 少し訂正すると、えだもとさんが安心したように胸をろす。それでいいのだろうか。

「これは、ほとんど寝てなくて……化粧でごまかせるはずだったんだけど、汗かいたらあんまり意味なかったね」

 あははあはとえだもとさんが疲労を隠さないで笑う。

「慌てなくてもいいのに、ともう何度か言っている気がするわね」

「慌ててるつもりはないんだよ。気持ちに追いつこうと思うと自然、走ってるだけで」

 急ぎ足の理由を自分なりに説明してくる。私には縁が薄く、とうに失われた理由だ。

 自然と走るなんて、子供の頃、猫を追いかけていた時までさかのぼらないといけないんじゃないだろうか。

 なにかに飛び乗るように、えだもとさんが隣に跳ねて並んでくる。その動きに合わせて、風が緩やかに私へ届いた。そこに異質なものを感じて思わず、顔をしかめる。

「……あなた、お酒の匂いがするわね」

「えっ」

 真っ先に気づいたことを指摘する。後輩はバツが悪そうに目をらす。

「落ち着こうと思ってつい、なぜか冷蔵庫にビールが入っていたんですよね」

「あんなもの飲んだらかえって気分が乱れそうだけど」

 世に言う寝酒というやつだろうか。効果は顔色を見る限り薄いようだ。

「それに、飲みすぎるのは感心しないわ未成年。社会のルールよりも、あなたが健康でいてほしいから」

「いやそんな常飲してないよ?」

 えだもとさんが慌てたように否定する。常習していたら年齢として大問題だ。

「ちゃんと、悪い話じゃないと言ったのに」

「そんなこと言われたら余計寝られないよ……そこまでって部分が特に」

 嘆きながらも、えだもとさんは寝不足を引きずる様子もなく私よりずっと速足で、動きも軽快だった。犬のように、私の前に回り込む。

「でもうれしかったのも確かなんだ」

 なんの話? と目の動きで問うと、えだもとさんがとして笑う。

先輩から会えるか聞かれたの、これが初めてだから」

 こちらを向き、後ろへ足を動かしながら、えだもとさんがそんなことを言う。

 夏の日差しよりも鋭く、声は頭の奥に差し込む。

「ああ……」

 よく分かる、と思った。

 自分からの気持ちが走りすぎていると、不安になる。どこまで行けばいいのか、通りすぎていないのかって。だから応えてくれるものがあれば、それだけで足を止めて安心できる。

 心は離れすぎては細く、弱いものになっていく。自分からも、そして相手からも。

 私はそんな、人並みに弱い人間だった。

「それで、どこに行くの?」

 取りあえずついてきて、足を動かしているえだもとさんが行き先を尋ねてくる。もちろんこのまま講義に参加するつもりはない。他の学生と同様の流れから、徐々に離脱していく。

「講義棟の裏」

「ん? ベンチ?」

「人気のない所の方がいいでしょう?」

「え、うーん……うん、そうだね。わたしがまた泣くかもしれないし」

「……そうね」

 涙は、感情のきわまりだ。良くも悪くも。だから本当にえだもとさんは泣くかもしれない。

 最初に見たえだもとさんの涙を振り返りながら、黙々と歩く。

「暑いねぇ」

「本当に」

 途中の会話は、それだけだった。

 そうしていつものベンチにやってくる。いつもの……いつものというほどでもないけれど、私とえだもとさんはここで出会い、そして周回してまたこのベンチに戻ってくるのを繰り返している気がする。出会った場所だけに、原点とでも言うべきか。

 背筋を伸ばすように座りながら、広がる景色を眺める。

 以前に囲われていた自然とはまた異なる緑の連なりと、季節を示すような熱の輝き。

 先輩とは中庭で、とうとは生徒会で、そしてえだもとさんとは講義棟裏のベンチ。

 その始まりと終わりの場所を立ち去る時、私は。

 今度こそ、涙の一粒も流さないだろうか。

「答える前に質問していい?」

「ど、どうぞ」

 えだもとさんの腕や背がしゃっきりしている。その腕の上を、汗が一筋流れている。

 日焼けした肌によく似合っていた。

「あなたは私をどうして好きになったの?」

 ベンチを覆う陰のせいか、自分の声が少し冷たく聞こえた。

 えだもとさんにはどう届いたのか、ややほおが赤みを増す。

「これは、あれ? 誠実さみたいなものを確かめてるのかな?」

「単なる好奇心よ」

 好きとはなにか、えだもとさんの見解も聞いてみたかった。えだもとさんが頭をく。

「どうしてって難しいな……その、ひとれ?」

ひとれ」

 ついはんすうしてしまう。やめてよとばかりにえだもとさんが手を横に振った。

「だから、顔にんだってことになるのかな」

「……ふむ」

 分かる話で、大いに納得してから少し照れる。この顔がね、とほおを指で少しでた。

「なるほど」

「そうなんですよ……」

 えだもとさんの声は腰が浮いたように据わりが悪く、言葉の続きを待ちわびるような調子だった。

 目を強く開くように、彼女を見据える。

「じゃあ、言うけれど」

「うん……」

「正直に言うとね、今、あなたのことが好きでたまらないかというとそうでもないの」

 そこは彼女も感じているだろうと思って切り出す。

 と。

「えっ」

 えだもとさんは寝耳に水とばかりに思いっきり驚いた。

「こっちがびっくりしそうよ……好きでたまらないと思ってた?」

 指摘されると気恥ずかしくなってきたのか、えだもとさんの胴がくねる。

「いや……さすがにそこまで自信は……あ、でもそうでないと困るよね……」

 ぐむむむ、とえだもとさんが葛藤し始める。……話の流れをしっかり折られてしまった。

 どうしよう、と途方に暮れそうになる。ここは、なかったことにして話を続けてしまおうか。

 えだもとさんはいつまでも独りもごもごと続けていそうで、状況改善を期待できない。

 待ってみても、なにも変わらずせみは鳴き。空は高く、雲はその空に届かないまま泳ぎ続ける。

……………………………………

 なかったことにした。

「前にもこんなことがあった。そして、私はその人を本当に好きになった」

 話を急に戻したことで、えだもとさんもひねるのをやめて帰還してくる。

「……前に付き合ってた人だよね? わたしと正反対の」

 小さくうなずく。

「あの時は、好きというものがなんなのか分からなくて、知りたくて、付き合ってみようと思った。先行きもさっぱり分からないままね。割と不純な理由かもしれないけれど、それがきっかけで。今は、その時と状況がとても似ているように思う」

 まったく違う相手なのに、状況だけがかよる。不思議なものだった。

 人にはそれぞれ至る道があり、そこをなぞれば、同じようなものを避けて通ることはできないのかもしれなかった。

「えぇと、つまり?」

 きっと、この子の好意にはうそがない。それは分かっているし、そう信じたくもなる。

 なのに、あの時の結末が拭いきれない。

 だって、私の先輩への好意だって最後はうそがなかったはずなのに。

 今度は私が裏切る方になってしまったら、なんて考えてしまう。

 そんな風に、手が宙をくように。

 近寄ることもしなくて、かといって離れることもできない。

 ちゆうはんに、足踏みする。

「付き合うとはまだ言わないけれど、一緒にいてみましょう」

 言い切ってから、せみの鳴き声が耳の裏側に寄り添うように、一気に重くなった。

 聞いたえだもとさんも最初は理解が及ばないらしく、固まっている。

 こんなことをずうずうしくも言って、拒否される可能性さえあった。

「あなたがよかったら、だけど」

 こんな言い訳みたいなものまで添えてしまう。

「喜んだ方が、いい、のかな?」

「お任せするわ」

 我ながら少し、面倒くさい態度を取っていると思う。

 えだもとさんはややまえかがみでけんしわを寄せていたけれど、背を伸ばすのと同時に笑う。

「試供品みたいなものかな」

「試供品?」

「あ、お試し期間っていうかね。満足できそうなら継続してお願いしますってやつ」

「……ごめんなさい、どっちつかずで」

 好意的な解釈をされると心苦しい。

「どっちつかずなら、こっちに来る可能性もある! ってことで」

 おいでおいでとばかりに、えだもとさんが手招きの仕草を取る。

「……ほんと、前向きね」

 私は彼女の目指す『前』にいるのだろうか。

 ……いや、いなかったとしてもえだもとさんは振り向いて、見つけて、向いた先を前にしてしまうのだろう。恋をするって多分、それくらいに道を変えてしまうものだから。

「よろしく!」

 彼女の迷いのない声に、私は、あいまいに笑うことも難しかった。



「うーん……うん? んー……」

「どうかした?」

 えだもとさんが早歩きのまま首をひねっている。勢いがいいもので首回りを痛めないか心配だ。

「いや、二人で大学を歩いてさ……」

「ええ」

「今までとこれなにか違うのかなって考えてた」

 告白を終えた翌日から、私とえだもとさんの当たり前は続いている。周囲も変わらない。大学はにぎやかで、吹く風は時々うるさく、生ぬるく、そして世界はせみに包囲されたようにうるさい。

 その景色の一部に、私とえだもとさんがいる。確かに、違いは見つからない。

「なにかないと困るんだよね。なにもなかったら、なんにも変わっていかない気がするから」

………………………………………

 とうとのことを、少し思い出す。

 変わらないことを選んで、それに応えようとした自分を。

 変わることを怖がるように、慎重に、臆病になっている私。

 とうの気持ちが、今になって少し分かるような気になる。

「それじゃあ」

 参加する講義が違うので別れようとすると、えだもとさんが小さく上げた右手の指差しを見る。

 そろったそれについ、私の目も向く。

「なに?」

先輩、超好き」

 えだもとさんが笑顔でさらりと言ってのける。

 太陽が背後で揺らめくように、一瞬、景色にかげろうを見た。

 随分と情熱的なさようならだった。

「急になに?」

「いえ確認のために」

 確認とは、と問う前にえだもとさんは歩き出してしまう。

 超って。「ちょう」となぞるようにつぶやいて、思わず腰に手を当てながら目をらす。

 自分が言ったわけでもないのに、湧き上がる気恥ずかしさは大きかった。

「ちょーすきー」

 遠くから大きく手を振って、大声でそんなものを追加してくる。

「やめなさい」

 私のたしなめなど当然、小声で届かないのだった。

 手を振るか最後まで迷っている間にえだもとさんは行ってしまう。なんという好き放題、いえ好きだと言われたからではなく身勝手……身勝手なのはこちらも同じ、いいえ、今わがままなのは一方的に私の方だった。

 好きでもないのに、側にいろなんて。

 我ながら、後輩にひどいことを押しつけている。

 あまり長い時間、わがままで振り回すわけにもいかない。本当は短い時間でもいけない。

 罪悪感のようなものが、彼女と顔を合わせない間に少しずつ私をむしばむ。

 そんな私を責めるような気持ちは、えだもとさんにないのだろうか。

「……ないんでしょうね」

 態度を見ていれば、それくらいは分かる。

 さっきもきっと普段のえだもとさんなら、さよならで済ませるところだった。

 だけどそれでは今までと変わらない。

 なにも変わるものがなかったら、自分で変えていく。

 彼女は私のややこしい気持ちなんて考えている余裕もなくきっと、一生懸命なのだ。

 とてもいい子だとは思う。

 だけど根本的な問題かもしれないけれど、今、そんな彼女のことを心底から好きというわけではないのだ。

 ……でも、それでは本当にいけないのだろうか?

 お互いが完全なる好意を得なければ、付き合うことはできないのだろうか。

 それしか恋の形はないのだろうか。

 完全たり得る好意とは、なんなのだろう。

 えだもとさんの私への好感は、完全というか、純粋に思える。先輩のようにふわふわとしたものに隠れていない。それに応えることはきっと、心地いいのだろう。

 とても居心地のいい関係を築ける、きっと。

 分かっていながら、私は、その好意というものをにらみ続けている。

 今度こそ、失敗しないために。

 ……失敗するくらいなら、初めからやらなければ、という考えも一瞬ちらつく。

 でもその気なら、すぐに断ればよかったはずだ。

 私は、そんな穴蔵に潜むような答え以外のものを見つけたがっている。

 暗闇ではなく、明るいものを。

 まるで水面を見上げるように、空を仰ぐ。

 あっという間に訪れる光に目がくらんで、手のひらでひさしを作った。

 光を一気に吸い込んだ目の奥が重い。慣れるまで、景色が回るようだ。

 手のひらの向こうで太陽が雲に紛れて、段々と光を弱めていく。

 機を見計らい、手をける。肉眼でも見つめられる程度に薄くなった、日の輝き。

 そのまぶしさを越えた向こうに、答えなんて用意されているわけもない。

 きっとどんな答えに行き着いても、太陽の輝きは変わらない。

 雲の形も、空の青さも。何一つ変わりなく、流れていく。

 それでもそれは、一つの世界を揺るがすほどに大きな悩み。

 すべては、私の心の問題だった。



 家に帰ってから思うところがあり、久しぶりに友人に電話する。

 出なければまた今度でいいような用事だったけれど、電話はすぐにつながる。

『あ、

 高校時代の友人の声は、電話越しだとまた別人のようにも聞こえる。

「久しぶり」

『相手誰? あ、の声だ』

 もう一つの声が耳元に寄ってくる。

 みどりと同じ部屋で暮らしているまなの声も当たり前のように聞こえてきた。

ひどいなー。これで三回目だよ』

「三回目?」

『私じゃなくてみどりに電話したの』

「え……と。そうね、うん」

 なんでそんな回数を把握できているのだろうと考えれば、二人がいつも一緒にいるからだった。それならどちらに電話してもこうして二人と話すのだから変わらない、そのうえで自分ではなくみどりに電話したよと、まなはそう言いたいのだろう。

 指摘されて、なるほど、確かにそうしていると今更気づく。

 高校三年時のクラス替えで、私とみどりは同じクラスになった。まなは離れ離れとなり、確かにその結果としてみどりの方と親しくなったかもしれない。電話する時もみどりの方を無意識に選ぶ程度に、優先順位が出来上がっていた。もっともそれは、二人の性格を考慮した結果に過ぎないかもしれないけれど。

 そうしたほんのわずかなきっかけから差が生まれるのだから、人間関係は不思議で、面白く、そして油断ならない。

まなに電話すると脱線しそうだったから」

『それはあるねぇ』

 本人があっさり認めてしまったので、話題が終わる。まなは発言も、終わりも唐突だ。

 彼女のペースに付き合っていけるのはみどりくらいなのだろう。

「それで、ちょっと変なことをお願いするんだけど」

『変? おぉーいいねぇ、変なって興味あるかも』

『それはある。いつもまともなしか見てこなかったもんね』

 割と好き放題言われている気がする。まともな私ってなんだろう。まともじゃない私の方は、お酒が入った後を振り返ればすぐに分かる。それは今のところ、えだもとさんしか知らない私だ。

「じゃあ変なこと言うわよ」

『私もがんばるよ、変を』

『あんたはがんばらなくても変だから』

 まったくその通りと同意しつつ、軽くせきばらいする。気心が知れていると言っても、友人への頼み事としてはやや気恥ずかしい。でも友人くらいの距離の相手でなければ、もっと恥ずかしい。

 私が知りたいのは、そんな繊細な違いだった。

「私に、好きだと言ってみてほしいの」

 言ってから、なんだかとてもごうまんな願いに思えた。

 あるいは、飢えたようにも聞こえるだろうか。

「好きじゃなかったら申し訳ないのだけど」

『いやそんなことないよ。え、と、わたしが言えばいいの?』

『それとも私?』

「……取りあえず、みどりで」

『フラれたよー』

 嘆くまなを一体みどりがどうしたのか、『でぇーい』『ぎゃー』と緊張感のない悲鳴が届く。

 若干気になる。

『じゃ、言いますよ』

 みどりが一拍置いて、『はずかし』と一言ぼやくようにつぶやいてから。

『好きだよ、

「……ありがとう」

 友人からのありがたい好きは、春風のように私に届いて吹き抜けていく。

 胸に留まることなく、淡く。

『あ、今うわした』

 まなの反応に思わず笑いそうになる。続けるみどりの対応も含めて、耐えられなかった。

『頼まれたからだし、うわじゃないし、そもそもうわにならないし、うわってなに』

『いや私ってみどりに好きなんて言われたこと多分ないよね』

『え、あー……ないかな』

『多分ね』

 親しい間柄だと、そうした言葉での表現を省いてしまうことは往々にしてある。

 私だって家族との間で、好きなんて言葉が行き来したのはいつ以来か分からない。

 当然、好きであることを前提としてだ。

 でも人が日々、施設や装置の点検を欠かさないように、私たちはもっとお互いの感情を確認していくべきなのかもしれない。

 心や気持ちなんて目に見えないことを知りながら、私は、あまりに浅薄だった。

 感情は生きている、空気のように確かに巡っている。

 いつの間にかとういとさんを好きになり、私の隣から離れていたように。

『あ、そうだ。ねぇねぇ、。私に好きって言ってみてよ』

「え、私?」

 今度はまなの方から要求してくる。戸惑っている間に、みどりが突っかかる。

『あんたこそなに堂々とうわしてんの』

『いや今思いついたから……』

『思いついたことなんでも口にするのやめなさいよ……』

…………………………………………

 私から言う方も、か。それもいいかもしれないと思った。

「好きよ、まな

 私からお願いしたこととはいえ、友達同士でなにをやっているのだろうといささか照れる。

『いいねぇー』

 まなはまるで照れる様子もなく、ご満悦だった。

『みどりも言って』

 お菓子でもねだるような感覚でお代わりを求めるまなに、みどりがあきれた声を返す。

『なんとなくやだ』

『え、好きじゃないの?』

『えーいや、好きだけどさぁ』

 みどりが面倒くさそうにしているのは、照れ隠しの一種だろうか。

『まいったな、二人に告白されちゃった。二股はよくないよね、うん』

『よくないねー』

 みどりはもう投げやりだった。

「私のことは忘れて二人で幸せになってね」

『なに言ってんのまで』

『うん分かった。ここはみどりの気持ちに応えとくよ』

『わぁうれしぃなぁ』

 みどりの声のでこぼこ具合に、つい噴き出しそうになる。

 二人と話していると高校の教室を思い出すように、時がうねる。

「フラれたわ」と小さくつぶやく。もちろんそこには、透明にも等しいようなさわやかなものしかない。

 違うんだな、と明確に意識する。

 えだもとさんとは別枠だ。いや、えだもとさんが別枠なのか。

 友人の思いつきが、思いがけない形で私に答えを見せる。まなはそういう機会が多いように思う。なにも考えていないようで、いや考えていないとしても、なにかは見えているのかもしれなかった。

『ごめんねの家の猫は私も好きだよ』

「そう、後で猫に伝えておくわ」

 友人へのひいによるかぶりかもしれなかった。

『あ、猫いいよね。ねぇみどり、猫とも一緒に暮らしたいね』

『ここペット禁止』

『今じゃなくてさ、もう少し先。大学出た後だよ』

『卒業してからも、まなと一緒に? ……そうなる、そうなるのかな』

『猫の名前は私が決めるね。みどりに任せると武将の名前とかにしそうだし』

『……わたし飼うなら鳥がいいなぁ』

『えー、なんで?』

『なんでって、鳥の方が好きだし。それと猫っぽいのは間に合ってるもの』

『鳥って羽えてるだけだよ?』

『だけの意味が分からない。猫だって尻尾生えてるだけじゃない』

「あの」

『いや耳もあるよちゃんとほら猫耳。こうねこう。大体みどりはさぁ』

「切っていい?」

『もうちょっと聞いてて』

 なぜ。

 結局、それから二十分くらい二人のやり取りを黙って聞いていた。

 不毛で、騒々しくて、そして退屈ではなかった。



「超好きだよ、先輩っ」

「あなた、超好きね」

 不意打ち気味な告白ながらも、少し慣れてきた。

「え、そんな先輩からも熱い告白してくるなんて」

「あなたね」

「冗談だよ」

 その日も昼ご飯をどうですかと誘われて、えだもとさんの部屋に来ていた。

 空調の強く回る音が頭の上で、からからと鳴る。せみの代わりのように。

 本当は空き時間に図書館に行くつもりだったけれど、えだもとさんと一緒では取りやめた方がいいだろう。何よりこの部屋にいると、時間いっぱいまで外に出る気がなくなってくる。

 足を崩せる場所は大学の中にはないのだった。

「一応言っておくと、告白自体はちゃんと伝わってるわよ」

 何回も好きだと伝えてくるので、そういう部分が不安なのではと思った。

 違う違う、とえだもとさんは首を振る。

「はっきりしないものって消えていく気がしてね。だから気持ちだって、はっきり、目に見えるんじゃないかってくらいに形を示したいだけ。とても難しいことだとは思うけど」

 おしるのワカメをすくいながら、えだもとさんがさして難しくもないように軽々に言う。でもえだもとさんのはっきりとした声なら、それもできるのではないかとそんな気にさせられる。

 耳の中で、彼女の声は石のごとく残っているような……そんな、質量があった。

「いやく行ってないかもしれないけど、他に思いつかなくて」

 ははは、とえだもとさんが困ったように笑ってごまかす。

「……そのための超?」

「他に思いつかなくて」

 硬い壁を押すような調子で繰り返してきた。思いつかなくても、即行動に移す。

 私に足りない思い切りを、えだもとさんは持ちすぎていた。危ういくらいに。

 彼女は多分、周りからの好き嫌いもはっきりしているのだと思う。

「話してると、えだもとさんを見習うべき部分がたくさんあるような気がしてくる」

「そ、そうかな」

 そういう賛辞にはえだもとさんも人並みに照れる。もっと他に恥じ入る箇所がありそうなものなのに。

「だけど見習い続けたら、私までえだもとさんみたいになってしまうかもしれない」

「あーそれは困るなぁ」

 えだもとさんが私の冗談に対して真剣に困るそぶりを見せる。

「わたしは今の先輩が好きだし」

 なんてことないように好意をうたえだもとさんのそれが、引っかかる。

「今の私って、なに?」

 自分でもまるで分からないそれが分かっているような口ぶりに、つい反応する。

 そして抽象的な質問にも関わらず、えだもとさんの答えは明快だった。

「わたしの目の前に見えてる先輩が全部だよ。他に説明はできない」

 エアコンから吹き出す風よりも強く、それは私の肌をでて駆け抜けていく。

 えだもとさんが言葉を続けた。

「その人の裏側とか、本当はなに考えてるとかそういうのはもういいんだ。もういいってほど理解してないし、できないけどさ……大事なのは先輩が笑うとか、先輩が喜ぶとか……そういうことなんだよ、わたしにとって。ごめん、言葉がく見つかんない。でも思ってることってちゃんと表面に出てくるものだと思う。だからわたしは、今見えてる先輩のすべてが好きで、それしか分からない」

 続く風と共に、自身の表面から出たものを全面的に訴えるように、えだもとさんの言葉が響く。彼女は確かに迷うこともなく、裏表など考慮せず、感情むき出しに、そして私を好きだと伝えてくる。これで照れない人間はいないだろうし、心がぐらつかないはずもなかった。

「……説明できないって言ったけど、割とできたかも」

 やや得意げなえだもとさんに、僅かに笑う。それから。

先輩には、わたしがどんなものに見える?」

 箸を置き、尋ね返される。瞳をのぞくように、返事を求めるように。

 えだもとはるが、どんな存在か。

 見つめ続ければ、浮かぶものはまだ輪郭めいて。

 けれど、その形の意味を分かってはいた。

 こちらもとうに止まっていた食べる手を、完全に休める。

「もう一度、好きだと言ってみてくれない?」

 私の要求は意外だったらしく、えだもとさんの動きが一度止まる。一時停止をリモコンで指示されたように。伝う汗の感触に体が震えたあたりで、ようやく再起動する。

「割と毎日言ってない?」

「そうだけど、今お願いしたいの」

 えだもとさんが目をらして、ほおを曲げる。

先輩って、やっぱりちょっと変な人かも」

「やっぱり?」

 私の疑問を無視して、えだもとさんがせきばらいして喉を整える。

 伸びきった腕と背もいいあんばいとなっているのか、声が透き通っていた。

「好きです、先輩」

 前より落ち着いているのか、やや丁寧な告白になる。

 告白は熱波のように、私の全身に降りかかる。

 それは表面で留まることなく確かに、私の内面までも焼いていく。

「うん、うん」

 吟味するように、二度うなずく。

「え、なになに。なにを納得しちゃったの」

 えだもとさんの追求をはぐらかすように一度、前を向いた。

 目をつぶっても、まぶたの向こうからじわじわと熱いものがにじむ。

 こちらにひとれはなかった。あの日、とうを見た時のような衝撃はなかった。

 だから、とても分かりづらくて。

 それでも。

 少しあがくようにしてみたけれど、この辺で、限界らしい。

 目をつぶっても、そのまぶたの向こうに温かいものが見えるようだった。

「あなたの好きは、違うわね」

「え?」

 相手の口から発して、こちらの耳を通り、胸に届くことは同じなのに。

 友達からの好きとは、違うものに変化する。

 感情は科学と常識を時々超えるのかもしれない。

「思うに、私は」

 ほのかな熱。たきぎの隙間から漏れ出るような、小さなあかり。

 えだもとさんの好意には、かすかにそのきざしがあった。

 特別に感じる好意の先にあるものは、つまり。

「私には、あなたをこれから好きになる予感しかない」

 好きになれば、私はまた変わっていく。

 その自分でも驚くほどの変化を踏み出す前は恐れて、それでも。

「だから私があなたを好きになるまで、あなたには好きでいてもらわないと困るの」

 一方通行に、相手にずっと走り続けて、どこにも辿たどけなくて。

 そういうのはもう、そろそろ終わりにしたい。

 だからようやく本当の意味で、返事をする。

「付き合いましょう、えだもとさん」

 それが、私の答えだった。

 努めて穏やかに言ったつもりだったけれど、えだもとさんには過ぎた刺激のようだった。

 とんから跳ね上がったえだもとさんは、あるはずもない屋根にでも頭をぶつけたように途中でぎこちなく停止する。それからよろめく。立ち直り、こちらに帰ってくる。でもまたすぐに立ち上がる。本人も自覚しているとおり、落ち着きというものは彼女と無縁みたいだ。

 でもそうやって動き続ける方が、私とは相性いいのかもしれない。

「ほんと?」

「遊びだったとか冗談だったとか言われるのも言うのも大嫌いなのよ、私」

 嫌なことを思い出して引き合いに出したのに、多分、私は今笑っている。

「ほ、ほ、ほ」

 えだもとさんがつまずくような奇声をあげる。ごまかすようにすぐにせきばらいした後、派手にせる。その終わらない変化は屋内で跳ねるボールのようだ。

 再び近づこうとしたえだもとさんが、「あ」とかばんからハンカチを取り出して額や首筋を拭いだす。汗をそのままにしていると失礼と思ったのだろうか。気を遣っているのか、なんなのか。

 本当に、おかしな子だ。

「なんていうか……いや、現実だよね。うん、先輩キレイだし!」

「どういう納得なのよそれ」

 夢の私は一体、どんな顔をしているのか。

「あなたの方こそ心配よ。飽きやすいんでしょう?」

「ああ、それ」

 えだもとさんが私の瞳を見つめる。じわぁと、温かい色合いが肌に増す。

 そして、私に手を差し伸べてくる。

「毎日、たくさんの先輩を見つけるよ。それならきっと、大丈夫」

「なるほど……」

 えだもとさんらしい在り方だと思った。そう思えるくらいには、彼女のらしさを認めていた。

 私の中に、変わり続けるものを見つけて安心を得ようとするえだもとさん。

 私は逆に彼女から変わらないものを見つけてあんしたいような……そんな気分で、その手を取る。取りながら、改めるように彼女の顔を見つめる。

 今まで出会ってきた多くの人の誰とも似ていない。

 今まで好きになってきた人の誰からも遠い、その雰囲気。

 それを、私は今受け入れようとしている。

 かくして私は、えだもとはると付き合うことになったのだった。



 そんなことがあって、今度は私が寝付けない番だった。

 ベッドの中で何度も寝返りを打って、しばらく努力していたけれど成果が表れないので最後は諦める。薄いとんぎ、身体からだを起こす。

 目の奥に光があるようで、つぶっても無駄だった。

 真っ暗な部屋で壁を見つめていると、ゆず先輩と付き合いだした日もこんな風に眠れなくなっていたのを思い出す。癖のようなものはけっして直らないのかもしれない。

 明かりもつけないまま、ぼんやりと時間を過ごす。そわそわとしたものはあるけれど、気分は悪くない。何かが始まる前のような、緊張と高揚が入り混じって指先を伝っていた。

 家人は猫含めて当然眠っている時間なので、家の中はせいひつそのものだ。虫の鳴き声も窓の向こうから聞こえなくて、騒がしくするわけにもいかない。今夜は町の向こう側からも音が少なく、じやくまくさえ感じるほどに静かなものだった。

 閉じたカーテンの向こうにあるはずの星を、目の中に感じてしまう。

 その星は自分から輝いているのか、それとも光を受け取っているのか。

 私にとっての光とは、今。

………………………………………

 えだもとさんは寝付けなかったら、気軽にアパートを出て散歩にでも行くのだろうか。そういう腰の軽さは一人暮らしの特権だと思うし、少しうらやましい。

 ……一人暮らしのとうもそんな時があるのだろうかと、友人の夜の過ごし方を思う。

 距離とか、忙しさとか、たくさんの言い訳をもってとうとは直接会っていない。

 とうに、えだもとさんとのことについて相談する日なんてものもいつかは来るのだろうか。

 そうやって考え事を増やしてしまって、余計、眠れなくなる。

 結局そのままほとんど眠れない夜を過ごして、朝を迎えた。

 役目を満足に果たしていないベッドから下りて少しってから、じんわり、ぼんやりとそれが湧いてくる。

「彼女ができた」

 思わず声に出す。そして、部屋を落ち着きなく歩き回る。外はもう明るかった。町と人は動き出している。それに慌てて追いつくように、ぐるぐると歩く。もちろん、意味はない。

 えだもとはる。一つ年下の彼女。元気いっぱいで、少し落ち着きがなく、小さく結んだ髪の揺れる仕草がかわいらしい……という、後輩。私に向けるのは笑顔ばかりで、彼女のことを思い浮かべるとその輝かしい表情がすぐ目の前に現れる。名前のごとく、陽光をまとう少女。

 交際は二度目になる。

 一度目の交際にいい思い出はない。……でもそれは嫌な部分だけしか覚えていないからそう思ってしまうだけなのかもしれない。先輩はああいう人だったけれど、でもその先輩に確かにおもいはあったし、笑顔も生まれて、心は弾んでいたはずだった。

 今度の出会いも、永遠と言えるほど長く続くかは分からない。けれど、もしお互いの道が離れて途切れるとしても、いい思い出をたくさん覚えていたい。まず、そう思った。

「だからまず……まず、何すればいいのかしら」

 経験の浅い私には、まずこうでこうでこう、と理路整然とした筋道が立てられない。前は先輩に呼ばれて、話をしてたまに電話もして、とそれくらいだった。それはもうえだもとさんとの間で行われている。それだけでいいのだろうか。大学生は一体、何をすればいいのだ。

 動き回っていて視線を感じて廊下を見ると、さび柄の猫がじっとこちらを見ていた。

 こんな早起きはお互いに珍しい。

「お、おはよう」

 一部始終を見られていたのだろうか、とあせりながら挨拶する。猫は部屋までは入ってこないで黙って立ち去る。前にもこんなことがあったような気がする。

 その猫の視線でようやく立ち止まれて、それから崩れて肩にかかっていた髪に目が行く。

 髪の毛を手に取り、指の間に流れ落ちる様を眺める。

 伸びた髪は、確かなる時間を感じさせて。

 だけど少し引きずって、伸ばしすぎた。

 言い方は少し淡泊かもしれないけれど……もう、関係ないのだ。

「よし」

 最初にやることを決めて、うろつくのを終えて着替える。

 部屋を出て顔を洗う。夏場に影響されてややなまぬるい水だけど、寝不足で張っていた顔の膜のようなものが取れる。不思議と眠くはない。疲れだって、段々と気にならなくなる。

 やるべきことを見つけて、えだもとさんのように早歩きになっていく。

 晴れ晴れと、こうこうと、光に吸い込まれるように歩き出そうとする。

 でも靴を選ぶところで、振り返り、家の廊下の薄暗さを見る。

「まだやってないわ」

 玄関まで来てようやくそんなことに気づいて、慌てて引き返した。

 その足取りさえ、いつもより速い。



 二限目の講義が終わってから、『今どこ?』とえだもとさんに聞いてみる。

『だいがくー』とだけ帰ってきた。数秒後、次の返信が来る。

『会おう!』

「そのつもりよ」

 返事で待ち合わせ場所を決めてから、電話をしまって前を向く。

 かばんひもの位置を調整してから、足を動かす。前に出ることを意識して、身体からだが動く。講義棟を出て強い日をめいっぱい浴びながら、早まる息と共に加速していく。

 えだもとさんはきっと走ってくるから、私も少し急いでみることにした。走り出すのなんていつ以来だろう。生活に慣れるにつれて、時間の使い方に慣熟するにつれて、人は走る機会を失っていくように思う。時間に余裕があるのは大事なことだけれど、そのうえで時々、走ってみることで感じられるものもある、かもしれなかった。

 えだもとさんと出会わなければ、大学内で走ることは卒業までなかっただろう。

 どうも彼女と付き合うと、毎日がせわしなくなりそうで……悪くなかった。

 走り抜けて、学食の前まで来ると既にえだもとさんの姿があった。息が軽く弾むほど急いだ程度では、彼女に到底追いつけないようだ。足を止めると、追いかけてきた熱気が距離を詰めるように一斉に私を包囲する。

 走り抜けたことを、ほんのわずか後悔するほどには。

 えだもとさんのをするのは、季節を考慮した方がいいかもしれなかった。

 そんな私のもとへ軽快に駆け寄ってくるえだもとさんが、近くまで来て飛び跳ねる。

「おぉっ」

 えだもとさんが大げさに驚きを示す。それから、こちらへと近寄ってきて、私の後ろをのぞくように首を伸ばしてくる。子供が物珍しいものを見つめるような振る舞いだった。

「髪切ったんだ」

 そろえた髪を右側にまとめて、と髪型も変えたためかすぐに気づいてくれた。

 これがまず、私がやろうと思ったこと。高校を卒業してから伸び続けたそれを、断ち切る。

「わたしとその、付き合うことと関係ある?」

「どうかしら……まぁなんとなくね」

 なんとなくか、とえだもとさんが私のごまかしをなぞる。

「失恋はまだしてないから関係ないね、うんっ」

「ええ」

 えだもとさんの安易な発想は、当たらずとも遠からずかもしれない。

 大丈夫と言いながらまだ少しだけ引きずっていたそれを、今日切り落としてきたのだ。

「あなたが好きだと言った髪は早速短くなったけれど、どう?」

「うーんそうだね……」

 えだもとさんが三歩下がって、私の全体を見回してくる。

「美人」

 満面の笑みで、えだもとさんが私を評価してきた。

「ますます好きになったかも」

 またすぐに寄ってきたえだもとさんが、私のまとめた髪を指でいてくる。

「この美人が、わたしと……その、付き合うなんてちょっと信じられないな」

 目を輝かせながら、同時にその端に不穏を抱くようにゆがみを作る。表情が器用だ。

だまされてないかな?」

だまされていたとしたら?」

 たとえば、恋をするということだけに憧れて相手は誰でもよかったら。

 えだもとさんは「んー……」と目を泳がせて一考の仕草を見せる。

 そして私の髪から手を離して、えだもとさんが光る汗の一筋と共に笑う。陽気に、したたかに。

「ずっとだましてくれるなら、それでもいいかも」

 えだもとさんのそのしなやかな姿勢に、言葉は少なくとも関心を抱く。

 だまし続けるなら、ずっと側にいないといけない。なるほど、と思った。

 理由があるものを、私は好む。それがつながりという不確かなものだとしても。

「この間も言ったけど、見えるものがわたしの全てだからね」

 それにだますことが絶対に悪いとも限らない。

 よりいい自分を見せようとすることは、相手のためおもだまし合いなのかもしれないのだ。

 えだもとさんがそんなことを考えたかはさだかでないけど。

「昨日はよく寝られた?」

先輩と別れた後をあんまり覚えてないから多分」

「大丈夫なのそれは……」

 私もお酒を飲んだ日は人のことを言えないので、語尾が弱まる。

先輩はちょっと顔色悪いね」

「あまり寝られなかったから。えだもとさんのが移ったのね」

 寝不足の頭にせみの鳴き声が遠慮なく響く。重たい頭の中をぐらぐらと揺らされるようで、気を抜くと、不明瞭な声が漏れそうだ。この後輩の前で、それは避けたい。

「ハルでいいよ」

 いつものやり取りを挟んで、「そうね」と肯定する。

「これからはハルと呼ぼうかな」

 とうの名前を呼ぶくらいで、同級生相手に練習を挟んだのを思い出す。

 その時と比較して、すんなりと彼女の名前を口にすることができた。

 でもいとさんをゆうと呼ぶのはどこか抵抗がある。同じ後輩なのにどこに差があるのだろう。

 言いやすい名前というのがあるのかもしれない。

 そんなことを真面目に考えていると、えだもとさんのきようがくが目に入った。

「おぉ……」

 えだもとさんもとい、ハルがよろめくようにあと退ずさる。前後に忙しい子だ。

「なに?」

「いや、これまでのはお約束というか、本当に呼ばれる時が来るとは思わなくてつい」

 話しながらまたすぐ側に戻ってくる。縁日の水風船をほう彿ふつとさせる。

「ぇえっとー……えだもとさんでもいいよ……?」

「混乱してるわねこれは」

 ハル。言いやすいし、語感もいい。生活にみのある言葉だからかもしれない。

「ハルっていい名前ね」

「今は夏だけどね!」

 ハルの顔がへらーっとゆがんだ後、すぐに手で覆い隠す。

「ごめん今最高につまらないこと言った」

「確かに……」

 これより上のつまらなさは難しそうだ。さらりと頂点に立つのもすごい。

「ん、その、そうね」

「コメントに窮するなら何も言わないで」

 いやいやするようにハルの頭が左右に振られる。それから、そのまま細かく飛び跳ねる。

 本人の発言はともかく、動きは面白い。

 後悔さえ動き回るハルという女の子は、見ていて飽きるものがない。

……………………なるほど」

 あいまいな予感なんてものの正体を悟る。

 面白くて、飽きなくて、私をめいっぱい好きでいるかわいらしい女の子。

 客観的に見て、私からも好きにならない理由は少なかったのだ。



先輩って好きな色はある?』

『急にどうしたの?』

『割と聞かれて困る質問なのだけど』

『いや服とか買うときにそういう色選んだ方が』

『いいかなーって』

『それはあなたの好きな色でいいんじゃない?』

先輩も気に入ってくれた方が』

『よくない?』

『そうかもしれないけど』

『あなたは、あなたの好きなものを選べばいいと思う』

『私はそういうハルを好きになりたいと思うもの』

『……ハル?』

『おぉ……』

『なによ』

『ボールがぼこーんって鼻に当たった感じ』

『どういう感じ?』

『一応答えておくと緑色が好きよ』

『緑かぁ』

『春って緑っぽくない?』

『うーん、黄色?』

『もしくは桜の色』

『あ、わたし桜色好き』

『やったねっ』

『やってるかしら……』

『じゃあ好きな食べ物はある?』

『前にも聞いた気はするけど、今聞いたら』

『ちゃんと答えが返ってきそうな気がして』

『好きな食べ物』

『そうね……』

『お

『ソバ』

かぁ』

『……手打ちじゃなくていい?』

『修行してきて』

『冗談よ』

『じゃあ今日は来たらおそうするね』

『楽しみにしてる』

『それから、そのお礼に』

『私も明日、なにかごそうするわ』



『明日会う約束だったけれど』

『一人連れて行っていい?』

『いいですけど、誰ですか?』

とう先輩?』

『いやそんなわけないか……』

『なんの意味があるのその遠回りは……』

『いやぁ』

『でも大学で一人ぼぅっとしていると』

とう先輩とえき先輩が一緒にやってくるような』

『そんな感覚がまだ残ってるんです』

『少しですけどね』

『……そうね』

『そういうものかもしれない』

『あ、大学の友達ですか?』

『前に話していた子』

『……そうというか』

『なんというか』

『友達ではなくなったというか』

『友達じゃない?』

けんしたんですか?』

『いやけんした子と一緒に来るわけないか……』

『でもまだ半分くらいは友達な気もするわね』

『よく分かりません』

『えっと簡単に言うと』

『私の彼女を紹介したいの』

『はぁなるほど』

『うん……』

『えっ?』



「ここが先輩の町かぁ」

「私が支配しているように聞こえるわね……」

 大学周りの方がよほど物にあふれかえり、言ってはなんだけど地味な様子である町並みをハルが楽しそうに眺めている。新鮮に映るものなんてないはずなのに、彼女は旅行にでも来ているみたいにはしゃぐ。本人に言わせると、電車一本乗るのも久しぶりだと言う。

「実家には帰っていないの?」

「大学来てからはまだ。電話とかでは話してるし、家遠いと面倒で」

 横断歩道の白線だけを選んで渡るハルの声が上下に弾む。子供か。その上、いつものように速足なもので追いかけようとすると私までやや歩幅を広げて白線だけを踏むことになる。こちらまで小学生にでも戻ったような心境だった。

「でも夏休みのどこかで一回は帰ろうかな」

 渡り切ってからハルが振り向く。私と違い、日焼けもいとわないらしくすっかり肌が色づいている。そうして日焼けした顔が振り向いて、まるでこちらの手を引くように歩いていく様子は私に過去の香りを錯覚させる。塩素の香りが、夏の煮えたような空気に混じった。

「それがいいと思うわ。普段は言わなくても、親は顔を見たいと思うんじゃないかしら」

「そういうものかな……うん、先輩が言うならそうかもしれないね」

 ハルが納得してしまう。あまり私を信頼されても困るのだけど。

 つい応えたくなって、背伸びしてしまいそうだから。

 ハルを連れて地元を歩くと、私までの土地からやってきたようなそんな不思議な気持ちにさせられる。ハルという今が、過去を過ごした町と混ざって……水の中の景色を見るように輪郭がぼんやりとしていた。

 待ち合わせはみやこさんの喫茶店でもいいかと思ったけれど、あいにくの定休日。

 だから今日は、外の店ではなく友人の家へ遊びに来たのだった。

「本屋?」

「友達の実家がここなのよ」

 青果店の前を通って案内した先は、個人経営の書店。

 その名前を見上げて、ハルが顔をしかめる。

「まいったなぁ……わたし漫画もほとんど読まないよ。話合うかな」

「本屋が本の話ばっかりしてるわけじゃないのよ……」

 むしろいとさんと本の話をした記憶がほとんどない。じゃあなんの話をしていたかというと、高校時代は生徒会の話が多かった。今は時々会って、お互いの近況について話すだけで十分な話題だった。とうのことも聞けるし。いとさんから語られるとうの今は、私にたくさんのものをもたらす。今日だって話すことはちゃんとある、とその肩に軽く触れた。

 ハルは不思議そうに首をかしげるだけだった。

 書店からではなく、回り込んで家の方からここを訪ねるのはやや新鮮だった。

 すぐにいとさんが出迎えてくれる。隣のハルと目が合い、「いらっしゃい」と声をかけてくる。

えだもとはるです。よろしく」

 ハルの自己紹介に、いとさんは笑顔で応える。

 その姿や髪型の変化を見て、大分大人おとなになったなぁなんて思ってしまう。

 一つしか違わないのに、随分と年上の気分だ。

「家の方に上がるのは初めてね」

「そうでした? あーでも、そうですよね。わたしだってえき先輩の家行ったことないし」

 いとさんの部屋に案内される。お茶を持ってくると出ていって、ハルと二人で待つ。

 部屋の中を順繰りに眺めて、ベッド脇にある小型のプラネタリウムに目が留まる。割と高そうだ。いとさんの趣味か、それともとうの贈り物あたりだろうか。

「あのぬいぐるみかわいいなぁ」

 ハルが棚の上を指差す。ひようのかわいらしいぬいぐるみとその隣は……なに?

「丸いわね」

「丸くてかわいい」

 ハルはニコニコしているけど、あれはいったいどういう生き物なのだろう。

 丸くて、潰れた謎の生き物がハルの好みらしい。

「……うーん」

 自分の顔に触れる。丸くて潰れているとは思えない。思いたくない。

 色々と、見なかったことにして。

 とうは来たことあるのだろうけど、この部屋になにを思っただろう。

 案外緊張して、奇行でも見せてしまったかもしれない。

 お茶を用意して戻ってきたいとさんが座った後、言っていい? とハルが目の動きで確認してくる。その仕草が少しかわいらしいと思う。

 でも、うん。

「もう言ってあるわ」

「あら」

 ハルが拍子抜けしたようにほおく。それから、少し間を置いていとさんを見る。

「知られているのかっ」

 声の大きさに驚いてか、いとさんが目を丸くする。こういう子なのよ、と笑ってごまかす。

「先輩の言うとおり、元気ですね」

「いい意味で言えばね」

 気を遣わない言葉で言うと、時々騒々しい。でも大学内のどこにいても声のする方向が分かるので合流しやすい。ハルの声は大きいのもあるけれど聞き取りやすいようにも感じる。

 迷わないでしやべるからかもしれない。自分の言葉と共に、素直に進んでいく。

 その在り方を肯定して、前向きに捉えてしまうのは贔屓ひいきというやつだろうか。

先輩の彼女です」

 なぜか背筋を伸ばして、ハルが言う。

「あ、えだもとはるです」

 自己紹介の順番が逆になっていた。それに、名前は既に名乗っている。

 名乗り終えたハルが、私に目をやり、照れ笑いのようなものを浮かべた。

「言ってみると恥ずかしくて耳が熱くなるけど、なんだか、ちょっとうれしい」

「私も……耳が熱くなってるわね」

 つい触って確かめてしまう。でもそこに生じるむずがゆさは不快ではなく。

 ハルがうれしいと評するのは、そのあたりの感覚だろうか。

 それはハルと見つめ合っていると、両方ともじわじわ増え続けていく。

「あのぉ、わたしいない方がいいのでは?」

「ここはあなたの部屋よ」

「そうなんですけど」

 いとさんが困ったように眉を下ろして笑う。それを見て、ハルが慌てたように挨拶する。

「初めまして」

 前につんのめるような勢いもあって、変に礼儀正しくなっている。

「こちらこそ」

 釣られていとさんまで丁寧な物腰になっている。どっちも、いつもはもっと軽いのに。

 それと挨拶もさっきしたのに。

えだもとさんは」

「ハルでいいよ」

 みんなに言っているのだろうか、と横で聞きながら思った。

 いとさんはそれに対してなにかを返しかけて、その途中で方向を変えたように私に向く。

えき先輩はどう呼んでるんですか?」

 なんの確認だろう、と少し疑問を抱きつつも答える。

「ハルね、そのまま」

 つい最近呼び始めた名前なのだけど。

「じゃあはるちゃんで」

 そのじゃあがどこにかかっているかを少し考える。……私と同じ呼び方を遠慮したのだろうか? いとさんはあまり人にちゃん付けする印象がないので、多分そうなのだろう。

 そういう細かい思考や配慮は嫌いではない。

「わたしも名前でいいよ」

ゆうちゃんね。同い年だよね?」

「大学一年」

 応えるようにハルが人差し指を立てる。いとさんもハルよりは控えめに指を立てた。

 それから、用意してもらったお茶をおのおのが飲む。いとさんはその間も、私たちをじっと見つめている。目が合うと、カップを置いていとさんが質問してきた。

「どっちから告白したんですか?」

 一瞬、答えに詰まっていると。

「あ、わたしから」

 ハルがあっさりと答えてしまう。「なるほど」といとさんの目が私とハルの間を行き来する。

 その視線はなに、と意味を図りかねているといとさんがハルに言う。

「告白って、怖いよね」

 ハルは一度、目を丸くして。でもすぐに深々と同意する。

「うん、怖い」

 下級生同士、共感するものがあるのか言葉少ないながらも通じ合っているようだった。

 私も告白はしたことあるのだけれど、怖いという感情はあまりなかった。

 そんなことを感じている余裕もなかったのかもしれない。

 あるいは、関係が崩れることを恐れるのが日常的になりすぎていて、していたのか。

 私は、長々ととうを好きでありすぎていた気もする。

 そこがこの二人との違いだろうか。

 特にとうが相手では、いとさんの苦悩は計り知れない。

 あの子、割とかたくなで自分勝手だし。

 だから。

「あなたは、よくがんばったと思うわ」

 心から尊敬する。その意を簡単な言葉に添えて、彼女に届ける。

「……はい」

 あいまいな笑みと共に受け取るいとさんが、私に向けて小さくも、確かに応えた。

 幼く見えていた後輩も、もう立派なものとなっている。

 私を追い抜くくらいに。

「む」

「どうかした?」

 眉毛が少し動いたので首をかしげると、ハルは私でなくいとさんに向く。

ゆうちゃんって、先輩とはよく会ってるの?」

 ハルが尋ねると、いとさんは私をうかがうようにしながら答える。

「割と、ですかね」

「そうね、結構多いかも。他に会う人も少なくなったのよ」

「むぅ……」

 なんでかハルが難しそうな顔になる。唇をすぼめて、目もきゅっと縮む。

「地元に残っている人も案外少ないですからね」

「そうなのよね」

 生徒会の後輩も卒業後は散り散りとなってしまった。それもみんな、自分の進む道を選んだ結果だ。こうして実家から通っているのは、私といとさんくらいである。

 もっともいとさんは、とうの部屋に頻繁に泊まりに行っているみたいだけど。

「今日も泊まりに行くのね」

 言い当てると、いとさんが目を白黒させて少し面白い。

「だから、どうして分かるんです?」

 どこどこ、と謎をつかもうとするようにいとさんが自分の身体からだをあれこれと触る。

 その慌てふためく様子が楽しいので、今後も気づくまでは教えないでいようと思った。

「内緒」

 そんな風に笑っていると、隣から、「むぅぅ……」とうなり声のようなものが時折聞こえた。



先輩って、ゆうちゃんとなにかありました?」

「え?」

 しばらく話し込んでいとさんの家を出てから、ハルがそんなことを疑ってくる。

 なにかと言われても、心当たりはない。疑われる理由も。

「ハルに疑われるようななにかはないわよ」

「いや気安いっていうか、楽しそうだったから」

「友達といれば楽しいものじゃない」

 ごく普通の理由を述べたつもりだけど、ハルは承服しかねるように眉が曲がっている。

いとさんはそういう子じゃないのよ」

 私が彼女に向けるものはあくまで友愛に留まり、決してそこから動くことはない。

 だって、さわやかで気持ちのいいものだから。

 恋愛はもっとどろどろとして、良くも悪くも不透明だと知っていた。

「なら、いいですけどねー」

 いいもですもけどもなさそうな調子で声が低い。

 ハルとの間にあるものはほら、今こうしてどろりと流れている。

「友情よ、単なる」

「友情と愛情に違いなんてないよ。相手を大切におもうこと、それが全部だから」

 ハルがはっきりと否定してくる。

「だからわたしは、家族も、友達も、先輩もみんな大事かどうかだけで考えてる。言い方はなんだけど、優先したい順位とかもね」

 そこで私の目をのぞくように、反応を確認してくる。これは答案でもないし、私はハルの先生でもない。だから、これはこれで一つの答えなのだろうと思う。正否ではなく。

「……ハルはそういう風に考えてるのね」

「ん、まぁ。先輩は違うんだ?」

「私は、整理整頓が嫌いじゃないの」

 自分の感じているものに、名前をつけて、棚にきっちりとしまう。

 その方が必要になった時に取り出しやすいから。

 そうすれば新鮮味はないかもしれないけれど、適切であれるとは思う。

 一方、名前のない感情のほんりゆうに身を任せるのがハルという人間なのだ。

 価値観や思考がとことんわなくて……だけど今、その子は私の隣にいた。

「んー……」

「なに考えてるの?」

 珍しく、歩き方も私の後ろを行くくらいゆっくりになっている。

先輩のおうちって家族は何人?」

「一緒に暮らしているのは親と祖父母で四人ね」

「よし、じゃあ目標五位!」

 ハルが指を大きく開いた手のひらを掲げて、見せつけてくる。

「五位?」

先輩の大事な人の順位とその目標」

「ああそういう………それと家には猫が二匹いるわ」

「猫……猫かぁ……」

 左手の指がそろそろと上がりかける。でも留まる。下がるか迷っている。

「目標五位!」

 妥協しなかったみたいだ。

「がんばって」

 ごわいわよ、猫も。老齢に差し掛かるほどに長い時間を過ごした子たちの、穏やかに昼寝する姿をおもう。小学生の頃、走り回って追いかけていた自分のことも含めて。

「そのためにまずは、まずはー……まずはさぁ」

「どうするの?」

 苦悩に合わせて頭の上下するハルに意地悪する。ハルは悩みぬいた末、かばんに手を入れた。

あめ、食べます?」

「あなたね……」

 イチゴ味のあめを差し出すハルにあきれる。でも一つもらった。

 ピンク色の三角形を描くあめを口に含むと、あまっぱさにほおが引き締まるようだった。

あめ一個分の好意を追加で持ってもらうのも大変な気がするよね」

 ハルの方もあめを口に放り込んでから、そんなことを言う。

「なにしろわたしは甘くないからなぁ。指をめても甘くないし、幸せにもならない」

「なんだか、深い話に聞こえるわ」

「いやぁ単なる思いつきを口にしてるだけ」

 あめをもごもごと転がしながらハルが笑う。

「でも家族ってほどでもないけど、先輩に大事に思ってもらえないと……不安じゃん」

 足の動きを加速させながら、ハルが吐露する。子供の小さな不満のようだった。

 私はそれを聞きあえて、笑い話のように突き放す。

「心配なら、私に大事でいさせて頂戴」

「いさせますとも」

 ハルは自信を見せびらかすように、笑顔で応える。

先輩も早くわたしを好きになってね」

「努力はしてるわ」

 この後輩と一緒に歩いて、ふと隣を見るとその姿に安心めいたものを覚える。

 知らない間に随分と髪が伸びていたように、心も変わっていくものだった。



「ひっさびさにちゃんと顔を合わせる気がする」

ちゃんはやめて」

 取りあえず、友人にそこだけは言っておく。

 大きなパラソルの下でお茶を飲みながら、大学生たちの様子をなんとはなしに目で追う。友人はテーブルに潰れていた。

「最近、見ないねぇって他の子も話してたよ」

「そうかしら」

 心当たりはあるけれど、軽く流す。ハルとばかり会っているからに決まっていた。

 どうも私の恋愛ごとは、他がおろそかになる傾向がある。興味の偏りがひどいのだ、私は。

 他の人たちも、いとさんやとうもそうなのだろうか?

も彼氏できた?」

「そういうのじゃないわよ」

 笑って流す。そういうのだけど。ストローに少し口を付けてから、ん、と思った。

「も?」

「他のご学友も大層励んでおられるようですから」

 潰れ友人がぐぇぐぇと悲鳴のようなうめきを漏らす。自主休講というものが増えていると思っていたけれど、そういうたぐいのものだったらしい。やっぱり、私と変わらないのかもしれない。

 どうでもいいけれど、突っ伏しながらもぺらぺらとしやべる友人は木から落ちたせみのようだった。

「あ」

 なんかなーと言い続けている友人に適当にあいづちを打っていると、人混みの中にハルが見えた。流れを無視するように、一人足早に人の間を抜けていく。正門の方へ向かっているみたいだ。目で追いかけていると視線を感じたのか、こちらへと振り向く。

 ハルはパッと顔を輝かせたけれど、側の友人をいちべつしてから、頭を下げてまた歩き出す。

「前に見た気のする後輩」

「そうね」

 あの時もこの友人といて、ハルはああして去っていった。

 違うのは、そのハルの消えた方をずっと、私が見ていること。

 私とハルの関係。

 少し考えて、動く。

「用事を思い出したわ」

 うそぶいて、席を立つ。少し露骨だっただろうか?

 でも急がないと、ハルには追いつけないのだ。

「おぉにも見捨てられた……」

 友人がをして嘆く。

「ごめん」

「じょーだん。じゃあね」

 頼りなく上がった手をふらふらと旗のように振って見送ってくれた。

 へらへらと笑っている友人は穏やかで、でも身体からだを起こすことは最後までなかった。

 力尽きたように動かない友人を残して、ハルの背中を追いかける。ハルは足が速いので、ただ歩いていてはいつまでも距離を縮められない。厄介ね、と笑いながら走り出す。

 さすがに走り続ければ、早歩きのハルに手が届くのもすぐだった。

 横に立ってから、軽く息を整える。

 走って、けれど一つの成果が出るというのは充実感があるものだ。

 隣に並んだ私を見上げてから、ハルが後ろを振り返る。

「いいの?」

「いいと思うから来たの」

 私は、自分のやりたいことをやった。それだけだ。

 先輩と付き合った時、それが一つもできないまま終わっていったのを反省して。

 ともすればそれは、わがままを押し通すということかもしれない。

 中学生の時も、高校生の時も、私はいい子だったと思う。

 善良に縛られて動けなくなっていたと思う。

 今度こそ、動かないと相手が逃げてしまいそうだった。

「うん。いいね」

 ハルが私を認めるように、白い歯をのぞかせる。

「ついてきた後に聞いてしまうけど、どこに行くつもり? 用事?」

 用があるなら私はわざわざついてきても邪魔になる可能性があった。

「一旦家に帰ってなにか食べてくる予定だったけど……先輩もどう?」

「いい用事ね」

 私の望む行き先だった。二人して、早歩きで彼女のアパートを目指す。

 誰かといる時間はあっという間なんて言うけれど、ハルとなら、その時間を少しでも長く確保できそうだった。



先輩の食器、活用できてるねぇ」

 アパートに着いて昼ご飯の用意をしながら、ハルがうれしそうに笑う。

「値段分の元はもうとっくに取ってると思うわ」

 本日の食事へのえについてそう評価を下すと、ハルが快い笑みでそれを受け取った。

 食べ終えて休みながら、この部屋に歯ブラシも用意すべきかもしれないなんてぼんやり考える。でもそうなってくるとどうせいみたいになってしまう。今のところ、大学に通っている中で外泊したことはないけれど、それも時間の問題かもしれなかった。

 そうした私の変化について、勘のいい祖母以外にも、家族になにか言われるだろうか。

 いとさんはとうとのことを家族にも説明しているのだろうか、と少し気になった。

 洗い物を終えたハルが私をいちべつして、にかっとする。そしてこっちに歩いてくる。なんとなく、家の廊下を歩く猫を連想していると、ハルが私の背中側に回り込む。なにかと振り向きかけたところで、ハルが後ろから乗りかかるようにして、背中にひっついてきた。

 急に来るものだから一瞬、目の前が真っ白になりそうだった。どぎまぎする、というのはこういうことなのだろうか。

「あ、ごめんね。びっくりした?」

 声が耳の脇からささやくように聞こえて、ぞわりとした。

 そうでもないと強がりかけたけれど、こんなに近いとうそも筒抜けだろうと諦める。

「なんていうかこういうのは……慣れてなくて」

「こういうのって?」

「くっつかれるの」

 首筋にかかる吐息がくすぐったい。しかもそれを聞いたハルは更にすきを埋めるように、身体からだを押し付けてくる。こっちがつい身を固くして肩を跳ねさせると、ハルが笑うのが分かる。

「あなたねぇ」

「ひっつくだけでかわいい先輩が見られるなんてお得」

 調子に乗っている後輩を横目でにらむと、その首が少し引っ込む。

「……まぁ、大きい猫だと思っておくわ」

 そういう風に思っていないと、変に胸が弾んで緊張してしまうのが分かっていた。

 ハルからは少しの汗の匂いと、彼女自身の香りが混じって届く。

先輩の家は猫いるんだよね。二匹も」

「ええ。猫は好き?」

「好きだけど、よくある比較だと犬の方が好き」

 自分の意見を語り、合わせる様子もないハルに目を細める。

 怒ったわけではなく、過去と重ねてしまう。

 私は先輩に特に好きな分野でもない小説を勧められて読み、面白いとうそを吐いた。

 結果としてそれは先輩の笑顔を生んだけど、もっと正直だったらあるいは。

 もう少し、後悔しなかったのだろうか。

「意見が合わないわね」

「そこがいいんじゃないかな、うん多分」

「私もそう思う」

 どうせ違う人間がこうしてくっつくのなら、別々のものも感じていたい。ハルは私の首に腕を回して寄りかかり、そのまま動かない。思えば、誰かとこんな距離で触れ合うのは本当に初めてだ。ゆず先輩は私ではなく、恋愛そのものに寄り添っていたから。

 ハルは確かに、私を求めてくれていた。

 そのハルが珍しく黙って、視線をじっと投げかけている。注目の行き先は顔ではない。どこだろうと探っていると、それは私の肩より下みたいだった。更に特定を進める中で、

先輩ってさ」

 ハルがなにか言いかける。でもすぐに目をらした。

「いやこれは言うのよくないかもって、わたしにしては冷静だ」

「怒らないから言ってごらんなさい」

 むしろ、ハルが私をどうやって怒らせるか興味さえ湧く。少なくとも私よりはいい子だと思うのだ。そんな子が、私の怒りをどう買うのか。少しわくわくするくらいに待っていると。

「じゃあ言うけど」

「うん」

「けっこう、胸大きいよね」

………………………………………

 ここまでのハルの視線の意味を理解する。

「怒らないって言ったのに」

「怒ってはいないわ」

 反応に困っているだけだ。面と向かってそこまで堂々と言われたことがない。

 向かってないけど、と目をらす。

「セクハラとかではないごくありふれた感想なんです」

「それセクハラした人の言い訳」

「いやわたしさぁ、あんまりないからさぁ、うらやましくて」

えだもとさんはきっとまだこれからよ」

「よそよそしくなった!」

 つい自然とえだもとさん呼びになってしまった。

「友達からやり直しかー。へこむ」

「冗談に決まってるじゃない」

 多分。間近で顔を見合わせたハルと、一緒に微笑ほほえむ。

 心なしか、ハルが背中から少し離れた気がした。

「いやわたしはね、こんな近くで見ていられるだけで、幸せっていうか」

「……胸を?」

「顔だよ顔!」

 話の流れから思ったことを、ハルが全力で否定してくる。若干、怪しかった。

 少しの間、無言が続いた。

「あ、そうだ。先輩、プールに行こっ」

「……あなた、分かりやすくない?」

 前に誘ってきたのもひょっとして、下心に導かれた結果だったのだろうか。

 ぐむ、とハルが一瞬喉を詰まらせる。でもすぐに切り替えて、開き直ってきた。

「じゃあはっきり言っちゃうけど、先輩の水着姿が見たいだけです」

 悪いかぁ、とハルが人の肩の上でぐらぐら揺れる。

「悪いというか……」

 だから、そんなことを直接言われても困るのだ。

 生徒会のみんなとプールに行った日のことを思い出す。私は、とうにばかり目が行っていた。

 ハルのことを言っていられない。

「見せてくださいお願いします」

 しんにお願いされてしまう。表情と態度がころころと変わるもので、噴き出しそうになる。

「じゃあ、今度ね」

「いつかの次は今度かー」

 ハルが苦笑して、しかしまったくめげない。

「明日でいい?」

「……あなたって、たくましいわね」

 こちらが根負けしそうになる。

 ハルは、いつかという口約束を走り抜けて、追いついて、かなえるだけの力があるみたいだった。大人おとなが子供の行動力をそのまま引きずっているような、無我夢中な在り方に私も引っ張られていくように思う。その感覚が嫌ではないあたり、私はもうとっくに、といったところか。

………………………………………

 波紋が静かに広がる、プールの水面をおもう。

 いつかのプール。その水中で、私の見たもの。

 あの日見つけたものが、なんだったのか。今の私なら、向き合えるだろうか。

 ……なんて、そんなことがあって。

「プールっていうからどこに行くかと思ったら……」

 翌日、金曜日。本当に予定を立ててきたハルに付き合って、どこまで遠出するのかと思ったら大学のしきから出ることはなかった。

「うちの大学のプールじゃない」

「時間指定はあるけど一般開放もされてるんだよ」

 さぁさぁとハルが浮かれながら私の手を取る。どちらもここの学生だけど、利用料はちゃんと取られた。時間は今から二時間ほどと決まっていると説明を受けて、更衣室の場所も教えてもらった。そうした案内を担当するのも学生らしい年頃の女性だった。

「二日酔いの人は入らないでね、だって」

「なんでそこで私を見るの……」

 注意書きの前を通りかかって読み上げたハルがさわやかに笑う。

「考えて選ぶ時間もなかったから、あまり水着を見せたくないんだけど……」

「大丈夫だよ」

「なにが大丈夫なの」

先輩は元が良すぎるから、どんな水着着ても水着の方が追い付けないよ」

 すらすらと、照れる様子もなく賛辞を惜しまないハルにこっちがされてしまう。

「ハルって、め方もはっきりしてるのね」

「回りくどくめたら伝わらないじゃん」

 当然のことのように、言葉を飾らないハルが言う。

 その素直さが、時々まばゆい。

 更衣室での着替えについては割愛して。

 水着姿の私を見たハルがるようにあと退ずさる。

「おぉ、おぉぉ、おおおお」

「うるさい」

 オットセイみたいに騒ぐハルの肩を押して、プールに向かう。

先輩の生足って初めて見たかも」

「生足って……」

 それで感動を伝えているつもりだろうか。

「ちょっとそこで立ち止まって」

 ハルが私を立ち止まらせてから、後ろに下がる。そして、じっくりと私を眺めてくる。

「恥ずかしいんだけど」

「いやぁもう……ほんと」

 うん、とハルが多分満足している。

先輩って」

 ハルが口をあけ放ったまま停止する。

 固まった笑顔のまま、へいたんな声が漏れた。

「きれいだね」

「今なにかごまかしたでしょう?」

 追及されたハルが明後日あさつての方を向く。

「エロいね」

「今なにか言った?」

 前を向かないまま、ハルがてっててってと走っていく。

「危ないわよ」

 ハルを追って足元の消毒を越えると、すぐに塩素の匂いと水の音が出迎えた。

 六つに仕切りがあってコース分けされた、細長いプール。

 小学校の時に通っていたスイミングスクールをほう彿ふつとさせて、背丈が縮むようだった。

「誰もいないわね」

 小さな足音が無人のプールに反響する。水面には波紋もなく、波が静かにたゆたう。

「解放されてるって言ってもわざわざ来る人なんて少ないし」

 プールサイドで屈伸をしながらハルが説明する。

「それに、わざわざ学校で遊ぼうなんて大学生は物好きなんだろうね」

「なんでごとみたいに言ってるの」

 はははとハルが笑ってプールに飛び込んだ。派手に上がる水柱と、飛沫しぶきが私の足に届く。

 確かに、学校へ遊びに来るという感覚は私に馴染んでいない。

 昔なら考えられなかったな、と思いながらハルに続いてじゆすいする。そのままの勢いで膝を曲げて、頭までかる。底を眺めて、ゴーグルをつけ忘れていることに気づく。

 ゆっくりと、湧き上がるような水の音を聞いてから浮上した。

 水面に上がった私の前に、先んじていたハルが泳いでくる。

「貸し切りみたいでいいじゃん」

「そうね……」

 プールに二人きり。こんな状況が、そう前にもあった。

 思えばあの日が、全ての始まりだったのかもしれない。

 その水を帯びた思い出は、私の記憶をとどめるいかりのようだった。

 決して、そのことを忘れないように。

「競争してみようか」

 ハルが提案してくる。普段の足早なハルを思い浮かべる。

「負けそうだからやめとく」

「えー、やろうよ」

 子供のようにせがんでくるハルの態度につい笑って、勝負することにした。

 潜って仕切りの下を通って、隣のコースに向かう。ゴーグルを下ろして位置を整えてから、隣のコースを見る。日焼けした女の子が、水泳コースの隣にいる。

 強い既視感があった。

 そしてその時も、私は負けたのだ。

「じゃあ行くよ」

 ハルが奥にある大きな時計をにらみながら「よーい……」とめを作る。

 私はコンタクトも外してきたので、その時計の針さえぼやけて見えた。

「どん」

 ハルの声に従って、水中に沈む。

 確かこう、と壁を蹴って腕を動かすと当時の感覚がよみがえってくる。仕分けされた記憶の中から、水泳の項目を用意するように。水のけ方を指先が思い出すと、動きから引っかかりが消えた。こうして、こうすれば、と一つずつ過程をこなして、ただ前に進むことを意識する。

 幼少期の習い事なんて、大体忘れてしまっていたかと思っていたけど。

 過ごした時間は、決して消えないのかもしれない。

 肩から足の爪先まで区別を失い一つの塊となるような、夢中の感覚で泳ぎ切る。

 壁に手をついてからゴーグルを外して振り返ると、ハルは思いの外遅れてやってきた。

「泳ぐのはそんなに早くないのね」

「わたし陸上生物だから」

「私をなんだと思ってるのあなた」

 なんてくだらないことを話しながら、水の感触を楽しんでたわむれる。

 やることなんて特にないのに、ハルと水が跳ねるだけで満足している自分がいた。

……………………………………

 うぅん。

「どしたの、ぼーっとして」

 プールの中央付近で立ち止まっている私をハルがいぶかしむ。

「なにも起きないなって思っただけ」

「そりゃあ、わたしたちしかいないし」

「そういうことじゃないのよ」

 つぶやきを誤解されたことに笑いながら、鼻の上にしたたる水を拭う。

 ハルと付き合っていて、問題とか、不穏な空気とか……そういうものが見えてこない。

 今来る、さぁ来ると内心身構えているのに、ちっともなにも起こらない。

 おかしいな、と思ってしまうくらいに。

 幸せや喜びが安定しすぎていて、かえって不安になる。

 その不安の正体は恐らく、未知。

 なぜなら私はこれまで、恋愛事で順調に行った経験がないのだ。

 ……我ながら、物悲しいことを言っている気がしてならない。

 失敗すればもちろん悲しくて、くいけば不安に包まれて。

 私は一体、どうなったら満足できるのか。

「あれ、さやかせんぱい……」

 ハルの声は途中から泡に包まれたようににじむ。

 空気を吐き出しながら、プールの底へと沈んでいく。胴体から空気が抜けて、手足の先の方が重くなるように感じる。そのままプールの底に背中がくっついたところで、四肢を広げた。

 ゴーグルを外したままの目が、水中を不確かに捉える。

 水面の向こうに電灯の光が見える。その光に向かって、手を伸ばす。

 とても近くにあるように錯覚する輝きをつかもうと、指が躍る。

 指先は舞うように水をかき乱して、そしてそれ以外のなににも触れることはない。

 ごぽごぽと、耳の近くを流れる空気の音がする。私から少しずつ失われていく空気の音だ。泡は水面へ上っていき、決して手の届かない光の向こうに消えていく。

 普段感じ続けている、重力というものも水の奥では和らぐ。

 この空気のない世界に、わずかな時間しかいられないことをもつたいなく感じた。

 少し息苦しくなってきた頃、別の流れがこちらに来るのを感じる。目を向けると、ハルが潜ってきていた。潜る際に外れたのか、帽子が取れて髪が共に泳いでいる。悪い子だ。

 一向に上がってこない私の様子を見に来たのだろう。

 追ってきたハルの手を取る。水の温度を無視するように、ハルの手のひらの熱がそこにある。手を取られたハルは一度大きく泡をこぼして、その後に手を握り返してきた。

 日に焼けたハルの手の方が、水の中では鮮明に映る。

 引きずり込むようにその手を引っ張って私に寄せる。ハルは足をく動かしながら沈んで、私の深さにやってくる。そうしてから、何をしているのかと目で尋ねてくるようだった。

 何をしていたのだろう。

 あの時、何を求めていたのだろう。

 空気の減った頭は、思考を濁らせていく。

 行動の制限が失われて、身体からだが自然に動いた。

 ハルの無防備な首筋に、唇を寄せる。

 びくりとするハルの動きを無視して、押しつける。

 あの時とは立場が逆なのに、心臓は力強く跳ねた。

 ぶれる頭、ずれた唇とハルの肌の間から、泡がこぼれる。

 その泡を、ハルがむように吸い込む。

 私から離れたものが、ハルの中に。

 どくどくと、鼓動にも似た流れの音が強まっていく。水中なのにまるで、耳鳴りのように。

 変わって、ハルも私の首筋に吸いつく。

 意味分かってる? と笑いながらその唇を受け入れる。

 残り少ないハルの空気が上がってきて、それが私を包む。

 ぼんやりと、ハルの唇の感触だけ感じる。

 呼吸も、重力も、たくさんのものを忘れて、ハルと心臓の音だけを水中に残す。

 そうして放たれた心臓は、残り続けたヒビが、埋まるように思えた。

 そのあたりで、限界が来た。吐き出す空気もなくなって、つかまれているように重い手足を緩慢に動かして、二人で上を向く。一人で飛び出すようにはいかない、二人で帰る。

 光へと、跳ねる。

 水面を越えた先には、沈む前となんら変わりない景色が広がっていた。

 当たり前の場所に、ハルと戻ってくる。

 つないだ手はそのままに、見つめ合う。帽子の外れたハルの髪が、れて光沢に満ちる。

 二人して、大きく息を吸い込んだ。

 ざわついていた指先に、血が走っていくのを感じる。

 音は鮮明になり、人気のないプールで水を割った音がゆっくりと響いていた。

「分かんないんだけど……」

 ハルがそう前置きして、私と自分の手を掲げる。

「手のひら、あったかいね」

 そう、ハルの温度はあたたかい。

 火傷やけどするような熱でもなく、心に傷を生むほど激しくもなく。

 私が、ここにいられる温度だ。ここにいたいと思わせるあたたかさだ。

 もう、どこにも逃げる必要はなかった。

 今だからこそ、水中で見つけた景色をれた視界の向こうで思い出す。

 心臓にヒビが入るような、強い痛み。

 そのすきから入り込むような、冷たいきざし。

 あの時、それが痛いということを知った。

 恋愛というものの感覚を理解して、世界にそれがあることを知って、私は。

 たくさんの、痛みを感じてきた。

 その痛みと失敗を少しずつ切り取ってつぎはぎして、今の私がいる。

 そうして身体からだの全てが痛みに置き換わる前にあんねいを見つけられたことに、とても、あんする。

 そういうことを、幸せと呼ぶのかもしれない。



『文化祭の演劇かぁ』

『楽しかった?』

『ええ』

『ハルはそういうのは苦手そうね』

『偏見だよぉ』

『いや……多分苦手だけど』

『でも案外見たら好きになるかも』

『その内見に行きましょうか』

『そういえば』

『今度、人に会ってくるわ』

『いえ会うつもり』

『今度? 人? どなた?』

『高校生の時に好きだった人』

『一応、ハルには言っておいた方がいいかなと』

『ちょっと思ったから』

先輩ってほんと、まじめだよね』

『ハルとの間に陰を作りたくないだけよ』

『あなたは明るい方が似合うし』

『そういうあなたを見ていたいから』

『うわぁ』

『やばば』

『やばば?』

『今の好き』

『やばばが?』

『そこの一個前!』

『冗談よ』

『ちょっと恥ずかしくなっただけ』

『もう一回言って』

『スクロールして見なさい』

『ちぇー』

『うん』

『もちろんいいけどね』

『いってらっしゃい』

『ありがとう』

うわはしないでね』

『できないわよ』



「できないのよ」

 私は決して、とうという星には届かないのだから。



『今度会えない?』

『何をするのでもないのだけれど』

『ただ少し、顔が見たくなったの』

『少し前に会ったけれど』

『でも、いいね』

『私も言われたらそんな気分になった』

『楽しみだよ』

『私も楽しみだわ』

とう



「二人でここに来たことあったかな?」

 喫茶店の奥の席に腰掛けながら、とうがそんなことを尋ねてくる。

「前に一度だけ」

 夏休みに二人で来たのを、とうは覚えていないのだろうか。

 とうは少し固まった後、人当りよく柔らかい微笑ほほえみを浮かべる。

 ごまかしているとも言う。

「さすが

「なにがさすがなのよ……」

 安易な賞賛に笑ってしまう。

「生徒会のみんなと来ることが多かったから、その辺あいまいかもね」

 荷物を横に置きながら、あの頃をおぼろに思い出す。

 生徒会劇の相談のためにみんなで集まって、頭をつき合わせるようにした日々。

 多分、私がこれからどれだけ遠くに行っても忘れてはいけない大切な時間だ。

 店員さんに注文を済ませてから、向かい合うとうを見る。

 ななとう。高校卒業の時から容姿に大きな変化は見られない。

 完成されていると思うくらい美しい彼女だから、外見が変わる必要はないのかもしれない。

 だけど、その所作には細かな違いがある。

 誰かを演じることのない、ななとうそのものと今向き合っていた。

「文化祭の時も会ったけど、改めて。久しぶりだね」

 朗らかな調子で、とうが再会を祝す。そう、本当に久しぶりだった。きっと。

 だけど返事は少しだけ、素直さから逃げる。

「こっちはあまり久しぶりって感じがしないわね。とうのことはけっこういとさんから聞いてるもの。よく会うし」

「え、そうなの?」

 とうが意外な反応を見せる。

「聞いてないの?」

「よくの部分は聞いてない」

 とうまえかがみになるようにして、顔を寄せてくる。そして、難しい顔をしながら。

「……うわ?」

 私はどうしてみんなにうわを疑われるのだろう。よほどそういう顔に見えるのだろうか。

 それはさておき。

 そのとうの物言いが冗談なのか本気なのかすぐに区別がつかなくて。

 ああ、と心に渦巻くような風を感じながら笑ってしまう。

 とうは今、本当に幸せなんだなぁと思って。

「さぁ?」

 冗談ではぐらかすと、とうが一瞬むっとする。でもすぐに早口で訂正してきた。

「いや冗談だよ? 冗談だけどね」

「ええ」

 肩を揺らすのを我慢できないでいると、とうがバツ悪そうに横を向く。

 彼女の時折見せる幼い仕草が……私の視線を、いつも奪っていた。

「さっきそのいとさんの実家に行ってきたわ。ああ、もちろん本を買うためよ」

 かばんと一緒に置いた袋を掲げる。とうもすぐに機嫌を直したようにこちらを向く。

「なに買ったの?」

かのうさんの本」

 袋を開けて本の表紙を見せる。小説を買うのなんていつ以来だろう。

「あ、も買ったんだ」

「知人の初出版だもの。お祝いも兼ねてね」

 かのうさんはとうと同じ大学に通っている。とういとさんとも会う機会は多いみたいだ。

「私なんて直接会ってサインもらったよ」

「なに張り合ってるのよ」

 得意げなとうに笑っていると、「……あー」と何かを思い出したように目をらす。

「どうかした?」

「いやサインをもらう時にね、すらすら上手に描くものだから練習したの? って聞いたらすごく恥ずかしがっちゃって……あれはちょっと失敗だったかなぁと」

とうもサインの練習しておいた方がいいんじゃない?」

「私が誰にするの」

「役者の道に本格的に進むなら、そういう機会も巡ってくるかもしれない」

 前にいとさんから聞いた話に触れると、とうあいまいに笑う。

「それは……まだ分かんないな」

「そうね。先のことは、いとさんとよく相談して決めていけばいいと思う」

「うん」

 素直にうなずとうに、目をつぶるようにしながら少し笑う。

 昔も、そうやって素直に人の言うことを聞いてくれたらよかったのに。

 とうの頑固さにこちらが折れて、あれやこれやと動き回った日々をなつかしむ。

 ちょっとだけ、今更な不満を楽しみながら。

 注文したコーヒーが届く。その店員さんの向こうで、忙しそうにしているみやこさんと目が合って小さく手を振ってきた。とうと共にしやくを返す。

 お互いがカップに少し口をつけてから、とうが言う。

「そういえば、いやそういえばっていうのもおかしいけど……彼女、できたんだよね?」

 上目遣いにも見えるとうに、「ええ」と短く答える。

「この間、初めて知ったけど」

 とうが責めるように目を細めて私をねめつける。

いとさんが話してくれると思ってたのよ」

「直接言ってくれればいいのに」

「それは……そういう機会もなかったし」

 聞かれてもいないのに、唐突に彼女ができましたと報告するのもおかしいだろう、多分。

 そんなのだったら私がよっぽどのろけ話でもしたいみたいだ。

 ……そんなことは、ないはずなのだけど。

「どんな子?」

いとさんから聞いてない?」

 少し聞いた、ととうが言う。

から聞いてみたかった」

 なんだか、どこかで聞いたやり取りにも思える。

 店のにぎわいに耳を澄ませるようにしながら、ハルを語る。

「元気な子よ、とても」

 彼女を誰かに紹介する時、最初にそれを必ず挙げる。私の中で一番、そういう印象が強いのだろう。実際、ハルは快活だ。止まることを知らないように走り続けている。

 本人の言う通りに感情の回転が速く、それに身体からだが追い付こうと自然、急ぐのかもしれない。

 私はそれに付き合って、これまで知らなかった速さで日々を生きて……それが、いいのだ。

「あの子を好きになったから、とうと二人きりで会おうと思えた」

 とうの目を正面から見つめ返せる程度には、彼女から与えられたものがある。

 とうはそんな私を見つめ返して、微笑ほほえみ。

「素敵な子なんだね、きっと」

 とても、と口の中でだけ返事をする。

「あと、とても料理上手」

「あ、それうらやましい」

 とうが食いついてくる。まえかがみになりかけて、はっとしたように身を引いてせきばらいする。

「私も自炊は毎日がんばろうと思ってるんだよ?」

「なんで私に言い訳してるの」

 ごまかすようにカップに口をつけるとうに苦笑してしまう。

ゆうが泊まる時は張り切って作ってごまかしてるのは内緒だよ?」

 いとさんが冷蔵庫の中身を見れば、それくらい簡単に察してしまうと思うのだけど。

「分かったわ」

 子供のいたずらを秘密にするように、そんな約束をする。

「一人暮らしはどう?」

「慣れてきたけど、素直に大変」

 そうして簡単に弱音を認めるとうは新鮮だった。

「思ったよりできないことがずっとあって、でもそれに手をつけていくのがとても楽しい」

…………………………………

 私が知ることのできなかったとうの素顔は、こういうものかもしれない。

 本当のとうの言葉を、黙って聞き取る。

「演劇もそうなんだけどね、私は知らないことがまだたくさんあって……知らない世界があって。そういうものに触れて変わっていくのが前は怖かった」

 けど、ととうの心が大きく揺れ動くのを感じた。

 瞳に満ちる輝きが、すべてを物語る。

「何をやっても、変わっていってもいいってゆうが言ってくれたんだ」

「……そうなの」

 その一言をとうにかけられるか、そうでないか。

 私といとさんの違い、彼女の勇気というものはそこに表れているのだろう。

 かなわないなぁ、とコーヒーから立ち込める湯気にのせて、天井にこぼす。

 それからは言葉も少なく、コーヒーをゆっくりとたんのうする。

 もう、とうと出会った意味は十分に果たせている。

 とうの声を聞き、とうの幸せを確かめて。

 それだけで、満足だった。

「やっぱり、そんなに改まって話すことはないわね」

 これまでたくさんの時間、とうと過ごして声を交わしてきたのだから。

「そうだね。でも会えてよかったと思うよ」

「それは私も思うわ、とう

 恐らく、これから私たちはもっと離れていく。

 平行線であることを止めた私たちは、時を重ねるごとに距離を生んでいくだろう。

 こうして二人きりで会う機会がめったになくなっていく前に。

 今、やりたいことをやっておこう。

「ねぇ。とう

「ん?」

「ここの支払い、負けた方が払うことにしない?」

 提案しながら、軽く握った手を突き出す。

 なにかに困るわけでも、意図があったわけでもなく。

 ただ、そうしてみたかっただけだ。

 とうの目は最初、丸くなった。でもそこからゆっくり、緩く、微笑ほほえむ。

「いいね」

 そういうの、すごくいい。みしめるようにとうはそうつぶやいた。

 私もきっと、同じ気持ちで。



「じゃん、」

「けん、」



 そうして彼女の出した手は、私の予想と同じだった。

 だから私は、勝つことも、負けることも、簡単に選ぶことができた。