『最近は飛んだり跳ねたりしてる』
『健康によさそうね』
『
『でも楽しいよ』
『それに
『自分以外のなにかになれる機会なんて』
『役者って
『私にはとても無理そう』
『他の誰かになるなんて』
『よほどのことがない限りは』
『
『あれは』
『私だから』
『私そのままで劇に参加していたような』
『そんな風に思う』
『それで役になってるなら、それはそれで
『また、あんな風になにかしてみたいな』
『そうね、いつか』
『うん、いつかね』
だから距離を置いて目の合った彼女が、
「
「ええ。一年生だけど」
「気にしないで入ってくればいいのに、って無理か」
友人が途中で意見を変える。自分が一年生であった頃を踏まえて言い直したのだろう。制服という学年分けの印がない大学では、相手の年齢を見分けるのは少し難しい。一年生の時は周りがみんな年上に見えて、学校のどこにいても落ち着かない雰囲気を感じていた。
慣れてしまえば、こういうものかと見渡す余裕もできる。
「今度逃げるところ見たら捕まえちゃおう」
「捕まえるって」
友人の発想に苦笑する。その
「えぇと、なんて子?」
「
そして彼女の名前を知る頃には、春は日焼けして空気を淡い小麦色に変えていた。オープンカフェの席やテーブルもパラソルの影の下だというのにやや熱い。梅雨時というのを忘れるような快晴を受けて、流れるように歩いていく人たちの影が長く伸びる。
その人影が交差するのを、大きな影に包まれながら眺めていた。
そうして無言の時間が少し続くと、友人の
「ねむ」
「やっぱりお昼ご飯って食べると駄目だよね、活動できなくなる」
「食べなかったらお
友人が飲み終えて役目を失ったストローの先端を摘まむ。
「そうなんだよねー、手詰まりだ」
「それは困ったわね」
いつもこんな調子の友人なので、軽く流す。
「よし今日は
テーブルを押すようにして友人が立ち上がる。
その様子は眠気も忘れたように元気なものだった。
「講義は?」
「一回くらいサボっても平気平気」
「あなた三回目よ」
「まとめなかったら一回が三つだもの」
理屈になっていない言い訳で自分を正当化する友人に
まぁ、私のことではないから構わないのだけど。
昔の私だったら、他人の不真面目さも許せなかっただろう。
それが寛容になったのか、単に緩くなったのかは分からない。
友人とお茶を飲み終えて、パラソルの
途端、迫りくる輝きが前髪に降りかかった。
「……………………………………」
二十歳と夏が目前の、強い日差しの下。
高校生の頃を空の
大学二年生になっていた。
「じゃあがんばってね」
「ええ」
がんばらないことを決めた人に応援されるというのも、なんとも妙なものだった。
本当に正門の方へ向かっていく友人と別れて、離れの講義棟に向かおうと人の流れに混ざる。一つの区切られた空間の中、大勢の学生が、混じる講師がそれぞれの目的を持ってどこかへと歩いているのだと見回すと、浮つくような不思議な気持ちになる。
大学というのは、何かを見つける場所だと誰かが言っていた。
それは将来への道だったり、人間関係だったり、
講義から逃げる友人は、大学での勉強ではなく他のなにかを見つけたのかもしれない。
私はこの生活の中でなにを見つけるのだろう。
一年生の時には、確固たるものは見つからなかった。
二年生は、と半ばの道を歩きながら目が動く。
翌日の移動中にも
彼女は財布を手にしたまま、手のひらをこちらへ突き出す。それから目を左右に迷わせた後、ぐぅっと下へとカゴを持った手を下ろす。重そうだ。精算中なのだから盛り上がっていないで済ませた方がいいと思う。対応する店員も困惑していた。
わちゃわちゃと支払いを終えた
少し重い風が、生協の前の旗を揺らす。風が音を手に入れて、私の耳に届く。
「ちょっと待ってって伝えるの難しいね」
照れ笑いを浮かべてまずそう告げてくる
「そうね、伝わらなかったわ」
「あ、やっぱり? んー、でも待っててくれたからいいか」
財布を
背は低めで、後ろで小さく結んだ髪が歩くたびに筆の先端のように跳ねてかわいらしい。やや吊り目で、じっと見つめられると猫を想起する。でも目が合うと朗らかに笑ってくるので、猫よりはずっと素直に分かりやすく意思を伝えてくるのだった。
結んだ髪や露出した耳と共に
あと、声がいつも少し大きく、止まるのを嫌がるように速足だ。前に進むことに
「
「ハルでいいよ」
ニコッとした。速足に付き合って動く背景とその穏やかさが釣り合っていない。
「
「
柔らかく
「はいそれで
「私についてきているけど、行き先は問題ないの?」
出てきてそのままずんずんと進んでいるけれど。
「今日の午後は講義なしですから、行きたい方へ行ってます」
こっちこっち、と笑顔で前を指差す。それは恐らく、私が正反対の方へと歩きだしたらひっくり返るのだろう。彼女は、私がお気に入りのようだった。
この後輩と出会ってから一か月と少し。理解するもの、感じるものはそれなりにあった。
「こっち歩いていっても門はあるし」
「そうね」
「部屋に戻るのにはちょっと遠回りになるけどね」
「部屋?」
「アパートのお部屋。家っていうと少しややこしい気がして」
「一人暮らしなの?」
「うん。実家が大分遠いから」
これまでに一緒に大学を出る時はあったけれど、振り返ってみるとなるほど、
「
「ええ」
電車での通学は中学時代に経験済みだから慣れていた。思えばここまで一度も、家を出て暮らしたことはない。家族がいて、猫がいて、いつも見上げる天井のある部屋がある世界に私は慣れすぎていた。水中に適応した生き物が陸地に上がらないように、既に離れるのは難しい。
「…………………………………………」
当たり前のように家を離れて自分の道を歩き出した親友のことを、少し思う。
木々と建物の間を抜けるように歩いて、いくつかの講義棟の前を通り過ぎる。一年歩き続けていてもすれ違う顔は見覚えのないものばかりだ。このあたりが高校までと大きく違う。
所属するような枠の中に留まらない人間関係が生まれる。
一年下の後輩と、偶然出会っただけでこうやって歩くように。
その後輩を
知らないことも、まだまだある。
彼女が出会った時に泣いていた理由も、まだ聞いたことがない。
あれ以来、彼女の涙を見たことはない。
なぜ泣いていたのだろう? と今更に少し興味を抱く。しかし外は明るく、彼女は明朗で、涙の話を持ち出そうとしてもすぐに蒸発してしまいそうな雰囲気だった。
「アパートは近いの?」
「近くないと借りてる意味ないよ」
ごもっとも。
「今度、
「もやしをお出しできるよ」
「試したことのない組み合わせね」
紅茶の合間にもやしを口に運ぶ自分を想像する。味には想像力が追い付けない。
「その内ね」
「その内かぁ」
「なんか、大人と口約束したみたいだ」
そう言って、少し楽しそうに私を見上げるのだった。
私の親はできない約束を交わさない人たちだったので、それがどういう感覚か分かりかねた。
友達の家にちょっと遊びに行く。それくらいの話なので、もっと気軽に考えてもいい。
そうは思うのだけど
それでも、もう少し深い仲になってから……友達の深さってなんだろう。それに、積み重ねとかではなく、深さでいいのだろうか。
深いということは、沈んでいくということなのに。
目的の講義棟の入り口まで来たところで、
「
「悪い子って」
表現に
「良い子に見える?」
「とても」
「見る目ないわね」
本心からの発言だったのだけど、
扉をくぐる前にふと振り返ると、離れた場所で大きく手を振っている
「変わった子……」
二階の講義室に入ってから、真ん中付近の席に着き、息を吐く。
疲れるというほどでもないけれど、
「……強いて言うと」
忘れかけていたような古い顔まで、糸に引っ張られるように掘り起こされる。
人間関係というものは、おかしな刺激だらけだ。
講義が始まるまでの隙間の時間に、そんな風に
少なくとも私が、彼女の名前や顔を忘れることはないようだった。
『
『今学校?』
『学校』
『お昼ご飯食べた?』
『予定ある?』
『特になし』
『わたしと食べよう!』
『食べませんか?』
『いいわよ』
『
『ハルでいいよ』
『どこで待ち合わせるの?』
『
『わぁ鉄壁』
『待ち合わせはそうだねー』
『わたしんち』
『えぇと?』
『
『あ、もちろん遠い実家じゃなくて』
『アパートの方ね』
『それは分かるけど』
『アパートが家だとややこしいんじゃなかった?』
『いえそうなんだけど』
『アパートよりわたしんちって表現の方が』
『柔らかくて警戒しないかなぁって』
「あははは」
電話片手に乾いた笑いがこぼれる。正直な上に
でも、警戒という表現が少し引っかかる。
ちょっと後輩の部屋にお邪魔するくらいで、なにを警戒するのか。
この後輩は、と思わず目を細める。
『警戒って』
『悪いことでも考えてるの?』
『考えるような頭ないです』
『この辺残念なんだけど』
『
『さぁ……』
『それで、
『うんそうそう』
『アパートね……』
『涼しいようち』
『ドリンクサービスもあるし』
『あと多分おいしい』
『なに食べるの?』
『なにかはまだ考えてないけど』
『わたしが作るつもり』
『だから多分なのだ』
『
『けっこう慣れてる方だよ』
『それとハルでいいよ』
『好きなんだ、自分の名前』
『考えておくわ』
『期待しておく』
『あ、考えておくってどっち?』
『お昼? 名前?』
『どっちも』
『お昼は早めに決めてほしいなー……』
『先輩の食べたいもの作っちゃうよ』
『そうね』
『……そうね?』
『じゃあ、ご
『そうね!』
『とてもそうよ!』
『勢いだけで話してない?』
『今アパートだからそっちに行くね!』
『正門で待ってるから』
『迎えに来て』
『走っていくね!』
『走り出した!』
『私は走りたくないからゆっくりでお願い』
電話をしまって、席を立つ。やり取りの間に、学生の大半は講義室から去っていた。
生え残った草のような気分で周囲を見回した後、気持ち早めに歩き出す。
「積極的というか」
ぐいぐいと来る。強い波にさらわれるような感覚は、心さえ揺さぶってくる。
他の人にも警戒心が薄いまま踏み込んでしまうのだろうか。性分だとしても、あまり感心はしない。普通の人は、誰かに無遠慮に近寄られるのを好ましく思えない。
相手ではなく、自分の気持ちを優先して動く。
それが、あの涙の理由なのかもしれない。
思い出してみれば、流していた涙は大粒だった。
きっとたくさんの感情を吸い込んでは流れていたのだろう。
その涙の落ちた先にいた私は、
「
先週誘われて、また今日も誘われて、結局行くことに決めた。仲が深まるようなことは特にないどころか、今週はまだ
行くとは言ったけれど少し抵抗がある。友達の家に行く経験が少ないのもあるし、そして、となにかが続こうとする。その続きを待っても、自分からは決して出てこない。
私は、
講義棟を出ると、途端に暑さがのしかかる。夏がその羽を広げて、一振り、二振りするだけで私たちの世界はこんなにも熱に満たされる。
私の大学生としての生活にはきっと、ほとんど関わらない人ばかりだ。
これだけの人の中で、出会う人。
それは意識して大切にするべき
食事に向かう大勢の人たちから離脱するように正門へと向かうと、その脇には既に
歩調を速めて
「待たせて……ごめんなさい」
「すごく面倒そうに謝らなくてもいいって。わたしが好きで走ってるだけだから」
「好きで走るね……」
そういえば最近、走っていない。なにかに
それは穏やかであったり、無味であったり……受け取り方は人それぞれなのだろう。
高校で体育祭のリレーの練習をしていた頃が、ふと思い浮かぶ。
あの頃の彼女と息が合わなかったことに、今振り返ると少し笑ってしまう。
「じゃ、ご案内します」
その途中、
ラッコは正面を見据えて、貝を大事そうに抱えていた。好きなのだろうか。
まずここを渡る、と大学前の道路を横断する。信号が青になった途端、すぐに渡ろうとする
「確認しないと危ないわよ」
小学校の先生にでもなったような物言いになる。
「ああえっと、ごめんなさい」
「私に謝る必要はないけれど」
相手にそわそわされると伝染しそうで、少し困る。
道路を渡り終えて、ビルから伸びる影に入ってから
「
「料理は家を出る前からやってたんだ。なんか楽しくて」
「家庭的な女はお嫌いですか?」
「期待してるわ」
応えるように、彼女の歩幅が広がる。流れる汗なんて
「鍵かけるの忘れてた」
「そんなに慌てなくていいのに……」
「いーのいーの。慌てるの好きなの」
無理な言い訳を押し通して、
「お邪魔します」
「いらっしゃい。大学の友達呼ぶのは初めてだよ」
私も大学の友人の家へ遊びに来るのは初めてだった。
中に入ると途端、
それは恐らく、普段から
当たり前かもしれないけれど、部屋は
夏と交わらない、少し爽やかに鼻へ抜けてくる香りだった。
玄関から入ってすぐ右の扉の向こうにトイレとユニットバスが見える。薄暗がりの向こうで洗面所の鏡に、影を帯びた私が映る。ふと、切らずに伸びっぱなしの髪が少し気になった。
流しの前を通って案内された部屋は南向きで出窓もあり、日当たり良好だった。つまり、大変に暑い。
「あったかい部屋ね」
「エアコン全開にしてるからちょっとだけお待ちを」
へへぇ、と
部屋は
「クッションないからベッドに座ってて。そのまま寝ててもいいよ」
「いいわよ、大丈夫」
カーペットの上を選んで座り込む。
大学の昼休みとはいえ、離れて人のアパートの天井を見上げるのは不思議な気分だった。
普段は外まで食べに行かないで食堂で済ませてしまう。
まるで、学校を途中でサボってしまったような……高校生の気持ちが抜けきっていないのだろうか。やや落ち着かない気持ちになって部屋を見回していると、
「見るものそんなにないでしょここ」
「そうね。他の部屋と比較はできないけど、さっぱりしているわ」
「物増やしてもすぐ興味なくして置物になっちゃうから」
「ふぅん……」
自室の本棚の、読み返すこともない小説を思い浮かべる。
薄い青色の壁紙は気休め程度に暑さを和らげる配慮だろうか。薄手のカーテンはあるけれど、日光を遠慮なく浴びているから傷むのも早そうだ。
「スーパーも近いし、ホームセンターもあるしいい環境だとは思うよ。ユニットバスはちょっと狭いけどね」
タオルで顔や首筋を拭ってから、
「それで
「そうね……」
ちょっと考え込む。
「好き嫌いは特別ないし、ぱっと思いつかないわ」
「一番困る返事だな……」
「んー、じゃあ苦手なものとかアレルギーは?」
「そちらも特に」
「本当に好き嫌いがないねぇ」
困った困った、と
「まずはお茶でも」
「ありがとう」
「製氷機なんてないから氷ないけど」
「十分よ。そんなに気を遣わないで」
受け取ったそれは中の液体に直接触れるように、ちゃんと冷たい。微妙な凹凸のあるグラスは底に複数の色を閉じこめて、光を吸い込み、輝いている。虹色のグラスだった。
それが
「いや気は遣うよ、いっぱい」
「だって嫌な部屋だったら
「ふむ」
いい部屋だから来るとも限らないのだけど、一生懸命な所には好感を抱く。
それに、親切が自分のためでもあると自覚しているのは気持ちのいい割り切りだった。
「ていうかそれ
グラスを指差してくる。「とても」と同意すると、
「あげはしないけどいっぱい見てね」
「そうするわ」
「あと中身も飲んでね」
「はいはい」
「じゃ、適当に作っちゃっていい?」
「お任せするわ」
丸投げしてから、ようやく少しお茶を飲む。喉が潤って、目を
大学と違って木々も近くにないし、
「テレビや本棚もないのね」
「本とか全然読まない方なの。テレビもスマホあればそんなに必要ないし」
「あ、ごめん。待ってるの退屈?」
「いいえ。待つのは苦手ではないし」
けど、得意でもない。待ち方は
「
「お、いーねぇ」
「でも話しながら作業して大丈夫?」
「へーきへーき。わたし、普段も独り言いっぱいで料理してるから」
「……それは気をつけた方がいいかもしれないわね」
部屋に一人でも
「
前にも誰かに言われた気がする。知的なイメージと受け取っておけばいいのだろうか。
「本は……読まないこともないけれど」
「大学の図書館とかよく行くの?」
「図書館は……それなりに。でも読むのは新聞ね」
私の声は調理の音に紛れて聞こえたのか
時々、口笛も吹いている。選曲は童謡が多く、夕暮れでもないのにカラスと一緒に帰ろうとしていた。この辺りでは、夕方になるとその放送が遠くから聞こえるのと関係しているのかもしれない。
「あ、そっかー」
弱音のようにも聞こえる調子で、
「どうかした?」
「うち、お皿も
ははは、と
「ああそうね、一人暮らしだもの」
必要分の食器や箸しかないのも当然だ。
「わたしの使ってもいいけど、そうなるとわたしが食べられないね……お隣さんに借りる……いやなんか違うなこれは」
やるかどうかは、数秒だけ戸惑った。
でも床に足が根っこのように
「ホームセンターって食器類は取り扱ってたかしら」
「え? あーあったかなぁ……お弁当箱とかはあったと思うけど」
「お弁当箱……まぁ、それでも問題はないけれど」
「せんぱい?」
「作っている間に食器を買ってくるわ。場所、分かりやすいといいのだけど」
一年通っているけれど、大学周りはあまり歩いたことがない。買い物は歩き慣れた地元で済ませてしまうし、こちらでは友達と連れだってファミレスに行くくらいだ。
「あー……なんかごめん。食器代出すよ」
「いいわよ、ご
鍵ちゃんとかけておいてね、と注意しながら靴を履く。履きながら並んだ
こんな足の小さい子が一人暮らし、と変な感想を抱いてしまう。
靴を履き終えて、視線を感じて振り向くと、すぐ近くに
「なんていうか」
ていうか、と口の中だけで
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
奇妙な、戸惑いのようなものを挟みながら挨拶を交わした。
自分の家でもなく、相手は友達で……奇妙としか言いようがない。
不愉快ではない困惑というものは珍しく、
心がゆらゆらとしながら出た扉の外には、忘れかけていた暑さが私を待ちわびていた。
日の
大学二年生の初夏、まだ自分の成すべき正解は分からない。
分からないから、どこにでも進むことができた。
「おかえり、先輩」
「……ただいま」
友達のアパートでそれを口にするのは、やっぱり変な気恥ずかしさがあった。
行ってきますもそうだったのだけど。
買ってきたものが食器類なのもあって、まるで二人で暮らしているような……とにかく、変だった。出迎えた
「迷わなかった?」
「一度も曲がらないで済むから
ホームセンターは大学の前を通ってまっすぐ歩いていく先にあった。ついでの道案内だと、その途中で左に曲がってずっと歩いていけばスーパーに着くという。狭く感じるほどに建物だらけの町では、道も大ざっぱにしか作れないのかもしれなかった。
アパートの中はエアコンがしっかりと仕事をしていてほっとした。それから、匂いに香ばしいものが混じる。
「親子丼?」
「
買ってきた
「そっちは家でもよく食べてたやつ」
後は、と
「二つだとテーブルが寂しいかなと思って水増ししてみた」
側に置いたままの、空になった虹色のグラスを
「もっと用意してから誘えばよかったかも」
「これくらいでいいわよ、食べきれなくなりそうだから」
気を遣ってもてなしてもらって恐縮だけど、大食漢というわけではない。
用意するから座っていてと言われて、大人しくテーブルの前に腰を下ろす。買ってきた箸を手に取り、
基本、家に一つあればいいものだから。
それが二つになるのは、どういうことだろうって、握った箸を開いて、閉じてとしながら、しばらく見つめていた。
「……ありがとう」
「足りなかったら好きなだけかけて」
これ以上かけたらこぼれて指が卵まみれになりそうだ。
「
新品の
まるで
「それじゃあ、いただきます」
「どうぞどうぞ」
自分は箸も取らないで、手で押すような仕草で勧めてくる。私が食べないことには、箸をつけることはなさそうだ。よそわれたそれを箸で取り、口に運ぶ。
「おいしい?」
一口食べるやいなや、
「おいしいわ」
「おっ」
「とても」
「トテモ!」
声が裏返る。
「いやそれは結構。……いやほんとよかった」
「大げさね」
「
それはそうかも、と手にした
少なくとも
やや食べづらい。
「おいしい?」
また聞かれる。じろじろ見られながらシイタケを
「おいしいわ」
「あ、ちょっと感想のランクが落ちた」
がっかりとする様子はなく、楽しそうに
「同じことを言っても仕方ないかと思ったの」
「いい言葉は同じことを繰り返してもいいと思うけどなぁ」
「じゃあ、とても」
レタスもかじる。
「おいしい?」
聞かれると思った。
「シャキシャキしてる」
「でしょでしょ」
ちぎっただけのレタスをそのままかじっているだけなのに、
少し、面白かった。
私が一通り感想を述べてからようやく、
でも、起きていること自体はいつもの
「ごちそうさま」
「…………………………………」
「なぁに先輩」
「食べるのが早いなと思っただけ」
「え」
あっという間に食べ終えてしまった
「家ではこれくらいが普通だったから……うん」
「みんな気の早い人なの?」
「そうなのかも」
苦笑する
動きに合わせてふらふら揺れる、後ろの小さく結んだ髪が、短い尻尾に思えてくる。
「おいしいですか?」
身を乗り出すようにしてまた聞かれる。一度では気持ちが伝わりきらなかっただろうか。
いい言葉はどれだけ重ねてもいい、というつい先ほどの言葉を思い出す。
「おいしいし、不思議な感じ」
「不思議?」
シイタケを箸で摘まみながらその中身を答える。
「友達の作った料理を食べるのは多分、これが初めてだから」
初めての友人の手料理。初めての一人暮らしのアパート。
なにより、目の前にいる後輩そのものが。
「……なになに?」
視線が気になったのか、
「大したことじゃないけれど……」
それは彼女みたいな性格の子とこれまで縁がなかったからだろう。
あの時、偶然に泣いているところを見なかったらきっと交流なんて生まれなかった。誰かに簡単に紹介されても、さして興味なく流れてしまっていたと思う。
あのきっかけだったからこそ、こうして親子丼を食べている。
そしてその後輩は、私が今までに
だから、強いて言うと。
「あなたは、昔苦手だった人に少し似ていると思ったの」
ぐいぐいと私の腕を引っ張っていくような、その快活な笑顔が。
「え、遠回しに嫌いって言われた? それ大したことじゃない?」
「そういうのじゃないわ」
「どういうのかご説明を……」
「昔は苦手だったような人と今出会ったらどんな関係を築けるのか……興味があるってこと」
あの時出会った彼女は、どこまでも一方的だった。私の気持ちなんて考えたことがあっただろうか。それは子供であるから余裕がなかったのもあるし、本人の性格によるものでもあったのだろう。彼女の行いや
「うーん……えっとー……
「今のところそうは感じないわね」
ご飯
「えー……似てるけど苦手じゃない……わかんない」
「似てるだけってことよ。本人じゃないもの」
「どういうところが似てるのかな?」
「そうね……元気なところ」
「元気ある人が苦手って、
頭にキノコの生える悩みとかなかった? とこちらの湿度の高い人間関係を想像して心配してくる。確かに元気のない人で集まればそうもなるかもしれない。
「……私の言い方が悪かったのね、多分。動いてから考えるような人ってことだと思うの」
猫が動くものに飛びつくように、まず動く。それからようやく、その意味を考える。
思慮深いの真逆で、だけどそれにこだわって停滞しがちな人間より早く前に進んでいる。
私は理由を見つけてからしか動けない子供だった。だから、歩幅なんて合うはずがない。
「そういうのか。そういうのは、あるかも」
心当たりがあるのか、
食べている姿をじっと見られると落ち着かない。箸を止めてしまう。
どうかした? と今度はこっちが目で問うと、
「なんでも急がないと、すぐに終わっちゃいそうでさ」
「終わる?」
「もう少し待ってくれたら手伝うのに」
「流し狭いから手伝うの難しいよ」
確かに、と納得しそうになる。私と
エアコンがしっかりと効いている中で水流の音を拾うと、首筋に冷たい
「
「昼休みが終わったら講義に出て、それから……」
「それから?」
「……家に帰るわ」
「そっか、残念」
本当は家に帰る前に一つ寄る場所があるのだけど、そこまで子細に話す必要もないだろうと省いた。すべてを明かすほど、
いや、壁を作らない人間関係なんてあるのだろうか。
人は家族にだって多かれ少なかれ隠し事をする。
何もかも隠さず伝えてしまう相手は、もう、他人という存在なのかも怪しい。
「……
「…………………………………」
聞き方と、聞かれ方。その二つが少し引っかかった。
でも、すべてを明かすほど、
「内緒」
はぐらかすと、少しの間、水の流れる音だけが聞こえた。
「ちぇー」
「なにがちぇーなのよ」
「そういうのを教えてもらえるくらい仲良くなりたいなぁって」
思いました、と雑に締めて水の跳ねる音が増した。そちらを向いても、表情は
それがどういう関係なのかと、はっきり聞くのははばかられる。
そういう空気だった。
洗い物を二回に分けないために、早めに食べようと箸を動かす。
手と口を早くしてしまうと味が少し分かりづらくなって、
買ったばかりの
そこに
でも
きっと、加わるのだろうと感じていた。
『着きました』
『先に入ってますね』
『こっちも今着いたわ』
「頭が見える」
「わっ」
「
「そうね、二階からも声が聞こえるわ」
小さな足音と穏やかな
「先輩は結構来るんですよね?」
「ええ、新しく本を買った時の帰りなんかにね」
そう言うと、本屋の娘さんがぺこりと冗談で頭を下げてくる。
「ご
「
「一人ではあんまり……。わたし、一人だと雰囲気に合わない感じがしません?」
「そんなことないわよ」
大学から離れても先輩と呼ばれる。けど、今度は相手が違う。
向かいの席に座るのは、
私からもたくさんの気持ちと立場を持つ相手。
少し伸びた髪もそのままに後ろのお下げをなくした
「
ここに同席していない彼女の近況を尋ねる。聞かれた
「どうって聞かれると、うーん……動き回ってる?」
「なにそれ」
「演劇サークルの活動も忙しいみたいですし、それに」
「プロの舞台にもたまに参加しているんでしょう?
「本当に役者を目指すかはまだ悩んでいるみたいですけどね」
プロまで行けてなにを悩むのか、と
「というか
「直接会う機会はそんなにないけど、連絡はそこそこね」
じゃあわたしに聞くの、遠回りじゃないですか。そう言って
私はそれを、やんわりと否定した。
「遠回りじゃないわ。あなたから見た
自分のことを自分でしっかりと誰かに語るというのは、色々な理由で難しい。
なにしろ鏡がなければ、自分がどんな顔をしているのかも分からないのだから。
カウンターの奥の
少し前に話していたけれど、高校卒業生でここによく顔を出すのは私だけらしい。進学に合わせて地元を離れた子は存外多い。みどりや
私は、実家から離れる選択は思い浮かばなかった。
それは私に明確な目標がなかったこともあるだろうし、なにより、年老いた猫や祖父母とのきっと残り少ない時間が減るのを嫌がってのことだったのかもしれない。
ここでは
元生徒会のみんなで集まろうという話になっていて、さてというところだ。
「
「まだ先ですからなんとも……でも大丈夫だと思いますよ」
「そう……」
来るとしたら、
お互いの距離は、出会わないことへの程よい言い訳になっていた。
私と
「昨日も泊まりだったのね」
「え、なんで分かります……?」
どこどこ、と問うように
「なんでって簡単よ……」
説明しかけて、ふっと、息を吐く。
「秘密」
「えぇ……」
「教えたらからかえないじゃない」
「むぅ……」
意地悪を訴えるように、
「
「どうって?」
ほら、どうって聞かれると困る。
「楽しいことありました?」
ふわふわとした質問が、少しだけ方向を指し示される。でも、楽しいことなんて聞かれるのは珍しい。
「そうね……」
深い茶色の水面を
それと、ラッコの顔が横に並ぶ。こっちは忘れていいと思う。
「友達ができたわ。一年生の」
最近のめぼしい変化はそれくらいだった。楽しいことかは分からない。
へぇ、と
「どんな子ですか? 女の子?」
「ええ、女の子……元気な子よ。いつも早歩きで、あと料理上手」
並べると関連性が薄い特徴だと思う。いい加減に思える発言は、コーヒーを飲んでごまかす。
これだとアパートでご飯を食べる前は早歩き以外の情報がなかったことになってしまう。
もっと色々あるはずなのだけど、なかなか出てこない。
「足が速くて料理が
「前向きな解釈ね」
「
「他になんだと言うの」
表面に触れてくるそれを、全体に、ぼやぁっと眺めて焦点を合わせないようにしている。
深く考えないように頭が避けていた。
それは事細かな仕草によるものかもしれないし、本能的なものが察しているのかもしれないし、私の中でまだ整理のついていない感情が
そのなにかを適切な言葉にするのは簡単だったけれど、私は。
「ちょっと会ってみたいかな」
「そうね。機会があれば」
そうは言ってみるものの、私と
どんな人間関係があればそうなるのだろう。
見当もつかなかった。
手持無沙汰の少しの時間を、大学の図書館と新聞で埋めていた。
カードリーダーを通してからすぐ左手の空間に、四つの長椅子が置かれている。その一つに座りながら、家で取っていない新聞を広げていた。床に敷かれた厚めの
近くにテレビも設置されているけれど図書館の雰囲気に合わせて音量が小さく、細々としか聞き取れない。側には科学雑誌も並べられている。手に取ってみたことはあるけれど科学に関しては無学なので、今一つのめり込めない。興味の有無が昔から極端だったように思う。
物に限らず人も。名前も好みも、関心が持てないものは頭に入ってこなかった。
私はどれだけの出会いを忘れて今、生きているんだろう。
新聞も興味ある話題だけにちゃんと目が行く。便利なものだった。
その新聞に触れた指先から、紙の匂いがする。最近、関わることの少なくなった匂いだった。
近い内、本を買いに行ってもいいかもしれない。
畳んで棚に戻してから席を立つ。そうして離れようとする途中、テレビの前を通る際に画面を
屋内で練習しているはずなのに、どこでそれだけ焼いたのだろう。
そんなことを思いながら、なんてことはなく通り過ぎようとしたところで、その女性が帽子を外す。水泳帽子に保護されていた、首にかかる程度の黒髪が
「…………………………………」
足が止まる。
『泳ぐのが好きなんです』
水泳を始めたきっかけを聞かれて、女性がそう答える。特に
だけど好きなものを好きとして、それに向き合えるのはとても素直で大事なことかもしれない。
それと、と女性が付け足す。
『昔、水の中でとてもきれいなものを見たんです。だから……えっとつまり、泳ぐのが好きなんですね』
後半は
私は切り替わった映像も半ば目に入らないまま、画面を、ぼんやり見つめる。
……ふぅん。
「………………………ふぅん」
忘れた頃に届いた手紙に目を通すような、そんな気分だった。
「どうかしたの?」
いつの間にか隣に来ていた
「明日の天気はそんなにご不満?」
「……なんの話?」
指摘されて少し気にかかったことに疑問を持つと、
「なんだか真面目そうな顔してたから」
「気のせいよ」
「でも今も……いやまぁいいや。それより
早歩きの後輩が私より一歩先んじてから、
「こんにちは」
「
「いきなりなに?」
「さっきプール選手をじっと見てたし」
この子はいつから私を見ていたのだろう。というか、プール選手というのはなにかおかしい。
「
図書館に姿を見せたのを不思議に思って聞いてみる。
「ハルでいいよ」
「……
「名字の呼び捨てはなぜだか高圧的だ……」
「図書館で新聞読んでるって言ってたから」
前にアパートで話していたのは聞こえていたみたいだ。
「時々
でもそこには
それが意図していても運命でも、出会えば同じだと思わなくもなかった。
「プールに行くような季節ではあるわね」
図書館の外へ一歩出た途端、そんな言葉もつい口に出る。それくらいの暑さだった。
大学の豊富な植木に群がる
光は角度鋭く、私たちを照らす。
七月中旬、湧き上がるように、夏が立ち込めていた。
「うんうん。じゃあ行こうよ
「
少し調子に乗る後輩をやんわりたしなめる。
「いきなり言われてもなんの用意もないから、その内ね」
プール道具なんて持ち合わせている小学生とは違うのだ。
それにしても、プール。
高校時代に生徒会のみんなで遊びに行ったことはあったけれど……水着……いける、いやいや……と時の流れと頭の中で戦う。
そしてそれらを一旦保留にすると、暑さと迷いが同時に戻ってくる。
なんとなく左に曲がって、くらいの感覚で歩きだしているけどどこに向けて私たちは進んでいるのだろう。
図書館から離れて、生協の前を通りかかったあたりで無軌道な行き先を案じる。
講義……そう、次の講義のために移動しないといけない。
遅れてそれを思い出しながら、
「その内ね……あ、そうだ。またご飯食べに来ません?」
話題がころころと変わる。そして
「そうね……またというか二日くらい前に行った気もするけれど」
既に累計三回ほど、
なにかから目を
「じゃ、今日も!」
「残念だけど、今日はもう食べ終わったの」
「あらら」
勢い良かった
「またその内ね」
「あはは、
外の日と、そして名前に恥じない陽気な笑いをこぼす
「
「その内が多いから」
口約束を重ねる私への不満だろうか。楽しげに話すから、どうも
ただ
私の両親はいい加減な約束をしない人たちだったので、
どちらかというと、私の引き延ばしは
「その内がいっぱいあって楽しみだなー」
「嫌味?」
「半分くらいは。でも残りは本心から……」
話の最中、
反応した女子は
「やっ」
友達や顔見知りにしては微妙な反応を返されたように見える。
「変なの」
離れていく彼女に対して、
いつもと同じく、明朗快活。私が見ている
訳ありそうなすれ違いと
まったく無視できるほど、
でも、深そうだ。
聞くべきか、そうでないか。歩きながら、少し迷った。
「知り合い?」
「ううん」
いったん首を振る。けれど少し間を空けて、
「そうだね、知り合い」
訂正した後も
「友達」
上方修正する。そのままお互いの足音だけが続いて。
「だったかも」
最後に、そう付け足す。彼女との関係は今や細かく、ばらばらのようだった。
「向こうはもう友達やる気はないみたい。ま、確かに全然話してないけどさ」
知識欲、探求欲。そういう部分を刺激されると私は弱いらしい。
思えば
次の講義に行かないといけない。そして方角は
「……………………………………」
足は止まらない。どこへ行きたいかを訴えるように。
背中に浮かぶ僅かな汗は、降りかかる過剰な熱と無縁のように
習い事だって一度としてサボったことはなかった私だ。
少しだけ、指先が
立ち止まり、歩く方向を変える。
「あれ? 用事でも思い出した?」
その
「ついてきて」
日の向こうの強い
「講義は?」
「なくなったの」
私の予定から消してしまった。単なるサボりなのに、いやに前向きなものが付きまとう。
水泳教室を辞めたいと言った日のことを、生ぬるい感覚と共に思い出す。
あの時は後ろめたさと共に逃げ出して、今と心は真逆なのに。
随分と長く
「なくなったって……えぇなんか申し訳ないというか……いいの?」
「一度くらいなら休んでも大丈夫」
参加もまばらな友人たちが去年を乗り切り、問題なく二年生をやっているのだから。
昔は一度も失敗しないようになんて気を張っていたけれど、私はたくさんの失敗を重ねてきたけれど今生きているし、笑ってもいる。
だから、大丈夫と。進んでいく。
そうして私が向かったのは講義棟の裏側。囲うように植えられた木々の匂いが色濃い喫煙所。
壁の影を背負うように置かれたベンチと、それから
「いやぁ
それから、涙が浮かんでもいないのに目もとを擦った。
「泣いたのとさっきの子は関係してるの?」
泣かされたのか、と尋ねてみる。
「
この間、
「誰でも分かるわよ、これくらい」
ベンチに腰かける。背もたれに寄りかかって、ほぅと、生ぬるい息を吐く。
服越しに背中に触れる硬い感触と木の香りが、生徒会室でのことを思い出させる。
どうぞ、と手でベンチの隣を指し示す。
「あの時は場所を譲ってくれて
思い返したのか、
「一人になってからは、泣き顔なんて人には見られたくないけど、あれ、なんでかなって考えてた。泣くのってそんなに悪いことでもない気がするのに」
講義室で再会した時の
「なんでだった?」
興味もあり、答えを聞いてみる。
「弱いところを人に見せたくないんだろうね、多分」
「弱い」
彼女の選んだ言葉を
「弱いと、嫌われる気がして」
確かに、と最初は思った。弱くて、すぐ泣いて、誰かに頼らないと生きていけない。
私はそういう存在に否定的かもしれない。
でも人は
泣くのが弱さを
それから少し黙った。その間も静けさなんてものはここに落ちてこない。
誰よりも強い声で。
そうして先に
「ちょっと暑いね」
「ちょっとかしら」
大分暑いと、ここまでに日を吸い込んだ髪は訴えている。日陰にも、日光がじわりと
「雰囲気で選んだけれど、他で話す?」
「いやぁここでいいよ」
「二人きりだし」
屋根も壁も程々に遠い、空の下。それだけ世界が広がっているのに、私と
その私と自分しかいない空間で、
「わたしの話とかしていい?」

「聞きたいからここに来たのよ」
それは、講義では決して聞けない話だから。
「お察しというかなんというか」
「
ピンと、張り詰めた糸に指が乗るような感覚だった。
飛べばいいのか、じっとしていればいいのか思い悩む。そんな一瞬、肌と声が温度を失う。
「そうなの」
反応は短いものになる。色々な理由を含めて、警戒するように。
「大学に来て、女の子同士は人の目が気になるようになったとか……確かそんな理由」
目を細める
きっとそれを言われた時は頭の中が真っ白になったことだろう。怒りと喪失のどちらが原因かもはっきりとしないまま、声の半分も耳に入ってこなかっただろう。
我がことのように察してしまう。
「あの時は泣くくらい悲しかったけど、今はもうなんにも気にならないな。友達にも戻れないのは少し寂しいかもしれないけどね」
口ぶりに悲壮なものはなく、淡々と事実を列挙しているだけのように思えた。別れたからとすぐに割り切って友達付き合いが始まるのも奇妙で、ぎこちなさが残るのも当然だった。
私だったら、戻りたいとも思えない。
私が先輩のことを許せなくて決別したように、一度変質した関係が元に戻ることは、とても難しい。関係というものは石を次々に積み上げていくようなもので、そこには偶然というか……一度きりの形が出来上がる。それを崩してしまうともう一度、自分の手と意思で積み上げて再現するのは不可能に近かった。
人はなにかをやり直すことはできない。
だから私の最高の友人は出会った時から最高で、そして今も友人だった。
その関係は何一つ揺らがない。
どれだけ願っても、なにも変わらなかった。
「まぁ、それだけの話」
「それだけで済ませる話じゃないでしょう」
「ううん、それだけになった」
意味ありげに、
「わたし、女の子好きなんだ」
「……そうなの」
自分の声にコンクリートの表面を感じた。それはいつひび割れていくかも分からない。
「だから」
お互いの声が空白になったように、その続きは届かない。
「ただその先に
「
雑多な言葉が蒸発して選ばれたような表現に疑問を発すると、
「なにかが
「運命っていうと大げさなんだけど、他の言い方が
「……縁があった?」
「そうそれ。奇縁合縁」
それは逆よ、と指摘するかやや迷った。今は講義から離れているし、国語の授業でもないし、とてもまじめな話をしているからだ。なんて、思考が話題から逃げようとしている。
「あの時はそう……
それだけだよ、と
「
「二回も言わないで、恥ずかしい」
そうした私の反応を望んでいたように、
「
その捉え方を
さて。
さて、だった。
さての次になにが来るのか、向き合わないといけない。
じりじりと訪れる夏季に焼かれるような中で。
「
私が悩んでいる間に、
「なに?」
「髪、長いよね」
私の首の後ろ側に、
「そうね……」
高校を卒業してから、整えるくらいで短くしたことがない。
誰が言うことでもないのだけれど、失恋したから切った、なんて思うのは嫌だった。
自分がそう感じてしまうのを嫌がって、放っておくように髪が伸びていた。
その髪が、どうかしたのかと
「好きだな」
何の気ないように投げ出された好意は、風船が漂うようにゆっくり、私の心に届く。
そして触れて押してくる頃には、
早歩きで距離を取ってから、振り向いた
別れは数あれども、
「それは、どうも……」
見送り、独りになって、首筋に流れる髪を
私の中でまだ少しだけ残る、引きずられた昔を、好きと言われた。
好き。
淡い声が
告白でもされたように戸惑う。
されたようなだった。
多分。
『猫は元気?』
『元気よ』
『二匹とも』
『
『のんびりかぁ』
『私にも抱っこできるかな』
『あれで逃げるときは機敏になるのよ』
『元気なのはいいね』
『うん』
『また会いに行きたいな』
『いいわね』
『
『話すことはたくさんあるような』
『気がする』
『私は』
『そうね』
『それもいいかもしれない』
『その内ね』
『ええ、その内』
七月二十九日。誕生日の朝はここ数日と同じく蒸し暑さが
昨日となにも変わらないようで、そして明日の朝とも大差はないであろう夏の朝方。
私は、二十歳になった。
枕元の電話を取ると、早くもお祝いのメッセージが届いていた。みどりと
なんにせよ、
その一つはとても大きいものだったかもしれないけれど。
あんなに簡単に話していいことだったのだろうか。
私には話していいと思ったのなら、それはなぜ。
「………………………………………」
私にも、見る人なら分かる
座りながら、
その割合が最近、増えているのを自覚していた。
それは助走のようなものに思える。
見えもしない星を見上げるように、天井を向く。片膝を抱えながら、椅子の上で揺れる。このままじっとしていれば、今日は穏やかに、普通に、なにも起きることなく終わる。
それを愛おしく思いながらも、遠くの波を見るみたいに目を細める。
知らせてみようか、という気持ちが少しある。
お祝いの言葉を催促しているみたいで嫌だろうか。でも、なんとなく、後で知らせるよりは今そうするべきという気持ちがある。
その喜びを望むような自分が、どこかにいて。
目を半分
『二十歳になったわ』
送って、既読がつかないか少し待ってから電話を置いた。
返信は三十分ほど
『誕生日?』
『今日?』
『ええ』
『なぜそんないじめを……』
『いじめ?』
『当日に言われてもなにも用意ができない!』
『せめて三日くらい前だったら』
『昨日でもよかったんだ……』
『用意って』
『別にいいのよ』
『ごめん、それより真っ先に祝うべきだった』
『おめでとうございます、せんぱい』
『ありがとう』
『なんというか月並みだけど』
『祝ってくれるだけで十分よ』
『催促みたいになったけど』
『うぅん』
『そうなんだけど』
『贈り物って相手よりもこっちの都合が大きいと思うんだ』
『イイカッコしたいって言うかさ』
『やっぱりなにか
『それはまぁ、そうね』
『だよねー』
『……欲しいものとかある?』
『今は特には……』
『お祝いの言葉が欲しかったのよ』
『
『……
『反応ないけれど』
『二度寝?』
『いやいやいや』
『起きてるよ!』
『つまり今、夢は見てないんだ……』
『なんの話?』
『
『それよりも』
『
『そうね』
『お酒飲めるね』
『ええ』
『タバコも吸える』
『パチンコも打ち放題』
『やらないわよどっちも』
『
『子供っぽい』
『ハルでいいよ』
『
『あるわけないじゃない』
『まじめだ』
『
『
『優等生ね』
『そっかー』
『じゃあ、お酒飲んでみない?』
『?』
『二十歳の記念に飲んでみるの、どうかなって』
『あ、お酒はわたしが買ってくるよ。誕生日のお祝い』
『お酒ね……』
『
『でも一浪している可能性もあったわね』
『ないです』
『わたしはコーラを飲んでしまいます』
『しまいます?』
『引っ越してから飲んでないのに気付いた』
『炭酸好きなんだけどね』
『そう……そうなの』
『でもお酒って』
『想像もしてなかったし心の準備が』
『わたしの部屋で飲まない?』
『
『ハルでいいけど』
『お昼にお酒飲める場所知らないから』
『それは私も知らないわね』
『ああ、ファミレス?』
『なるほど……』
『ビールでいいのかな?』
『なるほどの意味は分からないけど』
『そうね……』
『任せるわ』
『おっけー』
『それじゃあ、後で』
妙なことになった。妙な……うん、妙だと納得する。
それでも出かける用意を始めることにする。今日は特に外へ出るつもりもなかったのに一転、慌ただしく部屋の中を巡ることになる。動きながら窓の外に目をやり、世界が輝いているのを確かめた。強い日差しはその向こうに
しかし、お酒、と定期を手に取りながら考え込む。
大丈夫だろうか。飲みすぎて
そして同時に、
誕生日を家族以外の誰かと祝うことに、少し、浮かれていた。
用意を終えて、出かける前に家族に予定を伝えようと
「ちょっと出かけてくるから」
「おや、今日は学校休みじゃなかったのかい」
尋ね方、接し方、雰囲気は昔と変わらない。習い事の有無を聞くくらいの感覚だ。祖母からすれば、私もまだ小学生と大差ないのかもしれない。
「うん、休みだけど……友達に会いに行くの」
「珍しい」
祖母が猫に同意を求めるように、眠たげなその子を見下ろす。
「珍しい……うん、まぁ」
そうかもしれない。生徒会は土日に活動するものではなかったし。
そうだ、と玄関に向かう前に祖母に尋ねてみる。
「お酒って
祖母が細い目を少し広げる。膝元の猫もまた、尻尾を揺らしながら私を見ていた。
「楽しんでおいで」
祖母の返答は直接的でなく、的外れにも思えて、そして遠くを眺めているようだった。
私はなにをどう言うべきか少し悩んだ後、「うん」と
「素直が一番だ」と、少し
「未成年がビールを買うこと自体はオッケーだよね?」
「違法ではない、はずよ」
自信はなかった。一応、法学系の学部に属しているのだけど。
「いやまぁ買っちゃったんだけどねもう」
流し台に置きっぱなしの買い物袋を掲げて、
「もしかして怒られるかなと心配して、スーパーのセルフレジで買ってきました」
袋から次々にビールの缶を出しては並べていく
「え、だめだった?」
笑い出した私を誤解したらしく、
「
どうしてか、公園にでも遊びに来ているような感覚をくすぐられる。
言われた
「ハルでいいよ」
「……
少し考えてみたけれど、
「こんなに買っても多分飲めないわ」
十缶ほどのビールがボウリングのピンのように置かれるのを見て、やや
残ったビール缶を手にしながら、冷やして飲むものではないのだろうかと首を
分からないことは、近づいてみればありふれた景色の中にも
部屋に招かれてから、
「
「別に……他の誕生日と変わらないわね」
ただ、友達と一緒にこうして祝うのは久しぶりだった。
「
「三月。危ないとこだったね」
一度座った
子供の頃に誰もが持っていて、背が伸びるにつれてひとりでに失っていくものを
見るとテーブルに並べられたビール缶に一つ、コーラが混じっていた。
「危ないとこ?」
「もし一月遅れて学年が更に下だったら、多分
グラスを私の前に置きながら、
「ま、もしなんてないんだけどさ」
仮定の話をすぐに否定する。入学早々の別れを踏まえて、そんなことを言ったのかもしれない。
「他の選択なんて誰も
「そうかもね」
私だって、そういうことは考えなくもなかった。
どこかで選択を誤らなければ、と。
そこには彼女の笑顔があり、私の笑顔も並ぶ。そんな夢の景色だ。
もっとも、今の自分を誤りだなんて思う気はもうないのだけれど。
でも三月か。彼女の名前の由来が分かったような気がした。
日差しは相変わらず強いものの、室温はやや過剰なほど低くなっている。
いつも使っている、底に虹の見えるグラスに黄金色の液体が注がれる。
「
「どんなイメージよ」
「グラスを片手にこう揺らしてさ……」
「あのねぇ」
バスローブなんて着た経験もない。今時、どこで着るのだ。
「冗談。あ、改めて言うけど、誕生日おめでとう」
自分のグラスにコーラを注いでから、
「ありがとう」
誕生日を告げた結果、
来る前にも思ったけれど、おかしな状況だと思う。
これも
全てが必然なら、私に物事を決める余地はないということだ。
このグラスのビールを飲むことも、飲まないこともまだ選べるはずなのに。
でも飲まないのなら、一体ここへ何をしに来たという話でもある。
それを拒否することは、とてもできなくて。
なるほど確かに、自分の中にこれを飲まないという選択は今、ない。
いつだって道は既に決められているのかもしれなかった。
「乾杯」とお互いのグラスを軽くぶつける。
軽くなかった。
グラスを顔に寄せると、アルコールの
お酒の入ったグラスを手にしている自分を、こそばゆく感じながら。
そして私は生まれて初めて、お酒に口をつける。
二十歳になった自分を改めて感じられるような鮮烈な味をにがっ。
「…………………………………………………」
グラスの傾きがそろそろと戻っていく。
なんとか、飲み込む。
「にがい」
口で言うよりも先に、苦みが表情に出ていたのだろうか。
既に
「そんなに?」
「想像よりずっと」
大人が平気で飲んでいるものだから、もう少し優しい味なのかと思っていた。
喉にしっかりと残る後味がじわじわと舌の上まで引き返してくるようだ。
率直に言って、
「この部屋に来て初めて、
グラスに半分以上残っているビールが、文字通り苦々しい。早くも拒否感が出る。
と、そのグラスを
「どうしたの?」
見つめていると、
「いやはは……さすが
うんうん、と
「ビールが苦いのに?」
「いやそっちじゃなくて……そっちでもいいか」
そちらは私と違って軽快にグラスから消えていく。
「コーラおいしい」
「良かったわね」
「ちょっと交換する?」
「それはまずいでしょう……」
二十歳まであと一歩どころか、誕生日の関係で大分遠い。仮に、そう仮に
「さっきも言ったけどとてもこんなに飲めないわね……残りはどうするの」
こんこんこん、と缶の表面を一つずつ
「
「ここに来るのって大学のお昼休みがほとんどなのだけど……」
昼休みの度に缶ビール一本開けて、アルコール混じりに帰ってきたら友人がなにを思うだろう。そもそもお酒が入ったまま講義をまともに受けられる気がしない。
「駄目そうならわたしが飲んじゃう」
「こら未成年」
「苦いコーラと思えばいけるっしょ」
気楽に、大きな口を開けて笑っている
視点をじっと合わせようとすると、少し気持ちが悪い。なんだろうこれは。
それはさておき。
私が言うのもなんだけど、通っている大学はレベルの高い方だ。
「うん」
「どうかした?」
グラスを傾けながら
「
「え、今失礼かつ率直なこと言われた?」
「悪い意味ではなくてね」
「いい意味本当にある?」
「勉学に優れているというのはそのまま素晴らしいことじゃない」
「でも、とてもそうには見えないと」
「偏見でしょうけど、あまり勉強が好きそうに思えないわね」
「好きではないです」
至極あっさりと認める。
「
「知識が増えるのは喜びよ」
度の合った眼鏡をかけるように、視界の不確かな部分が明瞭になるから。
「
「利口ぶってるって?」
「嫌味じゃないよ。そういうところが純粋に……えぇと、うん」
言葉を濁される。いい意味では言えなさそうな雰囲気を感じ取り、苦笑する。
確かに私は、利口ぶっている面もある。そういうものを期待されて、応えてきたから。
取るに足らないようなくだらないこともいっぱい考えているのだけど、これでも。
たとえば、
「わたしはさ」と、
「一緒に行こうって言った子が勉強できたからさ。すっごいがんばった」
「……別れた子?」
「でも勉強した
笑顔と共に、結んだ髪が喜びに跳ねる。こちらとしてはやや、反応に困る。
この子との出会いに喜びを感じていないわけではないけれど、それを表には素直に出しづらい。いや隠したくなる自分だって素直な気持ちの一つだろう。
その
「
「ちょっと」
制止が届く前に、
「苦いね、うん」
私と同様の感想を、しかしあっさりと流す。こちらと違ってその苦みに
「なんだか、慣れてない?」
「本当は調理用のお酒をちょっと飲んだことがあったり」
なかったり、と後輩が目を
思ったよりも、経験の多い後輩だ。
「悪い後輩だった」
「いい先輩と釣り合いが取れてるね」
「取れてないわよ、
人間関係というものは……なにかに
考え続けていると自然、口をつぐむ形になる。
気づけば二本目の缶も開けていた。
「
「え、あ、はいどうぞ」
声が聞こえた後、どうしてか反応が少し遅れる。自分と少し距離を置いたように。
草むらから顔だけを
「酔いの勢いに任せて聞いてみるのだけど」
「酔ってるの?」
私はまったく
そんな私の
そして、彼女は私に問いかける。
「
声は喉元に、静かに迫ってきた。
前の問いと似て、けれど恋人の有無を聞かれるよりも明確に、一歩踏み込まれる。
目の下にかかっていた雲のような
エアコンのやや大げさな
返答に悩む問いかけではあった。ごまかし方はたくさんある。既に三つは思いついた。でもそれが事態を円滑にする保証はない。それになにより。
いつか、こんな瞬間が来るという予感はあったのだ。
分かっていて、私は、
ごまかすという選択を諦めて、正面に立つ。
「そういうの、見て分かるもの?」
「なんとなく」
「遠くの鳥を見て、種類が分かるくらいの感覚かな」
「それは感覚じゃなくて立派な知識よ」
知識。私がかつて
それは幻想だと学んでも、知識が大事なものだとは思っている。
そしてこの飲酒中の会話は、知識と経験にない。
「もしかしたら毎日鏡で見ている自分に、似ているとこがあるのかも」
「そういうものかしら」
私が
そういう細かな差異が、
「で、どう? 彼女いますか?」
だけどまだ、切り出してこない。
「今はいないわ」
「今はってことは、前はいた?」
こういう質問に、すべて正直に答えなくてもいいとは思う。
普段なら
でも今は妙に、頭の中に
「前は、うん。いたわ。交際したのはその一度きり」
高校生の時は、三年間の
過剰に効く冷房のせいもあるけれど、寒空の下に放り出されたような心境だ。
「どんな人だったの?」
「……そうね……」
好きな人ではなく恋人について聞かれて、振り返るべき年代が一気に飛ぶ。
高校を飛び越えて、中学生。このビールとどちらが苦いだろうかという、そんな時間。
どんな人だったかは、あまり詳細を語りたくない。いい面より悪い面が多いからだ。
「
ふわふわとして、色白で、言動と容姿がどこかぼやけていて。
そのあたりで留めておかないと、ここからは悪口になる。眉間に
「つまり、えーと……聞くのが怖いけどかわいい人だった?」
怖いってなにがだろう。
「顔は……そうね、美人だったわ。私は多分、顔のいい人を好きになるから」
「つまりわたしは」
「ああ……かわいいとは思うわよ」
「かわいいって、うん。そっちの方がまだ言われたことあるけどさ」
「……前の彼女に?」
こちらが聞かれっぱなしなのも抵抗があるので突かれて痛そうな部分を聞き返してみる。
「今の彼女はいないけどね」
「私と同じね」
ねー、と
「でもふーん……美人か。
「まぁ、そうね」
あの人と私は恋した対象が
それでも好きになって……もう、好きになった時間より嫌いになった時間の方がずっと長い。
先輩は、私にとってそういう人に落ち着いてしまった。
「じゃあ、わたしとは案外
グラスを置いた後輩が、
そして彼女が、私に近づいた。
誰よりも、その側へと至るように。
「だってわたし、今、あなたのことが好きだもの」
彼女は打ち明けた胸の内を、最後にそう締めくくる。
言葉通り、目と鼻の先にいる
残り半分で中学校の頃を、ぼんやりと思い返していた。
こんなことを言われて、こんな風に、距離が近かった。
そして。
「あ、目を
「
友達の見つめ合う距離ではない。世界にお互いしか映らない距離感なんて。
それも、こちらの顔を認める目なのだ。美しいと
直視しづらいに決まっている。
「えぇと、その……好きなんですけど」
「ありがとう……」
肌が

心と体の温度差に耐えきれないように、ぞわりと肌を走るものがある。
目を下ろすと、床に触れて
いつか、こんな時が来ると
あって、大した抵抗もなく
期待していたのだろうか?
なにを?
新しい恋を?
それとも、同じ目線を持つ理解者を?
逃げていた目が、壁に隠れながら様子を
異様に大きく、夜空に浮かぶ満月のように。
「息、お酒臭くない?」
赤い鼻の先にそんなことを聞いてみる。見つめようとすると、景色が
「ちょっと匂いがする」
「そんなに飲んでいないと思うけど……
もしもこのまま唇を重ねたら、お互いにアルコールの味を共有することになる。
それは少し面白いかもしれない、と思う。
だけど
向こうからもお酒の匂いがするけれど、それでも未成年だ。
その年齢差を意識すると、冷静が額を伝うようにして
「考えさせてくれる?」
正面から見つめて、
一瞬、噴水のある中庭を幻視しながら。
「うん」
返事をしながら、
「まずは、すぐに断られなくてほっとした」
その
「おっ」
思ったよりまだ量があった。目を白黒とさせながらも飲み干す。
やっぱり、舌の上から喉を通るまで余すところなく、苦い。
アルコールが血管の中を走る感覚がある。通り道に、不思議な存在感を残して。
こんなもののどこがいいのか、二十歳になったばかりの私にはとても理解できない。
「ひとまず帰るわ」
口元をハンカチで軽く拭いながら、帰宅を宣言する。
部屋で一人、考えたい。
そう。私はきっとまた、よく考えないといけない。
そんな時期がやってきたのだ。
頭と目の中がじわじわと
ぼんやりとしている割に、足取りはしっかりと玄関に向かっているようだった。
「酔ってない? 足大丈夫?」
平気よ、と答えそうになったけれど一応、その前に確認してみる。前進して、後退してと足の動きを切り替える。順調に動いたので大丈夫と返そうしたところで、丁度よろめいた。
壁に手をついて
「酔ってる? よね?」
「大丈夫。今のは多分、別の理由だから」
その理由を見つめると、理由が察して照れたように
「ごめん」
「謝ることじゃないでしょう」
そこでようやく、軽く息を吐くようにして笑うことができた。
「なんというか……しっかりした返事というわけではないのだけれど」
視界に半分も
「誰かに好きと言われるのは、こんなにも
今分かっていることを正しく伝えようと、あまり働かない頭ががんばった。
飾る余裕もなく、珍しいくらいに素直な感情が
日本語は若干怪しいけれど。
好意は甘く、私を満たそうとする。
だけどその好きを心のどこかで疑うように見つめる自分もいる。
ああ、と額を押さえたくなる。
二度と会いたくないと思った先輩は、こうして
意思ある限り、思い出は不滅だった。
「気をつけて帰ってね」
「大丈夫よ」
「
「本当の大丈夫」
嫌な先輩の思い出を胸に、アパートを出る。これが冬だったら、外の空気に触れて少しは落ち着くのだろうか。でも
強い日差しは力強い手となり、伸びて、私を打ちのめす。
夜のまだ遠い、淡くも黄色い昼間。光とお酒がぶつかり合って、肌がちりちりとする。少し休んでから動いて、また動いてと不審な行進で階段に向かう。階段の段差を一つ下りると、ずんと来る。
重力が、輪郭を伴って私の世界に入り込んでくる。
地面に降り立ったあたりで自分の身に降りかかりつつあるものを恥じる。酔いが回るというやつなのだろうか。ぐるぐるしている。大体の感覚が渦を巻く。一番厄介なのは足が地面を巻き込んでぐるぐる巻きになっているような錯覚だ。気を抜くと町が水平に回り出す。
誕生日だからと調子に乗った結果が日も明るい内からの酔っぱらいである。
「
アパートを見上げる。少し休んでからあの部屋を出るべきだったかもしれない。
お互い、忘れることのできない誕生日になってしまいそうだった。
その
私はどこまでも真面目で、でもそこはそれなりに美徳なのではないかと思っている。
えらい。
自分で自分を
へらへら、と笑いそうになる。
そこまで来て、あ、酔っているのねとようやく思った。
お酒は当分飲まないでいようと心に誓った。まるで自分が別人になったみたいだ。
たったあれだけの液体が混入しただけで、私という人間が塗り替わる。
恐るべきはお酒の浸食力。
なぜ
固まるように重くなり始めている頭の奥で、警告と悲鳴が上がる。
……ああでも、これはあれに似ている。
そう、あれ。
難しいことは今の私の頭に入らない。
分かるのは、
そう、私は知っている。
どれだけ広く透明な海も、一滴垂らすだけですべてがその色に染まる。
それが恋だと知っていた。