どうしてユノが教授との不倫のことなど俺に話したのか、知りたくもないし知る必要も無かった。

「ねえ……何か言ってよ、櫂」

 縁側に座り込んだユノが、手にしたタオルを指で弄びながら小さく口を尖らせる。

 俺は縁側から裸足のまま庭に降り、ユノの方を振り返りもせずにポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出す。火をつけると、湿気た夏の風に乗って白い煙が拡散していく。


 俺とユノは同い年の遠縁で、子供時代からの友人でもあった。大学の夏季休暇になって唐突に俺の家にやってきたかと思えば、聞かされたのが教授との不倫話だった。幼馴染から突然そんな話を聞かされた俺の立場にもなってくれ、と本当は叫びたかった。

 背中にじっとりとかいた汗が、いつまでも火照った体に纏わりつく。庭先の水道管の蛇口を捻り金タライに水を張る俺を見て、ユノは言う。

「でも最近は……あの人とは会ってないから」

 ユノは縁側に放り出していた俺のジッポライターを弄り始める。俺はすぐにそれを奪い取るように取り上げ、自分のポケットに仕舞う。

「勝手に触るな」

「怖い顔しないでよ」

 足を崩して縁側に座るユノが、拗ねたように俯く。その太股の間から白い下着が覗いているのに気付き、俺は視線を逸らしてタライに両手を浸した。

 膝を抱えたユノの表情は、どことなく幼い頃の面影を残している。ただあの頃と違うのは、ユノが甘酸っぱいシトラス系の香水を付けていることくらいだろうか。


 俺はちっと舌打ちして、煙草を排水溝に投げ捨てた。残り火がジュッという小さな音を立てて消える。ばしゃばしゃと無造作にタライの水で顔を洗っていると、夏の陽光の粒子がチカチカと水面に反射していく。Tシャツの裾で濡れた顔を拭う俺に、ユノは手にしたタオルを差し出す。

「あの人、自分のことで精一杯なのよ」

「知らねえよ」

 ユノがさっきから不倫相手のことを『あの人』と呼ぶのが、無性に苛立たしかった。


 濡れたタオルの合間から、庭の吊り鉢に植えられたウツボカズラが見える。琥珀と緋色の混じった小さな花が、つるの先端から穂状に長く伸びていた。俺は子供の頃から、この食虫植物の捕虫袋に虫が捕まっているか覗き込むのがちょっとした楽しみなのだが、今は見る気にならなかった。

 だが葉っぱの先からヒゲ状に伸びた緑色の壺が大きく膨らんでいる所を見ると、虫を食ってまだ元気に生きているようだ。


 俺は金タライの水を乱雑に庭に撒きながら、ユノに告げる。

「でも良かったじゃねえか。卒業したら結婚しようって言われてるんだろ? すじさえ通せば人に後ろ指をさされることもない」

「……櫂は、本当にそれで良いと思ってるの?」

 ユノは少し吊り気味の瞳で真っ直ぐに俺を見つめる。そのユノの視線に耐え切れず、俺は斜めに体勢を変えて縁側に胡坐をかく。

「俺には関係ない話だ。お前の好きにすればいい」

「何でそんな……ひどいこと言うの?」

 ユノは突然俺の腕を力任せに掴む。その手は小さく震えていた。

「離せよ」

 俺は立ち上がり、ユノの手を乱雑に振り払う。剥き出しになった神経に直に触られた気がした。シニカルで投げやりな言葉以外、俺には何も思いつかなかった。なら怒りに任せてビッチだ恥知らずだとユノを罵れば良いのか? ちゃぶ台のひとつもひっくり返せば、こんなファックな世界もひっくり返ってくれるのか?


「櫂……待って!」

 庭に向かおうとする俺の腕を再びユノが掴む。俺は再びそれを払い除ける。それでもユノは必死にしがみついてきて、それでも振り払おうとする俺。ついには、もつれ合うように二人とも庭に倒れ込んだ。夏の陽光にさらされた土と雑草の乾いた匂いが鼻腔をつく。

 俺はユノの体に覆い被さり、いつの間にか組み伏せるようにユノの肩を押さえつけていた。ユノの髪留めが外れ、栗色の髪が地面に広がる。こんな格好でユノにまたがったのは、子供の頃に喧嘩した時以来だ。

 ユノは何も抵抗しなかった。ただ組み伏せられたまま、どこか寂しそうな瞳で俺のことを見つめていた。

「昔から、櫂って全然変わってないね。人の気持ちなんてどうでも良いんだから」

 ユノのTシャツの胸元から、白いブラジャーが見える。俺が慌てて肩を掴んでいた手を離すと、体を起こしたユノが突然抱きついてくる。


 甘酸っぱい香水の匂い。柔らかい肌の感触。俺の頬をさらさらと流れていく髪。ユノは俺の背中に手を回したまま、そっと告げる。

「櫂……どうしてとめてくれないの? ウツボカズラに囚われた虫を、どうして見ようともしないの?」

「……」

「ねえ、ウツボカズラの花言葉って知ってる?」

「……いや」

 ユノは静かに体を離し、上目遣いに俺を見つめてくる。

「『からみつく視線』よ」

 山から吹き降ろす風が、緋色に連なったウツボカズラの花弁を小さく揺らす。重力に引かれたように抱き合う俺とユノの姿を、眩い陽射しがいつまでも照らし続けていた。