1 助走


 部活が終わると急いで着替え、バッグを自転車の前カゴに放り込む。

「お先!」

「あ、奈々緒……」

 部室の入口で美鈴に呼び止められたが、「あとでメール!」とだけ言い残し、私は前傾姿勢のまま短いスカートを靡かせて自転車を走らせた。

「間に合う……かな?」

 直角ホイルスピンで方向転換し、ペダルを漕ぐスピードをさらに速めて校門を駆け抜ける。オレンジ色の夕陽が灰色に変わっていく中、時計の針は既に六時を指していた。

 傾いた夕陽を背に受け、少し肌寒くなった秋の風を切る。猛スピードで駆け抜ける私の自転車を、公園で遊んでいた小学生達が目を丸くしてぽかんと見つめていた。


 目標地点は繁華街にある、父の愛人のマンション。父が残業や出張と偽っては頻繁にこのマンションに出入りしていることを、私はようやく突き止めたんだ。

 建物の手前で、前輪に急ブレーキをかけて百八十度ジャックナイフターンを決める。

 宙に浮いたまま弧を描く後輪から砂埃が舞う。


 電柱の陰に潜んでその時を待つ。しばらくすると、一人の中年男が若い女と腕を組んで歩いてくる。

「……来た」

 歩道の二十メートルほど先。

 マンションに入ろうとしている人影は、間違いなく父と愛人だった。

「見つけたよ……」

 二人に向かって、私は再び自転車を漕ぎだした。



2 疾走


 次第に自転車のスピードを上げる。

 私は腰を上げて前傾姿勢になり、自転車を左右に揺らしながら二人に近づいていく。ひゅんひゅんという風の音だけが、耳の奥にこだまする。

 スピードが最速になった時点でペダルから足を離し、ブレーキをかけずに自転車から飛び降りた。前回り受け身をした後、そのまま身を低くして猛然とダッシュする。

「うわっ!」

 突如無人のまま突入してきた自転車を避け、二人は身を離す。

 私は自転車でつけた勢いのまま超低空姿勢で一気に父に駆け寄ると、みぞおちに渾身の正拳突きを入れた。

「ぐはっ!」

 目玉を飛び出させて大きく口を開けた父は、もんどりうって倒れる。肋骨三本を砕いた感触が拳から伝わってきた。

「ひ、ひいっ!」

 腰を抜かした若い愛人に、振り返りざま後ろ回し蹴りを見舞う。女の髪の毛を掠め、鈍い轟音とともに私の右足が後ろの電柱にめり込む。ヒビの入った電柱が傾いてちぎれた電線が縄跳びのようにしなり、とまっていたカラス達が一斉に飛び立つ。


 父の愛人は、派手なミニスカートを広げもっと派手な下着を晒したまま白目を剥いていた。

 私は気絶した女を無視して、うずくまる父の元に近寄る。悶絶している父の胸倉を掴み、頭上高くまで持ち上げた。

「あれえ。父さん、こんな所で何してるのォ?」

「ぐ……うう。な、奈々緒」

「だめだよォ。仕事終わったら寄り道せずに帰らなきゃ」

「わ、悪かった、悪かった……」

 涎と涙にまみれた父をそっと地上に降ろし、スーツの埃を払ってやる。

「お母さんが、待ってるからね」

 私は口の両端を上げて満面の笑みを見せる。

 父は青ざめたまま、引きつった笑みを返す。



3 逃走


 周囲の人だかりとともに、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。私は小さく舌打ちして倒れた自転車を起こすが、壁に激突した為にフレームが完全に曲がっていた。

「ふうむ。少し遅くなるって、お母さんに伝えといて」

「な、奈々緒!?

 父の言葉を最後まで聞くことなく、私は道路に飛び出す。そして通りかかったバイクのタンデムシートに身を翻して飛び乗る。サイドミラーに、茫然と立ち竦む父の姿が映る。

「……へっ!?

 走行している最中に後ろに飛び乗られたバイクの男が、素っ頓狂な声を出す。

 男が振り返る前に、私はその首にチョークスリーパーをかけた。

「ぐへっ!」

「はい、アクセルはそのままね」

 腕を回して男の首をぐいぐいと絞め上げながら、ヘルメット越しに男の耳元に囁きかける。

「ぐぐぐるじい……」

「パトカー追いかけてくるから、振り切るわよ」

「ぞ、ぞんなあ……」

「可憐な女子高生が後ろに乗ってあげるんだから、ありがたく思いなさい」

「い、息がでぎない……」

「苦しいとか息ができないとか、ちょっとときめきすぎよ」

 夕闇の迫る繁華街を、男の首を絞めたまま時速百二十キロでバイクを疾走させる。



4 迷走


「が、がんべんじでぐれ……じ、じぬ……」

「だぁめ♪」

 バイクの男が気を失いそうになるたびに、首をぐいぐいを締め上げる。追いかけてくるサイレンの音は、さらに数を増している。

「ちぇっ。この辺かな」

 私は舌を鳴らすと、ハンドルを握る男を押しのけて横から身を乗り出す。

「ブレーキってこれ?」

「あ、危ないって!」

 雑技団のように半身になって、後ろからブレーキを引く。

 ギャギャギャギャギャギャギャッ!

 スライドさせて停まったタイヤが焼け、黒煙が上がる。

 そこは高層ビルの立ち並ぶオフィス街だった。

「助かっちゃった♪ ありがとう」

 男を後ろからぎゅっと抱きしめ、私はバイクを降りる。

 ふらふらとその場に座り込むヘルメットの男の顔を、最後まで見ることはなかった。


 スキップを踏みながら、とあるオフィスビルに入る。

 フロアーには警備員と受付嬢が居た。突然自動ドアを開けて入ってきた制服姿の私を、二人はきょとんとした表情で見つめる。

「お仕事、ごくろうさまでーす♪」

 私は屈託のない笑みを浮かべながら、二人に近付いていく。

「君は……社員の家族かなにかかな?」

 笑みを返してきた警備員の背後に私はすかさず回り込むと、失神する程度の力加減で頚椎に手刀を降ろす。あまり強くやり過ぎると、首がへし折れるどころか千切れてしまう。

 端整な顔立ちをした受付嬢は、吊り天井固め――通称ロメロスペシャルでメロメロに昇天させた。


 未知なる世界への扉をこじ開けられて恍惚の表情を浮かべている受付嬢を尻目に、私は一人でダンスステップを踏みながらエレベーターに乗り込む。特にどの階でも良かったが、とりあえず最上階である二十階のボタンを押した。

 チン、と到着を知らせる能天気な音が箱の中に響く。エレベーターを降りると、通路を挟んで幾つかの部屋が並んでいた。

「……ふむ」

 私は一番近くの部屋のドアに思い切り前蹴りを叩き込む。扉の吹き飛んだ室内は資料室だったらしく、残念ながら誰も居なかった。

 きょろきょろと辺りを見渡すと、通路の一番奥の『会議室』と書かれたプレートの部屋から三、四人の声が漏れていた。

「こんばんは~♪」

 会議室の扉を開けると、私は室内に居る人数を〇・〇五秒で確認する。

 男八人、女二人。

「な、何だ君はっ!?

 ずかずかと中に入ると、一番扉近くに居た若手社員らしき男が立ち上がって私の肩を掴む。

「今は会議中なんだ。そもそも君はいったいなん……」

 言葉を最後まで発することなく、若手社員は頭から天井を突き破っていた。

「な、なっ! で、出ていきなさ……」

 その隣に居た中年社員を片手で掴んで通路まで運び、エレベーターの中にぶん投げる。

「うわっ!」「嘘っ!」「なんでっ!」「君っ!」「あへっ!」

 私は扉に近い人間から破壊していく。

 破壊といっても、本当に死んでしまわないようにもちろん手加減はした。彼らにだって幾許かの存在価値があるのだから。


 会議室の一番奥に居た社長らしい風体の男の片脚を取り、ドラゴンスクリューを掛ける。

「げへっ!」

 膝を粉砕。

「き、貴様は……いったい?」

 初老の男は、うずくまったまま訊ねてくる。

「私? 女子高生ですけど♪」

「ど、どうしてこんな狼藉を働くんだ?」

「え? 私はそこの窓から出たいだけ。邪魔しなければ怪我しなかったのに」

 窓の外を見て告げると、私は椅子を振り上げて窓ガラスを叩き割る。もうすっかり外は暗くなっていた。下を覗き込むと、たくさんのパトカーがビルを取り囲んでいた。

「はあ……お腹すいたなあ」

 窓枠に足をかける。男が膝を押さえたまま、慌てて手を伸ばしてくる。

「お……おいっ! ここは二十階だぞっ!」

「でわでわ、お邪魔しました~」

 男に軽く手を振って、私はそこから一気に飛び降りた。



5 暴走


 星一つ輝かない夜の闇の中、商業ビルの色鮮やかなネオンが視界の端を高速で過ぎ去っていく。


 私は衝撃波とともに地面に着地した。アスファルトの地面は半径五メートルほど陥没したものの、私はまったくの無傷だった。

 その瞬間、何台ものパトカーのヘッドライトが一斉に私を照らす。あまりの眩しさに手で光を遮っていると、パトカーの拡声器から警官が呼びかけてくる。

「速やかに投降しなさい。繰り返します。犯人は速やかに投降しなさい」

 銃を構えた何十人もの警察官が、私を取り囲んでいた。


「……犯人? 私のこと?」

「武器を捨てて、犯人は投降しなさい」

 私はたっぷり一・五秒かけてぐるりと辺りを見渡す。現状把握。盾を構えた警官が十八人、パトカーの中に五人、後方指揮三人。

「速やかに投降……」

 繰り返される単調な警告を無視して、私は陥没したアスファルトを蹴りだす。

 警官たちが銃のトリガーを引いて弾丸を発射する前に、私は彼らの腕を粉砕できる。この警官隊を突破するのに、たぶん三十秒かからないだろう。


 奇跡とは、起こりえないことが起こる時にだけ使われるものだ。私の存在自体が奇跡なのか、それとも私を止めることの出来る何者かが現れた時を奇跡と呼ぶのだろうか。

 少なくとも、「もはやこれまで」と覚悟を決めるのは、きっと私ではなく世界の方なのだ。


 くすくすと笑いながら、私は警官隊に突入する。


 その時、ふと思い出す。

 あ、そうだ。

 美鈴にメールしなくちゃ。