①
「……やったか?」
十数人。
塞がった縦穴の下、土囊の後ろに残骸のように砕けたそれを取り囲む。
冗談のように巨大な埴輪は、ヒビだらけ。腹の部分は盛大に砕け散り、破片が散乱し……もう、ピクリとも動かない。
「ああ。見ろ。土手っ腹をぶち抜いた」
「聞いてはいたが想像以上の防御力だったな……ロケットランチャー三本か」
一人が見上げる。
「……しかし残りの連中をここから追うのは不可能だな」
「一緒にいた吸血鬼は、結局やったのか?」
「光属性魔法の直撃だ。闇の眷属では生きてはいられ……」
──敵も味方も吸血鬼というものを理解せん。呆れた無知よな。
「!?」
「声……!? どこから」
「ここにおる」
音もなく、すぐ目の前に立っていた。
「不死という言葉を知らんのか?」
「撃てぇっ!!」
銃声と共に、魔法と共に、ずぶずぶと肉が裂け、骨が砕け、血が飛び散る。飛んだ端から霧となり、赤黒い肉体と、純白の霧との、いわく言い難い、おぞましい斑の継ぎ接ぎができあがる。
動かずとも、その異様だけで彼らは恐れ戦いた。
「……不死……、だと……!? 馬鹿な、そんなもの、本当にあるわけが……!」
「……ハニ悪。奴らは先へ行かせたぞ。タヌキ寝入りもそのくらいにしたらどうだ」
「……ふっ……全部お見通し……ってわけかい……」
壊れたはずの、微動だにせぬ埴輪から聞こえた声に、彼らはいよいよ距離を置いた。
「同じ闇の従僕よな。貴様は何なのだ? 悪魔か?」
「……西洋風に言やぁ……」
ぬらり。
それは笑った。
「いや……さぁて、なぁ……」
砕けた埴輪の片腹から、はらわたのような姿の、ただし真っ黒い何かがドロドロと溢れ出してくる。
「イザナギの旦那ぁ追っかけて……はぐれはぐれて……一人、この世に迷い出ちまって……気付いたときには、居場所なんかありゃしねえ……」
ズルズルと溢れ出した真っ黒いものが、ギロリと真っ赤な目を剝き出す。
「……いつの頃からか……こんな大層な鎧を着けなきゃ、形も保てなくなっちまってよ……」
「なるほど、ただの鎧にしては無骨すぎると思っていたが……イレモノとはな。甲士郎の奴、中の人とはよく言ったものだ」
「なぁに……本当の意味じゃ、気付いちゃいねぇのさ……」
ぐずぐずと蠢いていた真っ黒い何かから、ずるんっ、と触手のように伸びた、手なのかどうかも怪しいものが、全員の足を捕まえる。
「ひっ、ひいっ!? うわああっ!?」
「こんなナリ、嬢ちゃんたちにゃあ……酷だろうからな……夢見が悪くなっちまう……」
撃っても、斬っても、死にはしない。それはそういうものなのだ。目を潰しても、また新しい目が覗く。そうこうするうち足元からそぞろ這い上がり、底なし沼に捕らえられたように、全員の動きを搦め捕る。
「そのまま喰うか?」
「よしてくれ」
ハニ悪は拒絶する。
「……肉ってのはよ。ビーフ百パーセントに限るのさ……。それよりは、あんたの方が腹ぺこだろうと思ってな……」
同じ闇に属する、ヴェロッキアにだけわかる笑みで言う。栄養失調然とした、輸血パックばかりの暮らし。そこへ来て先ほどの光弾。地上に姿を見せたときは、あまりの陽光に消し飛ぶ寸前だった。
「そちらもお見通しだったか。ではありがたく馳走になろう。ついでに傀儡として、そこの塞がった穴を開けさせるか」
「面倒だが……接着剤をさがしてきてもらえると、有り難ぇ……」
「ああ、その程度であれば安い用だ。まあ、少し待っているがよい」
ゆらゆらと、おぼろな姿に牙も露わな笑みを湛え、近付いていく。
「く、来るな! 来るなぁあああ!!」
「見ての通り、もう姿も戻せんほどに力を失ってしまったのでな……!」
暗い通路のどこまでもを、哀れな悲鳴が響き渡る。
◆
「そんなところに隠れたって、ジャバンセンサーには丸見えだぜっ!」
茂みに潜む敵を、センサーでロックオンした正確無比なブラスター光線が撃ち抜いていく。
「調子に乗るなっ!!」
物陰から物陰、暗殺者然とした気配の殺し方で接近したガーベスが、鉤爪の刃を振り下ろす。
「くっ!!」
ひどい音を立て、ヘルメットが砕け散り、甲士郎の額から血が流れる。
「死ねぇ!!」
「させるものですかっ!!」
下から思いきり振り上げるような美奈子、岡丸の一撃が、搔っ切ろうとしたガーベスの刃を高々と弾き上げる。
「ぬう!!」
だが両手に刃を嵌めたガーベス、空いた手を美奈子の胴へ差し向ける。
「貴様の相手はこの俺だっ!!」
今度はジャバンソードが弾き返す。
「今っ!!」
アカネが即席の煙幕爆弾を転がし、ガーベスの視界を奪った。それに紛れてレミーナと二人、右から左、敵の布陣へ次々と投げ入れていく。ガーベスをはじめとした切り込み隊の所在がわからなければ、その他の援護はおいそれと魔法や銃弾は撃ち込めない。
「よし、行けっ! ここは俺たちで可能な限り引き付けておく!」
ライリーが叫ぶ。
「ハッハァ! カムダニアでの意趣返しだ……行くぞ野郎ども!!」
そして私兵隊はアルハザンの方へ、ヒデオたちは反対の方向、森の中へ駆け込んでいく。
急斜面を滑り落ちながら、ヒデオは言う。
「ウィル子、聖魔グランプリの要領だ。ナビを」
《了解ですっ!!》
「いたぞ!! 追え!!」
しんがりを受け持った大佐がおぶったグレイのバリアを自前の盾とし、後続へ弾幕を張る。ライリーたちのおかげで、追っ手は少ない。
「しつっこい! まだまだいくよーっ!!」
今度は煙幕弾ではなく、本物の爆弾を放り上げるアカネ。轟音を奏で、地滑りを起こす。樹木を倒壊させ、行く手を遮る。ひとまず敵の視界から逃げ切れればいい。
《このまま真っ直ぐ進んでください! 小川に出るはずです!》
だが数分もしないうち。
「伏せろっ!!」
大佐の声で一斉に地面に飛び込む。銃声。前方に新たな影。追っ手ではない。時間差で来た第二波に鉢合わせたのだ。しかしこのまま足を止めれば、ガーベス隊との挟み撃ちは目に見えている。
真っ先に立ち、木の幹に隠れたのはレミーナだった。誰かが聞くよりも早く言う。
「みなさん、私より前に出ないで! 耳を塞いでいてください……!」
問答している暇はない。一度深呼吸した彼女が意を決したように身を翻し、面と向かって立ちはだかる。
「エーゲの蒼に、沈みなさいっ──!!」
声として聞こえたのはそこまでだった。
レミーナが、ありったけの声量を振り絞る。美しい声は、どこまでも高く、高く。やがて小さく。可聴域を超え、瞬間、耳を塞ぐ音さえも消えた。
歌声の魔女が一切の音を支配し、その全てを衝撃波へと変換する。伏せた腹に、爆発で突き上げられるようなショックが伝わってくる。
目を開ければ、行く手を遮っていた全員が吹き飛び、息はあるが目を回し、耳や鼻腔から血を流して身悶えていた。
静かで、美しく、恐ろしい攻撃だった。
だが。
「……っこん! こん、こんこんっ! けほっ!」
「大丈夫ですか!? レミーナさん、しっかり……!」
ひどい咳を繰り返すのを、慌て背をさすってやる美奈子。
無理もない話だった。平常ならばどうということもなかったのかも知れないが、毎日毎日、あの汚れた空気の中で浄化の歌を歌っていたのだ。ただでさえ良くないコンディションをおし、喉を痛めてしまったのだろう。しかも悪いことには、敵の正面に立った瞬間に銃弾を受けたらしく、服には血が滲んでいた。
「大、丈夫っ……こんっ! セイレーンなので……けほ、こほん! 私に構わず、皆さん先にっ……」
「そういうわけには、いかないだろう……!」
武装を収めた甲士郎が、歌姫を文字通りのお姫様だっこ。大佐が首肯。
「その通りだ。誰か一人でも捕らえれば、奴らは再びそれを人質に我々を強請ってくるだろう……それだけは避けねばならん」
判断は一瞬で下された。
「二手に分かれるぞ。私は足の鈍い甲士郎とレミーナを護衛しながら森を抜ける。健常な君たちは最速で都市へ向かえ」
「ですけど、甲士郎さんも怪我をしているのに大佐さんだけでは……!?」
老兵は、案ずる美奈子へシニカルな笑みを浮かべる。
「ふふっ、私を誰だと思っているのかね? こうした密林での戦闘は、私のもっとも得意とするところでね」
ヒデオの目には、とてもそんなようには見えなかった。恐らくは、得意なのではない。
大好きなのだ。
「だったら私も大佐の方に付いていくわ! トラップに、爆薬はお決まりでしょ?」
ウインク一つ。
「デハ 私モ ヨロシイデショウカ。最速ト言ワレルト 皆サンホド身長ノナイ 私ノ足デハ 足手マトイト ナルデショウカラ……」
そうして自然と布陣が決まる。
戦力はあるが移動力が劣る大佐たちは、敵の目を引き付け魔殺商会の増援が来るまで持ちこたえる。残る身軽なヒデオと美奈子が、全速で都市へ。
ガーベスらのあの様子では、アーチェスに降伏させなければ引き下がりはしまい。作業は充分に進んだ。だから自分たちはもう用無しなのだ。だから企てが明るみに出るくらいなら、殺害も止む無しとの暴挙に出た。
(そう……)
こっちはアルハザンを、もう充分に追い込んでいる。追い込んだからこそ、温厚な彼らがこれほどの強攻策に出て来ている。勝利は目前のはずだ。ならばそれを確実なものとするためには? この下らない茶番劇を終わらせ、完膚無きまでの止めを刺すためには?
そんなヒデオを、大佐が強い瞳で見据えた。
「……行きたまえ、ヒデオ君。かつての我々をそうしたように、その戦士の眼光で全てを吞み込み、君の交渉術で全てを明かし、アーチェスを屈服させたまえ。結局のところ、彼の権謀術数を打ち破ることができたのは……この都市では、君だけなのだから」
そうなのだろうか。
(……否)
そうでなければならない。その未来を託してくれる、この仲間たちのためにも。こんなに傷だらけになっても、目標へと向かう希望に満ちた笑顔だけは忘れない、強い仲間たちを裏切らないためにも。
追っ手の声が、すぐ聞こえるところにまで迫っている。レミーナの攻撃は強力無比だったが、あの直下型地震のような震動……向こうも異状を察したのに違いない。
美奈子が言った。
「皆さん、ご無事で!」
〝ご武運をお祈りするでござる!〟
《行きましょう、マスター!》
首肯し、ヒデオは走り出す。
②
そんな二人の後ろ姿を見送り……。
「さて」
大佐は吞気に、葉巻を一本咥えてみせた。それが最後の一本だった。
「……実際のところ、諸君はどうなのかね」
個々が魔物ほどではないとは言え、やはり数が多すぎた。強大なたかが数匹の魔物同様に、規律と連携の取れた大勢もやはり脅威であった。
「背中の制御系に一発食らったらしい。今じゃブレードも起動しないし、ジャバンスーツもただのプロテクターだ」
と、甲士郎が言う。
「えねるぎー切レガ 間近デス。 ばりあーモ モッテアト一、二分デショウカ」
と、グレイが言う。
「朝から錬成しまくりで、もうへとへと~……気を抜くと倒れそうだけど、ダーリンやライバルの美奈子さんにだらしないとこ、見せたくなかったし」
と、アカネが言い。
「こんっ」
レミーナが、最後に痛ましい咳をする。
「そう言う大佐は……、けほん!」
「私かね? ふっふ、正直これ以上走れる気がしなくってね……どうも、長く戦場を離れ過ぎたようだ」
黒いコンバットブーツ、深い草むらのせいで気付きにくかったが、その足首には銃弾の抉った痕があった。
「それはもう諦めた……と受け取っていいのだな?」
ガーベスだった。部下たちもまた、木立の隙間からぞろぞろと姿を現す。すでに取り囲まれていた。そしてその一角には、ライリーをはじめとした私兵隊が捕らえられている。
「……生きているのかね。彼らは」
「死んでいては人質としての意味があるまい。全員無事だ。だがこちらの要求を断るたびに、一人ずつ殺していく」
「是非もない申し出だな……そういうことなら……」
大佐がその場に、軽機関銃を落とそうとした矢先。
「しおらしいじゃねえか。鬼司令、ジョージ・ブラッドフィールドの言葉とは到底思えねえぜ」
銃声一発。それを鉤爪で弾き、ガーベスが叫ぶ。
「貴様っ、リュータ・サリンジャー!」
「よう、ガーベス。やっと本性現したな」
「抜かせ……手負いより先に貴様を片付けてやる!!」
ガーベスが躍りかかった。
「一度負けてるってのに懲りねえ野郎だ!!」
日本刀を抜き、リュータが受ける。が、予想外の威力に手指、関節が軋む。
「くっ……!?」
「はん、あれで勝ったつもりとはお笑いぐさだな! ならば俺の攻撃、全て捌ききってみせるがいい!!」
両腕を無尽蔵に振り回すガーベスの大連撃。めったやたらのように見えて、息つく暇さえ与えぬ猛攻であった。防戦一方に後退を続けるリュータ。防ぎ切れぬ手足に、瞬く間に裂傷が走り始める。
「ふんっ!」
「なにっ!?」
がちん、と爪が絡まった。鉤爪に得物が絡められ、強靭な膂力に押し引きもままならない。ガーベスは残る腕を振りかざし。
「所詮、その程度ということだ! 死ねぃっ……!!」
そうして注意が集まった隙、ライリーたちの捕らえられた背後に、音もなく、二人の人影が現れる。
転移魔法。姿も声もそっくりな、双子のメイドが声高に唱える。
「「ウェイバー! フロンタッ!」」
合唱する声はそのまま衝撃波と化し、人質を取った者たちを打ち払い、解放する。
「っく……貴様ら……裏切り者の姉妹か!?」
「あーら。別に裏切ってないわよね、ソルカ?」
「ええ。今は従うべきお方に従っているだけだものね、ノルカ?」
「従う、べき……?」
瞬間。
魔人である者たちは一様に同じ方角を向き、震え上がった。リュータの背後から、何の感慨もなく歩いてくる涼やかな女一人。手には一冊の分厚い魔導書。見渡し、一度瞬き。
「……この程度なら、私が来るまでもなかったわね」
「って、おいおいおい、ちょっと待てよエルシア! ここまで来てこの状況見て帰るのかよ!?」
「そうよ。これなら決勝戦の方が面白そうだもの」
姉妹の方を見て。
「送って」
「「いえ、ですけど……」」
この場合、姉妹の方がよほどに場をわきまえていた。そしてガーベスが、自らを奮い立たせるように激昂する。
「アーチェス様の大望のため、我らが夢のため……この場を見られた以上、誰であろうと帰すわけにはいかんのだァ!!」
まさに疾風だった。黒い弾丸のように駆け出し、姿を搔き消す。視覚の攪乱ではない。格闘戦用の短距離転移魔法。現れた先は上方、常人であれば反射不能の速度、故に対処不能の角度。
「死っ……!!」
そしてエルシアは常人ではなかった。
「そう」
降ってきたガーベスの顔面を片手で捕まえ。
「いい熱ね。気に入ったわ」
ズドォンッ
!!
全身を使って足元に叩き付けた。他者の目には、トマトや何かを叩き潰すような……そういう勢いに見えた。あとはただ、ちらっ、と視線を向けただけで。何を言うまでもなく、アルハザンの戦闘員は武装を解除する。
「……殺して、ねえよな?」
「前に死ななかったから大丈夫よ」
「? まあ、いいけどよ……大佐、そっちは平気か!?」
顔から髭を一撫で。人心地ついたように溜息を吐く。
「……相変わらずの無鉄砲だな、リュータ。あれで陽動のつもりか? 一歩間違えれば死んでいたのはお前の方だぞ」
「へっ……もうあんたの部下じゃないんでな。好き勝手やらせてもらってるさ」
言い合い、ガッチリと手を交わす。
「……見よ、ハニ悪。まだあんなところにいるではないか」
「そいつぁ……よかったのさ……」
マントを被ったヴェロッキアと、継ぎ接ぎのハニ悪が、アーだのウーだの言うアルハザン部隊を連れて合流する。さらに遅れ、別方向から魔殺商会の応援が駆け付けた。
「あー、もう終わってるっすー。だーから急ごうって言ったっすよぅ」
「だってだってほらほらやっぱり嫌な予感大的中してエルシア様いるし! ワタシ帰る~っ!!」
「ふん、構わん。どうせ目標は鉱山ではないか」
「まあ待つの。大義名分がないと、さすがに後が怖いの」
賑やかさは、そのまま活気に置き換わった。
「……彼はいないのね」
ぽつり、一人つまらなそうなエルシアが言う。
「彼? ん? 大佐、そういやヒデオは……?」
「っ! しまった、裏目に出たか……!?」
いたはずの美奈子とヒデオがいなかったにもかかわらず、ガーベスがそれには触れず交渉を持ちかけてきたことを考えれば……その二人に関しては、すでに手が打たれたということだ。他にまだ別働隊がいるとすれば、二人が危ない。
◆
そして大佐の予感は、半ば現実となっていた。
「運がなかったよな」
両手に古めかしいリボルバー拳銃を構えるザジ。幸い部下は持たず一人であったが、戦闘技能に秀でた幹部クラス。状況は、エリーゼに追われたあの時と一緒だった。そびえ立つセンタービル。その奥にあるスタジアム。街並みは、もうそこに見えている。
「諦めてください! もう、あなたたちの負けです!」
岡丸を油断無く構え、美奈子が叫ぶ。ビルの上階に捕らえられていた人質は解放されている。企ては、魔殺商会にもエリーゼ興業にも露見している。
「そうは言ってもさ。オヤジはまだ諦めちゃいないんだ。だったらオレらが先に、諦めるわけにはいかないよ」
退く気はない。無気力な表情だから、本気かどうかの区別は付きにくいが……アーチェスを慕い、信頼する心は本物なのだ。
「……アーチェスは。どこに」
ヒデオの問いかけに、ザジは小さく顎をしゃくる。
「あそこにいるさ。スタジアムに。けど行ってどうするんだい」
「やめさせる」
「何をだい? 言っておくけどさ。もうあんたたちの手を借りる必要はないんだよ。今まで頑張って貰った分で充分さ」
言い換えれば、向こうはまだその目を持っていると言うことだ。だからこちらだって諦めるわけにはいかない。だからこそ、やめさせなければ。その何かを。
「あんたたちこそ、何をそんなに必死になるんだい。口を封じるだけならさっさと殺せばいいだけなのに、オレはまだそうしていない。オヤジが優しいからさ。邪神なんて物騒な響きだけでマジになってるのかい? 世界は滅びやしないよ。オヤジがそんなことするはずがないだろう。今よりも世界が良くなるとしても、あんたたちはそうやって邪魔をするのかい?」
「……それでは、なぜ。君と。ミッシェルしか、配給に来なかったのか」
ヒデオの発したなんの脈略もない言葉。だがザジの無表情に、そのとき初めて動揺の色が浮かんだ。
「なぜ。君だけが。アラームをセットしてまで、滞在時間に気を配ったのか。君は……、彼女のように、具合は悪くならなかったのか」
「……あんた一体……、どこまで知ってやがる………!」
やはり。核心はこっちなのだ。
人知れず強制労働させ、邪神を復活させようとしていたこと。それ以上に隠しておきたい事実があるのだ。
「……まあ、いいか……美奈子さんの顔を見る分には、気付いたのはあんただけ……いや、あんた自身まだはっきりと確証を持っていない。だからまだ誰にも話せていない。あんたを殺せば、アウトだ。そうだろう」
「……」
「けど、やっぱオヤジは正しいと思うんだよオレは! アネゴにだって話しちゃいないことさ! オヤジの背負ったそんな覚悟が! 何不自由ない世界に育った、あんたらなんかにわかってたまるかよ……!!」
美奈子がその射線を遮るように立つ。
「……相手は一人、ここは本官が抑えます! ヒデオさんは先に行ってください!」
「マジかよ。はっ、彼女放って野郎一人で逃げる気かい? 川村ヒデオ。最低だな」
だが、あまりに安い挑発だった。
ヒデオは静かに首肯する。
「ああ、そうとも」
「なに……?」
一人では何もできない、最低のクズ野郎。そんなことくらい、この都市へ来る以前から知っていた。
囁きかける。
「ウィル子」
《……はい、行けます!》
迷わずダッシュした。スタジアムのある方へ。
「馬鹿がっ、撃たせやがって!!」
舌打ち半分、ザジもまた躊躇無くヒデオの背中へ引き金を引く。二発、三発。だが手応えがない。弾かれる。瞬間的に現れたガラス状の板に防がれる。
「っ……! おい、冗談だろっ……!? まさかウィル子のやつ、生きて……!」
それが隙!
「はあっ!!」
一気に間合いを詰めた美奈子が、大上段からの、最大限の遠心力と体重を乗せた一撃で、ザジの手にある拳銃を叩き落とす。
ザジは舌打ちがてらもう片手、振り返りざまに引き金を引く。弾丸は、美奈子の髪を数本散らすのみ。すでに懐、美奈子は素手で拳銃の弾倉部分を捕まえる。
「っく!?」
回らない。リボルバーの所以たる弾倉が回転しなければ、次弾は発射されない。無理に撃鉄を上げれば金具が折れてしまうことは、愛用し続けたザジ自身が知っている。だから先ほど空になった手でオートマチックを抜き、そのまま歯でスライドを引ききった。
「岡丸っ!!」
〝承知っ!!〟
美奈子は十手を手放し、そのガバメントを膝からのバネを使って掌底にて突き上げる。暴発と同時、伸びきった腕の先に再び岡丸は収まり、
「やぁああっ!!」
気合い一閃、電光石火の一撃を眉間に振り抜く。
「くっ……そぉおおおっ……!」
よろめき、力が抜けたところでリボルバーを取り上げ、返す岡丸で今度はオートマチック拳銃を弾き飛ばす。これで都合三丁を無力化。最後のオートマチックを抜くため懐へ行こうとした腕を捕らえ、引き抜き、潜り込む。
「きぇあああああああああっ!!」
一本背負いで、その背を固い地面に叩き落とす!
「がっ、はっ……!」
「制圧っ!!」
最後、仰向けの無防備な面へ岡丸による痛烈な一打。それでザジはいよいよ気を失った。
「……はあっ、はあ、はあ……」
今ごろになって、どっと冷や汗が噴き出してくる。
勝てたのだ。拳銃相手に。
ヒデオが駆け出したからこそ、勝機があった。あそこでヒデオが恥を忍び、迷わず走り出してくれたからこそ、予想外の行動に気を取られたザジの隙を衝くことができた。
〝お見事でござった、美奈子殿。拙者もたっぷりと霊力を乗せてやったゆえ、これでしばらくは動けぬでござろう〟
「はあっ……。皆さんあんなに頑張ってるのに、私だけ何もしないわけにはいかないもの」
念を入れて、全ての拳銃の弾倉、薬室から弾丸を抜いていく。射撃の成績は良くないので、拝借したところで生兵法だ。
〝その肝心のいいところを、ヒデオ殿に見せられなかったのが残念至極……〟
「うっさい」
額の汗を拭った。
「まだ終わったわけじゃないんだから、気を抜かないの! さあ、ヒデオさんを追いかけるわよ!」
③
《森の中を突っ切っている間に、魔殺商会の車両とは行き違ったようです……》
「はぁ、はぁ、構いや、しない」
二本の足は健常そのもの。クロスフラッグスでの逃避行に比べれば、楽なものだった。
中央区のビル群を駆け抜ける。
街中は見事に無人だった。みんなみんな、決勝戦に見入っているのだろうか。木立のようなビルの隙間から見えるあのスタジアムの中では、どんな戦いが行われてきたのだろうか。自分たちがあの場に立つことができたなら……どんな戦いを繰り広げたのだろうか。
まあ、詮無い話だ。
《しかしマスター、体力が付きましたね……出会ったばかりの頃は、山歩きだけで動けなくなっていたのが》
「アルハザンに、鍛えられた」
もう何キロかは走っているのできついはきついが、走れないほどではない。地下暮らしの一ヶ月、重労働で肺活量も増えたのだろうか。
《そこの小路へ入ってください! スタジアムはすぐです! スタッフ用の出入り口があります!》
道を折れ、走り、そびえ立つようなセンタービルの足元、見上げるような円筒の外壁が見えた。予想していたよりも、もっとずっと大きな会場だった。広場をほとんど埋め尽くすような。
そして辿り着く。
走るまま、蹴破るような勢いでドアを開け、外と比べればまるで薄暗い通路に入る。
「はぁ、はぁ……アーチェスは……」
《えっと、待ってください……さっきまで観客席にいたのですが……》
そのとき、足音が聞こえてきた。革靴特有の、コンクリートを打つ硬質な。散歩するような気楽な足取り。緩いカーブを描く通路の向こうから、人影が現れる。
金の長髪をした、眼鏡をかけたスーツ姿。おどけるような調子は、相変わらずだった。
「これは……まずいところを見られてしまいましたね」
「っ……、アーチェス……」
「驚きましたよ。まさか君が帰ってくるとは。しかも、こんなタイミングで」
手には、美しいグラスを持っていた。複雑な模様が施された、何てことはない器だが……そのあまりに儚げな美しさに、ひどく目を惹かれた。
視線に気付き、アーチェスが軽く掲げてみせる。
「これですか……? 聖魔杯、だそうです。さすがに綺麗ですね」
優勝者へ贈られるための証ではないか。
だが、彼は自分たちと共に、クロスフラッグスで敗退しているはず。
「なぜ……あなたが、それを」
「チカラですよ。史上最高のチカラを秘めた神器。鈴蘭様は決勝となる今日のこの日まで、それ見せてはくれませんでしたが……私は何年か前に情報を得ていました。そのようなものを、聖魔王が神々に言って作らせたと」
キラキラ、蛍光灯の明かりでさえも万華鏡を覗くように美しく乱反射する。
「私は目的のために、三つのプランを立てました。一つめ……正攻法で順当に勝ち上がり、聖魔王となって正当にこの器を得ること。まあそれは他でもない、君によって妨げられてしまったわけですが……」
恨みがましくでもなく、彼は飄々と続ける。
「二つめ……それが失敗したとき、あるいはこの器がそのようなものでなかったときのために、地下において邪神復活の準備を進めてきました」
ということは、やはり。
「やはり……、邪神は」
「ええ。実は邪神そのものは目的ではありません。ただの下準備です。この聖魔杯と同程度の威力を発揮するチカラが、そのくらいしか思い当たらない」
「……三つめは」
「一番簡単な方法ですよ。あまりに馬鹿馬鹿しくて、真剣に考え、取り組むまでもないほどに。聖魔杯がそのようなものであり、かつ隙があった場合……こうして、手に入れてしまえばいいんです」
器の縁を爪弾くと、美しい音色が響き渡った。
「申し訳ありませんが、あなた方にお願いした全ては徒労に終わりました。最後の最後に、こうして聖魔杯はその姿を現し……そして、私の目的を達成するに充分なチカラを秘めています」
アーチェスは失笑した。
「君たちがどういうトリックであれほどの連携を取ったのかは、未だにわかりません。しかし鈴蘭様は君たちの救出を最優先したために……その作戦を秘匿し、私たちに不自然さを感じさせないために決勝戦を敢行しました。そしてまたその大会の進行に支障を来さないよう、これを運営本部へ預けざるを得なかった」
「……」
なんて抜け目のない。
ここまでの窮状を知りながら、チャンスは逃さなかったというわけか。
「まったく鈴蘭様もお人が悪い。あまり出し惜しみせず、最初からこれを見せていてくれれば……私は君たちに、命懸けの強制労働をお願いする必要はなかったんですから。そうして敵意を煽るような、余計なリスクを負う必要もなかった。誰も何も知らないうちに始まり、そして終わったはずでした」
「……あなたの。目的は」
──それではこれより大会本部による表彰式、並びに、現聖魔王より次代の聖魔王への聖魔杯授与式へ移らせて頂きます!
壁越しに、レナの声が聞こえてきた。冷たい冷たいコンクリート壁の向こうからさえ、熱気が伝わってくるようだった。
──ですが、その前に。
──皆さんに重要なお知らせがあります。
ヒデオはそんなレナの声に、ぞくっと冷たいものを感じた。表に見せる彼女ではない。あの夜自分を殴打したときと、似たような響きを感じたのだ。
「……長話が過ぎたようですね。行かなければ」
「待っ……」
踏み出そうとしたヒデオを、猛烈なショックが襲う。何の予備動作もない。手をかざす動きが、そのまま魔法に変換されたのだ。ウィル子の反応さえ凌駕する衝撃波に、天地がひっくり返ったような錯覚を覚える。
「あ……、ぐっ……」
「ヒキコモリならヒキコモリらしく、家で大人しくしていれば良かったんです。あなたがこの都市に来なければ、私の計画が乱されることはなかった。レナさんもあんなに傷付くことはなかった。そしてあなたもまた、何一つの苦労もせずに済んだ……違いますか?」
声が遠ざかっていく。足音が遠ざかっていく。ヒデオが手を伸ばす先、アーチェスの背中、見える景色、全てが揺れている。蜃気楼のような向こうへ、彼が消えていく。
「っ……」
また負けたのか。
こんなにも呆気なく。
みんなが命懸けで託してくれたことの、何一つ果たせず。
だったら……やはり来ない方がよかったのか。全部無駄な足搔きで。全部無駄な努力で。あのまま東京のアパートで首でもくくっていれば、みんな幸せだったのか?
《……すたー……! マスター!》
「……」
夢?
いや、半ば夢見心地だっただけだ。数分くらいか。ぼうっとする。
《マスター! 大丈夫ですか、マスター!? しっかり……!》
「っ……。アーチェス、は……」
《今、スタジアムの中央で……でもマスター、体の方は……!》
ウィル子の声が遠いほどの耳鳴り。指先を動かすだけで、全身の骨が砕けたのではないかと思うような痛みが走る。ついさっきまであれほど軽かった足が、まるで他人のもののようだ。
それでもヒデオは、まさに這うような無様で前へと進み始めた。
《マスター……》
元気のない声だった。
《マスターは、ウィル子と出会わなければ良かったですか……?》
何を。
《ウィル子は結局、いつも肝心なときにマスターを守れなくて……聖魔グランプリのときも、クロスフラッグスのときも、そして今も……》
何を馬鹿な。
《アーチェスの、言う通りなのでしょうか……。もしあの時、ウィル子と出会わなければ、マスターはこんなことに巻き込まれることも……負けてしまうことも……そうしてあんな場所に閉じこめられることも……今、こんな辛い目に遭うことも》
「やめろっ……」
ヒデオは壁を頼りに、立ち上がる。引きずるように歩みを進める。
ここで挫けたら何にもならない。
そうだ、自分だけではない。ここでやめたら、ウィル子と出会ったことさえ、意味のないことになってしまうのではないか。彼女と出会えた奇跡が、本当に無意味なものになってしまうのではないか。
もちろん、何ができるわけではない。アーチェスの言う通り、自分はただのヒキコモリだ。でもここで進むことをやめたら、きっと今までの全部が噓になってしまう。
「君が……、何もなかった僕に……こうして、前に進む力をくれた……。それだけで、充分すぎるっ……」
それを証明するためにも、進むのだ。
《……。マスター……》
そのとき背後から、駆け込んでくる足音が聞こえた。
〝美奈子殿! あそこでござる!〟
「ヒデオさん!」
《マスター、婦警です……!》
そして車両の音。駆け付けるたくさんの足音。振り返るのも億劫なヒデオに代わり、ウィル子が言う。
《あ……、みんな……みんな無事なのですよーっ!!》
「ヒデオ君は!? 大丈夫かね!?」
大佐の声だった。
ヒデオは笑ってしまいそうだった。有り体に言えば、それはこちらの台詞だとヒデオは思った。みんな傷付いてはいるが、無事ではないか。真っ先に脱落したと思ったヴェロッキアとハニ悪からして無事ではないか。そして、彼らのパートナーも。
よかった。
《さっき、アーチェスを見つけたのですが……魔法のようなもので……!》
まったく、あんな相手に。自分一人でどうしようかと思ったが。
瞬間、急に体が軽くなった。
横を見ると、美奈子が、肩を貸してくれていた。そしてその中の誰も、休めとは言わなかった。前へ進もうとするヒデオの姿を見たからだ。同じ目標へ向かう仲間だからだ。
ああ、杞憂だった。
仲間たちがいる。
そうとも。一人で抱えることはない。何度でも気付こう。何度でも思い出そう。自分はもう、一人ではない。一緒に前へと進んでくれる、仲間たちがいる。
「さあ、行きましょう! ヒデオさん!」
力強い笑顔で美奈子が頷く。
負けず、ヒデオは強く頷き返す。
「ウィル子。あの時、出会えたから……僕たちは。このみんなに、出会えた」
《はいっ……!》
向かうべき先からは、鈴蘭とアーチェスとの会話がスピーカーに乗り聞こえてきていた。
④
「……これは一体、何の真似?」
鈴蘭が問う。
表彰のためにスタジアム中央に用意されたステージ上。激戦をした二組のペアの前には……レナ。そして聖魔杯を手にしたアーチェスがいた。観客席からは、その不穏さからいつまでもざわめきが収まらない。
「……残念だよ。あなたはもっとスマートな人だと思っていたのに」
「そうですね。こんな横取りするような真似をしてしまって、申し訳なく思っています」
真摯な表情のアーチェスだが、鈴蘭は首を横に振った。
「そんなことをしたって、誰もあなたを聖魔王なんて認めない。そんなことをしたあなたはもう、あなたが望むささやかな国の王とすら認められない」
「ええ。あんなのはもちろん冗談です」
えっ、と呟いたのはレナだった。
しかし彼は構わず続ける。
「これは私の罪滅ぼしなんですよ。鈴蘭様」
「罪……?」
「魔界による第一次侵攻作戦。異世界に領土を広げるなどと突拍子もない提案をしたのは……他でもない、この私だったんです」
「……!」
「ですがこの世界には、すでに人間という高度な知性を有した種族があった。それを護る神々もいた」
翔希が言う。
「そしてあなたたちは、以後数度に亘って敗れ続けた」
彼は静かに肯定する。
「その通りです。ですが……悪いことには、あなた方人間は、我々とそっくりだった。互いに子孫を残せるほどに」
「……どういう、こと?」
鈴蘭の問いかけに、アーチェスは並ぶ面々を見回す。
「それが人間同士の争いだけではなく、魔人と人間という、新たな争いの火種になってしまったということです。フィエル様が魔王の座を退いた後、思い改めた私はそうした火種を取り除こうと、東奔西走しました。し続けました」
次に漏れたのは嘆息だった。
「……ですが、防ぎきれるはずもありません。その頃には我々の子孫は、あまりに広範に散らばってしまっていた。ですから時代が流れ、平和や人権といった素晴らしい概念が浸透し、尊重され、確立された今……私は新たな方法としてユダヤの国に倣い、魔人たちの国を作ろうとしました」
エリーゼが言う。
「それがカムダニア紛争だったわけね」
「ええ……ですが、あれがすでに何度目だったでしょうか。私が動くたびに、私を慕う多くの子供達が命を散らしていった。それでも、いつかきっと報われるだろうと戦い続けては来ましたが……結局だめなんですよ。人間たちは、自分たち以上の能力を持つ魔人を、一概に化け物としか見なしてくれません。飽くまでも脅威であり、個性とは受け取ってくれません。軍事利用はしても、隣人としては受け入れてくれません」
気弱に笑った。
「そして……やはりカムダニアでの一戦が効きました。実を言うとですね。もう、疲れてしまったんですよ。古くから従ってくれていた子供たちはみんな死に……今では、あのガーベス君が最古参なんですから。もう、私が努力すること自体が、益体もない争いの火種なんだと悟ってしまいましてね」
「それは……でも、他にまだ方法が……!」
「お優しいですね、鈴蘭様は。ええ。ですから新しい方法を模索しました。そして、見つけました。私の罪を、根本から払拭する方法を」
左手にした聖魔杯に。右手をかざす。
そうした会話を聞きながら、ようやくヒデオたちが姿を現したのは、そんなときだった。見守る観衆は、最早都市から去ったと思われた彼らの満身創痍、ただならぬ気配に一層どよめいた。
アーチェスの姿に真っ先に気付いたリュータがステージへ駆け上がり、デザートイーグルを差し向ける。
「……アーチェス、俺の後ろを見ろ。もうそこまでだ。負けを認めろ」
包帯を巻いた片足を引きずりながら、大佐が後に続く。
「我々だけではない……君の部下たちも、全員生きている。今ならばまだ、引き返せる」
我に返ったようにアーチェスが言う。
「……無事……? 全員、ですか……? あなたたちは、そんな手加減をしながら……ここまで辿り着いたと……?」
「それを喜ぶのなら」
エルシアが言った。
「あなたが今、考えていることをやめなさい。前にも禁忌と言ったはず。諦めたくないと言うから、私はあの時認めた。けれど……演技だったのかしら」
エルシアの涼しげだった瞳が、冷酷へと切り替わる。
「自暴自棄と言うのなら、私はそれを認めないわ」
「……残念ながらエルシア様。自暴自棄ではありません。皆さんの強さ。極力傷付けまいとした心遣いは有り難いですが……」
真っ直ぐに面を上げる。
「今、その彼らが助かることと……この先、永遠に続くだろう人魔の争いと、同じ秤にはかけられません」
アーチェスが手をかざしたその器に、光り輝く液体が湧き出してくる。
鈴蘭が息を吞んだ。
「そんなっ……だって、神器は、選ばれなきゃ……!」
「私が選ばせたんですよ。鈴蘭様」
「っ!?」
「荒事はそれほどでもありませんが、この手の技術的なことには慣れています。誰が優勝するかわからない大会ですから、そうした機構が随分と甘かったようですね」
翔希、リュータが同時に動いた。
「させるかっ!」
「アーチェスっ!」
そしてまた同時、アーチェスはかざし終えた指を鳴らしていた。だがそれは杯へのまじないではなく、合図。スタジアム最上段にて、ぐるりと人影が立ち上がる。観客に紛れていたアルハザンの戦闘員たち。全員が銃で武装し、観客である不特定多数の全てを人質に取ったのだ。
その瞬間、ステージに集う全員は傍観を余儀なくされることとなる。
「ご心配なく。私は……」
アーチェスは聖魔杯に湧いた光の雫を、一息に飲み下す。
やがて……役目を終えた器それ自体は、宙へ溶けるように。消えて無くなる。
「……私は、この世界をあるべき姿へと戻すだけです」
空いた手の平を開閉し、加減を確かめるようなアーチェス。そして何かを実感したのだろう。
「……ここまでくれば、一安心ですね」
その表情に余裕が浮かぶほどに、真意を測りかねるこちら側には、不安が募る。危機感たっぷりに大佐が言った。
「何をするつもりかね……」
「暗黒神を呼び出すのよ」
泰然としたエルシアの声に、全員が振り返った。みーこがはたと声を出す。
「暗黒神……と申したか、お嬢。邪神ではなく」
「ええ。人間たちには同じように聞こえるでしょうけどね。そうでしょう、暗黒司祭。バーチェス」
「……お察しの通りです。エルシア様」
微笑したアーチェスへ、エルシアが手をかざす。魔導書は開かない。加減無く、力の赴くままに深紅の光を奔らせる。
ばしん、とアーチェスが向けた手の平にぶつかった。山一つを消滅せしめた光が、ぶつかっただけ。何一つの破壊ももたらさずに消失したのだ。
愕然とリュータが呟いた。
「お、お前いま……まさか本気で」
魔族の王女が冷や汗浮かべ、微かに息を吞む。
「ええ……そうよ。素直に感心したわ。すごいわね……これが、聖魔杯」
それはつまり、彼が……もはや武力では抵抗しきれぬほどのチカラを得たということ。この場にいる何者も及ばぬだけのチカラ。
「う、うふ、うふふふっ……やった、やったやった! これでパパの勝ち! パパの勝ちだよね!? やったやった!」
突如、勝利を確信したレナが、まるで子供のようにはしゃぎ出す。
「これで、世界はパパのものだよね!? パパの思い通りの世界になるんだよね!? 私たちみんなが、幸せに暮らせる世界! もう誰にもいじめられない幸せな国! 幸せな……!」
「いいえ、レナさん。もうその必要はなくなりました」
レナが笑顔のまま固まった。
「……パパ?」
「私はこの世界から、全ての魔人を消し去ります」
⑤
予想だにしない言葉。ショックに……少しの間、誰も口を利けなくなった。
「な……なに、言ってるのパパ……? だって、魔人って、ボクも、ライネーズも、ガーベスも、ザジもっ……みんな!」
空が翳った。急に雲行きが怪しくなり始める。いや、それにしてはあまりに雲が厚すぎる……と。空を見上げた者から、啞然と息を吞んだ。
センタービルが指し示すような空高くに、闇が広がり始めていたのだ。じわじわと蝕み、侵食するように、蒼天を暗黒のヴェールで覆い隠し始めていた。
「正確には、この世界に散らばった魔導力の全てを消し去ります。魔人であった者は人間に。魔法はなくなり……正しく、科学だけの。人間だけの……あの日、私が言い出さなければきっと訪れていたはずの、あるべき元の姿に戻るんです」
そして厳しい視線で、レナを見る。
「ですが、たくさん死ぬことになるでしょう。運が良ければ、この先人間として一生を過ごすことができるでしょうが……体内の魔導力を急激に失った魔人のほとんどが、そのショックに耐えられずに死ぬでしょう」
なんの冗談かと、信じられぬ面持ちでレナが首を左右に振る。
「パパ……? どうして……? ボクたち、頑張ったのに……一生懸命……、みんなみんな、幸せになれるって、一生懸命頑張って……それなのにどうしてッ……!!」
「あなたはよく知っているはずですよ、レナさん。私は目的のために、多少の犠牲を厭いません」
「っ……」
レナは見るも哀れな表情で、怯える少女のような表情で後退り、後退り。そのまま、ぺたんと尻餅をついた。
抜き差しならぬ顔で鈴蘭が問う。
「……本気で言ってるの? アーチェスさん」
負けぬ真剣な眼差しでアーチェスが言い返す。
「本気です。結果として……私が拾い続けてきたような、哀れな魔人の子供たちは、もう二度と生まれることはなくなります。軍事目的のためだけに拾われ、捨てられるような哀れな子供たちはなくなります。その人生に絶望し、人間たちに報復するような子供たちはなくなります。種の違いによる争いの根は、断たれるのです」
「でも……だからってそんなっ!」
「ならばあなたはなぜ! 聖魔王として在位したこの五年間、彼らに手を差し伸べてやらなかったのですか!?」
「っ……!」
温厚な彼が初めて見せた激情に、鈴蘭が身をすくめた。
「それだけ多くの仲間、強大な力を持ちながら! あなたはご自身が悲しいと思うことのそうした根源すら探ろうとせず、ただ面白半分に善後策しか採ってこなかったのではありませんか!?」
「それはっ……、それは………」
言い返せず、鈴蘭の言葉は尻すぼみになっていく。アーチェスも俯く。
「……いえ。少し、言い過ぎました……。言ったところで。たとえあなた方であれ、途方もない話だというのはわかっています。ですが……だからこそ、私がやります。私しかいない。その根源である私だけが……彼らを根絶やしにするという大罪を背負うに相応しいでしょう?」
ゆらっ、と動く影があった。見ればみーこが地に足を着き、膝を折り、そのまま倒れ込む。
「えっ……!? みーこさんっ……!?」
鈴蘭が抱き起こす。みーこはその表情を苦痛に歪ませながら、闇に吞まれた天を仰ぐ。
「左様、か……。っく……。何が、暗黒神じゃ……あれは……アーリマンではないか……」
「……そう。こちらではそう呼ぶのね……」
言った端から、今度はエルシアがよろめき、リュータに支えられる。
「おい、しっかりしろよエルシア! お前まで……まさか、冗談だろ!?」
「見なさいリュータ……魔界で最も恐れられる……最古にして最強、最悪の神……全ての厄神、闇神、邪神の祖……〝眠り続けるもの〟」
エリーゼが吐き捨てた。
「また闇だなんて……!」
一条の輝きが真っ直ぐに駆け抜ける。そして直後、聖銀の精霊は顔色を変えた。
「……手応えが……ない!? ただの影……!? でも確かにチカラは……」
「どういうことだエリーゼ……!?」
問う翔希に、エリーゼはかぶりを振る。
「たぶん、本体が別にあるとか、そんなトリックじゃないわ……本体が〝影〟そのものなのよ! 光を遮ったときにできる、普通の影! それなのにチカラを持っている……!」
唇を硬く引き結んだ翔希は、そのままエルシアへ駆け寄った。
「どうすれば倒せる!? 何でもいい、どんな些細なヒントでも構わない! 何か知っているなら……!」
対しエルシアは、弱々しく唇の端を持ち上げるだけ。
「倒すとかやっつけるとか……、馬鹿ね。あれはそういうものではないの……。呼び覚ました時点で終わり……。目覚めさせたら、もう終わり……。だから禁忌……」
一息。
「強いもの同士が引き合うように……あれは、力の強いものほど作用される……。言い伝え通りだわ……でもすごいわね……。こうして実際に見てみると……これが……」
奇妙な光景であった。空に一枚、夜色のカーテンを広げたように。それより下の地平線近くには青空が覗くのに、ある高度から上は濃い闇に満たされている。
(そう、か……)
ヒデオは思い出した。
やはりそうだ。この禍々しい雰囲気は、初めて地下に放り込まれたときに感じたものだ。掘り進め、異界に近付くにつれ、そこに住まうこの気配、チカラが、滲み出していたのだ。
だから魔人ではない、魔力を持たず、極力影響を受けないミッシェルが主に配給の当番だった。魔力を奪うということはその能力も奪うだろうから、それ以外の者は常に銃という武器を携帯していた。ミッシェルの手が空かないときは、中でも銃の扱いに長けたザジが降りてきた。そして力の弱い他の魔人と違い、ザジだけは、毒されないように時間を制限して帰っていた……。
まさか自身を親と慕うレナたちごと巻き込もうとは、ヒデオも予想だにしなかった。だから考えを詰め切れなかった。
(否……)
もうそんなことはどうでもいい話だ。
思考を保て。しっかりしろ。
ヒデオは小さくかぶりを振った。まだアーチェスにやられたショックが残っているのかと案じた矢先。
「くぅ……」
傍らで美奈子が小さく呻いた。
「大丈夫、ですか……」
「え、ええ……少し、目眩が……」
(っ……)
まずい。
ヒデオは焦燥した。自分にショックが残っているせいではなかった。瘴気が強すぎるのだ。見れば観客席の上段で銃を構えていた者たちはもちろん、会場のあちこちで倒れる者が現れ、苦鳴が聞こえ始めていた。
闇が広がるにつれ、人間である自分たちさえ、こんな影響を受けている。岡丸の声にも苦しいものが混ざっている。
〝み……美奈子殿、しっかり……、するでござる……!〟
「ええ……、でもあんなの……どうすれば……」
小さく喘ぎながら、美奈子が天を仰ぐ。今や天と呼ぶにはあまりに黒い空。エルシアの、強い者ほど作用されるという言葉、魔力に限らぬのだろうか。決勝戦での疲弊もあるのだろうが、エリーゼや翔希、鈴蘭のような者たちまで、疲労の色を浮かべ始めている。
《マスターは、大丈夫なのですか……?》
皮肉なことに、最弱だからか。あるいは魔力や何かに接し始めたのが、ごく最近だからか。ああくそ、わからないことだらけだ。
「構わない……、それより君は……」
《わかっています……! 解析しています……調べています……でも、エリーゼの言う通りなのです! あれは光学的に、ただ影として見えているだけなのですよ!? あんなのどうすれば……!》
そうか。だめなんだ。自分がこんな体たらくでは、ウィル子は奪えるものも奪えない。だが、頭が重い……奪われるならウィル子だろうに、それより先にあの黒い闇に何もかも吸い取られそうだ……。
(っ……)
実質の最強であるみーことエルシアはもう動けない。リップルラップル、ヴィゼータ、名だたる魔人たちも同様だ。攻撃の通じなかったエリーゼも、空を睨み悔しげに歯嚙みしながら……いつしか浮かぶことをやめ、重力に縛り付けられるように地に足を、手をつくに至る。
今日の激戦を果たし、脱出してきたみんなまでもが、闇の気配に膝を折り始める。
そうした猛威に、エルシアがか細い声で言う。
「……そのうちに、この都市からも溢れ出すわね……そうすれば終末の始まりよ……。闇は、全てを喰い尽くす……」
エルシアの肩を、やはりどこか苦しげなリュータが強く揺さぶる。
「ふざけんじゃねえエルシア、てめえいつものお嬢様っぷりはどこへやりやがった!? 認めねえぞてめえ、なんかあるだろうが!! なんか一つくらい方法が!!」
「馬鹿ね……どこにあるというの……? そんな、強い光が……」
光。
聞き逃さなかったぞ。
この闇を払拭するだけの光か?
《そんな、無茶です……! あれは太陽光も遮っているのですよ!? 太陽より強い光なんて……!》
「……探せ」
《うぁ……。ま、ます、たー……》
「それが、君の役目だ。昨日の夜……約束したはずだっ……」
喰ってでも探し出せと。見つからなければ、あらゆる叡智を結集し、自らそれを築き上げろと。
一人平然としたアーチェスが言う。
「……そこまではさせません、エルシア様。聖魔杯のチカラを得た今の私であれば、大丈夫です。このチカラと引き替えによる召喚です。その限りにおいては……」
言いきる前に、場に不釣り合いな笑い声が響き渡った。
「あははっ……そう。そうだったんだ。結局パパも、ボクのことをいらなかったんだ……っはっはぁ……。じゃあ、いいよ。どうせ誰もボクのことなんていらないんだ」
「レナさん……?」
アーチェスの声。だが届いていない。依存しているとまで言われ、あれほど甘えるようだった彼女が、アーチェスの言葉を聞いていない。
(違う……)
恐らく、もはや依存していないのだ。対象であるアーチェスという支えは、すでに彼女の心から失われている。どんな形であれ、死という最悪の宣告をもって失われたのだ。心という形が、支えを失い崩れ始めているのだ。
自分を見失った笑顔で、レナが懐から何やらを取り出す。
「それ、はっ……!」
瞬間、アーチェスの顔色が変わり、レナの笑みが深まった。この瘴気の中、冗談のように真っ直ぐに立ち上がり、司会者としての、可愛らしい笑顔でそれを見せる。
「さーて皆さん! これがなんだかわかりますか!? そう! 二ヶ月前のセレモニーでもご紹介した、私の可愛い携帯電話」
だめだ。完全にぶっ壊れた。
「というのは冗談で……本当に核爆弾の起爆スイッチです」
っ
!!
「やめなさい、レナさん! それはもう必要のないものです!」
アーチェスの真剣な表情が、全てを物語っていた。だがレナは止まらない。そのあまりの豹変振りに、他の誰も声の掛け様を知らない。
「ですが、どうぞご心配なく! あの時は地下……と私は申し上げましたが、実はずっとずっと地中深くに埋まっているものです! ですから、ここにいる皆さんが吹き飛んでしまうようなことはありません! その点についてはどうぞご安心を!」
「レナさん!」
アーチェスが何度も呼びかけるが、彼女は完全に司会者の役になっていた。所作、身のこなし、言葉遣い、二ヶ月前から今日に至るまでの役割を完璧にこなしていた。
「なぜかって? 実はその爆風、みんな下の方へ逃げてしまうから! 異界への扉をこじ開けるための最終手段として用意されたものだからです! ですがたとえば……」
口元は笑ったまま、すぅっと瞳が細められる。
「たとえば今、このスイッチを入れて……この大勢の中の。いえ、少し言い換えましょうか。この都市の内外を問わぬ全生命体の、果たして何割が生き残れるでしょうね? 人間は恐らく無理。人間以外の方も、よほどの異質でなければ無理なのでは? だって展望階の君曰く、暗黒神が全てを喰い尽くすそうですから」
見渡すレナの笑顔は、冷たい。
「……ちなみに。ほっといても魔人は全滅するそうです。ね、パパ。下手なショックを与えて叩き起こすと邪神が怒って、その怒りが暗黒神にまで伝わって取り返しが付かなくなるから、手掘りで作業を進めてたんだよね?」
「その通りです……ですから、それから手を」
「ショックどころか核爆発ブチ込んでやったら、きっともの凄い怒るんだよねぇ!? 生命どころか、この世界そのものが消えて無くなっちゃうくらいに怒るんだろうねっ!!」
アーチェスが手をかざした。先にヒデオへそうしたときのように。ただし、あの時のような生半可なものではない。必殺の気配を乗せていた。
「……それから手を放しなさい、レナさん。でなければ、私があなたを消滅させます」
ニタァ。
「……ブチ殺すって言えばいいじゃない、パパ。言うこと聞けない悪い子は、ブチ殺すって言えばいいじゃない!」
ボタンに指を載せたまま、ゆらゆらと揺らし、わざと危なげに見せびらかす。
「霧島……、さん……」
言って、ヒデオは強く首を横に振った。
くそ、馬鹿か。こんな声で届くものか。
伝えなければ。アーチェスはもう優しいだけのパパではない。本気なのだ。
「言ったはずです。運が良ければ助かるかも知れないと。それでもあなたは、より確実な私からの死を望むのですか」
「いらない子は殴って、いたぶって、殺せばいいじゃない。ボクはいらない子。私もいらない子。結局、この世界のどこにも私の居場所なんてなかったってことでしょ」

違う。
「それだけは……違うっ……」
《……、ますたー………?》
それはきっと違う。そう思う誰だって、きっとそう思い込んでいるだけなんだ。居場所がなければ、どこに生まれてくるものか。必要がないなら、どうして生まれてくるものか。
伝えなければ。
誰も言わないのなら、自分が伝えなければ。
まだ可能性はある。まだやり直せる。あの闇だってきっと払える。そうとも、まだだ。まだ誰も死んでいない。今ここで彼女だけに死がもたらされるなど、あってはならない。
あんなに楽しかった大会じゃないか。誰だってハッピーエンドを望んでいるはずだ。誰の目にも、ハッピーエンドが映っていたはずだ。見えてはいても何か足りないのか? きっかけがあればいいのか?
(そうだ……)
思い出せ。もう一人じゃない。ならば自分が切り込め。自分が世界を救う必要はない。ただ、ここで動けば……レナの死を遮ることができれば、その先に、きっとまた引き返せるチャンスはあるはずだ。
「霧島さんっ……」
「殺せばいいじゃない。パパ。助けてくれて、育ててくれて、褒めてくれて、甘えさせてくれて……最後の最後にブチ殺してくれるなんて最っ高だよ。大好きパパ。早くブチ殺せばいいじゃない」
「……そう、ですか……」
いよいよ壊れ始めたレナの笑顔に、アーチェスの声は、諭すものから諦観へと切り替わった。辛うじてアーチェスに残っていた交渉の気配が、本当の意味での殺意に変わった。
「霧島っ……」
何のためにここに来た。
人生をやり直そうとただ足搔き、しかし報われず、衆人に嘲られ、地底に放られ、脱出してはアーチェスにからかわれ。そうした結果としてここにいるのか。
みんなに
励まされ、支えられ、助けられ続けてきたのは、ただこうして
傍観するためだったのか
!?
違うだろう
!?
今までなんて、どうだっていい!
ここで勝てなきゃ、噓なんだ!
ただ、今だけを勝て──
!!
「っ……」
ヒデオは、大きく、大きく、張り裂けんばかりに大きく息を吸い込んだ。
そして。
「バイバイ、パパ。そして死ね、クズども。私をいらなかった世界! クズの住む世界なんて、消えて、無くなれェ──!!」
「霧島ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ──!!」
瞬間、時が止まる。
誰もが、声の聞こえた方を振り向いた。
だが……誰もわからなかった。
それを発した声の主が誰なのか。
すぐ側にいた美奈子も、大佐も、リュータも……そしてウィル子でさえも。いや、彼を知るからこそ、信じられなかった。
川村ヒデオという青年が、籠もり続け、裡に抑え続けた全てを、肺も潰れよとばかりに吐露した叫び。
そして静寂。ざわめきも。呻く声もありはしない。ヒデオの声が全てを吞み込み、そしてその余韻だけが残った。一切の静寂。
「はぁ……、はぁ……」
そんな中で小さく喘ぎ、ヒデオは気付く。
(……そう、か)
簡単なことだった。
誰も生まれ変われはしない。長い人生の中で、少しずつ変化していくだけだ。生まれ変わるなど、理想。所詮、死んだ後の話。
だが、戻ることは別だろう。
誰にでもあった子供時代。周囲の目など気にせず馬鹿みたいに叫びまくり、遠慮会釈無く暴れ回っていた幼かった頃を。何もかもが楽しかったあの頃を……思い出し、戻ることくらいはできるだろう。
そしてヒデオは、思い出したのだ。
周囲の目など気にせず、いま馬鹿みたいに叫んだことで。あの頃の気持ちを、わずかでも思い出したのだ。
(僕は、信じる……!)
僕ならできると
!!
「なに。ヒデオ君」
あんなに楽しげに壊れきっていたレナ笑顔が、転瞬、凄まじい真顔に切り替わり、ヒデオを睨め付けた。最愛であるアーチェスの言葉を聞いてはいても、それに応えてはいても、しかし何も見ようとはしていなかったレナの視線……ヒデオに向く。
「突然馬鹿みたいな大声出してさ。ヒキコモリのクセに。ここはお前のいる場所じゃないよ。お前の出る幕じゃないんだよ」
何も恥じる必要はない。ああ、どうせたかがヒキコモリ、たかが負け犬風情だ。吠えて、騙って、噓吐きの魔眼と後ろ指さされた分際。
だが、だからこそ……この場にいる誰よりも、自分が一番うまく吠えられる!
ヒデオの裡に全てがまとまる。脳裏に浮かぶ断片的な思考は、勝ちを見据えた瞬間に一本のレールをなす。脚本という名の道筋を。
さあ、幕は開いた!
あとは演じきるだけだ!
演目の名は、未来視の魔眼
!!
「……おめでたい奴だな、霧島。まだわからないのか?」
ヒデオは真っ直ぐに顔を上げる。その不遜な声。その不敵な笑み。川村ヒデオという青年が初めて見せた、この都市の誰一人として知るはずの無かった、それが本当の貌。
あの頃の自分。
本当の自分。
だからヒデオは、胸裡に小さく呟いた。
ただいま、世界!
俺は、帰って来たぞ
っ──!!