①
聖魔杯はクロスフラッグス以降の二週間、決勝トーナメントに至るまで、とてもゆっくりと推移していった。いや、実際には、たったの二週間。誰も彼もがこの隔離空間都市における、祭りの終焉を惜しんでいたからそう思えたのだろう。だがその一方で、誰も彼もが、その頂点に君臨する何者かの姿を待ちわびていたことも事実。
ならばやはり、終わりは訪れなければならなかった。そしてそれは、ありとあらゆる種族を巻き込んだ、この聖魔杯という名の大会においても例外ではない。
センター前広場にしつらえられたスタジアムには、その日も盛大な歓声が渦巻いていた。
《準決勝第一試合を制したのは、下馬評通りの翔希・エリーゼペア! 大会最強の名をほしいままにしてきたその二人と決勝を争うのはどちらのペアか!?》
司会進行を取り仕切る霧島レナの声がマイクに乗り、スピーカーより高らかに響き渡る。
《いかなる局面においても卓越した技術により、安定した勝負強さを発揮し続けてきた不屈のモンスターハンター、リュータ・サリンジャー! パートナーは美しき展望階の君、マジカルプリンセスことエルシア様!! 対するは聖魔都市を牛耳る魔殺商会の実は総帥、この都市における諸悪の根源、リリーこと鈴蘭様!&、未だその実力は大食い能力以外未知数ながら、展望階の君とも親しい黒き眠り姫、みーこ様!!》
決勝トーナメントが始まった時点で、鈴蘭は自身こそが聖魔王、即ち現在この世界を律する者であり、この大会の主催者であることを明かしていた。だから今はもう、ミラーグラスにメイド服で身分を隠したりはしていない。その地位に相応しい、格調のある白い衣装に身を包み。
《リュータ・エルシアペア、並びに名護屋河鈴蘭・みーこペア、入場です……!!》
魔殺商会の社長室。
そんなテレビを眺めながら、マホガニーのデスクで貴瀬がコーヒーをすする。ウィル子は横にあてがわれた秘書席で、ノートPC相手に会社の帳簿を適当にいじっていた。本物の帳簿は検算の必要もないほど正しく整理する。この都市におけるものだけでなく、外の世界の表向きの帳簿はそれらしく飾り付ける。付け込まれる隙があれば、お役所の方のデータベースを書き換える。
ヒデオがいなくなってからというもの、他に行く当てもないウィル子は、そうして魔殺商会に雇われていた。要請があれば、エリーゼ興業の方にも生産ラインシステムの構築や、サーバーの保守管理のアルバイトに行く。
そんな淡々とした日々を送っていた。
(……)
ヒデオと過ごした一ヶ月と比べれば、あまりにも長く、なんと空虚な日々。
画面など見ずとも、センターからのライブ配信は受け取っている。歓声と、司会者のレナの声。両ペアがレナのいるスタジアムの中央に進み出て、ルールを決める。制限時間は五分間。それを過ぎれば自動的に基本ルール、というのが決勝トーナメントでの取り決めだった……が、さすがに聞いてみた。
「社長は観に行かないのですかー?」
会長で総帥の鈴蘭が出場しているのだ。今日も館の中は閑散として、商業区も試合が終わるまではゴーストタウン同然だろう。
貴瀬はなんの感慨もなさげに言う。
「クロスフラッグスが終わってからこっち、勝負といっても大概が基本ルールだ。開会式の言葉ではないが、殴り合って強いだけならみーことエルシアに敵う存在がそもそもいないではないか」
「いえ。ですから、その両雄がぶつかり合うということでえらい盛り上がってるみたいですけど……」
「馬鹿を言うな。アウターのあの二人が本気で戦った日には、こんな都市など数分もせずに壊滅するぞ」
アウター。
神にも等しい能力を持ち、有り得ぬもの無き常識の外にある者たち。故に『外側の人たち』と呼ばれる二人。他にもいるらしい。
クロスフラッグスでのみーこのあれは、確かに常軌を逸していた。あれら管虫が生物なのかバケモノなのか、それとも現実なのか影なのか。それすらウィル子には理解できなかった。調べて出てくるはずもない。
一方でエルシアの方も、並外れた魔法の使い手だ。この会場に入ったばかりの頃は右も左もわからなかったが、こうして他者の試合を見聞するほど、彼女の魔法が図抜けていることは明らかだった。エリーゼ興業のあの鉱山を露天掘りに変えたのが、彼女だという噂もある。
そんなレベルの二人が真剣にやり合えばどうなるか。都市はともかく、あれらスタジアム内に詰めかけた観客が無事でいられるとは到底思えない。
リュータも鈴蘭もその辺は心得ているのか、互いのパートナーは傍観することで決まったようだった。エルシアもみーこも、元からただの付き添い。優勝など眼中にない。肩すかしを食らったような観客席からブーイング。エルシアが魔法一発。テレビではなく、社長室の窓から、遠方に派手な爆炎が上がるのが見えた。
少しして、爆発によるビリビリという微振動が伝わってくる。
《と! というわけですので!! 準決勝にして決勝戦を見守る皆さんがいなくなってしまいますので!! ジャッジ兼司会である私の命も危うくなってしまうということで!! 主催者側としても、お二人のバトル参加は見送りとさせていただきます!!》
テレビのスピーカーから聞こえたレナの声に対し、異論は聞こえなかった。
うんざりとした声で貴瀬が言う。
「……吹き飛んだのはうちのビルではないだろうな……」
そしてリュータが、女を殴るのは趣味じゃねえとかなんとかスカしたことを言って、結局クロスフラッグスのときのショック弾頭を使用しての撃ち合い勝負となったようだった。
「見ろ。言った通りになったではないか」
貴瀬は小さく鼻で笑った。
「ですがいくら捻ると言っても、この局面でクッキングバトルなんかもないと思いますが……」
「そうか? 君たちであれば、そんなこともなかったと思うのだがな」
意外な言葉に、ウィル子はきょとんとなる。もう試合に興味をなくしたように、貴瀬がプレジデントチェアごと振り返った。
「噂……というより、パートナーの君が言うのだ。川村ヒデオは本当になんの取り柄もない、ただのヒキコモリだったのだろう。だが、だからこそ、今にして思えば機転を利かせ、創意工夫を凝らして勝負していたように思う。クッキングバトルに乗ってこないのであれば、まずはそれに乗せようと足搔いたのではないか? 少なくとも俺は、君たちのそういう部分が面白かった」
「……」
「が……力を持っている連中はまずそれに頼るから、そもそも頭を使おうとしないわけだ。結果……」
貴瀬がコーヒーを一口。そして気怠げに一息。
「君たちが負けてからというもの、番狂わせという言葉も聞かなくなった。どれもこれも力尽く、ごり押しの基本ルールばかりで、前評判通りに勝負が決まる。スポーツのように一つの技を競うわけでもないから、見ていてもつまらんのだ。俺はな」
「そう……ですか」
そういう意味でも、自分たちは注目の的だったのだろう。次はどんな勝負を見せてくれるか、という期待。相手の土俵に上がってまで勝ってしまう、一瞬の閃き。それこそが未来視と揶揄された所以でもあり、一方でそんな苦境をどう逆転するかが、大勢の楽しみにするところだったのだろう。
やってた方は毎回生きた心地がしなかったにせよ。
画面の中ではエルシアとみーこが退場し、リュータと鈴蘭が距離を置く。バトルがメインになることを想定されたスタジアムには、大岩、コンクリート壁、打ち立てられた鉄骨やら倒木といった、戦いに緩急を加える不確定要素としてのオブジェが散逸している。
スタジアムという名ではあるが、行われていることは古典時代のコロシアムそのものだ。
(……)
そんな光景に、ウィル子は不思議な感慨を覚える。なぜ、自分とヒデオは今、あの画面の中にいないのだろうかと。
何が足りなかったのだろうか。あの場へ至るのに、何が。自分たちに、最初から何もなかったのなら、だったらなぜ、クロスフラッグスのあの日まで勝ち進めたのだろうか。
運命の一言で片付けたくはない。
「君はどっちが勝つと思う?」
不意の質問だったが、考えるまでもなくウィル子は答えた。
「……鈴蘭さんが優勝するのですよー」
「ほう?」
貴瀬は試合を観るより、楽しそうに聞いてくる。
「準決勝だというのに、優勝とはまた大きく出たな。なぜそう思う」
「優勝する気があるのが鈴蘭さんだけです。前に会ったらリュータもエリーゼも、なんだか毒気が抜けてしまったみたいでした。翔希なんかは、たとえ負けても良い勝負ができればそれで満足しそうなタイプですし」
「なるほどな。あのクソガキはその通りだ。エリーゼも優勝よりはうちの会社に勝ちたいだけだろうしなぁ……みーことエルシアの二人は論外、と」
でも。
「……そういえば、鈴蘭さんはすでに聖魔王なのですよね? だったら優勝しても、今のままではないですか。むしろ負ければその座を追われるだけなのに、どうしてこんな大会を」
「悲しいことはつまらんらしい」
「悲しいこと?」
「……鈴蘭はな、ああ見えて魔人と人間の骨肉の争いを見てきているわけだ。だから実は、後釜となる聖魔王の選定なんてものは二の次でな。彼女の最大の目的というのは、人間と、異種族との交流なんだそうだ」
②
「異種族間の……交流……?」
「そうだ。知らん者同士だからつまらんいざこざが起きる。だったら全部の種族を集めて一番を決めればいい。『勝負』という方法であれば、人間も、その他の種族も、それぞれの能力を遺憾なく発揮し、お互いを余すことなく知り合うことができる。そして全員が知り合いになって仲良くすれば、きっと楽しい……と、いうわけだ。成否はともかく、彼女はそう思ってこの大会を計画した……そんな大会の意図を、トーナメント開幕時、正体を公表したときに鈴蘭が演説したのだが」
「……いえ、普通に聞いてませんでした」
話なんて退屈だし、ハードディスクに保存しといて暇なときでも見ようと思って……そのまま忘れていた。
ともあれ、だから勝負にも、これといった制限がなかったわけか。最大限自分たちの能力を発揮できるよう。
「人間ばかりが多すぎる、表の世界ではなかなかそうもいかんがな。まあ、それは国連や政治家の仕事だ。だから表に知らされることのないこちら側の世界の平和を、聖魔王として鈴蘭は引き受けた」
「では……人間とそれ以外のペアというのは」
「人間が地球上の最多種族であることに変わりはないだろう? 世界を律するということは、およそ人間たちをどうするかという意味に直結する。ならば仮に魔人が聖魔王になったとしても、魔人のことしか考えんような聖魔王ではダメなわけだ。だが人間とペアを組み、人間と協力して優勝まで辿り着ける者がいれば……」
そうか。それだけの苦境を乗り越えられるほどの信頼を、築くことができたなら。
自分もそうだったのだと、ウィル子は振り返った。ただ面白おかしくネットの海を漂い、この世界に現れたことに浮かれていた自分は、しかしヒデオと苦楽を共にすることで、いつしか自分以外にも目を向けられるようになっていた。
ただ電子世界を自由にしたいと思っていただけの自分は、しかしそれによって現在の社会基盤がストップし、ヒデオが迷惑を被るというなら……今はもう、そんなことを考えられるはずもなかった。
「他はどう言うか知らんがな。鈴蘭はそういう二人こそが次の聖魔王に相応しい、と考えている」
そして自分たちは、そのふるいから落とされた。
「……ですが、そのペアが現れなければ?」
「それができないような相手ばかりであれば、間違いなく自分が優勝すると言いきって……」
貴瀬がテレビへ目を戻す。
「事実、ああやって決勝大会まで残っている。そして優勝すれば、相応しい者が現れるまでは、また彼女が聖魔王を引き受けるだろう。元より今は彼女の世界だ。ならばどうしようと彼女の勝手だ」
「なるほど……」
言うのは簡単だが、凄まじい話だ。彼女は何より、自分というものを信じ切っている。それが強さに直結しているように思う。
(……)
ヒデオはどうだっただろうか。少なくとも、自分というものに満足はしていなかったと思う。いつも変わろうとしていた。理想を求めていた。
「……しかしたった一ヶ月やそこらで、随分と大人びたものだな、君も」
「?」
「外観はともかく、そんな風に思い悩む仕草だ。まあ、単純にあまり笑わなくなったせいかもしれんが……」
笑わなくなった?
ああ、笑わなくなった。
彼は小さく嘆息。
「やはりヒデオの行方はわからんのか」
「ええ……」
ウィル子は小さく首肯。
この都市はもちろんのこと、外の世界。それこそ日本中に電子電脳の目を巡らせた。だが東京のアパートに戻った様子はなかった。役所に転出届はなかった。もしかしたらと全都道府県警の自殺の報告と検死結果を調べてみたが、ヒデオの身体特徴に合致するようなものはなかった。それでも飽きたらず、世界中のウェブカメラに手を伸ばし、ヒデオの姿が映りはしないかと自作のロボットプログラムに監視を続けさせている。
「まさか本当に死んだのではないだろうな」
「……わかりません。ただ、前にも言いましたが……」
「まだ繫がってはいる、か」
そう。きっと自分は、まだヒデオに感染したまま。遠く離れれば切れるとか、切れても気付かないものだとか、切れたらまた電子の海に逆戻りだとか、そういう法則もわからない。ただ、電子の海を回遊していただけの頃とは違う、自分の中の何か……それはきっと、まだ繫がったままだと思った。だから、まだ死んだわけではない、という確信はあった。かっこよく言えば、魂が繫がっているとか。あるいは……絆、とでも言うのだろうか。
ぼんやりと考えながら、ウィル子はウェブカメラの無数の目から世界を見渡す。
(……)
そうして半ば、諦めかけていたからかも知れない。そして、あまりにも彼ばかりを捜し続けていたからだろう。そう、自分はこの数週間、ヒデオに焦点を絞りすぎていた。
ある映像に、ロボットが関知するはずもない人影を見かけた。ショートヘアの婦人警官。髪型だけ、よく似ていた。それで美奈子を思い出した。
きっかけは、ただそれだけだった。
エルシアとリュータの証言によれば、最後に一緒にいたことを目撃されたのは彼女だった。だというのに自分は、美奈子から話を聞いてもいなかった。彼女がどこの所轄かはわからなかったが、片手間で警察庁にハッキングし、北大路美奈子の名で検索をかける。
が。
(北大路美奈子巡査……捜索中……?)
大家さんがその日のうちに会場を出たと言うから、もう日常生活へ帰ったのだと思い込んでいた。違和感を覚えた次の瞬間には、直感的に別のデータベースへ手を伸ばしていた。
(週刊フライD編集部、コバヤシ……コバヤシ……)
取材予定期間を過ぎても出勤せず。
(行方不明として警察に捜索願……!? コナムプロ……田岡、田岡、どこ……!?)
スカウト業務のため海外出張。予定期間を過ぎても帰国せず。
(ギリシャ、イタリア当局に捜索願っ……!)
それらの届けが出された時期はバラバラだが、問題は未だ彼らが見つかっていないという事実だった。
「社長ッ!! ハニ悪のステーキショップは!?」
「ん? ああ、あそこか。そういえば負けた次の日から、閉まったままだと聞いているが」
「ハニ悪とジョニーはっ!?」
「さすがに行方までは知らんが……どうした、血相を変えて」
胸騒ぎがする。
全てのパワーを全世界のウェブカメラに使い切るなど、全くもって徒労だった。疲れを知らないCPU任せだった頃の悪いクセだった。可能性というものを考えず、パスワードを総当たりするような道化を演じ、それで人事を尽くしたような気持ちになっていた。
なんて愚か。
そこまでショックを受けていたのか、自分は? どこかバグってしまっていたのか。
情報。もっと情報を。
身分の、もっと身分のはっきりした。
(ジョージ・レッドフィールド大佐!!)
彼なら何かを知っているのではないか。一番最初に会場入りした参加者。そして万端の準備を整えていた彼。今にして思えば、そこまでして世界や何かに固執するような男には見えなかった。ならば何か別の目的があってこの都市に来たのではないか? 会って話を聞くことはできないか。それとも彼もまた行方不明なのか。それだけでも。
アメリカ国防総省、ペンタゴンのファイアーウォールに殴り込む。ああ、以前なら近付くこともできなかった雲上の壁!
世界最高水準のセキュリティ、いつの間にこんなに儚くもろくなってしまったのか。自分をそこまで成長させてくれたパートナーに、きっと何かが起きた。悪い予感がするのだ。
退役軍人名簿……違う、これは表向きの情報だ。裏へと続く扉がある。キーワードは。
(エンジェルセイバー……!)
だがそこで蹴躓く。硬い。
数ミリ秒で政府高官のパスコードをさらい出し、当てはめる。
ヒット。
(よし……!)
だが開かれた回線は、ペンタゴンの外部へと抜けていた。場所など知らない。表向きにエンジェルセイバーなどという部隊は存在しない? ならばその情報も別口での管理ということか。
そうして辿り着いたデータベースは、米国の公文書とは様式が違っていた。やはり正確には米軍ではないらしい。米軍の皮を被っている、とでも言うべきか。だが今は、いつものように秘密の香りに酔っている気分ではなかった。資料の新しい方から、彼の名前を検索する。
『ジョージ・レッドフィールド特務名誉大佐
機密10456により出向
対象 アーチェス・アルエンテ 』
(アーチェス……?)
リュータが彼を憎んでいたのは見ての通りだったが、大佐は任務として……どうしようとしていたのだ? この機密のコードはなんだ。こんなもの、やはり米国の陸海空軍、どの様式に当てはまるはずもない。

本のページを指先でなぞるように、めぼしい情報がないかインデックスをさらっていく。そう古い組織ではないらしく、集積されたそれはペンタゴンに比べれば、本当に微々たるものだった。やがて、『機密』についての概要を記したようなページが見つかる。
『アーチェス・アルエンテ
フィエルとともに魔界より訪れた生粋の魔族と目されるが、戦闘能力は他の魔族に比べ著しく低いことが、カムダニア内戦時のブラッドフィールドの証言により判明している。しかしながらアルハザンと称する組織の活動内容、及びその成果から、交渉術、人心掌握術に長けた希有な魔族であることも事実であり、そうした操作によってもたらされる社会的混乱に対しては最大限の注意を要する。 』
断片的に書いた、というよりはそれに関連した事柄……報告や日誌を……取りまとめたものなのだろう。以降の日付は約二年ほど前から始まっている。
『アルハザンが聖魔王と呼称される一派と接触した疑いあり。至急調査を要する。
コード455 』
『成果なし。聖魔王一派(円卓ではなく、魔殺商会と呼ぶべきカテゴリ)からの協力は得られず。彼女らは万事に関して全ての責任を負うとのこと。当AS隊交渉担当の一言。
「勝手にしろ」 』
『天界より報告・その考察
これは聖魔王と呼ばれる少女の、天界への働きかけによって作成された最も新しい異世界である。現界とのゲートは東京近郊他、各大陸に数個程度の割合で存在していると思われる。作成意図は不明。詳細を得るため、再度聖魔王一派との接触を要する。』
『中江博士の試算によれば、即ちこのような並行世界においては魔界、その他未知の異次元、異時空間との距離は地球上のいかなる場所とも比較にならぬほど近接し、よって当該都市においては邪神ロソ・マウソの召喚さえも理論上は可能。これについては千年期のような特異期間を要しないことを特記する。
厳戒を要し、退役したブラッドフィールドを内偵のため召還、派遣を決定する。
コード変更
機密10456 』
『ブラッドフィールド報告
当該都市にてアルハザンの痕跡あり
アーチェスの所在は未だ不明 』
『聖魔杯開幕 』
『リュータ・サリンジャー元少尉と接触。既に部外者のため、任務を秘匿。協力を得ず。』
『報告途絶
生死不明 』
『生死不明 』
『当該都市において催されるイベントの性質上、ブラッドフィールドに対し相当の危害が及ぶ可能性、またその痕跡も皆無であることから、何らかの策謀に巻き込まれたものと断定する。
機密10456を終了』
(……)
あたりは付いた。やはり何らかの作為が働いていることは間違いないようだ。でなければこうも都合よく、みんな仲良く行方不明になったりするものか。大佐と同様に、ヒデオも、他の者たちも……考えながらウィル子は読み進める。
だが、たかが電子文書のはずなのに、伝わってくるこの並々ならぬ危機感はなんだ。長く電子の海を漂い続けた精霊は、人の意志は01信号にすら浸透することを知っていた。いや、彼女だからこそそれを感じ取れた。
『最後の魔王、フィエルとの接触に成功。
バーチェス(アーチェス・アルエンテのフィエルによる呼称)は魔界における邪神の中でも、特に暗黒神と呼ばれる存在の加護を受けていると証言。詳細は語らずも、ロソ・マウソ級であれば状況如何によって召喚可能とのニュアンスを残す。アーチェスが戦闘能力に劣るのは、召喚師としての専門性に特化しているためとのこと。
リスクレベルを5+からEXへ
機密10456を変更
特秘3・1 発令 』
『特秘3・1
影響範囲が当該空間内に収まらぬ場合、千年期相当の厳戒をもってこれに当たる。AS隊はエンジェルナイトの指揮権を聖四天へと返還し、各エンジェルナイトは大天使マリアクレセルの直轄となる。
特記 これは、人の戦いではない。 』
『未明に現れた聖四天の推察は、恐るべきものだった。到底信じられる内容ではなく、こうして文書として残すことさえ馬鹿馬鹿しく、ためらわれる。人類は滅亡などしない。連綿と培われてきた我々の文明が崩壊するなど、ありもしない夢物語だ。誰が終末のラッパなど吹かせるものか。
だが我々でなければ、誰がこの世界を救うというのか。彼女は、聖魔王一派の協力を得』
「っ!!」
間髪、回線を繫ぎ替える。
サーバー側からの逆探知ではない。
盗聴だった。
それも……センタービルの方からの。
「どうしたのだ、ウィル子」
「ちょっと行ってきます! メモ帳を開いておくのであとで見て欲しいのですよー!!」
言い残すと、ウィル子は電脳世界へ飛び込んだ。
③
センタービルのある一室。
「どうだ、ライネーズ」
ガーベスの方には向かず、ライネーズはラップトップの端末を慣れた手つきで操作し続ける。
「魔殺商会、問題ありません。外部との通信は、外の会社とのいつものことですし……やはり、まだ誰も気付いていないようです」
「気付きようもないさ……オレたち、そういうふうにやってきたわけだし」
ザジは普段通りの気楽な様子で、手持ちぶさたにガンアクションを繰り返す。
「ええ。ただですね……」
キーボードをカタカタ、ライネーズは弱ったように眉根を寄せた。通信元は本部事務室だったり、受付カウンターだったり、まあ様々なのだが。
「……ラティがまた嗅ぎ回ってるのか」
と。ライネーズの肩に手を置き、ザジが画面を覗き込む。
「そのようです。今、地下にいるのは九人、さらにそれと対応する数の人質です。帳簿を注意深く観察していれば、行き先の不透明な食料品などの流れに、不審を感じてもおかしくはないかも……」
「それを何とかするのがお前の役目だ」
ガーベスの言葉に、少し小さくなるライネーズ。
「いえ、しかしです……」
少し離れた場所で、紅茶をすすりながら準決勝を観ていたアーチェスが立ち上がる。
「言い訳なんかしていいわけ!? なんちゃって」
「あんなのオヤジの会社から流してるもんだろ。運営本部の帳簿に関係あるのかい」
「はい、運営本部もですが……実はラティさんも結構な腕前の持ち主らしく、デパートの方へもたびたびハッキングしてきています。つまりそちらの方までチェックされると、アーチェス様が表向きにきちんと営業されている以上……」
隅っこの方では、空気のように存在を無視されたアーチェスがめそめそしくしく泣いていた。
「……つまり、その……アーチェス様はクロスフラッグスで負けたことにより、魔殺商会の子会社になってしまったわけです。それ以前にも、鈴蘭様に法外な上納金を要求されているわけですし」
「ああ、そうだな。今思い出しても腹が立つが」
ガーベスが頷く。ライネーズも頷き返す。
「つまり、今の段階では気付いているわけではなく、そういった収支に不正がないかをチェックしているだけなのかもしれません。ただ、その過程でわずかながら地下や人質に流れていく……言わば行き先不明の物資に気付く可能性は、あるかもしれません。追跡調査によってか、使途不明金の形でかはわかりませんが……」
「なるほど……それは困りますね」
さっさっと涙を拭き、眼鏡をかけ直したアーチェスがやってくる。
「ライネーズ君。うちのデパート、全部昔ながらの伝票に変えちゃうことってできます?」
「はっ……? あ、いえ……それはその、手書きで、ということですか?」
目を丸くしたが、ダジャレ以外はあまり冗談をいわない人だとは、ライネーズも知っている。そうして見上げたアーチェスの顔は割と真面目なものだった。
「そうです。手書きで商品管理できれば、ハッキングの可能性はなくなりますよね? 商売も続けることはできますし」
「しかし、逆に怪しまれはしないでしょうか……?」
掘っ立て小屋は、何もないからドアも鍵もないのである。宝物庫は、お宝がしまってあるから鉄扉、鉄壁、鉄格子で覆われているのである。たとえ中に何もなくても、そうして防備を固めることで、傍目からは「何かあるんだろうな」……と思われてしまう危険性。
いわんや、人の足元を見ることに生き甲斐を見出しているかのような魔殺商会である。目に留まれば、面白半分にも暴き立てようとするに違いない。
突然オンライン管理を廃止しての手書き移行。これはとんでもなく怪しい、とライネーズは思う。いや、今の時代なら誰しもそうだろう。そんな不安げな表情を汲み取ってか、アーチェスはころりといつもの笑顔に戻った。
「……そうですね、過剰な反応はしないでおきましょうか。ライネーズ君の判断を信じますよ」
「ありがとうございます」
「ラティさんも、鈴蘭様に言われてのことでしょうしね……」
同情するように肩をすくめ、アーチェスが踵を返そうとしたそのとき。
「……なんだ、あいつ」
ザジが監視カメラの画像に片眉を持ち上げた。受付カウンターのラティ。そんな事務用端末、何が面白いこともあるまいに、びっくりした様子だったのだ。
◆
クロマキーのように、ウィル子が突然画面に顔を覗かせたのだからそれは驚く。が、ウィル子が人差し指を唇の前に立て、し~っとフォントを流すので、ラティは悲鳴を吞み込んだ。
(っ……?)
何かあったのだろうかと、視線を左右にやる。誰もいない。役員も参加者もほとんどは準決勝の舞台を観に行っている。
ラティは再びモニターへ視線を移し、とりあえず頷いた。するとウィル子は画面外へ引っ込み、代わりにチャットウインドウが開いた。これで会話しようということらしい。
『あなたは魔殺商会側ですね?』
?
『魔殺商会というより、聖魔王鈴蘭様に従う者ですけど』
『ではなおさら結構です。マスターについて何か知りませんか?』
『ヒデオさんですか?』
『川村ヒデオ他、北大路美奈子、ジョージ・レッドフィールド、ハニ悪、レミーナ、コバヤシ……誰でも構いません。そのパートナーの行方でも』
『行方?』
『ウィル子の調べた範囲ですが、いま挙げた参加者は全員、外の世界で行方不明になっています』
……まさか?
『それは、鈴蘭様から?』
『ウィル子が自分で調べました。それともラティさんはこの都市の中で、誰か一人でも見かけましたか?』
ラティはもう一度、それとなく周囲へ視線を巡らせつつ、しかし指先を流暢にキーボードへと走らせる。思い当たる共通点はあった。
『敗退者手続きの際に私がカウンターにいなかった、あるいは不自然にそのシフトから外された皆さんです』
ウィル子と一緒に、ラティは視線を険しくした。
『クロスフラッグスがあった日の夜も、本来は私がこの場所にいるはずでした。ですが霧島さんの好意で、外で鈴蘭様たちが祝勝会をしているからと』
ラティはその日の様子を思い起こしながらタイプする。
いま思えば。やはり、あの夜のレナは少し様子がおかしかった。何かの縁だから、ヒデオの手続きは自分がやりたいと食い下がったのだが……あの、口元に笑みを湛えたままの目付きはどことなく異様だった。
結局は、あとで鈴蘭たちと一緒に惜別すればいいと押し切られたのだが……その後、ついにヒデオが現れることはなかった。
ウィル子が述べる。
『霧島レナがですか? 運営本部長の彼女も、何らかの形でマスターの失踪に関わっていると?』
『それはちょっと』
断言できない。
だがウィル子が言うのだから、失踪という事実はあると考えた方がいいだろう。自在に電子の海を渡り歩ける彼女が、調べたというのだ。
ならば……やはりアルハザンだろうか?
大会開始前、鈴蘭がアルハザンという組織を危惧していたのは確かだ。どこに何を仕掛けてくるかわからない、だからこそラトゼリカは念のため、運営本部の方に潜入捜査に入っていた。優勝候補と目されたヒデオに何らかの接触があるのではないかと、忠告もした。
しかしその危惧も、いつだったかの会談で氷解したのではなかったか? そもそも推測通りなら……あの日席を外せと言った霧島レナまでが、アルハザンの一員ということになってしまう。
『霧島さんは何者なのですか?』
その話のせいだろう。ウィル子の中に、彼女に対する不信感が芽生えてしまったらしい。
『私と同じで、もともとはゼピルムという組織の一員でした。戦闘能力は中の下といったところですけど、見ての通りの性格なのでまとめ役、しきり役が抜群で、鈴蘭様に今回の責任者に抜擢されたんですよ』
しかし……アルハザンのやり口からすれば。人知れず組織や社会といったものに根を張る、という前提で考えれば……この大会以前に、そもそもゼピルムに潜入していた、という理屈も通るだろう。
だが、彼女が? 到底裏表があるような性格には見えない。想像もできない。彼女を嫌っている者すらラティには見当も付かない。そういう性格の彼女が……。
『ところで何を見ていたのですか?』
(何って……ああ)
と、さっきまで覗いていた物産店マルホランドの帳簿に気付く。
『鈴蘭様に言われて、経常利益や提出された収支報告にごまかしがないかをチェックしていたんですよ』
しかしながら当初の懸念とは裏腹な、アーチェスのあの人の好さ。チェックと言っても不正などあるはずもなく、本当にただ眺める程度なのだが。
『穴があるではないですか』
「へ?」
ラティが瞬きする間に、スクロールする表のそこかしこにチェックが入る。しかしラティには何が穴なのかわからない。
『帳簿に矛盾はありませんでしたよ?』
『マルホランド側の帳簿に不備はなくとも、魔殺商会側の仕入れと食い違っています』
「あ……」
そうか。
今となっては、商業区はほぼ完璧に魔殺商会が牛耳っている。都市内部での流通はともかく、外の世界からこの都市へのほとんどを仕切っているのが魔殺商会。その本社側の仕入れ伝票と、子会社マルホランド側の在庫表とに食い違いが生じているのだ。
とは言え、まるで間違い探しのように些細な矛盾だ。それこそ都市の物品の出入り全てを管理している、このウィル子でなければ気付かぬほどの。
日常流通する膨大な量の中から、一つ一つは取るに足らない日用雑貨。所詮、一つが数百円~数千円程度。数千万単位で金を動かす魔殺商会から言えば、まさにはした金と呼べる程度の物品。鈴蘭や貴瀬の豪放磊落な性格を鑑みれば、いちいち気にするまでもない、どうでもいい金額だろう。
しかしだ。
「……」
ラティはキーボードを操って、チェックの入った商品を一気に抜き出した。
やはり些細な日用雑貨ばかりだが、記入し忘れた、運送事故で紛失したと言うには、規則的すぎた。何より目立つのはタバコだった。単一銘柄が恒常的に消費されるからだろうか。一つはよく知られた紙巻きタバコのマルボロ。もう一つがアメリカ製のドライシガー、キング・エドワード。
(え……?)
ちょっと待て待て。
マルボロは超々メジャーなのでともかく……キング・エドワード。
大佐の葉巻、そうじゃなかった?
ダンジョンへ入るときにいつも咥えているので、葉巻って高いんですよね、と聞いたことがあった。返ってきた答えが、無類の愛煙家と知られた英国王、キング・エドワード七世の名を冠した世界一の……云々。まあこうして納品書を見れば、意外や一箱数百円前後であるわけだがそれはともかく。
長いこと受付に就いているが、それほどしょっちゅう葉巻を吸うような者を、他には知らない。これを偶然で片付けていいものか。
『ちょっとカロリー計算してみたのですが』
ウィル子がチャットウインドウで言った。食材から割り出したのだろうか。
『二十人前後が充分生きていける程度の食料が、規則的に行方不明になっています。それと発電機や掘削機械が聖魔杯の開催前に魔殺商会の系列業者から仕入れられていますが、それが工業区へ渡った形跡はありません』
『でも、そうと決めつけるのは早計では?』
確かに怪しいのだが……食料だけなら、アルハザンの面々がこっそり食べていたと言っても説明は付く。掘削機械も、実際に何に使ったかはわからないが……デパートを自力拡張するのに使用した、とも言うことはできる。ヒデオたちの失踪に結び付くような……それを盾に彼らを追い詰められるほどの、確固たる証拠ではないということ。
『ラティさんはアルハザンは白だと?』
画面の中のウィル子は、ヤキモキした様子。
『そうではなくて。仮にこれらの使途不明品が、参加者の失踪に関わっていた場合……何を意味するかということです』
『監禁に決まっているではないですか』
(う~ん……)
やはりその線か。生かさず殺さずのため、食料だけでも供給はされている状態。となると掘削用具は……話を飛躍させれば、強制労働でもさせている? でも何のために。いや、順番が逆で、それらを捕らえるために牢屋でも掘ったのだろうか? でもどこに。
なかなか埒が明かない。が、どちらにせよ、行方不明となった参加者。そして規則的に行方不明となる食料。この二つの事実を照らし合わせれば。やはりウィル子の言う監禁という線が、一番無理のない考えか。
「つまり……」
考えをまとめ、次の一文を打ち込もうとしたとき、だった。
キヲツケロ……!
「!?」
何の声だったかはわからない。だが、ウィル子が全てのウインドウを閉じると同時……ラティの首筋に冷たいものが触れた。
「つまり、彼らの命は我々の手の内にある……ということです。そこまでにしていただけますね? ラトゼリカさん」
モニターの反射に映っていたのは、柔和な笑みを湛える長髪の優男。しかして添えられたサーベルの刃からは、はっきりとその意志が伝わってくる。まさに、指先一つ動かせば……という状況だ。ラティはそっとキーボードから指を浮かせた。
「ヴィゼータから聞いていましたけど……確かにエルシオン様と雰囲気が似てらっしゃいますね。魔族だから、ということでしょうか」
「そんな、恐れ多い。魔族と言っても私はあのように高貴な方々と違って、ただの異端者です」
だから高圧的な態度もないのだろうか。こんなに親しげな声をして。まさか裏で何やらを企んでいるなどと、どうして疑えようか。この男はむしろ、鈴蘭の前にわざと姿を現すことで、そうした疑いを払拭したのではないか。アーチェスの目がモニターを注視する。
「どなたとお話をされていたのですか?」
モニターにウィル子の姿は映っていない。
彼はどこまで察しているのか。
考える数秒、口を噤んでいただけで、あてがわれた刃の圧迫が強められた。あとは引けば切れる。そういう段階だ。だがラティにも矜恃はある。戦闘能力こそ秀でたものはないが、聖魔王に従う者としての誇りがある。
「アーチェス様。私が死ねば、さすがに鈴蘭様も黙ってはいませんよ」
「そうですね……ではまったく関係のない誰か一人に死んでもらいます。それでいかがです」
「関係のない……?」
「あなたたちが見当をつけた、行方不明者たちのことです。たとえば……そうですね」
彼はモニターを見つめたまま、瞳を細める。
「……そう。ヒデオ君なんかどうでしょう」
虚空に電光が奔った。ウィル子が手の平を構えた状態でその姿を結実し、恐ろしい鋭さを持ったガラス色の槍を解き放つ。
アーチェスはそれを眉間の寸前に、空いた手で摑み取る。構わず、ウィル子は二本、三本、いつかのエリーゼがそうしたように、さらに槍を展開。
「マスターをどこへやったのですかっ!!」
そのとき、外の会場で勝負の行方に動きがあったようだった。津波のような歓声が轟いた。ホール、吹き抜けの最上階から見計らったように爆音が響く。銃声を超越したそれは、ザジが放った対物ライフル弾。飛翔速度は音速の約二倍。音より速くウィル子の展開したイージスシールドが、音より速い着弾を消し飛ばす。
二階へ続く階段からガーベスが、カウンター奥の事務室からドアを蹴破りミッシェルが躍りかかる。タイミングはほぼ同時。
電霊が告げる。
「失せろカス」
キン、と空間が鳴る。イージスが分裂し、結晶化し、光を帯び。
(ラミエルっ……!?)
ラティが思ったときには、クリスタルから放たれた静かな光線は階上のスナイパーに、アーチェスの頭上から飛びかかる妖猫に、踊り場から滑空する暗殺者に。
それぞれの崩れ落ちる音を聞きながら、しかしウィル子の視線は微動だに揺れず、アーチェスを睨め付けたまま。槍の穂先は危害を加えようとするいかなる者へも向かおうとせず、現れたときからアーチェスを指し示すのみ。
「マスターをどこへやったのですか?」
彼がラティへとそうしているように。
ウィル子もまた切っ先を、彼の胸元に、喉元に、押し進める。だがアーチェスも、それらの刃に気を配らない。
「ラティさんがどうなっても?」
「構いません。マスターさえ無事なら」
そして浮遊する幾つかのクリスタルが、再び光を収斂し始める。宣言する。
「次は殺します」
アーチェスのことを言っているのか、それとも方々に伏した彼の配下を指しているのか。銃口などと気の利いたものを持たぬ結晶体は、しかしウィル子の殺意を汲むが如くに輝きを増していく。
アーチェスが軽く息を吞んだ。
「電子の精霊……ですか。どうやら、ヒデオ君よりもあなたの方がマークすべき存在だったようですね」
「……これで最後です。マスターを。どこへ。やったのですか?」
視線を受けながら……諦めるように。アーチェスは、小さな溜息をついた。
「ライネーズ君。お願いします」
照明が落ちた。空調も、モニターも、端末の電源ランプも、電気によって稼働する全てが静止する。明かりはガラス張りから差し込む光のみ。停電。
否。電源は、その予備ごと落とされたのだ。
「あ……」
と、ウィル子の小さな声。
クリスタルの輝きも、緩やかに失われていく。はっきりとした槍の形が、空気に溶け出すように境目を失い、消失していく。初めて、アーチェスから視線を逸らしたウィル子だが、向かおうとした先のモニターに入れない。
「あ……ぁ……!」
「ウィル子さん!?」
当てられた刃も忘れてラティは立ち上がる。ウィル子の体にノイズが走り始めていた。それは徐々に荒く、うるさく。
「センター内の電源と同時に、回線も物理的に遮断しました。もう、あなたに逃げ場はありません。……違いますか?」
発作でも起こしたように苦悶の表情を見せ、ウィル子は胸を搔き抱く。ばしんっ、と一度、大きくノイズが弾けた。槍も結晶も霧散する。それでも尚、彼女は問う。
「マ……スター……。どこ……」
「大丈夫。今はまだ、生きています。ですが……あなたは知りすぎてしまった。そして異形過ぎるが故に、私たちは……あなたを、彼らのように捕らえておく術を知り得ない」
憂いを帯びながらも、アーチェスはウィル子へとサーベルを構え直した。間髪、ラティは振り返ろうとしたが、光線のダメージから回復したミッシェルに取り押さえられる。
「放しなさいっ!」
「お前くらいの魔人じゃ、獣人のパワーには敵いませんのニャ!」
ラティが歯嚙みする間にも、ノイズに吞まれ行くウィル子の体は、向こうが透けてしまうほどに霞み始めていた。
「ウィル子さん!」
「……こんな形で出会わなければ。あなたは、この世界の新たな可能性だったのでしょう」
そんな苦悩じみたアーチェスの言葉も、ウィル子にはもう、聞こえていないようだった。
「マ……スター……マイ・マスター……。どこ……。暗い……ウィル子は…………ここに……」
瞳の焦点さえ、もう合ってはいなかった。
砂の崩れるように。霞の流れるように。
ふわり。おぼろげに漂い。色は薄く。
「……残念です」
感情を殺し双眸を細めたアーチェスが、撫でるようにウィル子の姿を斬り払う。
薄暗がりのホールに、電光は散った。
◆
「っ……」
目眩。
暗転する意識に逆らう間もなく、ヒデオは突き立てたスコップにもたれかかった。
「どうした、ヒデオ君……?」
訝しんだ大佐に答える間もなく、その場に倒れ込んだ。
(ウィル……子……)
それだけが脳裏に蘇った。
あの時と同じだった。
聖魔グランプリ。意識が落ちかけ、彼女の統制する莫大な仕事量を垣間見たあの時と。何かが一方的に自分の中に流れ込んできた。
低い天井を振り仰ぐ。心はその遥か彼方を見た。きっと彼女の声のした方を。
無事ですか、と。
大丈夫、と。
(……)
繫がっている。
まだ、繫がっていた。
そして……心配してくれている。
「ヒデオさん、大丈夫ですか!? しっかりしてください……!」
気が付けば、必死な声の美奈子に揺さぶられていた。それで再び、はっきりとした意識が戻ってくる。
「……っ」
愚かだった。
極悪と、愉快だと笑っていた彼女。もう、こんな自分になど興味もないと思い込んでいた。
違った。
この世に未練などもうないと、自分が自分に言い聞かせていただけだ。そうして自分勝手に、ウィル子や美奈子や、こうして心配してくれる仲間たちの気持ちを無視し続けてきただけだ。
最悪だ。
なんて恩知らず。
望まれるなら。望んでくれるなら。せめてその対価を支払うべきだ。まだ生きている。大佐の脅し以上に、パートナーであったウィル子の声は、ヒデオの胸裡に生を呼び起こす。
前向きに考えろ、と。
(否……)
それだけでは足りない。自分が弱い人間であることは、もう何度も何度も嚙み締めてきた。だから、目標を設定したところで達せられるはずもない。
ならば、前向きに自分を追い詰める。
そう、せめて逃げる形であれば、悪あがきもするだろう。
ウィル子は自分に感染したことでこの世に現れた。仮定ではあるが、もしも自分がここで死ねば……ウィル子はどうなる。今まで考えることを拒否してきた恐ろしい答えが、すぐに導かれる。
そういうことだ。
二十歳にもなったいい男が、いつまでも悲劇のヒロイン気取りではいられない。自分が生きるとか死ぬとか、ああ、そんなのは本当にどうでもいい。でもウィル子がそうであってはだめなのだ。
まだ何一つ、これっぽっちの恩も返してはいない。聖魔杯へ誘い、都市に導き、束の間ではあるが本当に楽しい日々を過ごさせてくれた……その対価の支払いは、まだ済んではいないはずだ。
「大、丈夫……です」
見守るみんなに一つ頷き、ヒデオは再び立ち上がった。
生きる、ではない。
帰らなければ。
生きて、帰らなければ。
この胸に、まだ絆はある。