①
アルハザンにエレベーターより放り出され、かつてのライバルたちとの邂逅を果たしたヒデオと美奈子。共に彼らに連れられた先は、意外にも人為的に手を加えられた居住区画であった。まるで、内装を施す前に投げ出された廃ビルのような趣。無機質な通路にドアだけが並ぶ異様な静けさは、先のガーベスたちの言葉も相まって、刑務所を容易に連想させた。そこに、やや開けたような一室があった。
といっても、やはり壁面はコンクリートの打ちっぱなし。あり合わせのようなテーブルに簡素な丸椅子と、飾り気は欠片もなく、殺風景この上ない。カウンターの奥に簡単な炊事場を見付ける……となると食堂なのだろうか。電灯があり、水道もきている様子だった。
各々が腰を下ろしたところで、まずは美奈子が問う。
「……ここは? 寮、というか……留置所か何かみたいな感じですけど」
「どちらもあながち外れてはいない」
大佐が答えた。
「この都市……ひいてはこの大会が計画された際に、ダンジョン内での何らかのイベントを想定して造られた一角だった」
「だった? と、いうのは……」
「結果として深度が深すぎたらしい。異界に近すぎ、魔物出現率が高すぎることで計画もろとも放棄されたのだ。そうでなければ運営側の宿泊施設となったか、参加者のそれだったかは定かではないが……今となっては、アルハザンに目を付けられた我々の暮らす、強制収容所というわけだ」
ここに至るまでの通りすがりに見た、トロッコのレールと掘削用具を二人で思い出す。この区画を造る際に使用されたものかと勘ぐったが、いま現在使われているとすれば。
「強制労働……と、いうことですか?」
美奈子の言葉に、大佐は首肯。
「まさにその通りだ。君たちはこの大会の運営本部長、霧島レナが、アルハザンの一員であることは知っているかね」
「……」
思い出し、ヒデオは頷く気力も失う。代わりに美奈子が述べた。
「ヒデオさんは……その霧島さんに」
あとは言わずもがな。傷だらけの顔がそれを物語っているのを察し、大佐が唸る。
「そうか。随分と手ひどくやられたらしいが……その理由はあとで聞かせてもらうとしよう。ともかく、アルハザンはいつものように〝社会〟に巣を張った。今回は霧島レナを筆頭として、この聖魔杯の運営本部という組織。隔離空間都市という社会の頂点にだ。何もなければ、彼らは何もしなかっただろう。だが今回は、この放棄された区画と、その放棄された理由を見逃さなかった」
「どういうことですか……? その、魔物がいっぱいだとか異世界だとか、本官にはよく……」
一息。無理もない、と大佐が軽く肩をすくめる。
「ではこの都市の成り立ちから説明しよう。簡単に言えば、この都市は普段我々が暮らす時空間の中には存在していない。都市という名が付いてはいるが、隔離空間の名の通り……都市そのものが、小規模ではあるが一つの異世界なのだ」
魔法だのなんだの散々見てきた。奥多摩にそんな何でもありのファンタジー世界があること自体、おかしな話だったし、今さら驚くようなものでも……。
「驚くところだろう、ここはっ!?」
ジャバンがビシィと立ち上がった。頰杖ついたヴェロッキアが、手の平返しせせら笑う。
「そんなアホは貴様だけで充分だ、甲士郎。さすがアカネに不思議時空と例えられるまで納得しなかった男よな」
「あるに決まってるだろう不思議時空は! 東京のどこかに! たぶん採石場の辺りに!!」
地球刑事とヴァンパイアという五流映画以下の組み合わせで言い争いが始まったが、他のみんなはもう慣れた様子。大佐も気にせず続けた。

「簡単に言えばこの都市の存在する時空間は、現実の世界より異界の近くに存在している。異界と、現実世界の狭間に押し込められた世界……と言っても良い。何も地球を押し込めようというのではない。都市一つであれば、それだけの隙間でも充分だったわけだ」
次に大佐の言葉に頷いたのは、ハニ悪だった。
「ともすりゃあ……劇的に、ビフォア・アフターされたって文句は言えねえ……。そんな立地条件、らしいのさ……」
「……よく、わかったような……でも、わからないような……」
複雑そうな顔をする美奈子。ヒデオも同感。劇的なたとえはわかったけれど、具体的な実感としては飲み込めない。そんな様子を見て、大佐が自嘲した。
「まあ、かく言う私も、そういうものだとしか理解できていない。詳しくは物理学者や数学者でなければ理解できんことだろう。大事なのは……」
大佐が下を指差した。
「結果として異界との安全マージンも充分に取れず、この都市のこの地下方向が、魔物の湧き出すような異界にかなり近かったということだ」
そこまで聞いて、ヒデオは大方の予想を付けた。近ければどうするかという話。今その場所と通じていなければどうするか。通じないままで良いのであれば、何もする必要はない……が、現実にここにいる彼らは労働を強いられているというのだ。
「大会そのものは聖魔王鈴蘭の音頭で始まったが、アルハザンはそのルールを体よく利用し、それに相応しい人材を選抜してきた。世界を手にしようというほどの参加者たちの実力を、勝負というルールの中で見極めた。際限なく溢れ出す魔物に負けず、このダンジョンをさらなる異世界まで掘り進められるだけの精鋭をな」
美奈子が口を開いた。
「ですけど、アルハザンは……その、異世界と。この世界とをつなげて、どうしようと……魔物だらけにしたいんですか?」
「いや、その程度ならば何の問題もない。聖魔王とその円卓ならば、先ほど見たような魔物程度ならば容易に退けられるだろう」
「では……?」
大佐はあたかも小馬鹿にするように、皮肉げに唇の端を吊り上げた。
「『邪神』、だそうだ」
②
たとえ冗談にしても、状況から鑑みれば、決して好意的に受け取れる響きではなかった。だが冗談でもなんでもなく、それが現実だと言わんばかりに生真面目な声を発したのはグレイだった。
「覚エテイマスカ ひでお氏。以前 コノ都市ノ地下ニ 巨大ナ えねるぎー反応ガ 存在シテイル ト 言イマシタ」
(……)
ヒデオは首肯。
そうだった。彼との別れ際、意味深な忠告だったのではっきりと覚えていた。
「コノ都市ガ 異次元空間ニ存在スルタメニ 解析ニ 時間ガカカッテイマシタガ…… ドウヤラソノ正体コソ 大佐ノ言ウ 邪神 ナル存在ノ ヨウナノデス」
「巨大……って、どのくらい巨大なんでしょうか?」
美奈子だった。
「それを呼び寄せられると、どうなってしまうんですか? まさか世界が滅びる……なんてことは」
美奈子はそんなありがちな与太話で、機先を制し、芽を潰したつもりだったのだろう。だが大佐は深刻な表情。
「それはどの程度この世界への流入を許すかによると思われる。なんとも言えんが、まあその可能性も否定できんだろう。それが人類の滅亡で済むのか、それとも地球自体が消滅するのか。そういう規模での危機的な状況になると予想される」
「まさか……」
美奈子が他の面々を見渡す。誰も彼も、半信半疑なようであったが、歯牙にもかけぬ、といったようにも見えない。
「でも……、予想というのは?」
美奈子の言葉に、大佐は低く唸った。
「前例がないのだ」
「前例?」
「過去に一度、この世界がその危機にさらされたという噂もあるが……あくまでも噂だ。一般に知られるような有史以来の記録ではなく、もはや民間伝承にその面影が垣間見えるレベルでしかない。聖四天か……かつて円卓と呼ばれたような古参のアウターにでも聞けば、何かわかるかも知れんがね。とすれば手っ取り早いのは、魔殺商会の魔人ミーコだが……」
(……)
みーこを知っているらしい。
そういえばこの大佐は今しがた、聖魔王が鈴蘭であることも平然と口にした。だが、自分とウィル子が彼を敗ったのは大会初日。ということは、鈴蘭が明かすまでもなく最初から知っていた……?
いや、そうか。リュータの師匠。アーチェスから聞いた、ある王国の内戦の話。ただの軍人ではない。相当にこの世界に精通している。
「……一族の古い伝承歌に、似たような話があります」
セイレーンであるレミーナの言葉は、それを暗誦するだけで詩のような響きを持っていた。
「それは眠り続けている。夢見続けている。ありとあらゆる人々が、恐れ続けてきたそのもの。だから決して起こさないで」
アカネも言った。
「私も日本の本家の方で聞いたんだけどね。そういう悪や負の擬神化って、探せば世界中に似たような話があるんですって」
お伽噺であれなんであれ、物事を説くのに神様や善悪というのは非常にわかりやすい形だ。
「でも、もしそういう神話が現実にあった話で、言語や地方によって解釈が変わっただけの、ある特定の一つの存在を表現していたとしたら……そんな大昔に、世界中で猛威を振るったってことになるのかしら?」
「ならばそもそも、いま現在我らが存在しているのがおかしな話ではないか、小娘」
頰杖ついたヴェロッキアが当然のように肩をすくめると、甲士郎が前向きな様子でぽんと手を打った。
「なるほど! そもそもいなかったか、いたとしても大した害はなかったかのどっちかだな!」
「だーかーら、そういう破滅的な状況で、神様や勇者みたいな善の存在が世界を救うお話だっていっぱいあるわよー!」
と、アカネが言い返す。
苦笑しながら大佐が続けた。
「まあこの大会の趣旨……ありとあらゆる種族が集まり、どんな不測の事態が起きるともわからんからこそ、この都市は異世界に設計されている。万が一の際にも、表側の世界にまでそれが及ぶには、ワンクッション置くことにはなるだろう」
だから。
「万が一を想定した際。そのワンクッションの合間に何をなせるかだ。ともすれば……ここが異世界からの侵略者を防ぐための、人類の最初で最後の砦。戦闘城塞ともなり兼ねん。矢面に立つのは、真っ先に異界との境界に立つ我々だ」
充分な危機感を含んだ大佐の声に、それぞれが息を吞むような気配を見せる。
「勝ちに行かねばならんというのは、そういうことだ。いや、邪神が蘇ってからでは遅いだろう。さっきも言ったが前例がないのだ。前もって対策を立てることもできん。同様に、さほどの驚異ではない可能性もあるが……」
ならばやはり、最悪を想定するのが常道。彼の場合は軍人という人生経験から、そうした考え方が身に付いているのだろう。
雰囲気にようよう納得したような美奈子だったが。
「じゃあ、それが事実だとして……それで皆さんは、まさかそのおっかない何かを蘇らせるためのお手伝いを?」
「早い話がそういうことだ」
と大佐。
「ダメじゃないですか!? 皆さんあんなに強いんですから、こんなところちゃちゃっと脱出してしまえばいいでしょう!?」
「まあ見たまえ、我々を。妙だとは思わんかね?」
ヒデオは薄々感じていた違和感の正体に、ようやくはっきりと思い至る。何か妙だと思っていたが、彼らはペアとして参加した内の片割れなのだ。片割れだけ、と言うべきか。
「あっ……」
見渡し、同じことに気付いた美奈子。
「そう言えば、皆さんのパートナーは……」
「場所はわからんが、人質として捕らえられている。そこが、この大会を使ったアルハザンの巧妙なところでな。ペアの内、力のある者はこの場所で強制労働をさせ……力のない者はそれが逃げんように、人質として監禁している。かくして我々は、アルハザンに従わざるを得ないというわけだ」
うまい方法だとヒデオは思った。
弱い方のパートナーであれば、力で押さえ付けることもまた容易。そして信頼し合うパートナー同士だからこそ、片方を人質とすれば片方はそれを無視できず、抵抗できなくなる。ペアでの参加を原則とする、聖魔杯の裏をかいたものだった。
「でも……本官、岡丸はここに……」
〝……で、ござるな。ウィル子殿の方はわからぬでござるが……〟
ヒデオにはその理由がすぐにわかった。美奈子の性格から言って、そんな事情を聞かされれば自分だけ逃げ出そうとは思いはしまい。そういう性格すら、大会期間中の勝負を通してリサーチ済みなのだ。それに彼女の場合は特殊で、岡丸というパートナーを持つことで初めて実力を発揮する。作業をはかどらせるための戦闘要員としては、その方が良かったのだろう。
だが、自分は……。
(……)
なんてことはない。ただ、レナの逆鱗に触れたのだ。端から脱出なんてできるようなタマではないと見透かされ、またこの地獄で手先として働けというのですらなく、ただ恐怖と絶望の内に死ねと言われたのだ。
「後で、電子の精霊だと聞いたが……ウィル子君は」
問う大佐へ、ヒデオは弱々しくかぶりを振った。
わからない。今頃はウィル子も捕まっているのか……いや、あるいは彼女は素速い。ことウイルスという出自から、逃げることに関してはかなりの自信を持っていた。そもそも現実と電子とを行き交う彼女を、こうして捕らえておくことは不可能に思える。いつか彼女自身が言っていたが、屛風の中の虎なのだ。
大丈夫だろう。彼女なら。
そう思いたい。今は、それを願うしかない。
「ふむ……ならばやはり、希望はあるというわけだ」
予期せぬ大佐の言葉に、ヒデオはわずかばかり顔を上げた。
美奈子が小首を傾げる。
「どういうことでしょうか?」
「かつて私は、エンジェルセイバーという部隊の司令官だった」
アーチェスの口から、そんな言葉を聞いた気がする。
「エンジェルセイバーというのは、日本の関東機関のような対魔組織とは違ってね。我々の世界に対する、異界からの脅威を排除するための、天界直属の部隊だ」
「天、界……?」
いよいよ疑わしく美奈子が眉根を寄せる。
「世界の存在そのものを管理している、天使たちの世界だ」
まあ、そういうものもあるのだろう。この都市で、ここまできて細かいことを気にしてはいられない。
「私はもうとっくに引退していたのだが……何かあるかもしれない、と、この隔離空間都市を創造した天使に言われてね。魔界から訪れた生粋の魔族、アーチェスが嚙んでいるとなればなおのこと……私は老後の暇潰しを装い、潜入調査に来たわけだ」
だから一年前、最速で会場入りを果たした。
「そして……君に負けた」
大佐の浮かべたシニカルな笑みが、ヒデオへ向いた。
「だが、それがビンゴだった。恐らく普通に勝ち進んでいったところで、連中はそのしっぽを摑ませなかっただろう。負けたからこそ、この大会を逆手にとったアルハザンの実体にぶち当たったのだ。そしてヴェロッキアから未来視の話を聞き、確信したよ。そのために君は、優勝候補であったこの私に勝負を挑んできたのだと。そして君がこの場所を訪れたとき、勝利を確信した……!」
(……あぁ……)
そうか。
またヒデオの心が痛む。
「そうでなければ未来視である君が、望んでこんな所へ来るはずがない。ウィル子君は安全な場所へ逃し……今頃は、どこかと連絡を取っているのだろう? 違うかね?」
さも自信げな大佐のしたり顔。そしてさっき見た笑顔。自分と美奈子を歓迎した、面々の笑顔。地中にいた彼らは、知らないのだ。上の広場での噂など。
噂というより……その事実を。
レミーナが、透き通るような声を弾ませる。
「もう、人質の居場所はわかったんでしょうか? それとも今、視えていたりするんですか? あんな人ですけど、一応、私のプロデューサーですし……」
追ってアカネも立ち上がる。
「ね、ダーリン! うちのブランケンも、みんなも、無事なのよね!? で、私たちもみんな無事に脱出できるのがわかったから、助けに来てくれたのよね!?」
「ワタシノセイデ 地球人デアル こばやし氏ニ 何カアッタリシタラ 銀河間ノ関係ニ 再ビ亀裂ガ……」
「サンゼルマンはどうなのだ? 老いてはいるが、父の代より仕える我の城の筆頭執事でな……」
「おやっさんは、腰痛で苦しんでたりしないか!?」
「ジョニーのやつぁ……元気でやってるかい……」
期待。
期待と希望。
一身に、背負えるはずもない。
(……)
俯き、ヒデオは顔を覆った。
笑うべきところか。
いや、笑えればどんなにラクか。
馬鹿さ加減に。せめて自分の馬鹿さ加減に、呆れ笑い飛ばせれば。それともいきなりキレて、喚いたりするのが正しいのだろうか。事情を知れば同情してくれるのだろうか?
何より恨みがましいのは、そんなことを理性的に想像はできても、感情的にはなれない自分だった。そうして真実を打ち明けて後、罵倒され蔑まれるところばかりが目に浮かぶ。
だから心を押し込める。だから何も言えなくなる。黙っているから、また想像の余地が入る。どこまでもどこまでも悪循環していくことが目に見えていて、それをやめられない自分がまた嫌になる。
どうして自分は、あのまま怪物に食われて死んでしまえなかった。
美奈子だけが痛ましげにうろたえる。俯き押し黙るヒデオを、皆が不思議に思い始めたときだった。
「早い話が、その男は魔眼でもなんでもなかったのですニャア」
ぶしつけにドアを開けたのは、猫の耳をピコリと動かしたあのアパートの大家……ミッシェルだった。
③
背後に大会役員を装った、銃で武装した黒服の数人を引き連れて、台車に載せた木箱を押してくる。
「食料と、新入りの生活用具一式ですニャ」
「それはありがたいが……今の言葉はどういう意味だね、ミッシェル」
慣れたやり取りなのだろうか。
斜に構えた大佐を、彼女が笑う。
「どうもこうも……そのヒキコモリの顔付きを見ればわかりますのニャ。つい先日判明したのですがニャ? その男はただの田舎者で、東京に出て就職失敗したくらいでヒキコモリになるような、ダメ人間でしたのニャア。本当の就職氷河期には、四十社や五十社落ちるなんて当たり前の話だったですのにニャ」
ミッシェルはニャアニャア笑い、ヒデオの座る椅子の脚をコツンと蹴った。部屋中の視線がヒデオに集中する。そのままヒデオの心に突き刺さる。
居たたまれぬ静寂。
だがヒデオには言い返すだけの言葉も気力もなかった。どうせ、それが事実だった。だから、死んでしまえというのに。ただただ、死ねと自らに言い聞かせながら押し黙る。
本当に死ねるわけでもないのに。
「それが身の程も知らずに未来視なんて名乗ったものだから、騒ぎの始まりですニャ。そんなスゴイ能力をアルハザンに引き込むために、ヒデオのお嫁になろうとまで考えていた霧島さんは、カンカンですのニャ」
「フッ……フフフッ」
真っ先に笑ったのは、大佐だった。
「ハッハッ! アッハハハ! そうか! そうなのかね!?」
笑い、大佐は配給の中からドライシガーの箱を取り出すと、慣れた手つきで封を破った。ミッシェルは、そんな余裕ぶった態度が気に入らぬように、頭の上の耳をピコピコ動かす。
「何がおかしいですかニャ」
大佐はマッチで葉巻の先端を炙りながら、にやけ顔で一息。
「何がおかしくないのかね? つまり君はこう言ったわけだ、ミッシェル。この私も、アーチェスも、聖魔王鈴蘭も……いや、ひいてはこの都市全体が、そんな何の力もない青年にいいように騙され、振り回されていただけだと」
「そですのニャ」
「第四世界、澱の世界、常識の外側を知る我々が……ただの一般社会から迷い込んだ、なんの変哲もない青年に足をすくわれたと? ならば我々からしてみればあまりに滑稽、傍から見たら痛快以外の何だというのかね」
そして彼は悠然と紫煙を吹く。
ミッシェルはむっとした顔で、その煙を虚空に払う。
「とにかく、その男が来たから逃げられると思ったら大間違いですのニャ。お前たちは邪神召喚のための穴を、黙々と掘ってればいいのですニャ」
一度釘を刺し、踵を返す……その背に向かい、ヒデオは席を立った。
「あ……の。大家、さん……」
「何なのニャ! 私はもうお前の大家じゃないニャ。お前たちの住んでた部屋は、勝手に引き払わせてもらうのニャ」
「では……、ウィル子は」
「知らないニャ。エリーゼ・ミスリライトならともかく、浮いて食べてネットするしか能のない精霊なんていらないのニャ」
振り返ったミッシェルは、ニャア、と意地悪げに口元を三日月に。
「でもヒキコモリは死にたがってたとほのめかしたら、血相変えてたのニャ。ということはお前、ヒキコモリな上に自殺志願ニャ? それならアーチェス様も心を痛めずに済むニャ。自分探しの旅はもう終わりニャ。魔物にでも食われて望み通りさっさと死ぬといいニャア」
ばたん。ミッシェルたちが出て行き、ドアは、元のように閉ざされた。
(……)
そうか。
でも、よかった。ウィル子にまでは、危害が及ばなかったらしい。
いや、しかし当然か。他の皆と違い、自分には人質なんて抑止力がなくとも抗う術がない。ならば、それだけ周到に企てを進めているアルハザンが、無駄な労力を割くはずもない。皮肉なことに、無力が故に安心していいのだ。
ミッシェルの消えたドアを眺めたまま、大佐がしれっとした顔で紫煙を吐き出した。
「……今の話は、事実かね。ヒデオ君」
もう、疲れ切っていた。
もうどうでもいいだろう。どうだって。
ヒデオは法廷で己が罪を吐露するように、小さく、小さく呟いた。
「……ええ。全て……事実です……」
④
(……)
それが二週間前のこと。
昼尚暗い地の底で、ヒデオはスコップを振るう。
(否……)
こんな地の底では、いまが昼なのかどうかさえ疑わしい。昨今のトンネル工事というほどの規模ではない。テレビがまだモノクロだった頃の、炭坑のイメージが近い。見える景色は、いつももうもうたる粉塵に霞がかっているようだ。
大佐が空気ハンマーで、ハニ悪がツルハシで、ヴェロッキアがその爪で切り崩した岩盤を、ジャバンとグレイが押してきたトロッコに積んでいく。魔物が現れれば、美奈子とアカネが退ける。手が足りなければ、ヒデオ以外の者たちは作業の手を休め応援に行く。
ヒデオはただスコップを振るう。
腹が空けば食べ、疲れれば交代で休み、起きればまた掘り進む。
そんな生活が二週間。
(否……)
まだ二週間。
いつまで続くかわからないのだから。
死ぬまで続く話なら、いっそ今、早いうちに死んだ方がいい。
死んだ方が。
(……)
アルハザンの周到さというのは、そうして時間が経つにつれ、如実に思い知らされるようになってくる。あの時のミッシェルの差し入れがそうだった。生きる分には、何不自由ない衣食住が与えられる。食料と言ってもパンと水だけではない。肉や魚、野菜はもちろん、色取り取りの野菜や果物もふんだんに送られてくる。ハニ悪が腕を振るえば、それなりのフルコースも完成してしまう。
大佐の葉巻などその顕著な例だ。コーヒーや紅茶、酒や甘味のような嗜好品さえ、上で暮らしているのと同程度に与えられる。
アルハザンは不当な暴力ではなく、社会に食い込むことで活動してきたという。即ち人の扱い方、翻っては飼い殺す術すら心得ているのだ。不満に思われるような芽は可能な限り潰し、従っている限りは安泰であることを覚え込ませる。
(……)
また少数精鋭という点もよく考えられていた。凡庸な者では、瞬く間に魔物に食われて終わりだろう。かといって数を揃えれば……あまり多くを行方不明にしたのでは、陰謀を悟られるリスクは高くなる。また、ただ強いだけでは逆に、手に負えなくなる可能性が高まる。恐らく、みーこやエルシアのような参加者は、たとえ負けたとしてもここには送り込まれてこないだろう。その力量同様、精神的にも強すぎる。
だからパートナーとの結びつきが強く、人質の意味が生きる程度の精神性をもち、かつ簡単には魔物に屈しない適度な強さを持つ者たちに、自暴自棄にならない程度の快適な暮らしを供し、そうして怪しまれない必要最低限の人数で掘削の作業をさせている。
だがそれがまさか、これまで自分が打ち勝ってきたライバルたちばかりであるとは、何という皮肉だろう。知れず自分はアルハザンの陰謀の手助けをし、あたかも良くできたオチのように、最後には自分が放り込まれたのだ。
偽り、演じ続けてきた本当のツケがここにあった。
それは懲役の如き、機械的な単純作業の繰り返し。
機械的な生活。
僅かばかりのリスクがあるだけの。
何ら不足のない。
即ち感動もない。
ならば生きていたところで意味もない。
まるで、自身の人生のような。
「ヒデオ君!」
大佐の声に、ようやく我に返る。振り返れば、名も知らぬ魔物が自身の傍らに湧いていた。湧いては倒され、湧いては消え。ではそれら怪物に意味はあるのだろうか。
死にたくはないが。
逃げるのは、もっと面倒だった。
「岡丸っ!!」
美奈子の投擲した十手が、ヒデオを切り裂こうとした魔物の爪を間髪弾く。いや、その軌道を逸らしただけ。浅くではあったが、肩口より袈裟に切るよう皮を裂き、肉をかすめる。
「っ……」
痛みで、ヒデオは今度こそ正気を取り戻した。死にたい。でも痛いのは嫌だ。ヒデオが横に転がり逃げたところで、大佐が重く鋭いソバットを喰らわせ魔物をよろめかせる。今度はヴェロッキアが逆袈裟に爪で切り裂き、ようやく魔物は霧散した。
「ヒデオさん、大丈夫ですか!?」
美奈子に抱き起こされる。痛いは痛いが、パニックになるほどのものでもない。いや、元来、パニックを起こせるほどの元気もない。辟易と嘆息したのはヴェロッキアだった。
「生きる気もない奴など、死なせておけばよいのだ。この我の手を煩わせおって」
美奈子が言い返す。
「そんな言い方ってあんまりです! 仲間じゃないですか! それにヒデオさんは……!」
「なんの力もないと言いたいのだろう。褒めているのかけなしているのかわからんが、聞き飽きたわ、そんな話」
そう言って片膝ついた吸血鬼が、赤眼でヒデオの目を覗き込む。
「全く我も見誤ったものよ。死んだ魚でももう少しまともにこの世を見ようと言うものを、あの晩の我は何を魔眼と思ったか……。未来視であれば、我が負けるも止む無しと言い聞かせてきたのだがな」
「……すみま、せん……」
ヒデオの言葉にヴェロッキアは眉をひそめ……さらにうんざりとした顔になる。
「ああ、よいよい。貴様のその言葉も聞き飽きた。まったくここへ来てからというもの、返事をするか謝るかしか知らん奴だな……」
大佐が一度目を伏せ、肩を解すように首を鳴らした。
「……一息入れるとしよう。美奈子君、すまないがヒデオ君を……」
「いえ……大丈夫、です。一人で……」
一人立ち上がり、歩き出す。
「ヒデオさん……」
それ以外かける言葉も見つからず、美奈子も、その他の者たちも、フラフラと遠ざかるヒデオの後ろ姿を無言で見送るしかできなかった。
◆
疲れ切った足取りで、救護室にやってくる。専門の医者がいるわけでもない。部屋の一つに医療用具を取り揃え、ベッドを一つ置いただけの部屋をそう呼んでいるだけだ。
「レミーナの、診察コ~ナ~♪」
大抵の当番は彼女だった。一日一回、作業が始まる前に魔物出現率というものを下げ、空間を浄化するために歌いに出る以外の大概は、負傷者のためにここで待機している。希にキッチンに立って食事の下ごしらえや、おやつを作ったりもしているが。
「はい、今日はどうしましたか」
「……。いえ」
見ての通りなのですが、と、血の流れる胸元を指差す。
「冗談ですよ、冗談」
笑い、棚から消毒薬を取り出すレミーナ。無駄に白衣をまとい、無駄に聴診器を下げている。
「一度やってみたかったんです、お医者さんごっこ」
(……)
「なのにここの皆さんたら強い人ばっかりで、なかなか怪我をしてくれないんですもの」
言いながら脱脂綿を用意し、包帯を取り出し。
「せっかく怪我をしたと思っても、ヴェロッキアさんは瞬きする間に勝手に治っちゃうし」
さらに点滴を用意し、注射器を取り出し。
「そうそう、ハニ悪さんなんて、接着剤でペタって。まああの方の場合は、治療よりも破片がパズルみたいになって、それを合わせるのが大変なんですけど……」
縫合針にメスと鉗子、ハンマーにノミ、手回しドリル、チタンボルト、ベッド脇のサイドテーブルにずらずらずらと。
「~♪」
鼻歌交じりに、両手にゴム手袋を装着するレミーナ。よく聞くと。
「皮を剝ぐ~♪ ぷれでた~♪ 仕留めた獲物ぉ~トロフィ~に~♪」
ものすごい歌をものすごい綺麗な声で歌っていた。
「……。あの。先生」
「はい、なんですか?」
先生と呼ばれて嬉しかったのか。素晴らしい笑顔で振り返った手には、ノミと金槌。
「……いえ。つまり……。その」
「大丈夫ですよ。こう見えても私、セイレーンですから。溺れている人たちを助けて感謝された経験も……」
「……それは。自作、自演と」
ヘラッ、とレミーナの笑顔に影が差した。
「先生を信じてくれないんですか?」
また変なツボにハマったらしい。
「さ、ベッドに横になってください。頭の病気を摘出しますから」
(……)
死ぬのと、ヒドイ目に遭うのとは違うと思う。しかしウィル子がいないと。自分一人ではツッコミを入れることすらできない。
そんな表情を見て取ったレミーナは、寂しげに、工具を消毒薬と脱脂綿に持ち替える。
「ヒデオさんの場合は怪我以上に、心の病の方が深刻そうなので、ちょっとでも笑ってもらおうと思ったんですけど……悪ふざけが過ぎたみたいですね。ごめんなさい」
そんな気遣いが、なお心苦しい。
服を脱ぎ、傷口を洗浄し。
「でも、なんだかたくましくなりましたね」
「……。何が、でしょうか」
「少し引き締まったでしょう?」
言って、二の腕のあたりを摘むレミーナ。そういえばあの後。レナに殴打された傷を手当てしてくれたのも、彼女だった。
「毎日の重労働で鍛えられたんですね」
言われてみれば、そんな気もした。当初の二~三日こそ筋肉痛に苛まれていたが、それも和らいできた。炎症で腫れぼったいのかと思っていたのは、どうやら筋肉が付いてきただけだったようだ。
(……)
なんとなく嬉しかった。
絶望ばかりしている間に、自棄になってスコップを振り続けている間に、自分は、ちょっとだけ強くなっていた。
もちろん、それを喜んでどうなるわけでもない。自分はこの場所に閉じこめられている。事態は何も好転していない。だが……ここへ来て初めて、少しだけ、嬉しかったのだ。
レミーナは薬ビンからすくった軟膏を、消毒した傷口を塞ぐように載せていく。染みるが、騒ぐほどのものではない。聖魔グランプリでの、エリーゼの攻撃に比べれば……と、内心で言い聞かせるほど染みる薬だったのだが、騒がない。
「歌は、もう歌わないんですか?」
歌?
突拍子もない言葉に、瞬きする。
「曲名を聞くの、忘れちゃいましたけど……ほら、あの酒場で。あの楽しい音楽」
それでもさすがセイレーンと言うべきか。レミーナは鼻歌ながら、その時を思い起こすように楽しげに、指揮棒代わりに指を振り振り、軽快なメロディを再現してみせる。
「……」
「~っ♪……歌えば、元気になるかも知れませんよ。生憎ここには、心に付ける薬はありませんけれど。歌は、慰めることも、勇気付けることもできるんですよ」
リズムを口ずさみながら、彼女は包帯を巻いていく。
◆
やがて夕食の時間となり、一同が集う食堂にレミーナが遅れてやってきた。注目する全員へ、レミーナが安心させるように微笑んだ。
「ご心配なく、大丈夫ですよ。アカネさんの調合してくれたあの薬なら、二~三日もすれば傷痕も残りませんから。今は痛み止めと栄養剤を点滴して、休んでもらっています」
「そうですか。よかった……」
安堵し、美奈子は胸を撫で下ろした。せっかくのハニ悪の料理、今日は味もわからなかったが、ようやく落ち着いて食べられる。
「デスガ 未ダニ 信ジラレマセン。アノひでお氏が めんたる面ニ ソレホド深刻ナ不安ヲ 抱エテイタトハ……」
当初、グレイに限らず誰もがそう思った。
美奈子もあの夜、レナからはっきりと告げられるまで、思いも寄らなかった。何の戦闘経験もなく、何らかの組織に属していたわけでもなく、これといった家柄も持たず、こんな世界のことなど露も知らない。
本当になんの変哲もない一般人。
「絶対目付き悪怪人だと思ったんだが……」
ジャバンスーツを脱いだ中の人、柴崎甲士郎が腕組みして唸る。それへアカネが、快くない顔でフォークを向けた。
「あのヘルメット、どんなカメラとモニターなのよ。ダーリンが怪人だなんて」
ヴェロッキアが食後の輸血パックの封を切った。
「だが我が魔眼と見間違えたほどの目付きだぞ。貴様こそどういう目をしているのだ、小娘」
「私は見た目なんてどうでもいいの。大事なのはハートよ。ハートなの」
自信げに胸元を叩くアカネを、ハニ悪がニヒルに笑った。
「……そいつぁつまり……遠回しにヒデオの見た目を、否定してるってことかい……」
「う……い、いいじゃない別に! そうよ、焼き物よりはいいわよ!」
「……」
ハニ悪が、黙ってマルボロに火を点ける。心なしかその煙は、哀愁を漂わせるように揺れて見えた。
〝懐かしいでござるな。美奈子殿も最初はヒデオ殿を、殺人犯だの麻薬常〟
「うっさい」
こんこんっ、とテーブルの角で岡丸を叩き、美奈子は咳払い。続けて言う。
「とにかく、今はヒデオさんの外見をどうこう言ったって始まりません」
「その通りだ」
自分の皿を平らげた大佐が、葉巻を取り出そうとしていた。
「かく言う私も、てっきり彼が歴戦の猛者だと思い込んでいたが……いま問題にするべきは、彼の精神状態の方だ」
即ち。
「……どこまで保つか、だ」
アルハザンによって相応の衣食住が与えられているとはいえ、異常な状況下にあることに違いはないのだ。
生活環境の変化というのは、それだけでも通常、相当のストレスがかかるものだ。だがこの場所で危惧すべきはそれだけに留まらない。
いつここから出られるのか。それとも死ぬまで閉じ込められる運命なのか。落盤事故や手に負いきれないほどの魔物の発生が、いつ起きないとも限らない。アルハザンが手の平を返し、食料の供給をやめてしまっただけで、ここにいる全員は死を余儀なくされるだろう。悪いことはいくらでも考えられ、しかし現状、打開策はほとんど講じようがない。
各々にはまだ、自己の強さに裏打ちされた自信がある。だがヒデオにはそれが皆無。のみならず、こうした命懸けの状況下も初めてのこととなれば、その心境はいかばかりか。彼らが危惧しているのはそういうことだった。
「あいつなりに……よく、働いちゃあいるが……」
ハニ悪の低い呟きは、しかし肯定的な色を含んではいなかった。むしろ、よく投げ出さずに続いていると感心すべきだろう。
普通であれば。
だが、真に強い者たちは知っている。
「そうだ。それが逆に危険な兆候だ。理不尽に対する怒りや、恐怖に対する悲鳴、それらはストレスに抗するための正常な精神活動だ。だが、彼にはそれがない。いっそ喚くなり、当たり散らすなりしてくれた方が、結果として長く保つだろう」
「そうでなければ……?」
つまり今のままでは、と。
美奈子へ、大佐は渋い顔で一息。
「……死に至る病だ。最悪、彼が自らを殺す」
「っ!」
美奈子は息を吞んだ。
それから、ゆっくりとかぶりを振った。
「……噓です。そんなはずありません。だって、私は知っているんです。見ているんです」
聖魔グランプリでの彼の勇姿を。あの冷たい雨の中を、傷付き疲れ果てても、自分を担いでゴールの一線まで辿り着いた、揺るぎない意志の強さを。
「ここにいる私たち全員に勝ってきたんじゃありませんか! そのヒデオさんが、どうして自分に負けたりするんですか……!?」
「だが事実として、我の目に映る精気はまるで別物だ」
ヴェロッキアの言葉に、美奈子は振り返る。
「精気って……?」
「我は吸血鬼よ。獲物がウマイかマズイかくらいは見ればわかる。さながら今、奴の血を吸ったところでだ……」
彼は吸いかけの、配給の輸血パックを持ち上げて見せた。
「……これと同じで、スカスカでウマくもあるまい。打てば響くという言葉もあろうが、今の奴はああしてからかったところで、イラつこうとも、嫌がろうともせん。心がなんら応えようとしておらんのだ」
努めて感情を殺しているならまだしも。大佐の指摘するとおり、精神が正常に活動していないのだと。いや、正常か異常かどころか、活動そのものを行っていないのだと。ヴェロッキアは、目に見える事実として述べていた。
「じゃあ……あのときあなたの言った、生きる気がない、というのは……」
輸血パックのストローを咥えたまま、口の端を持ち上げる。
「そのままの意味よ。同族故か貴様らはどうも優しいようだから、この際、我がハッキリと言ってやろう。もし生きておるだけの荷物となって、我ら全員の足を引くようなことになれば……見限るも止む無しとは思わんか?」
頷く者はいなかったが、全員、ヴェロッキアの言葉の意は汲み取っていた。理を突き詰めて考えた場合に、自然に導き出される発想であり、結論だと。
「……そうだな。最悪、その可能性も考慮しておくべきだろう」
「そんな! 大佐、あなたまで……!」
「落ち着きたまえ、美奈子君。最悪の話だ。最悪、鎮静剤代わりにモルヒネでも打ち続けねばならんような場合の話だ。進んで切り捨てようなどとは誰も思っていない」
それは、全員の表情を見ればわかる。ヴェロッキアにしても吸血鬼という別種だからこそ、嫌われ役のようなところを買ってくれた。いい顔をしてはいない。
「……すみません。私……本官も、少し疲れているみたいで……」
「そうだな。せっかくの食事時にこんな話ばかりでは無理もない。君も、今日は早めに休みたまえ。明日はもう少し建設的な話をするとしよう」
銘々頷き合って静かに食事を終えると、その日は自然と解散となった。
⑤
ヒデオは救護室に一人、タクタクと落ちる点滴の雫を見詰める。
今日の作業は、もう終わったのだろう。空調が少しうるさいだけで、静寂だった。
(……)
心配をさせ、ひどい迷惑をかけている。それはわかる。だから……そこまでされて生きる価値が、自分にはあるのだろうかと。雫を見詰める。
何の機会だったか、子供の頃、近所のお坊さんに聞かされた説話を思い出した。
ある旅人が、底なしの穴に落ちかかったのだという。己を支えるのは、ただ一本の綱ばかり。だが助けはなく、あまつさえその綱を、白いネズミと黒いネズミが交互にかじっていく。そんな中で天からは時折、思い付いたように雨が降り、旅人はその甘い雫によって辛うじて生き長らえる。
まるで救いようのない話だが……。
曰く、それが人生なのだと。
(……)
人は生まれた瞬間から、そうして死という穴の縁にあり、白と黒、昼夜を表す二匹のネズミは容赦なく、命という名の綱を断ち切り始める。その綱の太いか細いかは、それこそ宿命なのだとしても……そうして先が見えて尚、絶望せずに綱にすがっていられるのは、天から恵みが降ってくるからだそうだ。
それが好事。いつか甘い雫が降ってくる、諦めず綱にしがみつき、生きていればきっと良いことがある……そうした希望があればこそ、人は絶望の淵でも生きていけるのだと。
それはただ、それだけの話だったが、なるほどよくした話だと、幼心に納得したものだった。
ただ、なぞらえれば、現在の自分にはそれがなかった。見上げる穴の向こうには、焼け付き骨まで焦がさんばかりの日照りだけが見え、雲のかかる気配もなく、雨など降ろうはずもない。そんな様子が想像すらできない。無理に綱にすがっている必要性が見いだせない。
だが……選択肢はあるだろう。
白と黒のネズミに任せず。
自ら綱を搔っ切るか。
ただ、無気力に手放すか。
(……)
いつしか、点滴の雫が終わる。最後の一葉が散るように。
誰もいない。
レミーナが冗談半分に取り出したメスの在処だけが、ぼうっとした脳裏に、不思議と鮮明に焼き付いていた。
身を起こし、無造作に点滴針を引き抜いた。幽鬼のように起き上がり、歩き、スチール机の棚を開け……そして手にした小さな刃物は、冷たく、白く。何より魅力的なほど美しく、輝いていた。
カッターナイフでは死に至れないのだと、何かで読んだことがある。だがこれならばどうだろう。元より人を切るために生み出された刃物。腱や何かに邪魔されても、それごと断ち切れるのではないか。それとも映画やドラマでよくあるように、傷口を流水に浸さなければ死ぬほどの出血はないのだろうか。
(……)
ならば首はどうだろう。心臓ではさすがに肋骨が邪魔だろうか。
張り裂けんばかりに鼓動が高鳴るほど、思考は驚くほど冷静になっていく。鎮痛剤の睡魔をはね除け、意識が冴え渡っていく。こんなことなら、ネットでも何でもいい、もっとよく調べておくべきだった。詰まるところ、あの頃はまだ本気ではなかったのだ。
だが今は違う。今は違う。これで終わりだ。これで全て終わらせられる。やっと、楽になれるのだ。楽になれるのだ。
首筋に、刃先をあてがった。
さあ、終わりにしよう。
思い残すことはないか?
「……」
思い残すことは。
「……」
思い残すことなど。
ああ。
「っ……!」
思い残すも何も。
未練しか、ないではないか。
ぼろぼろと、馬鹿みたいに涙が出てくる。溢れ出す涙と共に、刃物は震える手指からこぼれ落ちる。静寂の中で嗚咽を殺し、ただ打ち震える。
(どうしてっ……)
どうしてこんなことになった。何を間違えた。自分はこんなではなかった。こんな未来、望んでなどいなかった。周りなど意にも介さず、はしゃぎ回るだけのガキだったではないか。和尚の話だって、友達と墓場で遊び回って怒られたついでの話だったじゃないか。そもそも自分のことを、僕だなんてスカした呼び方をしていなかったじゃないか。周りの目など、気にする暇もないほどにはしゃぎ回っていたあの日々はどこへ。
(帰りたいっ……)
仲間と徹夜して遊び続けたあの頃へ。
僕は信じるよ。僕ならできると。
そう仲間たちと語り合ったあの頃へ。
僕がまだ、俺だったあの頃へ。
何が、違ってしまった……。
「くっ……!」
握り締めた両の拳を、ただ一度、机に向かい振り下ろす。
後悔。
思い通りに生きてこられなかったという、未練。この先、生きていく意味などいい。せめて、生きてきた意味くらい、どうして見いだせない。いいや、違う。そんなことも見つけられぬどうでもいい人生だから、死ねというのに。
何が。どうして。なぜ。
疑問にすらならぬ、そんな言葉だけがいつまでもいつまでも脳裏を渦巻く。

「ヒデオ君」
不意に救護室へ入ってきたのは、大佐だった。
「レミーナから点滴のことを頼まれてきたのだが……」
言いかけ、彼はヒデオの足元に転がるメスに気付き、眉をひそめた。しかし何も言わず、後ろ手にドアを閉めるだけ。
「……なるほど。まあ、君が何を考えていたかは聞くまでもないが……」
一息し、彼は鷹揚に、ベッドに腰かけた。
「それが我々に危害を及ぼすものでない限り、止めもせんよ。何を考え、どう行動するかは君の自由だ」
葉巻を取り出し、一本を咥え。
一本をヒデオへ差し出す。
「……」
袖口で乱暴に涙を拭い、首を横に振ると、彼は葉巻の箱をポケットへ納めながら小さく笑った。
「君はあの時、私に言ったな。この私が、戦場で勝ちすぎた哀れな男だと」
大会の初戦を飾った、あのときのことだ。
「だが私に言わせれば……君は、死というものを知らな過ぎるのではないかね?」
死。死を知らない?
死を?
「大量生産、大量消費、食べるものにも着るものにも当たり前のように不自由しない時代に、それらへのありがたみを感じろと言うのも難しい話だろう。同じように君のような若者は……命というものが当たり前のように生まれ、当たり前のように死んでいくと思っているのではないかね?」
(……)
それはそうだ。みんなと同じ、当たり前のように生まれてきた。みんなと一緒に当たり前のように教育を受け、みんな揃って、当たり前のように青春を過ごしてきた。そして大勢の大人たちに、命は大事だと当たり前のように言われ続けてきた。
なるほど。当たり前すぎて、実感なんてあるわけがない。そういうものだと思い込むのが関の山。
自殺すれば、ああ可哀相だとメディアが面白おかしく持ち上げる。過重労働が悪い、イジメが悪い、学校が悪い、社会が悪い、国が悪い……一時の話のタネにされて、それで終わりだ。それが日々当たり前のように新聞やテレビを賑わせる。だから自殺も当たり前のことではないか。
どうせ自分がいなくなっても誰かがいる。自分なんかいなくたって世界は回る。
命なんてその程度。
何の有り難みもない。
……そう思うことの何が悪い。
思えど表現できぬヒデオに向かい、大佐は言う。
「私はベトナムに行ったとき、思い知らされたのだよ。自由と民主主義のために、たくさん殺した。そしてベトコンは実に簡単に死んでいったよ。ナイフで。銃弾で。爆撃で。ナパームで。同じように、私の仲間たちもなんとも呆気なく死んでいったよ。ジャングルへ行けばトラップで。町へ行けば物売りの少年の自爆で。農村へ行けば少女が手押し車から取り出したAKで……」
回顧するような寂しげな笑顔で、大佐は葉巻を火で炙る。
「そんな中で、私が何を感じたか……わかるかね?」
「……」
何かと思えば当たり前の話だった。生まれてこの方、日本に暮らしていれば夏が来るたび聞かされ続けた、当たり前の常套句だ。
曰く、命は尊いものらしい。だが大人の言うことなど。他人の言葉などどれだけの意味がある。偉ぶって説教する教師によく思った心境。自分は、あんたとは違う。あんたはそうだった。でも自分は自分だと。
昂ぶっていた気持ちが、そのまま苛立ちに置き換わっていく。
だが。
「私はね……幸運を嚙み締めたのだよ。その日、その日を生き延びられたことに。アメリカという国に生まれたことに。充分な訓練を経た上で戦場に出られたことに。枯れ葉剤のせいで生まれたという先天異常の赤ん坊を見たときに」
彼はその時を思い出したように、なんとも嬉しそうに、したり顔で笑っていた。
「そうだろう? 私は満足な医療体制も整わない、ジャングルの僻地の村には生まれなかった。わけもわからず爆弾を抱かされ、敵兵に近付いてこいとは言われなかった。そして第一線の兵士として戦い、生き残れるほどに五体満足に生まれてきた。それを神に感謝したのだよ」
エリーゼ興業の私兵隊長を思い出す。
行き過ぎたが故の、ただしそれ以外の者には決して覆せない、ある種絶対の倫理観。
「良識者は私のような考えを持つことを非難するだろう。不謹慎だとな。だが私は、そんな当たり前のように命が大事だと唱える誰よりも……命がいかに奇跡的なものであるかだけは、実感しているつもりだ」
……奇跡。
「わかるかね? 君はその時代には生まれなかったということだ。そういう地域でもいいが……」
言って、苦笑。小さく肩をすくめる。
「いや、やはりわからんのかも知れんな。何不自由のない今の時代では。私も君のような若者と、こうしてゆっくり話をしたことはないが……少なくとも私や私の仲間たちは、殺されこそすれ、今生きているという奇跡を自ら手放そうとは思わなかったよ」
そうして……死に向かおうとした熱は、ゆっくりとだが。熱した鉄の冷めるようにゆっくりとだが。
「君が極度の恐慌状態や錯乱状態に陥り、害が及ぶに至った場合は私が君を殺す」
「っ……」
不意打ちのような言葉に、ヒデオは身をすくめた。
ベッドに腰掛けたまま、見上げるような無表情な彼の視線、無感情な声は、先ほど見たメスの輝きほどの慈悲もない。
「君は実に簡単に死ぬだろう。ベトコンなどよりよほど容易く」
殺意。
魔物が恐ろしくなかったのは、つまりあれらは見境なく暴れ、誰彼構わず襲いかかるだけで。ほっといても誰かが倒してくれると、どこか安心していたからだった。
明確な殺意が、自己に向けられるということ。自らの命が断たれるという宣告は、視覚以上に胸裡を揺さぶった。今まで生きてこられた奇跡が、失われるという恐怖。いくら自分で死ぬぞと思ったところで……それは、自己陶酔的に盛り上がっていただけで。殺されるという事実は、より如実に、ヒデオに命というものを実感させた。
何とはなしに大佐が立ち上がっただけで、ヒデオは震える膝で後退る。
「自分で死にきれんようなら、いつでも私に言いたまえ。なんの呵責もなく殺してやろう。自殺などよりよほど楽にだ」
「……」
本当に死を望んでいるのなら。ここで、殺して欲しいと懇願できたはずなのだ。
そう。
結局、死にたくはないのだ。誰が好きこのんで死を選ぶだろうか。いや、誰も死を望みはしない。寿命だからやむなく死ぬ。不幸な事故や怪我で、仕方なく死ぬ。生活が立ちゆかなくなり、どうしようもなく死ぬ。周囲の悪意に心の居場所をなくし、他に逃れる術がないから死ぬ。
そうした誰だって、生きられるなら生きていたいはずなのだ。生きたかったはずなのに。
(……)
自分の場合はどうか。
自分の思うように生きられなかったから。それだけだ。事業に挑戦し、失敗したわけではない。隣人たちから謂れない迫害を受けたわけでもない。他者など関係なく、ただ自己完結的に死のうとした。あまりにも幼稚なわがままだ。
それはゲームに負けそうになったから、リセットボタンを押そうとしているような惰弱でしかない。奇跡を手放すには、あまりにも下らない、最低の理由だ。
だが現実にリセットなど存在しない。自分というゲームが終わるとしたら、それは死ぬときだけ。それを自身がゲームオーバーと解釈するか、クリアと解釈するかの違いでしかない。そこにやり直しは存在しない。
奇跡は一度しか起きないから奇跡なのだ。
そして人生というゲームに勝つためには……自分という人生を自分で納得するためには。
「……」
ヒデオに訪れた、小さな小さな意識の変化。
些細ではあったが。一度胸に刻まれた奇跡という言葉は、ヒデオの思考を生きる方へ、生きる方へと。
「……落ち着いたかね」
「……」
「まあ、今の状況では我々は世界を破滅に導く手伝いをしているだけだ。それだけであれば、死んだ方がマシなのかも知れんが……だからといって、今すぐ死を選ぶ必要もあるまい。どうせ我々には、命以外に失うものなどないのだ。誰かにわがままを言ってみるのもいい。ミッシェルが来たときに、欲しいものを言ってみるのもいい。こんな暮らしだが、死ぬまでの時間はあるのだ……ならばそのときまで、好き勝手生きてみたらどうかね」
「好き……勝手に……」
いつも生真面目に、誰かの目を気にして生きてきたヒデオにとって、それは些細な言葉であったが。そっと肩の荷を下ろしてくれるような言葉であった。
(好き勝手に……)
気楽に。
……そうか。それもいいかもしれない。
東京と違って、幸か不幸か、働かずとも食うに困ることはない。いや……むしろ、幸か不幸か働かざるを得ない状況だ。筋肉が付いて、ちょっと嬉しかったじゃないか。明日働けば、もうちょっと嬉しいかもしれない。甘い雫は降らなくとも、霞くらいは漂ってくるかもしれない。
アパートに引きこもっているよりは、よほど健常な生活だ。そして彼らは、魔眼を騙った自分を、真実を知ってなお受け入れてくれているのではないか。それがすでに……この上なく、有り難いことなのではないか。
(……)
ならば……明日の一日を、生きてみよう。
そして明日、生きられたら……明後日の、もう一日生きてみよう。
生きて。
「………生きて……、みようかと……」
わずかばかり穏やかになったヒデオの表情に、大佐が表情を和らげた。
「そうしたまえ。君を……」
大佐が何やら言いかけた矢先、救護室のドアが賑やかに開かれた。
「ヒデオさん、お腹空きましたよね! 本官がおにぎりを!!」
「ダーリンは怪我人だから私の作ったお粥の方がいいのよねっ!!」
美奈子とアカネが先を争うようにずかずかと。
「バターとミルクでべったりこってり煮込んだお粥の意義が失われそうな食べ物は日本人のヒデオさんの口に合いません!!」
「いい歳しておにぎりしか作れないようなハタチ以上の女に料理のこと語られたくないわよーっ!!」
きゃーすかきゃーすか。
ヒデオの肩を叩いた大佐が、小さく呟く。
「……こうして君を心配する者もいる」
「……、はい……」
ヒデオは、小さく頷いた。
有り難さか、情けなさかはわからなかったが、また少し滲んだ涙を、こぼれる前に拭い去る。
さっき、死ななかったおかげで。今また、嬉しかった。今は、それで充分なのだと。
たとえ自分に何もなく、自ら理想を得られずとも……こうして、嬉しさを与えてくれる仲間がいる。好き勝手に。それが許されるのならば……せめて少しだけ、甘えさせてもらおうと。
人は、一人では生きられない。
当たり前の中でこそ、そんな当たり前のことを忘れてしまっていた。