低い瘤の群れとも見えるハルツ山地に、霧はない。
蒼穹は爽快に雲を疾駆させ、山麓は一望の深緑を敷いている。
その澄明な風光の中、白黒の蝶も共に踊る、花崗岩の突き出し転がった岩場で、
「花が、お好きですか?」
小さく咲いた花を、馬鹿のように呆然と見下ろしていたらしい。
「っ!?」
背後からかかった女性の声に、〝闇の雫〟チェルノボーグは不意を突かれた。世界有数の規模を持つ〝紅世の徒〟の軍団[とむらいの鐘]大幹部『九垓天秤』の一角、隠密頭の地位に在る者として、あってはならない失態である。誤魔化し半分に生返事をした。
「ん、ああ」
黒衣と黒髪、獣の耳、痩身に右の巨腕、という剣呑な姿をした己が、花などに見入っていた、というのは、少々……と言わず、大いに大いに体裁が悪い。なにより、
(もしソカルあたりに知られれば、百年はもの笑いの種にされてしまう)
なんとか話を逸らす。
「主は、まだ到着されぬか」
主とは、彼女ら[とむらいの鐘]の首領、〝棺の織手〟アシズのことである。
声をかけた〝徒〟は、自分の問いを流されたことに頓着しない。美女の顔を中心に抱いた花、という異形を僅か前に傾けて頷く。
「はい、殿軍よりの脱落者がないか、道具どもの追撃がないか、お気を配られながらの行軍ですから……常のように、ゆるりと参られるのでは?」
この〝徒〟の名は〝架綻の片〟アルラウネ。援護や補助の力に長けた自在師で、チェルノボーグと同じ『九垓天秤』の一角たる先手大将〝巌凱〟ウルリクムミの副官を務めている。ちなみに、言葉を疑問系で結ぶのは、彼女の癖である。
「そうか……」
チェルノボーグは短く返し、
「……おまえなら」
訊こうとして、止めた。
アルラウネは、隠密頭たる〝紅世の王〟の立場と気質、普段の親交から、止められた問いの内容と意味を、容易に察する(質実剛健にして不言実行、おまけに文字通りな鉄面皮の持ち主を上官に持つ彼女にとって、表に出ない意図や感情を汲み取ることは、副官として必須の職能でもあった)。
「この花、ですか?」
「いや……」
口だけの否定に、アルラウネはにっこりと笑い返す。
「この花は──」
「待て」
と、解説の出だしに、今度は本気の制止がかかった。
チェルノボーグの耳がぴんと立って、表情も鋭くなっている。
が、これも同じであることが、アルラウネには分かっていた。
案の定、カラカラと乾いた足音が、背後の山道から近付いてくる。
「おお、こんな所におられましたか」
「なんの用だ、痩せ牛」
チェルノボーグの、これ以上ないほど険悪な声に出迎えられたのは、彼女らに負けず劣らずの異形。派手な礼服で着飾った、直立する牛骨だった。
〝大擁炉〟モレク。『九垓天秤』の一角、宰相の地位にある強大な〝王〟である。が、
「は、はい、実は入城の件に関して、ソカル殿から一つ、提案が……仮本営に『九垓天秤』総員、集まっております」
出迎えにオドオドと答え、骨の身を震わせる姿には、貫禄の欠片もない。
その様に、チェルノボーグはむかっ腹を立てる。目に見えるように。
「また、なにか妙な難癖をつけているのか」
「いえ、そんな、難癖と言うほどのことでは」
モレクは目に見える部分に対して慌てふためき、同輩を庇った。
「だいたい、痩せ牛」
チェルノボーグは攻勢を緩めない。
「貴様、なぜ下僚の〝徒〟を使わん。宰相自身が伝令に走るなど、軽率にも程があるぞ」
「も、申し訳ありません。なにせ皆が皆、入城の準備に忙しい折でして」
「それを申し訳と言うのだ」
ペコペコするモレクに叱声を飛ばして、しかし促す彼に続いている。
そんな素直でない彼女を、同性としておかしく思うアルラウネに、
「そうだ、アルラウネ殿」
モレクが足を止め、声をかけた(彼は下僚にも殿と付ける)。
「ウルリクムミ殿が、郭内に割り振る人員の配置について、ご相談があるとか。同道を願えますか?」
これは、求められるまでもなかった。
「私、少々他用が……ややの後刻に参上するご許可を?」
「はあ。入城後の事案ですから、特段の問題はないはずですが」
ところが、この鈍い男は、そんな気遣いには全く気付かず、別の話を続けようとする。
「ウルリクムミ殿といえば、『建造の護衛に当たった者らに、なんらかの褒章で報いたい』という伺いを、私とニヌルタ殿も含めた連名で主に出そうという話も──、っと!?」
いい加減焦れたチェルノボーグの巨腕が、礼服の襟首を掴んだ。
「なにをグズグズしている、行くぞ痩せ牛!」
「は、はい、すいません。アルラウネ殿、この話はまた後刻に……」
ズルズルと引き摺られてゆく宰相──職制上、彼の上あるのは首領たるアシズのみ、つまり組織のナンバー2──の情けない姿を、しかしアルラウネは敬意を込めた目礼で送った。そうして、花たる身をひらりと回し、対面に鎮座する山を、その頂に聳える威容を見やる。
アシズ率いる殿軍の合流を仮本営にて待つ[とむらいの鐘]総軍が、本夕入城する新たな本拠地。なだらかな山に被せられた冠とも見える、金城鉄壁の大城塞。
ブロッケン要塞である。
これから入城する要塞を眺める絶好の位置、ブロッケンと並ぶ頂に、[とむらいの鐘]の仮本営が敷設されていた。物資運搬用の荷台の間に飾り幕を張っただけ、という簡素な様式で、全体に大雑把な方陣──正方形の部隊配置──を組んでいる。
人ならぬ異形の〝徒〟たちがひしめき合う……のみならず、迫る入城の準備に駆け回る、この本営の中央に、特別広大な、『九垓天秤』らの集う空間があった。
彼ら[とむらいの鐘]最高幹部たる九人の〝王〟の総称、『九垓天秤』は、一つの宝具の名を流用したものである、その宝具は、中央の支点から九岐の腕を広げる黄金の上皿天秤、という奇怪な形状をしており、特筆すべき機能として、〝徒〟の持つ〝存在の力〟を支点から皿へと、皿から皿へと再分配することができた。サイズも伸縮自在で、上皿に家さえ載せるほどに大きくもできれば、逆にテーブルに載るほどに小さくもなる。
今、宝具『九垓天秤』は人の背丈大に縮められ、集った九人の『九垓天秤』らの中央に据えられている。
この、彼らが在るべき場所の目印を囲む一人、
「つまり、ですな」
一枚の葉もない石の大木が、口のようなウロから甲高い声を吐き出していた。双眸と見紛う割れ目とともに黄土色の光を染み出させる姿は、まるで木に宿った幽鬼である。
〝焚塵の関〟ソカル。『九垓天秤』の一角にして先手大将──同様の地位にあるウルリクムミと二人、全軍の先駆けを任される、名うての戦上手だった。
「要塞の城門から本郭まで抜けるには、今説明した中央の大廊下を通るしか、道がないわけでして……まあ、防衛上の観点から、当然の構造ですな」
「はあ」
とモレクがとりあえずの相槌を打つ隣、
「さっきから、なにが言いたいのだ、ソカル」
厳しく締まった声が、くすんだ色合いの、大きなガラス壺から響く。その壺には槍に剣に棍棒、様々な武器が刺さり、中からはチラチラと雪のように黝の火の粉が零れていた。
〝天凍の倶〟ニヌルタ。『九垓天秤』の一角にして中軍首将──首領たるアシズを守り、全軍の中核となる主力軍を率いる、堅実にして冷静な指揮官である。
さらにその隣、牛の十倍はある巨体を蹲らせ、熊の十倍はある太い四肢を苛立ちに揺すり、胴の半ばまで裂けた口に牙を並べる狼が、溜息のように焦茶の火を噴いて文句を言う。
「てめーの話は回りくどいんだよ」
〝戎君〟フワワ。『九垓天秤』の一角にして遊軍首将──戦機に応じて敵の虚を急襲する、または危険な任務に率先して当たる、遊撃部隊の勇猛なる長である。
ソカルは察しの悪い同輩たちに、嫌味たっぷりな溜息を吐ついて見せた。
「ふう……つまり、つまり、ですな。この式典で、我ら『九垓天秤』の姿を、同志たちに適正な形で見せねばならない、ということです」
飾り幕の中、黄金の上皿天秤を囲む九人の間に沈黙の時が過ぎ……結局、分からない、という八人の意見を代弁するような声が、大きく響く。
「適正な、形だとおおお?」
語尾を大きく震わせて、城壁のような分厚い鉄板を組み合わせた巨人が、興も薄げに訊いた。胡坐をかく身に首はなく、胴体部分には白い染料で双頭の鳥が描かれている。
〝巌凱〟ウルリクムミ。『九垓天秤』の一角にして先手大将──ソカルとともに先陣を切る、卓抜した戦術眼と統率力の持ち主である。
今度は嫌味以上、馬鹿にした色も露に、ソカルは言い直す。
「我らが[とむらいの鐘]総員の見守る中での入城……衆目を集め記憶に留まるこの式典は、当事者たる我ら自身が考える以上に大きな意義を持っている……そうですな、宰相殿?」
突然、話を振られたモレクは、慌てて頭を巡らせた。
「は、そう、でしょうね。我々の入城は、この欧州へと主戦場を移す決意を表明したようなものですから、フレイムヘイズだけでなく、同胞たちも注目するはず。式典が、彼らに我々のことを伝え聞かせる、最も端的な姿となることは間違いないでしょう」
やや早口で説明する、論理自体は非常に明晰的確である。
が、その聡さをこそ、チェルノボーグは難詰する。心中で。
(馬鹿が、何故こんな奴の言を補足する……ますます弄舌が滑るばかりではないか)
思った通り、裏付けを得たソカルの主張は、ますます勢いを増した。
「つまり、つまり、つまり、ですな。この長く語り継がれる入城式典では、大廊下を一列に進まねばならない、しかも後世に笑われぬよう、適正な形で行うべし、ということですよ」
つまりつまりと重ねるほどに、論旨は整理されない。
いい加減、訊き直すのも馬鹿らしくなった面々に代わり、今まで蹲っていた長老が鎌首を持ち上げた。分厚い甲羅と鱗で巨躯を覆った、四本足の有翼竜である。一言、論点を纏める。
「つまり、入城式典における行進の順序を定めたい、ということか」
〝甲鉄竜〟イルヤンカ。『九垓天秤』の一角にして、『両翼』の左──[とむらいの鐘]の力の象徴とも呼ばれる最強の二将、その盾たる片割れである。
石の大木は、太い幹をガサガサと震わせて笑う。
「さすがはイルヤンカ殿、ご明察です」
言葉だけだと長老を誉めているようでも、口調の方では、明察できない連中を馬鹿にしたように聞こえる。なんとも癇に障る男だった。
モレクが、ようやくの理解とともに首を傾げる。
「しかし、それほどこだわることでしょうか? なんなら我々九名、主を囲んで空から『首塔』へと降り立つ形式にしても……」
「これは、賢者として名高い宰相殿の言葉とも思われませんな!?」
「はっ!? はあ、申し訳ありません」
ソカル、即座の反発に、牛骨は飛び上がって慄く。
(まったく、無様な……もう少し大度に構えればどうなんだ)
チェルノボーグはイライラする内心を隠さず、組んだ左腕の指を叩いた。
その間も、ソカルは自説の主張を続けている。
「我ら[とむらいの鐘]は、軍団として成り立つ組織! 漫然と空から飛び降りての入城など、聞こえが悪いにも程があるというものでしょう! 我らが堂々の行進を示威として見せ付けてこそ、語り草になるのです!!」
「友よ!」「夢幻がなにを意味しているか!」「言って欲しい!」
いつ果てるともない大木の主張を遮るように、魔物と女と老人の面を貼り付けた人間大の卵が、それぞれから飄げた声で、意味不明の言葉を張り上げた。
〝凶界卵〟ジャリ。『九垓天秤』の一角にして大斥候──無数の蝿を操る自在法『五月蝿る風』によって、広く情報を収集する組織の枢要たる変人である。
彼の言葉は、基本的に大意を込めただけの出鱈目で、会話は成立しない(付き合いの長い他の面々が察するに、先の言葉は『よく分からん』という意味のはずである)。ゆえにソカルは、彼を無視して話を続ける。
「同志たちも、上から降ってくる我らを眺めて、なんの楽しみがありましょう! それに、他の方々はともかく、大地に根を張る我が身を空から降らそうとは……なんたる侮辱!」
たしかに、石の大木が空から舞い降りる姿は、絵になり難そうではあった。
モレクには無論、他意など欠片もない。
「い、いえ、そういうつもりで言ったわけでは」
脅しとも取れる難詰に、声で態度で平謝りする宰相を見かねたニヌルタは、反りの合わない同輩へと逆襲を始める。
「ふん、己が身形に劣等感を抱いての反駁とは。語るに落ちる、とはこのことか」
「……なんですと?」
「だいたい、主が不在の間にそのような案件を勝手に決めて良いわけがあるまい。主がなんでも許される、と軽んじているからこそ、このような忙中に無駄話を持ち出す気になるのだ。そういうのを、姑息という」
「ほう……私が、主を軽んじている、と?」
バキバキ、と大木の幹が鳴動する。根が花崗岩に食い込んで見る間に太くなり、枯れた枝から黄土色の火の粉が落ち葉のように無数、舞い始める。激しく光を明滅させるウロの中から、険悪さを加えた甲高い声が漏れ出した。
「他の戯言はともかく、そればかりは聞き捨てなりませんな」
「ふん、失言の次は失態を見せる気か? 虚妄に満ちた言葉ではなく、行為で答えるがいい。勝手な提言、主を軽んじていること、無駄話、姑息……本当は、どれが気に障った?」
挑発する声の冷たさが形となったかのように、刺された武器の表面に霜が白く張る。同時にガラス壺の中から、すう、と氷の粒が舞い始めた。数秒の内に、氷の粒は吹雪のように渦を巻き、壺を浮き上がらせてゆく。
「お、お二方とも、どうか落ち着いてください!」
モレクが慌てて両者の間に入ろうとする。
(馬鹿が! 何度打ち砕かれれば気が済む──!!)
その、容易に己が身を捨てる宰相のやり方を、チェルノボーグは心中で罵った。見かけなど飾りに過ぎない、異常な大きさと規模の力を持つ彼は、揉め事があった場合、自分の骨体を壊させ砕かせることで、当事者間にある鬱憤を晴らす。意味や効果は分かっていた。が、それでも彼女は、モレクのやり方が気に食わない。
(お前がそうだから、こいつらも甘えて、いつまでも幼稚ないざこざを起こ──)
刹那、
岩を掘る根、風に舞う氷、触れかけた双方の間に、一条の虹が迸った。
爆発とも破裂とも付かない衝撃音が辺りに木霊し、鮮烈な七色の光が一同の目を焼く。
「貴公ら、新たな居城へと胸躍らし参られる主を、無様な内紛で出迎える気か」
イルヤンカの足にもたれ、昼寝に興じていた男が、七色の破壊光──当代最強を誇る攻撃系自在法『虹天剣』──を発した剣を突き付けて、静かに言った。銀の長髪に金冠を模した額当て、青い軍装という騎士、あるいは剣士。

〝虹の翼〟メリヒム。『九垓天秤』の一角にして、『両翼』の右──イルヤンカとともに[とむらいの鐘]の力の象徴として軍団を支える最強の二将、その剣たる片割れである。
泡を食って根を引き戻す大木、再び地へと落ちる壺に、
「それに、昼寝の邪魔だ」
と付け加えたのは、冗談や軽口ではなかった。現に、剣を目にも留まらぬ速さで腰間の鞘へと収め、再び目を瞑ってしまう。
「ちゅ、仲裁に感謝いたします、メリヒム殿」
というモレクの謝辞への返答すらしない。最強の将ならば、この場を収める言葉の一つもあってしかるべきだったが、口は不機嫌に引き結ばれて、開く気配もなかった。彼は『九垓天秤』のリーダーが自分でないことを知っているため、余計なことを言わないのである。
同じ『両翼』たるイルヤンカの方は、その本当のリーダーに向けて、穏やかに言う。
「宰相殿は、入城の順序を主の不在中に定めることについて、どう思われる?」
そんな自覚など欠片もない、牛骨をカタカタ震わせる男は、怯えてなお明確に答えた。
「いえ、実のところ、入城の準備における全ての事案は、先行した私と、建造期間の守備に当たっていたウルリクムミ殿に任せる、との下達を受けておりまして」
ソカルは、自分の主張への決定権がモレクにあることを知って気を強く持ち直し(この執念と立ち直りの早さが彼の長所である)、割れ目の奥から、皮肉たっぷりな視線を、先走って自分を制した氷の剣に向ける。
「ほう、ではやはり──」
「ウルリクムミ、貴様はどう思うのだ」
ニヌルタはそちらを無視して、人格面で信頼の置けるウルリクムミに(戦闘面においては、彼自身認めたくないことではあったが、ソカルにも信頼を置かざるを得ない)尋ねた。
公明正大を以って鳴る鉄の巨人は、声を震わせ、長い一言を吐く。
「俺は巨体ゆええええ、先頭に立っては邪魔だあああ、ゆえに最後で良いいいい」
これはつまり、ソカルの提案を支持し、自分は争いを譲る、という表明だった。戦場外での彼は、全てにおいて慎み深いことで知られている。
「では、我々は行軍によって入城する、ということでよろしいですか?」
モレクの裁定に、誰も異論を挟まない。
ただジャリだけが、
「さあ!」「冗談はやめにして!」「真面目なことを始めましょう!」
と三つの声で喚いていたが、これは誰も気に留めない。
「早速ですが、先の『戦狩り』で最大の力の収穫を得た私が先頭を──」
「これまで果たしてきた功績の順であるべきだ」
さっそく、自己主張しかけたソカルを、ニヌルタが断固とした口調で制した。
モレクが、それでは、と案を提示する。
「そういうことなら、『両翼』のお二方であるべきなのでしょうが……やはり、無理にでも二列となるわけには……?」
「メリヒムの旦那とイルヤンカ爺さんを横に並べるってのか?」
フワワが素っ頓狂な声で言った。
たしかに、横に並ぶというのは、注目を受ける『行進』という形式から、好ましくない。メリヒムも、イルヤンカの巨体の向こうにいては、反対側から見えないだろう。
「はあ、やはり駄目ですか」
とりあえず、順番争いを半分に減らせるか、と思ったモレクも、これをあっさり撤回した。
「では、『両翼』御自身、イルヤンカ殿にはご希望が?」
「うむ……」
イルヤンカは、未だにバチバチと火花を散らし合うソカルとニヌルタを見て苦笑する。
誰かが大筋の方針を示さねば、またぞろ二人は撃発しかねない。ウルリクムミもそれを見越して、まず自分を最後尾に置いたのであろう。常の如く宰相が事を収めるにしても、苦労を減らしてやるに越したことはない。
徒然思い、顎を開いた。
「先陣争いで混乱することの愚を、友軍の間に連携あってこそ敵を破れることを、戦上手のお主らが知らぬわけもあるまい?」
まず一言、争う二人に釘を刺してから、苦労性の宰相に告げる。
「年の功で、ここは先頭を譲って頂けようかな、宰相殿?」
「は、それでは、先頭をイルヤンカ殿に……メリヒム殿は二番手でも?」
彼の気性の荒さを恐れるモレクが、その目覚めた後のことを心配するが、
「任されよ。儂から言い含めておこう」
イルヤンカは軽く請合った。その傍ら、自身にもたれて寝入る振りをする青年騎士へと目を落とす。通したい主張や要求があるときは強引かつ問答無用に押し通すこの男が、無視を決め込んでいる。ということはつまり、イルヤンカに先頭を譲っているのである。
早々に席を埋めてくれた長老に感謝したモレクは、
「つまり、主の後にイルヤンカ殿、次がメリヒム殿、最後尾はウルリクムミ殿、と……主に付き従った歳月からすれば、三番手はジャリ殿、ということになりますが?」
続いて律儀にも、宙に浮かぶ卵へと意見を求めた。
どうせまともな意見など返ってこない、と大半の者が思う。
が、
「彼女を尊敬し!」「優しく扱うのが良い!」「それは、彼女とお前に、諍いを起こさせないためである!」
問われたジャリは突然、他の全員がギョッとなるようなことを言った。
女、という類別を受ける人物は、この『九垓天秤』に一人しかいない。今まで意見を言わなかったため無視してきた、しかし一旦怒れば、他の面子に負けず無茶をする腫れ物のような隠密頭──チェルノボーグ。
唐突な指名を受けた彼女は、平然と腕を組んだまま、不機嫌に顔を顰めたまま、
(な、なにを言っているのだ!?)
と内心だけで大いに慌てた。常に出鱈目な言葉を吐き散らすだけだと分かっている、順番を自分に譲ると言っているだけかもしれない、この言葉に、思わず勘繰ってしまう。
(ま、まさか、知っているのではあるまいな!?)
奇妙な卵の内心を計ることは、フレイムヘイズを百屠るより困難である。彼女は、組んだ腕を、握る掌を、強く固めることしかできない。顔に力を入れて、なんとか無表情を維持しようと必死になった。表面上は、顰めっ面がますます不機嫌の度を強めたかのように見える。
一方のモレクはといえば、
「ええ。それはもちろん、チェルノボーグ殿は尊敬しておりますが……しかしジャリ殿は、隠密頭も含めた、我々の活動の基となる情報を集められる組織の要でありますし」
などと人の気も知らないで、懸命に理屈を並べ立てている。
そのことに、チェルノボーグは不意な、燃え上がるような怒りを覚えた。他の面子が恐れた通りの行動(理由は違っていたが)、ソカルやニヌルタも驚く、モレクへの直接行動、
「っわ、だっ!?」
伸びた足による神速の蹴りが、モレクの派手な礼服の背中に叩き込まれる。
軽い体は大きく吹っ飛んで、フワワの腹、獣毛の中に埋まった。
「……そんなにジャリの後が嫌だったのか?」
その上、腹まで裂けた口が、ウンザリした声を吐き出す。
「つーかよ、モレク。俺はどこでもいーから早く決めてくれや?」
もっともな意見に、頭をカラカラと振って牛骨が弁解する。
「も、申し訳ありません」
見れば、チェルノボーグは背中を向けてしまっていた。こうなると、彼女はもうなにを言っても答えない。さっきの言葉の、なにが気に障ってしまったのか、サッパリ分からなかった。
(ジャリ殿と、特別仲が悪いということはなかったはずですが……?)
と、
「ふう……」
イルヤンカが、なにか含みを持たせた溜息を吐いた。
「宰相殿、チェルノボーグは、なによりまず己のことを考えよ、と言っておるのだろう」
少々意地悪に、色々取れる言い方をする。
案の定、後ろを向いた肩が、僅かに線を固くした。
(やれやれ、明言などすれば、本気で飛び掛かられるな)
今度は心中で溜息を吐いて、周旋の言葉を続ける。
「自身、失念されておるやも知れぬが、お主は宰相の地位にある。その身を軽んじるのは、主の意向と信頼を軽んじることに他ならぬ。我ら『両翼』に先頭を譲られたとして、その次はジャリ殿ではなく、お主でなくてはならんはずだ」
「あ」
モレクは指摘されて初めて気付き──チェルノボーグとイルヤンカが隠した方の意味には全く気付かず──他の面々に許可を求めるように、空っぽの視線を巡らせた。
ソカルもニヌルタも押し黙ったまま、フワワはフンと鼻を鳴らして文句を言わず、メリヒムは目を覚まさない。騒動の元凶であるジャリだけが、
「以上の他に欠けてはならない!」「役目が決まれば!」「誰も文句を言ってはならない!」
と意味があるのかないのか分からない言葉を吐き散らしている。
「そ、それでは不肖、この私が『両翼』の後を……」
宰相の遠慮がちな決定を、
「席次の序列から、当然そうあるべきだ」
「まあ、主の定めた職制ですからな」
ニヌルタとソカルが追認し、イルヤンカが、
「これでよいのだな、チェルノボーグ?」
と後ろを向いたままの黒衣の女性に言った。僅かに首元だけが動いて、頷きとなる。
そのことにほっとしたモレクは、
「では、後は……」
「貴公がさっさと決めろ。時間がない」
「は?」
いつの間にかメリヒムが立って、剣の位置を直していた。
イルヤンカも、首を大きく振り上げ、
「おお──」
感嘆とも陶酔とも取れる唸りを漏らす。
「これで我々がここへ来た件については終わりにしましょう!」「貴方の家臣を受け取ってください!」「彼らの誉れは貶められてはいません!!」
ジャリの声が、さらなる狂騒に高まった。
一同が見やる、暮れ始めた遠き東の地平。
染み渡る闇の中に、全き青の輝きが見えた。
その下を進んでくる、[とむらいの鐘]殿軍。
見る間に、青の輝きは天と地を明らかにしてゆく。
はらり、
と、輝きの欠片のような羽根が一片、
置かれた宝具『九垓天秤』の中央に、集う九人の〝王〟たる『九垓天秤』の中央に、躍っていた。羽根はさらに多く広く、山上に降り注ぎ、その豊かな光で『九垓天秤』のみならず、仮陣営にある全ての〝徒〟たちをも包み込んでゆく。
入城の準備に立ち騒いでいた者らが皆、一斉に静まり返って、光臨を待った。
誰もが見上げる天上から、重い、壮年の男の声とともに、
「遅く、なったな……九垓を平らぐ、我が天秤分銅たちよ」
仮面に角、逞しい体躯に翼を持つ、一人の〝紅世の王〟が、舞い降りていた。
宝具『九垓天秤』が、この到来に反応し、巨大化する。仮本営の空間をいっぱいに埋めて黄金の輝きを夕日に輝かす。敬愛して止まない無二の主へと、『九垓天秤』らは大皿の上で各々の姿に見合った、最敬礼の姿勢を取る。
〝棺の織手〟アシズ。世界最大級の規模を誇る〝紅世の徒〟の集団、対フレイムヘイズ軍団[とむらいの鐘]の首領、世に名高き自在師にして、世界秩序への最大級の背信者。
その優しい彼は、愛する子らに向けるように、一同を宙で一回り眺め、天秤の中央へと、爪先だけで降り立つ。そうして、信頼する宰相へと、まず問う。
「なにか、変わったことは、あったか?」
問いを向けられていない二人が、密かにビクリとなる。
恐怖から。
力、苦痛、死への恐怖ではない。
優しさを与えてくれる者が悲しむことへの恐怖から、である。
しかし、宰相〝大擁炉〟モレクは、敬礼の下から平然と答える。
「いえ、特には」
その毅然とした立ち居振る舞いには、主を補佐する賢者としての、また『九垓天秤』を纏める宰相としての風格が、確かに表れていた。ただし、本人の自覚はない。
「入城式典における、我ら『九垓天秤』行進の序列を、合議にて定めましてございます。どうぞ、御裁可を……」
アシズは、僅か視線を、地に深々と刺さった『虹天剣』の跡に流し、微笑した。
「苦労をかける、我が宰相」
「……勿体無き、お言葉」
震えるような喜びを骨の総身に感じつつ、裁定を下す。
「主の後に、イルヤンカ殿、メリヒム殿、不肖私、ジャリ殿、ソカル殿、チェルノボーグ殿、ニヌルタ殿、フワワ殿、ウルリクムミ殿の順にてございます」
左右の『両翼』、イルヤンカとメリヒムを先頭に、宰相モレク、古参にして組織の枢要たるジャリ、戦功においては確かに図抜けた存在のソカル、数々の暗殺行動で組織を裏から支えるチェルノボーグ、公正でさえあれば文句を言わないニヌルタ、自身を誇ることに全く興味のないフワワ、あらかじめ最後尾を名乗り出ていたウルリクムミ……全員の意見を入れた、誰からも文句の出ない、絶妙の配置だった。
これを聞いたアシズは再び、天秤の支点の上で、遊ぶように爪先立ちの身をくるりと回し、居並ぶ『九垓天秤』たちに視線を巡らす。
平然当然とそこに在る『両翼』──今は騒がず浮かぶ大斥候──自分の前では大人しい、ゆえに可愛い先手大将──また悲しい葛藤を経たのか、少し元気のない隠密頭──正しさから来る情の強さを、刃に霜と見せる中軍首将──呑気に欠伸を噛み殺す遊軍首将──黙して頑と聳える頼もしき先手大将──そして最後に、貫禄のない無自覚な賢者へと、告げる。
「許す」
九人揃っての返礼を受け取った青き天使は、どこまでも大きく強く翼を広げ、山上の仮本営で彼の号令を待つ子ら、[とむらいの鐘]全軍へと朗々、声を轟かせた。
「歓呼せよ!! これより、[とむらいの鐘]はブロッケン要塞に入城する!!」
天地を揺るがす歓声の後、俄かに慌しくなった仮本営の端で、配下に軍勢を持たない名のみの隠密頭は、集合する前に立っていた岩場を、また一人で訪れていた。
(いったい何度、この失望と怒りを味わったんだ)
全く、馬鹿な話。
自分が悪いのである。
分かっていて、それでも。
(せめて、おまえたちくらいは)
思い、そこに在る花々を静かに見下ろす。
と、そこに、
「こちらですか、チェルノボーグ殿?」
また唐突な訪問を受けた。
これを想う自分は、冷静になれないらしい。
半ば諦めのように微苦笑し、振り向く。
「なんだ、痩せ牛」
「いえ、その……」
おどおどする男、確信を持てない、ゆえに他人に気を回し、気を遣い、振り回され、他人から向けられる思いを感じられず、気付けず、考えられない……そんな、ひたすらに自分だけを磨り減らしてゆく男の姿が、とても疎ましい。疎ましくて、辛い。どうして彼だけが、そんな目に遭わねばならないのか。可哀想だ、守りたい、襲い掛かる全てから──彼を。
しかし、思っていることの一粒すら、声にできない。
口から出るのは、今在る彼の姿への苛立ちだけ。
「……馬鹿め」
「は? はあ、どうも、申し訳ありません……」
こうやって、言葉の意味も問い質さず、すぐ謝るのも気に食わなかった。なぜ、もっと堂々としないのか。ほんの先刻、主の前で見せた、あの毅然とした姿を、少しでもいい、自分にも他人にも、見せてやったらどうだ。そうすれば、もっと安らげるはずなのに。
(いや、無理なのだ……こいつは、主の『優しさ』に応えているのだから)
思って、想って──自分には、ただそれだけのことが、できない。彼と同じように。苦しさから、目さえ合わせられなかった。語調だけが、虚しいほどに強かった。
「なんの用だ。全軍の集合には遅れず行く」
慰めに来てくれたわけでないことくらい分かっていた。そういう気の利いたことが全くできない男なのだ。
「ええ……実は、伝言を二つ、預かってまいりまして」
「伝言?」
妙な用事と訝る彼女に、モレクは慌てて弁解する。
「あっ、お怒りはごもっともですが、決して立場を軽んじているわけでは。ただ、その伝言を託されたお二方から共に、私自身が行くように、とのご指示を受けたまででして」
(だから、なぜ宰相が他人の指示を──)
思ってから、ふと、その指示を下した相手への直感が働く。
誤りはなかった。
「我らが主よりの伝言が一つ──『この一時を過ごせ』と。それだけを伝えればよい、と申されました」
「……」
なにもかもお見通しの主、その優しさに、チェルノボーグは思わず顔を伏せた。過ぎたる計らいに、それでももう少し甘えるため、あえて伝言への返事をしない。
そんな彼女の内心など察し得ない鈍感男・モレクは、己に託された仕事として、さっさと二つ目の伝言を読み上げる。
「もう一つは、アルラウネ殿からで──『レーヴェンツァーンです』と。その花ですか?」
「!」
「花が、お好きですか?」
モレクが図らずも、アルラウネと同じ問いを口にした。
反応は、全然違ってしまう。
「違う」
チェルノボーグは無意味な反発と断言を、いつものように返してしまっていた。しかし、伝言を他でもない彼に託した主とアルラウネ、二人の優しさに応えるため、少し、ほんの少し、言葉だけで歩み寄る。
「……色のついた花が、好きなのだ」
「はあ」
色はどんな花でもついているのでは──という無粋極まりない問いを、モレクは先に怒らせてしまったことを思い出して、なんとか呑み込んだ。
「貴様も宰相ならば、麾下の諸将の趣向程度は覚えろ。私は、こういう花が好きなのだ」

「は、はあ」
モレクにはわけが分からない。今度は蹴り飛ばされないようしっかり覚えようと、その花を見るため、女性の傍らに立つ。
「『レーヴェンツァーン』、ですか」
「そうだ」
さっきまで知らなかった花の名前に、チェルノボーグは偉そうな頷きで返し、自分に許した僅かな、至福の一時に浸った。
二人は飽かず、花を見つめる。
なにも言わず、ただ見つめる。
暮れつつある夕の光を輪郭に乗せて、その花は咲いていた。
枯草色──彼女の持つ炎の色、黄色──彼の持つ炎の色、
二つの色が、一緒になって、咲いていた。
