低い瘤こぶの群れとも見えるハルツ山地に、霧はない。

 蒼そう穹きゆうは爽そう快かいに雲を疾しつ駆くさせ、山さん麓ろくは一いち望ぼうの深緑を敷いている。

 その澄ちよう明めいな風光の中、白黒の蝶ちようも共に踊る、花か崗こう岩がんの突き出し転がった岩場で、

「花が、お好きですか?」

 小さく咲いた花を、馬鹿のように呆ぼう然ぜんと見下ろしていたらしい。

「っ!?」

 背後からかかった女性の声に、〝闇やみの雫しずく〟チェルノボーグは不意を突かれた。世界有ゆう数すうの規模を持つ〝紅ぐ世ぜの徒ともがら〟の軍団[とむらいの鐘トーテン・グロツケ]大だい幹部『九く垓がい天てん秤びん』の一角、隠おん密みつ頭がしらの地位に在る者として、あってはならない失しつ態たいである。誤ご魔ま化かし半分に生なま返事をした。

「ん、ああ」

 黒こく衣いと黒くろ髪かみ、獣けものの耳、痩そう身しんに右の巨腕、という剣けん呑のんな姿をした己おのれが、花などに見入っていた、というのは、少々……と言わず、大いに大いに体てい裁さいが悪い。なにより、

(もしソカルあたりに知られれば、百年はもの笑いの種たねにされてしまう)

 なんとか話を逸そらす。

「主あるじは、まだ到着されぬか」

 主とは、彼女ら[とむらいの鐘トーテン・グロツケ]の首しゆ領りよう、〝棺ひつぎの織おり手て〟アシズのことである。

 声をかけた〝徒ともがら〟は、自分の問いを流されたことに頓とん着ちやくしない。美女の顔を中心に抱いた花、という異い形ぎようを僅わずか前に傾けて頷うなずく。

「はい、殿軍しんがりよりの脱落者がないか、道具どもの追つい撃げきがないか、お気を配られながらの行こう軍ぐんですから……常のように、ゆるりと参られるのでは?」

 この〝徒ともがら〟の名は〝架か綻たんの片ひら〟アルラウネ。援えん護ごや補助の力に長たけた自じ在ざい師しで、チェルノボーグと同じ『九く垓がい天てん秤びん』の一角たる先さき手て大たい将しよう〝巌がん凱がい〟ウルリクムミの副ふく官かんを務めている。ちなみに、言葉を疑問系で結ぶのは、彼女の癖くせである。

「そうか……」

 チェルノボーグは短く返し、

「……おまえなら」

 訊きこうとして、止めた。

 アルラウネは、隠おん密みつ頭がしらたる〝紅ぐ世ぜの王〟の立場と気質、普段の親交から、止められた問いの内容と意味を、容易に察する(質しつ実じつ剛ごう健けんにして不ふ言げん実じつ行こう、おまけに文字通りな鉄てつ面めん皮ぴの持ち主を上じよう官かんに持つ彼女にとって、表おもてに出ない意図や感情を汲くみ取ることは、副官として必ひつ須すの職能でもあった)。

「この花、ですか?」

「いや……」

 口だけの否定に、アルラウネはにっこりと笑い返す。

「この花は──」

「待て」

 と、解説の出だしに、今度は本気の制止がかかった。

 チェルノボーグの耳がぴんと立って、表情も鋭くなっている。

 が、これも同じであることが、アルラウネには分かっていた。

 案あんの定じよう、カラカラと乾いた足音が、背後の山道から近付いてくる。

「おお、こんな所におられましたか」

「なんの用だ、痩やせ牛」

 チェルノボーグの、これ以上ないほど険けん悪あくな声に出迎えられたのは、彼女らに負けず劣らずの異い形ぎよう。派は手でな礼服で着飾った、直立する牛ぎゆう骨こつだった。

〝大だい擁よう炉ろ〟モレク。『九く垓がい天てん秤びん』の一角、宰さい相しようの地位にある強大な〝王〟である。が、

「は、はい、実は入城の件に関して、ソカル殿から一つ、提案が……仮かり本ほん営えいに『九く垓がい天てん秤びん』総員、集まっております」

 出迎えにオドオドと答え、骨の身を震わせる姿には、貫かん禄ろくの欠かけ片らもない。

 その様さまに、チェルノボーグはむかっ腹を立てる。目に見えるように。

「また、なにか妙みような難なん癖くせをつけているのか」

「いえ、そんな、難癖と言うほどのことでは」

 モレクは目に見える部分に対して慌あわてふためき、同どう輩はいを庇かばった。

「だいたい、痩やせ牛」

 チェルノボーグは攻勢を緩めない。

「貴き様さま、なぜ下か僚りようの〝徒ともがら〟を使わん。宰さい相しよう自身が伝でん令れいに走るなど、軽けい率そつにも程ほどがあるぞ」

「も、申し訳ありません。なにせ皆が皆、入城の準備に忙しい折でして」

「それを申し訳と言うのだ」

 ペコペコするモレクに叱しつ声せいを飛ばして、しかし促うながす彼に続いている。

 そんな素直でない彼女を、同性としておかしく思うアルラウネに、

「そうだ、アルラウネ殿」

 モレクが足を止め、声をかけた(彼は下僚にも殿と付ける)。

「ウルリクムミ殿が、郭かく内ないに割り振る人員の配置について、ご相談があるとか。同どう道どうを願えますか?」

 これは、求められるまでもなかった。

「私、少々他用が……ややの後ご刻こくに参さん上じようするご許可を?」

「はあ。入城後の事じ案あんですから、特段の問題はないはずですが」

 ところが、この鈍い男は、そんな気き遣づかいには全く気付かず、別の話を続けようとする。

「ウルリクムミ殿といえば、『建けん造ぞうの護ご衛えいに当たった者らに、なんらかの褒ほう章しようで報むくいたい』という伺いを、私とニヌルタ殿も含めた連名で主あるじに出そうという話も──、っと!?」

 いい加か減げん焦じれたチェルノボーグの巨腕が、礼服の襟えり首くびを掴つかんだ。

「なにをグズグズしている、行くぞ痩やせ牛!」

「は、はい、すいません。アルラウネ殿、この話はまた後刻に……」

 ズルズルと引き摺ずられてゆく宰相──職制上、彼の上あるのは首しゆ領りようたるアシズのみ、つまり組織のナンバー2──の情なさけない姿を、しかしアルラウネは敬意を込めた目もく礼れいで送った。そうして、花たる身をひらりと回し、対面に鎮ちん座ざする山を、その頂いただきに聳そびえる威い容ようを見やる。

 アシズ率ひきいる殿軍しんがりの合流を仮かり本ほん営えいにて待つ[とむらいの鐘トーテン・グロツケ]総軍が、本ほん夕ゆう入城する新たな本ほん拠きよ地ち。なだらかな山に被かぶせられた冠かんむりとも見える、金きん城じよう鉄てつ壁ぺきの大だい城じよう塞さい。

 ブロッケン要よう塞さいである。



 これから入城する要塞を眺ながめる絶ぜつ好こうの位置、ブロッケンと並ぶ頂に、[とむらいの鐘トーテン・グロツケ]の仮本営が敷ふ設せつされていた。物資運うん搬ぱん用ようの荷台の間に飾り幕を張っただけ、という簡素な様よう式しきで、全体に大おお雑ざつ把ぱな方ほう陣じん──正方形の部隊配はい置ち──を組んでいる。

 人ならぬ異い形ぎようの〝徒ともがら〟たちがひしめき合う……のみならず、迫る入城の準備に駆け回る、この本ほん営えいの中央に、特別広こう大だいな、『九く垓がい天てん秤びん』らの集つどう空間があった。

 彼ら[とむらいの鐘トーテン・グロツケ]最高幹かん部ぶたる九人の〝王〟の総称、『九く垓がい天てん秤びん』は、一つの宝ほう具ぐの名を流用したものである、その宝具は、中央の支点から九く岐ぎの腕を広げる黄金の上うわ皿ざら天てん秤びん、という奇き怪かいな形状をしており、特筆すべき機能として、〝徒ともがら〟の持つ〝存在の力〟を支点から皿へと、皿から皿へと再さい分配することができた。サイズも伸しん縮しゆく自在で、上皿に家さえ載せるほどに大きくもできれば、逆にテーブルに載るほどに小さくもなる。

 今、宝具『九く垓がい天てん秤びん』は人の背せ丈たけ大だいに縮められ、集った九人の『九く垓がい天てん秤びん』らの中央に据すえられている。

 この、彼らが在るべき場所の目印を囲む一人、

「つまり、ですな」

 一枚の葉もない石の大たい木ぼくが、口のようなウロから甲かん高だかい声を吐き出していた。双そう眸ぼうと見み紛まごう割れ目とともに黄おう土ど色の光を染み出させる姿は、まるで木に宿った幽ゆう鬼きである。

〝焚ふん塵じんの関せき〟ソカル。『九く垓がい天てん秤びん』の一角にして先さき手て大たい将しよう──同どう様ようの地位にあるウルリクムミと二人、全軍の先さき駆がけを任される、名うての戦いくさ上じよう手ずだった。

「要よう塞さいの城門から本ほん郭かくまで抜けるには、今いま説明した中央の大廊下を通るしか、道がないわけでして……まあ、防衛上の観点から、当然の構造ですな」

「はあ」

 とモレクがとりあえずの相あい槌づちを打つ隣となり、

「さっきから、なにが言いたいのだ、ソカル」

 厳きびしく締まった声が、くすんだ色合いの、大きなガラス壺つぼから響ひびく。その壺には槍やりに剣に棍こん棒ぼう、様々な武器が刺さり、中からはチラチラと雪のように黝おおぐろの火ひの粉こが零こぼれていた。

〝天てん凍とうの倶ぐ〟ニヌルタ。『九く垓がい天てん秤びん』の一角にして中軍首しゆ将しよう──首しゆ領りようたるアシズを守り、全軍の中ちゆう核かくとなる主力軍を率ひきいる、堅けん実じつにして冷静な指し揮き官かんである。

 さらにその隣、牛の十倍はある巨体を蹲うずくまらせ、熊くまの十倍はある太い四し肢しを苛いら立だちに揺すり、胴どうの半なかばまで裂けた口に牙きばを並べる狼おおかみが、溜ため息いきのように焦こげ茶ちやの火を噴ふいて文句を言う。

「てめーの話は回りくどいんだよ」

〝戎じゆう君くん〟フワワ。『九く垓がい天てん秤びん』の一角にして遊ゆう軍ぐん首将──戦せん機きに応じて敵の虚きよを急きゆう襲しゆうする、または危険な任務に率そつ先せんして当たる、遊ゆう撃げき部隊の勇ゆう猛もうなる長おさである。

 ソカルは察しの悪い同どう輩はいたちに、嫌いや味みたっぷりな溜息を吐つついて見せた。

「ふう……つまり、つまり、ですな。この式しき典てんで、我ら『九く垓がい天てん秤びん』の姿を、同志たちに適正な形で見せねばならない、ということです」

 飾り幕の中、黄金の上皿天秤を囲む九人の間に沈黙の時が過ぎ……結局、分からない、という八人の意見を代だい弁べんするような声が、大きく響ひびく。

「適正な、形だとおおお?」

 語ご尾びを大きく震わせて、城壁のような分厚い鉄板を組み合わせた巨人が、興きようも薄げに訊きいた。胡坐あぐらをかく身に首はなく、胴どう体たい部分には白い染料で双そう頭とうの鳥が描かれている。

〝巌がん凱がい〟ウルリクムミ。『九く垓がい天てん秤びん』の一角にして先さき手て大たい将しよう──ソカルとともに先せん陣じんを切る、卓たく抜ばつした戦術眼がんと統とう率そつ力の持ち主である。

 今度は嫌いや味み以上、馬鹿にした色も露あらわに、ソカルは言い直す。

「我らが[とむらいの鐘トーテン・グロツケ]総員の見守る中での入城……衆しゆう目もくを集め記き憶おくに留まるこの式しき典てんは、当事者たる我ら自身が考える以上に大きな意義を持っている……そうですな、宰さい相しよう殿?」

 突然、話を振られたモレクは、慌あわてて頭を巡らせた。

「は、そう、でしょうね。我々の入城は、この欧おう州しゆうへと主しゆ戦場を移す決意を表明したようなものですから、フレイムヘイズだけでなく、同どう胞ほうたちも注目するはず。式典が、彼らに我々のことを伝え聞かせる、最も端たん的てきな姿となることは間違いないでしょう」

 やや早口で説明する、論ろん理り自体は非常に明めい晰せき的確である。

 が、その聡さとさをこそ、チェルノボーグは難なん詰きつする。心しん中ちゆうで。

(馬鹿が、何な故ぜこんな奴やつの言げんを補足する……ますます弄ろう舌ぜつが滑るばかりではないか)

 思った通り、裏付けを得たソカルの主張は、ますます勢いを増した。

「つまり、つまり、つまり、ですな。この長く語り継がれる入城式典では、大だい廊下を一列に進まねばならない、しかも後こう世せいに笑われぬよう、適正な形で行うべし、ということですよ」

 つまりつまりと重ねるほどに、論ろん旨しは整理されない。

 いい加か減げん、訊きき直すのも馬鹿らしくなった面々に代わり、今まで蹲うずくまっていた長ちよう老ろうが鎌かま首くびを持ち上げた。分厚い甲こう羅らと鱗うろこで巨きよ躯くを覆おおった、四本足の有ゆう翼よく竜りゆうである。一言、論ろん点てんを纏まとめる。

「つまり、入城式典における行進の順序を定めたい、ということか」

〝甲こう鉄てつ竜りゆう〟イルヤンカ。『九く垓がい天てん秤びん』の一角にして、『両りよう翼よく』の左──[とむらいの鐘トーテン・グロツケ]の力の象しよう徴ちようとも呼ばれる最強の二に将しよう、その盾たてたる片かた割われである。

 石の大たい木ぼくは、太い幹みきをガサガサと震わせて笑う。

「さすがはイルヤンカ殿、ご明めい察さつです」

 言葉だけだと長老を誉ほめているようでも、口く調ちようの方では、明察できない連れん中ちゆうを馬鹿にしたように聞こえる。なんとも癇かんに障さわる男だった。

 モレクが、ようやくの理解とともに首を傾かしげる。

「しかし、それほどこだわることでしょうか? なんなら我々九名、主あるじを囲んで空から『首しゆ塔とう』へと降り立つ形式にしても……」

「これは、賢けん者じやとして名高い宰相殿の言葉とも思われませんな!?」

「はっ!? はあ、申し訳ありません」

 ソカル、即そく座ざの反発に、牛ぎゆう骨こつは飛び上がって慄おののく。

(まったく、無ぶ様ざまな……もう少し大たい度どに構えればどうなんだ)

 チェルノボーグはイライラする内ない心しんを隠かくさず、組んだ左腕の指を叩たたいた。

 その間も、ソカルは自説の主張を続けている。

「我ら[とむらいの鐘トーテン・グロツケ]は、軍団として成り立つ組織! 漫まん然ぜんと空から飛び降りての入城など、聞こえが悪いにも程ほどがあるというものでしょう! 我らが堂々の行進を示じ威いとして見せ付けてこそ、語り草になるのです!!」

「友よ!」「夢ゆめ幻まぼろしがなにを意味しているか!」「言って欲しい!」

 いつ果てるともない大たい木ぼくの主張を遮さえぎるように、魔ま物ものと女と老人の面めんを貼はり付けた人間大だいの卵が、それぞれから飄ひようげた声で、意味不ふ明めいの言葉を張り上げた。

〝凶きよう界かい卵らん〟ジャリ。『九く垓がい天てん秤びん』の一角にして大だい斥せつ候こう──無数の蝿はえを操あやつる自じ在ざい法ほう『五さ月ば蝿える風かぜ』によって、広く情報を収集する組織の枢すう要ようたる変へん人じんである。

 彼の言葉は、基本的に大意を込めただけの出で鱈たら目めで、会話は成立しない(付き合いの長い他の面めん々めんが察するに、先の言葉は『よく分からん』という意味のはずである)。ゆえにソカルは、彼を無視して話を続ける。

「同志たちも、上から降ってくる我らを眺ながめて、なんの楽しみがありましょう! それに、他の方かた々がたはともかく、大地に根を張る我が身を空から降らそうとは……なんたる侮ぶ辱じよく!」

 たしかに、石の大木が空から舞い降りる姿は、絵になり難がたそうではあった。

 モレクには無む論ろん、他意など欠かけ片らもない。

「い、いえ、そういうつもりで言ったわけでは」

 脅おどしとも取れる難なん詰きつに、声で態度で平ひら謝あやまりする宰さい相しようを見かねたニヌルタは、反そりの合わない同輩へと逆ぎやく襲しゆうを始める。

「ふん、己おのが身形みなりに劣れつ等とう感かんを抱いての反はん駁ぱくとは。語るに落ちる、とはこのことか」

「……なんですと?」

「だいたい、主あるじが不在の間にそのような案あん件けんを勝手に決めて良いわけがあるまい。主がなんでも許される、と軽んじているからこそ、このような忙ぼう中ちゆうに無む駄だ話を持ち出す気になるのだ。そういうのを、姑こ息そくという」

「ほう……私が、主を軽んじている、と?」

 バキバキ、と大木の幹が鳴めい動どうする。根が花か崗こう岩がんに食い込んで見る間に太くなり、枯れた枝から黄おう土ど色の火ひの粉こが落ち葉のように無数、舞い始める。激しく光を明めい滅めつさせるウロの中から、険けん悪あくさを加えた甲かん高だかい声が漏れ出した。

「他の戯ざれ言ごとはともかく、そればかりは聞き捨てなりませんな」

「ふん、失言の次は失しつ態たいを見せる気か? 虚きよ妄もうに満ちた言葉ではなく、行為で答えるがいい。勝手な提言、主を軽んじていること、無駄話、姑息……本当は、どれが気に障さわった?」

 挑ちよう発はつする声の冷たさが形となったかのように、刺された武器の表面に霜しもが白く張る。同時にガラス壺つぼの中から、すう、と氷の粒つぶが舞い始めた。数秒の内に、氷の粒は吹雪ふぶきのように渦うずを巻き、壺を浮き上がらせてゆく。

「お、お二ふた方かたとも、どうか落ち着いてください!」

 モレクが慌あわてて両者の間に入ろうとする。

(馬鹿が! 何度打ち砕かれれば気が済む──!!)

 その、容易に己おのが身を捨てる宰さい相しようのやり方を、チェルノボーグは心中で罵ののしった。見かけなど飾りに過ぎない、異常な大きさと規模の力を持つ彼は、揉もめ事があった場合、自分の骨こつ体たいを壊させ砕かせることで、当事者間かんにある鬱うつ憤ぷんを晴らす。意味や効果は分かっていた。が、それでも彼女は、モレクのやり方が気に食わない。

(お前がそうだから、こいつらも甘えて、いつまでも幼よう稚ちないざこざを起こ──)


 刹せつ那な、


 岩を掘る根、風に舞う氷、触れかけた双そう方ほうの間に、一いち条じようの虹にじが迸ほとばしった。

 爆発とも破裂とも付かない衝しよう撃げき音おんが辺りに木こ霊だまし、鮮せん烈れつな七なな色いろの光が一同の目を焼く。

「貴き公こうら、新たな居きよ城じようへと胸むね躍おどらし参られる主あるじを、無ぶ様ざまな内ない紛ふんで出迎える気か」

 イルヤンカの足にもたれ、昼寝に興きようじていた男が、七色の破壊光こう──当とう代だい最強を誇る攻撃系自じ在ざい法ほう『虹こう天てん剣けん』──を発した剣を突き付けて、静かに言った。銀の長ちよう髪はつに金きん冠かんを模もした額ひたい当あて、青い軍ぐん装そうという騎き士し、あるいは剣けん士し。

〝虹にじの翼つばさ〟メリヒム。『九く垓がい天てん秤びん』の一角にして、『両りよう翼よく』の右──イルヤンカとともに[とむらいの鐘トーテン・グロツケ]の力の象しよう徴ちようとして軍団を支える最強の二に将しよう、その剣たる片かた割われである。

 泡あわを食って根を引き戻す大たい木ぼく、再び地へと落ちる壺つぼに、

「それに、昼寝の邪じや魔まだ」

 と付け加えたのは、冗じよう談だんや軽かる口くちではなかった。現に、剣を目にも留まらぬ速さで腰よう間かんの鞘さやへと収め、再び目を瞑つぶってしまう。

「ちゅ、仲ちゆう裁さいに感謝いたします、メリヒム殿」

 というモレクの謝しや辞じへの返答すらしない。最強の将ならば、この場を収める言葉の一つもあってしかるべきだったが、口は不ふ機き嫌げんに引き結ばれて、開く気配もなかった。彼は『九く垓がい天てん秤びん』のリーダーが自分でないことを知っているため、余よ計けいなことを言わないのである。

 同じ『両りよう翼よく』たるイルヤンカの方は、その本当のリーダーに向けて、穏おだやかに言う。

「宰さい相しよう殿は、入城の順序を主あるじの不在中に定めることについて、どう思われる?」

 そんな自覚など欠かけ片らもない、牛ぎゆう骨こつをカタカタ震わせる男は、怯おびえてなお明確に答えた。

「いえ、実のところ、入城の準備における全ての事じ案あんは、先行した私と、建けん造ぞう期間の守備に当たっていたウルリクムミ殿に任せる、との下か達たつを受けておりまして」

 ソカルは、自分の主張への決定権がモレクにあることを知って気を強く持ち直し(この執しゆう念ねんと立ち直りの早さが彼の長所である)、割れ目の奥から、皮ひ肉にくたっぷりな視線を、先走って自分を制した氷の剣に向ける。

「ほう、ではやはり──」

「ウルリクムミ、貴き様さまはどう思うのだ」

 ニヌルタはそちらを無視して、人格面めんで信頼の置けるウルリクムミに(戦闘面においては、彼自身認みとめたくないことではあったが、ソカルにも信頼を置かざるを得ない)尋たずねた。

 公こう明めい正せい大だいを以って鳴る鉄の巨人は、声を震わせ、長い一言を吐く。

「俺は巨体ゆええええ、先頭に立っては邪じや魔まだあああ、ゆえに最後で良いいいい」

 これはつまり、ソカルの提案を支持し、自分は争いを譲ゆずる、という表明だった。戦場外での彼は、全てにおいて慎つつしみ深いことで知られている。

「では、我々は行こう軍ぐんによって入城する、ということでよろしいですか?」

 モレクの裁さい定ていに、誰も異い論ろんを挟まない。

 ただジャリだけが、

「さあ!」「冗談はやめにして!」「真ま面じ目めなことを始めましょう!」

 と三つの声で喚わめいていたが、これは誰も気に留めない。

「早さつ速そくですが、先の『戦いくさ狩がり』で最大の力の収しゆう穫かくを得た私が先頭を──」

「これまで果たしてきた功こう績せきの順であるべきだ」

 さっそく、自己主張しかけたソカルを、ニヌルタが断だん固ことした口く調ちようで制した。

 モレクが、それでは、と案を提示する。

「そういうことなら、『両りよう翼よく』のお二ふた方かたであるべきなのでしょうが……やはり、無理にでも二列となるわけには……?」

「メリヒムの旦だん那なとイルヤンカ爺じいさんを横に並べるってのか?」

 フワワが素すっ頓とん狂きような声で言った。

 たしかに、横に並ぶというのは、注目を受ける『行進』という形式から、好ましくない。メリヒムも、イルヤンカの巨体の向こうにいては、反対側から見えないだろう。

「はあ、やはり駄だ目めですか」

 とりあえず、順番争あらそいを半分に減らせるか、と思ったモレクも、これをあっさり撤てつ回かいした。

「では、『両りよう翼よく』御ご自身、イルヤンカ殿にはご希望が?」

「うむ……」

 イルヤンカは、未だにバチバチと火花を散らし合うソカルとニヌルタを見て苦く笑しようする。

 誰かが大筋の方針を示さねば、またぞろ二人は撃げき発はつしかねない。ウルリクムミもそれを見越して、まず自分を最さい後こう尾びに置いたのであろう。常の如ごとく宰さい相しようが事を収めるにしても、苦労を減らしてやるに越したことはない。

 徒つれ然づれ思い、顎あごを開いた。

「先せん陣じん争いで混乱することの愚ぐを、友軍の間に連れん携けいあってこそ敵を破れることを、戦いくさ上じよう手ずのお主ぬしらが知らぬわけもあるまい?」

 まず一言、争う二人に釘くぎを刺してから、苦労性の宰相に告げる。

「年の功こうで、ここは先頭を譲ゆずって頂けようかな、宰相殿?」

「は、それでは、先頭をイルヤンカ殿に……メリヒム殿は二番手でも?」

 彼の気性の荒さを恐れるモレクが、その目覚めた後のことを心配するが、

「任されよ。儂わしから言い含めておこう」

 イルヤンカは軽く請うけ合あった。その傍かたわら、自身にもたれて寝入る振りをする青年騎き士しへと目を落とす。通したい主張や要求があるときは強ごう引いんかつ問もん答どう無用に押し通すこの男が、無視を決め込んでいる。ということはつまり、イルヤンカに先頭を譲ゆずっているのである。

 早々に席を埋めてくれた長ちよう老ろうに感謝したモレクは、

「つまり、主あるじの後にイルヤンカ殿、次がメリヒム殿、最後尾はウルリクムミ殿、と……主に付き従った歳さい月げつからすれば、三番手はジャリ殿、ということになりますが?」

 続いて律りち儀ぎにも、宙に浮かぶ卵へと意見を求めた。

 どうせまともな意見など返ってこない、と大たい半はんの者が思う。

 が、

「彼女を尊そん敬けいし!」「優しく扱うのが良い!」「それは、彼女とお前に、諍いさかいを起こさせないためである!」

 問われたジャリは突然、他の全員がギョッとなるようなことを言った。

 女、という類別を受ける人物は、この『九く垓がい天てん秤びん』に一人しかいない。今まで意見を言わなかったため無視してきた、しかし一いつ旦たん怒れば、他の面子めんつに負けず無む茶ちやをする腫はれ物のような隠おん密みつ頭がしら──チェルノボーグ。

 唐とう突とつな指名を受けた彼女は、平然と腕を組んだまま、不ふ機き嫌げんに顔を顰しかめたまま、

(な、なにを言っているのだ!?)

 と内ない心しんだけで大いに慌あわてた。常に出で鱈たら目めな言葉を吐き散らすだけだと分かっている、順番を自分に譲ると言っているだけかもしれない、この言葉に、思わず勘かん繰ぐってしまう。

(ま、まさか、知っているのではあるまいな!?)

 奇き妙みような卵の内心を計ることは、フレイムヘイズを百屠ほふるより困難である。彼女は、組んだ腕を、握る掌てのひらを、強く固めることしかできない。顔に力を入れて、なんとか無表情を維持しようと必死になった。表面上は、顰めっ面つらがますます不機嫌の度を強めたかのように見える。

 一方のモレクはといえば、

「ええ。それはもちろん、チェルノボーグ殿は尊敬しておりますが……しかしジャリ殿は、隠密頭も含めた、我々の活動の基となる情報を集められる組織の要かなめでありますし」

 などと人の気も知らないで、懸けん命めいに理り屈くつを並べ立てている。

 そのことに、チェルノボーグは不意な、燃え上がるような怒りを覚えた。他の面子が恐れた通りの行動(理由は違っていたが)、ソカルやニヌルタも驚く、モレクへの直接行動、

「っわ、だっ!?」

 伸びた足による神しん速そくの蹴けりが、モレクの派は手でな礼服の背中に叩たたき込まれる。

 軽い体は大きく吹っ飛んで、フワワの腹、獣じゆう毛もうの中に埋まった。

「……そんなにジャリの後が嫌だったのか?」

 その上、腹まで裂けた口が、ウンザリした声を吐き出す。

「つーかよ、モレク。俺はどこでもいーから早く決めてくれや?」

 もっともな意見に、頭をカラカラと振って牛ぎゆう骨こつが弁べん解かいする。

「も、申し訳ありません」

 見れば、チェルノボーグは背中を向けてしまっていた。こうなると、彼女はもうなにを言っても答えない。さっきの言葉の、なにが気に障さわってしまったのか、サッパリ分からなかった。

(ジャリ殿と、特別仲なかが悪いということはなかったはずですが……?)

 と、

「ふう……」

 イルヤンカが、なにか含みを持たせた溜ため息いきを吐いた。

「宰さい相しよう殿、チェルノボーグは、なによりまず己おのれのことを考えよ、と言っておるのだろう」

 少々意い地じ悪わるに、色々取とれる言い方をする。

 案あんの定じよう、後ろを向いた肩が、僅わずかに線を固くした。

(やれやれ、明言などすれば、本気で飛び掛かられるな)

 今度は心しん中ちゆうで溜ため息いきを吐いて、周しゆう旋せんの言葉を続ける。

「自身、失しつ念ねんされておるやも知れぬが、お主は宰相の地位にある。その身を軽んじるのは、主あるじの意向と信頼を軽んじることに他ならぬ。我ら『両りよう翼よく』に先頭を譲ゆずられたとして、その次はジャリ殿ではなく、お主でなくてはならんはずだ」

「あ」

 モレクは指し摘てきされて初めて気付き──チェルノボーグとイルヤンカが隠かくした方の意味には全く気付かず──他の面々に許可を求めるように、空からっぽの視線を巡らせた。

 ソカルもニヌルタも押し黙ったまま、フワワはフンと鼻を鳴らして文句を言わず、メリヒムは目を覚まさない。騒そう動どうの元げん凶きようであるジャリだけが、

「以上の他に欠けてはならない!」「役目が決まれば!」「誰も文句を言ってはならない!」

 と意味があるのかないのか分からない言葉を吐き散らしている。

「そ、それでは不ふ肖しよう、この私が『両りよう翼よく』の後を……」

 宰相の遠えん慮りよがちな決定を、

「席せき次じの序じよ列れつから、当然そうあるべきだ」

「まあ、主の定めた職しよく制せいですからな」

 ニヌルタとソカルが追つい認にんし、イルヤンカが、

「これでよいのだな、チェルノボーグ?」

 と後ろを向いたままの黒こく衣いの女性に言った。僅かに首元だけが動いて、頷うなずきとなる。

 そのことにほっとしたモレクは、

「では、後は……」

「貴き公こうがさっさと決めろ。時間がない」

「は?」

 いつの間にかメリヒムが立って、剣の位置を直していた。

 イルヤンカも、首を大きく振り上げ、

「おお──」

 感かん嘆たんとも陶とう酔すいとも取れる唸うなりを漏らす。

「これで我々がここへ来た件については終わりにしましょう!」「貴方あなたの家か臣しんを受け取ってください!」「彼らの誉ほまれは貶おとしめられてはいません!!」

 ジャリの声が、さらなる狂きよう騒そうに高まった。

 一同が見やる、暮れ始めた遠き東の地ち平へい。

 染み渡る闇やみの中に、全まつたき青の輝きが見えた。

 その下を進んでくる、[とむらいの鐘トーテン・グロツケ]殿軍しんがり。

 見る間に、青の輝きは天と地を明らかにしてゆく。


 はらり、


 と、輝きの欠かけ片らのような羽根が一ひと片ひら、

 置かれた宝ほう具ぐ『九く垓がい天てん秤びん』の中央に、集つどう九人の〝王〟たる『九く垓がい天てん秤びん』の中央に、躍おどっていた。羽根はさらに多く広く、山上に降り注そそぎ、その豊かな光で『九く垓がい天てん秤びん』のみならず、仮陣じん営えいにある全ての〝徒ともがら〟たちをも包み込んでゆく。

 入城の準備に立ち騒いでいた者らが皆、一いつ斉せいに静まり返って、光こう臨りんを待った。

 誰もが見上げる天上から、重い、壮年の男の声とともに、

「遅く、なったな……九く垓がいを平らぐ、我が天てん秤びん分ふん銅どうたちよ」

 仮か面めんに角つの、逞たくましい体たい躯くに翼つばさを持つ、一人の〝紅ぐ世ぜの王〟が、舞い降りていた。

 宝ほう具ぐ『九く垓がい天てん秤びん』が、この到とう来らいに反応し、巨大化する。仮かり本ほん営えいの空間をいっぱいに埋めて黄金の輝きを夕日に輝かす。敬けい愛あいして止まない無む二にの主あるじへと、『九く垓がい天てん秤びん』らは大皿ヴアークシヤーレの上で各おの々おのの姿に見合った、最さい敬けい礼れいの姿勢を取る。

〝棺ひつぎの織おり手て〟アシズ。世界最大級の規模を誇る〝紅ぐ世ぜの徒ともがら〟の集団、対フレイムヘイズ軍団[とむらいの鐘トーテン・グロツケ]の首しゆ領りよう、世に名高き自じ在ざい師しにして、世界秩ちつ序じよへの最大級の背はい信しん者。

 その優しい彼は、愛する子らに向けるように、一同を宙で一回り眺ながめ、天秤の中央へと、爪つま先さきだけで降り立つ。そうして、信頼する宰さい相しようへと、まず問う。

「なにか、変わったことは、あったか?」

 問いを向けられていない二人が、密ひそかにビクリとなる。

 恐怖から。

 力、苦痛、死への恐怖ではない。

 優しさを与えてくれる者が悲しむことへの恐怖から、である。

 しかし、宰相〝大だい擁よう炉ろ〟モレクは、敬礼の下から平然と答える。

「いえ、特には」

 その毅き然ぜんとした立ち居い振ふる舞まいには、主を補佐する賢けん者じやとしての、また『九く垓がい天てん秤びん』を纏まとめる宰相としての風ふう格かくが、確かに表れていた。ただし、本人の自覚はない。

「入城式しき典てんにおける、我ら『九く垓がい天てん秤びん』行進の序じよ列れつを、合議にて定めましてございます。どうぞ、御ご裁さい可かを……」

 アシズは、僅わずか視線を、地に深々と刺さった『虹こう天てん剣けん』の跡に流し、微笑した。

「苦労をかける、我が宰相」

「……勿もつ体たい無なき、お言葉」

 震えるような喜びを骨の総そう身みに感じつつ、裁定を下す。

「主あるじの後に、イルヤンカ殿、メリヒム殿、不ふ肖しよう私、ジャリ殿、ソカル殿、チェルノボーグ殿、ニヌルタ殿、フワワ殿、ウルリクムミ殿の順にてございます」

 左右の『両りよう翼よく』、イルヤンカとメリヒムを先頭に、宰さい相しようモレク、古こ参さんにして組織の枢すう要ようたるジャリ、戦せん功こうにおいては確かに図ず抜ぬけた存在のソカル、数々の暗あん殺さつ行動で組織を裏から支えるチェルノボーグ、公正でさえあれば文句を言わないニヌルタ、自身を誇ることに全く興味のないフワワ、あらかじめ最さい後こう尾びを名乗り出ていたウルリクムミ……全員の意見を入れた、誰からも文句の出ない、絶ぜつ妙みようの配置だった。

 これを聞いたアシズは再び、天てん秤びんの支点の上で、遊ぶように爪つま先さき立だちの身をくるりと回し、居並ぶ『九く垓がい天てん秤びん』たちに視線を巡らす。

 平へい然ぜん当然とそこに在る『両りよう翼よく』──今は騒がず浮かぶ大だい斥せつ候こう──自分の前では大人おとなしい、ゆえに可愛かわいい先さき手て大たい将しよう──また悲しい葛かつ藤とうを経たのか、少し元気のない隠おん密みつ頭がしら──正しさから来る情の強こわさを、刃やいばに霜しもと見せる中軍首しゆ将しよう──呑のん気きに欠伸あくびを噛かみ殺す遊ゆう軍ぐん首将──黙もくして頑がんと聳そびえる頼もしき先手大将──そして最後に、貫かん禄ろくのない無自覚な賢けん者じやへと、告げる。

「許す」

 九人揃そろっての返へん礼れいを受け取った青き天使は、どこまでも大きく強く翼つばさを広げ、山上の仮かり本ほん営えいで彼の号ごう令れいを待つ子ら、[とむらいの鐘トーテン・グロツケ]全軍へと朗ろう々ろう、声を轟とどろかせた。

「歓かん呼こせよ!! これより、[とむらいの鐘トーテン・グロツケ]はブロッケン要よう塞さいに入城する!!」



 天地を揺るがす歓声の後、俄にわかに慌あわただしくなった仮本営の端はしで、配はい下かに軍ぐん勢ぜいを持たない名のみの隠密頭は、集合する前に立っていた岩いわ場ばを、また一人で訪れていた。

(いったい何度、この失望と怒りを味わったんだ)

 全く、馬鹿な話。

 自分が悪いのである。

 分かっていて、それでも。

(せめて、おまえたちくらいは)

 思い、そこに在る花々を静かに見下ろす。

 と、そこに、

「こちらですか、チェルノボーグ殿?」

 また唐とう突とつな訪問を受けた。

 これを想う自分は、冷静になれないらしい。

 半なかば諦あきらめのように微び苦く笑しようし、振り向く。

「なんだ、痩やせ牛」

「いえ、その……」

 おどおどする男、確信を持てない、ゆえに他人に気を回し、気を遣つかい、振り回され、他人から向けられる思いを感じられず、気付けず、考えられない……そんな、ひたすらに自分だけを磨すり減らしてゆく男の姿が、とても疎うとましい。疎ましくて、辛つらい。どうして彼だけが、そんな目に遭あわねばならないのか。可哀かわい想そうだ、守りたい、襲おそい掛かかる全てから──彼を。

 しかし、思っていることの一粒すら、声にできない。

 口から出るのは、今いま在る彼の姿への苛いら立だちだけ。

「……馬鹿め」

「は? はあ、どうも、申し訳ありません……」

 こうやって、言葉の意味も問い質たださず、すぐ謝るのも気に食わなかった。なぜ、もっと堂々としないのか。ほんの先刻、主あるじの前で見せた、あの毅き然ぜんとした姿を、少しでもいい、自分にも他人にも、見せてやったらどうだ。そうすれば、もっと安らげるはずなのに。

(いや、無理なのだ……こいつは、主の『優しさ』に応えているのだから)

 思って、想って──自分には、ただそれだけのことが、できない。彼と同じように。苦しさから、目さえ合わせられなかった。語ご調ちようだけが、虚むなしいほどに強かった。

「なんの用だ。全軍の集合には遅れず行く」

 慰なぐさめに来てくれたわけでないことくらい分かっていた。そういう気の利いたことが全くできない男なのだ。

「ええ……実は、伝言を二つ、預かってまいりまして」

「伝言?」

 妙みような用事と訝いぶかる彼女に、モレクは慌あわてて弁べん解かいする。

「あっ、お怒りはごもっともですが、決して立場を軽んじているわけでは。ただ、その伝言を託されたお二ふた方かたから共に、私自身が行くように、とのご指示を受けたまででして」

(だから、なぜ宰さい相しようが他人の指示を──)

 思ってから、ふと、その指示を下した相手への直感が働く。

 誤りはなかった。

「我らが主よりの伝言が一つ──『この一時を過ごせ』と。それだけを伝えればよい、と申されました」

「……」

 なにもかもお見通しの主、その優しさに、チェルノボーグは思わず顔を伏せた。過ぎたる計らいに、それでももう少し甘えるため、あえて伝言への返事をしない。

 そんな彼女の内ない心しんなど察し得ない鈍どん感かん男おとこ・モレクは、己おのれに託された仕事として、さっさと二つ目の伝言を読み上げる。

「もう一つは、アルラウネ殿からで──『レーヴェンツァーンセイヨウタンポポです』と。その花ですか?」

「!」

「花が、お好きですか?」

 モレクが図らずも、アルラウネと同じ問いを口にした。

 反応は、全然違ちがってしまう。

「違う」

 チェルノボーグは無意味な反発と断言を、いつものように返してしまっていた。しかし、伝言を他でもない彼に託した主あるじとアルラウネ、二人の優しさに応えるため、少し、ほんの少し、言葉だけで歩み寄る。

「……色のついた花が、好きなのだ」

「はあ」

 色はどんな花でもついているのでは──という無ぶ粋すい極まりない問いを、モレクは先に怒らせてしまったことを思い出して、なんとか呑み込んだ。

「貴き様さまも宰さい相しようならば、麾き下かの諸しよ将しようの趣しゆ向こう程度は覚えろ。私は、こういう花が好きなのだ」

「は、はあ」

 モレクにはわけが分からない。今度は蹴けり飛ばされないようしっかり覚えようと、その花を見るため、女性の傍かたわらに立つ。

「『レーヴェンツァーンセイヨウタンポポ』、ですか」

「そうだ」

 さっきまで知らなかった花の名前に、チェルノボーグは偉そうな頷うなずきで返し、自分に許した僅わずかな、至し福ふくの一時に浸ひたった。

 二人は飽あかず、花を見つめる。

 なにも言わず、ただ見つめる。




 暮れつつある夕の光を輪りん郭かくに乗せて、その花は咲いていた。

 枯かれ草くさ色いろ──彼女の持つ炎ほのおの色、黄色──彼の持つ炎の色、

 二つの色が、一緒になって、咲いていた。