2 たくらみ
吉田健は、軽い口調を装って、姉に訊く。
「その、『写真の兄ちゃん』と一緒にいた子、姉ちゃんは知ってるのか?」
半ば以上の確信を持って、それでも吉田一美は問い返す。
「坂井君と、一緒に……どんな子、だったの?」
声の上擦る理由が、単なる弟へのばつの悪さなのか、自分の知らない坂井悠二ともう一人の少女の行動を知ったことへの動揺なのか、自分でも分からない。
健はテーブルにもたれて(まだ腰掛けられるほど背は高くない)、思い出す風に手を顎に当てる。どこか芝居がかっていて、わざとらしかった。
「えっと、ちっちゃくて、髪の長い……まあ、可愛い子だった、かな」
(やっぱり)
吉田は、心に重しのかかるような事実を、なんとか受け止める。
その子の名はシャナ。
坂井悠二を巡り、自分と張り合っている、異能の討ち手・フレイムヘイズたる少女。
「『写真の兄ちゃん』──サカイっての? 彼女付きだったんだ」
まったく、健の口ぶりには遠慮というものがない。
その一方的な決め付けに、吉田は頬を僅かに膨らませて抗議する。
「か、彼女なんかじゃ、ないよ……シャナちゃんは」
「そうは言うけどさ」
姉の、僅か、というだけの抗議の姿に、なぜか健は苛立ちのようなものを覚えた。自分でも気付かぬ間に、姉を挑発するような、あてつけがましい口調になる。
「写真の兄ちゃん、その『シャナちゃん』と楽しそうに話してたぞ。買ったケーキを分けるとか分けないとか」
実のところ、そのシャナと悠二の会話というのは──
「いくら物欲しそうに見ても、分けたげないわよ」
「べ、別にそんなこと、思ってないよ」
「嘘。悠二はモンブランが大好きだって千草が言ってた」
「それを知ってて、僕の前で五つも六つも買うか?」
「欲しくなったから買っただけ。でも絶対分けたげない」
「あのなー」
──などという、非常にさもしい会話だったのだが、距離を開けて見聞きしていた健にはそこまでの詳細は分からない。ただ、二人の近しい雰囲気を感じ取っただけ、その印象をまま、姉に伝えただけだった。
「彼女でもなけりゃ、そんな話しないんじゃないの?」
「そ、それは……」
吉田は言い澱む。弟が口にしたのは、単なる印象だった。理屈で否定するのは難しく、その持ち合わせもない。自分の覚えている感情が、ただの反発にしか過ぎないものであることも分かっている。が、それでも言葉は湧き上がった。胸の奥から、熱く激しく。
「とにかく違うの!」
「っ!?」
健は目を丸くして、キョトンとなる。
普段は穏やかな姉による、この強気の反撃は、弟を相当に驚かせたようだった。
抑えきれなかった気持ちを話相手にぶつける、そんな自分の行動に、今度は言った吉田自身が驚いた。慌てて謝る。
「あ、ご、ごめん……怒鳴ったりして」
ところが、怒鳴りつけられた(というほどの迫力はなかったが、吉田自身はそう思った)健は突然、ニヤリと笑った。
「ははーあ」
「な、なに?」
その、意地の悪そうな、人の心を見透かしたような弟の笑いに、姉はこれまで一度もやり返せたことが無かった。果たして健は今度も、図星を突く。
「さては、そのサカイって奴を、シャナちゃんって子と取り合ってるわけだ」
「!!」
吉田の顔が、驚きの上に羞恥の朱を加える。
「よく考えてみりゃ、毎日弁当まで作ってやってたもんなー。ファンパーにもデート行ってたみたいだし。なるほどなるほど、姉ちゃんには珍しい、積極的なアピールってわけだ」
「そ、あ、でも……」
「たしかに、違う女を彼女なんて言ったら『ちがうのお〜!』って叫びたくもなるか」
「うう……」

しきりに感嘆するふりをしてからかう健に、吉田は口答えの一つもできない。
これまでは、『写真の兄ちゃん』の件でからかわれるのは悪い気分ではない、むしろ照れくさくも嬉しいことだった。しかし今は、写真をネタにした軽い会話とはいえ、『坂井悠二』のことを実際に知られた、シャナという少女と張り合っていることを知られた、その上でのからかいである。恥ずかしくてたまらなかった。しばらくはこのネタで弄られることを観念する。
と、健が続けて、そんな姉の懸念を先取りするように言う。
「んで、さっそく自分のお誕生会にでも招待して、二人っきりで甘い夜を過ごすつもり、と」
「えっ、あ!」
吉田は、自分が悩みの内にめくっていた料理のタネ本から、自然と取り分けていた数冊の表紙に『誕生日のお料理特集』、『お誕生日に喜ばれるメニュー』等の文字があることに気が付いた。自分の誕生日は明後日である。秘めていたはずの想い、隠していたはずの計画を見破るヒントを自分で並べていたことに、思わず頭を抱えたくなる。
「姉ちゃんって、ホントなんでも見え透いてるんだよなー」
「べ、別に、二人っきり、ってわけじゃ……みんなと一緒にするんだから」
弟の痛い指摘にも、小声で弁解をするのが関の山という、威厳の欠片もない姉だった。
「でも、本音は二人っきりがいいんだろ?」
「健!」
吉田の怒る振りは、ケンカを終わらせるいつもの合図である。事情が多少変わっても、この効果は幸い、同じだった。
慣例通りに健は笑って逃げる。もちろん捨て台詞は忘れない。
「けっこーけっこー、恋せよ乙女ってやつ?」
コップを放り出して、彼はようやく台所から駆け去った。
「もう」
残された吉田は、珍しくしつこく絡んできた弟への不審を一瞬だけ抱き──しかしすぐに忘れて──机の上に積み重なった料理の本を片付け始めた。
その外、
「……」
健は廊下に突っ立っていた。その表情は、台所にあったときの生意気そうな笑顔ではなく、不機嫌に顰められている。
姉から離れた途端、滲んでくる気持ちがあった。
(……なんか、ムカつく)
姉に対してではない。
(サカイ、か)
姉の言っていた男に対しての、腹立ちである。
(よりにもよって、姉ちゃんみたいなのを、他の女と天秤にかけてる、ってか)
彼自身にとって、全く意外な気持ちだった。
今まで、こんな気持ちを『写真の兄ちゃん』に対して抱いたことはなかった。
姉に彼氏がいる、あるいは、そう言ってるだけで憧れているに過ぎない(憧れるほどの美男子か、とは思っていたが)のだとしても、それはそれで姉の勝手だと全く無視して、からかいの材料程度にしか思っていなかった。
ところが今日の夕方、そいつが別の女と親しげに話し、一緒に歩いている光景を見た途端、自分でも意外な……驚くほどの動揺を感じた。そして今、姉にその真偽を問い質して、一緒にいた小さな、しかしやけに凄みのある可愛い子が、本当に奴を間に挟んだライバルであると確認したことで、動揺は怒りに変わった。
彼氏だというのなら全然許せた。
というより、どうでもよかった。
いくらでも勝手にイチャついていればいい、と思っていた。
しかし、相手の男が、姉を誰か他の女と比べていたり、そのために姉を辛い目に遭わせているとなれば、話は全く別なのだった。
感情が怒りに変わった後に、自分がそう思っていたと気付いた。
とにかく、サカイとやらが気に食わない。
(まさかあいつ、姉ちゃんにいいように尽くさせといて、シャナちゃん、だったか……その子にも同じように……)
わざと悪い方に考える。
(比べるどころか、二股かけてるんじゃないだろうな)
無根拠、完全な邪推である。
であると分かっていて、なおも怒りを激しく燃やす。
敵愾心を、まるで自分から煽るように膨らましてゆく。
理由は分からなかったが、悪いことだとは思わなかった。
あの姉を、自分が守らなくていったい誰が守るというのか。
あの姉、あんな姉に対し不誠実な真似をしているサカイとかいう奴に、任せられるわけもない。むしろ、そのサカイから、サカイの行状から、姉を守らねばならない。
シャナとかいう子と歩いていた、文句を言いつつも楽しそうな、緩んでだらしない顔を思い出して、眉根を寄せる。なんとかしなければ、という衝動に駆り立てられる。
(でも、どうしたら……)
居ても立ってもいられなかったが、具体的になにをするか、ということまでは思いつかない。迂闊に動いて姉を泣かせるような結果に……仲を険悪にしてしまったりしては、元も子もない。サカイ自体は、全く、完璧に、気に食わない奴だというのに。
(姉ちゃんを、サカイを……つまり、なんだ……?)
結局自分がなにをしたいのか分からなくなり、健は俄かな混乱に陥る。
と、その中で不意に、
(そうだ!)
とある少女、よく家に遊びに来る姉の知り合いの顔が、脳裏に浮かんだ。
(あの人に相談してみよう)
そう心に決めて、健は階段を上がっていった。
シャナは、存在を喰われて死んだ、平井ゆかりという少女の存在に割り込み、己の身分を偽装している。当座の居宅もその自宅たるマンションの一室であり、ともに喰われたらしい家族の消えた後は、一人暮らしとなっていた。
ここに、彼女の養育係であったフレイムヘイズ『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルが訪れ、諸事情から同居するようになって、少し経つ。
一人暮らしだった頃は(坂井家に入り浸っていたこともあって)必要最小限のものしか備えていなかった殺風景な部屋も、ヴィルヘルミナ来訪以降は、普通の家庭ほどに飾り気も生まれている。
今、かつて『本物の平井ゆかり』のものだったシャナの部屋に、零時を過ぎた夜半にもかかわらず、一人の来客の姿があった。
「粗茶ですが」
正座して、紅茶を淹れたカップとモンブランケーキの皿を載せた盆を差し出したのは、ヴィルヘルミナ、
「はいっ、すいません!」
同じく、こちらは座布団の上に正座して、ペコリとお辞儀で返したのは、夜中に自転車を飛ばして平井家を訪れた緒方真竹である。
「はむ、もむ」
シャナはその傍ら、机の前の椅子に座って、さっそく自分に出されたモンブランケーキを満面の笑みで頬張っている。
今日買って帰った六つの──帰った直後にヴィルヘルミナと一つずつ、晩御飯後のデザートにまた一つずつ食べた──残り二つである。悠二にはあげなかったが、緒方になら簡単にご馳走する気になれた。
「それでは、どうぞごゆっくり」
「はい!」
襖を閉めてヴィルヘルミナが去ると、緒方は覿面に体から力を抜き、
「……ふう」
目の前にある盆を見て、ぽりぽりと困った風に頬を掻く。
彼女は人生の師・理想の女性と仰ぐマージョリー・ドーを佐藤家に訪ねた際、一緒に飲んでいる給仕服の女性と何度か遭遇して顔見知りとなっていた。ただ、快活を旨とする彼女には、その杓子定規な佇まいや堅苦しい雰囲気が少々窮屈に感じられるものらしい。
対して、小さな頃からヴィルヘルミナと暮らしていたシャナは、当然のように自然体である。ようやくくつろいだ風の緒方に軽く言う。
「食べないの? 美味しいよ、んむ」
言って、また頬張った。
「あ、うん。もらうね」
輝くような笑顔を見せるクラスメイトに緒方は答え(彼女は〝紅世〟についての事柄をなにも知らない)、慌ててケーキの皿を取る。
「でも、いいのかなあ……玄関先で立ち話するだけ、のつもりだったんだけど」
「ヴィルヘルミナは、お客様をお持て成しするのが好きなの」
「ふうん」
そういえば、と緒方は、ヴィルヘルミナについて『堅苦しい人』という感想を漏らした自分を、マージョリーが笑ったことを思い出す。
(──「そりゃ、観察眼が未熟なだけ。彼女は私よりよっぽど優しいわよ。単にその優しさが相談役に向いてないってだけのこと」──)
意味を図りかねながらも、彼女はマージョリーの言うようなヴィルヘルミナをなんとか見出そうと傾注していたが、それでもやはり、実際に顔を合わせると緊張が先に立ってしまう。やはりそう簡単に、師匠の域には届かない。
(優しい、か……そりゃ、悪い人じゃない、ってことくらいは分かるけど)
つい考え込んでいた緒方に、
「迷惑だった?」
人の気分を慮ることをようやく覚え始めた少女は、感じたことをストレートに尋ねた。
意外な問いに緒方は驚き、大きく首を振る。
「えっ? う、ううん! 全然そんなことないよ。ただ、家には、『ちょっとコンビニに行ってくる』って言って出てきたからさ。ほら、あんまり女の子がゆっくりしてっていい時間でもないでしょ?」
変に饒舌な答えを受けたシャナは、
(でも──)
部屋に通されたことで、用件を簡便に伝える以上の時間を浪費している。
御崎市における夜間の治安情勢は、人間の少女が一人で出歩くには、少々危険である。
虚偽報告によって外出許可を得た彼女が、帰宅の遅いことで家族から不審を抱かれる。
等々の事項は、彼女にとって都合の悪いことであるはず。
(──それは迷惑ってことじゃないのかな?)
と対人関係に疎い身で、率直に遠慮の修辞を検証する。そうして結局、検証した上で得た矛盾に納得できないまま、また率直に尋ねる。
「それで、用件はなに?」
「うん」
緒方は頷いて、ようやくの本題に入る。
「一美の誕生日のこと。なにか、特別なプレゼントをあげよう、って思いついてさ。で、善は急げ、ってことで真夜中に自転車飛ばしてきたわけ」
「特別?」
シャナは、悠二を巡って戦う強大な敵(と彼女は捉えている)たる吉田一美に対して、悪感情は持っていない。どころか、むしろ彼女の素朴で穏やかな性質を好いてさえいた。
そんな彼女の誕生日である。
緒方が来る直前、坂井家での夜の鍛錬から帰る道すがら、ヴィルヘルミナに誕生日とはなにか、誕生パーティーでは普通どんな催しをするのか、等を訊いていた。それは祝うべき行事であること、親しい者はプレゼントを贈ること、等も理解した。
悠二に関することで譲る気は全くなかったが、それ以外で彼女を喜ばせるのは、大いに結構だと思っている。明日にでも、千草かヴィルヘルミナに、なにを贈れば喜ばれるのかを改めて尋ねようと考えていたところだった。
その予定を、緒方が繰り上げて持ってきたわけである。
「そう、特別。せっかくだから、ずっと思い出として残るようなのを」
「……どんなこと?」
ひたすら実質本位で、思考や観念においても装飾というものに無縁なシャナは、抽象的な表現で語られても、いまいちピンと来ない。
それなりの日月、彼女と付き合ってきた緒方も、言う間に気が付いた。目の前でキョトンとしている、同性から見ても可愛らしく感じる女の子にも分かるよう、提案を具体的に、簡潔に言い直す。
「ズバリ、料理!」
「?」
まだ分からないようなので、さらに分かりやすく。
「私たち二人で、一美に美味しいものを作ったげるの」
「えっ」
ようやくの理解に辿り着いて、シャナは驚きの声をあげた。
緒方はその驚く様子に満足しつつ、自分のプランを披露する。
「なにかある度、一美にはご馳走を作ってもらってるでしょ。だから、たまには私たちの方で、美味しい料理を振る舞ってあげようって思ったわけ。どう?」
ほとんど不審のように、シャナは訊く。
「そんなものでいいの?」
緒方は少し心外な風に答えた。
「そんなもの、ってことないでしょ。そりゃ、たしかに一美に比べたら……っていうか、まあ私も、あんまり、そっちは得意じゃ……ないけどさ」
常の彼女らしくない歯切れの悪さは、提案に説得力を与える料理の腕前が、いま一つ二つ足りないことを表している。とりあえず、心意気だけで抗弁などを試みる。
「出来がどうであれ、心を込めた贈り物ってのは嬉しいものなの」
「……」
言われて、シャナは少し前、自分が悠二に弁当を作ってあげたときのことを思い出す。
悠二の母・千草の指導の下、頑張ってフライパンを振るった甲斐あって、悠二は大喜びで弁当を食べてくれた(実際の感想が見た目と正反対だったことを彼女は知らない)。あれは個人的にも、火力を抑えることのできた自信作だったが、そんな自分自身の感情以上に、悠二の態度から満足感と誇らしさ、嬉しさを得ることができた。
たしかに、悪い提案ではないように思える。
「なんとなく、分かる」
緒方は同意を受けて、得意げに笑った。
「でしょ? 下手に高級なプレゼントあげるよりも、そっちの方が一美も喜んでくれそうな気がするんだ」
この提案、実は懐具合がさほど芳しくないという、彼女自身にとっての裏事情もあったのだが、ともあれシャナにとっては望むところである。
「うん」
「よっし! じゃ、明日の放課後に二人で特訓して、明後日の誕生パーティーの日に本番、ってことでどう?」
無論、これにも異存はない。
「分かった」
「決まりね。で、なに作る? やっぱ、オーソドックスにケーキとか──」
「メロンパン」
シャナは語尾に重ねるように即答した。
「……」
「……?」
二人、数秒見詰め合ってから、緒方が訊く。
「……誕生日に?」
「……ケーキでいい」
渋々、シャナは提案を撤回した。
翌日、部活を軽い顔出し程度で切り上げさせてもらった緒方は、大急ぎでシャワーを浴びるや、鳥の飛び立つような早足で学校を出た。
向かう先は坂井家である。
(よーし! まずは材料の買い出し、と……坂井君ちの近くに、その手のお店はあったかな? それとも商店街に回った方がいいかな?)
当初、彼女としては邪魔者の入らなさそうな平井家で、全てに厳正的確であるように見えるヴィルヘルミナ・カルメルに、ケーキの作り方を聞こう、指導を受けよう、と思っていた(そのお願いも兼ねて、平井家を訪れたのである)。家政婦なのだから当然、料理もできると思っていたのである。
ところが意外なことに、申し出を受けたヴィルヘルミナは、
「少々、難しくありますな」
とだけ言って、そそくさと逃げるように自分の部屋に引きこもってしまった。
どうやら、料理だけはからっきしダメであるらしい。普段出す食事もほとんどがレトルト食品、得意料理はサラダと湯豆腐、というあたりから、その腕前は推して知るべしである。
この意外な事実を知り、困じ果てた緒方に、シャナが、
「じゃあ、千草に教えてもらえばいい」
と提案し返したのだった。
言われて気付けば、いつぞや御崎神社に遊びに行った際、あの優しく温和な女性には美味しいお弁当をご馳走になっている。悠二に、四苦八苦料理する様を見られるかもしれないのが難点と言えば難点ではあったが、今日は彼も吉田へのプレゼントを買いに出かける、とのことである。特別な問題はなさそうに思えた。
(あっ、そうだ! たしか副道脇に、新しいスーパーできたんだっけ……そこに寄ってけばいいかな)
ポケットから、材料をメモした紙片を取り出して確認する。
今日は誕生パーティーに参加する他の皆、田中栄太や佐藤啓作、池速人らも、それぞれ用意するものがあるということで、各人バラバラに帰っている。
なんだか自分だけ出遅れたような気にさせられていた緒方は、スラリと長い足を小気味良く振り、乾かす間を惜しんだ髪を残暑の風に靡かせ、大通りを行く。
と、そこに、
「あっ! あの──」

大通り沿い、屋根つきバス停で待っていたらしい人影が、声をかけてきた。平均よりも背の高い緒方から見て、かなり小柄な少年である。
「あれっ……健君じゃない?」
吉田家に遊びに行くようになってから、何度も一緒にゲームなどをして顔見知りになっている吉田一美の弟・健だった。
「どしたの、こんなとこで。お姉ちゃんなら、今日はもう帰ったと思う、けど?」
言う間に、気が付いた。
なんだか今日の彼は、姉をからかって遊ぶ、明るくてはしこい少年、という常の感じではない。その硬い表情の中、重たげに唇が開く。
「いえ、今日は、姉ちゃんのことじゃ……あ、違わないのか……」
口の中だけで、モゴモゴと声を転がすように言った。
「?」
いよいよもって、らしくない。
緒方は、そんな少年の様子を不審に思い、改めて訊き直す(例え急いでいる時であっても、困っている者を邪険に扱わないのが、彼女の美点である)。
「なにかあったの?」
「はい、その……」
促されても、健はなかなか言葉を濁して答えない。が、やがて躊躇いがちに、おずおずと本題を口にした。
「姉ちゃんのカレ……いえ、その……」
言い辛そうに口ごもる様を見せて待たせること数秒、ようやく意を決して声を出す。
「サ、サカイって、どんな奴なんですか?」
「えっ」
緒方は、思わず素っ頓狂な声をあげていた。
一旦口にして楽になったのか、次の質問は素早く、単刀直入に来る。
「そのサカイは、シャナって子と、どういう関係なんですか?」
「え、えー、と……それは……」
今度は、緒方が返答に困って立ち尽くした。
弟が友達を問い詰めているのと反対側、学校に近接する商店街に、姉の吉田一美はいた。
傍らに在るのは、渦中の元凶・坂井悠二──ではない。
「へえ、スーパーよりずっと安いな」
メガネマンこと池速人である。八百屋の店先に並んだ、普段の登下校ではただ通り過ぎるだけの背景に初めて注目した彼は、その安さに驚いていた。
「これも四個でいいんだっけ、吉田さん?」
明日の誕生パーティーで出す料理の材料を書き記したメモを手に、吉田が頷く。
「うん。重かったら言ってね、池君」
「まだ全然大丈夫だよ」
答えた池は、右手に学校の鞄、左手に店備え付けの買い物籠を提げている。
吉田と家の近い彼は、プレゼントの一環、彼女へのお祝いのオマケとして、明日たくさん出されるだろう料理の材料買出しを申し出ていたのだった。
悠二に対するよりやや近しい調子で、吉田は何度目かのお礼を言う。
「本当にありがとう」
その笑顔にも、肩肘張らない自然さがあった。
彼女にとって、池は対等に会話できる、唯一の男友達なのだった。
反対に、池の吉田に対する感情は、実のところかなり複雑なものがある。もっとも、それを表に出すほど、彼は不安定な人間ではない。いつものように接して、いつものように言う。
「いいよ。明日のついでってことで」
「じゃあ、ご馳走して、お返しするから」
「それは素直に楽しみだな」
笑って池は、自分が普段寄っているスーパーに比べてかなり安いジャガイモを、買い物籠に放り込んだ。荷物はそれなりに重かったが、ここは男という見栄っ張りな生き物として耐える。持ちやすいよう、手の握りを直しつつ尋ねた。
「この後さ」
できるだけ、さり気なく。
「駅前のアクセサリーショップに行こうと思ってるんだけど」
「え、池君が? 珍しいね」
本気で感心する吉田に、池は苦笑を漏らす。
「そうじゃなくて、吉田さんの誕生日プレゼントを買いに行くってこと」
「あっ──」
吉田は自分の返答の間抜けさを恥じ、また思いもしなかった親切に驚く。
「なにか希望はある?」
「私、いいよ、そんなの」
慌てて手を振る彼女だったが、池もさすがにこの頼みだけはきけない。
「いいわけないよ。折角の誕生日なんだ、むしろ大いに希望を述べて欲しいな」
「でも……」
「遠慮はこの際、要らないよ」
「う、ん」
ようやく吉田は頷く。済まなさそうに。
「僕は意外性よりは確実性で行きたいからね。気に入ってもらえるデザインを選べるかどうかはともかく、ジャンルくらいはご期待に沿いたいわけ」
言われて彼女は少しだけ考え、やがて遠慮がちに答えた。
「じゃあ……アクセサリーとはちょっと違うけど、ハンカチなんか、あると嬉しいかも」
あまり高いものにならないように、という彼女なりの気遣いを察しつつ、池は軽く頷く。
「りょーかい。こりゃ、意外とセンスの問われるお題だな」
「ありがとう、池君」
「お礼を言うのはまだ早いよ。とりあえず、今持ってるこれを吉田さん家に運んでから、聞こうかな」
「うん」
二人は微笑みを交わし、歩いてゆく。
佐藤啓作の家は、かつて地主階級であった人々が集住する旧住宅地でも、指折りの豪邸である。かつて彼はここで、家事をハウスキーパーに任せた独り暮らしをしていた。かつて、というのは、数ヶ月前に居候が一人、家に転がり込んだからである。
その居候とは、他でもない『弔詞の詠み手』マージョリー・ドー。前裾を縛ったワイシャツに膝までのスラックスという、いかにもいい加減な即興の格好をすら、貫禄のごり押しで着こなす異能の討ち手は今、
「う〜、ん……」
メジャーカップを手に、一つの実験を行っていた。夏特有の白けた夕日の差し込む室内は、静寂に緊迫を加えた厳かさの中にある。
「……もう、ちょっとなのよね」
周りに並べられているのは、メモにグラスにバースプーン、果物にナイフに搾り器にアイスペール……ここは、広大な佐藤家の中にある室内バーだった。カウンターとバックバーを備えた本格的な作りで、ごく最近、工事が行われて水場も付いた。
「……あとは、ライムの量だと思うわけよ」
伊達眼鏡越しの鋭い視線でカップの傾きを調整し、一滴一滴を計りつつ、シェーカーへとライムの搾り汁を注いでゆく。
部屋には他に、ソファ一式とクローゼット数揃い、大きな姿見等が置かれている。彼女は、この室内バーを佐藤家における居室と勝手に定め、御崎市における活動拠点としていた。
と、その傍ら、バーカウンターの上に置かれた、画板を纏めたような大きさの本が、
「ヒッヒッ、半日かけて、ようやくレシピ一つ完成か。まったくご苦労なこったぜ、我が執拗なる鯨飲者、マージョリー・ドー?」
と耳障りな声で喚いた。声の主は〝蹂躙の爪牙〟マルコシアス。マージョリーと契約し、異能の力を与える〝紅世の王〟である。
常の彼女であれば、相棒が意思を表出させる本型の神器〝グリモア〟を乱暴に叩くところだが、今は慎重にも慎重を重ねる作業の途中である。
「お黙り、バカマルコ」
と、小さく、ゆっくり、呟くのみだった。
「黄金率の探求は、カクテル飲みの醍醐味なの、よ……」
繊細優雅な指先が、精密機械のようにメジャーカップを傾け、完成に向かう、最後の一滴を加えようとする。そのとき、
「たーだ今帰りました!」
「ちゃーっス!」
ドカン、と、
「っ!」
扉を開けて入ってきた佐藤と田中の大声に押されるようにつんのめったマージョリー、その手元で、ライムの搾り汁が全部、シェーカーの中に注がれた。
「……」
静止ボタンを押されたように固まる彼女を、
「ヒャーッハハハハハブッ!?」
大きく笑い飛ばしたマルコシアスが、鞭のようにしなる腕に払われて吹っ飛んだ。ドでかい本である〝グリモア〟はそのまま、狙いすましたかのように、
「んごわっ!?」
「どはっ!?」
現れた二人にぶち当たり、廊下へと諸共に転がり去った。
「あー、もー!」
マージョリーは頭をガシガシと掻いて、栗色の髪を掻き混ぜる。
少しして、放り出された廊下、ドアの端からおずおずと、
「あ、あのー」
「姐、さん?」
もう一度二人が覗き込んでみると、マージョリーはカウンターの中で眉根を寄せて、投げやりにシェーカーを振っていた。不機嫌さも露に口を開く。
「別に、怒ってないわよ」
「キィーッヒヒヒ、顔はそう言ってなブッ!?」
佐藤が抱えていた〝グリモア〟に、アイスが弾丸のように打ち込まれた。
「ったく、一言多いのよ」
「また、カクテル作ってたんですか?」
カウンターの散らかり具合を見た田中は、ようやく自分たちが彼女のお楽しみを邪魔したらしいことに気付いた。その証拠のように、
「そう、作ってたの」
と大人気なく過去形を強調した声が返ってくる。もっとも、不機嫌ではあっても、その言うとおり、怒りの深刻さはない。二人は胸を撫で下ろし、ようやく部屋に入った。
佐藤啓作と田中栄太は、美貌貫禄、強さと恐さを併せ持つフレイムヘイズたる彼女に憧れ、その子分を自称している。称するだけでなく、色々と自分たちなりの猛勉強とトレーニングを行って、子分たるに相応しい存在になろうとしていた。
学校から帰っての読書もその一つである。
「田中、あれ、ちゃんと買ったか?」
「ああ」
内容こそ雑学の方面に偏ってはいるものの、彼女と出会ってからの数ヶ月で、それなりの量をこなし、また量に見合った(あまり役には立ちそうもない)知識を蓄えている。
が、それでも今日、ソファに座った彼らが取り出した本は、マルコシアスを驚かせた。
「よう、ご両人。ノンジャンルっつっても程があるんじゃねえか?」
言われて、佐藤が苦笑する。
「ああ、これか?」
彼が手にしていたのは女性ファッション雑誌、
「違う違う、今日のは、プレゼントを選ぶための本だよ」
慌てて手を振った田中が持っていたのは、アクセサリーの専門書だった。
「プレゼントォ? こないだマタケにやったばかりだろ。ご両人、意外にもてんだな。それとも、誰かに迫る気かあ?」
ガタガタと騒がしく身を揺する〝グリモア〟に、佐藤は肩をすくめて見せた。
「残念ながら、そーいうのじゃないんだな」
「明日……マルコシアスも知ってるだろ、吉田ちゃんの誕生日でさ」
田中も言って、本を開く。
「オガちゃんにあげたみたいなアクセサリーにするか、もっと普通っぽい感じの、別のなにかにするか、姐さんにも話を訊こうと思ってさ」
「つーか、女の子へのプレゼントなんて、俺らにはよく分かんねーし……」
佐藤から、期待の籠った視線を向けられたマージョリーは、シェーカーから注いだ、ライム入りすぎのカクテルを一気飲みして、少し考える。
「ヨシダ? ああ、カズミのことね」
緒方と比べて回数こそ少ないものの、ごくたまに深刻な顔で相談に訪れる──主に〝紅世〟と人間の関わりについての助言を得るため──押しの弱い少女のことを思い出した。
「ふうん、あの子のバースデー・パーティーやるんだ」
「さーぞかし炎髪灼眼の嬢ちゃんの周りは騒がしくなんだろうなあ、ヒッヒッヒ!」
なんだか自分たちには見えない所まで見通しているようなマルコシアスに、
「どーだろな」
と返してから、佐藤は改めて尊敬する女傑に尋ねる。
「なんなら、マージョリーさんも出席しますか?」
「とりあえず、オガちゃんは誘いに来ると思いますよ」
田中も続けたが、当の本人はカウンターに肘を着いて鼻で笑う。
「ふん、ジョーダンでしょ。なんで私が、少年少女のホームパーティーなんかに出なきゃなんないのよ」
やっぱり、と少年二人は肩を落とす。実のところ、緒方にかこつけた自分たちからの誘いだったわけだが、その程度の魂胆はお見通し、以前にそもそも行く気は全くないようだった。
(ま、ダメ元だったしな)
(そうそう上手くは行かねーか)
と、当面は諦めて思う二人の頭上に、古臭い響きの、キンコーン、という音が鳴った。佐藤家の呼び鈴である。
「ん──?」
佐藤が本から顔をあげた。
田中が腰を浮かしかける。
「俺が出ようか」
「いいよ。プレゼント選んでてくれ」
言って、家主たる少年は廊下に出てゆく。
家の仕事を受け持つハウスキーパーの老婆たちは、彼らの帰宅前後に昼謹を終えて帰ってしまうので、夜の来客への応対は、必然的に彼がやることとなっている。
旧住宅地には、土地柄としてセールスマンなどはやって来ない。恐らく郵便物でも届いたのだろう、と田中は思い、言われた通り、アクセサリーの本をめくる。
「オガちゃんのときも、全然分かんなかったんだよなあ」
「ヒーッヒッヒッ、マタケ嬢ちゃんは、おめえから貰ったもんなら生ゴミだって祭壇に飾るだろうさブッ!?」
「乙女の気持ちを生ゴミに例えたりするんじゃないわよ、バカマルコ」
再びアイスを鋭く投げつけられて、〝グリモア〟は黙った。
そうして、マージョリーはレシピのメモに英語の走り書きを記し、田中はアクセサリーの本に目を落とすという、不意な静寂が室内バーに訪れる。
ややの間を置いて、佐藤の帰ってくる足音が廊下から響くと、
(ん? ……妙ね)
マージョリーは不審げな顔を上げた。
足音が、彼一人だけのものではない。もう二組、来客用スリッパの音がパタパタと鳴っているのを、フレイムヘイズの鋭い聴覚が捉えていた。
キイ、と扉が開いて、戸惑いを顔に表した佐藤が入ってくる。
「あのー」
「誰?」
すでに彼だけでないことは分かっているので、マージョリーは残る二人が誰なのか、というところから質問を始めた。
答える前に、見慣れた顔が戸口から顔を出す。
「こんにちは、マージョリーさん」
「なんだ、マタケじゃない」
マージョリーは拍子抜けした。
現れたのは、僅かに緊張した様子の緒方だった。
(ん?)
しかし、それならそれでおかしい。この二人という組み合わせなら、からかい合い笑い合って廊下をやってくるはずだった。つまり、佐藤に戸惑わせ、緒方を緊張させているのは、残るもう一人の来客である。
緒方が廊下の方を見て、
「さ、大丈夫……相談に乗ってくれる、いい人だから」
と促す。
相棒が〝グリモア〟を僅かに揺すり、笑いをこらえている気配を不愉快に思いつつ、その来客の入ってくるのを待つ。
ようやく、パタリ、とスリッパを鳴らして小柄な影が、戸口に現れた。
「……?」
田中も、初めて見る顔に怪訝な面持ちとなる。
気の強そうな容貌に、僅かな怯みの色を浮かべた、彼らより幾つか幼い少年だった。
マージョリーは、最も基本的な質問を、この来訪者に投げかける。
「あんた誰?」
少年は背筋を伸ばし、大きな声で答えた。
「はじめまして! 吉田健っていいます!」