吉よし田だ一かず美みの机の上に、写真立てが一つ、置かれている。

 写真の中に在るのは、少年。

 教室の窓まど際ぎわに立ち、こちらへと振り向いた──不意に撮られた、ゆえにこそ自然な佇たたずまいを見せる──坂さか井い悠ゆう二じという、少年。

 極ごく薄うすのデジカメを自慢しに持ってきた中なか村むら公きみ子こが、ある物いる者、何十と写しまくった中の一枚だった。そのことを知った吉田が、珍しく誰の助けも借りず、中村に頼み込んでプリントしてもらった一枚だった。代だい償しようは、あまり品が良いとは言えない笑いと、肘ひじ打うちの連打だった。

 やっと得た、一枚きりの、大切な人の、写真だった。



 御み崎さき高校一年二組の教室には、まだ夏休み明けの弛ゆるんだ雰ふん囲い気きが漂っていた。

 残ざん暑しよの午後、しかも放課後ともなれば、生徒は空気の抜けたボールのように、弾はずむ活力もないダラダラした身動きのまま帰宅の途とにつく。

 その気だるい流れの中で鋭く、しかし小さな声で、吉よし田だ一かず美みは言った。

「池いけ君、お願いだから」

「えっ?」

「坂さか井い君には言わないで」

 常の穏おだやかな、微笑ほほえみこそ似に合あう柔らかな容よう貌ぼうが、強こわ張ばりの端はしに恐れすら覗のぞかせている。

 まさかこんな顔をされるとは思ってもいなかった池速はや人とは、釣つられて勢いよく頷うなずいていた。

「そ、そりゃあ、僕は別に構わないけど」

 他人への気配りを忘れない、頼られるクラス委員『メガネマン』として、他た意いなく持ち出した、なんでもない話題のはずだったのだが。

「でも──」

 どうして、と彼が尋たずねようとしたとき、いつもの面子めんつが教室に帰ってきた。体育館で行われた課か外がい授業の上映会、その後あと片付けに駆り出されていたのである。

「なははっ! やっぱまだ、最初に痛い目に遭あわされた時のこと、忘れてないみたいだな。シャナちゃんに椅い子す運び言いつけるとき、顔が強張ってたぞ」

 意い地じ悪わるっぽく笑っているのは佐さ藤とう啓けい作さく、

「もう授業の方だってマトモにやってんだから、堂々としてりゃいいのにな。つーか俺とは普通に喋しやべってるぞ。シャナちゃんも、もう気にしてないだろ?」

 肩をすくめて見せるのは田た中なか栄えい太た、

「気にするって、なにを」

 怪け訝げんな顔で短く訊きき返すのは、平ひら井いゆかりことシャナ、

「あははっ、さっすが。やっぱ私、シャナちゃん好きだわ」

 その肩を軽く気持ちよく叩たたくのは緒お方がた真ま竹たけ、

 そして、

「あ、二人ともお待たせ。行こうか」

 最近、どこか芯しんの強さを外にも表すようになってきた少年、坂井悠ゆう二じ。

 言われて、自然と皆が鞄かばんを取った。



 市街の中心に当たる御み崎さき市し駅が、とある事件で全ぜん壊かいして以来、駅から伸びる大通りは歩行者天国となっている。

 もはや日常の風景となっているそこは、帰宅の時間帯ということもあり、車しや歩ほ道どう問わず、行き交う人々でごった返していた。所ところ構かまわず商品を広げる露ろ店てん、うろつく物売り、ストリートミュージシャンらも飲まれて埋もれるほどの人ひと出でである。

 彼ら、男四人に女三人という、やや大おお所じよ帯たいなグループは、下校ついでに駅前で買い物をした佐さ藤とうに付き合った後、この大通りの歩行者天てん国ごくをうろついていた。

 寄り道は学生の冒険である。

 様々な用事が待ち構える家に帰らないことの開放感、出会うものをなんでも楽しんでしまう遊びの爽そう快かい感かん、建たて前まえとしての禁止事じ項こうを破る背はい徳とく感かん……制服のままでいることさえ、彼らの足を弾はずませる材料になる。

 その足は今、温ぬるい夕風と人ごみに揉もまれて、一ひと休憩に入っていた。ペットボトルを一本ずつ買った彼らは、本来は車道との区分けになっている柵さくに並んで腰掛ける。

「──で、その監かん督とくが酷ひどい奴やつでさ、リアリティとか言っちゃ俳優苛いじめてるらしんだよね」

 緒お方がたは楽しげに言い、弾はずむような勢いで田た中なかの隣となりに座った。

 佐藤が、その田中を挟む反対側に腰掛ける。

「ああ、聞いたことあるある。マラソンをマジで走らせたり、電流とか爆発で怪け我がさせたりするって話だろ? あれじゃ役者がついてかねーよな」

 笑って、わざと席を詰めるようにして、田中を緒方に押し付ける。

 緒方と密着する形になり、迷めい惑わく半分照てれ半分の顔をした大おお柄がらな少年は、誤ご魔ま化かすようにペットボトルの清せい涼りよう飲いん料りよう水を一いつ気き飲みした。一息ついて、自分たちの前を流れすぎる人々を細い目で眺ながめる。

「爆発って言や……駅の補ほ修しゆう工事、結けつ構こう進んでるみたいだな」

 視線の先にあるのは、歩行者天国の終点である御み崎さき市し駅。

 一月と少し前、世の裏を跋ばつ扈こする〝紅ぐ世ぜの徒ともがら〟、その一人との戦いによって周囲の高こう架かごと全ぜん壊かいした駅えき舎しやは、ようやく瓦が礫れきの撤てつ去きよと基礎工事が終わり、鉄骨を組み立て始めていた。

 人の身ながら戦いの端はしに加わった田中には、感かん慨がい深いものがあるらしい。

 その際、彼と行動を共にしていた佐藤だが、

(ったく……オガちゃんの話に付き合ってやれよな〜)

 友人のそういう生き真ま面じ目めな部分には、思わず苦く笑しようが漏れる。

 代わって、佐藤の隣に座った池いけが話題を受けた。

「大きなクレーンとかの作業が終わったら、ここの交通規き制せいも解くって聞いたよ」

 緒方が驚いた顔を見せる。

「それって、この大通りの歩行者天国がなくなるってこと? せっかくフリマの場所とか値切り方、覚えたところだったのに……」

 彼女と池は〝紅ぐ世ぜ〟の事情を知らない。駅の全壊についても、〝徒ともがら〟と戦うフレイムヘイズ側の流る布ふした、事件ではなく事故(経けい年ねん劣れつ化かによる高架線せん路ろの崩ほう落らくと、重量バランスの変動に耐え切れなかった駅舎の倒とう壊かい)という情報を信じていた。

 池は手に持ったウーロン茶を一ひと飲のみしてから答える。

「ここに店を出してる人たちも、歩行者天てん国ごくを残して欲しい、って嘆たん願がんしてるらしいよ。市の方でも、大通りは無理だけど、側そく道どうで代わりができないか検討してるってさ」

 悠ゆう二じが、歩道から車道、車道から歩道と横切り歩く人々を見ながら、それに答える。

「駅はともかく、大通りの方はこのままでいい、って思う人もいるだろうな。車を使ってないと、不便って実感もないし」

 彼の右隣どなり、池いけとの間に掛けた吉よし田だが、

「そうですね。なんだか、あのお祭りが、ずっと続いてるみたい……」

 自分たちも含めた雑ざつ踏とうを、ほのかに笑って見つめる。

 駅が全ぜん壊かいした騒そう動どうは、御み崎さき市の夏祭り・ミサゴ祭りの当日に起きた。彼女はその際、重要な役割を担にない、同時に悠二へと、自らの熱い想いの丈たけを告げている。

 彼女にとって目の前の光景は、そんな思い出の延長線上にあるものなのだった。

 と、

「……」

 悠二を挟んで反対側に座る小こ柄がらな少女が、同じ日のことを思い、しかし逆の気持ちを抱いてムッとなった。言うまでもない、シャナである。

 高校の制服を纏まとっても十一、二歳さいという幼さを隠かくせない容よう姿しに、圧倒的な貫かん禄ろくと存在感を満たした彼女は、人間ではない。〝徒ともがら〟討とう滅めつの使命を持った異い能のう者──フレイムヘイズ『炎えん髪ぱつ灼しやく眼がんの討うち手て』である。坂さか井い悠二という特別な少年を監かん視しし、守るためにこの街に滞在している。その行為に、使命という以上の気持ちを自覚しながら。

 彼女にとってのミサゴ祭りとは、吉田と同じ想いを悠二に対し抱いている(はずの)自分がなにもできなかった、敗北の日でもある。思い出して愉ゆ快かいでいられるわけもなかった。そもそも彼女は吉田と違って、

「はむっ!」

 悠二に直接的行動を軽々に取ることが、性格の面からも立場の上からもできない。少なくとも、自分ではそう考えている。

「んむっ!」

 せいぜいが、険しい表情と大げさな仕し草ぐさで、移動パン屋のメロンパンにかぶりつくくらいだった。悠二なら、今の自分の気持ちを感じ取ってなにか言ってくれる、という(無自覚な甘えから来る)抗こう議ぎ行動だった。

 果たして悠二は、望んだとおり困った顔で笑う。笑いかけてくれる。

「シャナ、いっぱい零こぼしてるよ」

「……分かってる」

 期待通りの声を受けて満足したシャナは、不愉快な振りで、素そっ気け無ない振りで、頷うなずいて見せる。そうして、メロンパンのせいにしてニコニコと笑う。

「やっぱりここのメロンパン、美お味いしい」

「作りたてだからね」

 悠ゆう二じも困った笑顔のまま答える。

 と、今度は吉よし田だが、寸すん前ぜんまでのシャナのようにムッとなる。悠二にまた話しかけ、なぜかシャナが答える。悠二が焦ってとりなす。他の皆が、そんな三人を見て笑い、からかう。

 当たり前の光景は、常のことと受け取る者、いつまであるのかという不安を胸の底に抱く者、今があるのならと開き直って楽しむ者、平然と過ごす者、眼めには見えない悲ひ喜きこもごもを秘めて、ゆっくりと流れてゆく。



 それから少し後、一同は寄り道の終わり、最初の別れがある場所に差し掛かっていた。

 雑ざつ踏とう溢あふれる歩行者天てん国ごくに、何気なく開いた一つの筋すじ。御み崎さき市の中央を東西に割って流れる大河・真ま南な川がわの東北に位置する、旧きゆう住宅地への入り口である。

 佐さ藤とう、田た中なか、緒お方がたの三人は、この地区に住んでいた。

 少し奥に閑かん静せいな大だい邸てい宅たくばかりを並べるこの筋も、入り端はしは他の道と同じ、大通りの喧けん騒そうに満ちている。

 ここまで来てようやく、池いけはほっと一つ、安あん堵どの溜ため息いきを吐いていた。

(やれやれ……とりあえず、今日は無事に乗り切れたかな)

 吉田に頼まれた、悠二に言ってはいけないこと。それについて知っている可能性の高い人物が、この一いつ行こうの中に混じっていて、今ようやく別れつつあったからである。

 つまりは、最近彼らとよく遊ぶようになった女友達、緒方真ま竹たけ。

 自分が切り出したときの吉田の驚きようから考えて、他の誰かが先にそのことを口にした可能性は低い……と池は見ていたが、女友達というのはそういう情報を頻ひん繁ぱんに遣やり取りしているように思える。油ゆ断だんは禁きん物もつだった。

(緒方さんなら、吉田さんが口止めしてても、うっかり喋しやべりそうだ……)

 歩行者天国に設けられたフリマスペースの片かた隅すみ、曲がり角の露ろ店てんに並べられた、趣味がいいのか悪いのか分からないアクセサリーをひやかしている一同の後ろで、つい苦く笑しようを漏らす。

(それに、言った吉田さん本人が、僕に注意したことを忘れてるみたいなんだよな)

 まあ、しようがないけど、と苦笑を深める。

 悠二と一緒だと、彼女は気分が高こう揚ようして冷静さを失ってしまうのだから。

 そしてそれは、止めようと思って止められるようなものではないのだから。

 悠二になにか言ったり、シャナに対抗したりで一いつ杯ぱい一杯の彼女に、余よ計けいな心配事に気を払う余よ裕ゆうなどないだろうことは、容易に察することができた。

 そんな、自分ではない少年へと心を向ける彼女に対して、拗すねるような気持ちもあるにはあったが、

(それでも……いや、だからこそ、やらずにはいられないのかもな)

 結局、緒お方がたが不用意になにか言わないか、律りち儀ぎに一人警けい戒かいしながら同行している。

(ホント、変な苦労ばかり背負い込むもんだ)

 自分の性分を、溜ため息いき一つで受け入れる正義の味方・メガネマンだった。

(ま、緒方さんには明日にでも、僕から念ねん押おししとこう)

 思う彼の前で、その緒方が露ろ店てんの物に関連してか、アクセサリーの話をしている。並べられた品の物ぶつ色しよくを止めると、皆に向き直って、

「シャナちゃんのそれ──」

 と、同じく彼女の、黒い宝石に金の輪を意い匠しようしたペンダントを目め線せんで指しながら、

「──ほどじゃないけど……じゃーん!」

 首にかけていた網あみ紐ひも、その先にある物を胸元から引っ張り出した。

 銀色、指先大だいの、絡まる蔦つたで花弁を象かたどったペンダントだった。

 一同が、その素朴で慎つつましい、しかし巧みな細さい工くに目を見張る。

「きれい……」

 吉よし田だが芸のない、しかし最上級のほめ言葉を口にした。

 緒方は期待通りの答えを受け取ると、

「そう?」

 見せびらかすための手をやや上げ、胸を張る。

「……かけて来てたのか」

 田た中なかが言う、その声こわ色いろに照れを感じた池いけは、わざとらしい口く調ちようで尋たずねる。

「高そうなペンダントだね。どうしたの?」

 緒お方がたは再び、待ってましたとばかりに答えた。

「田中に貰もらったんだ、へへー」

 嬉うれしげな表情から、物もの自体を自慢することよりも、貰った経けい緯いを明かすことの方を楽しんでいるのがありありと分かる。その理由、意味するところはさらに明めい瞭りようだった。

「へえ、田中に……」

 悠ゆう二じが、分かっているのかいないのか、小こ粒つぶながら趣味のいいペンダント、満面に笑みを作る緒方、そしてあらぬ方向に目線を泳がす田中を順番に見た。

 その田中は、ブツブツと言い訳めいた答えを返す。

「体ていのいいたかりだよ、たかり。ったく、一ひと月つきも前のことなのに……」

 その困る様さまをニヤニヤと笑って見ていた佐さ藤とうが、ようやく説明を補足する。

「こいつ、ちょっとしたことでオガちゃんを泣かしたのが、マージョリーさんにバレてさ」

「マージョ……? ああ、佐藤ん家ちに滞在してるっていう、女社長さんか」

 池は少し前、緒方からそのような説明を受けていた。実際に会ったことはなかったが、佐藤と田中が惚ほれ込んでいる人であるらしい(以前に変な質問をされた、その対象ではないかと、彼は睨にらんでいる)。

 無む論ろん、その女社長の正体はシャナと同じ、〝徒ともがら〟を討とう滅めつするフレイムヘイズの一人、『弔ちよう詞しの詠よみ手て』マージョリー・ドーである。

 佐藤は、その居い候そうろうを自慢するような得意顔がおで答える。

「ああ。で、オガちゃんになにか、そのお詫わびをしてやれ、って言われたのさ」

「そういうこと」

 緒方は深々と頷うなずき、尊そん敬けいする女性の言葉を、まるで聖せい書しよを読む司し祭さいのように繰り返す。

「──気持ちの交わりをキッチリと物でやり取りするのは、『そういう関係』の基本──なんだってさ。やっぱ、マージョリーさんは分かってるよね。田中、今度ちゃんとお礼に伺うかがいます、って言っといてね」

「へーへー」

 ぞんざいに答える田中だが、『そういう関係』であることについては否定しない。

(いいなあ、二人とも……)

 吉よし田だは、そんな緒方と田中の、遠回しな自じ他た公こう認にんの仲を羨うらやましく思い、

(あいつら、余よ計けいなことばっかりするんだから)

 シャナは、同業者としてマージョリーの深入りを不用意であると思っていた。

 そういや、と佐さ藤とうが緒お方がたに言う。

「オガちゃん、最近マージョリーさんトコに、いろいろ相談に来てるんだよなー」

 口を尖とがらせんばかりの不満な声こわ色いろだった。

 彼は田た中なかと共に、世界を渡り〝徒ともがら〟と戦う美び麗れいの女じよ傑けつ・マージョリーの弟で子しを一方的に自じ認にんしている。向こうからは全く相手にされていない、宿やど主ねし程度にしか思われていない、という自覚があるため、気軽に接しては答えを得ている緒方が羨ましくてたまらないのだった。

 羨うらやまれる少女は、そんな子供のような嫉しつ妬とにも、悪びれずスッパリ答える。

「まーね。こういうことを相談できる女の人って、身み近ぢかにいないし。それに、マージョリーさんって、なんていうか……話しやすいんだ」

 そこで突然振ふり向いて、同意を求める。

「ね、一かず美み?」

「っう、うん」

 吉よし田だが慌あわてて頷うなずく。

「へえ、吉田さんも相談とかしてるの?」

「は、はい……ごくたまに、ですけど」

 悠ゆう二じは不ふ思し議ぎに思った。彼の知る『弔ちよう詞しの詠よみ手て』マージョリー・ドーは、手て強ごわい敵として出会い、頼れる味方として共に戦った、討とう滅めつの追っ手・フレイムヘイズでしかない。その際に見知った性格も、豪ごう放ほう磊らい落らくな戦闘狂きようというもので、とても悩める少女たちの相談を受けつけるような人物には見えなかった。

(特に、吉田さんとは正反対の性格じゃないのかな)

 と、単純な線引きをして訝いぶかしむ。

「そうは見えないけど……」

 思わず口にした未み熟じゆくな少年に、緒方は優ゆう越えつ感かんのようなものを匂におわせて言う。

「男には分かんないのよ。ね、シャナちゃん?」

「えっ」

 また突然、同意を求められて、シャナは戸と惑まどった。彼女にとってマージョリーは実際に刃やいばを交え炎ほのおを介かいし戦った相手である。互いに使命の上でのこと、特段の隔かく意いは持っていないが、かといって話しやすいかと言うと……

(……)

 導き出された認にん識しきは、否定に類するものだった。しかし、緒方への答えとして、それでは不適当であるように思えた。なんとなく、頷く。

「……うん」

「?」

 案あんの定じよう、悠ゆう二じは妙みような顔をする。彼はシャナとマージョリーの間あいだ柄がらを、ほぼ余すところなく知っている。性格的に、あまり馬の合う相手ではないことも、当然。

 シャナは、

(変なの)

 そう、自分の口にした答えを、自分でおかしいと思っていた。実務的な応おう対たいではない、人との会話というものを覚え始めていることへの自覚は、まだない。

 池いけが、その答えに別な感想を漏らす。

「なんだ、マージョリーさんに会ったことないのは僕だけか。佐さ藤とう、今度紹しよう介かいしてくれよ」

「えっ、あ、まあ……いろいろ難しい人だから、そのうちな」

 佐藤は苦しい笑いで誤ご魔ま化かした。

「そーそ、優しいのは女の子に対してだけなんだから」

 緒お方がたは逆に明るく笑って見せ、ペンダントを再び、大事そうに胸元にしまう。

「そうだ、プレゼントって言えば──」

「!」

 池はその声の先に繋つながるものを予感していた。

「──明後日あさつて、一かず美みの誕生日でしょ?」

 さっと吉よし田だの顔が青ざめた。

 池は、なにも、しなかった。

 思わず飛びついて口を押さえようかと思うほどに焦り、しかし結局、なにも。

 できなかったのではなく、しなかった。

 自分では認めたくない、吉田に対する拗すねた気持ちが、行動を鈍にぶらせていた。

 緒方が、無む邪じや気きに言う。

「みんなで誕生パーティーしようよ!」



 零れい時じに、ややの間を置いた夜。

 坂さか井い家は陽炎かげろうのドームに包まれる。

 時とき折おり、紅ぐ蓮れんの炎ほのおを過ぎらせ揺らめくこれは、世界の流れから内部を断だん絶ぜつさせ、外部から隠いん蔽ぺい・隔かく離りする自じ在ざい法ほう、因いん果が孤こ立りつ空間『封ふう絶ぜつ』である。

 その中、屋根の天てつ辺ぺんに当たる棟むねの上、狭い庭の地面を背後にする突とつ端たんで、いつものジャージ姿の悠二が、日課となっている夜の鍛たん錬れんを行っていた。

 目もつ下かの課題である、ただ立つ中で、

(……本当に、吉田さんは……)

 夕方の出来事を思い出して、クスリと笑う。

「なんでありますか」

 即そく座ざに、眼前で棒ぼう立だちとなっている監かん督とく役やくの女性が注意した。

 フレイムヘイズ、『万ばん条じようの仕し手て』ヴィルヘルミナ・カルメルである。

 純白のヘッドドレスとエプロン、丈たけ長ながのワンピースに編み上げの革かわ靴ぐつという、一見してメイドと分かる装い。肩までの髪の内にある、情感に乏しい端たん正せいな顔立ちが、僅わずかに寄せた眉まゆ根ねという形で不ふ機き嫌げんを表している。

「あ、すいません」

 悠ゆう二じは即そく座ざに謝る。

 と、その視線の行く先、ヴィルヘルミナによって通せんぼされた反対側の端はしから、

「なに?」

 シャナが声をかけた。こちらは、ヴィルヘルミナが用意した、動きやすい薄うす手でのジャケットにスパッツという装い。

「ええ、と」

 答えようとした悠二の声を、

「会話無む用よう」

 とヴィルヘルミナのヘッドドレスから発された、より無ぶ愛あい想そうな声が遮さえぎった。彼女と契約し、異い能のうの力を与えている〝紅ぐ世ぜの王〟、〝夢む幻げんの冠かん帯たい〟ティアマトーのものである。

 渋しぶ々しぶ、という感情を隠かくさず、シャナは返答する。

「はぁい……」

 ヴィルヘルミナらは、彼女を拾い育てた養よう育いく係である。ゆえに当然、親代わりの存在として、シャナと悠二、二人の仲が進展するのを大いに警けい戒かいしていた。というより、露ろ骨こつに邪じや魔ましていた。朝と夜の鍛たん錬れんに、『より広こう範はんかつ高度な指導』を行う、と称して参加しているのも、(明言こそしていないが)その一いつ環かんだった。

(ヴィルヘルミナの馬鹿……)

 シャナは、密ひそかに楽しみにしていた悠二との二人きりの時間を邪魔されて悔くやしい思いをしていたが、まさかこの胸の内を明かして抗こう議ぎするわけにもいかない。根が実直なので、適任者たる女性が自分たちを鍛きたえることに、理り屈くつとして納なつ得とくもしていた。

 それでも、やっぱり、少しだけ口を尖とがらせずにはいられない。

(ヴィルヘルミナの、馬鹿……)

 罵ば倒とうでは決してない、大好きな人が認めてくれない、という不満を胸に、フレイムヘイズの少女は、自分の鍛錬を黙もく々もくと行う。

 その小さな掌てのひらから、紅ぐ蓮れんの火ひの粉こが封ふう絶ぜつの中に渦うず巻まく。

 シャナは最近、ヴィルヘルミナらから、先代『炎えん髪ぱつ灼しやく眼がんの討うち手て』の戦術──各かく戦局でどのような手段や力を用いて戦っていたか──について詳しく教わっていた。彼女に異能の力を与える〝紅ぐ世ぜの王〟、〝天てん壌じようの劫ごう火か〟アラストールも珍しく多た弁べんに、この説明を補足していた。

 大たい抵ていのフレイムヘイズは、個々人の持つ『強さのイメージ』を、契約した〝紅ぐ世ぜの王〟の力によって具ぐ現げん化かするため、聞いたことそのままを真ま似ねすることは望まれていない。あくまで自分の戦い方における参考として聞くように、とのことだった。

 以来シャナは、いろいろと腹ふく案あんを持って、技ぎ量りよう発展の試し行こう錯さく誤ごに励はげんでいた。

 そんな少女の鍛たん錬れん開始を背に気配と感じて満足し、前の少年に向ける顔はあくまで厳きびしく、ヴィルヘルミナらは促うながす。

「さあ、あなたも」

「集中」

「はい」

 鼻先が触れ合う程ほどに詰め寄る給仕服ふくの美人(程度にしか表現の幅のない少年だった)を前にして、しかし恐さ以外の動どう悸きを感じない悠ゆう二じだった。なんといっても、彼女らには本当に殺されかけたことさえあるのだから、他を感じられようはずもない。

 海かい賊ぞくに海上の細ほそ板いたへと追い詰められるような心持ちで、今までとっていた姿勢に、より力を入れる……否、〝存在の力〟で、自分の形を構築する。

 両手を横に広げた、まるで案か山か子しのような片足立だちの形。

 三十分以上、ずっとこの姿勢のままで、彼は立っていた。

(そこに在ることに、力を使う……だったよな)

 常じよう人じんには不可能なことを行って、しかし彼にはさほどの疲労もない。

 なぜなら彼、坂さか井い悠二は、常人ではない。

 どころか、厳げん密みつには坂井悠二ですらなかった。

『本物の坂井悠二』は、かつて御み崎さき市を襲おそった〝紅ぐ世ぜの徒ともがら〟一味に、この世に存在するための根源の力、〝存在の力〟を喰われて、とっくに死んでいた。ここにいる彼は、その残り滓かすから作られた代だい替たい物ぶつ・トーチなのだった。

(そう、僕は人間じゃない)

 トーチは、火の点ついた蝋ろう燭そくのように、残された〝存在の力〟を時とともに消しよう耗もうしてゆく。それに連れて、周りの人々はトーチとなった人間を忘れ、本人も気力や意欲を減げん退たいさせる。そうして存在感や居い場所、役割を失った頃、誰にも気付かれることなく消える。

 世の裏に跋ばつ扈こする〝徒ともがら〟が、人を喰らうことで生まれる歪ゆがみを一時的に和やわらげる、歪みの発生を感かん知ちする討とう滅めつ者・フレイムヘイズの追跡から逃れるために作った、道具だった。

(僕は、坂井悠二の残ざん影えいみたいな存在だ)

 ただ、悠二はトーチの中でも特別な存在だった。

 その身に宝ほう具ぐを宿すトーチ、『旅する宝の蔵くら』〝ミステス〟だったのである。

 彼の内に何処いずこからか転てん移いしてきた宝具は、時の事じ象しように干かん渉しようする〝紅ぐ世ぜ〟秘ひ宝ほう中の秘宝『零れい時じ迷まい子ご』。毎夜零れい時じに、宿やど主ぬしたるトーチが一日に消しよう耗もうした〝存在の力〟を回復させるという、一種の永久機き関かんだった。

(こうして日々を送っていられるのも、『零れい時じ迷まい子ご』による、偶然の結果だ)

 悠ゆう二じはこの宝ほう具ぐの働きにより、人格や存在感を維持したまま、日々を送っていた。

 命が失われた時の姿で。

 永遠の時の迷子として。

(それでも、確かに今ここにいて、感じて、思っている……)

 その感じたことの一つを、今また思い浮かべる。

 緒お方がたによる、なんでもない言葉、

(──「──明後日あさつて、一かず美みの誕生日でしょ?」──)

 友達として至し極ごく当たり前の提案を聞いた吉よし田だ一美の表情を、思い浮かべる。

 自分の誕生日を隠かくす内気な少女、ひけらかして騒いでもらうことへの遠えん慮りよ……そんなものでは在り得ない、明かしたくなかったことを明かされたという衝しよう撃げき、知られたくないことを知られてしまった悔かい恨こん、そして、恐怖。

(……)

 悠二は、吉田がなにを気遣っていたのか、一瞬で気付かされた。彼女に告白されてからハッキリと感じるようになった気持ちと、その表情が全く同じ性質のものだったからである。

『本物の坂さか井い悠二』が持っていた、

『今の坂井悠二』が持っていない、

〝ミステス〟となって失った、人間としての未来。

 そんな彼に、

 人間である自分は生きている、

 人間である自分は成長してゆく、

 今いる坂井悠二とは違う、と示してしまう日。

 吉田にとって、人間である自分の生命は、悠二のことを想っているからこそ禁きん忌きとなり、ゆえに隠そうと思い、遂ついには明かされることへの恐怖となっていた。

(……分かるよ、吉田さん)

 確かに悠二はそのことを聞いて、胸の内に木こ枯がらしの吹くような、どうしようもない寂せき寥りよう感かんを覚えていた。自分が、もう彼女たち人間とともに普通に年を重ねてゆくことができない、それ以外のものとして決定的に道を違たがえてしまった、と改めて思い知らされた。

(でも)

 そんな彼女の気き遣づかいを、嬉うれしく思い、哀かなしく思う。

 嬉しく思ったのは、彼女らしい、自分を殺した思い遣やりが染みたから。哀しく思ったのは、その思い遣りが、自分を人間ではない存在と認にん識しきした上でのものだったから。

(そう思えるってのは、僕が、ちゃんと僕として生きているってことだ)

 悠ゆう二じにとって、彼女が思い煩わずらうことは全くの杞き憂ゆうに過ぎないものだった。

 彼は、自分の境きよう遇ぐうに対する憐あわれみを、とっくに失っていたのである。心が磨ま耗もうしきったからなのか、悟さとりでも開いて吹っ切ったからなのか、単に状況に慣れたからなのか、それとも元々の性格がドライだったからなのか、判別はつかない。それでも、実際の心しん象しようとして彼は、自分は生きている、と思っていた。

(もしかして吉よし田ださんは、こうして僕に『自分は何者なのか』って思わせること自体を、止めさせたかったのかな)

 いつかシャナに言われたことがある。

(──「寒々しさやよそよそしさというのは、始まりにあって、これからを築いてゆくものじゃない。始まりにあるのは、お前が今日感じた、いつもの日常、いつもの風景、いつもの友達。それを、寒々しさとよそよそしさが、削けずってゆく……それが、これからの日々」──)

 悠二は思う。

(吉田さんが隠かくしたのも、その一つの表れなんだろうか)

 うそ寒い思いを僅わずかに過ぎらせて、しかし自分の境きよう遇ぐうは憐れまない。それよりも、こんな自分を好きだと言ってくれた少女のために考える。

(いや……こんなことのせいで吉田さんに、本当は楽しく過ごせるはずだった誕生日を、辛つらい思い出になんか、させられないよな)

(──「みんなで誕生パーティーしようよ!」──)

 という緒お方がたの提案を聞いて、自分の方を見て、吉田が苦しげな顔をしたとき、咄とつ嗟さにそれを払うように明るく、有う無むを言わせない大きな声で、

(──「いいね、みんなで賑にぎやかにやろう!」──)

 そう答えた自分の行動は、間違っていないはずだった。

 事情を知っている佐さ藤とうと田た中なかも、一瞬遅おくれて、

(──「オッケー! いいよな、吉田ちゃん!」「パーッとやろうぜ、楽しく!」──)

 と応じてくれた。なぜか池いけは変な顔をして黙っていたが、結局同どう意いした。言いだしっぺの緒方には異い論ろんのあるはずもない。シャナだけは意味が分からないのか、キョトンとして成り行きを見ていたが、周りの様よう子すから、とりあえずと同意していた。

 そして、こういうイベントの好きな佐藤が、

(──「んじゃ、どんな誕生パーティーにする?」──)

 と張り切って意見をまとめ、その場でパーティーの細さい則そくも決まった。

 日時は明後日あさつての放課後。

 場所は吉田家の居間。

 参加者はそれぞれプレゼントを持ち寄る。

 主催者の吉よし田だは、ご馳ち走そうでお返しする。

 最後の項目を、せめてと付け加えた少女は、一同に向けて頭を下げ、言った。

(──「ありがとう」──)

 と。

 上げた顔は、ほんの少し、なにかを引き摺ずっていたが……たしかに喜びの笑顔だった。

(吉田さんには、笑ってて欲しい)

 それだけを、思う。

 思って、笑う。

 その表情を、真ん前に立つ監かん督とく役やくの女性に見み咎とがめられた。

「真ま面じ目めにやるのであります」

「懲ちよう罰ばつ」

 バシッ、とどこからか純白のリボンが走り、屋根の端はしに立っていた片足を払われる。

「っう」

 その一いち撃げきで、悠ゆう二じは宙に放り出されていた。

「わあっ!?」

 自分の下に遠い地面しかないという、位置の実感。空中にある一瞬の、不ぶ気き味みな怖おぞ気けを伴った浮ふ遊ゆう感かん。双そう方ほうが雪な崩だれるように、落下という根こん源げんの恐怖に変わる。

 変わったときにはもう激げき突とつが眼前に──

「──」

 ビシ、と、

 目を見開いた数センチ先で、地面が止まる。

「──ッ!」

 足首に、先と同じ白いリボンが巻きつき、捕とらえていた。

 瞬まばたきをようやく思い出した途と端たん、どっと冷や汗が噴ふき出す。

「悠ゆう二じ、大丈夫!?」

 屋根の上から心配げに覗のぞき込むシャナに、悠二は目と鼻の奥を押さえつけられるような、逆さ釣づりの感覚の中で答える。

「あ、ああ、なんとか……」

「ヴィルヘルミナ!」

 声を確認するや、シャナは掴つかみかからんばかりの勢いでヴィルヘルミナに詰め寄った。彼女らには、実際に悠二を殺しかけたという前ぜん科かもある。心底からの恐怖が表情の中に僅わずか、残ざん滓しを垣かい間ま見せていた。

 それを見て取る詰め寄られた側は、しかしいつもと同じく、平然と返す。

「鍛たん錬れんの最中に気を散らして、だらしなく笑う方に非ひがあるのであります」

「正当懲ちよう罰ばつ」

「笑う……?」

 ようやく、この懲罰に理由があることに思い至り、怪け訝げんな声で訊きいたシャナへと、元もと養よう育いく係の女性は──今度は他意ありありと──答える。

「大おお方かた、吉よし田だ一かず美み嬢じようのことでも考えて、ニヤついていたのでありましょう」

「弛し緩かん面めん相そう」

 悪意からの憶おく測そくで図ず星ぼしを突かれて、つい悠二は逆さ釣りのまま、

「へ、変な意味で笑ってたわけじゃ──あ」

 叫んでから、自分の間ま抜ぬけな自じ白はくに気付いた。恐る恐る、静まり返った屋根の上へと、声をかける。

「……シャナ、さん?」

「落として」

 冷れい酷こくな少女の指示を、『万ばん条じようの仕し手て』は躊ちゆう躇ちよなく実行する。

 足首のリボンが解ほどけた。

「待まぐげっ!?」

 地面に顔から落ちた悠二は、変な叫び声を上げて倒れた。

「痴しれ者が」

 アラストールの声が、聞こえたような聞こえなかったような。



 家の台所にあるテーブルで、吉よし田だは気のない視線で料理の本を眺ながめていた。見慣れたメニューを目に流す、という以上の速さで、パラパラとページをめくってゆく。

(……)

 最後までめくると、傍かたわらにある、料理の本のぎっしりと詰まったカラーボックスから、また一冊を取る。すでにテーブルの上には、本の山ができていた。

(……あれで、良かったのかな)

 またページをぞんざいにめくりながら考える。

 自分の表情のせいだったのだろうか。すぐに隠かくしていた意図に気付かれてしまった。どうしてこう、変なところで正直に顔に出してしまうのだろう。いくら自分が決意したり他人に口止めしたりしても、これでは全く意味がなかった。

(私って、本当にダメだ)

 もしかして、隠そうとしたこと自体がお節せつ介かいだったかもしれない。それも、『坂さか井い悠ゆう二じは人間ではない』という認にん識しきを前ぜん提ていとした、お節介である。こういう気の回し方に、彼は不ふ機き嫌げんにならずにいてくれるだろうか。

(……ダメだけど)

 暗く沈みそうになる気持ちを、なんとか押し上げる。尊そん敬けいする強い人、傷だらけの少年の言葉を、これまで何度か決意の度たびそうしたように、また胸の中で唱となえる。

(──『それでも、良かれと思うことを、また選ぶのだ』──)

 あのときも、そうやって選んで、悲しく苦しい事実に直面させられた。

 しかし代わりに、彼に本当の意味で近付き、想いを告げることができた。

 良いことと悪いことは、複雑怪かい奇きなまでに絡み合っている。

 決して、彼への歩み寄りを、止めてはいけない、止める気もない。

 なにせ、恋こい敵がたきの少女・シャナは、世界にこれ以上ないほどの、超ちよう強敵なのだ。

 自分よりもっと坂井悠二の近くにいて、自分よりずっと接する時間が多くて、自分より遥かに強くて可愛かわいくて頭も良くて──

(いけない、「それでも、王おう子じは怪かい物ぶつに立ち向かいました」ですよね……カムシンさん)

 心を奮ふるい立たせるために、少しオーバーな表現で恋敵を捉とらえてみる。

(ごめん、怪物はないよね、シャナちゃん)

 自分で考えたことに、思わず笑っていた。

 ようやく、気分が落ち着いてきたことを感じる。

 悩み事があると、こうして台所でいろんな料理の本を静かに眺めて、心を静めるのが吉田の習しゆう癖へきだった。こうして立ち直るまでの時間が、最近では少し短くなったような気がする。気がするだけで、立ち直る活気も恐らくは虚きよ勢せいだが、ないよりはマシだろう。

(素直に受け取ろう、楽しく過ごそう、そうすれば坂さか井い君も少しは喜んでくれる)

 できるだけポジティブに考える。考えて、今度こそ本当に、自分の誕生日を祝ってくれる皆に振る舞うための料理を選ぼうと本をめくる。来てくれる皆が美お味いしいと思ってくれれば、とても嬉うれしい。坂井悠ゆう二じが美味しいと言ってくれれば、とてもとても嬉しい。

(坂井君には、笑ってて欲しい)

 そうして、皆と笑い合いたい。もちろん、ライバルであるシャナとも。

 そのとき、

 ガチャリ、とドアが開いて、パジャマ姿の少年が入ってきた。

 面おも差ざしは吉よし田だと似ているが、目が少々釣つり上がっていて、受ける印いん象しようは随ずい分ぶんと違う。

「なんだ姉ねえちゃん、またブルー入ってんの?」

 弟・吉田健けんだった。

 三つ違いの中学一年生。姉とは対たい照しよう的な、はしこい少年である。

「また、は余よ計けいでしょ」

「じゃあ、長々と?」

 少し膨ふくれる姉を背に、健は冷蔵庫を開ける。

「もう。これでも少しは短くなってるんだから」

「どーだか」

 ジュースのパックを取り出した少年は取り合わず、水みず屋やからコップを出した。

「姉ちゃんってばさ、積んでる本の量と顔色で、どれくらい沈んでるか、一ひと目めで分かるんだよなー。なんか、見え見えっつーか」

「余計なお世話です」

 結局、姉が大いに膨れてしまう、いつもの姉弟の口くち喧げん嘩か……その最後に、

「そう、かな」

 ズケズケものを言う弟らしくない、妙みような返事が来た。

「ま、今日はまだ……マシな方みたいだけど」

「?」

 吉田は弟の態度に、ようやく違い和わ感かんを覚えた。

 自分の悩みについて、からかう軽さではなく、絡むような細かさで、弟が指し摘てきしたことは、今までなかったように思う。目の前でコップへとジュースを注そそぐ弟に、声をかける。

「健?」

「……」

 健が、即そく答とうしない。彼女と目を合わせるのを避けるように冷蔵庫にパックを戻し、そのまま振り向かない。

 ほんの僅わずかな沈ちん黙もくを経て、

「姉ねえちゃん」

 健けんは妙みように平へい淡たんな声で答えた。

「俺、今日、学校の帰りに大通りのゲーセンにいてさ」

「うん……?」

 吉よし田だは、弟が何を言おうとしているのか、さっぱり分からなかった。

 テーブルに片手をかけた健は、さり気ない風ふうを装って、言う。

「そっから出たときに、見たんだ」

「なにを?」

「あの『写真の兄にいちゃん』が、別の女と一緒にケーキ屋に入ってくの」

「あ……っ」

 吉田は弟の勘違いに、思わず息を呑んでいた。

「なんか、すんげえ仲良さそうだった」