1 かくしごと
吉田一美の机の上に、写真立てが一つ、置かれている。
写真の中に在るのは、少年。
教室の窓際に立ち、こちらへと振り向いた──不意に撮られた、ゆえにこそ自然な佇まいを見せる──坂井悠二という、少年。
極薄のデジカメを自慢しに持ってきた中村公子が、ある物いる者、何十と写しまくった中の一枚だった。そのことを知った吉田が、珍しく誰の助けも借りず、中村に頼み込んでプリントしてもらった一枚だった。代償は、あまり品が良いとは言えない笑いと、肘打ちの連打だった。
やっと得た、一枚きりの、大切な人の、写真だった。
御崎高校一年二組の教室には、まだ夏休み明けの弛んだ雰囲気が漂っていた。
残暑の午後、しかも放課後ともなれば、生徒は空気の抜けたボールのように、弾む活力もないダラダラした身動きのまま帰宅の途につく。
その気だるい流れの中で鋭く、しかし小さな声で、吉田一美は言った。
「池君、お願いだから」
「えっ?」
「坂井君には言わないで」
常の穏やかな、微笑みこそ似合う柔らかな容貌が、強張りの端に恐れすら覗かせている。
まさかこんな顔をされるとは思ってもいなかった池速人は、釣られて勢いよく頷いていた。
「そ、そりゃあ、僕は別に構わないけど」
他人への気配りを忘れない、頼られるクラス委員『メガネマン』として、他意なく持ち出した、なんでもない話題のはずだったのだが。
「でも──」
どうして、と彼が尋ねようとしたとき、いつもの面子が教室に帰ってきた。体育館で行われた課外授業の上映会、その後片付けに駆り出されていたのである。
「なははっ! やっぱまだ、最初に痛い目に遭わされた時のこと、忘れてないみたいだな。シャナちゃんに椅子運び言いつけるとき、顔が強張ってたぞ」
意地悪っぽく笑っているのは佐藤啓作、
「もう授業の方だってマトモにやってんだから、堂々としてりゃいいのにな。つーか俺とは普通に喋ってるぞ。シャナちゃんも、もう気にしてないだろ?」
肩をすくめて見せるのは田中栄太、
「気にするって、なにを」
怪訝な顔で短く訊き返すのは、平井ゆかりことシャナ、
「あははっ、さっすが。やっぱ私、シャナちゃん好きだわ」
その肩を軽く気持ちよく叩くのは緒方真竹、
そして、
「あ、二人ともお待たせ。行こうか」
最近、どこか芯の強さを外にも表すようになってきた少年、坂井悠二。
言われて、自然と皆が鞄を取った。
市街の中心に当たる御崎市駅が、とある事件で全壊して以来、駅から伸びる大通りは歩行者天国となっている。
もはや日常の風景となっているそこは、帰宅の時間帯ということもあり、車歩道問わず、行き交う人々でごった返していた。所構わず商品を広げる露店、うろつく物売り、ストリートミュージシャンらも飲まれて埋もれるほどの人出である。
彼ら、男四人に女三人という、やや大所帯なグループは、下校ついでに駅前で買い物をした佐藤に付き合った後、この大通りの歩行者天国をうろついていた。
寄り道は学生の冒険である。
様々な用事が待ち構える家に帰らないことの開放感、出会うものをなんでも楽しんでしまう遊びの爽快感、建前としての禁止事項を破る背徳感……制服のままでいることさえ、彼らの足を弾ませる材料になる。
その足は今、温い夕風と人ごみに揉まれて、一休憩に入っていた。ペットボトルを一本ずつ買った彼らは、本来は車道との区分けになっている柵に並んで腰掛ける。
「──で、その監督が酷い奴でさ、リアリティとか言っちゃ俳優苛めてるらしんだよね」
緒方は楽しげに言い、弾むような勢いで田中の隣に座った。
佐藤が、その田中を挟む反対側に腰掛ける。
「ああ、聞いたことあるある。マラソンをマジで走らせたり、電流とか爆発で怪我させたりするって話だろ? あれじゃ役者がついてかねーよな」
笑って、わざと席を詰めるようにして、田中を緒方に押し付ける。
緒方と密着する形になり、迷惑半分照れ半分の顔をした大柄な少年は、誤魔化すようにペットボトルの清涼飲料水を一気飲みした。一息ついて、自分たちの前を流れすぎる人々を細い目で眺める。
「爆発って言や……駅の補修工事、結構進んでるみたいだな」
視線の先にあるのは、歩行者天国の終点である御崎市駅。
一月と少し前、世の裏を跋扈する〝紅世の徒〟、その一人との戦いによって周囲の高架ごと全壊した駅舎は、ようやく瓦礫の撤去と基礎工事が終わり、鉄骨を組み立て始めていた。
人の身ながら戦いの端に加わった田中には、感慨深いものがあるらしい。
その際、彼と行動を共にしていた佐藤だが、
(ったく……オガちゃんの話に付き合ってやれよな〜)
友人のそういう生真面目な部分には、思わず苦笑が漏れる。
代わって、佐藤の隣に座った池が話題を受けた。
「大きなクレーンとかの作業が終わったら、ここの交通規制も解くって聞いたよ」
緒方が驚いた顔を見せる。
「それって、この大通りの歩行者天国がなくなるってこと? せっかくフリマの場所とか値切り方、覚えたところだったのに……」
彼女と池は〝紅世〟の事情を知らない。駅の全壊についても、〝徒〟と戦うフレイムヘイズ側の流布した、事件ではなく事故(経年劣化による高架線路の崩落と、重量バランスの変動に耐え切れなかった駅舎の倒壊)という情報を信じていた。
池は手に持ったウーロン茶を一飲みしてから答える。
「ここに店を出してる人たちも、歩行者天国を残して欲しい、って嘆願してるらしいよ。市の方でも、大通りは無理だけど、側道で代わりができないか検討してるってさ」
悠二が、歩道から車道、車道から歩道と横切り歩く人々を見ながら、それに答える。
「駅はともかく、大通りの方はこのままでいい、って思う人もいるだろうな。車を使ってないと、不便って実感もないし」
彼の右隣、池との間に掛けた吉田が、
「そうですね。なんだか、あのお祭りが、ずっと続いてるみたい……」
自分たちも含めた雑踏を、ほのかに笑って見つめる。
駅が全壊した騒動は、御崎市の夏祭り・ミサゴ祭りの当日に起きた。彼女はその際、重要な役割を担い、同時に悠二へと、自らの熱い想いの丈を告げている。
彼女にとって目の前の光景は、そんな思い出の延長線上にあるものなのだった。
と、
「……」
悠二を挟んで反対側に座る小柄な少女が、同じ日のことを思い、しかし逆の気持ちを抱いてムッとなった。言うまでもない、シャナである。
高校の制服を纏っても十一、二歳という幼さを隠せない容姿に、圧倒的な貫禄と存在感を満たした彼女は、人間ではない。〝徒〟討滅の使命を持った異能者──フレイムヘイズ『炎髪灼眼の討ち手』である。坂井悠二という特別な少年を監視し、守るためにこの街に滞在している。その行為に、使命という以上の気持ちを自覚しながら。
彼女にとってのミサゴ祭りとは、吉田と同じ想いを悠二に対し抱いている(はずの)自分がなにもできなかった、敗北の日でもある。思い出して愉快でいられるわけもなかった。そもそも彼女は吉田と違って、
「はむっ!」
悠二に直接的行動を軽々に取ることが、性格の面からも立場の上からもできない。少なくとも、自分ではそう考えている。
「んむっ!」
せいぜいが、険しい表情と大げさな仕草で、移動パン屋のメロンパンにかぶりつくくらいだった。悠二なら、今の自分の気持ちを感じ取ってなにか言ってくれる、という(無自覚な甘えから来る)抗議行動だった。
果たして悠二は、望んだとおり困った顔で笑う。笑いかけてくれる。
「シャナ、いっぱい零してるよ」
「……分かってる」
期待通りの声を受けて満足したシャナは、不愉快な振りで、素っ気無い振りで、頷いて見せる。そうして、メロンパンのせいにしてニコニコと笑う。
「やっぱりここのメロンパン、美味しい」
「作りたてだからね」
悠二も困った笑顔のまま答える。
と、今度は吉田が、寸前までのシャナのようにムッとなる。悠二にまた話しかけ、なぜかシャナが答える。悠二が焦ってとりなす。他の皆が、そんな三人を見て笑い、からかう。
当たり前の光景は、常のことと受け取る者、いつまであるのかという不安を胸の底に抱く者、今があるのならと開き直って楽しむ者、平然と過ごす者、眼には見えない悲喜こもごもを秘めて、ゆっくりと流れてゆく。
それから少し後、一同は寄り道の終わり、最初の別れがある場所に差し掛かっていた。
雑踏溢れる歩行者天国に、何気なく開いた一つの筋。御崎市の中央を東西に割って流れる大河・真南川の東北に位置する、旧住宅地への入り口である。
佐藤、田中、緒方の三人は、この地区に住んでいた。
少し奥に閑静な大邸宅ばかりを並べるこの筋も、入り端は他の道と同じ、大通りの喧騒に満ちている。
ここまで来てようやく、池はほっと一つ、安堵の溜息を吐いていた。
(やれやれ……とりあえず、今日は無事に乗り切れたかな)
吉田に頼まれた、悠二に言ってはいけないこと。それについて知っている可能性の高い人物が、この一行の中に混じっていて、今ようやく別れつつあったからである。
つまりは、最近彼らとよく遊ぶようになった女友達、緒方真竹。
自分が切り出したときの吉田の驚きようから考えて、他の誰かが先にそのことを口にした可能性は低い……と池は見ていたが、女友達というのはそういう情報を頻繁に遣り取りしているように思える。油断は禁物だった。
(緒方さんなら、吉田さんが口止めしてても、うっかり喋りそうだ……)
歩行者天国に設けられたフリマスペースの片隅、曲がり角の露店に並べられた、趣味がいいのか悪いのか分からないアクセサリーをひやかしている一同の後ろで、つい苦笑を漏らす。
(それに、言った吉田さん本人が、僕に注意したことを忘れてるみたいなんだよな)
まあ、しようがないけど、と苦笑を深める。
悠二と一緒だと、彼女は気分が高揚して冷静さを失ってしまうのだから。
そしてそれは、止めようと思って止められるようなものではないのだから。
悠二になにか言ったり、シャナに対抗したりで一杯一杯の彼女に、余計な心配事に気を払う余裕などないだろうことは、容易に察することができた。
そんな、自分ではない少年へと心を向ける彼女に対して、拗ねるような気持ちもあるにはあったが、
(それでも……いや、だからこそ、やらずにはいられないのかもな)
結局、緒方が不用意になにか言わないか、律儀に一人警戒しながら同行している。
(ホント、変な苦労ばかり背負い込むもんだ)
自分の性分を、溜息一つで受け入れる正義の味方・メガネマンだった。
(ま、緒方さんには明日にでも、僕から念押ししとこう)
思う彼の前で、その緒方が露店の物に関連してか、アクセサリーの話をしている。並べられた品の物色を止めると、皆に向き直って、
「シャナちゃんのそれ──」
と、同じく彼女の、黒い宝石に金の輪を意匠したペンダントを目線で指しながら、
「──ほどじゃないけど……じゃーん!」
首にかけていた網紐、その先にある物を胸元から引っ張り出した。

銀色、指先大の、絡まる蔦で花弁を象ったペンダントだった。
一同が、その素朴で慎ましい、しかし巧みな細工に目を見張る。
「きれい……」
吉田が芸のない、しかし最上級のほめ言葉を口にした。
緒方は期待通りの答えを受け取ると、
「そう?」
見せびらかすための手をやや上げ、胸を張る。
「……かけて来てたのか」
田中が言う、その声色に照れを感じた池は、わざとらしい口調で尋ねる。
「高そうなペンダントだね。どうしたの?」
緒方は再び、待ってましたとばかりに答えた。
「田中に貰ったんだ、へへー」
嬉しげな表情から、物自体を自慢することよりも、貰った経緯を明かすことの方を楽しんでいるのがありありと分かる。その理由、意味するところはさらに明瞭だった。
「へえ、田中に……」
悠二が、分かっているのかいないのか、小粒ながら趣味のいいペンダント、満面に笑みを作る緒方、そしてあらぬ方向に目線を泳がす田中を順番に見た。
その田中は、ブツブツと言い訳めいた答えを返す。
「体のいいたかりだよ、たかり。ったく、一月も前のことなのに……」
その困る様をニヤニヤと笑って見ていた佐藤が、ようやく説明を補足する。
「こいつ、ちょっとしたことでオガちゃんを泣かしたのが、マージョリーさんにバレてさ」
「マージョ……? ああ、佐藤ん家に滞在してるっていう、女社長さんか」
池は少し前、緒方からそのような説明を受けていた。実際に会ったことはなかったが、佐藤と田中が惚れ込んでいる人であるらしい(以前に変な質問をされた、その対象ではないかと、彼は睨んでいる)。
無論、その女社長の正体はシャナと同じ、〝徒〟を討滅するフレイムヘイズの一人、『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーである。
佐藤は、その居候を自慢するような得意顔で答える。
「ああ。で、オガちゃんになにか、そのお詫びをしてやれ、って言われたのさ」
「そういうこと」
緒方は深々と頷き、尊敬する女性の言葉を、まるで聖書を読む司祭のように繰り返す。
「──気持ちの交わりをキッチリと物でやり取りするのは、『そういう関係』の基本──なんだってさ。やっぱ、マージョリーさんは分かってるよね。田中、今度ちゃんとお礼に伺います、って言っといてね」
「へーへー」
ぞんざいに答える田中だが、『そういう関係』であることについては否定しない。
(いいなあ、二人とも……)
吉田は、そんな緒方と田中の、遠回しな自他公認の仲を羨ましく思い、
(あいつら、余計なことばっかりするんだから)
シャナは、同業者としてマージョリーの深入りを不用意であると思っていた。
そういや、と佐藤が緒方に言う。
「オガちゃん、最近マージョリーさんトコに、いろいろ相談に来てるんだよなー」
口を尖らせんばかりの不満な声色だった。
彼は田中と共に、世界を渡り〝徒〟と戦う美麗の女傑・マージョリーの弟子を一方的に自認している。向こうからは全く相手にされていない、宿主程度にしか思われていない、という自覚があるため、気軽に接しては答えを得ている緒方が羨ましくてたまらないのだった。
羨まれる少女は、そんな子供のような嫉妬にも、悪びれずスッパリ答える。
「まーね。こういうことを相談できる女の人って、身近にいないし。それに、マージョリーさんって、なんていうか……話しやすいんだ」
そこで突然振り向いて、同意を求める。
「ね、一美?」
「っう、うん」
吉田が慌てて頷く。
「へえ、吉田さんも相談とかしてるの?」
「は、はい……ごくたまに、ですけど」
悠二は不思議に思った。彼の知る『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーは、手強い敵として出会い、頼れる味方として共に戦った、討滅の追っ手・フレイムヘイズでしかない。その際に見知った性格も、豪放磊落な戦闘狂というもので、とても悩める少女たちの相談を受けつけるような人物には見えなかった。
(特に、吉田さんとは正反対の性格じゃないのかな)
と、単純な線引きをして訝しむ。
「そうは見えないけど……」
思わず口にした未熟な少年に、緒方は優越感のようなものを匂わせて言う。
「男には分かんないのよ。ね、シャナちゃん?」
「えっ」
また突然、同意を求められて、シャナは戸惑った。彼女にとってマージョリーは実際に刃を交え炎を介し戦った相手である。互いに使命の上でのこと、特段の隔意は持っていないが、かといって話しやすいかと言うと……
(……)
導き出された認識は、否定に類するものだった。しかし、緒方への答えとして、それでは不適当であるように思えた。なんとなく、頷く。
「……うん」
「?」
案の定、悠二は妙な顔をする。彼はシャナとマージョリーの間柄を、ほぼ余すところなく知っている。性格的に、あまり馬の合う相手ではないことも、当然。
シャナは、
(変なの)
そう、自分の口にした答えを、自分でおかしいと思っていた。実務的な応対ではない、人との会話というものを覚え始めていることへの自覚は、まだない。
池が、その答えに別な感想を漏らす。
「なんだ、マージョリーさんに会ったことないのは僕だけか。佐藤、今度紹介してくれよ」
「えっ、あ、まあ……いろいろ難しい人だから、そのうちな」
佐藤は苦しい笑いで誤魔化した。
「そーそ、優しいのは女の子に対してだけなんだから」
緒方は逆に明るく笑って見せ、ペンダントを再び、大事そうに胸元にしまう。
「そうだ、プレゼントって言えば──」
「!」
池はその声の先に繋がるものを予感していた。
「──明後日、一美の誕生日でしょ?」
さっと吉田の顔が青ざめた。
池は、なにも、しなかった。
思わず飛びついて口を押さえようかと思うほどに焦り、しかし結局、なにも。
できなかったのではなく、しなかった。
自分では認めたくない、吉田に対する拗ねた気持ちが、行動を鈍らせていた。
緒方が、無邪気に言う。
「みんなで誕生パーティーしようよ!」
零時に、ややの間を置いた夜。
坂井家は陽炎のドームに包まれる。
時折、紅蓮の炎を過ぎらせ揺らめくこれは、世界の流れから内部を断絶させ、外部から隠蔽・隔離する自在法、因果孤立空間『封絶』である。
その中、屋根の天辺に当たる棟の上、狭い庭の地面を背後にする突端で、いつものジャージ姿の悠二が、日課となっている夜の鍛錬を行っていた。
目下の課題である、ただ立つ中で、
(……本当に、吉田さんは……)
夕方の出来事を思い出して、クスリと笑う。
「なんでありますか」
即座に、眼前で棒立ちとなっている監督役の女性が注意した。
フレイムヘイズ、『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルである。
純白のヘッドドレスとエプロン、丈長のワンピースに編み上げの革靴という、一見してメイドと分かる装い。肩までの髪の内にある、情感に乏しい端正な顔立ちが、僅かに寄せた眉根という形で不機嫌を表している。
「あ、すいません」
悠二は即座に謝る。
と、その視線の行く先、ヴィルヘルミナによって通せんぼされた反対側の端から、
「なに?」
シャナが声をかけた。こちらは、ヴィルヘルミナが用意した、動きやすい薄手のジャケットにスパッツという装い。
「ええ、と」
答えようとした悠二の声を、
「会話無用」
とヴィルヘルミナのヘッドドレスから発された、より無愛想な声が遮った。彼女と契約し、異能の力を与えている〝紅世の王〟、〝夢幻の冠帯〟ティアマトーのものである。
渋々、という感情を隠さず、シャナは返答する。
「はぁい……」
ヴィルヘルミナらは、彼女を拾い育てた養育係である。ゆえに当然、親代わりの存在として、シャナと悠二、二人の仲が進展するのを大いに警戒していた。というより、露骨に邪魔していた。朝と夜の鍛錬に、『より広範かつ高度な指導』を行う、と称して参加しているのも、(明言こそしていないが)その一環だった。
(ヴィルヘルミナの馬鹿……)
シャナは、密かに楽しみにしていた悠二との二人きりの時間を邪魔されて悔しい思いをしていたが、まさかこの胸の内を明かして抗議するわけにもいかない。根が実直なので、適任者たる女性が自分たちを鍛えることに、理屈として納得もしていた。
それでも、やっぱり、少しだけ口を尖らせずにはいられない。
(ヴィルヘルミナの、馬鹿……)
罵倒では決してない、大好きな人が認めてくれない、という不満を胸に、フレイムヘイズの少女は、自分の鍛錬を黙々と行う。
その小さな掌から、紅蓮の火の粉が封絶の中に渦巻く。
シャナは最近、ヴィルヘルミナらから、先代『炎髪灼眼の討ち手』の戦術──各戦局でどのような手段や力を用いて戦っていたか──について詳しく教わっていた。彼女に異能の力を与える〝紅世の王〟、〝天壌の劫火〟アラストールも珍しく多弁に、この説明を補足していた。
大抵のフレイムヘイズは、個々人の持つ『強さのイメージ』を、契約した〝紅世の王〟の力によって具現化するため、聞いたことそのままを真似することは望まれていない。あくまで自分の戦い方における参考として聞くように、とのことだった。
以来シャナは、いろいろと腹案を持って、技量発展の試行錯誤に励んでいた。
そんな少女の鍛錬開始を背に気配と感じて満足し、前の少年に向ける顔はあくまで厳しく、ヴィルヘルミナらは促す。
「さあ、あなたも」
「集中」
「はい」
鼻先が触れ合う程に詰め寄る給仕服の美人(程度にしか表現の幅のない少年だった)を前にして、しかし恐さ以外の動悸を感じない悠二だった。なんといっても、彼女らには本当に殺されかけたことさえあるのだから、他を感じられようはずもない。
海賊に海上の細板へと追い詰められるような心持ちで、今までとっていた姿勢に、より力を入れる……否、〝存在の力〟で、自分の形を構築する。
両手を横に広げた、まるで案山子のような片足立ちの形。
三十分以上、ずっとこの姿勢のままで、彼は立っていた。
(そこに在ることに、力を使う……だったよな)
常人には不可能なことを行って、しかし彼にはさほどの疲労もない。
なぜなら彼、坂井悠二は、常人ではない。
どころか、厳密には坂井悠二ですらなかった。
『本物の坂井悠二』は、かつて御崎市を襲った〝紅世の徒〟一味に、この世に存在するための根源の力、〝存在の力〟を喰われて、とっくに死んでいた。ここにいる彼は、その残り滓から作られた代替物・トーチなのだった。
(そう、僕は人間じゃない)
トーチは、火の点いた蝋燭のように、残された〝存在の力〟を時とともに消耗してゆく。それに連れて、周りの人々はトーチとなった人間を忘れ、本人も気力や意欲を減退させる。そうして存在感や居場所、役割を失った頃、誰にも気付かれることなく消える。
世の裏に跋扈する〝徒〟が、人を喰らうことで生まれる歪みを一時的に和らげる、歪みの発生を感知する討滅者・フレイムヘイズの追跡から逃れるために作った、道具だった。
(僕は、坂井悠二の残影みたいな存在だ)
ただ、悠二はトーチの中でも特別な存在だった。
その身に宝具を宿すトーチ、『旅する宝の蔵』〝ミステス〟だったのである。
彼の内に何処からか転移してきた宝具は、時の事象に干渉する〝紅世〟秘宝中の秘宝『零時迷子』。毎夜零時に、宿主たるトーチが一日に消耗した〝存在の力〟を回復させるという、一種の永久機関だった。
(こうして日々を送っていられるのも、『零時迷子』による、偶然の結果だ)
悠二はこの宝具の働きにより、人格や存在感を維持したまま、日々を送っていた。
命が失われた時の姿で。
永遠の時の迷子として。
(それでも、確かに今ここにいて、感じて、思っている……)
その感じたことの一つを、今また思い浮かべる。
緒方による、なんでもない言葉、
(──「──明後日、一美の誕生日でしょ?」──)
友達として至極当たり前の提案を聞いた吉田一美の表情を、思い浮かべる。
自分の誕生日を隠す内気な少女、ひけらかして騒いでもらうことへの遠慮……そんなものでは在り得ない、明かしたくなかったことを明かされたという衝撃、知られたくないことを知られてしまった悔恨、そして、恐怖。
(……)
悠二は、吉田がなにを気遣っていたのか、一瞬で気付かされた。彼女に告白されてからハッキリと感じるようになった気持ちと、その表情が全く同じ性質のものだったからである。
『本物の坂井悠二』が持っていた、
『今の坂井悠二』が持っていない、
〝ミステス〟となって失った、人間としての未来。
そんな彼に、
人間である自分は生きている、
人間である自分は成長してゆく、
今いる坂井悠二とは違う、と示してしまう日。
吉田にとって、人間である自分の生命は、悠二のことを想っているからこそ禁忌となり、ゆえに隠そうと思い、遂には明かされることへの恐怖となっていた。
(……分かるよ、吉田さん)
確かに悠二はそのことを聞いて、胸の内に木枯らしの吹くような、どうしようもない寂寥感を覚えていた。自分が、もう彼女たち人間とともに普通に年を重ねてゆくことができない、それ以外のものとして決定的に道を違えてしまった、と改めて思い知らされた。
(でも)
そんな彼女の気遣いを、嬉しく思い、哀しく思う。
嬉しく思ったのは、彼女らしい、自分を殺した思い遣りが染みたから。哀しく思ったのは、その思い遣りが、自分を人間ではない存在と認識した上でのものだったから。
(そう思えるってのは、僕が、ちゃんと僕として生きているってことだ)
悠二にとって、彼女が思い煩うことは全くの杞憂に過ぎないものだった。
彼は、自分の境遇に対する憐れみを、とっくに失っていたのである。心が磨耗しきったからなのか、悟りでも開いて吹っ切ったからなのか、単に状況に慣れたからなのか、それとも元々の性格がドライだったからなのか、判別はつかない。それでも、実際の心象として彼は、自分は生きている、と思っていた。
(もしかして吉田さんは、こうして僕に『自分は何者なのか』って思わせること自体を、止めさせたかったのかな)
いつかシャナに言われたことがある。
(──「寒々しさやよそよそしさというのは、始まりにあって、これからを築いてゆくものじゃない。始まりにあるのは、お前が今日感じた、いつもの日常、いつもの風景、いつもの友達。それを、寒々しさとよそよそしさが、削ってゆく……それが、これからの日々」──)
悠二は思う。
(吉田さんが隠したのも、その一つの表れなんだろうか)
うそ寒い思いを僅かに過ぎらせて、しかし自分の境遇は憐れまない。それよりも、こんな自分を好きだと言ってくれた少女のために考える。
(いや……こんなことのせいで吉田さんに、本当は楽しく過ごせるはずだった誕生日を、辛い思い出になんか、させられないよな)
(──「みんなで誕生パーティーしようよ!」──)
という緒方の提案を聞いて、自分の方を見て、吉田が苦しげな顔をしたとき、咄嗟にそれを払うように明るく、有無を言わせない大きな声で、
(──「いいね、みんなで賑やかにやろう!」──)
そう答えた自分の行動は、間違っていないはずだった。
事情を知っている佐藤と田中も、一瞬遅れて、
(──「オッケー! いいよな、吉田ちゃん!」「パーッとやろうぜ、楽しく!」──)
と応じてくれた。なぜか池は変な顔をして黙っていたが、結局同意した。言いだしっぺの緒方には異論のあるはずもない。シャナだけは意味が分からないのか、キョトンとして成り行きを見ていたが、周りの様子から、とりあえずと同意していた。
そして、こういうイベントの好きな佐藤が、
(──「んじゃ、どんな誕生パーティーにする?」──)
と張り切って意見をまとめ、その場でパーティーの細則も決まった。
日時は明後日の放課後。
場所は吉田家の居間。
参加者はそれぞれプレゼントを持ち寄る。
主催者の吉田は、ご馳走でお返しする。
最後の項目を、せめてと付け加えた少女は、一同に向けて頭を下げ、言った。
(──「ありがとう」──)
と。
上げた顔は、ほんの少し、なにかを引き摺っていたが……たしかに喜びの笑顔だった。
(吉田さんには、笑ってて欲しい)
それだけを、思う。
思って、笑う。

その表情を、真ん前に立つ監督役の女性に見咎められた。
「真面目にやるのであります」
「懲罰」
バシッ、とどこからか純白のリボンが走り、屋根の端に立っていた片足を払われる。
「っう」
その一撃で、悠二は宙に放り出されていた。
「わあっ!?」
自分の下に遠い地面しかないという、位置の実感。空中にある一瞬の、不気味な怖気を伴った浮遊感。双方が雪崩れるように、落下という根源の恐怖に変わる。
変わったときにはもう激突が眼前に──
「──」
ビシ、と、
目を見開いた数センチ先で、地面が止まる。
「──ッ!」
足首に、先と同じ白いリボンが巻きつき、捕らえていた。
瞬きをようやく思い出した途端、どっと冷や汗が噴き出す。
「悠二、大丈夫!?」
屋根の上から心配げに覗き込むシャナに、悠二は目と鼻の奥を押さえつけられるような、逆さ釣りの感覚の中で答える。
「あ、ああ、なんとか……」
「ヴィルヘルミナ!」
声を確認するや、シャナは掴みかからんばかりの勢いでヴィルヘルミナに詰め寄った。彼女らには、実際に悠二を殺しかけたという前科もある。心底からの恐怖が表情の中に僅か、残滓を垣間見せていた。
それを見て取る詰め寄られた側は、しかしいつもと同じく、平然と返す。
「鍛錬の最中に気を散らして、だらしなく笑う方に非があるのであります」
「正当懲罰」
「笑う……?」
ようやく、この懲罰に理由があることに思い至り、怪訝な声で訊いたシャナへと、元養育係の女性は──今度は他意ありありと──答える。
「大方、吉田一美嬢のことでも考えて、ニヤついていたのでありましょう」
「弛緩面相」
悪意からの憶測で図星を突かれて、つい悠二は逆さ釣りのまま、
「へ、変な意味で笑ってたわけじゃ──あ」
叫んでから、自分の間抜けな自白に気付いた。恐る恐る、静まり返った屋根の上へと、声をかける。
「……シャナ、さん?」
「落として」
冷酷な少女の指示を、『万条の仕手』は躊躇なく実行する。
足首のリボンが解けた。
「待ぐげっ!?」
地面に顔から落ちた悠二は、変な叫び声を上げて倒れた。
「痴れ者が」
アラストールの声が、聞こえたような聞こえなかったような。
家の台所にあるテーブルで、吉田は気のない視線で料理の本を眺めていた。見慣れたメニューを目に流す、という以上の速さで、パラパラとページをめくってゆく。
(……)
最後までめくると、傍らにある、料理の本のぎっしりと詰まったカラーボックスから、また一冊を取る。すでにテーブルの上には、本の山ができていた。
(……あれで、良かったのかな)
またページをぞんざいにめくりながら考える。
自分の表情のせいだったのだろうか。すぐに隠していた意図に気付かれてしまった。どうしてこう、変なところで正直に顔に出してしまうのだろう。いくら自分が決意したり他人に口止めしたりしても、これでは全く意味がなかった。
(私って、本当にダメだ)
もしかして、隠そうとしたこと自体がお節介だったかもしれない。それも、『坂井悠二は人間ではない』という認識を前提とした、お節介である。こういう気の回し方に、彼は不機嫌にならずにいてくれるだろうか。
(……ダメだけど)
暗く沈みそうになる気持ちを、なんとか押し上げる。尊敬する強い人、傷だらけの少年の言葉を、これまで何度か決意の度そうしたように、また胸の中で唱える。
(──『それでも、良かれと思うことを、また選ぶのだ』──)
あのときも、そうやって選んで、悲しく苦しい事実に直面させられた。
しかし代わりに、彼に本当の意味で近付き、想いを告げることができた。
良いことと悪いことは、複雑怪奇なまでに絡み合っている。
決して、彼への歩み寄りを、止めてはいけない、止める気もない。
なにせ、恋敵の少女・シャナは、世界にこれ以上ないほどの、超強敵なのだ。
自分よりもっと坂井悠二の近くにいて、自分よりずっと接する時間が多くて、自分より遥かに強くて可愛くて頭も良くて──
(いけない、「それでも、王子は怪物に立ち向かいました」ですよね……カムシンさん)
心を奮い立たせるために、少しオーバーな表現で恋敵を捉えてみる。
(ごめん、怪物はないよね、シャナちゃん)
自分で考えたことに、思わず笑っていた。
ようやく、気分が落ち着いてきたことを感じる。
悩み事があると、こうして台所でいろんな料理の本を静かに眺めて、心を静めるのが吉田の習癖だった。こうして立ち直るまでの時間が、最近では少し短くなったような気がする。気がするだけで、立ち直る活気も恐らくは虚勢だが、ないよりはマシだろう。
(素直に受け取ろう、楽しく過ごそう、そうすれば坂井君も少しは喜んでくれる)
できるだけポジティブに考える。考えて、今度こそ本当に、自分の誕生日を祝ってくれる皆に振る舞うための料理を選ぼうと本をめくる。来てくれる皆が美味しいと思ってくれれば、とても嬉しい。坂井悠二が美味しいと言ってくれれば、とてもとても嬉しい。
(坂井君には、笑ってて欲しい)
そうして、皆と笑い合いたい。もちろん、ライバルであるシャナとも。
そのとき、
ガチャリ、とドアが開いて、パジャマ姿の少年が入ってきた。
面差しは吉田と似ているが、目が少々釣り上がっていて、受ける印象は随分と違う。
「なんだ姉ちゃん、またブルー入ってんの?」
弟・吉田健だった。
三つ違いの中学一年生。姉とは対照的な、はしこい少年である。
「また、は余計でしょ」
「じゃあ、長々と?」
少し膨れる姉を背に、健は冷蔵庫を開ける。
「もう。これでも少しは短くなってるんだから」
「どーだか」
ジュースのパックを取り出した少年は取り合わず、水屋からコップを出した。
「姉ちゃんってばさ、積んでる本の量と顔色で、どれくらい沈んでるか、一目で分かるんだよなー。なんか、見え見えっつーか」
「余計なお世話です」
結局、姉が大いに膨れてしまう、いつもの姉弟の口喧嘩……その最後に、
「そう、かな」
ズケズケものを言う弟らしくない、妙な返事が来た。
「ま、今日はまだ……マシな方みたいだけど」
「?」
吉田は弟の態度に、ようやく違和感を覚えた。
自分の悩みについて、からかう軽さではなく、絡むような細かさで、弟が指摘したことは、今までなかったように思う。目の前でコップへとジュースを注ぐ弟に、声をかける。
「健?」
「……」
健が、即答しない。彼女と目を合わせるのを避けるように冷蔵庫にパックを戻し、そのまま振り向かない。
ほんの僅かな沈黙を経て、
「姉ちゃん」
健は妙に平淡な声で答えた。
「俺、今日、学校の帰りに大通りのゲーセンにいてさ」
「うん……?」
吉田は、弟が何を言おうとしているのか、さっぱり分からなかった。
テーブルに片手をかけた健は、さり気ない風を装って、言う。
「そっから出たときに、見たんだ」
「なにを?」
「あの『写真の兄ちゃん』が、別の女と一緒にケーキ屋に入ってくの」
「あ……っ」
吉田は弟の勘違いに、思わず息を呑んでいた。
「なんか、すんげえ仲良さそうだった」