人ならぬ者たちが、この世の日に陰に跋ばつ扈こしていた。

 古き一人の詩人が与えた彼らの総そう称しようを、〝紅ぐ世ぜの徒ともがら〟という。

 彼らは〝紅ぐ世ぜ〟という、〝歩いてゆけない隣となり〟から渡り来た。彼らは〝存在の力〟という、人がそこに在るための根源的な力を喰らって自分自身を顕あらわし、在り得ない不ふ思し議ぎを現した。

 彼らに〝存在の力〟を喰われた人間は、いなかったことになった。

 その人間が育ち、関わり、接するはずだった全ては、この欠落により、歪ゆがんだ。生まれ、決して埋め合わされない歪みは〝徒ともがら〟の跋扈に伴い、大きくなっていった。

 そして、〝紅ぐ世ぜ〟において、『この世で生じた歪みが両りよう界かいに大いなる災さい厄やくを齋もたらす』との観かん念ねんが広まり……危機感を持った〝王〟たちは一つの、苦く渋じゆうの決断を下した。

 同どう胞ほうたる存在の乱らん獲かく者たちを討うち滅ほろぼす、という決断を。

 その尖せん兵ぺい、あるいは道具となったのは、〝徒ともがら〟への復ふく讐しゆうを誓った、人間たち。

 己おのが全ぜん存在を契約する〝王〟に捧ささげ、代だい償しようとして異い能のうの力を得た復ふく讐しゆう鬼きたち。

 彼らの総そう称しようを、フレイムヘイズという。



「あのー」

「……」

 ブルックリン橋を渡って入るマンハッタン島の南なん端たん部ぶ、ロウアー・マンハッタン。

 この島が、アメリカ・インディアン──まだ先住民ネイテイブという呼び名は一般的ではない──からオランダ人に僅わずか二十五ドル相当の物品で売り渡され(もちろん、この国の開拓神話の大たい半はんと同じく、真しん偽ぎのほどは定かではない)、ニューアムステルダムという名で入にゆう植しよくの始まった最初期から開発を受けていた地区である。

「ぼ、僕、〝き蜴えきの帥すい〟ウァラクのフレイムヘイズ、『魑ち勢せいの牽ひき手て』ユーリイ・フヴォイカって言います」

「……」

 当初、陸海の敵に備えるオランダの要よう塞さい外がい縁えん部だった木製の防壁ウオールは、三百年の時を経た今、名をそのままに金きん融ゆうの一大拠きよ点てんへと変へん貌ぼうを遂とげている。即すなわち、先だって世界を席せつ巻けんした大だい恐きよう慌こうの震しん源げん地ち・ウォール街である。

「えーと、今、イーストエッジさんの外界宿アウトローで、見習いとして働いてます。さっきも、その、封ふう絶ぜつが張られたので、様よう子すを見に……戦闘、終わってたみたいでしたから……だから、あれは別に、見ようと思って、見たわけじゃ……」

「……」

 新たにスリーピースのスーツを纏まとったマージョリーは今、ユーリイと名乗る少年フレイムヘイズとともに、この高こう層そう建築の壁に挟まれた通りを、西に向かって歩いていた。忙せわしなく行き来する雑ざつ踏とうの頭あたま越ごし、正面に聳そびえる高い尖せん塔とうを見て、思わず眉まゆを顰ひそめる(この尖塔を持つ古い教会の名は、トリニティ教会という)。

「い、いえ、この眼鏡めがねを弄いじるのは癖くせで、さっきの、あれを見たからとか、そういうのは関係なくて、えーと……そうだ、ウクライナ移民で、十六歳さいです。あ、これはフレイムヘイズになってからの一年も足してます」

「……」

 サウス・ストリート・シーポートでの衝撃的な出会い以降、必死に話しかけるユーリイを無視し続けるマージョリー……ではなく、少年の腰にある古こ風ふうな短剣が、気だるそうな女の声で難なん詰きつする。

「バーカ、フレイムヘイズが年ねん齢れいなんか数えてどーすんのよ」

「あ、ごめん」

 ユーリイは、自分と契約した〝紅ぐ世ぜの王〟──〝き蜴えきの帥すい〟ウァラクに、その意思を表ひよう出しゆつさせる短剣型の神じん器ぎ〝ゴベルラ〟に、ペコリと頭を下げる。その拍子に眼鏡めがねがずり下がった。

 慌あわててこれを押さえる契約者へと、ウァラクは気だるさに呆あきれを混ぜて言う。

「だから、簡単に頭下げんじゃないわよ。ったく」

「ごめ──あ」

「ふう……」

「ヒャーッハハハ! 新しん兵ぺいさんゴクローサンってとこか、〝き蜴えきの帥すい〟?」

 マージョリーの右脇に提さげられた〝グリモア〟を揺すって、マルコシアスが大笑いする。

 さすがにこの大声は、周囲のニューヨーカーたちを驚かせたらしい。老ろう若にやく貧ひん富ぷを混ぜた人ごみから、奇き異いの視線が一見二人の四人に向けられる。

「えっ、あ」

 ユーリイは救いを求めるように腰の短剣を見下ろし、しかしそこから薄はく情じような静せい寂じやくだけを受け取った。窮きゆうした挙あげ句く、大声で先の物もの真ま似ねをする。

「ハ、ハハッ、ハーッハハハ!」

「……」

 マージョリーは僅わずかな溜ため息いきを吐いて、この少年を横目で見る。

『魑ち勢せいの牽ひき手て』ユーリイ・フヴォイカ。

 なんともらしくないフレイムヘイズだった。

 見た目の強さを感じさせない、小こ柄がらで痩やせぎすな体格。気き弱よわ半分、生き真ま面じ目め半分の容よう貌ぼうに、無用なはずの眼鏡までかけている(当然、伊だ達て眼鏡だろう)。身なりもそこいらの子供と変わらない。長めのジャケットの内側、腰のベルトに古こ風ふうな短剣型の神器〝ゴベルラ〟を差しているのが、せいぜいの特とく徴ちようだった。

 なにより、世の陰に〝紅ぐ世ぜの徒ともがら〟を狩かる討とう滅めつの追っ手らが持つ共通の雰ふん囲い気きである、切せつ羽ぱ詰つまった気迫やそれを隠かくす演技、悟さとり抜いた静けさ……どの匂においもしない。

 少年の存在に苛いら立だちのようなものを感じつつ、マージョリーはようやく口を開いた。

「ユーリイ、だっけ?」

「はい!」

「イーストエッジは元げん──」

「あの! 僕、『弔ちよう詞しの詠よみ手て』さんのこと、ずっと尊そん敬けいしてたんです!」

「──尊敬?」

 マージョリーは自分の言葉を切られた不ふ愉ゆ快かいさも忘れ、つい訊きいていた。

「はい!」

 話しかけられたせいで箍たがが外れたかのように、ユーリイは次々と言葉を連ねる。

「外界宿アウトローで見習いとして働いてると、あちこちで活躍されてるフレイムヘイズの皆さんの噂うわさをたくさん聞くんです。『輝き爍しやくの撒まき手て』さん、有名な『鬼き功こうの繰くり手て』さんと『極きよつ光こうの射い手て』さんのお二人、亡くなった方でも、伝説の『炎えん髪ぱつ灼しやく眼がんの討うち手て』さんに『理り法ほうの裁たち手て』さん、もちろん『星せい河がの喚よび……あ、イーストエッジさんは称しよう号ごうで呼ぶと怒るんですけど」

「ちょっと黙って」

 無む邪じや気きすぎる声こわ色いろに、なにか耐え難いものを感じたマージョリーは、黙らせるつもりで掌てのひらをその前に突き出す。

 と、なにを思ったかユーリイは、

「わ!?」

 叫んで、素早く飛び退のいた。

 段差による区別もろくにない、轢ひいた者勝ちの車道の端はしに。

「馬鹿、なにやって──!」

 逆に驚かされたマージョリー(彼女は、大都市における馬車の暴走と轢れき死しを日常的に見ていた)が差し出した手を、その袖そで口ぐちを、ユーリイは慌あわてて掴つかむ。引かれるとともに、

 ブツン、と変な音がして、

「あ」

 着替えたばかりだったマージョリーのスーツ、そのボタンが飛んだ。

「っ、す、すいません! イーストエッジさんに、不ふ意い打うちを食らわないようにする訓練を、いつも受けてて、その、本当にすいません!」

 ペコペコ謝っては眼鏡めがねを押さえる契約者、異い能のうの討ち手であるはずの少年の姿に、

「はぁ……」

 腰の短剣から、ウァラクが再びの溜ため息いきを漏らす。どうやら、この手の失敗は初めてのこと、珍しいことではないらしい。

 マージョリーは、そんな〝紅ぐ世ぜの王〟への同情から、怒るのを止めた。

「イーストエッジは、元気なの?」

 脱力した声で訊きき直しながら、前のボタンを全て外し、ラフな格かつ好こうになる。結果として、ジャケットで隠かくされていた胸の膨ふくらみが、大きく強調されることとなった。

 ユーリイは、自他の行為に眺ながめに、しょんぼりしたり顔を赤らめたりと忙しい。ついでに、その鼻先に、傍かたわらを走り抜けた自動車の排気ガスを吐き掛けられてむせた。

「ゲホ、ゲホッ、は、は、はい」

「ギィーッヒャヒャヒャブッ!?」

 懲こりずに大声で笑う相あい棒ぼうを平ひら手てで黙らせたマージョリーは、率そつ直ちよくな感想として言う。

「あんた、変なフレイムヘイズねえ」

 特に他意を込めた言葉ではなかった。この妙みように腰の低い、らしくない少年なら、まくし立てるような答え、大げさな謙けん遜そんの同意、どちらかが返ってくるだろう。そう思っていた。

 しかし、

「……」

 なぜか少年は、表情を曇らせて黙ってしまった。

「なに?」

 もう一度訊きかれて、慌あわてて答える。

「……いえ、なんでも!」

 その不ふ審しんな様よう子すに、僅わずかふと引っかかるものを感じたマージョリーは、考えかけて、止めた。他人の事情をいちいち詮せん索さくするのは趣味ではない。

 (そうよ、知ったことじゃないわ)



 その店、『イーストエッジ外がい信しん』は、ウォール街からウィリアム通りを北に折れた先、探たん偵てい事務所と法ほう律りつ相談所に挟まれた、小ぶりな低層長屋ロウハウスの一階にあった。

 昔は多た岐きに渡る人種来らい歴れきからなる移民向けに故こ国こくの新聞を売る輸ゆ入にゆう業者もどきだったが、今は独自に特派員も出して、欧おう州しゆうの情勢をそれぞれの言語で伝える真まっ当とうな外信社しやとしての業務も行っている……ということになっている。

 店構えの割に情報が確かで、各種言げん語ご版ばんも揃そろっていることから、定期の配はい信しん日びには大変な賑にぎわいを見せるが(現在、最も関心を集めているニュースは、フランコ将軍の動向である)、今日のような通つう常じよう営業日だと、単なる場ば末すえの新聞社の趣おもむきである。来客も、日に十人あれば良い方、という閑かん散さんぶりだった。

 その質しつ実じつ以前、装そう飾しよくの省略が醸かもし出す素そっ気けない玄げん関かんに、マージョリーは立つ。扉の上、『イーストエッジ外信』という意味の言葉が、数ヶ国語・横書き・縦たて並ならびに書き付けられた古い看板を見上げた。懐なつかしさを心地よく、変わらなさを愛いとおしく感じる。

「半世紀前と同じね」

「ま、模も様よう替がえする柄がらじゃねーわな」

 二人して笑い合い、『弔ちよう詞しの詠よみ手て』は看板の掲げられたドアを素通りした。その隣となり、同じ一階にあるドアを何気なく、力を込めて開ける。人間の腕力では絶対に開けられない、単純な力技でしか開かない、これはフレイムヘイズ用のドアだった。

 ギリギリギリギリッ、とドアに結ゆわえられた紐ひもがベルをけたたましく鳴らして、異い能のう者の来訪を店みせ全体に告げる。

 入った中は、意い外がいに広い。様相は、数年前までご法はつ度とだった『もぐり酒場スピーキージー』に似ていた。乱雑に置かれた酒さか瓶びんと酒さか樽だる、板を寝かせただけのカウンターに少数の椅い子す、剥むき出しの煉れん瓦がと板張りからなる壁、宿泊所兼けん構成員宿しゆく舎しやとなっている上階への細く急な階段……その、探せば街に幾いくらでも見つかるだろう光景に、しかし異い質しつなものが、二つ混じっていた。

 一つは、正面の壁を埋めるほどに無数張はられた、海かい図ずと地図。

 図ず法ほう版はん型がた、てんでバラバラなそれらは、古いものの上に次の図が積み重なって、歴史の層を成している。一つ一つには、異なる筆ひつ跡せきでのメモや矢印、○や×といった記号が乱雑に書き記されていた。今、壁に見えるのは合衆国地ち質しつ測量局の最新版ばん世界地図で、中心に位置するヨーロッパに、大きく○が書き付けられている。

 もう一つは、青せい磁じ色の光で店の中を薄く照らす、掌てのひら大だいの正せい十二面めん体たい。

 釣つり糸もなく天井近くに静止するこれは、不ふ思し議ぎな、在り得ない現げん象しようを起こす器き物ぶつ、すなわち宝ほう具ぐである。設置した者の力を受け(青磁色は、宿やど主ぬしたるイーストエッジが持つ炎ほのおの色)、一定範はん囲い内ないの気配を遮しや断だんするガラスの正十二面体『テッセラ』……全世界に点在するフレイムヘイズらの情報交こう換かん・支援施し設せつたる外界宿アウトローの核、世界で最も数の多い宝具だった。

 表おもて向むきの職業や調ちよう度どの差さ異いに拠よらず、この二つを備えている建物・場所が、外界宿アウトローと定義される。『イーストエッジ外がい信しん』は、そのニューヨーク支部だった。

 マージョリーは、この見た目も異い質しつな無人の店内をドカドカと進み、カウンター席に腰掛けた。ついでに横の席へと、重い〝グリモア〟を据すえる。

 と、板いた壁かべ一枚挟はさんだ隣となり、表向きの商売である外信社しやから、

「はーい、店みせ番ばん代わりまーす!」

 元気なユーリイの声が響ひびいてきた。彼はここの構成員なので、来客用のドアは使わず、人間用のドアから入っている。

 やがて一人の男が、きしむドアを開けて入ってきた。

 中ちゆう肉にく中ちゆう背ぜい、まるで岩になめし革を被かぶせたような厳いかつい面めん相そうの、頑がん健けんそのもののアメリカ・インディアンである。ワイシャツにズボン、今いま付けた分厚い布のエプロン、というごく普通の格かつ好こうが、微び妙みように似に合あわない。

 最低限、唇くちびるを震わすように、しかし意い外がいに爽さわやかな声で、フレイムヘイズ『星せい河がの喚よび手て』イーストエッジは挨あい拶さつをした。

「未だ暴ぼう狼ろうの加か護ごを受けているようでなによりだ、怒れる獣けもの」

「よく、きたな」

 短く深く、貫かん禄ろくのある男の声で続けたのは、イーストエッジがベルトから提さげている、浮レきリ彫ーりフを施ほどこした石のメダルである。これは、彼が契約した〝紅ぐ世ぜの王〟──〝啓けい導どうの籟ふえ〟ケツアルコアトルの意思を表ひよう出しゆつさせる神じん器ぎ〝テオトル〟だった。

「おひさしぶり、イーストエッジ、ケツアルコアトル。また寄らせてもらったわ」

 ユーリイに対するものとは打って変わった、喜びを含んだ声でマージョリーが返した。

 ゆっくりとカウンターの中へと入る同業者に、マルコシアスも、こちらは常と同じ軽けい薄はくな口く調ちようで挨拶する。

「しーばらくだったなあ、怪かい物ぶつコンビ」

「ああ」

「変わりない、ようだな」

 一人は顔に皺しわを刻むように、もう一人は声に少量滲にじませて、笑い返した。

「こっちは、すーっかり変わっちまってるよーだな」

 マルコシアスは炎ほのおを少量噴ふいて囃はやす。

「なんでえ、この流は行やらなさはよ。世界恐きよう慌こう、未だ暴ぼう威い健在なり、ってか?」

 マージョリーは相あい棒ぼうの言う状況、一人の討うち手もいない、寂せき寞ばくとした店内を見渡した。

「やっぱり、このニューヨークからも駆り出されたのね。あの坊や以外にいないの? マンハッタンに同業の気配がまるでないなんて、どんな冗じよう談だんかと思ったわ」

 イーストエッジは微かすかに顎あごを引いて頷うなずき、

「仕方あるまい。悪名高き[革正団レボルシオン]との戦いだ。皆、勇んで出て行った」

「無事であれば、いいが」

 ケツアルコアトルが慨がい嘆たんする。

 答えを受けたマージョリーは、店の壁にある最新版の地図、ヨーロッパを大きく囲む○印に目をやった。

 現在、世界中のフレイムヘイズたちは、とある〝紅ぐ世ぜの徒ともがら〟による大集団との戦いに駆り出されている。この、近代に忽こつ然ぜんと現れた結けつ社しや[革正団レボルシオン]は、奇天烈きてれつな思想の元、討ち手と〝徒ともがら〟双そう方ほうにあった暗あん黙もくの掟おきてを平然と破り暴れる(当人たちは「運動」と呼んでいたが)、無む茶ちや苦く茶ちやな連れん中ちゆうだった。彼らの孕はらむ危険性を恐れた欧おう州しゆうの外界宿アウトローは、急ぎ全世界へと伝令を送り、応えた者たちが久ひさ方かたぶりの大だい規模な戦いへと赴おもむいている。

 マルコシアスが、その戦いの一いつ端たんを見た者として笑う。

「ヒッヒ! フレイムヘイズってな、協調性ゼロだからなあ。今度は旗はた持もちの炎えん髪ぱつ灼しやく眼がんもいねえし、集まったところで統とう制せいが取れんのか、怪しいもんブッ!?」

「わざわざ心配を煽あおってんじゃないわよ、バカマルコ」

 ゲタゲタ笑う〝グリモア〟を、マージョリーは張り飛ばした。彼女は、この心身ともに落ち着いたフレイムヘイズが嫌いではないのである。

「事実だろーがよ。ゾフィーの雷かみなりババアも、今度は参さん戦せんしねーんだろ?」

 なおも言うマルコシアスに、カウンターから声がかかる。

「天てん空くうの槌つち──」

 イーストエッジは、〝払ふつの雷らい剣けん〟タケミカヅチのフレイムヘイズ『震しん威いの結ゆい手て』ゾフィー・サバリッシュのことを、こう呼ぶ。

「──は、緒しよ戦せんで生涯の友を二人も失ったのだ。無理もあるまい」

「あんなイカレた奴やつらが相手じゃあね。一度の不ふ覚かくがたまたま命に届いた、ってことよ」

 マージョリーは今日のことも含めて平然と言った。

「こっちだって、やられる一方ってわけでもなし。なんせ、フォン・クーベリックの……あ、そうそう、マルコシアス」

「おっと、ほいさ」

〝グリモア〟がページを開いて、そこからポイ、と蜜みつ蝋ろうで綴とじた封筒を吐き出した。

 ピッ、と指二本でマージョリーはこれを取り、差し出す。

「はい、そのフォン・クーベリックから」

「手紙……?」

 イーストエッジは怪け訝げんな面おも持もちで受け取り、封を開けた。

 外がい信しん社しやも、ドレル・クーベリック……この、欧おう州しゆうの外界宿アウトローを束ねる現代の偉い人じんとは常時、表ひよう裏りの業務で連絡し合っている。とはいえこの場合、手段に意味があった。

 十九世紀の内に、大西洋海かい底ていケーブルは開通している。アメリカの外界宿アウトローも、とうに委い託たく業者を通じて、重要な情報の大たい半はんをそちら経由で遣やり取りする仕組みになっていた。わざわざ手紙を、しかも名うての討うち手に託し送ってくるというのは、特別な案あん件けんである証しよう拠こだった。

 それを感じて、イーストエッジは表情を曇らせる。

「この席は空あけられん、参さん戦せんはしない、と既に伝えたはずだが」

 言って天井を、心持ち顎あごを上げるように見上げた。

 その先に浮かぶ正せい十二面めん体たい……結けつ界かい発生装置『テッセラ』は、設置型の宝ほう具ぐである。結界を作るためには一つ場所に据すえておかねばならず、力も断続的に給きゆう与よしておく必要があった。動かすか力を途と切ぎれさせるか、どちらかの禁きんを破ると、途と端たんに結界はその効力を失い、再び動かすにも相当な時間を要することとなる。

 そうでなくとも、広大な大陸に古くから在る強力なフレイムヘイズ、『星せい河がの喚よび手て』イーストエッジは、マンハッタン島における討ち手らの拠より所たる外界宿アウトロー『イーストエッジ外信』を維持する、という役割に自らを縛しばっている。他た行ぎようの要請に応えるわけもなかった(よほどの危機的状況でもない限りは戦意が湧わかない、とある理由もある)。

 もちろん、マージョリーもこれらの事情は重々承しよう知ちである。

「別の用事じゃないの? いくらフォン・クーベリックが急進的な人でも、この大陸から『大だい地ちの四し神しん』を動かそうなんて思ったりしないはず」

 彼女の言う『大だい地ちの四し神しん』というのは、イーストエッジも含むアメリカ・インディアンの、いずれも強力な討ち手たる外界宿アウトローの管理者たちのことである。

「どーだかな。あの若え爺さん、とっぴなこと思いつくからよ、ヒッヒッヒ」

「ま、ゆーっくり、読んで頂ちよう戴だい」

 この、何気ない客の気き遣づかいを、酒場の主人は察し、言う。

「品が確かなのは、コーンウイスキーくらいだな」

「まだ、酒のルートが不安定だ」

 ケツアルコアトルの補足に、クスリと小さな笑いが返った。

「やっぱ、しばらく寄り付かなくて正解だった?」

「そうだな。禁きん酒しゆ法ほう時代は、出回る酒の質も最低だった」

 また、皺しわを刻むように笑い返して、イーストエッジは大きな酒さか瓶びんと重いグラスをそれぞれ一つ、カウンターに置いた。



 この十九世紀から二十世紀の初頭、百年程ほどの短い期間の内に、欧おう州しゆうのフレイムヘイズ、特に外界宿アウトローの在り様ようは、急速な、そして抜ばつ本ぽん的な変革を起こしていた。

 外界宿アウトローという、逃げ込むための隠かくれ家、立ち寄るだけの溜たまり場でしかなかった『場所』が、情報の交換と共有、活動資し金きんの援助、迅じん速そくな交通手段の手配といった、本格的な『支し援えん施設』へと再さい編成されたのである。

 フレイムヘイズ──そもそもが個人的な理由に拠よって立っているため協調性に乏しい──異い能のう独自の力で世を押し渡る性質ゆえに集団行動が苦にが手て──感情を爆発させる若じやく年ねんで契約する者が大半であることから組織感かん覚かくや社会通つう念ねんに疎うとい──これら、群れることに全く向いていない人種に、支援の面のみとはいえ変革を与えたのは、たった一人の男だった。

『愁しゆう夢むの吹ふき手て』ドレル・クーベリック。

〝虚きよの色しき森しん〟ハルファスのフレイムヘイズたる幻げん術じゆつ使つかいである。

 彼は、老ろう境きように入ってから契約した変り種だねであるためか、闘とう争そう本能に衝つき動かされ、復ふく讐しゆうに猛たけり狂うという、常の討うち手らとは全く違うメンタリティを持っていた。

 曰く、『漫まん然ぜんと〝徒ともがら〟を追うより効率的なやり方は幾いくらでもある。協力せよ、互ご助じよせよ、提てい携けいせよ』……一人一党を旨むねとする復ふく讐しゆう鬼きたちに受け入れられるわけもない主張を、彼は契約直後から、行く先々で説いた。もちろん、誰もまともに耳を貸していない。彼自身が、直接的な戦闘力に欠けるフレイムヘイズだった、という理由もある(言うまでもない、討ち手らにとって最も権けん威いある箔はくは、強さである)。

 そして数十年後、彼は煙たがられた挙あげ句くに、当時、あぶれ者や変り種が行き着く定位置、あるいは暇ひま人じんの座る椅い子すでしかなかった外界宿アウトローの管理者に就しゆう任にんした。彼を知る誰もが、「これであの変へん物ぶつも大人おとなしくなる、意味不ふ明めいな説教も聴かずに済む」と思った。

 ところが、彼にとって、それは行き着く先などではなかった。

 どころか、本当の事業の、ほんの始まりに過ぎなかったのである。

 その証あかしとして、各地の外界宿アウトローへと、「情報提てい供きようの定てい期き通信と交換を行いたい」という提案が、回状として巡り始めた。小さな、苦難に満ちた、しかし大事業への、一歩だった。

 当初は、これを通わせる協力者や志願者の確保にすら苦労した。回状を渡す約束を守らない者、端はなから行こう為い自体を馬鹿にしていた者などが多かったからである。肝かん心じんの回状を渡す相手の外界宿アウトロー管理者にすら、当初はその意味や実効性を疑われれるばかりだった。

 まさに孤立無む援えん、孤こ軍ぐん奮ふん闘とうの状況下、それでも彼は驚きよう異い的な粘り強さと熱意を持って、説得と実行を続けた。

 その彼に対する協力は、道どう化けへの哀あわれみという形で芽め吹ぶいた。

 次に、討うち手として動いていた時代にできた友との合流があった。

 すぐに、彼の外界宿アウトローを訪れる顔かお馴な染じみの討ち手間で、習慣化していった。

 やがて、回状に記された情報の恩おん恵けい、追跡の利益を受けた者が、幾いく人にんか出た。

 いつしか、出回る範はん囲い、交換する討ち手、情報網もうに加わる外界宿アウトローが、増えていた。

 幾いくつもの大きなトラブルを、幾いく十じゆうもの小さなトラブルを、じっくり確実に超えてゆく内に、また十年単位での月日が流れ……回状のみでない、情報の交換と共有は、外界宿アウトローを行き来する討ち手らにとっての慣かん例れいから、守るべき規き範はんに、遂ついには使命の一部として遂すい行こうする制度となっていた。欧おう州しゆうにおける大たい半はんの外界宿アウトローも、ドレルの影えい響きよう・制度下に置かれていた。

 これらは、好意や友ゆう誼ぎの結果ではない。討とう滅めつを行う助けになる、無む駄だ死じにを減らせる、という……どこまでも普通の、なにより重要な、実績による変化だった。

 そしてこの時期、ドレルはまた別の支し援えん体制構こう築ちくに着手していた。自身の外界宿アウトローをチューリヒに移し、人間社会の、それも主に金きん融ゆう・運輸関かん連れんの企業を架か空くう名義で経営しだしたのである。

 英雄豪ごう傑けつ綺き羅ら星ぼしの如ごとく揃そろうフレイムヘイズの歴史上にも、こんな奇行に走った者は一人としていない。人間だった頃に何者だったのか、若き老人はその天てん稟ぴんと経験と知識を多た彩さい豊富に持っており、程ほどなく人間に事業実じつ務むの大半を任せて、外界宿アウトローに在る彼がこれを総そう括かつする、という体制を作り上げてしまった。情報に続き、フレイムヘイズを最も直接的に動かす、資金と交通網のバックアップ体制が整備されたのである。

 マージョリーがマンハッタンに現れた頃には、彼の理り念ねんを掲げ、集った討ち手ら(中心となったのは、自身の復ふく讐しゆうを果たし、生きる目的を見失った者たちだった)によって、チューリヒを中心に緊きん密みつな連れん携けいを取る有ゆう機き的てき組織が、欧州に誕生していた。

 世に言う『ドレル・パーティ』である。

 現在、世界中のフレイムヘイズらを欧州に集結させている[革正団レボルシオン]との戦いでも、この新たに育った支援施設は、大きな役割を果たしていた。

 今度の戦いは、中世に起きたフレイムヘイズと〝紅ぐ世ぜの徒ともがら〟による史し上じよう最大の戦争『大おお戦いくさ』のような、彼ひ我がの軍ぐん勢ぜいを一箇所に集める決戦ではなかった。欧州全ぜん域いきで策さく動どうする[革正団レボルシオン]に、同じく各地に点在する外界宿アウトローが一つ作戦意い図との元、各個に対たい処しよする、という一目で見えない全面戦争だった。主戦場すら明確でない、局地的な勝敗が入り乱れる混こん沌とんの中で、じわじわと全体の情勢が一いつ進しん一いつ退たいを続けていた。

 これら推すい移いの間も、総そう指し揮き官かんであるはずのドレルは幕ばく僚りよう団だん『クーベリックのオーケストラ』をチューリヒから動かしていない(むしろ、この戦いで最も忙しいのは、欧州の交通支援を総括するピエトロ・モンテベルディと言われている)。頭の古い復讐鬼たちには勝敗の判定さえ理解できない、しかしこれも厳げん然ぜんたる『大きな戦い』だった。



 文面を読み終わったイーストエッジは、手紙を丁てい寧ねいに折り畳たたみ、封筒に戻した。

 マージョリーはもちろん、文面について尋たずねるような不ぶ躾しつけな真ま似ねはしない。ただグラスを傾け、唇くちびるを酒で湿しめす。

 少しして、眼めを瞑つぶっていたのかどうか分からない細い双そう眸ぼうが、深く黒い光を揺らした。

「幻まぼろしの涙なみだ──」

 イーストエッジは、ドレルのことを、こう呼ぶ。

「──といい、今、彼が討うち手らを集め戦っている[革正団レボルシオン]といい、時が経たつと、人も〝徒ともがら〟も、様々な考え方を持つようになるものだ」

「我ら全て、変わりゆく者なのだ」

 ケツアルコアトルも同じく、何か含むような声で言った。

 マージョリーは酒しゆ精せいの吐と息いきに乗せて、少し笑う。

「ふふ、変わりゆく、ねえ。たしかに時が経つほど、いろんな酒が出てくるみたいだけど」

「私からも、討ち手の大たい義ぎを説く檄げき文ぶんが欲しいそうだ」

 と、イーストエッジは自分から、手紙の内容について触れた。

「欧おう州しゆうで、未だ態度を不ふ明めい瞭りようにしている者、[革正団レボルシオン]の企き図とにややの感かん銘めいを受けている者らの目を、我らの確たる言葉で覚ましてやって欲しい、と」

「なんとも、見込まれたものだ」

 ケツアルコアトルまでもが、呆あきれ半分、感心半分の声を漏らす。

 この二人のめったに見ることのできない動揺の様に、マルコシアスは大笑いした。

「ギィヤーッハッハ! おめえらの吐く言葉なら、アルファベットの一つにも100万ポンドの重みがあるだろうぜ!」

 マージョリーも鼻で笑う。

「ハッ、有名人の説得力を借りたい、ってわけ? 自分で道も決められないなんて、最近のフレイムヘイズってば軟なん弱じやくねえ」

「自分の道を進みすぎってのも考えもんだがよ。こんな時期に、一人遡さかのぼって新しん大陸に来るってのも……っと、合がつ衆しゆう国こくだな、アメリカ大陸!」

 騒ぎかけたマルコシアスは、慌あわてて言い直した。

 イーストエッジとケツアルコアトルは、アメリカ・インディアン側に立つ者として、西洋人が発見したと称する観点からの呼び名である『新大陸』の呼こ称しようを嫌っている。

 訂正を受けて、尊そん崇すうを受けるフレイムヘイズは明確に返答した。

「この話、たしかに受けた。平へい穏おんを乱すこと、我らが世の陰にある意味を、文字に記そう」

 マージョリーはグラスを掲げ、乾かん杯ぱいをして見せた。

「そりゃけっこーなこと。さっさとあっちの戦いが終わってくれないと、あんたたちも大変でしょうしね」

「あんなとっぽい兄にいちゃん、物もの見みに使わにゃなんねーくれえの人ひと手で不足たあな。いくら〝き蜴えきの帥すい〟が付いてるっつっても、ちーとヤバ過ぎだぜ、ヒッヒッヒ!」

 笑うマルコシアスに、先と別の感情を込めた視線が向けられる。

「あの少年──」

 イーストエッジは、ユーリイのことを、こう呼んでいた。

「──を、どう思う?」

「……」

 マージョリーは答えず、視線だけを板いた壁かべ一枚挟はさんだ向こう、外界宿アウトローの副業兼けん隠かくれ蓑みのたる『イーストエッジ外がい信しん』の事務所側がわへと流す。

 薄い壁越しに、来客の相手をする元気なユーリイの声が聞こえていた。

「はい、アイルランド版ですね、入ってます!」

 フレイムヘイズや〝徒ともがら〟とは関係のない人間社会で、なんの違い和わ感かんもなく過ごしている、溌はつ剌らつとした明るい、声が。

「うちのペーパーはどうです? あ、そうですか、はは……」

 マージョリーは数百年の戦せん歴れきを持つ討うち手として、少年の見せるそれら、あまりな真っ直ぐさを、

「向いてないわ」

 一言、容よう赦しやなく斬きって捨てた。

「百年ももてば、ある程度、人格は練られるかもしれないけど……まず、そうさせるための執しゆう着ちやくになる、〝徒ともがら〟への憎にくしみと怒りが感じられない」

「そうか、やはりな」

 イーストエッジは予想された答えに、硬い面めん相そうをさらに強こわ張ばらせた。

 マージョリーはグラスをカウンターに置いて、呟つぶやく。

「それに、あいつ……」

 ここに来る前に見た、少年の不ふ審しんな表情を思い出す。

(──「……いえ、なんでも!」──)

 世界のバランスを守る、という道どう理りによって作られた物。

 でありながら、理り非ひを超えた感情によって歩んでゆく者。

 討とう滅めつの追っ手・フレイムヘイズ。

 少年の表情に垣かい間ま見みえたものは、その存在にとって、なにか相あい容いれない因いん子しであるような気がした。

「……どっか、おかしい」

「そうだ。尋じん常じようの討うち手ならば、復ふく讐しゆうを果たすために、苛か烈れつな戦意と酷こく薄はくな打だ算さんを両立させている。しかし少年は言動の端はし々ばし、胸の奥に……在ってはならない狂いを持っている」

「危険すぎて、とても戦いには出せない」

 イーストエッジは頷うなずきを戻さず頭こうべを垂れ、ケツアルコアトルが呟つぶやく。付き合いが昨日きのう今日ではない彼らにとって、ユーリイの持つ危険性は、より大きな心配事であるらしかった。

 その様さまに、マージョリーはようやく得とく心しんの入ったように溜ため息いきを吐つく。

「やっぱり、あの封ふう絶ぜつの中に入ってきたのは、あんたたちの指示じゃなかったのね」

「ッハ、なーるほど。仮にも〝千せん変ぺん〟みてえな大物とやり合った場所に、終わった早々新しん兵ぺいさんがノコノコやってくんだからよ。ガキの火遊びにしちゃ、度が過ぎるってもんだ」

 こと戦いに関してはシビアなマルコシアスも、軽く馬鹿にした。

 マージョリーは頬ほお杖づえをついて、置いたグラスの縁ふちを指でなぞる。

「で、なに?」

 この男が無む駄だ話を好まないことは、よく知っている。訊きいたからには、なにかしたい、なにかしてもらいたいのであろう。

 果たしてイーストエッジは言う。

「見ての通り、今のマンハッタンには、お前たちの他には我々、二者四人の討ち手が在るのみだ。常なら〝徒ともがら〟も恐れて近付かず、少年にも注意を喚かん起きするだけで済んできたのだが」

「我々は、ここを動かない」

 ケツアルコアトルが、『星せい河がの喚よび手て』を始めとする『大だい地ちの四し神しん』らが独自に持つ苦く渋じゆうの鉄てつ則そくを、やはり宣言していた。

 少年になんらかの措そ置ちが必要で、しかし彼らは動かない。

 動けないのではなく、動かない……その訳を、かつて彼らと戦ったフレイムヘイズの一人として、今は友の一人として、マルコシアスは了りよう解かいしている。重く受け取り、軽く返す。

「へっ、分かってらあ。『大だい地ちの四し神しん』の一いつ柱ちゆうがウッカリ外界宿アウトロー空あけて、もし万が一の事があったら、この大都会ががら空きになっちまう」

「すまん」

 我わが儘ままへの許しを請こうイーストエッジを無視して、情じよう厚あつき狼おおかみは相あい棒ぼうに求める。

「よう、我が──」

「分かってるわよ。新兵の監かん視しに心構えの教育、でしょ」

 マージョリーは皆まで言わせず、即そく答とうした。

「でも、あいつらを片付けるまでよ。そもそも柄がらじゃないんだから」

 頬杖の上で渋い顔を作り、

「今度はよりにもよって、あの〝千せん変ぺん〟が相手だってのに……あー、やだやだ」

「裸はだか見られる以上のハプニングはねーだろぜ、ヒャーッハハブッ!」

 相あい棒ぼうを平ひら手て打うちで黙らせる。



 マージョリーは、ユーリイを伴って、日も暮れかかったロウアー・マンハッタンの薄暗い街路を、どこへともなく歩いていた。一いつ旦たんは取り逃がした(と本人は主張する)〝穿せん徹てつの洞ほら〟アナベルグと〝千せん変ぺん〟シュドナイの気配は、未だ強く漂っている。やはり、あの芝しば居いがかった怪かい人じんは、この島しま自体に何らかの用があるらしかった。

(気配察さつ知ちの自じ在ざい法ほうで、いきなり戦闘に持ち込んでもいいけど……下へ手たすると、護ご衛えいの〝千せん変ぺん〟だけ出てきて、あの〝徒ともがら〟が他よ所そで事を起こす可能性もある、か)

(ま、今回は模も範はん解答示さにゃなんねーこともあるし、自じ重ちようだわな、ヒヒ)

 足の向くまま、すでに根付いて長いチャイナタウンからリトル・イタリーを抜け、ソーホー地区に入る。行く手に、ミッドタウンの壮そう麗れいな摩ま天てん楼ろう群ぐんが聳そびえていた。

(ふう、ん……模範解答、ね)

(お、ピンと来たか?)

 そんな二人の、声なき会話にも気付かず、

「感かん激げきです。『弔ちよう詞しの詠よみ手て』さんの探索に同行させてもらえるなんて」

 さっきからユーリイは、まるで遠足のように無む邪じや気きな声で話を続けていた。

 マージョリーは適当に手を振って返し、

「イーストエッジの頼みだもの、しよーがないでしょ」

 突然、大いに凄すごんで見せる。

「それより、約束忘わすれんじゃないわよ」

「……はい」

 声に押されて少年は渋しぶ々しぶ頷うなずき、ずれた眼鏡めがねを戻した。

「もし〝徒ともがら〟と遭そう遇ぐうして戦闘になっても参加はしません」

 言う腰からウァラクが、カチャンと短剣の鯉こい口ぐちを鳴らして言う。

「どのみち、今のあんたにできることって、チョロッと炎えん弾だん撃うつことと、高こう速そく飛行くらいでしょ? 参さん戦せんしても迷めい惑わくなだけよ。早いとこ一人前の『魑ち勢せいの牽ひき手て』として、私の『隷れい群ぐん』を使いこなして欲しいもんだわ」

 契約した〝紅ぐ世ぜの王〟の辛しんらつな評価はいつものことである。

「分かってるよ、ウァラク」

 新しん米まいフレイムヘイズは苦にがく笑って、暮れ行くニューヨークを眼鏡に映した。

「でも、皆が留る守すの間に、このニューヨークを〝徒ともがら〟に襲おそわれたってのに……討とう滅めつを他所からのお客さんに任せるなんて、少し悔くやしくてさ」

 マンハッタン島とう中南部にあたるミッドタウン。その、ビルやアパートメントの作る低層の森から、幾いくつもの高層ビルが巨木のそそり立つように天を突いている。夜になれば、低層は暗く高層は明るい、不ふ思し議ぎな夜景──実際には、貧困に喘あえぐ者の多い低層部には電灯を付ける余よ裕ゆうもないだけ、という非常に世せ知ち辛がらい事情からなる──夜景が望めるはずだった。

「動けないイーストエッジさんはともかく、僕がいるのに……」

「約束」

 早々に零こぼれた危あやうい台詞せりふに、マージョリーは一言、釘くぎを刺した。

 ユーリイは慌あわてて口を噤つぐ──まず、話題を逸そらした。

「は、半世紀ぶりだと、ニューヨークも変わったんじゃありませんか?」

「……」

「まあ、来て一年の僕が言うのも変な話ですけど」

 尊そん敬けいする大だい先せん輩ぱいのフレイムヘイズ、何度も外界宿アウトローで噂うわさに上った(良い噂なんかほとんどないだろうに、と本人は自じ嘲ちよう気味に思う)『弔ちよう詞しの詠よみ手て』マージョリー・ドーから、少しでもなにかを聞きたい、という意欲が声に隠かくれず、溢あふれ返っていた。

「その僕が見ても、日ごとに変わるほどですから」

「……」

「五十倍の歳さい月げつだと、よほど違ったんじゃないか、マンハッタンは一面荒こう野やだったんじゃないか、とか思ったりして」

 イーストエッジに請うけ合あった手前、マージョリーとしても、ただ突っぱね続けているわけにもいかない。釘くぎを刺すだけでなく、ある程度は人格の見極めをして、効果的な掣せい肘ちゆうをしておく必要があった。面めん倒どう臭くささを声に隠かくさず、ようやく答える。

「……たしかに、ね」

 根こん競くらべに負けたようで、少し気に食わなかった。

「とりあえず、街まち中なかに豚ぶたや馬が少なくなったのは結けつ構こうなことだわ」

「豚?」

 驚く少年へと、気に食わない気分で、面白くもない話を、つまらなさそうに話す。

「荒野どころか、ゴミ貯ためだったわ。あっちもこっちも、豚だらけ、馬だらけ、糞ふんだらけ、藁わら屑くずだらけ。港もダウンタウンもゴミが山積み。ハンターズ・ポイントなんか、毒ガス寸すん前ぜんの化学臭しゆうの底よ」

「そう、だったんですか……」

 ユーリイには、一ひと昔むかし前の苛か烈れつな都市環かん境きようについて、いまいち想像力が働かないらしい。これで少しは黙るか、と思ったマージョリーの希望は、

「……許せません」

「はあ?」

 しかしあっさり破られた。

「そんな酷ひどい時代を乗り超えて、禁きん酒しゆ法ほうもようやく廃止されて、今も大だい恐きよう慌こうから皆が立ち直ろうと頑がん張ばってる、そんな大事な時期に襲おそってくるなんて、許せませんよ」

(こいつ……?)

 マージョリーは、新しん米まいフレイムヘイズの言動が、自分の知るそれの在り様と違っている、どころか間違っている、そんな直感を得た。

(これが、イーストエッジの言ってた『在ってはならない狂い』か)

「そのアナベルグとかいう〝徒ともがら〟、ただ人間を喰らいに来ただけじゃなくて、『文明の──加速』でしたっけ、変なことを言ってたんですよね?」

「……ええ」

 マージョリーの不ふ審しんを他よ所そに、少年は声に熱さを加える。

「人を喰らって世界を停てい滞たいさせるのが〝徒ともがら〟だっていうのに、加速だなんて暴ぼう言げんにも程ほどがあります。あの〝千せん変ぺん〟シュドナイまで護ご衛えいに付けて、一体なにを企たくらんでたのか……どんな悪あく事じであっても、絶対に僕らが阻んで──!」

「ちーっと落ち着いたらどうでえ、兄にいちゃん」

 口く舌ぜつが加速する寸すん前ぜん、マルコシアスが絶ぜつ妙みようのタイミングで口を挟んだ。

「──えっ、あ」

 ユーリイは、ようやく我に返り、

「……すいません」

 反射的に謝って、俯うつむく。また、ずれそうになる眼鏡めがねを押さえた。

 そうして、二人にして四人のフレイムヘイズは、無言のまま、歩く。

 夕日を早々に隠かくすビルの谷底を、行き交う人々と自動車に混じって。

 すぐ傍かたわらを自動車が、ガリガリッ、と金属音を鳴らして走り抜けた。

 それを契けい機きにしてか、ウァラクが気だるい呟つぶやきを漏らす。

「あんたは人間に入れ込みすぎなのよ。いつまで人間のつもりでいるわけ?」

 ユーリイは、気弱に笑うしかない。

「うん、分かってるんだけど」

「どーかしら、ね」

「……」

 また少し歩いてから、少年は顔を上げた。道路の両脇わきから聳そびえる壁の上、分厚いスモッグの向こうに、星も見えない暗さを染み込ませつつある、夕の空がある。

 眼鏡に映るのは、心洗う星空ではなく、白々と光る真新しい街がい灯とうばかりだった。

「……やっぱり、僕は変なフレイムヘイズ、なんでしょうか」

 自分に向けられた質問だと気が付いて、マージョリーは少しだけ、目め線せんを傍らに流す。

 そこには、真しん摯しな、答えを求める瞳ひとみが眼鏡越ごしに揺れていた。

(子犬みたいな顔すんじゃないわよ)

 困こん惑わくしつつも、口を開く。

「まだ一年だったら、そんなもんでしょ」

 我ながらの日ひ和よった答えに、『弔ちよう詞しの詠よみ手て』たる女じよ傑けつは少し不ふ愉ゆ快かいになった。

 それを自分への不満と思い、ユーリイは肩を落とす。

「……イーストエッジさんからも、『おまえは変なフレイムヘイズだ』って、常々言われてるんです。他の、どんな討うち手の方々とも、僕は違うらしくて……訓練も受けているのに、欧おう州しゆうの戦いには行かせられない、って言われました」

(そりゃそーでしょーよ)

 こんな甘あまちゃんのひよっ子が行ったところで、犬死にがオチである。これならまだ、大たい戦せん期きに乱らん造ぞうされた『ゾフィーの子供たち』の方が、己おのれの使命を理解し、憤ふん怒ぬ憎ぞう悪おにギラギラしている分だけマシだった。

 その、今度は本当に抱いた不満が、つい口を突いて出る。

「なんで、あんたみたいなのが契約でき──っと」

 しかし、その不用意な問いに、ユーリイはまた笑い返した。

「分かってます、僕は……」

「あー、兄にいちゃん」

 マルコシアスの制止にも、首を振る。

「僕は……いえ、僕らは一年前、アメリカに向かう移民船で、〝徒ともがら〟に襲おそわれました」

「海魔クラーケン……まだ、そんなのが」

 マージョリーは少し驚いた。



 海魔クラーケンというのは、海洋上で人を襲う〝徒ともがら〟の総称である。

 絶ぜつ海かいに孤立した密みつ室しつ、しかも大おお人数を一いつ挙きよに喰らうことのできる長距離就しゆう航こうの旅客船は、〝徒ともがら〟にとって格かつ好こうの餌えさ場ばだった。フレイムヘイズの同乗でもなければ助からない、しかしフレイムヘイズが乗っている船を〝徒ともがら〟は襲わない……なんとも厄やつ介かいな環境だった。

 古くは北ほく洋ようから地ち中ちゆう海かい等の近きん海かいに多かったため、まだフレイムヘイズにも察さつ知ちと対たい処しよは可能だったが、定期的に大きな船が就航する時代になって以降、この阻止は、ほとんど運うん次し第だいという状況になっていた。

 外界宿アウトローが多く港に存在するのは、交通の便が良い、という目先の理由のみならず、この海魔クラーケンへの対処に、昔から彼らフレイムヘイズが腐ふ心しんしてきた証あかしなのである。

 とはいえ、一ひと昔むかし前、この無む道どうを撲ぼく滅めつしようという機き運うんがフレイムヘイズの間に高まり、大たい半はんの海魔クラーケンは討とう滅めつされた。狙われる定期航こう路ろには近きん隣りんの外界宿アウトローに在る討うち手が随ずい時じ乗り込む、という予防策も取られるようになって、近年は被害の噂うわささえ珍しくなった。

 はずだったのだが。

 少年の脳のう裏りに、移民としての惨みじめな光景が蘇よみがえる。

「あの狭く苦しい船底で、皆の人いきれにむせていたとき──」

 まるで荷物のように扱われ、両親ともども船せん倉そうの最下層に放り込まれた。故こ国こくを見送ることさえできず、澱よどんだ空気と酷ひどい臭においの底、暗く狭い場所に、皆で腹を空すかして蹲うずくまっていた。不意に衰すい弱じやく・発病して、アメリカの影すら見ることも叶かなわず死にゆく同どう胞ほうも数多く見た。

 自分はその中で、渡と航こうにあたって父から贈られた物を手に、新しん天てん地ちを、求めて働けば手に入らないものはないという自由の国──それが妄もう想そうの産物であると、当時は知らなかった──への到達を、ひたすらに待っていた。父からの贈り物とは、当時は高級品だった眼鏡めがね。

「のし上がるためには、学ばねばならない」

 渡航を決めてから口くち癖ぐせのように言っていた父の、それは新生活への意気込みの表れだった。サイズが違っているのは、父の財力だと、度ど数すうを合わせるだけで精せい一いつ杯ぱいだったからである。

 そんな自分も含めた、なにもかもが一杯一杯の、行く先にある漠ばく然ぜんとした希望のみに縋すがりついていた移民たちは……辿たどり着いた先で絶望することすら許されなかった。

 人間としての旅が、海の上で終わったのである。

 事件は、全く唐とう突とつに起きた。

 船倉の最下層まで届く轟ごう音おんと衝しよう撃げき、悲鳴すら混ぜて俄にわかに騒がしくなる天井、そして、刺すように差し込む日の光……在り得ない、その光を遮る影は、もっと在り得ないもの。

 缶詰の蓋ふたを開けるように天井を剥はぎ取った、化け物。

 巨大な蛸たこ、腐った藻ものような暗い緑色の光を撒まき、うねり蠢うごめく化け物だった。

 腰を抜かす親切にしてくれた老人、周りを突き飛ばして走る知らない男、狂ったように叫ぶ可愛かわいかった少女、泣き喚わめく傲ごう慢まんだった船員、怯おびえへたり込む父、ただ祈る母……皆、化け物に触れる側から燃え、吸われ、消えていった(その、存在を失うという現げん象しようの感かん知ちが、フレイムヘイズたる者としての素そ質しつだったことを、後でイーストエッジから聞かされた)。

 やがて、船体のきしむ音が響ひびき、足元から冷たい海水が溢あふれた。実際には自分の方が海中に落ちていたのだが、もちろんその時点で冷静に状況を把は握あくできるわけもない。数分で全身が麻ま痺ひし、死んでしまう冷水の中で、なおも放り出された人々を喰い続ける化け物、水の中で燃えて消える人々の光を、見続けた。そのために、なぜか眼鏡めがねを押さえ続けていた。

 ずっと上に、さらなる輝きを見せる海面があった。

 しかし間に、人喰いの化け物が、立ちはだかっていた。

 苦しんで、もがいて、上に向かおうとした。なのに、力が足りなかった。冷たい水をかく力がなかった。化け物を押しのける力がなかった。輝く海面に辿たどり着く力が、なかった。

(上に)

 と望んだ。

(力を)

 と望んだ。

(上に、向かう、力を)

 と望んだ。

 そのとき、


「……  ……── ──求める? 飛べない誰かさん?」


 全く不意に、

「求める? 飛ぶことを」

 気だるそうな、女の声が響いた。

「求めるのなら、誓ちかいなさい」

 不ふ思し議ぎな声は、揺らいで燃える、ここではないどこかから響いていた。その広がりを感じながら、いつしか体は力尽き、水底へと沈み始めていた。意識は朦もう朧ろうとして、しかし眺ながめはどこまでも冴さえ渡って、頭上の海面を、立ちはだかる化け物を、見続けた。

 どこからか響ひびく声に、問うていた。

(誓ちかうって、なにを?)

「私と、飛ぶ誓い」

 なぜそんなものが見え、聞こえるのか。

「あんたの目の前にいる敵を、打ち破る誓い」

 今、自分の目はたしかに、化け物と人の燃える光を、その向こうに輝く海面を、確かに見ている。自分の耳はたしかに、水圧に痛みを覚え、泡あわの感かん触しよくを水の中に聴きいている。

「そして、戦い続けるという、誓い」

 しかし同時に、揺らいで燃える、幻げん想そう的な世界も見え、声もはっきりと聞こえていた。

(誓ったら、どうなる?)

「望みのままに、飛べるようになる。敵を打ち破る、力を得る。そして……あらゆる人の記き憶おくから消え、絆きずなを全て失い、人ではなくなる」

(そん、な)

「飛びたいという願い、戦うという意思、それだけが、誓いに代わる」

 気だるい声は、しかし有う無むを言わせなかった。

 父も母も目の前で火に変わって、化け物に吸い取られてしまった。新しん天てん地ちで暮らすための全て、移民として故こ国こくから持ち出した家か財ざいも全て、船ごと沈んでしまった。今、自分に残されているものは、遠く輝く海面と、その間に立ちふさがる、巨大な化け物。

 それだけだったのに、

 それだけだったからこそ、

「選びなさい。誓うか。それとも……」

 ドクン、と、胸が打破の予感に高鳴った。

「諦あきらめるか」

「──!」

 ガボッ、と思うだけでなく、声として叫んだ拍子に、口の中へと冷たい海水が入り込んできた。観かん念ねん的なものではない、残ざん酷こくな実感としての死が、咽の喉どに肺に入ってきた。

 必死にもがいた。

 もがいて、心で叫んだ。

「いやだ!!」

 と。

「誓いは……成なされた」

 声が聞く間に近くなり、耳元で弾はじけた。

 途と端たん、今まで冷たい海中で死にかけていた体に、猛もう烈れつな熱さが満たされた。

 のみならず、周囲の海水までをも沸ふつ騰とうさせ泡あわ立だたせていた。

 気付けば、望んだ場所へと、輝く海面へと、向かっていた。

 その向かう先に、もう一つのものが、立ちはだかっていた。

 化け物。

「戦いなさい! そのための力は、もう宿っている!!」

 声が自分の中から響ひびいてくる。

「うわあああああああああああああああああああ──!!」

 湧わき上がる熱が体の回りに渦うず巻まき、吹き出す力が上昇の感かん触しよくを与える。

 バガン、

 と硬く大きなものを砕いたような、妙みように乾いた音が海中で響き、

「わ、あ────」

 気付けば、深い紺こん碧ぺきを下に、広い蒼そう穹きゆうの中にいた。

 手には、鞘さやに収まった短剣があった。それは、故こ国こくで眼鏡めがねを得る際、父が断だん腸ちようの思いで売り渡した、フヴォイカ家重じゆう代だいの宝剣に、そっくりだった。

 怪かい物ぶつの爆発が、遠い下方の海中で起こったが、それはもはや、『魑ち勢せいの牽ひき手て』ユーリイ・フヴォイカにとって、過去の残ざん滓しでしかなかった。

 あらゆる人の記き憶おくから自分が消えても、なんの意味もない。

 絆きずななど、家族を喰われた時点で、とっくになくなっていた。

 それらのことに、全てが終わってから、ようやく気付いた。



「でも、後こう悔かいもしてるんです」

 自分の契約について語り終えたユーリイは、歩きながら地面に眼めを落とす。

「後悔? 契約したことに?」

「おいおい、そりゃねーぜ」

 言ったマージョリーとマルコシアスに、少年は慌あわてて手を振って見せた。

「いっ、いえ、そういう意味じゃないです! 僕をあの地じ獄ごくから救い出してくれたウァラクには、本当に感謝しています!」

「あたりまえよ」

 とウァラク。

「それに今、イーストエッジさんの所にいさせてもらえることにも……まあ、欧おう州しゆう行きを許してくれなかったのは正直、不満ですけど……普通に移民としてやってきたよりも、たぶんずっと、恵まれた暮らしを送れていると思ってますから。ただ──」

「ただ?」

 怪け訝げんな顔をするマージョリーに、再び路面に眼を落としたユーリイは苦にがく、呟つぶやいた。

「あのとき、誰も助けられなかった」

(あっ)

「自分のことだけに精せい一いつ杯ぱいで……」

(なーるほど、な)

 マージョリーとマルコシアス、二人で一人の『弔ちよう詞しの詠よみ手て』は、ようやく理解した。

 少年が漂わせる、違い和わ感かんの正体を。

「今度くらいは、誰かを助けたいんです」

 彼は、世界のバランスを保つことを使命とするフレイムヘイズの身で、人間に執しゆう着ちやくしすぎていた。本来持つべき熱意の方向が、完全に狂っていた。倒すべき〝徒ともがら〟ではなく、人間の方を向いていた。緊きん急きゆう避ひ難なん的な契約によって己おのが身しん命めいを救われたがために、フレイムヘイズという存在に、なにか奇き妙みような幻げん想そうを……希望のようなものを仮か託たくしてしまっていたのだった。

 違和感の正体、狂いの指す方向とは、つまりは『善意』なのだった。

 この、自分が生き抜くことにおいて、容易に危険へと取って代わるものを、彼は存在の根底として持ってしまっていた。復ふく讐しゆう者として生まれるはずのフレイムヘイズ。エゴによってようやく自身の悲ひ境きようを受け入れ、生き延びることに執着できるという異い能のう者。

 ユーリイ・フヴォイカは、その例に倣ならっていないイレギュラーだったのである。

(こんな危険な子、戦いに使えるわけがない)

(向く向かねー以前の問題だったなあ、こりゃ)

 相あい棒ぼうに次いで、マージョリーは少年の短剣に声をかける。

「ウァラク」

「分かってる。けど、どーしようもないでしょ?」

 その気だるい声には、諦あきらめが匂におっていた。

 マージョリーも、少年の抱える病びよう魔まの抜き難がたさを思い、眉まゆを顰ひそめる。

 復讐や執しゆう念ねんという、手段を正当化する、ゆえに生き延びる力となるもの。

 利害や打だ算さんという、冷れい徹てつに割り切る、ゆえに生き残る確率を高めるもの。

 それらをなにも持っていない少年は、その場の感情で、非ひ論ろん理り的に動く。生き延びたいと願う者、生き残ろうと望む者の行く手を、善意によって掻き回す、最悪の存在なのだった。

 マージョリーにとっては当然の帰き結けつとしての、

「今すぐ帰りなさい」

 しかしユーリイにとってはあまりに唐とう突とつすぎる、冷たい言葉が放たれた。

「え、えっ!?」

「すぐ外界宿アウトローに帰って、あと十年、まず人間として暮らしなさい。あんた程度じゃ、フレイムヘイズは務まらない」

「え、えっ!?」

 自分の決意を示すつもりで語った契約の話、それが齎もたらした、期待とは正反対の結果に、ユーリイは狼ろう狽ばいした。自分たちがうろついている目的で、せめてもの抵抗を試みる。

「でも、〝徒ともがら〟を探さないと」

「んなもん、出てきたら叩たたくだけのこった」

 マルコシアスまでが無情に言う。

「そんな、無む茶ちや苦く茶ちやですよ、『弔ちよう詞しの詠よみ手て』さん!」

「無茶も何もない。ここまでうろついて、まだ〝徒ともがら〟の目的も分からないような未み熟じゆく者に付いて来られても迷めい惑わくなだけ」

「そんな」

「私たちは、分かった」

「えっ」

 弱々しくなる抵抗に、マージョリーはとどめとして言ってやった。

「じゃあ、改めて訊きくわ。〝穿せん徹てつの洞ほら〟についての情報は、出掛けに教えた通り」

「は、はい」

 ユーリイは必死に思い出す。

(──「どうぞ、広き世界にても数々起おこしたる我が悦えつ楽らく、『文明の加速』を、ご覧らんあれ! 加速させる我が行いを、人間たちへの礼らい賛さんを、ご覧あれ!!」──)

 どの言葉も抽ちゆう象しよう的過ぎて、込められているらしい意味など、微み塵じんも掴つかめない。

「こそこそ隠かくれてるくせに、どうして『ご覧あれ』なんて言ったのか。言った〝徒ともがら〟の性格と、今歩き回った結果から、私は奴やつの目的を推測できた。あんたはどうなの?」

 畳たたみ掛けるようにマージョリーは言う。

「おめえのレベルはその程度ってこった。帰ってじっくり考えな。もうガキは寝る時間だ」

 マルコシアスにも、取り付く島がない。

 このマンハッタンを守るため、腕うで利ききのフレイムヘイズと一緒に〝徒ともがら〟と戦うことを望んでいた少年は、最後の希望と、自分の腰に目をやった。が、

「たしかに、分からないのなら、参さん戦せんの資格はないわね」

「ウァラク!?」

 なんだかんだで優しいはずの〝紅ぐ世ぜの王〟までもが、同行を諦あきらめた。

 頷うなずいて、『弔ちよう詞しの詠よみ手て』は、少年ではなく短剣〝ゴベルラ〟に、別れを告げる。

「そういうこと。そろそろ見栄えのいい夜が来るから、行くわ」

「ま、イーストエッジにゃあ、『悪い』って言っといてくれや、〝き蜴えきの帥すい〟!」

 一人、会話から取り残され立ちすくむユーリイに、背が向けられる。

「待っ──」

 遠ざかる姿の端はしを掴もうと駆け寄る少年の手を、マージョリーは遠えん慮りよなく掴み、乱暴に放り投げた。

「──わあっ!」

 無ぶ様ざまに尻しり餅もちをついた少年に、背中越ごし、必殺の気合を込めた声が降りかかる。

「来るんじゃないわよ、絶対」

 雑ざつ踏とうの奥に彼女の姿が消えた後も、少年は立ち上がれなかった。

 迷めい惑わくそうによけて歩く人々の間、刺すように光る街灯の下、行き交う自動車の騒そう音おんの中、座り込んだまま……フレイムヘイズの残ざん影えいを、ただ目だけで追っていた。