2 人外の扉
人ならぬ者たちが、この世の日に陰に跋扈していた。
古き一人の詩人が与えた彼らの総称を、〝紅世の徒〟という。
彼らは〝紅世〟という、〝歩いてゆけない隣〟から渡り来た。彼らは〝存在の力〟という、人がそこに在るための根源的な力を喰らって自分自身を顕し、在り得ない不思議を現した。
彼らに〝存在の力〟を喰われた人間は、いなかったことになった。
その人間が育ち、関わり、接するはずだった全ては、この欠落により、歪んだ。生まれ、決して埋め合わされない歪みは〝徒〟の跋扈に伴い、大きくなっていった。
そして、〝紅世〟において、『この世で生じた歪みが両界に大いなる災厄を齋す』との観念が広まり……危機感を持った〝王〟たちは一つの、苦渋の決断を下した。
同胞たる存在の乱獲者たちを討ち滅ぼす、という決断を。
その尖兵、あるいは道具となったのは、〝徒〟への復讐を誓った、人間たち。
己が全存在を契約する〝王〟に捧げ、代償として異能の力を得た復讐鬼たち。
彼らの総称を、フレイムヘイズという。
「あのー」
「……」
ブルックリン橋を渡って入るマンハッタン島の南端部、ロウアー・マンハッタン。
この島が、アメリカ・インディアン──まだ先住民という呼び名は一般的ではない──からオランダ人に僅か二十五ドル相当の物品で売り渡され(もちろん、この国の開拓神話の大半と同じく、真偽のほどは定かではない)、ニューアムステルダムという名で入植の始まった最初期から開発を受けていた地区である。
「ぼ、僕、〝
蜴の帥〟ウァラクのフレイムヘイズ、『魑勢の牽き手』ユーリイ・フヴォイカって言います」
「……」
当初、陸海の敵に備えるオランダの要塞外縁部だった木製の防壁は、三百年の時を経た今、名をそのままに金融の一大拠点へと変貌を遂げている。即ち、先だって世界を席巻した大恐慌の震源地・ウォール街である。
「えーと、今、イーストエッジさんの外界宿で、見習いとして働いてます。さっきも、その、封絶が張られたので、様子を見に……戦闘、終わってたみたいでしたから……だから、あれは別に、見ようと思って、見たわけじゃ……」
「……」
新たにスリーピースのスーツを纏ったマージョリーは今、ユーリイと名乗る少年フレイムヘイズとともに、この高層建築の壁に挟まれた通りを、西に向かって歩いていた。忙しなく行き来する雑踏の頭越し、正面に聳える高い尖塔を見て、思わず眉を顰める(この尖塔を持つ古い教会の名は、トリニティ教会という)。
「い、いえ、この眼鏡を弄るのは癖で、さっきの、あれを見たからとか、そういうのは関係なくて、えーと……そうだ、ウクライナ移民で、十六歳です。あ、これはフレイムヘイズになってからの一年も足してます」
「……」
サウス・ストリート・シーポートでの衝撃的な出会い以降、必死に話しかけるユーリイを無視し続けるマージョリー……ではなく、少年の腰にある古風な短剣が、気だるそうな女の声で難詰する。
「バーカ、フレイムヘイズが年齢なんか数えてどーすんのよ」
「あ、ごめん」
ユーリイは、自分と契約した〝紅世の王〟──〝
蜴の帥〟ウァラクに、その意思を表出させる短剣型の神器〝ゴベルラ〟に、ペコリと頭を下げる。その拍子に眼鏡がずり下がった。
慌ててこれを押さえる契約者へと、ウァラクは気だるさに呆れを混ぜて言う。
「だから、簡単に頭下げんじゃないわよ。ったく」
「ごめ──あ」
「ふう……」
「ヒャーッハハハ! 新兵さんゴクローサンってとこか、〝
蜴の帥〟?」
マージョリーの右脇に提げられた〝グリモア〟を揺すって、マルコシアスが大笑いする。
さすがにこの大声は、周囲のニューヨーカーたちを驚かせたらしい。老若貧富を混ぜた人ごみから、奇異の視線が一見二人の四人に向けられる。
「えっ、あ」
ユーリイは救いを求めるように腰の短剣を見下ろし、しかしそこから薄情な静寂だけを受け取った。窮した挙句、大声で先の物真似をする。
「ハ、ハハッ、ハーッハハハ!」
「……」
マージョリーは僅かな溜息を吐いて、この少年を横目で見る。
『魑勢の牽き手』ユーリイ・フヴォイカ。
なんともらしくないフレイムヘイズだった。
見た目の強さを感じさせない、小柄で痩せぎすな体格。気弱半分、生真面目半分の容貌に、無用なはずの眼鏡までかけている(当然、伊達眼鏡だろう)。身なりもそこいらの子供と変わらない。長めのジャケットの内側、腰のベルトに古風な短剣型の神器〝ゴベルラ〟を差しているのが、せいぜいの特徴だった。
なにより、世の陰に〝紅世の徒〟を狩る討滅の追っ手らが持つ共通の雰囲気である、切羽詰まった気迫やそれを隠す演技、悟り抜いた静けさ……どの匂いもしない。
少年の存在に苛立ちのようなものを感じつつ、マージョリーはようやく口を開いた。
「ユーリイ、だっけ?」
「はい!」
「イーストエッジは元──」
「あの! 僕、『弔詞の詠み手』さんのこと、ずっと尊敬してたんです!」
「──尊敬?」
マージョリーは自分の言葉を切られた不愉快さも忘れ、つい訊いていた。
「はい!」
話しかけられたせいで箍が外れたかのように、ユーリイは次々と言葉を連ねる。
「外界宿で見習いとして働いてると、あちこちで活躍されてるフレイムヘイズの皆さんの噂をたくさん聞くんです。『輝爍の撒き手』さん、有名な『鬼功の繰り手』さんと『極光の射手』さんのお二人、亡くなった方でも、伝説の『炎髪灼眼の討ち手』さんに『理法の裁ち手』さん、もちろん『星河の喚び……あ、イーストエッジさんは称号で呼ぶと怒るんですけど」
「ちょっと黙って」
無邪気すぎる声色に、なにか耐え難いものを感じたマージョリーは、黙らせるつもりで掌をその前に突き出す。
と、なにを思ったかユーリイは、
「わ!?」
叫んで、素早く飛び退いた。
段差による区別もろくにない、轢いた者勝ちの車道の端に。
「馬鹿、なにやって──!」
逆に驚かされたマージョリー(彼女は、大都市における馬車の暴走と轢死を日常的に見ていた)が差し出した手を、その袖口を、ユーリイは慌てて掴む。引かれるとともに、
ブツン、と変な音がして、
「あ」
着替えたばかりだったマージョリーのスーツ、そのボタンが飛んだ。
「っ、す、すいません! イーストエッジさんに、不意打ちを食らわないようにする訓練を、いつも受けてて、その、本当にすいません!」
ペコペコ謝っては眼鏡を押さえる契約者、異能の討ち手であるはずの少年の姿に、
「はぁ……」
腰の短剣から、ウァラクが再びの溜息を漏らす。どうやら、この手の失敗は初めてのこと、珍しいことではないらしい。
マージョリーは、そんな〝紅世の王〟への同情から、怒るのを止めた。
「イーストエッジは、元気なの?」
脱力した声で訊き直しながら、前のボタンを全て外し、ラフな格好になる。結果として、ジャケットで隠されていた胸の膨らみが、大きく強調されることとなった。
ユーリイは、自他の行為に眺めに、しょんぼりしたり顔を赤らめたりと忙しい。ついでに、その鼻先に、傍らを走り抜けた自動車の排気ガスを吐き掛けられてむせた。
「ゲホ、ゲホッ、は、は、はい」
「ギィーッヒャヒャヒャブッ!?」
懲りずに大声で笑う相棒を平手で黙らせたマージョリーは、率直な感想として言う。
「あんた、変なフレイムヘイズねえ」
特に他意を込めた言葉ではなかった。この妙に腰の低い、らしくない少年なら、まくし立てるような答え、大げさな謙遜の同意、どちらかが返ってくるだろう。そう思っていた。
しかし、
「……」
なぜか少年は、表情を曇らせて黙ってしまった。
「なに?」
もう一度訊かれて、慌てて答える。
「……いえ、なんでも!」
その不審な様子に、僅かふと引っかかるものを感じたマージョリーは、考えかけて、止めた。他人の事情をいちいち詮索するのは趣味ではない。
(そうよ、知ったことじゃないわ)
その店、『イーストエッジ外信』は、ウォール街からウィリアム通りを北に折れた先、探偵事務所と法律相談所に挟まれた、小ぶりな低層長屋の一階にあった。
昔は多岐に渡る人種来歴からなる移民向けに故国の新聞を売る輸入業者もどきだったが、今は独自に特派員も出して、欧州の情勢をそれぞれの言語で伝える真っ当な外信社としての業務も行っている……ということになっている。
店構えの割に情報が確かで、各種言語版も揃っていることから、定期の配信日には大変な賑わいを見せるが(現在、最も関心を集めているニュースは、フランコ将軍の動向である)、今日のような通常営業日だと、単なる場末の新聞社の趣である。来客も、日に十人あれば良い方、という閑散ぶりだった。
その質実以前、装飾の省略が醸し出す素っ気ない玄関に、マージョリーは立つ。扉の上、『イーストエッジ外信』という意味の言葉が、数ヶ国語・横書き・縦並びに書き付けられた古い看板を見上げた。懐かしさを心地よく、変わらなさを愛おしく感じる。
「半世紀前と同じね」
「ま、模様替えする柄じゃねーわな」
二人して笑い合い、『弔詞の詠み手』は看板の掲げられたドアを素通りした。その隣、同じ一階にあるドアを何気なく、力を込めて開ける。人間の腕力では絶対に開けられない、単純な力技でしか開かない、これはフレイムヘイズ用のドアだった。
ギリギリギリギリッ、とドアに結わえられた紐がベルをけたたましく鳴らして、異能者の来訪を店全体に告げる。
入った中は、意外に広い。様相は、数年前までご法度だった『もぐり酒場』に似ていた。乱雑に置かれた酒瓶と酒樽、板を寝かせただけのカウンターに少数の椅子、剥き出しの煉瓦と板張りからなる壁、宿泊所兼構成員宿舎となっている上階への細く急な階段……その、探せば街に幾らでも見つかるだろう光景に、しかし異質なものが、二つ混じっていた。
一つは、正面の壁を埋めるほどに無数張られた、海図と地図。
図法版型、てんでバラバラなそれらは、古いものの上に次の図が積み重なって、歴史の層を成している。一つ一つには、異なる筆跡でのメモや矢印、○や×といった記号が乱雑に書き記されていた。今、壁に見えるのは合衆国地質測量局の最新版世界地図で、中心に位置するヨーロッパに、大きく○が書き付けられている。
もう一つは、青磁色の光で店の中を薄く照らす、掌大の正十二面体。
釣り糸もなく天井近くに静止するこれは、不思議な、在り得ない現象を起こす器物、すなわち宝具である。設置した者の力を受け(青磁色は、宿主たるイーストエッジが持つ炎の色)、一定範囲内の気配を遮断するガラスの正十二面体『テッセラ』……全世界に点在するフレイムヘイズらの情報交換・支援施設たる外界宿の核、世界で最も数の多い宝具だった。
表向きの職業や調度の差異に拠らず、この二つを備えている建物・場所が、外界宿と定義される。『イーストエッジ外信』は、そのニューヨーク支部だった。
マージョリーは、この見た目も異質な無人の店内をドカドカと進み、カウンター席に腰掛けた。ついでに横の席へと、重い〝グリモア〟を据える。
と、板壁一枚挟んだ隣、表向きの商売である外信社から、
「はーい、店番代わりまーす!」
元気なユーリイの声が響いてきた。彼はここの構成員なので、来客用のドアは使わず、人間用のドアから入っている。
やがて一人の男が、きしむドアを開けて入ってきた。
中肉中背、まるで岩になめし革を被せたような厳つい面相の、頑健そのもののアメリカ・インディアンである。ワイシャツにズボン、今付けた分厚い布のエプロン、というごく普通の格好が、微妙に似合わない。
最低限、唇を震わすように、しかし意外に爽やかな声で、フレイムヘイズ『星河の喚び手』イーストエッジは挨拶をした。
「未だ暴狼の加護を受けているようでなによりだ、怒れる獣」
「よく、きたな」
短く深く、貫禄のある男の声で続けたのは、イーストエッジがベルトから提げている、浮き彫りを施した石のメダルである。これは、彼が契約した〝紅世の王〟──〝啓導の籟〟ケツアルコアトルの意思を表出させる神器〝テオトル〟だった。
「おひさしぶり、イーストエッジ、ケツアルコアトル。また寄らせてもらったわ」
ユーリイに対するものとは打って変わった、喜びを含んだ声でマージョリーが返した。
ゆっくりとカウンターの中へと入る同業者に、マルコシアスも、こちらは常と同じ軽薄な口調で挨拶する。
「しーばらくだったなあ、怪物コンビ」
「ああ」
「変わりない、ようだな」
一人は顔に皺を刻むように、もう一人は声に少量滲ませて、笑い返した。
「こっちは、すーっかり変わっちまってるよーだな」
マルコシアスは炎を少量噴いて囃す。
「なんでえ、この流行らなさはよ。世界恐慌、未だ暴威健在なり、ってか?」
マージョリーは相棒の言う状況、一人の討ち手もいない、寂寞とした店内を見渡した。
「やっぱり、このニューヨークからも駆り出されたのね。あの坊や以外にいないの? マンハッタンに同業の気配がまるでないなんて、どんな冗談かと思ったわ」
イーストエッジは微かに顎を引いて頷き、
「仕方あるまい。悪名高き[革正団]との戦いだ。皆、勇んで出て行った」
「無事であれば、いいが」
ケツアルコアトルが慨嘆する。
答えを受けたマージョリーは、店の壁にある最新版の地図、ヨーロッパを大きく囲む○印に目をやった。
現在、世界中のフレイムヘイズたちは、とある〝紅世の徒〟による大集団との戦いに駆り出されている。この、近代に忽然と現れた結社[革正団]は、奇天烈な思想の元、討ち手と〝徒〟双方にあった暗黙の掟を平然と破り暴れる(当人たちは「運動」と呼んでいたが)、無茶苦茶な連中だった。彼らの孕む危険性を恐れた欧州の外界宿は、急ぎ全世界へと伝令を送り、応えた者たちが久方ぶりの大規模な戦いへと赴いている。
マルコシアスが、その戦いの一端を見た者として笑う。
「ヒッヒ! フレイムヘイズってな、協調性ゼロだからなあ。今度は旗持ちの炎髪灼眼もいねえし、集まったところで統制が取れんのか、怪しいもんブッ!?」
「わざわざ心配を煽ってんじゃないわよ、バカマルコ」
ゲタゲタ笑う〝グリモア〟を、マージョリーは張り飛ばした。彼女は、この心身ともに落ち着いたフレイムヘイズが嫌いではないのである。
「事実だろーがよ。ゾフィーの雷ババアも、今度は参戦しねーんだろ?」
なおも言うマルコシアスに、カウンターから声がかかる。
「天空の槌──」
イーストエッジは、〝払の雷剣〟タケミカヅチのフレイムヘイズ『震威の結い手』ゾフィー・サバリッシュのことを、こう呼ぶ。
「──は、緒戦で生涯の友を二人も失ったのだ。無理もあるまい」
「あんなイカレた奴らが相手じゃあね。一度の不覚がたまたま命に届いた、ってことよ」
マージョリーは今日のことも含めて平然と言った。
「こっちだって、やられる一方ってわけでもなし。なんせ、フォン・クーベリックの……あ、そうそう、マルコシアス」
「おっと、ほいさ」
〝グリモア〟がページを開いて、そこからポイ、と蜜蝋で綴じた封筒を吐き出した。
ピッ、と指二本でマージョリーはこれを取り、差し出す。
「はい、そのフォン・クーベリックから」
「手紙……?」
イーストエッジは怪訝な面持ちで受け取り、封を開けた。
外信社も、ドレル・クーベリック……この、欧州の外界宿を束ねる現代の偉人とは常時、表裏の業務で連絡し合っている。とはいえこの場合、手段に意味があった。
十九世紀の内に、大西洋海底ケーブルは開通している。アメリカの外界宿も、とうに委託業者を通じて、重要な情報の大半をそちら経由で遣り取りする仕組みになっていた。わざわざ手紙を、しかも名うての討ち手に託し送ってくるというのは、特別な案件である証拠だった。
それを感じて、イーストエッジは表情を曇らせる。
「この席は空けられん、参戦はしない、と既に伝えたはずだが」
言って天井を、心持ち顎を上げるように見上げた。
その先に浮かぶ正十二面体……結界発生装置『テッセラ』は、設置型の宝具である。結界を作るためには一つ場所に据えておかねばならず、力も断続的に給与しておく必要があった。動かすか力を途切れさせるか、どちらかの禁を破ると、途端に結界はその効力を失い、再び動かすにも相当な時間を要することとなる。
そうでなくとも、広大な大陸に古くから在る強力なフレイムヘイズ、『星河の喚び手』イーストエッジは、マンハッタン島における討ち手らの拠り所たる外界宿『イーストエッジ外信』を維持する、という役割に自らを縛っている。他行の要請に応えるわけもなかった(よほどの危機的状況でもない限りは戦意が湧かない、とある理由もある)。
もちろん、マージョリーもこれらの事情は重々承知である。
「別の用事じゃないの? いくらフォン・クーベリックが急進的な人でも、この大陸から『大地の四神』を動かそうなんて思ったりしないはず」
彼女の言う『大地の四神』というのは、イーストエッジも含むアメリカ・インディアンの、いずれも強力な討ち手たる外界宿の管理者たちのことである。
「どーだかな。あの若え爺さん、とっぴなこと思いつくからよ、ヒッヒッヒ」
「ま、ゆーっくり、読んで頂戴」
この、何気ない客の気遣いを、酒場の主人は察し、言う。
「品が確かなのは、コーンウイスキーくらいだな」
「まだ、酒のルートが不安定だ」
ケツアルコアトルの補足に、クスリと小さな笑いが返った。
「やっぱ、しばらく寄り付かなくて正解だった?」
「そうだな。禁酒法時代は、出回る酒の質も最低だった」
また、皺を刻むように笑い返して、イーストエッジは大きな酒瓶と重いグラスをそれぞれ一つ、カウンターに置いた。
この十九世紀から二十世紀の初頭、百年程の短い期間の内に、欧州のフレイムヘイズ、特に外界宿の在り様は、急速な、そして抜本的な変革を起こしていた。
外界宿という、逃げ込むための隠れ家、立ち寄るだけの溜り場でしかなかった『場所』が、情報の交換と共有、活動資金の援助、迅速な交通手段の手配といった、本格的な『支援施設』へと再編成されたのである。
フレイムヘイズ──そもそもが個人的な理由に拠って立っているため協調性に乏しい──異能独自の力で世を押し渡る性質ゆえに集団行動が苦手──感情を爆発させる若年で契約する者が大半であることから組織感覚や社会通念に疎い──これら、群れることに全く向いていない人種に、支援の面のみとはいえ変革を与えたのは、たった一人の男だった。
『愁夢の吹き手』ドレル・クーベリック。
〝虚の色森〟ハルファスのフレイムヘイズたる幻術使いである。
彼は、老境に入ってから契約した変り種であるためか、闘争本能に衝き動かされ、復讐に猛り狂うという、常の討ち手らとは全く違うメンタリティを持っていた。
曰く、『漫然と〝徒〟を追うより効率的なやり方は幾らでもある。協力せよ、互助せよ、提携せよ』……一人一党を旨とする復讐鬼たちに受け入れられるわけもない主張を、彼は契約直後から、行く先々で説いた。もちろん、誰もまともに耳を貸していない。彼自身が、直接的な戦闘力に欠けるフレイムヘイズだった、という理由もある(言うまでもない、討ち手らにとって最も権威ある箔は、強さである)。
そして数十年後、彼は煙たがられた挙句に、当時、あぶれ者や変り種が行き着く定位置、あるいは暇人の座る椅子でしかなかった外界宿の管理者に就任した。彼を知る誰もが、「これであの変物も大人しくなる、意味不明な説教も聴かずに済む」と思った。
ところが、彼にとって、それは行き着く先などではなかった。
どころか、本当の事業の、ほんの始まりに過ぎなかったのである。
その証として、各地の外界宿へと、「情報提供の定期通信と交換を行いたい」という提案が、回状として巡り始めた。小さな、苦難に満ちた、しかし大事業への、一歩だった。
当初は、これを通わせる協力者や志願者の確保にすら苦労した。回状を渡す約束を守らない者、端から行為自体を馬鹿にしていた者などが多かったからである。肝心の回状を渡す相手の外界宿管理者にすら、当初はその意味や実効性を疑われれるばかりだった。
まさに孤立無援、孤軍奮闘の状況下、それでも彼は驚異的な粘り強さと熱意を持って、説得と実行を続けた。
その彼に対する協力は、道化への哀れみという形で芽吹いた。
次に、討ち手として動いていた時代にできた友との合流があった。
すぐに、彼の外界宿を訪れる顔馴染みの討ち手間で、習慣化していった。
やがて、回状に記された情報の恩恵、追跡の利益を受けた者が、幾人か出た。
いつしか、出回る範囲、交換する討ち手、情報網に加わる外界宿が、増えていた。
幾つもの大きなトラブルを、幾十もの小さなトラブルを、じっくり確実に超えてゆく内に、また十年単位での月日が流れ……回状のみでない、情報の交換と共有は、外界宿を行き来する討ち手らにとっての慣例から、守るべき規範に、遂には使命の一部として遂行する制度となっていた。欧州における大半の外界宿も、ドレルの影響・制度下に置かれていた。
これらは、好意や友誼の結果ではない。討滅を行う助けになる、無駄死にを減らせる、という……どこまでも普通の、なにより重要な、実績による変化だった。
そしてこの時期、ドレルはまた別の支援体制構築に着手していた。自身の外界宿をチューリヒに移し、人間社会の、それも主に金融・運輸関連の企業を架空名義で経営しだしたのである。
英雄豪傑綺羅星の如く揃うフレイムヘイズの歴史上にも、こんな奇行に走った者は一人としていない。人間だった頃に何者だったのか、若き老人はその天稟と経験と知識を多彩豊富に持っており、程なく人間に事業実務の大半を任せて、外界宿に在る彼がこれを総括する、という体制を作り上げてしまった。情報に続き、フレイムヘイズを最も直接的に動かす、資金と交通網のバックアップ体制が整備されたのである。
マージョリーがマンハッタンに現れた頃には、彼の理念を掲げ、集った討ち手ら(中心となったのは、自身の復讐を果たし、生きる目的を見失った者たちだった)によって、チューリヒを中心に緊密な連携を取る有機的組織が、欧州に誕生していた。
世に言う『ドレル・パーティ』である。
現在、世界中のフレイムヘイズらを欧州に集結させている[革正団]との戦いでも、この新たに育った支援施設は、大きな役割を果たしていた。
今度の戦いは、中世に起きたフレイムヘイズと〝紅世の徒〟による史上最大の戦争『大戦』のような、彼我の軍勢を一箇所に集める決戦ではなかった。欧州全域で策動する[革正団]に、同じく各地に点在する外界宿が一つ作戦意図の元、各個に対処する、という一目で見えない全面戦争だった。主戦場すら明確でない、局地的な勝敗が入り乱れる混沌の中で、じわじわと全体の情勢が一進一退を続けていた。
これら推移の間も、総指揮官であるはずのドレルは幕僚団『クーベリックのオーケストラ』をチューリヒから動かしていない(むしろ、この戦いで最も忙しいのは、欧州の交通支援を総括するピエトロ・モンテベルディと言われている)。頭の古い復讐鬼たちには勝敗の判定さえ理解できない、しかしこれも厳然たる『大きな戦い』だった。
文面を読み終わったイーストエッジは、手紙を丁寧に折り畳み、封筒に戻した。
マージョリーはもちろん、文面について尋ねるような不躾な真似はしない。ただグラスを傾け、唇を酒で湿す。
少しして、眼を瞑っていたのかどうか分からない細い双眸が、深く黒い光を揺らした。
「幻の涙──」
イーストエッジは、ドレルのことを、こう呼ぶ。
「──といい、今、彼が討ち手らを集め戦っている[革正団]といい、時が経つと、人も〝徒〟も、様々な考え方を持つようになるものだ」
「我ら全て、変わりゆく者なのだ」
ケツアルコアトルも同じく、何か含むような声で言った。
マージョリーは酒精の吐息に乗せて、少し笑う。
「ふふ、変わりゆく、ねえ。たしかに時が経つほど、いろんな酒が出てくるみたいだけど」
「私からも、討ち手の大義を説く檄文が欲しいそうだ」
と、イーストエッジは自分から、手紙の内容について触れた。
「欧州で、未だ態度を不明瞭にしている者、[革正団]の企図にややの感銘を受けている者らの目を、我らの確たる言葉で覚ましてやって欲しい、と」
「なんとも、見込まれたものだ」
ケツアルコアトルまでもが、呆れ半分、感心半分の声を漏らす。
この二人のめったに見ることのできない動揺の様に、マルコシアスは大笑いした。
「ギィヤーッハッハ! おめえらの吐く言葉なら、アルファベットの一つにも100万ポンドの重みがあるだろうぜ!」
マージョリーも鼻で笑う。
「ハッ、有名人の説得力を借りたい、ってわけ? 自分で道も決められないなんて、最近のフレイムヘイズってば軟弱ねえ」
「自分の道を進みすぎってのも考えもんだがよ。こんな時期に、一人遡って新大陸に来るってのも……っと、合衆国だな、アメリカ大陸!」
騒ぎかけたマルコシアスは、慌てて言い直した。
イーストエッジとケツアルコアトルは、アメリカ・インディアン側に立つ者として、西洋人が発見したと称する観点からの呼び名である『新大陸』の呼称を嫌っている。
訂正を受けて、尊崇を受けるフレイムヘイズは明確に返答した。
「この話、たしかに受けた。平穏を乱すこと、我らが世の陰にある意味を、文字に記そう」
マージョリーはグラスを掲げ、乾杯をして見せた。
「そりゃけっこーなこと。さっさとあっちの戦いが終わってくれないと、あんたたちも大変でしょうしね」
「あんなとっぽい兄ちゃん、物見に使わにゃなんねーくれえの人手不足たあな。いくら〝
蜴の帥〟が付いてるっつっても、ちーとヤバ過ぎだぜ、ヒッヒッヒ!」
笑うマルコシアスに、先と別の感情を込めた視線が向けられる。
「あの少年──」
イーストエッジは、ユーリイのことを、こう呼んでいた。
「──を、どう思う?」
「……」
マージョリーは答えず、視線だけを板壁一枚挟んだ向こう、外界宿の副業兼隠れ蓑たる『イーストエッジ外信』の事務所側へと流す。
薄い壁越しに、来客の相手をする元気なユーリイの声が聞こえていた。
「はい、アイルランド版ですね、入ってます!」
フレイムヘイズや〝徒〟とは関係のない人間社会で、なんの違和感もなく過ごしている、溌剌とした明るい、声が。
「うちのペーパーはどうです? あ、そうですか、はは……」
マージョリーは数百年の戦歴を持つ討ち手として、少年の見せるそれら、あまりな真っ直ぐさを、
「向いてないわ」
一言、容赦なく斬って捨てた。
「百年ももてば、ある程度、人格は練られるかもしれないけど……まず、そうさせるための執着になる、〝徒〟への憎しみと怒りが感じられない」
「そうか、やはりな」
イーストエッジは予想された答えに、硬い面相をさらに強張らせた。
マージョリーはグラスをカウンターに置いて、呟く。
「それに、あいつ……」
ここに来る前に見た、少年の不審な表情を思い出す。
(──「……いえ、なんでも!」──)
世界のバランスを守る、という道理によって作られた物。
でありながら、理非を超えた感情によって歩んでゆく者。
討滅の追っ手・フレイムヘイズ。
少年の表情に垣間見えたものは、その存在にとって、なにか相容れない因子であるような気がした。
「……どっか、おかしい」
「そうだ。尋常の討ち手ならば、復讐を果たすために、苛烈な戦意と酷薄な打算を両立させている。しかし少年は言動の端々、胸の奥に……在ってはならない狂いを持っている」
「危険すぎて、とても戦いには出せない」
イーストエッジは頷きを戻さず頭を垂れ、ケツアルコアトルが呟く。付き合いが昨日今日ではない彼らにとって、ユーリイの持つ危険性は、より大きな心配事であるらしかった。
その様に、マージョリーはようやく得心の入ったように溜息を吐く。
「やっぱり、あの封絶の中に入ってきたのは、あんたたちの指示じゃなかったのね」
「ッハ、なーるほど。仮にも〝千変〟みてえな大物とやり合った場所に、終わった早々新兵さんがノコノコやってくんだからよ。ガキの火遊びにしちゃ、度が過ぎるってもんだ」
こと戦いに関してはシビアなマルコシアスも、軽く馬鹿にした。
マージョリーは頬杖をついて、置いたグラスの縁を指でなぞる。
「で、なに?」
この男が無駄話を好まないことは、よく知っている。訊いたからには、なにかしたい、なにかしてもらいたいのであろう。
果たしてイーストエッジは言う。
「見ての通り、今のマンハッタンには、お前たちの他には我々、二者四人の討ち手が在るのみだ。常なら〝徒〟も恐れて近付かず、少年にも注意を喚起するだけで済んできたのだが」
「我々は、ここを動かない」
ケツアルコアトルが、『星河の喚び手』を始めとする『大地の四神』らが独自に持つ苦渋の鉄則を、やはり宣言していた。
少年になんらかの措置が必要で、しかし彼らは動かない。
動けないのではなく、動かない……その訳を、かつて彼らと戦ったフレイムヘイズの一人として、今は友の一人として、マルコシアスは了解している。重く受け取り、軽く返す。
「へっ、分かってらあ。『大地の四神』の一柱がウッカリ外界宿空けて、もし万が一の事があったら、この大都会ががら空きになっちまう」
「すまん」
我儘への許しを請うイーストエッジを無視して、情厚き狼は相棒に求める。
「よう、我が──」
「分かってるわよ。新兵の監視に心構えの教育、でしょ」
マージョリーは皆まで言わせず、即答した。
「でも、あいつらを片付けるまでよ。そもそも柄じゃないんだから」
頬杖の上で渋い顔を作り、
「今度はよりにもよって、あの〝千変〟が相手だってのに……あー、やだやだ」
「裸見られる以上のハプニングはねーだろぜ、ヒャーッハハブッ!」
相棒を平手打ちで黙らせる。
マージョリーは、ユーリイを伴って、日も暮れかかったロウアー・マンハッタンの薄暗い街路を、どこへともなく歩いていた。一旦は取り逃がした(と本人は主張する)〝穿徹の洞〟アナベルグと〝千変〟シュドナイの気配は、未だ強く漂っている。やはり、あの芝居がかった怪人は、この島自体に何らかの用があるらしかった。
(気配察知の自在法で、いきなり戦闘に持ち込んでもいいけど……下手すると、護衛の〝千変〟だけ出てきて、あの〝徒〟が他所で事を起こす可能性もある、か)
(ま、今回は模範解答示さにゃなんねーこともあるし、自重だわな、ヒヒ)
足の向くまま、すでに根付いて長いチャイナタウンからリトル・イタリーを抜け、ソーホー地区に入る。行く手に、ミッドタウンの壮麗な摩天楼群が聳えていた。
(ふう、ん……模範解答、ね)
(お、ピンと来たか?)
そんな二人の、声なき会話にも気付かず、
「感激です。『弔詞の詠み手』さんの探索に同行させてもらえるなんて」
さっきからユーリイは、まるで遠足のように無邪気な声で話を続けていた。
マージョリーは適当に手を振って返し、
「イーストエッジの頼みだもの、しよーがないでしょ」
突然、大いに凄んで見せる。
「それより、約束忘れんじゃないわよ」
「……はい」
声に押されて少年は渋々頷き、ずれた眼鏡を戻した。
「もし〝徒〟と遭遇して戦闘になっても参加はしません」
言う腰からウァラクが、カチャンと短剣の鯉口を鳴らして言う。
「どのみち、今のあんたにできることって、チョロッと炎弾撃つことと、高速飛行くらいでしょ? 参戦しても迷惑なだけよ。早いとこ一人前の『魑勢の牽き手』として、私の『隷群』を使いこなして欲しいもんだわ」
契約した〝紅世の王〟の辛らつな評価はいつものことである。
「分かってるよ、ウァラク」
新米フレイムヘイズは苦く笑って、暮れ行くニューヨークを眼鏡に映した。
「でも、皆が留守の間に、このニューヨークを〝徒〟に襲われたってのに……討滅を他所からのお客さんに任せるなんて、少し悔しくてさ」
マンハッタン島中南部にあたるミッドタウン。その、ビルやアパートメントの作る低層の森から、幾つもの高層ビルが巨木のそそり立つように天を突いている。夜になれば、低層は暗く高層は明るい、不思議な夜景──実際には、貧困に喘ぐ者の多い低層部には電灯を付ける余裕もないだけ、という非常に世知辛い事情からなる──夜景が望めるはずだった。
「動けないイーストエッジさんはともかく、僕がいるのに……」
「約束」

早々に零れた危うい台詞に、マージョリーは一言、釘を刺した。
ユーリイは慌てて口を噤──まず、話題を逸らした。
「は、半世紀ぶりだと、ニューヨークも変わったんじゃありませんか?」
「……」
「まあ、来て一年の僕が言うのも変な話ですけど」
尊敬する大先輩のフレイムヘイズ、何度も外界宿で噂に上った(良い噂なんかほとんどないだろうに、と本人は自嘲気味に思う)『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーから、少しでもなにかを聞きたい、という意欲が声に隠れず、溢れ返っていた。
「その僕が見ても、日ごとに変わるほどですから」
「……」
「五十倍の歳月だと、よほど違ったんじゃないか、マンハッタンは一面荒野だったんじゃないか、とか思ったりして」
イーストエッジに請合った手前、マージョリーとしても、ただ突っぱね続けているわけにもいかない。釘を刺すだけでなく、ある程度は人格の見極めをして、効果的な掣肘をしておく必要があった。面倒臭さを声に隠さず、ようやく答える。
「……たしかに、ね」
根競べに負けたようで、少し気に食わなかった。
「とりあえず、街中に豚や馬が少なくなったのは結構なことだわ」
「豚?」
驚く少年へと、気に食わない気分で、面白くもない話を、つまらなさそうに話す。
「荒野どころか、ゴミ貯めだったわ。あっちもこっちも、豚だらけ、馬だらけ、糞だらけ、藁屑だらけ。港もダウンタウンもゴミが山積み。ハンターズ・ポイントなんか、毒ガス寸前の化学臭の底よ」
「そう、だったんですか……」
ユーリイには、一昔前の苛烈な都市環境について、いまいち想像力が働かないらしい。これで少しは黙るか、と思ったマージョリーの希望は、
「……許せません」
「はあ?」
しかしあっさり破られた。
「そんな酷い時代を乗り超えて、禁酒法もようやく廃止されて、今も大恐慌から皆が立ち直ろうと頑張ってる、そんな大事な時期に襲ってくるなんて、許せませんよ」
(こいつ……?)
マージョリーは、新米フレイムヘイズの言動が、自分の知るそれの在り様と違っている、どころか間違っている、そんな直感を得た。
(これが、イーストエッジの言ってた『在ってはならない狂い』か)
「そのアナベルグとかいう〝徒〟、ただ人間を喰らいに来ただけじゃなくて、『文明の──加速』でしたっけ、変なことを言ってたんですよね?」
「……ええ」
マージョリーの不審を他所に、少年は声に熱さを加える。
「人を喰らって世界を停滞させるのが〝徒〟だっていうのに、加速だなんて暴言にも程があります。あの〝千変〟シュドナイまで護衛に付けて、一体なにを企んでたのか……どんな悪事であっても、絶対に僕らが阻んで──!」
「ちーっと落ち着いたらどうでえ、兄ちゃん」
口舌が加速する寸前、マルコシアスが絶妙のタイミングで口を挟んだ。
「──えっ、あ」
ユーリイは、ようやく我に返り、
「……すいません」
反射的に謝って、俯く。また、ずれそうになる眼鏡を押さえた。
そうして、二人にして四人のフレイムヘイズは、無言のまま、歩く。
夕日を早々に隠すビルの谷底を、行き交う人々と自動車に混じって。
すぐ傍らを自動車が、ガリガリッ、と金属音を鳴らして走り抜けた。
それを契機にしてか、ウァラクが気だるい呟きを漏らす。
「あんたは人間に入れ込みすぎなのよ。いつまで人間のつもりでいるわけ?」
ユーリイは、気弱に笑うしかない。
「うん、分かってるんだけど」
「どーかしら、ね」
「……」
また少し歩いてから、少年は顔を上げた。道路の両脇から聳える壁の上、分厚いスモッグの向こうに、星も見えない暗さを染み込ませつつある、夕の空がある。
眼鏡に映るのは、心洗う星空ではなく、白々と光る真新しい街灯ばかりだった。
「……やっぱり、僕は変なフレイムヘイズ、なんでしょうか」
自分に向けられた質問だと気が付いて、マージョリーは少しだけ、目線を傍らに流す。
そこには、真摯な、答えを求める瞳が眼鏡越しに揺れていた。
(子犬みたいな顔すんじゃないわよ)
困惑しつつも、口を開く。
「まだ一年だったら、そんなもんでしょ」
我ながらの日和った答えに、『弔詞の詠み手』たる女傑は少し不愉快になった。
それを自分への不満と思い、ユーリイは肩を落とす。
「……イーストエッジさんからも、『おまえは変なフレイムヘイズだ』って、常々言われてるんです。他の、どんな討ち手の方々とも、僕は違うらしくて……訓練も受けているのに、欧州の戦いには行かせられない、って言われました」
(そりゃそーでしょーよ)
こんな甘ちゃんのひよっ子が行ったところで、犬死にがオチである。これならまだ、大戦期に乱造された『ゾフィーの子供たち』の方が、己の使命を理解し、憤怒憎悪にギラギラしている分だけマシだった。
その、今度は本当に抱いた不満が、つい口を突いて出る。
「なんで、あんたみたいなのが契約でき──っと」
しかし、その不用意な問いに、ユーリイはまた笑い返した。
「分かってます、僕は……」
「あー、兄ちゃん」
マルコシアスの制止にも、首を振る。
「僕は……いえ、僕らは一年前、アメリカに向かう移民船で、〝徒〟に襲われました」
「海魔……まだ、そんなのが」
マージョリーは少し驚いた。
海魔というのは、海洋上で人を襲う〝徒〟の総称である。
絶海に孤立した密室、しかも大人数を一挙に喰らうことのできる長距離就航の旅客船は、〝徒〟にとって格好の餌場だった。フレイムヘイズの同乗でもなければ助からない、しかしフレイムヘイズが乗っている船を〝徒〟は襲わない……なんとも厄介な環境だった。
古くは北洋から地中海等の近海に多かったため、まだフレイムヘイズにも察知と対処は可能だったが、定期的に大きな船が就航する時代になって以降、この阻止は、ほとんど運次第という状況になっていた。
外界宿が多く港に存在するのは、交通の便が良い、という目先の理由のみならず、この海魔への対処に、昔から彼らフレイムヘイズが腐心してきた証なのである。
とはいえ、一昔前、この無道を撲滅しようという機運がフレイムヘイズの間に高まり、大半の海魔は討滅された。狙われる定期航路には近隣の外界宿に在る討ち手が随時乗り込む、という予防策も取られるようになって、近年は被害の噂さえ珍しくなった。
はずだったのだが。
少年の脳裏に、移民としての惨めな光景が蘇る。
「あの狭く苦しい船底で、皆の人いきれにむせていたとき──」
まるで荷物のように扱われ、両親ともども船倉の最下層に放り込まれた。故国を見送ることさえできず、澱んだ空気と酷い臭いの底、暗く狭い場所に、皆で腹を空かして蹲っていた。不意に衰弱・発病して、アメリカの影すら見ることも叶わず死にゆく同胞も数多く見た。
自分はその中で、渡航にあたって父から贈られた物を手に、新天地を、求めて働けば手に入らないものはないという自由の国──それが妄想の産物であると、当時は知らなかった──への到達を、ひたすらに待っていた。父からの贈り物とは、当時は高級品だった眼鏡。
「のし上がるためには、学ばねばならない」
渡航を決めてから口癖のように言っていた父の、それは新生活への意気込みの表れだった。サイズが違っているのは、父の財力だと、度数を合わせるだけで精一杯だったからである。
そんな自分も含めた、なにもかもが一杯一杯の、行く先にある漠然とした希望のみに縋りついていた移民たちは……辿り着いた先で絶望することすら許されなかった。
人間としての旅が、海の上で終わったのである。
事件は、全く唐突に起きた。
船倉の最下層まで届く轟音と衝撃、悲鳴すら混ぜて俄かに騒がしくなる天井、そして、刺すように差し込む日の光……在り得ない、その光を遮る影は、もっと在り得ないもの。
缶詰の蓋を開けるように天井を剥ぎ取った、化け物。
巨大な蛸、腐った藻のような暗い緑色の光を撒き、うねり蠢く化け物だった。
腰を抜かす親切にしてくれた老人、周りを突き飛ばして走る知らない男、狂ったように叫ぶ可愛かった少女、泣き喚く傲慢だった船員、怯えへたり込む父、ただ祈る母……皆、化け物に触れる側から燃え、吸われ、消えていった(その、存在を失うという現象の感知が、フレイムヘイズたる者としての素質だったことを、後でイーストエッジから聞かされた)。
やがて、船体のきしむ音が響き、足元から冷たい海水が溢れた。実際には自分の方が海中に落ちていたのだが、もちろんその時点で冷静に状況を把握できるわけもない。数分で全身が麻痺し、死んでしまう冷水の中で、なおも放り出された人々を喰い続ける化け物、水の中で燃えて消える人々の光を、見続けた。そのために、なぜか眼鏡を押さえ続けていた。
ずっと上に、さらなる輝きを見せる海面があった。
しかし間に、人喰いの化け物が、立ちはだかっていた。
苦しんで、もがいて、上に向かおうとした。なのに、力が足りなかった。冷たい水をかく力がなかった。化け物を押しのける力がなかった。輝く海面に辿り着く力が、なかった。
(上に)
と望んだ。
(力を)
と望んだ。
(上に、向かう、力を)
と望んだ。
そのとき、
「…… ……── ──求める? 飛べない誰かさん?」
全く不意に、
「求める? 飛ぶことを」
気だるそうな、女の声が響いた。
「求めるのなら、誓いなさい」
不思議な声は、揺らいで燃える、ここではないどこかから響いていた。その広がりを感じながら、いつしか体は力尽き、水底へと沈み始めていた。意識は朦朧として、しかし眺めはどこまでも冴え渡って、頭上の海面を、立ちはだかる化け物を、見続けた。
どこからか響く声に、問うていた。
(誓うって、なにを?)
「私と、飛ぶ誓い」
なぜそんなものが見え、聞こえるのか。
「あんたの目の前にいる敵を、打ち破る誓い」
今、自分の目はたしかに、化け物と人の燃える光を、その向こうに輝く海面を、確かに見ている。自分の耳はたしかに、水圧に痛みを覚え、泡の感触を水の中に聴いている。
「そして、戦い続けるという、誓い」
しかし同時に、揺らいで燃える、幻想的な世界も見え、声もはっきりと聞こえていた。
(誓ったら、どうなる?)
「望みのままに、飛べるようになる。敵を打ち破る、力を得る。そして……あらゆる人の記憶から消え、絆を全て失い、人ではなくなる」
(そん、な)
「飛びたいという願い、戦うという意思、それだけが、誓いに代わる」
気だるい声は、しかし有無を言わせなかった。
父も母も目の前で火に変わって、化け物に吸い取られてしまった。新天地で暮らすための全て、移民として故国から持ち出した家財も全て、船ごと沈んでしまった。今、自分に残されているものは、遠く輝く海面と、その間に立ちふさがる、巨大な化け物。
それだけだったのに、
それだけだったからこそ、
「選びなさい。誓うか。それとも……」
ドクン、と、胸が打破の予感に高鳴った。
「諦めるか」
「──!」
ガボッ、と思うだけでなく、声として叫んだ拍子に、口の中へと冷たい海水が入り込んできた。観念的なものではない、残酷な実感としての死が、咽喉に肺に入ってきた。
必死にもがいた。
もがいて、心で叫んだ。
「いやだ!!」
と。
「誓いは……成された」
声が聞く間に近くなり、耳元で弾けた。
途端、今まで冷たい海中で死にかけていた体に、猛烈な熱さが満たされた。
のみならず、周囲の海水までをも沸騰させ泡立たせていた。
気付けば、望んだ場所へと、輝く海面へと、向かっていた。
その向かう先に、もう一つのものが、立ちはだかっていた。
化け物。
「戦いなさい! そのための力は、もう宿っている!!」
声が自分の中から響いてくる。
「うわあああああああああああああああああああ──!!」
湧き上がる熱が体の回りに渦巻き、吹き出す力が上昇の感触を与える。
バガン、
と硬く大きなものを砕いたような、妙に乾いた音が海中で響き、
「わ、あ────」
気付けば、深い紺碧を下に、広い蒼穹の中にいた。
手には、鞘に収まった短剣があった。それは、故国で眼鏡を得る際、父が断腸の思いで売り渡した、フヴォイカ家重代の宝剣に、そっくりだった。
怪物の爆発が、遠い下方の海中で起こったが、それはもはや、『魑勢の牽き手』ユーリイ・フヴォイカにとって、過去の残滓でしかなかった。
あらゆる人の記憶から自分が消えても、なんの意味もない。
絆など、家族を喰われた時点で、とっくになくなっていた。
それらのことに、全てが終わってから、ようやく気付いた。
「でも、後悔もしてるんです」
自分の契約について語り終えたユーリイは、歩きながら地面に眼を落とす。
「後悔? 契約したことに?」
「おいおい、そりゃねーぜ」
言ったマージョリーとマルコシアスに、少年は慌てて手を振って見せた。
「いっ、いえ、そういう意味じゃないです! 僕をあの地獄から救い出してくれたウァラクには、本当に感謝しています!」
「あたりまえよ」
とウァラク。
「それに今、イーストエッジさんの所にいさせてもらえることにも……まあ、欧州行きを許してくれなかったのは正直、不満ですけど……普通に移民としてやってきたよりも、たぶんずっと、恵まれた暮らしを送れていると思ってますから。ただ──」
「ただ?」
怪訝な顔をするマージョリーに、再び路面に眼を落としたユーリイは苦く、呟いた。
「あのとき、誰も助けられなかった」
(あっ)
「自分のことだけに精一杯で……」
(なーるほど、な)
マージョリーとマルコシアス、二人で一人の『弔詞の詠み手』は、ようやく理解した。
少年が漂わせる、違和感の正体を。
「今度くらいは、誰かを助けたいんです」
彼は、世界のバランスを保つことを使命とするフレイムヘイズの身で、人間に執着しすぎていた。本来持つべき熱意の方向が、完全に狂っていた。倒すべき〝徒〟ではなく、人間の方を向いていた。緊急避難的な契約によって己が身命を救われたがために、フレイムヘイズという存在に、なにか奇妙な幻想を……希望のようなものを仮託してしまっていたのだった。
違和感の正体、狂いの指す方向とは、つまりは『善意』なのだった。
この、自分が生き抜くことにおいて、容易に危険へと取って代わるものを、彼は存在の根底として持ってしまっていた。復讐者として生まれるはずのフレイムヘイズ。エゴによってようやく自身の悲境を受け入れ、生き延びることに執着できるという異能者。
ユーリイ・フヴォイカは、その例に倣っていないイレギュラーだったのである。
(こんな危険な子、戦いに使えるわけがない)
(向く向かねー以前の問題だったなあ、こりゃ)
相棒に次いで、マージョリーは少年の短剣に声をかける。
「ウァラク」
「分かってる。けど、どーしようもないでしょ?」
その気だるい声には、諦めが匂っていた。
マージョリーも、少年の抱える病魔の抜き難さを思い、眉を顰める。
復讐や執念という、手段を正当化する、ゆえに生き延びる力となるもの。
利害や打算という、冷徹に割り切る、ゆえに生き残る確率を高めるもの。
それらをなにも持っていない少年は、その場の感情で、非論理的に動く。生き延びたいと願う者、生き残ろうと望む者の行く手を、善意によって掻き回す、最悪の存在なのだった。
マージョリーにとっては当然の帰結としての、
「今すぐ帰りなさい」
しかしユーリイにとってはあまりに唐突すぎる、冷たい言葉が放たれた。
「え、えっ!?」
「すぐ外界宿に帰って、あと十年、まず人間として暮らしなさい。あんた程度じゃ、フレイムヘイズは務まらない」
「え、えっ!?」
自分の決意を示すつもりで語った契約の話、それが齎した、期待とは正反対の結果に、ユーリイは狼狽した。自分たちがうろついている目的で、せめてもの抵抗を試みる。
「でも、〝徒〟を探さないと」
「んなもん、出てきたら叩くだけのこった」
マルコシアスまでが無情に言う。
「そんな、無茶苦茶ですよ、『弔詞の詠み手』さん!」
「無茶も何もない。ここまでうろついて、まだ〝徒〟の目的も分からないような未熟者に付いて来られても迷惑なだけ」
「そんな」
「私たちは、分かった」
「えっ」
弱々しくなる抵抗に、マージョリーはとどめとして言ってやった。
「じゃあ、改めて訊くわ。〝穿徹の洞〟についての情報は、出掛けに教えた通り」
「は、はい」
ユーリイは必死に思い出す。
(──「どうぞ、広き世界にても数々起こしたる我が悦楽、『文明の加速』を、ご覧あれ! 加速させる我が行いを、人間たちへの礼賛を、ご覧あれ!!」──)
どの言葉も抽象的過ぎて、込められているらしい意味など、微塵も掴めない。
「こそこそ隠れてるくせに、どうして『ご覧あれ』なんて言ったのか。言った〝徒〟の性格と、今歩き回った結果から、私は奴の目的を推測できた。あんたはどうなの?」
畳み掛けるようにマージョリーは言う。
「おめえのレベルはその程度ってこった。帰ってじっくり考えな。もうガキは寝る時間だ」
マルコシアスにも、取り付く島がない。
このマンハッタンを守るため、腕利きのフレイムヘイズと一緒に〝徒〟と戦うことを望んでいた少年は、最後の希望と、自分の腰に目をやった。が、
「たしかに、分からないのなら、参戦の資格はないわね」
「ウァラク!?」
なんだかんだで優しいはずの〝紅世の王〟までもが、同行を諦めた。
頷いて、『弔詞の詠み手』は、少年ではなく短剣〝ゴベルラ〟に、別れを告げる。
「そういうこと。そろそろ見栄えのいい夜が来るから、行くわ」
「ま、イーストエッジにゃあ、『悪い』って言っといてくれや、〝
蜴の帥〟!」
一人、会話から取り残され立ちすくむユーリイに、背が向けられる。
「待っ──」
遠ざかる姿の端を掴もうと駆け寄る少年の手を、マージョリーは遠慮なく掴み、乱暴に放り投げた。
「──わあっ!」
無様に尻餅をついた少年に、背中越し、必殺の気合を込めた声が降りかかる。
「来るんじゃないわよ、絶対」
雑踏の奥に彼女の姿が消えた後も、少年は立ち上がれなかった。
迷惑そうによけて歩く人々の間、刺すように光る街灯の下、行き交う自動車の騒音の中、座り込んだまま……フレイムヘイズの残影を、ただ目だけで追っていた。