宇宙との出会い
現在、アニメーション監督という職業は当たり前の存在として世間に広く認知されている。しかし、このような認知を得るまでには、それなりの長い時間が必要であった。そしてその中で大きな働きを果たした一人が、富野由悠季監督である。
富野の経歴を簡単に振り返ってみよう(1)。
アニメーション監督・富野由悠季は一九四一年一一月五日、三人兄弟の長男として神奈川県小田原市に生まれた。本名は富野喜幸。富野家は代々「喜」の漢字を継いでおり、喜幸の「喜」の字もそこに由来する。富野は一九八二年まで、この本名で仕事をしていた。このほか絵コンテを担当するときは斧谷稔、作詞を担当するときは井荻麟のペンネームも使っている。
故郷である小田原という土地について富野は、そこまで思い入れを持って育ったわけではなかった。両親は、ともに江東区大島の出身で、小田原はあくまで「寄留している」土地という姿勢で、家も借家だったという。「そういう態度で親が生活をしていると、いくら小田原で生まれ育っても、そこを故郷と感じるのは難しい。〝地つき〟と呼ばれる、土地に根ざした感覚が生まれることはなかった(2)」。この〝根無し草〟、つまりデラシネの感覚は、後の監督作の中にも見つけることができる。
小田原に住みながら、一二歳まで髪をポマードでなでつけた「都会の子」として育った富野は、周囲から「坊やちゃん」と揶揄を込めて呼ばれていたという。そんな富野少年に大きな影響を与えたのが与圧服を撮影した写真だった。
父・喜平は、小田原の軍需工場で働いており、風船爆弾の開発や、高高度で飛行する戦闘機パイロットが着用する与圧服の研究・開発に携わっていた。与圧服の写真も、そうした研究・開発の過程で撮影されたものだった。写真の中の与圧服は、宇宙服の原型を思わせる姿をしており、富野少年に強い印象を与えた。この写真による素地があるところに、一九五一年には映画『月世界征服』(アーヴィング・ピシェル監督)と、漫画『アトム大使』(手塚治虫)との出会いが加わった。こうして富野少年は、宇宙飛行への関心を深めていく。
中学一年生になった富野は、少年雑誌などで得た知識をもとに、月世界への旅行の方法について詳細なレポートをまとめる。また民間の科学解説者である原田三夫が主宰する「日本宇宙旅行協会」にも入会して、宇宙に関する知識を蓄えている。インタビューでしばしば「自分の宇宙に関する知識は中学校の時に調べたことがすべて」と語るが、それはこうした活動のことを指していると思われる。
虫プロ入社
このほか中学・高校時代の富野は、水彩画やペン画を描くだけでなく、日記や散文なども多数執筆した。こうした活動が、のちの創作活動に繫がっていくことになる。
日本大学藝術学部映画学科に進学した富野は、同学年の足立正生が監督した『鎖陰』に打ちのめされ、授業のほうはほどほどで、むしろ自治会活動に熱心にコミットすることになる。当時の同大学自治会は、自民党との接点が深く、富野はそこで組織と権力の一筋縄ではいかない関係を目の当たりにした(3)。
富野はアニメーションにそこまで関心があったわけではないが、一九六四年の大手映画会社は求人をしておらず、映画業界への道は閉ざされていた。一方、一九六三年から本格的TVアニメ第一号『鉄腕アトム』の放送を開始した虫プロダクションは、一九六四年春の大学卒業見込み者の求人を行っていた。母から虫プロダクションの求人を知らされた富野は、同社の入社試験を受け合格。こうして富野はアニメーションの世界で生きていくことになった。
キャリアの五段階
アニメーション業界に入ってからの富野のキャリアは大きく五つの時期に分けられる。
まず一九六四年の虫プロダクション入社から一九六七年のフリーになるまで。駆け出しの演出家としてさまざまなチャレンジを行っていた時期といえる。
次が一九六七年から一九七七年までの一〇年間。この時期は、「絵コンテ千本斬り」などと呼ばれ業界の便利屋的な仕事をしつつも、一九七二年には実質的初監督作『海のトリトン』を手掛けている。一九七五年以降は、ロボットアニメを手掛けることが増え、その過程で自らの演出スタイルを固めていく。この一〇年が、演出家・富野由悠季の原型を形作った時期といっていいだろう。
そして同じく一九七七年から一九八八年までの約一〇年は、ロボットアニメというジャンルの可能性を追求していく時期。作品でいうと『無敵超人ザンボット3』から『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』に至る時期にあたり、ロカルノ国際映画祭で名誉豹賞受賞の理由となった「ロボットの表現に革命を起こした」という業績は、主にこの時期の仕事によるところが大きい。
一九八九年から一九九八年までは「迷いと再生」の時期といえる。富野は『機動戦士ガンダムF91』(一九九一)、『機動戦士Vガンダム』(一九九三)と、新たなガンダムを世に送り出すもその後、心身の調子を崩してしまう。そのときの状況や心境は自伝的エッセイ『ターンエーの癒やし』(角川春樹事務所)に詳しいが、激しい目眩や耳鳴りに悩まされ、うつ症状の自覚もあったという。そうした状態からのリハビリとして『ブレンパワード』(一九九八)を制作し、そこで再びTVシリーズへと復帰する。心身の不調を経過したこともあってか、作品の肌触りがここで変わってくる。本質は変わらずとも、切り口や着地点に変化がみられるのだ。
最後は、一九九九年の『∀ガンダム』から現在に至る約四半世紀の時期である。二〇一四年には『ガンダム Gのレコンギスタ』を監督し、二〇一九年から二〇二二年にかけて同作を全五部作にまとめ直した劇場版『Gのレコンギスタ』を発表。この映画が現時点での最新作である。この時期の作品は、風通しのよい雰囲気の中に、人類の文明の行く先への思いを込めた作品が続いている。
アニメーションに「作者」はいるか?
富野がアニメーション監督の認知に大きな役割を果たしたのは、一九七七年から一九八四年いっぱいまで続いた「アニメブーム」の時期に当たる。この時期は、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』をきっかけに、それまで子供(小学生)向けと思われていた「テレビまんが」「漫画映画」が内容的にも進化し、ティーンエイジャーの熱狂的な支持を得ていることが広く知られるようになった時期である。先述の富野のキャリアに当てはめると、一九七七年から一九八八年にかけて、ロボットアニメに革命を起こしていた第三期の前半に相当する。
そもそもアニメーション監督が社会的認知を得るとは、どういうことだろうか。それは、端的にいうと監督が作品の〝作者〟であり、作品制作は固有の価値観を持った〝作家〟によって行われた、ということを、世間がちゃんと理解するということである。隣接領域の実写映画を想定すれば、その認識はごく当たり前のことだが、TVと映画館を中心に流通するメジャー系アニメーションの場合、それは決して単純な道のりではなかったのだ(個人制作が中心のインディペンデント系の作品はまた状況が異なる)。
アニメーション監督が社会的認知を得るには二つの段階を経る必要があった。第一に、アニメーションの制作工程において「監督」という職能が確立する段階である。それが確立したからこそ、集団作業であるアニメ制作の中にあって、監督は「制作者集団を代表する棟梁である」ということが、スタッフの共通認識となったのだ。
その次の段階として必要なのが、世間がそのことを理解することだ。「アニメーション制作には監督が必要であること」を知り、「その監督は〝作者〟〝作家〟と呼びうるだけの権限や感性を有した存在である」ということを理解しないと、アニメーション監督の存在は世間では〝見えない〟ままである。
本章では、この「アニメーション監督」の職能と、社会的認知の過程を追うことで、『機動戦士ガンダム』のタイミングで、アニメーション監督・富野由悠季がどうして脚光を浴びるようになったかを確認したい。
アニメーション演出を変えた高畑勲
では駆け足ではあるが、まず監督の職能はいかに確立されていったのかを振り返ってみよう。
戦後の国産アニメーション史の大きなメルクマールとして挙げられる、国産初のカラー長編アニメーション『白蛇伝』(一九五八)。同作には、藪下泰司が脚本・演出としてクレジットされている。しかしこの時点での「演出」というのは非常に素朴なものだった。当時第二原画で参加していた大塚康生は、藪下が行っていたのはアニメーターがそれぞれに担当する各カットの調整であった、と回想している(4)。当時はアニメーションというものを成立させているのは作画=アニメーターである、という認識が現在よりもはるかに強かったのである。
この認識が東映動画内部で大きく変わるきっかけとなったのが、東映動画の長編六作目『わんぱく王子の大蛇退治』(一九六三)だ。
(引用者注:同作で演出とクレジットされた芹川有吾は)もともと新東宝で実写映画の助監督をしていた人ですが、ここでの芹川さんの登場には、かなり意味があるんです。それまで、演出というほどの演出がなされていなかった東映長編アニメーションに、はじめて本格的な演出手法を持ち込んだのが芹川さん。それ以前の演出家の人たちは、さっき話したとおり、演出家というよりもコーディネーター、調整係みたいな役割だった。芹川さんはそうじゃなくて、「演出が作品の全内容をリードする」という方針を持っていて、『わんぱく王子の大蛇退治』において、アニメにおける演出の次元を一段高めた人ですからね(略)。
高畑さんが非常に幸運だったのは、『安寿』と『わんぱく王子』で芹川さんについて、「演出とはかくあるべし」と教わったことだと思うんです。(略)アニメーションの作画集団のただ中にあって、それまでの演出家たちが従属的ポジションにいた、あるいは単に調整役として機能していたのに対して、「演出が全編の主導権を握る」というやりかたを芹川さんから学んだということです。で、その方式をさらに確固たるものに高めたのが、高畑さんの『ホルス』です。宮崎さんは、近くでそれをじっと見ていた。「『ホルス』で、はじめて本当の意味での演出というものが日本のアニメーションに確立されたんだね」と彼も言っていますよ(5)。
大塚の発言の中に出てくる高畑とは、当然ながら高畑勲のことだ。そして、高畑が初監督(クレジットは演出)として制作した『太陽の王子 ホルスの大冒険』が公開されるのが一九六八年。このように一九六〇年代半ばごろから、作品をまとめあげるには演出=監督の主導権が必要だという機運が出てきたことがうかがえる。
東映動画以外の他社についても、演出に関しては、おおよそ似たような状況にあったと思われる。たとえば一九六三年の『鉄腕アトム』で本格的TVアニメの時代を切り開いた虫プロダクションは、一九六五年の『W3』でチーフディレクター制を導入して、杉山卓がその任についている。この背景については「スタッフは外注が多く登用されたため、テレビアニメとしては初の本格的なチーフディレクター制がとられた(6)」と記されている。さらに一九六七年の『悟空の大冒険』になると、原作である手塚治虫の『ぼくのそんごくう』の枠を踏み越えて、総監督としてクレジットされた杉井ギサブローの想定したナンセンスなギャグ世界が展開されている。一九六五年の『宇宙エース』からアニメ制作に参入したタツノコプロ(当時:竜の子プロダクション)では、『ホルスの大冒険』が上映された一九六八年の『ドカチン』で総監督笹川ひろしというクレジットが登場した(7)。
当時のTVアニメは一話完結のものが多く、その点で各話の脚本・演出の裁量がかなり大きかった。そうした中でも、作品のトーンやマナーに一定の方向性を持たせるには、監督という役割が必要だという認識がTVアニメの発展とともに徐々に広がっていったことがうかがえる。
『巨人の星』と『あしたのジョー』
そして一九六〇年代後半から一九七〇年序盤にかけて、その状況はさらに一歩進むことになる。一九六八年には長浜忠夫監督の『巨人の星』が放送開始。その二年後の一九七〇年には出﨑統監督の『あしたのジョー』が始まる。どちらも人気マンガ原作のアニメ化ではあるが、長浜は劇的に盛り上げていく演出でアニメ版『巨人の星』を作り上げ、出﨑もシャープな演出でアニメならではの『あしたのジョー』の世界を生み出した。作風は違うが、どちらも演出家のカラーが完成作品からにじみ出ており、両作とも現在では二人の代表作として広く認識されている。
この二作の共通点は、主人公の人生を追う大河ドラマ的な構成を持つところにある。大河ドラマ形式の場合、各話完結のTVシリーズよりも、作品全体を見渡す存在が必要になる。こうした作品では、当然ながら監督の役割はより大きなものになる。
このように俯瞰してみると、アニメーションにおいて監督の職能が確立されたのは、一九六〇年代後半から一九七〇年頃にかけてと推察される。
富野が、初めての本格的監督作となった『海のトリトン』(一九七二)で、手塚治虫の原作を大胆に改作したり、最終回のどんでん返しを脚本陣に明かさず自ら執筆したりということが可能だったのも、監督という職能が確立された後の時期だったからだといえる。
『宇宙戦艦ヤマト』の「作者」は誰か?
しかし、である。それでもなお、この時点で世間はアニメーションに監督──それも作家と呼びうる監督──がいることには気づいていなかった。多くのマンガ原作付きアニメは〝原作者のもの〟であり、原作者自らがアニメを作っているという、根拠のないイメージを持っている人も多かった。
この認識が大きく変わるきっかけは、一九七七年から始まったアニメブームだった。
このアニメブームの背景には、一九六〇年前後に生まれた子供たちの成長がある。この世代はTVアニメ(正確にはTVの子供向け番組)とともに年齢を重ね、中学生になっても〝子供番組〟を卒業せず、むしろ積極的、主体的に楽しんでいた。そして同時に一部のTVアニメもまた、中学生以上も楽しめる内容へと踏み込むようになっていた。このニワトリとタマゴのような関係が、アニメブームに繫がった。その結果、それまで「テレビまんが」「漫画映画」と呼ばれていたアニメーションを「アニメ」と略称で呼ぶことが広く定着した。現在ではこのアニメが国際語化して、日本風のアニメーション作品は世界で「ANIME」と呼ばれている。
このブームの直接的な発火点となったのは一九七七年の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』の公開だ。『ヤマト』は、一九七四年に放送されたTVアニメ。当時としてはリアルなSF設定とメカ描写がティーンエイジャーに支持された。そしてそれが総集編の映画として公開され、大ヒットを記録したのだ。
ただしこの『ヤマト』の〝作者〟が誰なのか、というのはなかなか難しい問題をはらんでいた。後に裁判も行われ、誰が原作者かを争うことになった本作だが、ここでは「監督の職能」にポイントを置いて、整理をしたい。
まずTVシリーズの『ヤマト』では、現在行われている「アニメーション監督の職能」を三人が分担して担っていたと考えるとわかりやすい。その三人とは、西崎義展プロデューサー、監督・設定デザインの松本零士、演出の石黒昇である。
どういう作品を作るべきかというビジョンを持ち、スタッフを先導したのは西崎だったが、西崎はアニメーションの映像そのものを直接コントロールしていたわけではなかった。メカやキャラクターをデザインし、アイデアを提供して作品の個性を確立させた松本零士は監督とクレジットされ、絵コンテも一部手がけたが、その絵コンテを現場で使えるように修正したのは石黒である。一方、石黒はアニメーション制作の棟梁として映像作りに大きな貢献をしたが、『ヤマト』という企画の方向性そのものには基本的にノータッチであった。
このTVシリーズ『ヤマト』を再編集して作られたのが一九七七年に公開された劇場版だ。ここで監督としてクレジットされたのは、TVシリーズに監修として名を連ねていた舛田利雄である。舛田は、日活で『錆びたナイフ』(一九五八)などを手掛けた実写畑の監督である。当然ながら舛田は再編集の指揮はとったものの、『ヤマト』という作品の根幹を創造したわけではない。ちなみに劇場版では、松本は監督ではなく美術・設定デザインとして、石黒はアニメーションディレクターとしてクレジットされている。
こうした内実に対し、世間やファンから見たとき、〝『ヤマト』の作者〟は誰に見えていただろうか? 結果として、ファンや世間に対し積極的にメッセージを発信していた西崎、あるいはビジュアルイメージの構築やアイデアの提供で大きな貢献があり、コミカライズも手掛けたマンガ家の松本零士がヤマトの〝作者〟として見えていたのである。
また劇場版で舛田が監督として起用されたのは、映画館の館主に対して、劇場版『ヤマト』という企画を信頼してもらうためという側面が少なからずあった。当時の映画館主はアニメーションに監督がいたとしても、そんな知名度のない監督の作品を上映しようとは思わなかったのだ。そのため館主たちを説得する材料として、実写の映画監督の名前を使う必要もあった。実際、劇場版『ヤマト』がヒットした後に、ブームを受けて、さまざまなアニメの総集編映画が公開されたが、その多くに実写映画監督の名前がなんらかの形でクレジットされることになった(ただし、その関わり方は作品によってさまざまだった)。
大ヒット作の『ヤマト』だったが、このような背景により、『ヤマト』の作者として、〝アニメーション監督〟という役職が世間からピックアップされることはなかった。
『機動戦士ガンダム』が起こしたパラダイムシフト
『機動戦士ガンダム』が放送を開始し、ヒットしたのは、このような劇場版『ヤマト』ヒット後のことだった。『ガンダム』はまず、マンガ原作を持たないオリジナル企画だったので、原作マンガ家がアニメの直接的作者として認知されることはなかった。一方で、世界設定の構築や、キャラクターたちの内面的な造形、物語の内容の構築については、監督である富野が大きな役割を果たした。
例えば、放送開始の前年一九七八年夏に富野が提出した企画案では、すでにスペースコロニーと地球の独立戦争を舞台にした内容が固まっており、スペースコロニーの配置図も描かれている。また、物語開始時点までに、どのような歴史的な経緯があったかのバックストーリーも詳細に記されている。主人公のアムロ像も「一人遊びが好き」「他人に対してのつき合いの訓練ができていない」と、本編にかなり近いイメージが書かれている(8)。こうした作品の原型を提示したうえで、絵コンテなどの演出作業を通じて、富野は『ガンダム』を作り上げたのである。アニメーションディレクターの安彦良和、脚本家チームらメインスタッフの貢献が重要な部分を占めることはいうまでもないが、それでもなお富野の果たした役割は大きかった。
そのような意味で、富野は実写映画監督と近い形で、『ガンダム』を生み出したクリエイティブの棟梁であり、世間から見たときにも〝『ガンダム』の作者〟であるということが非常にわかりやすかった。しかも作品の演出面でも、従来のアニメよりもさらに踏み込み、登場人物の間に男女の関係があることを匂わせる演出や、人類の行く末を見通すような壮大なSF的なビジョンが盛り込まれた。子供向けとは言い難いこうした表現があったことも、これを送り出した人間を〝作家〟と呼びたくなる要素だった。かくして富野は、さまざまなメディアで大ヒット作『ガンダム』の〝作者〟として取り上げられることになる。
例えば富野は、劇場版が公開される一九八一年には、新聞や雑誌にさまざまな原稿を寄稿し、『週刊サンケイ』一九八一年八月二七日号では「山際淳司の人間観察誌 ヒューマンウォッチング」のコーナーで取材を受けている。さらに映画プロモーションの一環としてテレビ『小川宏ショー』やラジオ『オールナイトニッポン』などにも出演。さらに劇場版公開後の一九八二年八月一四日には、NHK教育で放送された若者向け番組『YOU』の「
映像はぼくらのホビーだ
─ヤング・アニメ・フェスティバル─」と題した特集に、手塚治虫と並んで、アニメの作り手を代表してゲスト登壇している。
こうした富野のメディアへの露出を通じ、世間はアニメにも「監督」が存在することを知ったのだ。そして、アニメにおいても監督の差配が作品を形作るうえで大きな役割を担っているということも知られるようになった。劇場版『ガンダム』三部作のヒットと連動しながら、このような世間の認知が浸透したことは、これ以降のアニメで監督が注目される流れを作ることになった。
先行する監督の長浜忠夫、出﨑統、あるいは『アルプスの少女ハイジ』(一九七四)などの高畑勲らは、アニメファンの中では知られた存在だったが、作品の知名度に比して、世間の認知はそこまで高くなかった。宮﨑駿についても、高畑作品の重要スタッフであった時期はそこまで名前を知られておらず、『未来少年コナン』(一九七八)、『ルパン三世 カリオストロの城』(一九七九)で一部にその存在を強烈に印象づけたものの、社会的認知は『風の谷のナウシカ』(一九八四)のヒットを待たなければならなかった。こうした状況を鑑みると、富野は社会的認知を得た極初期のアニメーション監督ということができる。
富野の認知はその後のアニメーション監督の扱いにも影響を与えたと思われる。例えば一九八四年に公開された『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』は、公開前特番がTVで放送されているが、そこには、河森正治監督(クレジットは石黒昇と連名)が出演し、自ら作品の解説を行っている。当時河森は二四歳で、本作が初監督。ファン的な知名度はさておき、世間的な認知は決して高いわけではない。だが、そこはもう大きな問題ではないのである。この段階ではむしろ「監督」が番組に出てきて語ることが作品PRにとっては大事だったのである。
こうした流れを踏まえると、劇場版『機動戦士ガンダム』三部作の特報・予告編には、キャストのクレジットはあるものの富野喜幸らメインスタッフの名前が一切出てこない、ということが極めて示唆的である。一九八二年夏の『THE IDEON』二部作でもそれは同様だ。
一方で知名度のある原作者・松本零士の名前をフックにしたい一九七九年の『銀河鉄道999』の予告は、逆にキャストのクレジットはないものの、監督であるりんたろうの名前はちゃんとクレジットされている。一九七〇年代末は、このように「アニメーション監督の名前を予告に載せるか載せないか」という一点をとってもまだばらつきがあったのだ。
そういう意味で、一九八八年の『逆襲のシャア』の特報・予告で富野の名前が大きくフィーチャーされているのを見ると、劇場版『ガンダム』以降のおよそ一〇年で大きなパラダイムシフトが起きたことが見てとれる。
「文化人」としての富野由悠季
このような長い歴史的経緯があってアニメーション監督は、作品制作の棟梁としての「作者」であり、同時に得難い個性を持った「作家」であるというふうに世間から広く認知されることになった。そしてそのトップランナーともいえる富野は、認知の結果として、〝文化人〟としてもしばしばメディアに登場することになった。これはつまりアニメーション監督の認知が進んだ結果といえる。
〝文化人〟にクォーテーションマークを付けざるをえないのは、その実態が定義しづらいからだ。あえて説明するのならば、その時代その時代に「人間や社会について自分なりの見識を持った存在」として受け入れられており、それゆえにその私見を語ることをメディアから求められる存在ということになるだろうか。学者だけでなく、小説家や映画監督も、こうした扱いを受けることが多いが、それもまた「人間や人間社会への洞察に富んでいるであろう」という理解に基づくものだ。実際、富野も「自分程度が語れるものか」という留保を付けつつも、上記のような機会があると、自分の視点で社会を語ることを避けない。
二〇一〇年に公開された『日本のいちばん長い夏』(倉内均監督)という映画がある。原作は、雑誌『文藝春秋』一九六三年八月号で行われた座談会だ。そこには軍人や政治家、銃後にいた人々など総勢二八名が集まり、一九四五年八月を振り返った。座談会を企画したのは編集者の半藤一利。この座談会は、二〇〇七年になって『日本のいちばん長い夏』(文藝春秋)として単行本化されている。
映画は、その座談会を再現ドラマとして構成したもので、〝文士劇〟をコンセプトとした。〝文士劇〟であるので俳優を専業としないジャーナリストや作家、マンガ家など現代の文化人、知識人──たとえば田原総一朗、市川森一、島田雅彦、江川達也など──がキャスティングされている。ここに富野もその名を連ねている。
富野が演じたのは、陸軍大将の今村均。この映画はそういう意味で〝文化人〟としてアニメーション監督が選ばれた、という見方をすることもできる。
この映画に限らない。特に二一世紀に入ってから、富野の活動の範囲は広がっている。二〇〇三年に金沢工業大学が始めた「ガンダム創出学」講座に関わり同大学の客員教授に就任している。また作家・評論家と座談した『戦争と平和』(徳間書店)、自作や生い立ちを通じて家族を語った『「ガンダム」の家族論』(ワニブックスPLUS新書)、各ジャンルの専門家と対談をした『ガンダム世代への提言 富野由悠季対談集』(角川書店・全三巻)なども出版されている。こうした場で語られたこともまた、富野の思想、世界に対するスタンスであるのは間違いない。メディアやその読者が「この事象について、あのひとはどう考えるのだろう」と思う存在がアニメーション監督である富野なのだ。これは一九八〇年前後のアニメブームの只中にいた世代が社会に出始めて、改めて富野の思想にダイレクトに触れたいと思った結果でもあろう。
以上が駆け足で辿った、アニメーション監督・富野由悠季の足跡であり、その受容のされ方である。しかし、本書では終盤に語った〝文化人〟富野由悠季という側面は、一旦カッコに入れておこうと思う。これから考えたいのは、創作物を通じて浮かび上がってくるアニメーション監督・富野の存在感である。
もちろん同じ人間だから、文化人として語る社会への視線や世界の把握の仕方は、作品にも色濃く反映されているのは間違いない。しかしここで大事にしたいのは、あくまでも映像中心に考える、ということである。映像の中にこそ宿る思想。それこそをすくい取ることで、「演出の技」と「戯作者」の両面に触れることができるのではないだろうか。