おわりに
「はじめに」では、なぜ演出家・戯作者、富野由悠季をテーマに取り上げるのかについて説明した。なのであとがきでは、少し個人的なことを記したい。
名古屋市で大学生をやっていたころ、ふとした拍子に再放送中の『機動戦士Zガンダム』を目にしたことがある。おそらくザッピングの途中の、「見た」というには短すぎるほどの一瞬の出来事だった。しかし、そのカットが非常に印象に残ったことを覚えている。
カット内容はとりたてていうことはないものだ。地球連邦軍の軍艦のブリッジで、無重力状態の中、艦長か誰かが宙に体を浮かせているだけのカットである。登場人物の動きも、止めでスライドしているだけだったように記憶している。もしかすると、腕ぐらい動いていたかもしれないが、その程度でしかない。にもかかわらず、それを見た瞬間、自分の中に「宇宙世紀の日常」というものが、ドンと伝わってきたのだ。
しかもよりによって『Zガンダム』なのである。難視聴地域に住んでいた僕は高校時代、『Zガンダム』を同級生に録画してもらい、毎週ビデオで鑑賞していた。第20話「灼熱の脱出」まではおもしろく見ていたものの、それ以降の先の三〇話分は、断片的には興味を引くところがあるものの、全体としてはどうにもうまく飲み込めなかった。この評価は今もあまり変わらない。そんな『Zガンダム』のなんてことはない一カットにインパクトを感じたことに、自分で驚いた。
この体験を通じて自分が学んだのは、自分が感じた「つまらなさ」とは別に、ちゃんと視点を持つことで作品の中に「見る価値」を発見できるということだった。当時はここまで具体的に言葉にはできなかったが、あの『Zガンダム』の一カットとの再会があったからこそ、作品を見ることに慎重になることができた。そしてこの再会は「やっぱり富野作品ってすごいのでは?」と改めて思うことにも繫がった。
その後は、生まれ育った静岡県の地元新聞社に就職したので、自分の人生で富野監督に取材をすることなどあるとは想像もしなかった。ところがその新聞社を辞め、二八歳で上京したことで、その機会が訪れることになった。
初めての取材は一九九八年春。上京後は『週刊SPA!』の契約編集として、ロングインタビュー「エッジな人々」を担当していた。そこで『ブレンパワード』放送に合わせて、インタビューできることになったのだ。このときインタビュアーをお願いしたのが、前年『20年目のザンボット3』(太田出版)を上梓した、今はアニメ特撮研究家として知られる氷川竜介さんだった。
取材は順調に終わったので、内容はもう覚えていない。印象的だったのは当時のサンライズ第一スタジオに道路側のドアから入って挨拶すると、富野監督が最初に、にこやかな顔で「いろいろあって今日の取材は中止になるかもしれません」といったことだった。こちらもそこそこ経験は積んでいるので驚きはしないが、富野監督が席をはずしたすきに、氷川さんが「大丈夫だと思うよ」と囁いてくれた。後で聞くと要は、ほかの一般週刊誌の取材も受けたので、『SPA!』として「企画バッティングするなら取材しない」となるかもしれません──ということだった。が今となっては、あれは一種の『SPA!』という媒体を〝歓迎〟してくれたサインではなかったかと思っている。
ここで氷川さんと縁ができたことをきっかけに、徐々にアニメライターの仕事をするようになった。仕事を始めて数年の間の転機も、富野作品が関係することが多かった。
例えば初めて藤津亮太のペンネームを使ったのが一九九九年の『機動戦士ガンダム 宇宙世紀vol.4』(ラポート)。富野ガンダムを総覧するというコンセプトのムックで、本文のほとんどを一人で書かせてもらった。同書の中では『逆襲のシャア』の原稿に思い入れがある。当時、同人誌『逆襲のシャア友の会』を読み、同書の基調をなす「作家の姿がダイレクトに反映された作品」という評価とは別のアプローチで『逆襲のシャア』を語れないかと考えて執筆したものだ。思考を巡らせるうちに、公開当時は「大失敗作」と残念に思っていた『逆襲のシャア』が「大傑作である」と発見することができた。
この発見は続けて、二〇〇三年開催の「アニメ感想文(評論文)コンテスト」の応募原稿でも宮﨑駿監督と並置する形で使い、そこで最優秀賞を受賞することができた。そしてこの受賞が最初の単行本『「アニメ評論家」宣言』(扶桑社)に繫がったのだった。この初単行本は現在『増補改訂版 「アニメ評論家」宣言』(ちくま文庫)として読むことができる。そして本書の第8章「演出と戯作の融合」もまた、一九九九年に思いついたアイデアをベースの一つとして書かれている。
その後もムック『ブレンパワード スパイラルブック』(学習研究社)を氷川さんと編集・執筆したり、アニメ雑誌『アニメージュ』で『∀ガンダム』の担当となって毎月誌面用に三五ミリフィルムをサンライズに切り出しにいったり、と富野作品との縁は続いていた。
振り返ってみると、ちょうど『ブレンパワード』から『∀ガンダム』へと、富野監督が不調期を脱して新たな作品に挑戦していく時期に、取材をする機会を何度も得られたのはとても得難いことだったと思う。そしてそうやって取材を重ねていく中で、もっと演出家・富野由悠季という側面に注目したいという思いが強まっていった。作品が醸しだす空気感の秘密はどこにあるのか。取材でも(編集部の求めがなければ)なるべく、演出の観点から質問を中心にするように心がけていた。
しかし富野監督の演出家という側面はそれだけで存在しているわけではない。もう片面の戯作者としての側面があってこそ、技が生きてくるわけで、その両輪がどのように連動しているかを含めて考える必要がある。そう考えて執筆したのが本書である。『機動戦士ガンダム』を楽しんだ小学生時代、『Zガンダム』と再会した大学時代、そして初取材以降のライターとしてのキャリアと、折に触れて刺激を与えてくれた富野作品に対し、ようやくその〝恩義〟の一部を返せたような気がしている。
ここで少し補足を記したい。
アニメーションは集団作業である。その中で富野監督がどこまで手を動かし、どこまでがスタッフの成果なのかを見極めるのは大変むずかしい。
そこで本書は、なるべく絵コンテ担当が斧谷稔(富野由悠季)とクレジットされている回を選んで論じた。第1話を取り上げているのが多いのはその結果である。もちろん第1話は、作品のムードを示すという役割もあるから、取り上げるのにちょうどいいという理由もある。絵コンテ担当が斧谷稔でない回に触れるときは、脚本と絵コンテ担当者の名前も記すようにした。富野監督は、ほかの絵コンテマンの回でもかなり手を入れるといわれているが、どこまで修正が入っているかは現状確認のしようがないからだ。今回は出版された資料を中心にまとめたが、ここから先は脚本や絵コンテなどの中間制作物の実物に直接当たった研究が必要な領域であろうと思う。
また、演出家・戯作者としての富野について考える、という趣旨から、各作品に関わったスタッフの仕事にそこまで触れることができなかった。各スタッフの力の集積が作品であることは間違いないことで、そこについては各種のムックなどを是非手にとっていただきたい。
制作工程でいうなら編集など触れられなかった要素も多いが、本書を富野研究の現時点での中間報告として、皆様に読んでいただければうれしく思う。
本書の成立にあたって編集の守屋佳奈子さんには大変お世話になった。原稿を丁寧に読んでいただいたおかげで、本書はかなり間口の広い本になったと思う。また編集の松田健さんにも本書の最後の仕上げの部分で助けていただいた。どうもありがとうございました。
そしてやはり演出家・戯作者の富野由悠季監督にも感謝の気持ちを捧げたい。富野作品は、「アンチテーゼの運動」でできている。富野自身の思想──例えば家族について──は、保守的といえる。しかし、作品は、その思想を反映しつつ、そこにアンチテーゼを盛り込むことで破れ目を作り、多様な解釈を可能にしている。この止まることのない運動は、インタビュー中にもしばしば見られる。富野は取材中、持論をひととおり述べたあと、「……という考え方もありますが」と、そこまで語った内容を相対化し始めるときがあるのだ。これも、頭の中で「アンチテーゼの運動」が起きた結果といえる。富野作品が個別の「おもしろい/おもしろくない」を超越して刺激的で挑発的なのも、この「アンチテーゼの運動」の産物なのは間違いない。だから僕は富野アニメについて原稿を書くことがおもしろいと思えたのだ。
この「アンチテーゼの運動」によって富野監督が、さらに遠く、さらに高い場所へと歩んでいくことを祈っています。
二〇二四年一二月二一日
藤津亮太