戯作者・富野は、「自我/科学技術/世界」という構図を一つの軸として物語世界を展開してきた。この構図は『機動戦士ガンダム』のニュータイプが原型となり、『伝説巨神イデオン』でイデを描くことを通じて明確化された。富野自身が意識的かどうかはわからないが、第7章、第8章で検討したとおり『聖戦士ダンバイン』、『機動戦士Zガンダム』、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、いずれも作中にこの構図を発見することができる。
 第5章で引用したとおり富野は登場人物の身の回りの出来事だけでは〝映画〟は成立しない、と考えている。〝映画〟になるには、作品全体を包含する哲学が、映像的なスペクタクルとして提示される必要がある。これを「自我/科学技術/世界」の構図に当てはめると、最後の「世界」に触れる部分が映像スペクタクルとして提示できれば、その作品は立派に〝映画〟たりうる、ということでもある。
 物語とは水平方向に織りなされ広がっていくものだ。これに対し、作品を包括する哲学がビジュアルとして表現された「世界」は、その一つ上に存在するレイヤーにあたる。戯作者・富野は水平方向に物語を紡いでいくが、ある瞬間、「科学技術」を介して、ポンッと垂直方向に跳躍し、「世界」に触れる、あるいは触れようとする。この〝跳躍〟こそが作品を〝映画〟にするために必要なことなのだ。
 しかし、ある時期から富野は、上部レイヤーへの跳躍を取り入れなくなる。その代わりに水平方向に進む物語の中に「故郷」かそれに相当する土地という要素が入ってくることになる。戯作者・富野のこの変化は、意図的なものか、必要に迫られてのものなのかはわからない。その二つが重なり合って生まれたものかもしれない。いずれにせよ一九九〇年代に入った『機動戦士ガンダムF91』、『機動戦士Vガンダム』になると、上部レイヤーを目指す跳躍は目立たなくなる。さらにその後富野は、「世界」という上部レイヤーを目指すベクトルとは異なる、新たな向かう先を見つけ出す。それは物語の広がる水平面を下から支える「大地」のレイヤーだ。そこでは「自我」は別の系路を介して、「大地」の存在を再発見するのである。

帰る場所のない物語──一九八〇年代まで

 この大転換がいかに起きたかを俯瞰するためには、まず一九八〇年代までの富野作品がいかに「故郷」かそれに相当する土地を欠いていたのかを確認する必要がある。
 富野作品の多くは、主人公の空間的な移動を伴う場合が多い。これは一種の〝旅〟と呼ぶことができる。〝旅〟は、富野作品が「主人公たちが大きな船に乗って動き回る」という設定をよく採用している以上、必然的な展開ともいえる。
「大きな船」は、旧来のロボットアニメなら〝基地〟として設定されていたはずのものだ。この〝基地〟を〝母艦〟、つまり「移動する基地」と再定義し直したのが「大きな船」の本質だ。大きな船を舞台にすることで、主人公たちの生活空間については毎回同じ船内の風景を使い回し省力化し、バトルなどの舞台になる外の風景は各話ごとに変化をつけられるというメリットがある。ある時期までの富野作品の主人公たちは、この制作上の効率の良さも含めて選択された〝旅〟=水平移動を生きながら、上部レイヤーの「世界」へと開かれる糸口を探している──というふうにまとめることもできるだろう。
 ここで念頭に置いておきたいのが「行きて帰りし物語」の構造だ。ジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』などで分析したとおり、多くの神話が「行きて帰りし物語」の構造を持つということは広く知られている。この構造は、主人公が何者かの召命を受け異世界への冒険の旅立ちに出ることから始まる。主人公は、さまざまな試練を乗り越えその結果として、かけがえのない宝やパートナーを得ることになる。そして主人公は、自らが得たものを持って現実世界に帰還する。このような内容を持つ「出立イニシエーション帰還」という構造は、意識的か無意識的かを問わず、さまざまな物語の中に発見することができる。「行きて帰りし物語」は神話に端を発し、現在は一つのストーリーテリングの形として広く浸透しているものだ。
「行きて帰りし物語」の構造をおさらいしたのは、富野作品がそうはなっていないことを確認するためだ。富野作品は登場人物たちの〝旅〟、水平方向への移動を描きながら「行きて帰りし物語」という形にはなっていない。それはそこに出立の基盤であり、帰還する先である「故郷」を欠いているからだ。この「行きて帰りし物語」からの逸脱が、(例外を含みつつ)一九八〇年代までの富野作品の一つの特徴といえる。

故郷の喪失──『海のトリトン』

 本格的監督第一作となる『海のトリトン』は、ポセイドン族に滅ぼされたトリトン族の生き残りの少年トリトンが主人公。人間に育てられたトリトンは、自分の出自を知り、海の支配者ポセイドンを倒すため、育った漁村を旅立つ。そしてその過程で、同じトリトン族の少女ピピとも合流する。こうした要素は「行きて帰りし物語」と重なる部分も多い。
 しかし、最終回である第27話「大西洋陽はまた昇る」の締めくくりはそうはならない。ついにポセイドンの本拠に着いたトリトンは、ポセイドン像を倒す。そこでトリトンは残酷な真実を知る。ポセイドン族はかつて、トリトン族に虐げられていた存在だったのだ。だからポセイドン族がトリトン族を滅ぼしたのだ。そしてトリトンがポセイドン像を破壊した結果、そのエネルギーで生き延びていた最後のポセイドン族の人々はみな息絶えてしまった。正義だと信じていた戦いが、憎しみの連鎖の鎖の一つでしかなかった虚しさ。
 トリトンは、最後にどこへともなく旅立っていく。生まれ育った漁村はもとより故郷ではなく、もはやそこに戻ることはできない。同時にこの海のどこにも、トリトン族の住まう場所は存在しない。戦いの旅を終えたトリトンには「行きて帰りし物語」における「帰るべき故郷」がないのである。
 このラストは、手塚治虫の原作漫画が用意したトリトン族の設定と、富野が思いついたどんでん返しのアイデアが組み合わさった偶然の結果ということができる。しかし、ここにはその後、富野作品でしばしば描かれることになる漂泊者の原型がある。

漂泊者たち──『イデオン』『ダイターン3』

 故郷の存在が薄く、漂泊そのものが主題となった作品が『伝説巨神イデオン』である。『イデオン』は、当初のタイトル案が「スペースランナウェイイデオン」であり、この言葉がCM前後のアイキャッチで繰り返し叫ばれたことに明確に示されているとおり、主人公たちが広い宇宙を逃亡し続ける物語である。
 物語は、植民星ソロ星で人類が、異星人バッフ・クランと不幸なファーストコンタクトを果たすところから始まる。ソロ星はまだ入植が始まってから年月が浅く、主人公ユウキ・コスモたちにとって「故郷」と呼べるほどの存在ではない。一方でソロ星を脱出した人々は、地球の位置をバッフ・クランに知られてはいけないという逡巡の果てに、やむを得ない理由で地球近くまで帰還することになる。しかし、彼らは地球側からは受け入れを拒否される。こうして一方的な故郷の喪失を越えて、物語は一気に終幕へと進んでいく。『イデオン』は作中に「故郷」と呼びうる場所の存在が希薄で、コスモたちはあてのない漂泊を通じ、イデの手のひらで踊っていることを自覚していく。
 この「故郷の不在」という主題を少しひねると『無敵鋼人ダイターン3』になる。主人公・破嵐万丈は人類を守るため、メガノイド(一種のサイボーグ)と戦う都会的な二枚目。『007』シリーズのジェームズ・ボンドを意識したようなキャラクターで、こういうタイプのキャラクターにおいてそもそも「故郷」が重要な役割を果たすことはあまりない。
 しかし、万丈にとって重要な土地は存在する。それは火星だ。万丈の父、破嵐創造博士はメガノイドを作り出し、その開発の場所として火星を選んだ。しかし万丈はその父を否定し火星を脱出、メガノイドの野望を打ち砕くために戦い始めた。万丈にとって火星は自らの業の根源、〝宿命〟の場所ではあるが、故郷とは呼べない。だから最終回である第40話「万丈、暁に消ゆ」の決戦の舞台が、火星になるのは必然だった。
 では万丈にとって地球は彼の「故郷」たりえたのだろうか。確かに彼はメガノイドの手から地球を守るため戦った。彼の信頼する仲間もまた地球の人間だ。しかし火星で最後の戦いが終わったあと、万丈は仲間たちのところへ戻ってこない。それぞれの人生に戻るため仲間たちは万丈邸を去り、屋敷は無人となる。ここは仲間たちにとって、かりそめの場所だったのだ。ラストシーン、朝日が昇る中、屋敷の一室に灯りが点く。万丈は帰還したのか。帰還したとしても、無人のそこは「故郷」ではないだろう。サブタイトルが暗示する通り、万丈は何処へともなく去ったのである。故郷を持たない人間は、どこにも帰ることはできないのだ。

例外としての『ザンボット3』

 富野作品の中でもっとも「行きて帰りし物語」の構造が効果的に使われているのは『無敵超人ザンボット3』だ。例外的な一作といってもいい。
 同作の主人公・神勝平はある港町に暮らす中学生。ライバルの香月とバイクで争ったり喧嘩したりする毎日を過ごしている。アキとミチは、そんな二人を心配しながらも見守っている女生徒だ。勝平は一族の先祖が海中に隠した、巨大ロボット・ザンボット3のパイロットとなり、異星人ガイゾックと戦うことになる。しかしその戦いは、地域の住民を巻き込むことにもなり、被災した香月やアキ、ミチ、そのほかの住民から責められたりもする。
 ガイゾックとの最終決戦は、宇宙で行われる。勝平たち神ファミリー──彼らは遠い昔にガイゾックから逃げて地球にやってきた宇宙人の子孫である──は、女性と子供を地球へ脱出させ、男だけで決戦に挑む。戦いの果てに勝平はガイゾックの前に立つ。その正体は、「邪悪な生命の抹殺」を命じられたコンピュータードール第8号だった。「人類は邪悪ではないのか」「この地球にお前たちの犠牲的行為を理解する人間がいるのか」。ドール第8号のこうした問いかけを抱え、ただ一人生き残った勝平は地球へと帰還する。
 富野は本作の狙いについて「乳離れ(1)」と話したという。ガイゾックとの戦いという〝旅〟は、勝平にとって自分たちを拒否する社会とのコンフリクトを実感する体験でもあった。このような試練の旅の最後に待ち受けていたのが、ドール第8号の問いかけだった。このイニシエーションを経て、勝平は乳離れをすることになる。
 ラストで勝平が帰還したのは、地元のアキやミチとの思い出の入り江。「故郷」を象徴する空間として、これ以上の場所はない。いち早く勝平の帰還に気がついたミチと香月に見守られ、気絶していた勝平はゆっくり目を開いていく。それは「生まれ直し」を思わせる描写で、「行きて帰りし物語」の見事な結末だ。

『ガンダム』シリーズの子供たち

 この『ザンボット3』のラストシーンの延長線上にあるのが『ガンダム』だ。しかし『ガンダム』は、「行きて帰りし物語」の構造からズレている。
 すでに詳細に読み解いた通り『ガンダム』は、アムロが、さまざまな人と出会い試練をくぐり抜け、人間的に成長し同時にニュータイプとして覚醒していくという内容で、これは『ザンボット3』と同様に、出立とイニシエーションの構図で出来ている。
 このイニシエーションの中に、第13話「再会、母よ…」(脚本:星山博之、絵コンテ:藤原良二)というアムロの〝乳離れ〟のエピソードが組み込まれている。アムロは一〇年ほど前に、地球の生まれ故郷を後にして、父テムとともにスペースコロニー・サイド7に移り住んでいる。そのアムロが、地球の故郷に立ち寄り、子供時代に別れたきりだった母親カマリアと再会を果たす。しかしアムロと母カマリアの間のギャップは大きく、二人は互いに喪失感を抱えて別れることになる。
 その後、アムロは第1話「ガンダム大地に立つ!!」で生死不明になった父テムとも、第33話「コンスコン強襲」(脚本:山本優、絵コンテ:斧谷稔)、第34話「宿命の出会い」(脚本:星山博之、絵コンテ:藤原良二)で再会し、ここでも精神的な親離れを体験することになる。
 では、このようなイニシエーションを経て、アムロはどこにたどり着いたのか。物語の開始地点であるサイド7は、アムロの故郷たりえる場所ではなかった。そして生まれ故郷は母とともに消え去った。イニシエーションを経てアムロは帰る場所のない漂泊者となったのである。だからアムロが最後に「帰れる場所」と呼んで向かうのは、自分とともにホワイトベースで苦楽をともにした仲間のもとなのである。
 このようにアムロは、出立しイニシエーションを経るが、その過程で帰るべき故郷を喪失したため、「帰還」をすることがない。限りなく「行きて帰りし物語」に近い要素で構成されながら、アムロは帰還することがないキャラクターなのだ。
『ガンダム』のこの構造を踏まえると、『Zガンダム』のカミーユの成り行きも帰還することのない「行きて帰りし物語」の変奏であることがわかる。
 主人公カミーユ・ビダンは、生活の場であるコロニーから出立し(第2話のサブタイトルは「旅立ち」である)、物語序盤で両親を失ってしまう。もはや戻るべき場所を持たないカミーユは、地球圏の複雑な内戦の中を戦うという試練を生きたが、酷薄な現実の中で、彼はアムロのように帰る場所を見つけることはできなかった。最後の戦いで精神的に崩壊したカミーユを、幼馴染のファが連れて母艦アーガマに戻る。だが母艦アーガマは、カミーユにとって決して故郷ではない。
「出立」と「試練」はあっても帰還する先を持たないことが悲劇になるのは『逆襲のシャア』も同様だ。実質的主人公であるクェス・パラヤは、家族に対する苛立ちが根底にあるキャラクター。最初に行動をともにしたアムロ・レイとハサウェイ・ノアは「あの人たちとは偶然知り合っただけ」(クェスの台詞)。その結果、帰るところのない精神的孤児はネオ・ジオンの総帥であるシャア・アズナブルを、精神的支えとして選ぶ。しかしシャアにとっては、クェスは〝使える兵士〟でしかない。その結果、彼女はそうとは知らずに実父を殺し、本当に孤児になってしまう。こうして帰る場所を最初から持たず、それを作ることもできないクェスの物語もまた、悲劇に終わらざるをえないのである。

あれども見えない故郷──『エルガイム』

 このような「行きて帰りし物語」からの逸脱の最も際立った例が『重戦機エルガイム』だ。『エルガイム』が奇妙なのは「故郷」は存在しているにもかかわらず、画面上に映像として明確に描かれることがなく、登場しても「故郷」を象徴するような映像的説得力もないというところにある。そのため物語全体が、「行きて帰りし物語」の構造をとろうとしているにもかかわらず、全編を見終えると、漂泊者の物語という印象のほうが上回ってしまうのだ。
『エルガイム』の舞台は、不老不死の肉体を持つ絶対的指導者オルドナ・ポセイダルが支配するペンタゴナワールド。ペンタゴナワールドは、二重太陽とその周囲を巡る五つの惑星で構成される。惑星コアムの片田舎に住んでいた若者ダバ・マイロードは、親友のミラウー・キャオを伴って故郷を旅立つ。旅の目的は行方不明の義妹クワサン・オリビーを探すこと。やがてダバは、自分がポセイダルに滅ぼされたヤーマン族のカモン王朝の正統な後継者であることを表明し、反ポセイダル勢力の旗頭になっていく。
 すでに確認した通り『エルガイム』は、渡邉由自がシリーズ構成を担当しているという、富野作品では珍しい作品だ。『エルガイム』は貴種流離譚であり、ヒーローが故郷を出立し、人々に自由を、自分にとって大切なものを取り戻していく、という構図の物語になっている。ダバが求めるクワサン・オリビーは義妹であると同時に婚約者であるので、そこも「行きて帰りし物語」の構図にちゃんと当てはまる。これはしばしば『トリトン』の構図とも似ていると指摘されることもある。
 しかし、なぜ漂泊者の物語という印象が強く残るのか。それは作劇上重要な場所であるダバの故郷、コアムの片田舎がほとんど描かれないという点にある。例えば第1話「ドリーマーズ」(脚本:渡邉由自、絵コンテ:斧谷稔)は、すでに村を後にしたところから物語が始まっている。そのためダバを育てた養父ハッサーも、その故郷の風景も一切出てこない。
 第13話「コンタクト」(脚本:渡邉由自、絵コンテ:かわこう)には、ダバの回想で養父ハッサーとのやりとりを描くシーンがあるが、そこに出てくるコアムの田舎の風景は、説明の範囲に留まっている描写で、象徴性に欠ける。そのため「故郷」の印象を深く与えるような表現にはなっていない。また第22話「クワサン・オリビー」(脚本:渡邉由自、絵コンテ:今川泰宏)などで、ポセイダルに禁止されたコアムの歌が歌われるシーンもあり、コアムの固有の風土を感じさせようという努力もあるが、それも全編を通じて回数が少なく、そこまで効果を発揮はしていない。
 やがてダバはクワサン・オリビーと再会を果たす。しかし、彼女はバイオリレーションという技術の影響で、ポセイダルによって一種の洗脳を受けた状態になっていた。最終的にダバたちはポセイダルを倒すが、結果としてクワサンの精神は崩壊してしまう。最終回「ドリーマーズアゲン」(脚本:渡邉由自、絵コンテ:杉島邦久)は新たな国家の再建が進む中、仲間に別れを告げたダバが、クワサンとともに故郷コアムへと戻っていくところで終わる。こちらも旅立つダバを見送る仲間たちの様子が描かれるだけで、コアムの風景はまったく描かれない。
 このように「行きて帰りし物語」の構造からすれば、「コアムの片田舎」は出立の場所であり、最後にダバやクワサンを抱きとめ、癒すかもしれない空間であるはずなのだが、そうした映像は一切出てこない。
 渡邉が提案した初期のアイデアでは、物語序盤の第8話「ヤーマン・クラン」あたりに相当するエピソードから物語を始める予定だったが、富野のリクエストで、序盤の手形をめぐるエピソードをあとから付け加えたものだという(2)。その点で渡邉も本作が「行きて帰りし物語」のつもりはなかったのだろう。
 いずれにせよ故郷の様子を映像で見せない演出が〝徹底〟されたことで、『エルガイム』は「行きて帰りし物語」と重なる要素を持ちつつも、そこから逸脱した不思議なまとまりの作品となっている。

運動を主題とする作品──『ザブングル』『キングゲイナー』『ZZ』

 もちろん「行きて帰りし物語」から逸脱した作品ばかりではなく、そもそも物語の構造が異なる、例外的作品もある。『戦闘メカ ザブングル』などは、「故郷なんか最初から知らないよ」といわんばかりのパワフルさが身上の作品だ。『ザブングル』において「故郷」はそもそも最初から取り上げられておらず、ドラマ内でも触れられない。パワフルなキャラクターたちが、その力にまかせて生きていく運動そのものが作品の見所で、それは最終回である第50話のサブタイトルが「みんな走れ!」であることに象徴される。故郷などに縛られず、どんどん運動し続けて遠くを目指していくことこそ『ザブングル』という作品の本分といえる。
 この運動そのものが主題といえば、一九九〇年代以降の作品になるが、『OVERMAN キングゲイナー』にも通じるものだ。『キングゲイナー』は、居住地として定められたシベリアから「エクソダス」(脱出)して、豊饒の大地ヤーパンを目指すという物語だが、最終回「ゲインオーバー」でもヤーパンには到着しない。これは『キングゲイナー』が「エクソダス」という運動そのものを描いた作品だからだ。
 また『Zガンダム』と『逆襲のシャア』の間に挟まれた『機動戦士ガンダムZZ』は、故郷であるスペースコロニー・シャングリラを「出立」はするが、主人公ジュドー・アーシタの根本的な動機は、敵のネオ・ジオンに連れさられ、その後行方不明になった妹リィナとの再会であり、試練・イニシエーションを描くという部分に力は置かれていない。むしろ彼がさまざまな難関を突破していく様子を、エンターテインメントとして示そうとした作品だ。
 このように例外はありながらも、一九八〇年代までの富野作品における「故郷」の存在の薄さは一貫しているといわざるをえない。

「根無し草」の限界──『ダンバイン』で生まれた自覚

 富野は自らの中に〝故郷〟やそれにまつわる〝風土〟がないと語っている。
『「ガンダム」の家族論』にはこのように記している。

 父と母がずっと言っていたのは、『私たちは小田原に寄留している』ということだった。(略)その態度は僕の中に徹底的に刷り込まれた。(略)〝地つき〟と呼ばれる、土地に根ざした感覚は生まれることはなかった(3)

 富野が少年から青年へと育っていく一九五〇年代は、高度成長期前半で、人々の生活が近代化、合理化が進んでいく過程でもあった。富野は当時の記憶として、若衆宿の名残である青年団が集まっていた小屋がなくなったこと、屋台を引き回していた祭りがなくなったこと、神社が道路の開発で丘陵の上から道路脇へと動いたことなどを語っている。

 思い起こせば、僕が高校生になったころから、急に地元の年上の人たちがいなくなったのだけれど、あれはみんな就職して東京に出て行って働き始めたからだった。
 ただ、こうした変化を肌で感じつつも、それが小田原という土地の風土と自分がことごとく断絶していることを意味するのだとわかったのは、しばらく後のこと。
(略)それでも二十代は、風土などと無縁の都会人として生きていけるのではないかと思ったりもしたが、子供を持ってからは、都会人というより、自分が単なる根無し草だということを実感した(4)

 この「根無し草」の感覚が、さまざまな作品において「故郷」の描写が薄いことに反映されているのではないか。むしろ「故郷」に背を向け帰還しないこと──そこには概念としての親も含まれるだろう──ことこそ、イニシエーションであるという発想が、一九八〇年代までの富野作品を貫いているということができる。
 これは『聖戦士ダンバイン』についても同様だ。『ダンバイン』は、ショウ・ザマという青年が異世界バイストン・ウェルへと召喚され、オーラバトラー・ダンバインのパイロットとなる物語だ。当時としては珍しい中世ヨーロッパ風の異世界が舞台である。
 その中でも第16話「東京上空」(脚本:渡邉由自、絵コンテ:関田修)、第17話「地上人たち」(脚本:同上、絵コンテ:菊池一仁)、第18話「閃光のガラリア」(脚本:同上、絵コンテ:井内秀治)は、シリーズの方向を決定づけたエピソードとして知られる。ここでショウは、敵パイロットと戦闘中に、オーラロードを通って地上へと戻ってしまうのである。ショウは、吉祥寺郊外という設定の自宅の前にダンバインとともに出現する。ショウの父は、政府に関わる仕事をしており、母はメディアにもよく登場する教育評論家。二人は、ショウが異世界から戻ったという事実を受け入れず、ショウのことを宇宙人呼ばわりする。
 両親から受け入れてもらえなかったショウは、ショックを受けながらも最終的にはあえて「宇宙人」を自称し、両親と別れる。
 富野は二〇二三年に『ダンバイン』の最後の幕引きについて、以下のように発言している。富野は、過去作のインタビュー前に当時のムックなどを再読することはあっても、作品そのものを見直すことはほとんどない。この発言は珍しく『ダンバイン』全話を見直した後でのものだ。
『ダンバイン』のラストは、ショウが「その怨念を殺す!」と叫んでライバルのバーン・バニングスと刺し違える。ショウは重ねて、味方である女王シーラ・ラパーナに「浄化を!」と呼びかける。シーラはその声に応え、地上に現れたバイストン・ウェルに関するものをすべて──ショウも含め──消し去るのだった。企画書の段階のあらすじでは、ショウはバイストン・ウェルから地上へと帰還するときに力尽き死んでしまうというラストが想定されていたので、まったく異なる形でのラストとなっている(5)

──ショウとバーンの刺し違えは、どの段階で思いついたのでしょうか?
富野 基本的に子供の立場で考えていくと、両親に絶望した時に、もう故郷に帰りたくない、と考えるでしょう。ショウとしては、ここで刺し違えてコモン界(引用者注:バイストン・ウェルの中でも地上界の人間によく似た人々が暮らす世界)に戻れるならという願望があったんだろうと思います。あれは一種の親に対する拒否権なんです。ただ同時にそれを観客に気取られたくもなかった。だから台詞としては、「その怨念を殺す」という言葉だけに止めてるわけです。そこは富野さん上手くやりやがったなと思います。幸せに育てられた子供ばかりでなく、そういう子供にとってのバイストン・ウェルでもあるわけで、そこは親たちがちゃんとわかって向き合えよ、と思っていたところです(6)

 富野の答えで興味深いのは、物語の幕引きについてライバルキャラとの因縁の決着よりも、ショウが親の生きている地上世界に戻ることを選ばなかった、ということを重視している点だ。このショウの心理は制作時に考えていた可能性もある。が、インタビューのタイミングや過去のインタビューの内容と照らし合わせると、むしろ制作から四〇年を経て富野が過去の戯作を自分なりに読解した評と考えたほうが自然であろう。ここで大事なのは四〇年後に、『ダンバイン』を改めて、「故郷の喪失」と「故郷に帰還しない物語」として読解した富野の視線だ。むしろそこに富野の中に一貫したものがあることが感じられる。ちなみにこのようなラストなので『ダンバイン』もまた「行きて帰りし物語」のようでありながら、そこから逸脱した物語として成立している。
 ショウの親子関係という個人の物語を、富野がしばしばいうところの〝私小説的〟なものに止めないために、「世界」を希求するジャンプが必要となる。『ダンバイン』の場合は、それがバイストン・ウェルの存在にあたる。バイストン・ウェルという世界があることで、ショウの自我を巡る物語が、「おとぎ話」のような「バイストン・ウェルの物語」へとくるまれていくのである。
 一方で『ダンバイン』が重要なのは、先述した富野の「根無し草」であることが、単に個人のスタンスだけにとどまらず、ある種の弱点でもあることを自覚させた点にある。
 富野はショウの両親の設定やショウの実家の設定がどのように決まったかについてこう語っている。

 そこはよく覚えてない。初めからあの形で固まっていたわけではないような気がするけど、それにしてはちゃんとハマっているんですよ。あとショウについては自宅が吉祥寺という設定なんだけれど、そこに違和感はずっとあるんです。直感的なものでもあるけれど、モトクロスのレーサーを目指すような子は、吉祥寺の子ではないような気がする。そこにミスマッチがあったんじゃないか、と今回、感じました。地方で育った人間を想定すればまた違ったキャラクターになったんじゃないかと思っています(7)

 富野は『ダンバイン』をベースに自ら『オーラバトラー戦記』という小説を執筆している。そこでは主人公はショウではなく、ジョク(じようたけし)という別の主人公になっている。これもまた、ショウに欠けていたものを補おうとした結果だった。

 ただジョクはジョクで反省があって。ジョクは「城」という名字を選んだことからもわかるとおり、最初は沖縄出身という要素を入れようと考えたんです。お話しした通り地方出身者のほうがいいだろうという直感があったので。でも実際に書き始めてみると、小田原と練馬区ぐらいの狭い世界しか知らない自分には、地方人のメンタリティがわからない、ということに直面したんです。だから作中では沖縄出身という設定は特には描きませんでした(8)

 富野が『ダンバイン』の主人公に、風土を感じさせる要素を取り込もうとしたのは、やはり作品固有の要請が大きかったと考えられる。バイストン・ウェルという非常に個性的な異世界を背景にしたとき、登場人物それぞれに、人種や出身国の国柄、生まれ育った土地の気風などが見えないと、異世界の風景に登場人物が負けて見えてしまうからだ。また現代が舞台という点から、人種や文化がある程度混淆した遠未来を舞台とした『ガンダム』や『イデオン』などでは出来なかったことへの挑戦でもある。
 この挑戦で富野は自分の中に「風土」というものが欠けていることを自覚したのではないか。この自覚こそが一九九〇年代に入り、作中に「故郷」が登場するようになる遠因であろう。

九〇年代の模索──『F91

 富野は「世界」を目指して跳躍するという方法論で『逆襲のシャア』まで作品を作り続けることになった。そしてその後も、仕切り直しをしてまた新たな『ガンダム』シリーズを制作することを求められる。映画『機動戦士ガンダムF91』がそれにあたる。
『F91』は当初想定されていた物語の冒頭部分だけを映画化したものなので、最終的にどういうプランニングだったのかは不明だが、映画の中においては、ニュータイプをベースとする「世界」にまつわる描写が(ほぼ)登場しないという特徴がある。ニュータイプという言葉も「パイロット特性のある人」(作中におけるシーブックの台詞)程度の意味で使われ、描写も基本的にはその範囲に留まっている。
 一つはニュータイプで一度、「世界」に触れるアムロとララァを描いてしまった以上、同じことはできない、という事情はあっただろう。『Zガンダム』で、精神の合一を行う「ギャザー・スタイム」のアイデアを採用しなかったのも、ニュータイプを前提にさらに似たような跳躍を盛り込もうとすると、「屋上屋を重ねる」ことになりかねないからだろう。つまり『ガンダム』ではあるが、過去作と同じ跳躍を加えることはできない、という縛りの中で制作されたのが『F91』と考えることができる。
 こうしてみると『F91』は「故郷」をめぐる物語ではなく、それを〝映画〟へと昇華する跳躍もなく、極めて過渡的な作品であったことが見えてくる。逆に『F91』は二組の親子のドラマを組み合わせた地に足のついたドラマとしての魅力はあり、そこを愛するファンも多い。しかし、富野の自己採点が「映画って凄いなと改めて思ったのは、映画でないものは拒否する。(略)だから『F91』は徹底的につまらなかった(9)」と低いのは、映画に必要な何かが欠けているという自覚があるからだろう。

大きな転機──『Vガンダム』

 では、上部レイヤー「世界」への跳躍なしに、作品を映画たらしめるものを見つけることはできないのか。そこを探っていくのが『機動戦士Vガンダム』であった。『Vガンダム』が大きな転機なのは、本作は『ザンボット3』以来久しぶりに「故郷」と呼べる風景がちゃんと描かれた作品だからである。
『Vガンダム』は宇宙世紀〇一五三年。最初の『機動戦士ガンダム』の時代から八〇年近くが経過し、前作『F91』からも三〇年が経過している。これは過去のシリーズの主要登場人物が絡まないようにして、作品を独立したものにするための配慮という側面が大きいだろう。本作は、東欧の都市ウーイッグ(現実のプラハに相当)郊外にあるカサレリアという土地から始まり、カサレリアに戻ってきて終わるのである。
『Vガンダム』は、スペースコロニーのサイド2に誕生したザンスカール帝国が、周辺のコロニーを制圧し、地球侵攻を始めている、という状況から始まる。カサレリアは宇宙から地球に勝手に帰った不法移住者が自活をしている地域で、主人公ウッソ・エヴィンは、ここに少女シャクティ・カリンとともに暮らしている。ウッソの両親は、反ザンスカール帝国活動のためウッソを置いて、宇宙へ旅立ったまま、行方不明である。
 カサレリアには半円状の大きな崖があり、それにより土地の〝顔つき〟がはっきりと印象に残るように演出されている。やがてウッソたちは、反ザンスカール活動を行う市民軍リガ・ミリティアに合流し、長い〝旅〟に出ることになる。しかしその間も、カサレリアの存在感は薄れない。
 やむをえずウッソとともにカサレリアを離れたシャクティだが、その後もカサレリアに戻ろうとする。また第11話「シュラク隊の防壁」(脚本:おけあきら、絵コンテ:加瀬充子)では、戦闘中に森の中で一心にヤナギランの種を植えようともする。ヤナギランは、離れ離れになった親へのメッセージのために「自分がここにいるという目印」として、カサレリアで植えていた花である。
 また第15話「スペースダスト」(脚本:ごうかずひこ、絵コンテ:西森章)では、宇宙に出たウッソが遭難した敵兵と偶然出会う様子が描かれる。ここで殺気立った兵士ゴッドワルドに対し、ウッソは酸素ボンベを手渡す。その好意を拒否されるとウッソは「カサレリアでは……僕の故郷では、旅人や困った人にはいつもこうするんです」と応える。やがて和解したゴッドワルドにウッソは、「カサレリア」という言葉が「南太平洋の言葉でこんにちは、さよならっていう意味です」と説明する。そしてふたりは「カサレリア」と挨拶を交わして別れる。
 ザンスカール帝国とリガ・ミリティアの戦いに巻き込まれたウッソとシャクティは、カサレリアから旅立ち、両者の休戦協定のタイミングで一度カサレリアに戻る。その後、宇宙での最終決戦に再び参加し、全ての戦いを終え、最後はやはりカサレリアに戻ってくる。エピローグは、カサレリアで冬を迎えようとしているウッソたちの姿で締めくくられる。その森には役目を終えたガンダムもまた眠っている。
 東欧が物語の起点と選ばれたのは、作品準備が始まる直前の一九九一年に、ユーゴスラビア紛争が起きたことも決して無関係ではないだろう。そのような国際情勢は、地球連邦の重しがとれてスペースコロニー間で戦争が起きるようになった〝戦国時代〟という設定にも反映していると思われる。
 また富野は、『Vガンダム』のスタートにあたってポーランドとチェコを取材している。これについて富野は、東欧が西洋とアジアの中間地であり、その〝地続き感覚〟を実感したことが大きな成果であったと語り、同作にさまざまな人種を想起させる外観の女性キャラクターを登場させたのも、さまざまな土地、国を意識してもらうためだという10。このように『Vガンダム』は、これまでの作品よりもずっと、土地に紐づいたインスピレーションが反映された作品ということができる。
 一方で、「世界」への跳躍はまったくない。サイキッカーと作中で呼ばれる人々を二万人搭載した巨大な精神攻撃兵器エンジェル・ハイロゥが登場するが、これも兵器以上の何かとして描かれるわけではない。あくまで作中の大道具でしかなく、これを通じて未来のビジョンや奇跡が示されるわけではない。
 それにしても、どうしてここまで「故郷」と呼びうる土地が大事に扱われたのか。ウッソが一三歳とシリーズ最年少に設定され、彼の両親との再会と喪失が物語の中に組み込まれていたことや、これまでよりも年少の視聴者を意識しようと始まったことを考えると、本作では改めて「乳離れ」を主題にしようとした可能性もあるだろう。そう考えると単に時代性や、キャラクターを構成する要素というだけでなく、故郷と呼びうる土地を際立てて描いた理由も明確になる。
 しかし『Vガンダム』は「乳離れ」の物語ではなかった。カサレリアから出立し、そこに帰還しているにもかかわらず、「行きて帰りし物語」にはなっていないのである。ウッソは旅の中で、憧れていたカテジナの裏切りを筆頭に、さまざまなことを経験する。しかし、それはウッソにとっての通過儀礼としては描かれていないからだ。ラストシーンに至ってもウッソはかつてのウッソのままなのだ。
 異常な戦場を潜り抜けたウッソがウッソのままであるということは、視聴者をホッとさせるところでもある。一方で、ウッソがパイロットとして戦えてしまうことは異様なことだと作中で何度も指摘される。だからウッソがウッソのままであるということは、本作が所詮フィクションでしかないということを強調し、視聴者を突き放しているようにも感じられるポイントだ。しばしば、ウッソという命名に「噓」の含意があると読解されるのも、そのあたりに理由があるのだろう。

 いずれにせよ『ダンバイン』で気づきを得て、時を経て『Vガンダム』で初挑戦した、この「故郷と呼びうる土地」の描き方は、その後の作品にも継承され、徐々により物語において重要な部分を占めるようになる。だが『Vガンダム』とその後の作品の中には大きなギャップがある。カサレリアはあくまで象徴であって、人が生を実感できる豊かな場所としては演出されていないのである。
 後に富野は『Vガンダム』について、「分裂症寸前を自覚して生きようとしたら、/カラッポの理が走る。カラッポの知が走る。/それがVガンだ。」とコメントしている11。これを踏まえると、カサレリアもまた「理」や「知」から導きだされた、実感の伴わない〝故郷〟の表象であったということになる。そして『Vガンダム』の時点では富野は、理念に血肉を与える「実感」を伴う根拠を見つけられていないのである。その空洞を埋めうる一番のものは、当人が生まれ育った土地の記憶であろう。しかし、先述の通り富野は「根無し草」である。ではなにを手がかりに「故郷と呼びうる土地」に実感を込めることができるのか。
『Vガンダム』の終了後、富野は精神的・肉体的に不安定な状態になったという。耳鳴りや目眩に悩まされ、抑うつ状態にもなったのだという。外を出歩くことが難しい状態にもなり、少し散歩ができるようになった時期でも、アスファルトの道路は気持ちが悪く感じ、土の上ならよさそうだと近所の畑のあぜ道を歩いたりもしたと回想している12。振り返ってみると、この不調の時期に富野は自らの身体を通じて「大地」とでも呼ぶべき、人間を支えている大きな存在を実感しつつあったのだ。

不調により得た「実感」

 不調の時期を経て(しかしその期間にもOVA『バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼』全三巻をリリースしている)、富野は『ガンダム』二〇周年を見据えた企画の準備に取り掛かる。この過程で富野は「芸能」というキーワードを発見することになる。

 正攻法というのはどういうものか考えたすえにいきついたのが、ぼくの場合は〝芸能〟という言葉だった。
 映画の機能をもつアニメのスペクタクルを〝芸能〟にちかいように表現するために、お祭りを考えた13

 ここで富野は、いくつかの伝統的な祭りの名前を挙げたうえで

 その祭りに参加することで、日常のウサをカタルシスして、ひとつのコミュニティの精神安定剤にしているのだ。
 歌舞音曲ではないようにみえても、それぞれの位置で男女はハレの場で、叫ぶ、シコをふむ、御輿や祭壇にのぼる、ふんどし一丁で神社の花飾りをうばいあう。布二枚のバリア越しに女の肌にチンチンこすりつけられるのは嬉しいという証言だってある。
 祭りの場には、芸能につうじるハレがある。(略)
 体調不全であったことが、ぼくに、このようなことをおもいつかせてくれた。(略)
 少なくともぼくの作品をみてくれるひとたちが、心身ともにリフレッシュするような作品をつくっていくことが、社会的な任務ではないのかとおもうようになったときに、自己表現をすることだけが映画やアニメの仕事ではないと確信したのだ。
 そうすれば、ぼく自身、元気になれるとも実感できた。それが、芸能にいきついた事情なのである。
 しかし、アニメや映画で芸能的であるということがどういうことであるのかは、ニュータイプという言葉をおもいついたとき以上に難しいものだとも気づいている14

 引用が断片的で、かつ抽象的なのでここだけではわかりにくいかもしれないが、富野の伝えたいことは、冬至の祭りに起源を持つクリスマスのことをイメージすればわかりやすい。
 冬至は、一年でもっとも日照時間が短い日である。この日を境に、太陽は再び力を取り戻していく。冬という死の季節が遠のき、命あふれる春がやってくるのだ。やがてキリスト教に取り込まれクリスマスと呼ばれることになるが、その根底には、巡りくる季節が象徴する、死と再生の繰り返しを喜んだ古代の人々の思いが未だ生きているのだ。このような形で世界のさまざまな土地で、一年のさまざまな節目に「お祭り」が営まれるのである。そこには純粋な生の喜びの発露としての歌や踊りがあったであろう。富野のいう「芸能」とはそういうものを指しているのである。
 現代では、歌も踊りも商業化され「そこにあって当然」のものになっている。だから単に歌舞音曲をあしらったところで、生の喜びの発露としての「芸能」にはすぐには結びつかない。そこで「お祭り」というものを作品の中に取り込むことで、プリミティブな「芸能」としての役割を明確に示し、生きていくことの喜びを伝えようというのがここで富野が語っていることだ。富野が説明する「お祭り」や「芸能」に関する指摘は決して特別な意見ではない。しかし重要なのは、富野は自らの不調とその回復を通じて、自らの身体でもって、そのことを実感したということである。この実感こそ、『Vガンダム』のときにはカラッポだった部分を埋めるものなのである。

身体/お祭り/大地

 こうして富野は「自我/科学技術/世界」とは異なる、もう一つの構図を手に入れる。それが「身体/お祭り/大地」である。
「身体」は五感を通じて「自らの生」を実感する主体である。「身体」は、すべての主体ではあるが、ときに病を得ることもあるし、やがては朽ちていくものでもある。だからこそ年に一回、季節の巡りにあわせて「お祭り」を行い、生を寿ことほぐのである。このとき身体は「芸能」を通じて「お祭り」と結ばれることになる。そして「お祭り」は、もっと大きな「大地=地球」が持つ循環の中に属している。「身体」は芸能を通じて「お祭り」に繫がり、ひいてはさらに数十億年の大きな時間の流れの中に存在する「大地」の存在に触れることになる。
 これが「自我/科学技術/世界」という構図とは異なるベクトルを持つ、「身体/お祭り/大地」という構図である。「世界」へのアクセスが形而上的になりがちだったのに対し、「大地」へのアクセスは「身体」から発したものなので、非常に具体的で地に足がついている。前章で触れたTV版『Zガンダム』のラストが、映画『機動戦士Zガンダム A New Translation 星の鼓動は愛』で改められたのは、まさにその間に「自我/科学技術/世界」の構図から、「身体/お祭り/大地」の構図に変化したからこその変更だったのだ。『星の鼓動は愛』のラストでファは、自らの身体が持つリアリティで、「世界」の側にいってしまいそうだったカミーユが「大地」の側に戻ってきたことを祝福しているのである。
 一九七二年から一九七七年までの五年間は富野が演出家としてのスタイルを獲得していく貴重な時期であった。それと同様に『Vガンダム』終了後の一九九四年から『ブレンパワード』のはじまる一九九八年までは、富野が「身体」から発する新たな構図を獲得するに至る貴重な時間であった。それは富野が『ダンバイン』で自覚をせざるをえなかった「空洞」を埋めることにも繫がった。
 この新たな構図をいかに確立し、この構図の中で作品を〝映画〟にしていくか。それが一九九〇年代後半から現在に至るまでの富野の作品づくりの〝裏テーマ〟ということができる。

トマトと故郷──『ブレンパワード』

『ブレンパワード』は、「祭り」という要素こそ薄いが、「土地」や「身体」という要素が前面に出てくる作品だ。登場人物の中に医師で鍼灸師としての免許も持つキャラクター、アイリーン・キャリアーが配置されているのもその一例といえる。また主人公たちが乗る人型の存在──従来のロボットに相当するもの──はアンチボディと呼ばれ、馬や犬のような意志を持つ存在として描かれている。そのためパイロットが手で触れてやることで、互いに簡単な意思疎通ができるという設定になっている。ここにも「身体」というモチーフが反映され、『ガンダム』的ではないものを作ろうとしていることがわかる。
 興味深いのは一九九六年一一月にまとめられた『ブレンパワード』の最初期の企画案(表紙には「ブレンパワード 絢爛たるオーフェン」とある)の段階では、むしろ『ガンダム』以降の「世界」へと向かうベクトルを内包しているところだ。
「ブレンパワード 絢爛たるオーフェン」は、家族の物語であることは変わらないが、ラストにそうした感情をすべて包み込むようにオーフェン(本編ではオルファン)が浮上し、各キャラクターたちはそこにそれぞれの〝神〟を見る──というアイデアが書かれている。孤独という自我が、科学技術でオーフェンの秘密を探ろうとし、最終的にそこに〝神〟を見るという「世界」というレイヤーへの跳躍が用意されているのである。
 これに対して完成した『ブレンパワード』で大きな役割を果たすことになったのが、「故郷に相当する土地」として登場する「うえの村」である。この上の村は、出立や帰還の土台となる「故郷」ではない。しかし主人公・伊佐未勇とその家族に縁の深い、伊佐未家を象徴する場所として度々登場する。
 舞台となるのは、自然災害で荒廃した近未来の地球。海底で発見された謎の巨大遺跡オルファンを巡って、世界は混乱と争いに見舞われていた。リクレイマーと呼ばれる人々は、オルファンを浮上させて宇宙への進出を目論んでいた。リクレイマーは、世界中に出現するようになったプレートを回収し、そこからリバイバル(発生)する人型アンチボディの一種グランチャーを兵器として活用していた。
 第1話「深海を発して」(脚本:面出朋美、絵コンテ:斧谷稔)では、リクレイマーを指導する伊佐未ファミリーの息子・勇は、グランチャーを操りプレート回収の任務に当たっている。その勇の眼の前で、プレートからグランチャーの宿敵である別種のアンチボディ、ブレンパワードが生み出された。偶然巻き込まれた孤児の少女・宇都宮比瑪は、このブレンパワードと心を通わせる。その様子を見た勇の中に変化が起きる。一年後、勇はオルファンの中で眠っていたブレンパワードとともに、オルファンを脱出する。
 第1話でブレンパワードに乗った比瑪と彼女が連れた孤児三人は、山間にある民家にたどり着く。そこは勇の祖母、直子が住んでいる上の村の家だった。直子は、驚きもせず比瑪たちとブレンパワードを受け入れ、畑のトマトを勧める。
 その後も、この上の村は舞台として登場するが、大きな役割を果たすのが第24話「記憶のいたずら」(脚本:すみさわかつゆき、絵コンテ:あかかず)だ。勇の姉は、クインシィ・イッサーと名乗り、リクレイマーの中でも急先鋒の一人であった。そんな彼女が、比瑪のブレンパワードに乗り込んでしまい「家に帰りたいの」と思いを告げる。このとき、ヒメブレンが依衣子を連れていくのが、上の村なのだ。勇と依衣子の両親は、研究が忙しいため、二人を直子の家に預けていたことがある。その意味で上の村は依衣子の故郷ともいえる。しかし依衣子は「私の家はオルファンだ」と目の前の風景を否定する。
 その後、依衣子は上の村の近くの湖でプレートのリバイバルを通じて、祖母・直子の記憶をたどることになる。それは若き日の直子から始まり、孫である勇と依衣子がオルファンに連れていかれるまでの伊佐未家の歴史だ。上の村はここで、ファミリーの歴史をたどる定点として大きな役割を果たしている。
 シリーズの終盤、依衣子は宇宙へ飛び立とうとするオルファンに吸収されてしまう。その依衣子を取り戻し、人類との共存をオルファンに訴えるため、勇は一人でオルファンの元へと向かう。依衣子とオルファンとの対話を経て帰還する勇。勇を出迎える比瑪が手を伸ばす。
 二人の手と手が繫がれようとした映像は、そのまま上の村で実るトマトにオーバーラップし、カットが変わって上の村の風景が映し出される。そこから地球の風景を経て、地球の上空にとどまるオルファンで作品は締めくくられる。
 上の村とその土地から生まれたトマトは、人と人の繫がりを象徴するものだ。オルファンが「孤児=オルフェン」という名前に由来するもので、そこに寂しい人間がリクレイマーとして惹きつけられていったこととの対比となっている。そもそもトマトは、企画書「ブレンパワード 絢爛たるオーフェン」の段階で、比瑪とユウ(本編では勇)が上の村で出会うときの小道具としてすでに登場している。富野によると、最終回のトマトはスタッフのアイデアによるもので、サインとしてわかりやすすぎるのでそこまで気に入ってはいないと話しているが15、だからこそ作中で明確に機能していることは認めている。
 第26話(最終回)「飛翔」(脚本:面出朋美、絵コンテ:西森章)で、勇と依衣子の両親・研作と翠が、「オルファンが求めているエネルギーはパッションや情愛のようなものではないか」という話題に触れ、結局「バカバカしい」と一笑に付すくだりがある。しかし最終的にオルファン自身が孤独を感じていたことこそが事実で、上の村とトマトはその「情愛的なもの」の象徴として、物語を締めくくっているのである。
 このように『ブレンパワード』は、飛び立とうとするオルファンを引き留めるように、上の村という「土地」に向かってベクトルが強く働いている。「世界」に向かうベクトルと、「大地」に向かうベクトルが、拮抗している。人間はこの二つのベクトルの間で揺れており、「身体」を意識すると大地のほうに、「感情」や「理念」に身を任せると「世界」のほうに引っ張られるという形で描かれている。そして「オルファンは宇宙へ飛び立たず、人類とともにいるため低軌道上に留まる」という、二つのベクトルが調和した形で『ブレンパワード』のラストシーンは描かれている。

歳を重ねる喜び──『ガンダム』

 続く『ガンダム』は「めぐること」を主題と設定し、その構図の中に「大地」方向の跳躍を取り込んだ。さらにここで描かれる主人公ロラン・セアックの〝旅〟は、これまでになかったユニークな構成になっている。
 月に住むムーンレィスは、はるか過去に月に移民をした地球人の子孫である。しかし月は生活のためのリソースが少なく、一部の人間をコールドスリープさせることで生きていた。そのムーンレィスが地球帰還作戦を決行するにあたり、極秘の先遣隊を地球へと送り込む。主人公ロラン・セアックはその一人だ。
 そのころ、地球の人々は長い戦乱の時代を遠い過去のこととして忘れ、ムーンレィスの存在も忘れ去っていた。ロランは一年間、アメリア大陸で鉱山などを経営するソレル家で働き、運転手に抜擢される。満月の夜、家を抜け出したロランは、月に向かって叫ぶ。
「地球はとてもいいところだ! みんな早く戻ってこーい!」
 こうしてロランにとって、地球が第二の故郷となる。ムーンレィスの地球帰還作戦は軍事的緊張を招き、地球人の市民軍ミリシャとの小競り合いも発生する。なりゆきで石像の中から現れたホワイトドール(ガンダム)のパイロットとなったロランは、ミリシャの一員として戦うことになるが、彼の願いは、地球と月の人間が平和に共存すること。第8話「ローラの牛」(脚本:高橋哲子、絵コンテ:横田和)の「人の命を大事にしない人とは、僕は誰とでも戦います」という台詞は、そんなロランの願いを表すものだ。
 このようにロランは、「二つの故郷」を持つことになる。中盤にはミリシャのメンバーも月に向かうことになり、ロランが幼馴染たちに再会する展開もあるが、ロランにとっては月も地球もどちらも「故郷」なので、「行きて帰る」のではなく「行くも帰るも同じ」という境地で本作の水平方向のベクトルは展開していく。
 本作の第2話「成人式」(脚本:かつひこ、絵コンテ:斧谷稔)に「宵越しの祭り」と呼ばれるビシニティという地域の成人の儀式が出てくる。一五歳になった男女が、マウンテンサイクルに御輿とともに登り、ホワイトドールと呼ばれる石像の前で、選ばれた男女が裸になって互いにヒルで背中に聖痕をつけあうというものだ。ここに本作の「身体/お祭り/大地」の構図が、凝縮されて示されている。
 本作において「身体」とは「年齢を重ねるもの」として表現されている。子供が健康に成長することは喜ばしく、だからこそ古来から人は「祭り」という形でその喜びを表現してきた。これはシリーズ後半、月の場面で、コールドスリープから目覚めた母と娘が再会するシーンと対照的だ。そのシーンでは、コールドスリープしていた母のほうが、娘よりも年若い姿で描かれている。月では生き延びるために、「ともに年齢を重ねる」という身体的に自然な出来事から外れた社会が形成されてしまったのだ。
 そして、これは第50話(最終回)「黄金の秋」(脚本:浅川美也、絵コンテ:斧谷稔・川瀬敏文)のラストで描かれる、(外見は変わらないが)立ち居振る舞いが老人のようになった月の女王ディアナの姿に繫がる。ディアナは何度もコールドスリープを経験しており、見かけ以上に長い年月を生きてきた人間なのだ。しかし、その任から離れ、彼女はようやく人間らしい生を生きることになったのだ。成人することだけが喜ばしいわけではなく、老いていくこともまた身体の自然なあり方として祝福される。第50話のラストで、眠りについたディアナの姿に「宵越しの祭り」の歌が重ねられるのもそこに理由がある。ディアナの姿を通じて「ヒトが生まれ、老いて死ぬ」という「めぐること」が示されている。
「祭り」は、歳を重ねたことを喜ぶという意味に加えて、「毎年繰り返されるもの」という点にも意味がある。成人式に参加する若者たちを寿ぐだけでなく、「今年も無事、祭りの季節を迎えられた」という形で、住民たちにも喜びを与えるものなのである。でなければ毎年祭りを開こうとはならないだろう。「祭り」はそんなふうに毎年行われることで、「歳月が、季節がめぐること」のメルクマールとなっているのである。
 そして「宵越しの祭り」の舞台はマウンテンサイクルである。この名前は固有名詞ではなく、地球上のあちこちに〝マウンテンサイクル〟と呼ばれる場所があり、そこには封印された過去の戦乱の歴史(黒歴史と呼ばれる)の遺物が埋まっているのである。ビシニティにあるのもそのうちの一つだ。第2話の時点ではこうした事実は明らかにはなっていないが、マウンテンサイクルは「文明が生まれ滅びていく大きな循環」の象徴である。
 本編では中盤に、月の〝冬の宮殿〟に封印された〝黒歴史〟の戦乱の記録がついに明かされる展開がある。また最終回のガンダムとターンXの戦いの決着は、ガンダムから伸びた〝糸〟が二つの機体を繭のように包み込み封印してしまう。そこがまた新たなマウンテンサイクルになるのであろう。こうして「文明が生まれ滅びていく大きな循環」の舞台として「大地」の存在が示される。
 このように「身体/お祭り/大地」という構図の過程それぞれに「めぐること」が対応しており、それが『ガンダム』の背骨を構成している。

運動そのものへ──『キングゲイナー』

 この後、富野は新作として『OVERMAN キングゲイナー』と『リーンの翼』を手掛ける。
『キングゲイナー』は先述のとおり、「エクソダス」という運動そのものが主題の作品である。『キングゲイナー』では、荒廃した自然環境を蘇らせるため人々は、それまで居住地ではなかったシベリアなどにドームポリスという巨大なドーム都市を建設して暮らしている。しかし長い時間が経ち、人々の中にはドームポリスを脱出し、回復した自然の中で暮らしたいという機運が盛り上がるようになる。それが「エクソダス」だ。
 本作には「ミイヤの祭り」が設定され、ミイヤという人気の踊り子が歌と踊りでエクソダスの精神を広めている様子が描かれている。人々の「動き出したい」という願いが、ミイヤの祭りを経由することで、「エクソダス」という行動として実現化するのである。そしてその先に主人公たちのエクソダスの目的地、豊穣の地・ヤーパンが、人間が生きるべき「大地」として用意されている。
『ブレンパワード』ではそこまで明確でなかった「人工的な環境」から「大地」への帰還──これはつまり身体性の回復でもある──という主題は、『ガンダム』を経て、ここでより明確になっている。この主題は『ガンダム Gのレコンギスタ』に継承されていく。

死によって大地に触れる──『リーンの翼』

『リーンの翼』は、富野が一九八〇年代に執筆したバイストン・ウェルを舞台にした小説を下敷きに、新たな物語を構築した作品だ。富野にとって、三度目のバイストン・ウェルへの挑戦となる。
『リーンの翼』の主人公はエイサップ鈴木という日米のミックスルーツの青年。彼が出会ったのがバイストン・ウェルのホウジョウの国の王であるシンジロウ・サコミズだ。サコミズは、小説版『リーンの翼』の主人公として造形されたキャラクターだ。彼は、アジア・太平洋戦争末期の特攻隊員だったが、撃墜された瞬間にバイストン・ウェルへと導かれたのだった。サコミズはもともと小説版の最後に、地上へと舞い戻り、米軍による第三の原爆の投下を阻止して死ぬというラストを迎えていた。アニメ版はそこで死なずに、再びバイストン・ウェルに戻り、新たなホウジョウの国を建国した──という設定になっている。物語は、暴君となったサコミズの地上界への侵攻をいかに止めるかという形で進行する。
 第6話(最終回)「桜花嵐」(脚本:高山治郎・富野由悠季、絵コンテ:富野由悠季)で、サコミズは東京湾上空に、オーラバトラー・オウカオーに乗って姿を現す。しかしビルで覆われた東京は彼の望む東京の姿ではなかった。
 富野はサコミズを演出するにあたって次のように語っている。「大事だと思ったのは、迫水をちゃんと日本人として描くこと。それはナショナリズムを規定することとはちょっと違う。迫水が日本人だからこそ、迫水には最後に現在の東京を見せてやりたかったし、それが絶対に忘れられない光景だったから、迫水は嘆き悲しみ、怒り狂ったわけです16。」
 先述のとおり富野は『ダンバイン』のときに、主人公ショウに「風土」の要素が欠けていたことを失敗点として挙げている。『リーンの翼』では、そこを踏まえてサコミズを描いていることがわかる。サコミズが建国した国がホウジョウ国なのは、神奈川で生まれ育ったサコミズが地元の戦国武将「北条」からとったため。サコミズの居城の内装には、北条氏の家紋である三つ鱗もあしらわれている。
 あるいはエイサップと戦いながらも、その能力を認めれば「(引用者注:娘の)リュクスと結婚して後継者になれ」と命じるその家族観などは、家父長制が当たり前だった戦前・戦中の日本人の感覚そのままだ。この延長線上に、地上界に出てきて皇居近くに着陸した瞬間、天皇の居場所を気にかける描写がある。出身の土地に加え、元特攻隊員という出自がサコミズというキャラクターに土地と時代の刻印を刻みつけているのだ。
 これに対し、エイサップは、そこまで土地(彼が暮らしているのは山口県岩国市である)との結びつきは強調されていない。むしろ、サコミズにとっては敵国であるアメリカと日本のミックスルーツとすることで、サコミズの持つ〝日本人〟のイメージを相対化する役割が与えられているのだ。
 では「身体/お祭り/大地」の構図は、本作にどのように織り込まれているか。
『リーンの翼』は一種の「浦島太郎」である。バイストン・ウェルで時を過ごしたサコミズは、地上界に出ると、急激に老化が進み始める。ずっと壮年の姿でいることができたのは、バイストン・ウェルのオーラ力のおかげだったのだろう。この描写は加齢に意味があるのではなく、死ぬはずだった元特攻隊員が、ついにその時を迎えようとしているというところに意味がある。ここからもわかるとおり本作の「身体/お祭り/大地」は、生を実感するという方向ではなく、死を見つめるという反転した形で扱われている。
 だから本作のラストシーンは墓地である。エイサップはリュクスとともに、若狭湾を望むところにあるサコミズの実家の菩提寺を訪ね、墓参する。サコミズの最期の描写から、彼のお骨が残っているとは思えないが、サコミズはこの墓に葬られたのだろう。住職がさり気なくもらす「無縁仏にしようと思っていたけれども……ホントによかった」という台詞が重い。日本人として描こうとしたサコミズが、極めて日本人らしい弔われ方をされるところまで描くことで、「死」とは「大地」に葬られることだと示して本作は完結する。
 本作では具体的な「お祭り」の描写は出てこない。しかし「特攻隊員の死」を軸にした物語だと考えたとき、地上界に出る過程でサコミズとエイサップが幻視した、アジア・太平洋戦争末期の人々が死んでいく光景は、暗く悲しい「死の祭り」であったと解釈することはできる。サコミズはその光景を見て、特攻隊員としての自分の死もまた、〝死の祭り〟の中の死の一つでしかないことを実感する。
 エイサップはバイストン・ウェルに行って帰ってきたが、彼はイニシエーションを経験していない。むしろ彼は、サコミズが自らの生の意味と死の意味を理解する、その過程を見届ける役回りだったのだ。その点で、サコミズこそは富野作品には珍しく「行きて帰りし物語」を全うした(主人公ではないが)キャラクターであるとはいえる。

地球への帰還──『Gのレコンギスタ』

 ここまでの構図の整理を念頭に『ガンダム Gのレコンギスタ』を見ると、非常にわかりやすい。『Gのレコンギスタ』は、明確に「行きて帰りし物語」の構図を採用している。そしてさらに貴種流離譚でもある。
 文明崩壊後、一〇〇〇年あまりが経過し新たな文明を築いた地球が舞台となる。この時代、人々はフォトン・バッテリーをエネルギー源として生活している。このフォトン・バッテリーは、キャピタル・タワーと呼ばれる南米の宇宙エレベーターを通じて宇宙から持ち込まれ、地球上の各勢力に分配されている。過去のさまざまな技術も禁忌となっており、それによって地球の平和は保たれていた。しかしその状況も近年になると変化し、各国も密かに流通していた過去の技術の設計図(「ヘルメスの薔薇の設計図」と呼ばれる)を入手し、それぞれに宇宙戦艦やモビルスーツなどの開発を始めていた。
 本作の主人公ベルリ・ゼナムは、キャピタル・タワーを擁するキャピタル・テリトリィに暮らす少年。彼はやがて、現在の北アメリカにある国家アメリアの海賊部隊のアイーダ・スルガンたちと行動をともにするようになり、地球を離れ、月の裏側にある小惑星トワサンガを経て、フォトン・バッテリーを製造し、ヘルメスの薔薇の設計図の出元でもあるヘルメス財団の拠点ビーナス・グロゥブへと向かう。この旅を通じて、ベルリとアイーダは、自分たちの本当の出自を知り、人類の科学が発展したその先の風景を見て、地球へ帰還する。
 地球から出立して地球へ帰還する構造だが、その間に起きる出来事は、決してベルリやアイーダを成長させる試練ではない。むしろ彼らのフラットな目を通じて、観客に一つの未来世界の光と影を見せることにこそ、本作の主眼がある。
 この未来世界で重要なポイントは二つある。
 一つは、トワサンガの人々も、ビーナス・グロゥブの人々も、そこにあたかも地球のような光景を作っているということだ。どれほど科学技術が発達し、宇宙で暮らすことが可能になっても、人は〝地球〟を求める。トワサンガにもビーナス・グロゥブにも、地球への武力を伴った帰還を望む勢力があり、彼らは「レコンギスタ」を合言葉に、強硬に地球への帰還を果たそうとする。
 もう一つは、ビーナス・グロゥブの人間たちの描写。ビーナス・グロゥブの人間は、科学の発達により非常に長寿であるが、その一方で宇宙線の影響などで〝ムタチオン〟を起こしており、極端に衰えた身体を機械のボディースーツで補って暮らしているのだ。ビーナス・グロゥブから地球へと戻る途中、アイーダはスカッシュをしながら「私は人類の女性として健康!」と語るが、それは自分が当たり前と思ってきたこと──体が健康で自由に動くこと──が、環境次第で失われてしまう脆いものであることを嚙み締めているということだ。
 この二つのポイントは、それぞれ二つの構図と深い関係にある。
「自我/科学技術」のベクトルの先にはかつては「世界」があったが、ここではそこに「ムタチオンによる身体の衰弱」という生き物としてのデッドエンドが置かれている。「世界」のような形而上の理想ではなく、極めて形而下の、身体をめぐる直接的な問題だ。
 一方、「身体/お祭り/大地」の構図は、「祭り」のところにレコンギスタを入れると、わかりやすい。本作は、健康=生き物として十全な状態の身体でありたいという願いが、レコンギスタを起こし、大地を目指す物語である、ということになる。
 ベルリとアイーダの〝旅〟は、世界の秘密──どうして科学技術は制限されているのか、自分たちのエネルギーはどこからくるのか──に迫るものだった。ムタチオンという科学発展の先にあるデッドエンドは、旅の一つの結論としてそこに置かれている。
 それに対してレコンギスタという「お祭り」を置くことで、人間が大地から離れられないことを浮かび上がらせる。富野は企画段階で『Gのレコンギスタ』の〝G〟は重力(Gravity)あるいは大地(Ground)の意味を持たせたという17。最終二話の第25話「死線を越えて」(脚本:富野由悠季、絵コンテ:みやまさゆき・斧谷稔)、第26話「大地に立つ」(脚本:富野由悠季、絵コンテ:斧谷稔・もりくにひろ・宮地昌幸)の戦いが、大気圏突入からギアナ高地での地上戦へと展開するのは、このタイトルからしても必然であった。そしてレコンギスタにともなう戦闘は、政治や軍事の要素に比重がかかっておらず(だからどの勢力がどう勝利したかも特に描かれない)、素朴な欲望の解放として表現されることになる。だから、あまりにも素朴な地球への欲望に溺れ、戦闘にはしゃぎすぎると死ぬことにもなる。
 最後にベルリが、地球一周の旅に出るのも、少年漫画的な「新たな挑戦の旅に出る」設えとは異なる。ビーナス・グロゥブにまで行ってみたからこそ、それまで、当たり前だと思っていた地球の存在を自分の身体で感じようとしたのだ。富野が作詞した(井荻麟名義)エンディングテーマ「Gの閃光」で、「元気のGは 始まりのG」というフレーズがある。元気(Genki)にはGの文字が含まれているが、「始まり」にはGの文字はない。しかし、始まりのGのGは「Ground」ということであればわかる。元気である身体と、大地がここでは直結して語られており、作品に「大地」に向かう構図を組み込もうとしていたことがうかがえるし、地球がベルリにとっても「始まりのG」であるという締めくくりであることが読み取れる。

知恵のためのレッスン

 このように戯作者・富野は、一九八〇年代までは「故郷」を欠いたまま、「行きて帰りし物語」と似て非なる〝旅〟を描いてきた。そこではニュータイプに代表される壮大なビジョンが「世界の理」を示し、それは人間個人のスケールを超えた〝希望〟として示されていた。しかし一九九〇年代に入り、富野はこの「世界」方向へ向かう〝跳躍〟を止める。転換期には、身体の不調があり、そこから今度は「大地」へと向かうもう一つの道を探り始める。端的にいうと『Zガンダム』、『逆襲のシャア』では、地球にこだわることは旧弊な人間のやることで「魂を重力に引かれた人々」と否定的に描かれていた。これが『ガンダム』、『Gのレコンギスタ』では宇宙に暮らすことそのものが不自然なことであるという部分が前面に出てくる。これは大きな変化である。
 そして「身体/お祭り/大地」の構図をエンターテインメントの中に組み込むためのさまざまなアプローチが試みられる。先行して『Vガンダム』で「故郷」を描いたことを踏まえつつ、『ブレンパワード』はその方向性にさらに踏み込んだ形で「故郷」を取り扱った。これが『ガンダム』になると「二つの故郷」という形になり、故郷の唯一性を取っ払ってしまうことになる。さらに『キングゲイナー』、『リーンの翼』を経た、『Gのレコンギスタ』になると「故郷」ではなく「地球」全体が求める対象となって、個人の思い入れやスケールを超えた人類の〝希望〟がそこに託されることになる。
 戯作者としてのこの方針転換は方向性が全く異なっており、結果としてそれを実行しえたことは戯作者・富野の足腰の強さということができる。そしてこの方向転換の背景には、体調不良以外の理由も考えることができる。

 僕の場合は作品を世に出すことで、「ニュータイプを出す」という具体的な命題があったんだけど、それに挫折して敗北してしまったんです。現実問題として、ニュータイプを世に出すことはできなかったことは、現代の政治を見ても感じます。
 それは、僕がやろうとしたニュータイプにさせるような教育みたいなものをできなかったのが悪いという言い方もできます。人をニュータイプにさせることはできなかった、ごめんなさいと18

 このインタビューのように二〇二〇年前後から、富野はしばしば「本当は人をニュータイプにする道を提案したかったがそれに失敗した」といった趣旨の発言を行っている。この言葉が一九九〇年代初頭に言語化されていたかどうかはわからない。しかし「自我/科学技術/世界」から「身体/お祭り/大地」へと方向転換を行った自身に対する〝総括〟としては非常にクリアなものだ。
 富野は近年のインタビューでしばしば「人類があと○年ぐらいは続いてほしい」と語ることがある。○年に入る数字は数千年から数万年とまちまちだし、「永遠に」という発言も聞いたことがある。いずれにせよ富野は、非常に大きなスケールで人類の存続を望んでいる。それは同時に、放っておけば人類がその愚かさと人口の増大で、有限の地球を食い尽くしてしまうことがわかっているからだ。その問題意識は、シンクタンクのローマクラブが一九七二年に発表したレポート「成長の限界」の頃から変わっていない。これは、「人口増加と環境汚染がそのまま続いたら、一〇〇年以内に地球の成長は限界を迎える」という提言で、『ガンダム』で宇宙移民が行われるという設定の、一つの根拠となっている。
「人をニュータイプにする」というのは、つまり「物事の本質を摑むことのできる知恵を身に付けてほしい」という言葉に言い換えることができる。知恵は、洞察力あるいは想像力といってもいいだろう。戯作者・富野は、自らの戯作を通じて、人に賢くなってほしいのだ。そして、今そこにある人口増加や環境汚染などの課題を乗り越えてほしいと考えているのだ。別の言い方をすれば、富野は作品を通じて世界を救いたい──これが言い過ぎなら、救うヒントを用意したい──のだ。
 しかし、ニュータイプや『ガンダム』というアプローチでは、それはできなかった。そこで、方向を変えてなお、エンターテインメントの中に「知恵のためのレッスン」を忍ばせようとしたのが、『ブレンパワード』以降の富野の苦闘でもあった。『Gのレコンギスタ』について「子供に見てほしい」と語っていたのも、「子供を楽しませるために作りました」ということではない。富野は小学校高学年から中学生ぐらいを想定していたというが、その世代に向けて「未来の社会を作るときに重要なものを込めた」と理解したほうがわかりやすい。実際、富野はこうも書いている。「大人たちには考え方を変える余地がないから、問題を解決してもらうためには、現在の幼児、児童たちに将来的に考えてもらって解決策を見つけてほしいという願いを込めて、問題点を列挙したつもりなのだ19」。それは『逆襲のシャア』でシャアに「ならば、今すぐ愚民ども全てに叡智を授けてみせろ!」と言わせたことに対する、戯作者なりの落とし前のつけ方でもある。

『鉄腕アトム』で脚本・演出デビューした後、富野は「今後は、アニメは他の芸術的ジャンルに匹敵するジャンルを形成するときがくると確信している。(略)こう考える僕はアニメの世界で異端者なのだろうが、異端は発端と考えたい20」と記した。
 その富野は『ガンダム』を制作するにあたり次のように考えたという。

 ファースト・ガンダムは、それまでのロボット物からはずれたパターンだったので、異端だった。が、ガンダム以後、異端がふつうになり、そのふつうが特化していびつになった。
 しかも、その数がふえた時期もあったりして、ぼくもいびつなふつうの仕事をしつづけた。
 だが、ふつうのいびつさに気づいたから、正攻法をやれば、異端になり、それが革新になるのではないかと考えた。これが、『』の企画が固まりはじめたころのぼくの正攻法でいく、という考え方だ21

 ここには異端と正攻法の大いなる循環がある。戯作者・富野の強さは、自作に絶対必要な、作品を支える構図を、あるときがらりと方針転換できたことにある。クリエイターとして実に粘り腰な姿勢といえる。この強さは、異端と正攻法を往還するダイナミズムから生まれたのだ。