第9章まで富野のフィルモグラフィーを、演出家と戯作者という観点から振り返った。そこからわかるのは、富野は作品世界を成立させるため、戯作者として巧みに「言葉」を扱っているという点だ。
 富野作品の大半は原作のないオリジナル企画でロボットアニメである。そこではロボットが存在してもおかしくない世界観を構築する必要がある。このとき、富野は作品ごとの世界を構築するため、普通名詞を造語するところからスタートした。『機動戦士ガンダム』の場合であればロボットをモビルスーツと呼び、宇宙服についてもパイロットスーツあるいはノーマルスーツと命名した。こうした架空の普通名詞の頂点として、ニュータイプがある。これらの造語をスペースコロニーという現実の世界で提案された──しかし当時としては目新しい──普通名詞と組み合わせることで一つの作品世界を作り上げた。普通名詞を造語することで独自の世界を構築するのは、SFやファンタジーの一つのアプローチだ。日本のアニメの中で『ガンダム』は、こうした手法を本格的に採用した作品といえる。
 もちろん過去にも、普通名詞を造語して作品世界を際立てた作品はあった。例えば『マジンガーZ』における「超合金Z」「光子力エネルギー」や『宇宙戦艦ヤマト』における「波動エネルギー/波動エンジン/波動砲」がそれにあたる。ただしこれらの用語は、主に主人公の使うメカの特別性(高性能な理由)や唯一性を付加することが主たる目的で、一九七〇年代半ばぐらいまでは、言葉を使って世界観全体を構築するところまでは至っていない。そこを突破したのが、作中に出てくるロボットを総称する「モビルスーツ」という造語であった。この手法は『ガンダム』以降、富野作品以外でも、さまざまな作品で活用されていく。その点でも『ガンダム』はエポックメイキングな作品であった。
 富野作品は固有名詞──キャラクターやメカなどのネーミング──も個性的で、独特のクセがあることで耳に残るものが多い。それが作品に独特の色合いを与えていることは間違いない。ただ固有名詞はまさに〝色合い〟であり、作品の骨格そのものと結びついているのは普通名詞のほうなのである。

「富野ゼリフ」の三類型

 印象的な台詞もまた富野作品を構成する重要な〝言葉〟である。富野作品における特徴的な台詞──いわゆる〝富野ゼリフ〟──は、大雑把にいくつかの種類に分けられる。
 一つめは『ガンダム』第1話におけるシャアの「認めたくないものだな。自分自身の、若さゆえの過ちというものを」のような、時に〝演劇的〟とたとえられたりする、レトリックを駆使した言い回しの台詞だ。『THE IDEON 発動篇』におけるドバの「ハルルが男だったらという悔しみ、カララが異星人の男に寝取られた悔しみ。この父親の悔しみを、誰がわかってくれるか!」などもこの仲間といえる。
 二つめは、とっさのときに出てしまった整っていない台詞。取材のとき、スタッフから聞いたエピソードの一つに、富野のガヤに対するディレクションがある。ガヤとは、そのほか大勢のキャラクターたちの声のこと。アフレコの現場では、その回の出演者が集まって収録を行う。このとき、その状況に合ったちょっとした台詞をアドリブでいう必要がある。戦闘に巻き込まれた人々のガヤをとるとき、「危ない!」とか「助けて」といった〝当たり前〟の台詞があると、富野はOKを出さないのだという。要するに、切羽詰まったときにはそんな「普通に状況判断した言葉」は出てこない、ということだ。親の名前なり好きな女の子の名前なりを叫ぶなど、反射的に出てしまう言葉でないとリアリティが生まれないというわけだ。このガヤに求めるリアリティは、『機動戦士ガンダムF91』で、級友アーサーの死体を前に主人公シーブック・アノーが「だってよ……アーサーなんだぜ?」と、その死に現実味が感じられないまま、言葉にならない言葉を漏らすシーンと地続きなのである。
 三つめは主に戦闘シーンで交わされるダイアローグだ。多くの人が知るとおり、富野作品では戦闘中に敵と味方の間で、しばしば鋭い台詞の応酬が行われる。以前、富野に取材でどうして戦闘中に台詞の応酬を盛り込むのかを聞いたときの答えは第一に、撃ち合い、切り合いをしているだけでは単調になるから、というものだった。つまり台詞の意味よりは、まず視聴者の画面に対する注意を喚起するために人の声を使う、ということだった。そのうえで、縁のない人間同士の戦闘はつまらないから、その台詞を使って濃淡はあれどそこにドラマを盛り付けていくのだという。
 戦闘中の台詞での全体のドラマの進行に関わる部分では、脚本段階で脚本家によって書かれた台詞もあるだろう。だがそれも絵コンテで戦闘描写の中にはまるようにアレンジされることで、〝富野ゼリフ〟になっていくのである。
 例えば『機動戦士Zガンダム』第49話「生命散って」では、敵キャラクターであるジェリドが主人公カミーユに向かって「カミーユ、貴様は俺の!」と叫んで爆発に巻き込まれ絶命するシーンがある。これは遠藤明吾(現・明範)の脚本では「カミーユ、貴様は俺のすべてを奪った」という内容の台詞だった(1)。しかし台詞後半が絵コンテでカットされた結果、復讐を完遂できない無念さが際立ち、かつ視聴者には「ジェリドはなんといいたかったのだろう」と印象に残る台詞になった。絵コンテは世良邦男がクレジットされているが、先述の富野の演出姿勢からすると、この台詞は富野の修正によるものではないかと考えられる。
 この途中で台詞を切るというスタイルは『ガンダム』第50話「黄金の秋」(脚本:浅川美也、絵コンテ:斧谷稔・川瀬敏文)における敵将ギム・ギンガナムと主人公ロラン・セアックの戦いのクライマックスでも使われている。ギンガナムが「純粋に戦いを楽しむ者こそ!」と叫ぶと、ロランは「自分を捨てて戦える者には!」と応じる。脚本を確認すると、ギンガナムは「純粋に戦いを楽しめる者こそ勝利を得られるのだ!」と語っており、ロランは「守るものがあるからこそ、自分を捨ててまで戦えるんです、わかって下さい!」と反論している(2)。こちらは台詞が伝える内容よりも、立脚点の違う二人の戦いへの気迫が際立てばいいわけだから、みなまで喋らせる必要はないというわけだ。鋭くこの台詞が叫ばれることで、画面のテンションが上がり、そこが戦いの山場であることが示されるわけである。

名付けられないもの

 このように、作品の骨格を構成する普通名詞、作品の前面に出る固有名詞、そしてさまざまな局面で活用される台詞、といった位相の違う言葉を巧みに操作しながら富野作品は出来上がっているのである。だからこそ第8章で確認したとおり、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のラストで、眼前で起きた「名付けられぬ光景」が言葉で説明されなかったことの意味は大きい。それは言葉で構築された世界に生じた裂け目だ。そして富野は、その裂け目を作品の重要なところに配置する。
『逆襲のシャア』のラストで描かれた宇宙の虹とそれによる奇跡は、「名付けることができない」という点で『ガンダム』第41話「光る宇宙」の、アムロとララァの精神の交歓シーンの延長線上にあるということは確認した。これは「自我」が「科学技術」を経由して「世界」に触れたが、そこで見えた世界というものは「名付けることができないもの」であったということだ。
『ガンダム』シリーズ以外では、『THE IDEON 発動篇』のラストの、すべての登場人物が死亡したあとの風景もまた「名付けることのできない世界」に登場人物たちがアクセスしたシーンと考えることができる。すべての戦いが終わり、彼らの魂(と思われる姿)が現れる。その空間が、どんな場所なのかは説明されない。おそらく仏教であるならそれは中陰もしくは中有と呼ばれる、死の瞬間から次の世に生まれ変わるまでの時間にあたるのだろうと思われるが、そこを説明する会話はまったく登場しない。
 こうして考えると第6章で確認した通り『伝説巨神イデオン』の延長線上で、「自我」と「科学技術」と「世界」の問題を扱おうとした『聖戦士ダンバイン』にも、このような「名付けられない世界」がでてきてもおかしくない。しかし、そうはならなかった。これは「言葉」という観点から考えることもできる。
 バイストン・ウェルは、徹頭徹尾言葉でできた世界だ。バイストン・ウェルがどのような構造で出来上がっているのか、一つの神話のようにちゃんとメモの形で設定が用意されている。このようなバイストン・ウェルが地上世界を補完するように存在するのが『ダンバイン』の世界である。そうなると地上世界とバイストン・ウェルの世界の魂の往還は、設定された一つのルールでしかありえず、言葉にすることができない「世界の理に触れた」というようなカタルシスはその中には存在しないことになってしまう。『ダンバイン』がその物語の落としどころを探っているように見えたのは、そもそもこの構造上の制約が大きかったのではないか。逆にいうと『逆襲のシャア』は、現実世界の延長線上にある未来世界だからこそ、〝奇跡〟が顔を見せるという展開が非常に効果的だったともいえる。言葉でできた世界のどこに裂け目を見つけ、「世界の理」を垣間見させることができるか。ここに『ダンバイン』とバイストン・ウェルの探られていない可能性があるように思う。

言葉が失われるとき

 名付けようのない世界に触れたとき、言葉が発せられない場合がある一方、まったく異なる状況で言葉が発せられないシーンも富野作品は描いてきた。それは「世界の理」に触れるような前向きな状況ではない。むしろ酷薄な現実に向かい合ったそのとき、ひとは言葉を失わざるをえない。富野は、そのようなシーンをむしろ、戯作者としての主題を確たるものにする『イデオン』以前から描いてきた。
『海のトリトン』の第27話(最終回)「大西洋陽はまた昇る」。トリトンは、ついに宿敵ポセイドン族の本拠へと乗り込み、ポセイドン像を破壊する。しかしそれは、ポセイドン像をエネルギー源として生き残っていた、最後のポセイドン人約一万人の生命を奪ってしまうことでもあった。またポセイドン族がトリトン族を滅ぼしたのは、トリトン族がポセイドン族を虐げてきたことへの報復だった。トリトンが信じた、トリトン族を滅ぼした海の支配者ポセイドンを倒すという正義の戦いは、実は報復の連鎖の中の出来事だったのだ。
 この残酷な真実を知ったトリトンは「違う。みんなポセイドンが悪いんだ」と言うものの、それ以上は意味のある言葉を発することはできない。トリトンは残酷な真実の前に無言のまま立ちすくむしかないのである。その後、作品は「そしてまた少年は旅立つ」というナレーションで締めくくられるが、果たしてトリトンはどこへ向かうことができたのだろう。
 これと似たような状況は『無敵超人ザンボット3』の第23話(最終回)「燃える宇宙」(脚本:五武冬史、絵コンテ:斧谷稔)でも繰り返される。主人公・神勝平たちが戦っていた侵略者ガイゾックの真の姿は、コンピュータードール第8号だった。ドール第8号は、宇宙の平和を破壊しようとする危険な知的生命体を滅ぼすために作られた存在であり、その対象として地球人類を選び攻撃を仕掛けてきたのだった。
 勝平はそこで「そんなことはない! みんな良い人ばかりだ!」、「俺たちの地球だ! 守らなければいけないんだ!」と反論する。だが視聴者は戦いに巻き込まれた地球の人々が、必死で戦う勝平たち神ファミリーに対しいかに非難の目を向けてきたかも知っている。ドール第8号も「憎しみ合い、噓を吐き合い、我が儘な考え。まして、仲間同士が殺し合うような生き物が、良いとは言えぬ」「この悪意に満ちた地球に、お前たちの行動をわかってくれる生き物が、一匹でもいると言うのか……?」と言葉を投げかける。
 ドール第8号を破壊した勝平は、敵母艦バンドックとともに地球へと落下していく。薄れゆく意識の中で、勝平は「俺たち……やったよね……ちゃ、ちゃんと戦ったんだよね」「俺たちは、つまらないことなんか、しなかったよな」と戦いの中で死んでいったものたちに呼びかける。しかし、その呼びかけに応えるものはもはやいない。怖さと寒さを感じ体を丸める勝平。
 物語は、勝平のもとに町の人々が集まってくるという、その後の希望を感じさせるエピソードを描いて締めくくられる。だが勝平はそこで何か言葉を発するわけではない。勝平はドール第8号の残酷な問いについて、言葉を失った状態なのだ。どういう答えを導き出すかは視聴者の洞察力に委ねられた形で作品は締めくくられる。
 明朗快活なアクション作品として知られる『無敵鋼人ダイターン3』もまた残酷な真実を垣間見せた後の沈黙が描かれている。『ダイターン3』は、敵の首領であるドン・ザウサーの正体が、万丈の父でメガノイド(一種のサイボーグ)を作り出した破嵐創造ではないかという可能性を匂わせている。そして同時に、誰よりもメガノイドを憎むヒーロー・万丈自身もメガノイドではないかと思わせる描写も存在している。
 これがもし事実であるならこれは間違いなく「残酷な真実」なのだが、本作はそこをあえて明確に描かない。ただ第40話(最終回)「万丈、暁に消ゆ」で、ドン・ザウサーと戦い勝利を収めた万丈は「僕は嫌だ」と意味深な言葉を残して、そこで舞台から退場してしまうのだ。設定的な真実はさておき、ここでは万丈は、明らかにトリトンや勝平と同じように戦いの果てに言葉を失った存在として描かれている。むしろこうして語るべき言葉を失った万丈が描かれたから、視聴者はその向こう側に「残酷な真実」の気配を感じるといってもいい。

カミーユの言葉──現実の途方もなさ

 このように富野は『ガンダム』以前から、残酷な現実を前に言葉を失う様子を描いてきた。そして人が言葉を失う様子を描いた一番シビアな作品が『Zガンダム』だといえる。すでに第7章で確認した通り『Zガンダム』は設定的には『ガンダム』の続編だが、『イデオン』『ダンバイン』を経過した結果、物語の目指した方向は大きく異なるものとなった。
『Zガンダム』で描かれたのは、地球圏の覇権を巡る三つ巴の内戦だ。主人公カミーユ・ビダンはパイロットとしてこの三つ巴の内戦の中にその身を投じることになる。「ロボットアニメ」としての商品性を担保するためのヒロイックな戦闘は描かれはする。しかし、本作はその背後に「現実認識」をベースにした、組織を利用する野心家の跳梁と組織の都合による合従連衡という、現実そのものの状況が描かれる。そこには「人と人はわかりあえる」といった理想は存在しない。
 例えば、第47話「宇宙そらの渦」でカミーユは旧ジオン勢力のトップであるハマーン・カーンと戦場で対峙したとき、「お前は生きていてはいけない人間なんだ! 暗黒の世界へ戻れ、ハマーン!」と叫ぶ。その直前、二人はニュータイプの力で互いの心に触れ合う。それは前作でアムロとララァが経験したこととよく似ている。しかしハマーンはその交歓を拒否し、カミーユは、台詞のとおり彼女を、この世界にとっての悪として認識する。このように「現実認識」の物語である『Zガンダム』では、ニュータイプは「現実認識」はできても、その先のビジョンには到達することはできない。第50話(最終回)「宇宙を駆ける」で描かれた、シロッコとの戦いもその延長線上にある。
 シロッコは混沌とした状況を利用して覇権を得ようとした男だった。カミーユは最後にシロッコを倒す。しかし、彼は本当に〝悪〟だったのか。無数にある醜悪な現実の一つに過ぎなかったのではないか。トリトンや勝平は、自分が信じてきた正義について「それが果たして正義だったか」と問われ言葉を失った。自分の正義が相対化されたことで言葉を発することができなくなったのだ。しかしカミーユは、自分の価値を揺るがすような問いを向けられたわけではない。カミーユが倒したのはむしろ凡庸な現実の一つでしかなく、カミーユはその凡庸な悪と刺し違え、精神を崩壊させてしまう。
 第7章でも書いた通り『Zガンダム』は「自我/科学技術/世界」の「世界」の部分に「現実」が挿入される構図で出来上がっている。ニュータイプの洞察力で悪を認識しても、その先に理想や希望といった形で「世界の理」が示されるわけではない。『Zガンダム』における「世界の理」は「時代とは、現実とはこのようなものである」という形で示されるものなのだ。それはどこにも希望が見つけられない、行き止まりの現実でもある。その現実がカミーユの言葉を奪ったのだ。
 カミーユは、コックピットで戦闘中の爆発を見ながら「大きな星が点いたり消えたりしている。あはは、大きい! 彗星かな? いや、違う……違うな。彗星はもっと、バァーッて動くもんな」と語り、最後は「暑苦しいなぁ、ここ。うーん……出られないのかな? おーい、出してくださいよ。ねぇ?」と、問われることもなく語る。これもまた言葉を失った一つの姿である。

カテジナの沈黙

 富野はその後、『ガンダム』シリーズの中でもう一度、現実の前で言葉が失われる風景を描いている。それが『機動戦士Vガンダム』だ。
『Vガンダム』の放送開始は一九九三年。一九九一年に公開された映画『F91』がTVシリーズを想定した内容だったにもかかわらず、興行が振るわず、改めて仕切り直しをした作品としてスタートした。時代設定は宇宙世紀〇一五三年。最初の『ガンダム』から七四年後、前作の『F91』から三〇年後と、時間をとばすことで、直接的に関わり合わないようになっている。
 主人公はカサレリアに住む一三歳の少年ウッソ・エヴィン。宇宙から地球に勝手に戻ってきた不法居住者の息子だが、両親は宇宙に行き、ウッソだけが地球に残されている。しかしこの『ガンダム』シリーズ最年少という主人公は、言葉を失う主体ではない。言葉を失うことになるのは、ウッソが憧れた年長の女性カテジナ・ルースである。
 カテジナは東欧の小都市ウーイッグに住む一七歳。父親は日和見的な商売人で、愛人もいる。母親も男とともに家を出ていってしまったらしい。カテジナにとって自分の家族は、軽蔑の対象でしかなかった。そんな彼女は、自分の中の空虚なものを埋めてくれるものを求めている。
 年下で自分を慕っているらしいウッソは、彼女にとってうっとうしくもかわいい存在ではあったが、ウッソのとなりには年齢も近く同じ不法居住者のシャクティがいつもいる。それはカテジナにとっては勘に障ることでもあった。そうした自分の中のイライラに突き動かされるようにカテジナは、ザンスカール帝国の軍人クロノクル・アシャーに身柄を拘束されたことをきっかけに、ザンスカール帝国の軍人として振る舞うようになる。
 第10話「鮮烈!シュラク隊」(脚本:富田祐弘、絵コンテ:西森章)の冒頭のナレーションでは「カサレリアに戻ったウッソは、カテジナがクロノクルを好きなんだと感じた。クロノクルもそうなのだ。しかし、ウッソたちのためにスパイになるつもりもあったカテジナは、カサレリアのぬくもりが、嫉妬を感じさせるものだった」と、カテジナがクロノクルと行動をともにする状況を説明する。この、ぬくもりに対する嫉妬がカテジナの孤独を的確に言い表している。
 こうしてザンスカール帝国の兵士となったカテジナは、何度もウッソと戦場で対戦する。その戦いは激しく、彼女は悪鬼のごとき戦いぶりを見せる。そして最後の敵としてウッソの前に立ちはだかることになる。
 第51話(最終回)「天使たちの昇天」(脚本:そのひで、絵コンテ:西森章)の最後は、戦いが終わったあとのエピローグが描かれる。ウッソとシャクティはかつて暮らしていたウーイッグの郊外カサレリアに戻り、戦いの中で出会った仲間たちと新たな暮らしを始めていた。そして小雪のちらつく冬のある日、シャクティは、ワッパ(一人乗りホバー)のコンパスが壊れ道に迷った盲目の女性と出会う。
 盲目の女性はシャクティに、ウーイッグの方向を尋ねる。この盲目の女性はカテジナだった。だがシャクティは、カテジナに自分がシャクティであることを名乗らない。ただ故障したコンパスを交換してあげるだけである。カテジナのほうも、自分が出会ってしまった相手がシャクティであると気づいたかどうかはわからない。
 カテジナが「冬が来ると、わけもなく悲しくなりません?」と声をかけると、シャクティは「そうですね……」と応え、礼をいったカテジナは一人故郷へと向かっていく。
 このあとウッソがシャクティのもとにやってくる。しかし、シャクティはカテジナの生存をウッソに告げることをしない。カテジナとウッソを会わせないということは、シャクティが選んだ一つの救いの姿であるかもしれない。また、全編を通じて聖女のポジションにあるシャクティが、悪女カテジナを導いたとも読める。またシャクティは嫉妬からカテジナのことをウッソに告げなかったとも解釈できる。
 いずれにせよカテジナとウッソの間には清算されなくてはならないさまざまな思いがあるにもかかわらず、そこに言及されることないまま物語は締めくくられる。カテジナにとって、あまりにも残酷な現実の中に身を投じ、彼女自身も加害者として積極的にその一部になってしまったからだろう。彼女はそれを「わけもなく悲しくなる」としか語ることができないのだ。ここでもやはり言葉は失われている。
 こうしてみると『Zガンダム』と『Vガンダム』の間に、語りえない奇跡を描いた『逆襲のシャア』が作られたことは一つの救いであったかのようにも思えてくる。

沈黙から身体へ

 残酷な現実で言葉を失ったキャラクターたちは、此岸にその身を留めることができず、しかし彼岸に渡ることもできないまま、さすらうことになる。そんなキャラクターたちを、この世に繫ぎ止めることはできないのか。
 富野作品では二作だけ、失われた言葉に対する此岸の側からのアプローチが描かれている。それは身体による接触だ。言葉が失われた世界で、体のぬくもりだけが現実を保証してくれるのである。
 一つは『ザンボット3』。怖い、寒いとつぶやく勝平に対し、幼馴染のミチは膝枕をしてあげる。やがて勝平が生還したことを知った町の人や、家族、親戚などが駆けつける。ゆっくりと目を開いていく勝平。あどけない表情から、やがて自分がどこにいるかを理解した顔に変わる。そしてその顔のアップはホワイトアウトして幕となる。語るべき言葉を失った勝平が、どんなことを思うのかは、未来と視聴者に委ねられているが、彼はミチの肌のぬくもりを手がかりに、此岸へと戻ってきたことは間違いない。勝平があどけない表情を一瞬浮かべることからも、このシーンは一種の生まれ直しとして演出されており、ミチはここで第二の母親のような役割を果たしている。
 もう一つが映画『機動戦士Zガンダム A New Translation』シリーズの第三作『星の鼓動は愛』(二〇〇六)のラストシーンである。この劇場版『Zガンダム』は、TV『Zガンダム』を三部作の形に再編集したものだ。公開二〇年前に制作された旧作の映像を生かしつつ新作を加えることで映画としてまとめ直されているが、一番大きな変更点はラストでカミーユが精神的に崩壊をしないという点だ。現実認識と、それを超えられなかった少年という物語のゴールを変えてしまったのだ。
 同作は新たなラストに向かっていくため、いくつかの布石を打っているが、印象的なのは映像の流れは同じでも台詞を変更することで、シーンの持つ意味を変えたところだ。このあたりも富野の言葉によって作品の根幹をコントロールしようとするスタイルを感じることができる。
 まず一つめの大きな変更は第二作『恋人たち』の中盤、ティターンズの強化人間フォウ・ムラサメとカミーユの会話だった。フォウとカミーユは、ニューホンコンで出会い互いにシンパシーとも愛情ともつかない感情を抱いている。そんな二人が戦場で出会い、カミーユはフォウの乗るサイコガンダムのコックピットにとりついて言葉を交わす。
 TV版第20話「灼熱の脱出」(脚本:遠藤明吾、絵コンテ:関田修)でカミーユは、フォウに言い残したことがあると、自分の両親が仕事ばかりで、家庭を顧みなかったことに対する思いを語り始める。そして隣の女の子(ファ・ユイリィ)がなにかと世話をやいてくれたが、自分のカミーユという名前を呼ばれるのがいやだったということも明かす。それはカミーユが女性の名前だからだ。そのコンプレックスがあったから男の証明がほしくて、空手もやったしホモアビス(小型飛行機)の大会にも出た、と告白をする。
 それに対しフォウは、今でもその名前を好きかと聞く。「好きさ。自分の名前だもの」と応えるカミーユ。そうするとフォウは拳銃を構えカミーユに「お互いの居場所に戻りましょ、ここはあなたには相応しくないわ」と告げる。フォウの名前は、戦災孤児でムラサメ研究所に引き取られ、四番目の被験体となったことにちなんでいる。だから彼女にとってその名前は自分が記憶も持たず、両親もいないことの象徴であり、好きになれるものではない。カミーユの告白を聞いて、フォウは自分たちの生きている世界が違うことを悟り、それぞれの居場所に戻りましょうというのである。
 これに対し劇場版『恋人たち』は少し異なる。カミーユが両親への思いを口にするところから始まるのは同じだが、ファに言及しはじめると「うるさい子なんだ」と、ファが口うるさい様子をいろいろと語り始めるのだ。そして「何を話してんだ」と口を噤む。
 フォウはその後、「カミーユって名前、今でも好き?」と聞くと、カミーユはそれを肯定する。フォウはカミーユの頭を優しく抱いて「私も好き。カミーユ・ビダン」といい、その直後に拳銃を構え、「お互いの居場所に戻りましょう」と告げる。
 劇場版は名前を巡る立ち位置の違いにはまったく触れていない。カミーユは、自分の両親への屈折した思いを語り始めるが、それがお隣さんのファの話になってしまう。その様子を見て、フォウは、カミーユの心の中の深いところにファがいることを悟る。だから最後にカミーユの頭を優しく抱いて踏ん切りをつけると「お互いの居場所に戻りましょう」と告げるのだ。このときの「居場所に戻る」とはつまり「ファのいる世界に戻れ」という意味合いだ。
 もう一つは第47話「宇宙そらの渦」で、精神的に変調をきたしつつあるカミーユが、宇宙空間でヘルメットのバイザーを開いてしまうシーン。TV版では「ヘンケン艦長やカツを殺した人は、このままにはしませんよ。この決着は付けるんです。そうでしょう?」とエマ・シーンに迫った後「そうでなければこんな宇宙そらも、人の住んでいるところも、息苦しくって」といって、ここでバイザーを開けてしまう。
 これに対して『星の鼓動は愛』は、ヘンケン艦長などの死に呆然としているエマに対し「ヘンケン艦長やカツやみんなが死んでいったからって、エマさんはまだ生きています!」と活を入れ「生命の限界って僕らが思っている以上に……」といって、バイザーを開ける。カミーユがいう生命とはつまり、身体がここで活動していることだ。だからあえてバイザーを開けるという、普通なら死んでもおかしくないギリギリのことをして生命=身体の強さを示し、エマに気合をいれたのだ。
 こうしてファへの思いと身体への信頼を描写したうえで、カミーユとシロッコのラストの戦いが描かれる。カミーユがZガンダムのウェーブライダー(飛行機状の大気圏突入形態)で、シロッコのジ・Oに突入し、シロッコが絶命するという展開は同じだが、そこからが違う。
 ゆっくりとジ・Oから離れたZガンダムは、緊張が解けるようにウェーブライダー形態からモビルスーツ形態へと戻っていく。それに合わせて深く息を吐くカミーユ。そばにはファの乗ったモビルスーツ・メタスがいる。さまざまなサブキャラクターの様子を点景で見せた後、二人はコックピットから飛び出して抱き合う。「ファだけは幻覚でもなければ、意識だけの存在でもない。こうやって抱くことができるんだから」。ファが足を大きく広げてカミーユの足に絡めているポーズも含め、ここでは身体性が強調され、それがカミーユを此岸へとしっかりと繫ぎ止めている。フォウとの会話のアレンジ、「精神の変調」から「身体性への信頼」への転換を重ねて、このラストシーンに到達したのである。
 ではこの身体性への信頼は、いつ頃から作品に見られるようになり、戯作者・富野にとってどのような意味を持つのか。次の第11章で確認したい。