『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、戯作者・富野の主題と演出家・富野の技が融合した作品だった。ではその後、富野の演出はどのように変化したのだろうか。
 答えを先に書くならば富野演出の原則は、一九九〇年代以降も大きくは変わっていない。富野は二〇〇二年にアニメーション演出の要諦をまとめた『映像の原則』(キネマ旬報社)を著した。同書では『逆襲のシャア』でも駆使された「画面の上手・下手を意識し、方向性を駆使して情報を整理する」という手法や、「カット頭で待つ間を作らない」「板付き(カット頭から被写体がフレーム内にいる)で始めない」といった原則などが理由とともに記されている。当然、富野自身も演出するときにはこれら原則を一貫して守っており、その点での大きな変化はない。戯作者としては、一九九〇年代を経て「自我/科学技術/世界」とは異なる構図を試みるようになっていくことと対照的である。
 しかしこれはあくまでも「原則について」である。映像の原則に則ったうえで演出家・富野は、また新たな語り口に挑戦している。その特徴的な語り口とは、一つに「運動の徹底」と「人間性へのまなざし」だ。以下、物語の序盤の富野が絵コンテを担当した回を中心に、その語り口を確認する。序盤──特に第1話──を選ぶのは、監督として絵コンテを通じて作品のトーンを示す意識が強くあるであろうと考えたからだ。

運動の徹底──『F91』冒頭

「運動の徹底」とは、被写体だけでなくカメラワークも含めた「動き」を軸にした語り口を徹底する姿勢だ。止まることのない「運動」が途切れることなく展開することで、観客は現在進行形の事件の渦中へと巻き込まれる。
 もともと富野は以前から、「動き」の中で物語を語ろうと試みてきた。例えば『無敵超人ザンボット3』第1話「ザンボ・エース登場」や、『重戦機エルガイム』第1話「ドリーマーズ」(脚本:渡邉由自、絵コンテ:斧谷稔)は、どちらも主人公が乗り物(『ザンボット3』はバイクとボート、『エルガイム』はワークスと呼ばれるトレーラー)で移動する状況の中、さまざまな事態が発生するという組み立てになっており、その移動の感覚が画面を活気づけている。
 特に『エルガイム』第1話は、襲撃してくる山賊と戦うだけのシンプルな内容だけに、「画面左へ向かって移動するワークス」という動きをベースに、山賊とのアクションが組み合わさっており、富野演出の教科書のような作りになっている。
 しかしこれらはあくまで、物語のベースに「移動」を置いているだけで、「徹底」というにはまだ足りない。それは被写体もカメラワークも「動き続ける」というのは制作現場の負担が大きくなりすぎるから、TVアニメでそこまでは追求しないということもあるだろう。その制作体制の負担から生まれる制限を意識的に取っ払い、初めて「運動の徹底」に挑んだのが『機動戦士ガンダムF91』の冒頭のシーンだった。
『F91』は、『逆襲のシャア』の三〇年後を舞台に、新たな主人公たちで新たな物語をスタートさせた企画だ。そのため『機動戦士ガンダム』をなぞるような導入が採用されている。クロスボーン・バンガードと呼ばれる謎の軍隊が、スペースコロニー、フロンティアIVを侵略。突如戦争に巻き込まれた主人公シーブック・アノーを中心とする少年少女たちは、戦火の中を逃げ惑い、宇宙へ脱出しようとする。この逃げ惑う様子を描く冒頭の一〇分ほどが「運動の徹底」の最初の実践となっている。
 映画はフロンティアIVの隔壁を突破し、クロスボーン・バンガードのモビルスーツがコロニーに侵入するシーンから始まる。ここで船外活動中の人物──シーブックの父──のそばをモビルスーツが通り過ぎ、十数メートルあるその大きさが強調される。『F91』の冒頭はこの後も、モビルスーツと人間を同じカットに収める演出が頻出し、『F91』の演出上の狙いの一つであることがわかる。
 クロスボーン・バンガードのモビルスーツはコロニーの中で、応戦する連邦軍のモビルスーツ部隊と戦闘することになる。ここで突如戦闘地域となった市街地を、一般市民が逃げ惑う様子が徹底して描かれる。画面の中の誰もが走っており、それは細かく描き分けられている。モブキャラクターではあるが、印象的な芝居も多い。その情報量の多い画面を通じて、映画冒頭が徹底的に「動き」をベースに組み立てられていることが伝わってくる。
 発端は、学園祭の真っ最中の校舎に、戦闘中のジェガン(連邦軍のモビルスーツ)が落ちてくるシーンだ。屋上に落ちたジェガンは、下の教室とそこにいる人々を押しつぶしてしまう。この様子を見て、校庭にいる人々が一斉に逃げ出し始める。続けてもう一機のジェガンが校庭に落ちて、木々をなぎ倒す。その手前にも走って逃げる人々がいる。
 まず、このとき逃げる人々が、さまざまな服装をしていることが印象に残る。モブキャラクターではあるが、できる限り記号化を避けて表現しようとしていることが伝わってくる。そこにポツポツと、目に留まる〝芝居〟がつけられたキャラクターが配置される。
 例えば校庭を取り囲む斜面の上を逃げる人々。その中に転ぶ人と、それを助けようと駆け寄る人がいる。あるいは街中で戦闘を行うモビルスーツの前に立ち尽くす人と、その手を引いて逃がそうとする人、混乱の中で偶然会い会話を交わした後、手を取り合って同じ方向へ駆け出す人々。こういったキャラクターが、やはり逃げようとしている主要人物たちのバックに描かれている。初見では見落としてしまいそうなお芝居ばかりだが、この画面奥の芝居が加わることで、画面全体が常に動いている印象になっている。
 印象的なモブキャラクターだと、渋滞する車の上を自転車を持って通り過ぎる人物や、スーツケースを抱えて渋滞の間をすり抜けて歩く年配の女性なども、画面に不思議なリアリティを与えている。
 こうした人間の動きに、モビルスーツの戦闘が加わる。この一連の逃走シーンでは、なるべく人間とモビルスーツを同じフレーム内で表現しようとしている。これによって「運動」の印象がさらに強められている。これは発端となったジェガンの墜落シーンからして、狙いが明確だ。
 その後のセシリーがシーブックに助けられるシーンも同様だ。撃墜されたモビルスーツ、ヘビーガンが鉄パイプで作られた構造物の上に引っかかる。この様子が、そのすぐ下を走り抜けようとするセシリーの姿と同じフレーム内で描かれる。壊れた鉄パイプが落ちてきて、セシリーのロングスカートの裾を縫い留めるように地面に刺さる。動けなくなったセシリーが振り返ると、徐々に落ちてきているヘビーガンの足が見える。ここもセシリーとヘビーガンの足が同一フレームで捉えられている。そこに駆け寄ったシーブックが、彼女のロングスカートを破って助けると、そこにヘビーガンが落ちてくる。
 このほかにも主要人物の演技を見せたあと、カメラを振って、その背後で戦うモビルスーツを捉えるなど、同一カット内で人物とモビルスーツを見せているところは多い。

越境するモビルスーツ

『F91』の冒頭のシーンはこのように「画面内で動いているものが多い」という点で「運動の徹底」の実践ではあるが、ここにもう一つの「動き」が隠れている。それは「遠景/中景/近景」の境界線を突破する動きだ。
 映像の中の風景は「遠景/中景/近景」に分けることができる。近景は人間とその周辺の空間。アニメならばセル画で描かれるものが多い領域だ。中景は建物など近景の外側に広がる空間で、基本的には美術の領域。遠景も美術の領域ではあるが、中景のさらに遠くに広がる「空」や「遠方の山」などで、情報量そのものはあまり多くない空間だ。
 モビルスーツは、その大きさや運動の空間からしてカメラで捉えようとすると自然と中景か遠景に属する存在として扱われることになる、しかし『F91』のモビルスーツはそこを越境する。遠景から中景に、中景から近景にと侵入してくる。制作上の効率でいえば、こうした越境がないほうが効率がいい。そうやって安全なカット割りに慣れていると、『F91』冒頭で描かれた「越境」という運動は、モビルスーツの持つ暴力的な側面を露わにするものとして描かれている。
「越境」という運動の徹底と、画面内で動くべきものを徹底的に動かすという徹底と、この二つが組み合わさることで『F91』の冒頭は出来上がっているのである。
 通常ならもっと効率のいい表現を選ぶところを、その制限を取っ払うことで「運動の徹底」に挑むという意識は、富野の中で明確だったと思われる。
 冒頭のシーンの作画監督を務めたむらしゆうこうは当時、富野との会話や絵コンテを通じて「劇場作品であることを意識した画作りにしたい」という意向を感じたという。また富野からは「アニメのカットを作るのではなく、映画のカットを作ってほしい」とも言われたという(1)。こうした意識が、丁寧に表現されたモブキャラクターなどに表れていると思われている。
 富野自身も『逆襲のシャア』に続いて「〝巨大ロボットもの〟なんだけれど、それをちゃんと映画にしなければいけないんだ(2)」という意識のもとで制作したと語っている。富野自身の『F91』に対する評価は厳しいものだが、少なくともこの冒頭の「越境」へのこだわりは、『ガンダム』の冒頭を一二年後に〝語り直し〟するにあたっては、絶対に必要なものだったのであろう。それぐらいやらなければ、ドラマと視覚的スペクタクルが重なり合う〝映画〟に至ることはできないという意識があったはずだ。
 なおこうした混乱状況の中ではあるが、シーブックたち主要人物の逃走方向は、基本的に画面左方向に揃えてあり、観客を戸惑わせることはない。学校の顔見知りたちがそれぞれに逃げながらも、最終的に乗り捨てられたトラックに集まってくる過程は、各キャラクターの動線が集まって一つの「少年少女の脱出行」という太い物語になっていくことが巧みに視覚で表現されている。その点で『F91』の冒頭は「運動の徹底」ではあるが、富野の演出術の根幹はそのままである。

方向性の不統一が生む混沌

 これに対し『リーンの翼』第1話「招かれざるもの」(脚本:高山治郎・富野由悠季、絵コンテ:富野由悠季)の冒頭は、「運動の徹底」を目指しているが、まったく異なるアプローチが採用されている。
『リーンの翼』第1話は、三つのシチュエーションが重なって進行する。一つはアメリカ軍のパブッシュ艦隊の造反。空母パブッシュは戦闘機F‐35を発進させ、山口県岩国の米軍基地にコンタクトを試みる。二つめは、主人公エイサップ鈴木のルームメイトである、はんろうかなもとへいによる米軍基地への攻撃。そして三つめが、基地に対するテロへの関与を疑われたエイサップによるバイクでの逃走である。そして、ここにバイストン・ウェルからオーラバトルシップが四艦浮上してくる、という状況が加わる。物語の冒頭でなければ決して許されないような、特殊な状況の重ね技だが、富野はそれを緩急つけつつも、変に整理をせず、混乱を混乱のまま描き出す。
 ここで興味深いのは、そうした混乱した状況を描き出すため、富野が方向性の演出を逆手にとってみせているところだ。
 例えば米軍基地が襲撃された爆発のカット。ここでは米軍基地とその建物で起きた爆発を金網のフェンス越しに見せ、その風景が素早く右へと流れていく。それはこのカットが自動車で移動している側の視点から撮られているからだ。
 カメラを切り返すと、金網の向こうにはバズーカ砲を持った矢藩が、金本の運転する車から身を乗り出している様子が見える。二人の車は画面右方向に向かっているが、彼らはフレームのセンターに置かれており、背景の建物と手前の金網が、左方向へ流れていくことで移動が表現されている。
 切り返したときにカメラが金網を〝越境〟している理由がここでわかる。前カットではフェンスが右に流れる画面だったが、このカットではフェンスが左に流れている。映像の持っている運動の方向性が逆になっているのだ。このカット繫ぎからゴツゴツとした印象が生まれる。これがカメラがフィックスで、車が走り抜ける表現だと、運動の方向性が「右」と「右」で同じになって、スムーズに繫がってしまう。
 このゴツゴツとしたカット繫ぎが意図的なものであることは、さらに次のカットでわかる。エイサップの母、鈴木敏子がタクシーに乗ろうとしている。タクシーを手前に置き、その奥に敏子がいる。敏子は画面左側へ動いていき、カメラはそれを追う。前カットのフェンスの左への流れと同じ方向かと思わせたところで、敏子を乗せたタクシーは画面右へと走り去る。
 ここに続くのは、画面右側にあるドアを開けて左向きの方向性で部屋に入ってくるエイサップだ。エイサップはカット内で向き直り、画面右側へ退場する。次は、それを受けてエイサップが別の部屋に画面左から入ってくるカットとなるが、ここでも着替えたエイサップは同一カット内で、さっき自分が入ってきた画面左側へと出ていく。
 このように画面に登場するものが「右向き」「左向き」とめまぐるしく入れ替わる。大きな方向性を統一することで見やすさを心がけることが多い富野演出の中で、『リーンの翼』第1話の冒頭は、方向性をあえて一貫させず混乱を巧みに演出している。
『F91』と比較すると大きく違うのは、『リーンの翼』第1話では、ほとんど「近景」しか登場しないことだ。それはエイサップ自身がこの混乱の中心の一人で、かつこの混乱ではモビルスーツのような巨大ロボットとの相互関係が表現のポイントとして選ばれていないからだ。そのかわり最初に戦闘機が登場し、続けて多数の自動車とバイク、途中からヘリも登場するなど、『リーンの翼』第1話は「乗り物」が多数登場して画面を飾る。『F91』の「運動の徹底」が逃げ惑う人々に依る部分が大きかったのに対し、こちらは運動の主体として乗り物がフィーチャーされているのだ。それは画面の中で動くもののスピード感が異なることにも繫がり、スピード感の印象が前面に出た『リーンの翼』のほうが、より狂騒的で、異様な事態が進行している印象が強まっている。
 こうして、めまぐるしく変わる方向性と、画面の中を速いスピードで動く乗り物の多さによって、『リーンの翼』第1話の「運動への徹底」は完成する。
 敏子と米軍兵のもとからバイクで逃げ出したエイサップは、右方向への移動を重ねて、海岸沿いの道を進む。パトカーに追いかけられる中、エイサップの眼の前をふいに通り過ぎる謎の鳥の羽。それに導かれるようにしてエイサップは、海のほうへと投げ出されてしまう。その海から現れたのが、巨大なオーラバトルシップ、キントキである。
 この巨大な艦船の突然の登場は、本来「遠景」にあるべきものの「近景」への越境とも考えられるが、動線は「画面の左から右」で、画面奥からの動きではない。暴力的な存在として描かれないのは、このキントキの甲板が、エイサップとヒロインである少女リュクス・サコミズの出会いの場となるからだろう。甲板に投げ出されたエイサップは、その舳先にとりついているリュクスに気づき、彼女の靴から、光る翼──リーンの翼──が大きく伸びている様子を目撃する。
 この後、海中からさらに後続のオーラバトルシップが浮上し、岩国の海上に四艦のオーラシップが存在することになる。このあたりで冒頭から続いた狂騒的な「運動の徹底」は一段落する。しかし、アメリカ軍、自衛隊、バイストン・ウェルのホウジョウ軍と反乱軍、そこに絡むエイサップたちが、まとまって一つの空間にいるという状況は、混沌であることには変わりはない。「運動の徹底」こそないが、そこからも各勢力にカメラを切り替えつつ、それぞれがそれぞれの思惑で動く状況を見せていく。当然、動きの方向性もあえて統一されず、誰も状況をコントロールできていない混乱の印象はそのまま継続している。
 このように『リーンの翼』第1話では、あえて動きの方向性を整えきらないことで、混乱の状況を混乱のままに描き出している。これは『聖戦士ダンバイン』の第1話「聖戦士たち」が、世界観のユニークさや作画の魅力が目に留まる一方で、演出的には「動き」の印象は弱く、むしろ画面は「動かない」印象が強いこととも対照的だ。

人間性へのまなざし──『ブレンパワード』以降

『F91』と『リーンの翼』が「動きの徹底」への挑戦である一方、『ブレンパワード』から『ガンダム』にかけて富野の演出はキャラクターの人間臭い側面を、やさしい視線ですくい上げるようになっていく。これをここでは「人間性へのまなざし」と呼ぶことにする。「人間性へのまなざし」を感じさせるシーンは、しばしばユーモアを感じさせるが、決して笑わせるためのものではない。登場人物の人間臭い部分を拾い上げた結果、それが笑いに繫がるだけなのだ。
 このような演出は『ガンダム』や『伝説巨神イデオン』の頃にも見つけることはできるが、その段階ではまだ個別の描写の範囲に留まっており、作品の根底に流れているわけではない。この演出が作品のトーンを決定づけるようになるのは『ブレンパワード』以降のことである。
 例えば『機動戦士Vガンダム』でも第16話「リーンホース浮上」以降、ウッソたちだけでなく、太陽発電衛星ハイランド出身の子供たちが加わったこともあり、ユーモラスなシーンは増えてくる。またウッソたちが所属するレジスタンス組織リガ・ミリティアの大人たちも、柔らかな雰囲気を持ってはいるが、人間臭さが際立つほどではない。『Vガンダム』は歴代の『ガンダム』シリーズの中でも、頭身が低めで温かみを感じさせるキャラクターデザインを採用しているので、企画スタート時はもっと、人間の魅力にフォーカスした語り口も想定していたのかもしれないが、最終的な作品はシビアな展開となり、そちらの語り口が基調をなすことはなかった。
『ブレンパワード』も、全体としては親子の確執を軸にしたハードな物語ではある。しかし、ユキオ、アカリ、クマゾーという三人の孤児の存在が、そこに風穴をあけている。三人は、主人公・伊佐未勇が身を寄せる国連麾下の実験艦ノヴィス・ノアに乗っており、『ガンダム』におけるカツ、レツ、キッカ的な子供の存在ではあるが、役割は少々違う。カツ、レツ、キッカは──第43話(最終回)「脱出」(脚本:星山博之、絵コンテ:斧谷稔)でニュータイプの片鱗を見せるものの──基本的にホッとする瞬間を作るコメディリリーフの要素が大きい。もちろんユキオ、アカリ、クマゾーにもコメディリリーフという要素はないではないが、もっと物語展開に関わる存在として扱われている。
 例えば三人は宇都宮比瑪の乗るブレンパワードと長い付き合いで、ノヴィス・ノアのクルーよりもブレンパワードの世話について詳しかったりする。またクマゾーは、敵対する登場人物二人と偶然にも交流し、彼らの人間的な側面を浮き上がらせる役割を果たした。さらに後半にはノヴィス・ノアに世界の孤児を集める計画が登場するが、それもこの三人がいればこその展開だ。
 そんな三人が勇と絡むのが第6話「ダブル・リバイバル」(脚本:富野由悠季・たかはしてつ、絵コンテ:斧谷稔)だ。勇は彼同様オルファンを脱出してきたカナン・ギモスと、ブレンパワードのコックピット前で会話をしている。この二人を見張るのが、アカリとクマゾーである。「カナンていうやつが勇を連れ出そうとしたら断固阻止するんだぞ」「だんこそし!」と言葉を交わす二人。
 勇がブレンパワードに乗り込もうとしたと勘違いした二人は、足にしがみついて勇をブレンパワードから降ろそうとする。思わぬ襲撃に困った勇は、カナンに助けを求める。でもカナンはそのほほえましい光景──オルファンにいるリクレイマー同士では絶対にありえないからだ──に笑みをもらしながら「ちょっと助けられないなぁ」と応える。ついには踏み台にしていた脚立が倒れて、アカリとクマゾーは勇の足にぶらさがり、勇はコックピットハッチで股裂き状態になってしまう。
『戦闘メカ ザブングル』なら、こういうシーンはもっとドタバタした笑いのシーンになり、それを通じてキャラクターの生命力、バイタリティが浮かび上がることになっただろう。『エルガイム』でもおそらくギャグシーンとして演出され、それがキャラクターたちの若さを感じさせるものになったはずだ。これに対し『ブレンパワード』は、そこをあまり笑いに振らず、「一生懸命なアカリとクマゾー」「そこがノヴィス・ノアらしいところだと知って微笑むカナン」、さらに「それを見守るパイロットのラッセとナンガ」という形で、人間らしい一つの情景として描き出す。人間というものを斜に構えず、おおらかな雰囲気の中で描き出すことで、『ブレンパワード』独特の空気感が生まれている。

ガンダム』のおおらかさ

 このおおらかな雰囲気は『ガンダム』にも受け継がれた。例えば第1話「月に吠える」(脚本:星山博之、絵コンテ:斧谷稔)で主人公ロランは、溺れた自分を救ってくれたお礼にお辞儀をすると、背負っていたリュックサックの重さで転んでしまう。第3話「祭りの後」(脚本:あさかわ、絵コンテ:斧谷稔)では、月のディアナ・カウンターの兵士ポゥ・エイジが叱責されて涙をホロリと流す。叱責した上官フィル・アッカマンは、きつい冗談としていったつもりだったので、真に受けたリアクションに戸惑いの表情を浮かべる。第4話「ふるさとの軍人」(脚本:高橋哲子、絵コンテ:西森章)で、ロランが「月出立の時、女王ディアナ・ソレルからキスの挨拶をいただいた」と無邪気に話すと、ディアナ親衛隊のハリー・オードが、ちょっとおもしろくなさそうに「それはよかったな」と返す。いずれのシーンも、その人物の人間味がふとしたところでにじみ出ていて、それが視聴者の口元をついほころばせることに繫がっている。
ガンダム』の語り口──特に序盤──は富野作品にはめずらしいほど、ゆったりとしていて、「運動の徹底」どころか画面のスピード感そのものもかなりゆったりしている。そのおだやかな流れの中で、たっぷりと人の有り様を見せていく。中盤以降も戦闘シーンは増えてくるものの、合間にゆったりとしたシーンが挟まれることには変わりがなく、このような富野作品は『ガンダム』以外にない。その点で富野作品が「人間性へのまなざし」を大切にするようになったことが明確にわかる作品であるといえる。
 ちなみに「人間性へのまなざし」が作品の基調をなしていく変化について富野自身はどこまで自覚的か、インタビューで質問をしたことがある。富野自身は『ブレンパワード』から『ガンダム』にかけて、自身の演出が変わったという印象はないのだという。とすると、作品のそもそものテーマ設定、『ガンダム』離れを意識した脚本チームの存在、さらに『ガンダム』においては安田朗によるキャラクター原案などが作用して、富野のそれまであまり使っていなかった演出技法を引き出したということなのかもしれない。

クワトロの人間らしさ──『新訳Zガンダム』

 いずれにせよ『ブレンパワード』に端緒が見え、『ガンダム』で大きな花を咲かせた「人間性へのまなざし」は、二一世紀に入ってからの富野作品の特徴といえる。二〇〇一年以降の作品で、「人間性へのまなざし」がそこまで目立たないのは『リーンの翼』だけだ。
 この「人間性へのまなざし」が作品のトーンに大きく影響したのが映画『機動戦士Zガンダム A New Translation』三部作(以下『新訳Zガンダム』と表記)だ。
『新訳Zガンダム』は、TV放送から二〇年後に公開された総集編映画だ。当時のTVシリーズの映像に、新作カットを加えて構成されている。本作が『A New Translation』(新訳)と銘打たれたのは、TVシリーズのラストでカミーユが精神的に崩壊するという展開を、変更するということを前提にこの劇場版が制作されたからだ。ラストシーンの変更による主題の変化は第10章で検討するが、ここで注目したいのは細部の描写の変化である。
 TV版第5話「父と子と…」(脚本:おおひろし、絵コンテ:杉島邦久)では、連続して母と父を失ったカミーユが、クワトロ・バジーナ(名前を変えたシャア)、エマ・シーン、レコア・ロンドを前に自らの心情を語るシーンがある。TV版ではソファに座ったカミーユが、両親の死と両親が自分に関心を持たなかったことについて激昂する様子が描かれた。またそこでクワトロがシャアの名前を挙げるとカミーユは「一人で組織に対抗したバカな人だ」と論評し、それをクワトロは正面から受け止めたリアクションをする。
 これが『新訳Zガンダム』第一作『星を継ぐ者』になると、感情的になったカミーユの肩をクワトロが抱いてなだめたり、その後、消耗したカミーユがレコアに体をあずけたりとスキンシップが増えている。またシャアの名前を挙げるのはエマになっており、カミーユがTV版同様に厳しく論評すると、クワトロはそこにある種の軽みを感じさせるリアクションで応じる。
『新訳Zガンダム』でなにより違うのは、その後に新たに付け加えられたシーンだ。会話が終わると、クワトロがエマを食事に誘い、カミーユ以外の三人が席を立つ。エマは先に部屋の外に出るが、クワトロとレコアは、その後に控えた「レコアが地球に降りる計画」の話をしており、すぐ外に出ない。エマが気になって自動ドアをあけて戻ってくると、レコアが部屋の外に出ながら「大尉にお尻を触られていたの」と冗談をいう。エマがそれを「ああ」と受け、クワトロが「違うぞ」と応じる。このクワトロの「違うぞ」のトーンもまた笑わせるでもなく、きわめて普通の軽みを帯びていて、そこにクワトロの人間らしさが滲んでいる。クワトロという人間が確かに生きていて、同時にかっこいいことも伝わってくる。
 二枚目のキャラクターに人間味を加えようとすると、得てして二枚目を崩すことで笑いに転化しがちである。しかしここではクワトロの二枚目を崩すことなく、作品にユーモラスな雰囲気を与えている。キャラクターの演技のプランとそれに応えるキャストの演技が嚙み合って、このシーンは成立している。このバランスは『ガンダム』のハリーの描写などでも見られたもので、『ガンダム』での経験が『新訳Zガンダム』に反映されていることを強く感じさせる。
 第二作『恋人たち』では、クワトロ、ブライト・ノア、ヘンケン・ベッケナー、ウォン・リーのメンバーで次の作戦を検討するシーンが新作で描かれた。会議の終わりに、しかつめらしい表情をしているブライトが描かれるが、実はブライトは、クワトロが地上から持ち帰った、地球に残した家族のビデオを見ていたのである。このほほえましいまとめ方はTV版ではありえなかっただろう。
 そこに続いてヘンケンが、自分が思いを寄せるエマを自艦ラーディッシュに配属してほしいというくだりが出てくる。それに対し「脈は保証できないんだぞ」というクワトロ。それに対しヘンケンは「脈をつけるのが男の甲斐性ってもんだ。な、いいな」といって去っていく。それを受けてブライトもクワトロも「いいな」とつぶやく。この繰り返される「いいな」も一歩間違うと作為が先立って、コントのようなウケ狙いになりかねないのだが、ここでも演出と演技が、その紙一重の難しさをかわして、ある種のかわいらしさに着地している。
 このように『新訳Zガンダム』では、クワトロの人間臭い部分が、TV版よりも強く感じられるようになっている。それはその後のクワトロ(=シャア)を描く『逆襲のシャア』が、シャアの人間臭い部分、情けない部分に触れていくことを念頭に置いての采配だったのかもしれない。
 クワトロの人間臭さが際立つのがやはり『恋人たち』で描かれた、アーガマの食堂でレコアと食事をするシーンだ。
 ここで、レコアとクワトロが隣り合って食事をし、レコアがクワトロに牛乳を手渡そうとして、二人の手が触れ合ってしまう様子が描かれる。TV版第32話「謎のモビルスーツ」(脚本:遠藤明吾、絵コンテ:うちしゆう)では、レコアはそのままそそくさと退席し、クワトロはそこにやってきたカミーユと「人の心に踏み込む資格」について言葉を交わす。この会話がクワトロとレコアの微妙な距離感を示すものになっていた。
『恋人たち』ではカミーユの登場をカットし、残されたクワトロが「力のバランスを考えすぎると思うが、私だって独り身だ」とつぶやく。こうしてクワトロの人間臭さを強調したうえで、その後、レコアとのキスシーンが描かれる。レコアはキスのときにクワトロがサングラスをはずさなかったことで、自分に心を開いていないことを感じ取る。
 TV版のこのシーンでは、二人はもっと長い会話を交わし最後にキスをする。この過程でレコアはクワトロが自分に心を開いていないことを確信する。TV版のほうがレコアの言葉にクワトロがいろいろ応じている分だけ、クワトロは心を開いているふりをしているが、それは表層的なもので、レコアに意図的にウソをついているという表現になっている。これに対して『恋人たち』のほうは、人間関係のすれ違いという意味合いが強くなっている。TV版よりも人のありようを肯定的に描き、感情の軋轢を抑えめに描く『新訳Zガンダム』の方向性がこのクワトロの人間臭さに表れている。

動きが彩る人間性──『Gのレコンギスタ』

 富野はこうして、一九九〇年代以降も「動きの徹底」と「人間性へのまなざし」といった、作品に合わせた挑戦を通じて演出スタイルの幅を広げてきた。『ガンダム Gのレコンギスタ』第1話「謎のモビルスーツ」(脚本:富野由悠季、絵コンテ:斧谷稔)は、この二つの挑戦が渾然一体となっている。
『Gのレコンギスタ』第1話は画面上の動きでいうと、「上下方向」の動きがポイントになっている。というのも本作はキャピタル・タワーと呼ばれる宇宙エレベーターが世界観の中心に据えられており、特に第1話は主人公ベルリたちキャピタル・ガード(タワーを守る自衛組織)の候補生たちが、このエレベーターで宇宙実習に赴く、という展開になっているからだ。
 TVのフレームは16:9の横長で、上下方向には狭い。もちろんキャピタル・タワーを見せるときは、上下方向へのカメラ移動でその大きさ、宇宙へと繫がる姿を見せているが、ロボット・アクションはそれだけでは対応ができない。そこで富野は被写体の動線を、フレームの対角線上にとり、サブタイトル前のアクションでは右上から左下への運動、後半の戦闘シーンでは左上から右下へ向かう運動を中心とした。これにより動きの方向性を生かした演出を行いつつ、それが上下方向の運動として印象に残るように画面をコントロールしたのだ。方向性の原則を踏まえたうえでの応用ともいえる演出で、『リーンの翼』第1話で、左右の方向性をひっきりなしに入れ替えた手法に通じるところがある。
 また「人間性へのまなざし」については、誰か特別な登場人物を際立てるというより、細かな描写のあちこちに人間臭さが垣間見えるのである。
 地上を出発したキャピタル・タワーの巨大な〝かご〟(作中ではクラウンと呼ばれる)にカメラが寄っていくと、まずおもちゃの蝶々がヒラヒラしているのが見える。乗客の子供が手に持って遊んでいるのだ。その子供が畳んで並べられた荷物にぶつかってしまう。「向こうに行ってな」とキャピタル・ガードの男が少し強めに子供に声をかけるが、同時に子供が落とした蝶々のおもちゃを拾ってあげている。
 そこにムチの音が聞こえるとカメラが切り替わり、候補生たちを前に、ムチを手にしながら教官デレンセン・サマターが話をしている様子が映し出される。ムチを振るわれたのが主人公ベルリ・ゼナムだが、それをかわしたことで「なんでよけたんだ!」とデレンセンに叱責される。それに対し「常日頃、臨機応変に対応しろとは大尉殿の教えであります」とあっけらかんと応えるベルリ。
 そのあっけらかんとした笑顔のベルリに、デレンセンは「笑っている場合か」ともう一度、ムチを振るうが、それをひょいとかいくぐってベルリはデレンセンの懐へと飛び込む。
 この一連のシーンだが、怖そうに見えるデレンセンもその表情はどちらかといえばコミカルで、ベルリのあっけらかんとした笑顔とあいまって、どこか戯れているような感覚が画面に生まれる。「大尉の教え」と語るベルリの後ろで、さきほど荷物にぶつかった子供が、母親に抱きかかえられ、父親らしい人物に写真に撮られている様子が描かれているというレイアウトも、画面に人間臭さを強く漂わせている。
 そうなると恐ろしげに見えたムチも、デレンセンが鬼教官であることを示す小道具というより、「教官が学生相手に基礎知識を問いただす」という動きの少なくなりそうなシーンに、動きを与えるために登場したのではないかと思えてくる。
 ベルリが初登場となるこのシーンは、デレンセンとベルリのやりとりに限らず、それぞれのカットに「印象的な動き」があり、それを通じて「人間臭さ」が浮かび上がってくるようになっている。『F91』のように大量のモブキャラクターが動くでもなく、『リーンの翼』のように動きを通じて混乱を描くわけでもないのだが、それでも画面が生き生きと動いている。これは『OVERMAN キングゲイナー』につづいて富野作品に本格参加したキャラクターデザイン・作画チーフの吉田健一の仕事による部分も多いのではないか。吉田は第1話では演出としてクレジットされている。
 吉田は『キングゲイナー』第1話の作画監督を担当したときに、演出の笹木信作と話し合い、「富野の絵コンテに描かれた内容は一度全部作画してみる」という姿勢で臨んだという。TVシリーズにしては負担が重すぎる、という制約をとっぱらってみようというものだ。『Gのレコンギスタ』第1話にもそれと通じる、絵コンテに描かれたであろう細かなお芝居を丁寧に拾っている印象がある。
 アニメの場合、実写よりも「動いている部分」の印象が強まる。つまり細かなお芝居をさまざまに拾うことがそのままアクションの印象を強めているのである。そして『Gのレコンギスタ』第1話の場合、その動きの多さは、荷物にぶつかる子供も含めたうえで、人間臭さの表現に繫がっているのだ。
 候補生たちが背中にランドセル(船外活動用のバックパック)を装着していると、そこにセントフラワー学園の女生徒たちが乱入してくる。候補生の宇宙実習にあわせて、チアリーディングで声援を送るのが、セントフラワー学園の生徒の間で伝わる〝伝統〟なのだ。ここで女生徒たちのチアが、さらに画面を活気づける。
 ここには『F91』の脱出行や、『リーンの翼』におけるエイサップの逃走といった、物語を牽引する強い軸はない。そのかわり入れ代わり立ち代わり、印象に残る「動き」をみせるキャラクターたちが登場し画面を彩る。それはミュージシャンがセッションしているようで、前面に出るキャラクターが次々と入れ替わりながら作品を進行させていくのだ。
「運動の徹底」というほど狂騒的ではないかわり、ここでは画面が生き生きしている感覚がずっと継続する。それは登場人物たちがどこか憎めない存在である印象を強めていく。ここでは「人間性へのまなざし」が「運動」を通じて表現されており、一九九〇年代に入って以降の富野の演出が、どんなところを目標としてきたかがうかがえる。

 なお「人間性へのまなざし」がここまで印象に残るようになった理由の一つに、主人公キャラクターの性格が変化してきた、ということも考えられる。『ガンダム』のアムロ・レイからはじまる、思春期らしい悩みを抱えた人物の系譜は『ブレンパワード』の伊佐未勇で終わっているのである。その後のロラン・セアック(『ガンダム』)、ゲイナー・サンガ(『キングゲイナー』)、エイサップ鈴木(『リーンの翼』)、ベルリ・ゼナム(『Gのレコンギスタ』)は、程度の差はあれど、基本的に斜に構えず、むしろ目の前にあるものを素直に受け取る力に優れている。主人公の性格が変わったことで、登場人物たちの相互の関係も柔らかなものになっていく。それは演出にも影響を与えないわけはないだろう。結果として作品全体が「人間性へのまなざし」を大切にする色合いを帯びることになったとも考えられる。この主人公像の変化も、一九九〇年代末以降の富野作品の重要な要素である。