シド・フィールドは映画全体を第一幕「状況説明」、第二幕「葛藤」、第三幕「解決」に分ける。そして第一幕の終盤に、第二幕に向けてストーリーの方向を決める出来事「プロットポイント1」が、第二幕の中盤に折り返し点としての出来事「ミッドポイント」、第二幕のラストに、第三幕の解決に向かう出来事としての「プロットポイント2」が配置される。シド・フィールドの三幕構成は、実際にはもっと精緻な構成術だが、ここでは『逆襲のシャア』の物語構成を確認するための、〝物差し〟として使用するだけなので、以上のポイントだけを参考として用いることにする。

プロットポイント1

 まず「状況の説明が終わり、物語のセッティングが完了して、第二幕に向かう」というプロットポイント1に相当するエピソードは何か。
「戦争」という面で考えれば、映画開始一〇分ほどが経過した、ネオ・ジオンが5thルナを地球に落とし被害が発生したというエピソードがそれだと考えられる。ここまでに、ネオ・ジオン軍は、地球に魂を引かれた人々=連邦政府幹部の粛清を掲げていること、連邦軍はそれを止めようとしていること、という戦争を支える対立の構図が説明されている。またその状況で、ネオ・ジオン軍が作戦を成功させたことで、「ネオ・ジオンと連邦の和平交渉は成り立つのか」「ネオ・ジオンは果たして信用できるのか」という疑問が浮かび上がり、第二幕の前半を牽引することになる。
 一方、クェスの物語のプロットポイント1は、少し遅い四〇分頃。宇宙に上がったクェスは、同年代の少年ハサウェイと仲良くなる。二人の乗ったシャトルは、ハサウェイの父ブライトが乗る軍艦ラー・カイラムに救助される。ここでクェスはアムロとも出会う。しかしサイド1のロンデニオンで、クェスはシャアと出会い、アムロやハサウェイとも袂を分かってシャアのもとへと走り去る。ここまではクェスがどんな少女であるかを家族やハサウェイを通じて描いてきたが、このポイントから第二幕に入り、クェスとシャアの物語が始まるのである。

ミッドポイント

 では次に折り返し点である、ミッドポイントはどうか。これは戦争のレイヤーもクェスのレイヤーも同じタイミングで、ちょうど全体尺の半分に近い六〇分前後で描かれるネオ・ジオン軍のルナツー基地襲撃という事件がそれに相当する。
 ネオ・ジオンは5thルナ落下の後、地球連邦軍と和平交渉を行い、軍隊の武装解除を約束する。しかし、それは偽りの和平だ。武装を解除したかのように装い、連邦軍ルナツー基地に接近したネオ・ジオン艦隊は突如攻撃に転じる。これを陽動として、本隊はかつてネオ・ジオン軍が本拠としていた小惑星アクシズを奪取。アクシズを地球へ落下させるための作戦を開始する。偽りの和平が破られ、この折り返し点を越えると、クライマックスのアクシズ落としへと向かって物語が一気に展開していくことになる。
 戦争映画として見たとき、初戦(5thルナ攻防戦)で連邦軍が負け、和平交渉したかに見えたが、第二回戦(ルナツー基地襲撃)でも連邦軍が負け、いよいよ後がない、という形で映画が盛り上がっていく構成になっているのがよくわかる。
 そしてクェスの転機もまた、このルナツー襲撃の中で描かれる。ネオ・ジオン軍でパイロットとなったクェスは、パイロットとして抜群のセンスを見せる。その彼女が初陣として出撃したのが、ルナツー襲撃だった。彼女はこの戦いの中、それとは知らずに父アデナウアーが乗った巡洋艦クラップのブリッジを攻撃し、父を殺してしまう。クェスはその直後、理由のわからない不快感に苛まれるが、彼女は間違いなくその瞬間に、戻ることのできない〝ある一線〟を越えてしまったのである。これがクェスの物語のミッドポイントである。

プロットポイント2

 では二幕目終盤にあり三幕目の内容を方向づけるプロットポイント2は、どうだろうか。
「戦争」のレイヤーの第二幕後半は、アクシズの落下を止められるかどうかをめぐって展開する。当然ながら、プロットポイント2は「最後の決戦に向かおうとする」エピソードが相当することになる。具体的には、アクシズへの第一次攻撃が不発に終わり、最終手段である第二次攻撃を実行するためのブリーフィングのシーンがプロットポイント2に当たる。およそ八五分ごろのポイントだが、ここでブライトが「すまんが、みんなの命をくれ」といい、ラー・カイラムのクルーはそれに敬礼で応える様子が描かれている。
 クェスの物語のプロットポイント2は、ブライトの台詞の少し後の約九〇分頃。出撃前にシャアを「あたし、ララァの身代わりなんですか?」と問い詰めるシーンがそれに当たる。
 ララァはいうまでもなく、『ガンダム』でシャアが見出したニュータイプで、当時はシャアの恋人でもあった存在。しかしララァは、同じニュータイプとしてアムロと深く精神的な交歓を行い、シャアとアムロの間に引き裂かれる形で死に至っている。クェスはギュネイからこの経緯を聞かされ、シャアを問いただしに来たのだ。
「大佐のためなら死ぬことだってできる」というクェスに対し、シャアは「わかった。私はララァとナナイを忘れる」とウソをつく。ナナイは、作戦参謀兼ニュータイプ研究所所長で、現在のシャアの片腕かつ恋人である存在だ。このシャアのウソをクェスが受け入れたことで、クライマックスにおけるクェスの運命は決したともいえる。その点でここがクェスのプロットポイント2であろう。
 こうしてみると、プロットポイント1こそ、「戦争」と「クェス」のレイヤーで大きく時間がずれているが、そこを除けばミッドポイントも、プロットポイント2も、ともに非常に近い位置にエピソードが配置されていることがわかる。映画の節目に相当するポイントに、二つのレイヤーの出来事が近接して置かれているからこそ、上映時間以上に情報が詰まって感じられるのだろう。

政治的な枠組みから個人的因縁へ

 ではシャアとアムロのレイヤーのエピソードはどのように配置されているのか。こちらは「物語の大枠」であって、物語の展開をリードするものではないので、三幕構成の各ポイントに沿ってエピソードは配置されていない。例えば「戦争」のレイヤーのプロットポイント1、「クェス」のレイヤーのプロットポイント1の両方で、二人は意見を戦わせ、それぞれの政治的な立ち位置を明確にすることで、物語全体の大枠を明確に示している。
 この映画序盤で示された二人の「政治的な大枠」が終盤に至ると変化して、より個人的な対決の色が濃くなる。このきっかけとなるのが二幕目後半。プロットポイント2の前後からだ。
 ギュネイは二幕目後半に、シャアが今回の戦争を起こした動機について「ララァをアムロに取られたから、大佐はこの戦争を始めたんだぞ」という話を持ち出す。そしてプロットポイント2の直後には、アムロのνガンダムに使われている新しいフレーム、サイコフレームの技術が、実はネオ・ジオン軍からリークされたものであることが明らかになる。
 そして三幕目に入って、シャアの口からこれらの一種の〝答え合わせ〟に相当する台詞が語られる。それが「命が惜しかったら、貴様にサイコフレームの情報など与えるものか」「情けないモビルスーツと戦って勝つ意味があるのか?」という台詞だ。
 シャアは、ララァを奪われたという感覚も含め、アムロに負けたということにこだわりがあり、その劣等感を払拭したいがために、アムロとの対等な勝負と勝利にこだわったのである。このシャアの情けない本音が最後の最後に明かされるところに、本作のおもしろみがある。
 三幕目に入り、クェスの物語が起こるべくして起こる悲劇によってケリがつくと、こうしてシャアとアムロの個人的な因縁が前面に出てくるのである。このようにシャアとアムロの物語は、映画序盤の政治的立ち位置が描かれ、映画終盤はその政治的大義の裏側にある個人的因縁にフォーカスが当てられて描かれるという構成になっている。

クェスが表す作品の輪郭

 物語の全体構成を見渡してみると、クェスというキャラクターがどのように演出されていたかもクリアに見えてくる。端的にいうとクェスには、ポイントとなるシーンで必ず方向性が変わるという形で演出が施されている。
 冒頭の一〇分間で見たとおり、家出中に左向きに逃げていた彼女は、家に連れ戻され、右向き方向で宇宙へと向かうことになる。
 次に彼女の方向が変わるのが、偶然ラー・カイラムに乗り込むことになり、アムロと初めて接触するあたり。クェスはモビルスーツデッキで画面左側に進もうとするが、アムロが現れて「この先は、民間人は入らないほうがいい」と彼女を遠ざけ、クェスは右側へハケていく。おもしろいのはその翌日、クェスは同じようにモビルスーツデッキに向かうが、今度はチェーンに「民間人が入ってはいけないのよ」と注意されることになる。このときクェスは「あなたこそなんでここにいるの?」「あたしは、ニュータイプだって言われているアムロに興味があったのに、なんであなたは邪魔するの?」と食ってかかる。しかし、このときも彼女は前日同様、画面右側へとハケざるをえなくなってしまう。
 ここではアムロの方向に接近しようとしても、そこから遠ざけられてしまうプロセスが、方向性の変化として描かれている。そしてこの次に出てくるクェスの方向転換は、クェス自身の翻心によるもので、これが彼女の物語の本格的な始まりとなる。
 スペースコロニー・サイド1の一つロンデニオンに帰港したラー・カイラム。アムロ、ハサウェイとクェスは、ドライブに出かけることになる。ところがそこに極秘の和平交渉を終えたシャアが、馬に乗って姿を現す。
 このときアムロは、画面右側から左に向かって車でシャアを追いかける形になる。そのため同乗しているクェスも同様の動きをすることになる。やがてアムロがシャアに追いつき、カメラが二人を正面から捉えたところで、アムロは車を乗り捨て、馬上のシャアに飛びかかる。ここでアムロのベクトルは、それまでの画面左向きから画面右向きへと転換する。
 追いかけあいながら議論を繰り広げるアムロとシャア。クェスはそれを聞きながら、むしろシャアの意見に深く納得していく。「地球に残っている連中は地球を汚染しているだけの、重力に魂を縛られている人々だ」というシャアの言葉は、彼女にとって、政府高官でもある父や不在の母、あるいは愛人が、いがみあっている理由をうまく説明してくれたように感じたのだ。
 アムロとシャアは草原で取っ組み合い、アムロがシャアを投げ飛ばし、二人は距離を置いて対峙する。アムロが拳銃を抜こうとしたその時、クェスが動く。クェスはアムロを追い抜くような形で、アムロの背後にあたる画面左側から右側へと走り去る。この時に、クェスはアムロの手を打ち、取り落とした拳銃も奪っていく。そして画面右に到着すると、左側にいるアムロに向かって拳銃を構える。こうして画面の中でシャアと同じ右側に立ったクェスはそのままシャアとともに、画面右側へと走り去る。アムロに接近しようと思ったが果たせず、そのかわり、自分を理解してくれそうなシャアのもとへと走るクェス。この翻心が、方向性の転換として具体的に描かれているのである。
 そしてミッドポイントにおいてもやはり、クェスの方向性の転換が描かれている。ネオ・ジオンの艦船は、画面右側から左方向に向かってルナツーに接近してくる。初陣に臨むクェスも、左に向かってモビルスーツ、ヤクト・ドーガで発進する。そして初めての戦闘を行っている間に、自然と方向性がターンし、画面右方向を向くようになる。そしてルナツーの表面に沿って飛行していくと、彼女の眼の前に父アデナウアーの乗る巡洋艦クラップが見えてくる。ブリッジめがけてためらいもなく引き金を引くクェス。
 ここでポイントなのは、「父を殺したから方向性が変わった」のではなく、「方向性が変わった後に、父を殺すことになった」という点だ。クェスはシャアのもとに走ったときから自分で自分の人生を選択しており、出撃に至るのはその自然な帰結である。そして、初陣の中、徐々に兵士としての自覚を持ったことで、それとは知らないままに父を殺すに至ってしまったのである。アムロやシャアに興味を持ったことからもわかるとおり、クェスは周囲の人間に父性を求めているのだが、その結果として、尊敬はしていなかったものの、実の父を自分の手にかけてしまうというのは皮肉な顚末といえる。
 そして二幕目のプロットポイント2の直前にも大きな方向転換が描かれている。シャアの側にいるナナイに、いらだちを深めていくクェス。ギュネイはクェスを連れ出して、シャアがナナイと付き合いながらも、その心は未だにララァに惹かれているのだ、という解説をする。
 この話をするために、ギュネイは宇宙用スクーターでクェスを画面左側へと連れて行く。さらにギュネイは、下方向へ移動し、今は使われていないアクシズの旧市街へとクェスを連れて降りていく。シャアの心の奥底に触れるうえで、この下方向へと深く降りていく二人の移動はとても効果的に使われている。
 しかし、クェスはギュネイの語るシャアの〝本当の姿〟に関する話を切り上げ、「そんなことを言うから若い男は嫌いなんだ!」と画面右上へとハケていく。この方向転換の直後、クェスは「あたし、ララァの身代わりなんですか?」とシャアを問い詰めることになり、それに対しシャアがウソで応じたことが、彼女のプロットポイント2となる。
 以上のように、クェスは実質的主人公として、物語の展開と緊密に結びついた方向性のコントロールによって演出されている。これによって『逆襲のシャア』のストーリーは、くっきりとした輪郭を持って観客に迫ってくることになった。

アニメ業界の風刺?

 ここまでは富野が自らの演出術をいかに駆使して『逆襲のシャア』を語ってきたかを見てきた。では、戯作者・富野は『逆襲のシャア』で何を描こうとしたのか。
『逆襲のシャア』ではマクロの状況(政治的状況)とミクロの心情(シャアの内面)が複雑に絡み合って描かれている。この絡み具合が、本作を類例のない作品としていることは間違いない。
 まずマクロの状況を改めて確認しよう。『逆襲のシャア』は、ネオ・ジオン総帥となったシャアが、地球に小惑星アクシズを落とす作戦を実行する、という展開が大きな縦軸となっている。この作戦の背景には、スペースコロニーに暮らす多くの宇宙移民が、地球に本部を置く地球連邦政府によって支配されている非対称な構図がある。シャアは宇宙移民の権利を求め、〝重力に魂を引かれた人々〟(=地球にこだわり、宇宙移民の生活やメンタリティについて想像することをしない人々)を、隕石落としによって一掃しようとしている。
 隕石を落とせば地球は〝核の冬〟の状態になり寒冷化して、人が住むことはできなくなる。シャアは地球環境を破壊することで、強制的にその状況を作り出して、人類が宇宙に軸足を置かざるをえない状況を作り出そうというのだ。
 これに対し連邦軍ロンド・ベル隊のパイロットであるアムロは、現状の連邦政府をよしとはしていないが、シャアの性急で強硬的な手段を止めるために戦うことになる。
 このマクロな状況には以下のような読み方もある。

 サンライズなり(略)角川(書店)なりの人達、ま、愚民の人達がスポンサーの名の下に安全圏で作品を作れと言ってるわけですね。
 で、一応、富野由悠季というシャア・アズナブルは「よかろう。作品は作ってやろう」と。「だが、お前たちが全く望んでいなかったようなものを、お前たちの安全圏にぶち込んでやるぞ」と、それで『逆襲のシャア』を作ると、そういう話ですよね。(略)
 それに対して、アムロ・レイというもうひとりの富野由悠季が出てくるわけですよね。そのもうひとりの富野由悠季は「これはいくらスポンサーがいて、愚民がお金を出して作れと言ってるものでも、これはアニメーターなり現場のスタッフが飯を食う糧なのだから、やっぱり一生懸命やってみんなが幸せになれる作品にしなきゃダメじゃないか」という偽善ですよね(5)

 この見立てを語ったのは当時『美少女戦士セーラームーン』で注目を集めていたアニメーション監督・いくはらくにひこ。一種の私小説というか、戯作者・富野が日常の中で感じていることを、劇中の道具立てに置き換えて、ある種の〝本音〟を語っているという読み方である。なお、「愚民」というのは、作中でこの言葉が使われていることを受けての言い回しだ。
 この見立てが正しいかどうかはさておいても、富野のものの見方の一端は捉えているのは確かだ。
 個人的な体験談になるが、過去に富野が不快感を露わにする瞬間を見たことがある。そこには共通点があって「ルーティーンワーク」「習い性となってしまった仕事」を見せられたときに富野は不快感を示す。「いつもと同じ」で済ませてしまい、少しでも物事を前進させる意思のない仕事の進め方に対して、富野は怒りを隠さない。
 ただ一方で、前進の意思がありながらも、最終的に「身過ぎ世過ぎのためには、こうするしかない」という形で保守的な選択をせざるをえないことについては、富野は理解をする気持ちがある。
 この仕事に対する富野の二つの姿勢が、シャアの連邦政府へのいらだちと、アムロの穏当な姿勢に反映しているという見方は、決して強引な見方ではないように思われる。ただ、別のインタビューで「近視眼的な地球連邦政府がアニメのスポンサーに見えるという話もあります」という質問について富野はこう答えている。

そういう切り口でこられるなら、こういうお返事の仕方になります。結局は、その時の作り手が感じていたリアリズムがどうしても作品の中に入ってくる、ということです。(略)今言われたような図式論にはまって見えるのも、自分が本能的に察知していた世の中の雰囲気というものが、自動的に出てくるものであったわけです。ただ、僕の好みだけで話を作っていたら、それではきっと観客の興味を引っ張ることはできていなかったと思います。自分というものを経由しているけれど、それは好みではなく、リアリズムだったからスポンサーにも見えるという話にも繫がるんです(6)

 作品にリアリズムを導入しようとしている以上、自分の世間に対する感覚が意識・無意識のうちに反映されており、だからこそそのような読解も可能になっている、というのがインタビュー時点での富野の考えのようである。逆にいうと、むしろそういう見立てを、わざわざ「好み」──ここでは〝自分本位の企み〟という意味合いだろう──として作中に意図的に取り入れるようなことはしていない、ということだ。このあたりは「映画とかアニメっていうのは作り手が好きに作っていたらアニメになりません(7)」とさまざまなところで発言している富野らしい発言といえる。

リアリズムの反映

 さて、このような地球連邦政府の旧弊な思想と、それを一気に一掃しようとするネオ・ジオンのマクロレベルでの対立は、シャアとアムロの台詞で次のように表現されている。
 ロンデニオンでシャアはアムロに対し、「地球に残っている連中は地球を汚染しているだけの、重力に魂を縛られている人々だ」「世界は、人間のエゴ全部は飲み込めやしない」と、隕石を落とす理由を語る。これに対し、アムロは「人間の知恵はそんなもんだって乗り越えられる」と応じるが、ことを急いでいるシャアはそれについて「ならば、今すぐ愚民どもすべてに英知を授けてみせろ」と切って捨てる。
 映画終盤では、このシャアの姿勢に対して、アムロが次のように投げかける。
「世直しのこと、知らないんだな。革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標を持ってやるからいつも過激なことしかやらない」「しかし革命のあとでは、気高い革命の心だって官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、インテリはそれを嫌って世間からも政治からも身を退いて世捨て人になる」
 アムロはこんなふうに、シャアの姿勢があまりに理念的でありすぎることを指摘し、その行く末を予想してみせる。
 ここで問題になっている「地球環境の汚染」「地球連邦政府の官僚主義」「宇宙移民の政治的地位の向上」といったトピックは、一つ一つに意味があるというより、「現在の世の中にある複合的な問題」をリアリズムの反映として作品に投影したものだろう。だからここに明快な答えはない。こうした問題意識は「現実認識の物語」「現実とはこうであるという物語」というテーゼを掲げて制作された『Zガンダム』から直結している。先に触れたキャラクターの配置だけではなく、作品のバックグラウンドにある問題意識も『Zガンダム』と『逆襲のシャア』では共通しているのである。この問題意識は、その後も「人類がこの後、長く生き延びていくには何が必要か」という形に変化しながら、『ブレンパワード』『ガンダム』『ガンダム Gのレコンギスタ』といったタイトルのバックボーンになっている。
『Zガンダム』の場合、「現実認識の物語」を掲げた結果、主人公のカミーユ・ビダンは、自らのキャパシティを超えて戦い、結果として精神的に崩壊してしまう。戦いは、宇宙移民(スペースノイド)の側にたつエゥーゴが勝利してはいるものの、ニュータイプであってもそんなに単純に世界を平和にできるわけはない、といわれたような、苦い割り切れない思いの残る悲劇として完結している。
『逆襲のシャア』も、アムロとシャアの意見の相違に答えを出そうとはしていない。二人の極端な意見のぶつかり合いは、そのまま世間の問題のリアリズムとしての反映なのである。ロボットアニメという絵空事のはずなのに、二人の意見のぶつかり合いには現実と地続き感がある。ここでは二人の対立を通じて、映画というフィクションを現実に開いていくことが狙われているのである。そしてその上で本作は『Zガンダム』の悲劇とはまた異なるラストに到達するのだが、それについては後述する。

ララァをめぐる屈託

 本作の特徴は、このようなマクロの状況に対して、ミクロの感情──具体的にはシャアの屈託──が接続されているところにある。
 革命を起こしたインテリの行く末をアムロがつきつけたとき、シャアはどう応えたのか。
「私は世直しなど考えていない」
 それがシャアの答えなのである。どう考えてもシャアの行う隕石落としの作戦は、性急な世直しが目的としか考えられないが、それをシャアは否定するのだ。なぜそんなことをいわざるをえないかといえば、先述のとおり、シャアには「アムロにララァを取られた」という感覚を持ち続けており、その劣等感がアムロとの決着をつけたい強い動機になっている。ギュネイが「そのためにこの戦争を起こした」と指摘しているとおりなのだ。
 このシャアの「取られた」という感覚には補足が必要だろう。シャアとララァは当時、恋愛関係にあったが、ララァは数度すれ違っただけのアムロと、戦場で精神的に深く繫がり、ふたりは意識を共鳴させて未来のビジョンを垣間見る。シャアは、ララァとそのようなビジョンを見ることはできなかった。このことが「ララァを取られた」という感覚に結びついているのである。
 ただ一方で、アムロもまたララァとの記憶は一つの呪縛になっている。夢の中でアムロは、ララァに対して「シャアと僕を、一緒くたに自分のものにできると思うな」「シャアは否定しろ」と叫んでいるのである。アムロはアムロで、ララァが最期にシャアをかばって、アムロの攻撃に倒れたことが心の傷になっているのである。そしてアムロは、自分の心の底にあるこの感情を、今の恋人のチェーンには明かしていない。
 このように序盤は、マクロの状況による対立としてアムロとシャアを描きながら、映画の終盤でその対立が、実はララァをめぐる屈託の産物でもあるというふうに、ミクロの感情がマクロの状況に接続されていくのである。そしてシャアは、サザビーに使われた新素材サイコフレームの技術を連邦軍にあえてリークする。万全の状態のアムロと戦って勝ってこそ、自分の劣等感は払拭されるというわけだ。

「シャアというのはやっぱり、切ない」

 このように本作は、かつては野心に燃え颯爽としていた青年が青春のてつを抱えた大人となり、一方で内向的だった少年が心に傷を抱えながらも大人として振る舞う様子を対照的に描き出すのである。この二人の対比が、クェスの接し方にも表れる。「優しく接するけれど父親代わりはできないよ」と距離をとるアムロと、「ララァの幻影をそこに見つつも、父親を求める気持ちを利用して、戦闘マシーンとして扱う」シャアとの対比である。
 そんなシャアについて富野は「シャアというのはやっぱり、それはそれで切ないよね、と。で、切ないかもしれないけれど、それではダメだよ、と(8)」と語っている。シャアの最後の「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ。そのララァを殺したお前に言えたことか」という台詞は、その切なさの極みとしてある。ここでいう「母」とは、単に母性で包みこんで安心させてくれる、というだけではなく、シャアをニュータイプの高みへとさらにいざなってくれるはずだった存在という意味もあるだろう。また作中の演説にも出てくるとおり、シャアの今回の世直しが、彼の実父であるジオン・ズム・ダイクンの思想に基づいていることを踏まえると、父の呪縛に強く縛られているシャアだからこそ、母を求めた、というふうにも解釈できる。しかし、それは結局叶わなかったのだ。
 このミクロの感情とマクロの状況が複雑に入り混じった状況は、『イデオン』のドバ総司令とよく似ている。ドバ総司令は、バッフ・クランの政治的責任者としての大義を掲げて戦いつつ、一方でロゴ・ダウの異星人(地球人)の子供を妊娠した娘を許せない気持ちと、同時にロゴ・ダウの異星人への怒りもまた戦いの中に込めていた。ドバのこのミクロの感情とマクロの状況は、シャアとも通じるものがある。
 またシャアが体現している「人生のどこかで間違ってしまった切なさ」という情緒は、日本のアニメーションの中でもなかなか描かれることはない。その中で富野はしばしば「所属したグループを裏切るキャラクター」に仮託して、こうした情緒を描いてきた。シャアは裏切ったわけではないが、大人が人生を振り返ったときに感じる痛切な切なさを残してシリーズから退場することになる。

ラストシーンを読む二つのポイント

 アムロとシャアの政治的姿勢と心のうちに秘めた屈託。その上で、映画は映画としてラストシーンを描かなくてはならない。『逆襲のシャア』では、どういうラストシーンが用意されたのか。
 アクシズは、地球へと落下を始めている。ロンド・ベル隊の奮戦で、アクシズを二つに割って落下を避けようとする作戦は成功したかに見えたが、アクシズの後ろ半分は破壊の衝撃で速度が落ちてしまい、地球への落下コースに乗ってしまう。
 サザビーとの戦闘に勝利したアムロは、シャアの乗ったサザビーのコックピットを片手に持ちつつ、アクシズの先端に取り付き、νガンダムで押し返そうと試みる。もちろんそれは無茶な試みだ。しかしそれを見た連邦軍、ネオ・ジオン軍のモビルスーツも協力し、アクシズを押し返そうとする。
 その時、νガンダム近辺から不思議な光が放たれる。この光は協力してくれたモビルスーツをアクシズから引き剝がし、アクシズ全体を包んでいく。コックピットの中でこの光を感じたシャアは「サイコフレームの共振? 人の意思が集中しすぎてオーバーロードしているのか? なのに、恐怖は感じない。むしろあたたかくて、安心を感じるとは」と語っている。シャアとアムロの「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」「お母さん? ララァが?」という対話はこの後に描かれる。これが二人の最後の台詞となる。
 そしてカメラが切り替わり、ネオ・ジオン軍の旗艦レウルーラのブリッジで、アクシズが地球への落下軌道からはずれたということが報告される。この後、救われた地球上の風景などが点描され、映画はそのまま締めくくられる。
 このラストシーンには大きく二つポイントがある。一つは『イデオン』以降、戯作のポイントとなってくる「自我/科学技術/世界」という構図が『Zガンダム』以上にはっきり盛り込まれていること。もう一つは、アクシズが謎の光に包まれて以降、そこで何が起きているのか具体的な台詞がほとんど登場せず、描写だけが進行するという演出スタイルである。

『イデオン』を継承した脚本第一稿

 まず「自我/科学技術/世界」という観点から、『逆襲のシャア』のラストがどのように構想されたかを確認しよう。
 富野による脚本は第二稿で決定稿となっているが、企画書の段階からすでにラストシーンは「S・ガンダムの周囲が白熱化し、それがアクシズを半分以上包み込み、ついにはアクシズの進路変更に成功する(9)」と記されていた。企画書に日付が入っていないため脚本第一稿と企画書のどちらが先行していたかは不明だが、いずれにせよ、企画の極初期からラストシーンのイメージが固まっていたのは間違いない。S・ガンダムはνガンダムの企画時の名前である。
 ただこのラストシーンに至る要素は、第一稿と第二稿では大きく異なる。第一稿では、アムロは『Zガンダム』で出会ったベルトーチカ・イルマをパートナーとしているという設定になっている。そしてベルトーチカが妊娠をしていることが作中で発覚し、そのお腹の中の赤ちゃんが、サイコフレームともどもクライマックスで大きな働きをするというアイデアになっていた。
 この第一稿をもとに富野自身によって書かれたノベライズが『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン』である。
 こちらのクライマックスをみると、アクシズが落下運動を続ける中、地球のある町で生まれ落ちる子供の様子や、子供たちの様子を点描し、地球から発した光が、大きな帯になり、地球をとりまいて、νガンダムへと集中していくように描写されている。

 シャアとアムロの近くにあったサイコ・フレームが共振したのかも知れない。ベルトーチカのお腹の赤ちゃんが呼んだのかも知れない。
 そうではなく、このアクシズの空域に集った男たち女たちの意思が、それらの光を呼び寄せて、吸い込んでいるのかも知れなかった。
 それはともかく、その集中する光のために、ガンダムから発する白い光の壁は、一層巨大になって、アクシズと地球の間に、白い光の壁となって、伸びていった。
 それは、あたかもアクシズの巨大な岩に、行くべき道を示すようであった10

 サイコフレームは映画の中で、サイコミュの機能を持つ金属粒子レベルのコンピューターチップを、コックピットのフレームに封じ込めたものと説明されている。サイコミュとは、ニュータイプが脳波を使ってビットあるいはファンネル(ともに浮遊する移動砲台)を操作する装置のこと。要するに、コックピットの構造材そのものが、パイロットの脳波をダイレクトに感知する機能を持つようになったという設定である。
 この構造材そのものが人の意志を感知するというアイデアは、『イデオン』に登場したイデオナイトと極めて近しい。イデオナイトは作中で、イデを封じ込めている金属と説明されていた。こうして考えると、ベルトーチカの胎内の赤ちゃんとサイコフレームの組み合わせは、『イデオン』直系のアイデアといってよい。そこには『イデオン』でのパイパー・ルウやメシアの扱いの延長線上にある「赤ちゃんの純粋な防衛本能は信ずるに足る」という思想も見ることができる。またサイコフレームは『Zガンダム』で未登場に終わった、サイコミュの発展型バイオ・センサーとも通じる機能を持った存在でもある。
 すでに書いたように、戯作者・富野は『イデオン』を作ったことで、「自我/科学技術/世界」という本人の戯作の根幹ともいうべき構図を明確に確立した。そしてそのうえで、『ダンバイン』では「科学技術」にはしゃぎ、踊らされ、結果ハイパー化という〝魔境〟に至る人物を描いたが、そこに「世界」の姿が浮上するところまでは至らなかった。また『Zガンダム』では「科学技術」を経て「現実の世界のありようを認知する」ことで、精神的に崩壊する姿を描いた。『逆襲のシャア』の第一稿は、それらを経由したうえで、改めて赤ん坊の無垢な自我がサイコフレームという科学技術を経ることで、「世界」というものは決して絶望ばかりではない、という〝世界の理〟に触れるさまを描いた作品と位置づけることができる。

第二稿で変わったこと

 しかし、この第一稿にはいくつか意見がつき、改稿されることになった。修正のポイントは大きく二つ。
 一つはラストシーンについて。『ベルトーチカ・チルドレン』のあとがき11によると、このラストについて「モビルスーツ否定である」という指摘があったという。人々の心が集結してカタストロフを回避するというアイデアは、確かに『ガンダム』世界の重要な要素であるモビルスーツという兵器の存在意義を無意味にしてしまうものではある。富野はあとがきで「小生が、夢を追いすぎたのは、認めざるを得ませんでした」と記している。
 もう一つは「映画で、アムロの結婚した姿は見たくないな」というもの。富野はこれを「映画を製作企画する上でもっとも重要な意見」と受け止め、ベルトーチカと同棲しているというアイデアをやめる。エンターテインメントとしての映画を目指す富野としては、確かに映画のヒーローは「独身であり」「素敵に恋をし、冒険をしなくてはなりません」(あとがき)ということに説得力を感じたということだ。
 こうして第二稿が執筆され、アムロの恋人として新たにチェーン・アギが設定された。ベルトーチカの妊娠というアイデアは「父になることを自然と受け入れるアムロ」と「偉大な父に縛られ、父親として振る舞えないシャア」というクェスを挟んだドラマ上の対比を明確にしたであろうが、それは主題として浮上することがなくなってしまった。また最後の謎の光については、赤ちゃんは関係がなくなり、「サイコフレームの共振によるものではないか」というニュアンスで演出されることになった。
 第二稿は大枠では完成した映画と変わらないが、いくつか大きな違いもある。一つはクェスを殺してしまうのがハサウェイであること。発砲したものが偶然、クェスの乗るサイコ・ドーガに当たってしまうのである。この展開のため映画本編では、クェスを倒し、ハサウェイに撃たれているチェーンが、第二稿では死んでいないことになっている。また、シャアとアムロの最後の会話のところで、シャアはララァに言及していない。「私はお前に情けない兄だと言われたくないばかりにこうした」「このほうが、セイラに誉めてもらえるのかな」とセイラに言及しているのである。このあたりは絵コンテを描き進めるうちに、思考が深まり、改稿されることになったのだろう。
 このように『逆襲のシャア』のラストは、『イデオン』から本格的に取り込まれた「自我/科学技術/世界」という構図の延長線上にあるものだ。そして「ベルトーチカの赤ちゃん」の要素が削られた結果、誰がそれを願ったのか、という主体が曖昧になったことで、「理に落ちない」部分が増え、結果として〝奇跡〟というものの複雑さが表現されたということはできる。

沈黙が伝えた「奇跡」

『逆襲のシャア』のラストは、この〝奇跡〟というものを実に巧みに表現している。アニメーションというのは絵空事だから、なんだって絵で描けば「アリ」になってしまう。この融通無碍な表現手段の中で、どのように〝奇跡〟は表現されたか。それはひとことでいうと、説明の拒否である。
 映画ではまずνガンダム一機がアクシズにとりついて、それを止めようとしている。その行為を「ナンセンスだ」というシャアと、それに反発するアムロ。このとき、コックピットにはサイコフレームの働きを表すものだろうか、緑色の光が走っている。そして遠くから見るとνガンダムの位置から、光の粒が広がり始める。その様子を見ながらナナイは「大佐の、大佐の命が吸われていく……」と涙を流す。
 このνガンダムから放たれた光を見たせいなのか、連邦軍、ネオ・ジオン軍のモビルスーツが結集し、アクシズを止めようとする。しかしアクシズは止まらない。無理をするモビルスーツを止めようと、アムロはアクシズから離れるように呼びかける。このとき、アムロは振動の中、シートに座ってはいない。シャアは「ならば人類は、自分の手で自分を裁いて自然に対し、地球に対して贖罪しなければならん。アムロ、なんでこれがわからん」と涙を流す。ここでカットが転換し、サザビーのコックピットとνガンダムから虹色のオーロラのような光が発生し、周囲のモビルスーツを弾き飛ばしていく。
 シャアはこの現象を感じ取りながら、「しかしこのあたたかさを持った人間が地球さえ破壊するんだ。それをわかるんだよ、アムロ」と言い、アムロはそれに「世界に人の心の光を見せなけりゃならないんだろ」と応える。この後、二人の最後の会話としてクェスとララァをめぐる会話がでてくるが、この光に関してのコメントはここで終わりである。そしてさえぐさしげあきの劇伴「AURORA」が流れ始めて、映画は締めくくられる。
 このアクシズの落下を止めたと思わせる虹色のオーロラについては、説明らしい説明がほとんどないのである。アムロやシャアのリアクションで「どうやら人の心がサイコフレームと反応して起きたらしい」ということはわかるが、これも「らしい」という推察の域を出ない。宇宙船からこの現象を見ている人たちは絶句するばかりで、さらに何も語っていない。
 しかしもし、目の前で奇跡が起きたとき、人はそれを「奇跡」と認識できるのだろうか。奇跡は奇跡であるがゆえに、あらゆる常識の外にある出来事だ。そういうものを人間が瞬時に理解することは難しい。むしろ、言葉や意味をすりぬける理解不能な体験こそが〝奇跡〟なのだ。そんなとき、人はただただ言葉を失って沈黙するしかない。『逆襲のシャア』は、そんな言葉を拒否する風景だけを残して映画を締めくくるのである。
 ここで思い出すのは『ガンダム』第41話「光る宇宙」で描かれた、アムロとララァが精神を交歓させるシーンである。あそこで描かれるさまざまなイメージも、なんとも名付けようのない、名前のない風景ばかりだ。そしてあのとき見た風景はなんだったかをアムロは作中で一度も言語化していない。あれもまた言葉を拒否する風景だった。
『逆襲のシャア』のラストシーンは、キャラクターたちに言葉を失わせたことによって、〝奇跡〟を合理的解釈に落とし込むのではなく、〝奇跡〟のまま描くことに成功している。そしてかつてアムロがララァと見たあのビジョンもまた、その後、具体的な解説や読解がされないからこそ〝奇跡〟の風景として、今でもシリーズの中で特権的な位置を占めている。ここでは〝奇跡〟は、物語をうまくまとめるためのデウス・エクス・マキナではなく、作品の中で違和感を残しつつも、未来への希望を残すものとして配置されているのである。
 先ほど、νガンダムから光が広がっていくときに、アムロがシートに座っていないと記した。またシャアは、モニターの死んだコックピットの中にいるだけだからなにもできない。これはつまり今回の奇跡がアムロ(やシャア)によって起きたのではないということの表現になっている。ではなぜ〝奇跡〟は起きたのか、と考えたときに、その主体にさまざまなものが代入可能になっている。
 アムロのもとに集まってきたパイロットたちの意思の集合なのか、ラストで映し出される地球上に生きる動物や人間たちの総意なのか。そして、そこに具体的な答えがないこともまた〝奇跡〟の〝奇跡〟たる所以である。これは『ダンバイン』終了後に、既存の宗教感に抵触しない形で「世界」を描き出すことが可能ならば、情念の世界をちゃんと描き出すことができると語っていた12ことの、実践とも捉えることができる。
「モビルスーツ」などの固有名詞で作品世界を構築し、戦闘中もキャラクターが饒舌に会話するという印象が一般的な富野だが、このラストシーンでは徹底的にキャラクターたちの口をつぐませており、その演出に『逆襲のシャア』の大きな特徴と魅力がある。

 絵コンテを見ると、『機動戦士ガンダム めぐりあい宇宙編』(一九八二)のラストのように、英文メッセージを示すアイデアもあったようである。絵コンテには「英文一考のこと」とト書き付きで、"To new whiz within you" と書かれている。意味的には「あなたの中の新たなる天才へ」といったニュアンスの言葉と思われ、『めぐりあい宇宙編』の、"And now... in anticipation of your insight into the future."(そして、今は皆様一人一人の未来の洞察力に期侍します)とも近しい内容の言葉になっている。観客がこの映画をエンターテインメントとして楽しみつつ同時に、本作を通じて世界や社会といったものへと目を向けてもらえるようになってもらいたい、という期待が感じられる。『Zガンダム』の「現実認識の物語」という悲劇を経由して、改めて〝奇跡〟という形で世界に残っている希望を描いたのが本作だったのだ。
 本作の最後の〝台詞〟は、山小屋の中から聞こえる赤ん坊の泣き声である。そこには未来が示されている。人類の未来に対する希望の表象としての〝奇跡〟。そこに至るまでの現実への認識。そしてそれらを的確に表現していく演出。それらは『ガンダム』から『イデオン』に至る過程で確立された演出家・富野の技と戯作者・富野の哲学が、絶妙なバランスで融合した結果、生まれたものだ。以上が『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を富野の代表作と呼ぶにふさわしい理由である。