富野は『伝説巨神イデオン』で戯作者として「自我/科学技術/世界」という主題を摑んだ。富野はその後、いくつかの作品でこの「自我/科学技術/世界」という構図を生かして戯作を行っていく。正確には自覚的にこの構図を採用しているというよりも、『イデオン』で体の中にこの構図がしっかりと定着し──それが主題を摑んだということだ──戯作のときにそれが自然とにじみ出てくるようになったということだろう。では富野は「自我/科学技術/世界」の構図をどのように戯作の中に生かしていったのか。
一九八〇年代の仕事
富野は『イデオン』以降も毎年新作を発表している。『機動戦士ガンダム』を放送した名古屋テレビをキー局とする土曜一七時三〇分からの枠で、『戦闘メカ ザブングル』(一九八二)を皮切りに、『聖戦士ダンバイン』(一九八三)、『重戦機エルガイム』(一九八四)とそれぞれ独特の世界観を持つ三作品を発表。そして一九八五年には同枠で『ガンダム』の続編である『機動戦士Zガンダム』(一九八五)、翌年は『機動戦士ガンダムZZ』(一九八六)を手掛ける。またTVで新作の放送がなかった一九八一年は春に劇場版『機動戦士ガンダム』、夏に劇場版第二作『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』が公開されている。一九七七年の『無敵超人ザンボット3』から一九八六年までの九年間に、TVシリーズ七作品、総集編映画六作品を送り出した仕事量は圧倒的といえる。
『エルガイム』以降、富野監督は『ガンダム』シリーズの新作が続く。『ガンダム』シリーズ以外の作品は、OVA『バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼』(一九九六)があるが、『ガンダム』シリーズ以外のTVシリーズは『ブレンパワード』(一九九八)まで一四年の間隔が空くことになる。それだけにこの『ザブングル』、『ダンバイン』、『エルガイム』の三作の時期は、次々と新しいロボットアニメに挑戦した特別な時期ということができる。
アニメ特撮研究家の氷川竜介は、『ザブングル』、『ダンバイン』、『エルガイム』の三作品について次のように総括する。
①ウォーカーマシン、オーラバトラー、ヘビーメタルなど新規のメカニズム総称とコンセプトを一作品ごとに立ち上げ、惑星ゾラ、バイストン・ウェル、ペンタゴナワールドという異世界の世界観と合わせてプラモデル全盛期時代に毎年新たな刺激を与えたこと。これによって、メカを中心としたプラモ市場を持続させ、新作を作る土壌をも意図的に維持したのは、重要な成果である。
②二号ロボット登場、女声主題歌など、新時代のロボットアニメを象徴する新フォーマットを築いた。成功し一般化した後では当たり前に思えるが、作家性とのバランスを崩さず、商売をにらんでこのような展開を実行するのには信念と勇気が必要なのだ。
③湖川友謙とアニメスタジオ、ビーボォーのキャラクター、作画パワーを思う存分引き出して、立体感と存在感あふれる映像空間を創出したこと。その中でバイタリティと情念あふれたドラマを展開し、その後のアニメ演出作法に大きく影響を与えた(1)。
氷川はこのあとさらに④として「若いクリエイターたちを取り上げたプロデュース力」、⑤として「アニメ雑誌などのマスコミに登場し積極的に自作を語ったことによる媒体への影響」を取り上げている。
氷川の端的なまとめのとおり、『ザブングル』、『ダンバイン』、『エルガイム』の三作は、その二作での達成を背景に、ロボットアニメの可能性をさまざまに追求した作品ということができる。
このように並べて語られることの多い三作品だが、戯作者・富野の仕事という観点から見ると『イデオン』の直系といえるのは『ダンバイン』のみだ。『イデオン』で摑んだ、「自我/科学技術/世界」という主題は、ほかの二作品にはなく、『ダンバイン』でのみ形を変えて取り扱われているのである。そしてこの主題は『Zガンダム』と『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』へと受け継がれることになる。
つまり富野のフィルモグラフィーは『イデオン』、『ダンバイン』、『Zガンダム』、『逆襲のシャア』という一本の柱があり、『ザブングル』と『エルガイム』は、この系譜上から少しズレた場所に位置している。この〝少しズレた位置〟が、富野のフィルモグラフィーをバラエティに富んだものにしているのは間違いない。ここではまず、『ザブングル』『エルガイム』の個性的な魅力は一旦カッコの中に入れておき、富野が両作品にどのような関わり方をしたかを確認したい。
『ザブングル』の世界観
『ザブングル』の企画は、もともと脚本家の鈴木良武が、監督の吉川惣司と進めていた企画『エクスプロイター』が発端だ。これは当時の岸本吉功サンライズ社長が個人プロジェクトとして進めていた企画(2)で、人工衛星に残った地球の落ちこぼれたちが、敵と戦いながら宇宙移民を目指すという、宇宙を舞台にしたロボットアニメだった(3)。しかし吉川が監督を降りたため『エクスプロイター』の企画は頓挫してしまう。一九八二年二月の放送開始に間に合わせるため、新たに監督に起用されたのが富野であった。
監督を降りた吉川としては、まさか富野に監督の依頼が行くとは思っていなかったようだ。
僕もタカをくくっていたのだ──「ガンダム」「イデオン」のフィーチュア、連載の準備などで超多忙の彼に、まさかオハチがまわるとは予想していなかった(4)。
実際、監督の依頼を受けた一九八一年秋は、富野は大変忙しい状況にあった。まず一九八二年春の公開を目指して『機動戦士ガンダム
めぐりあい宇宙編』の制作が進んでいた。同作は総集編映画ではあるが非常に多くの新作カットが新たに加わり、新作映画に近いボリュームの仕事であった。
また一月に放送終了した『イデオン』も、未放送に終わったラスト四話分を映画として上映する方向で制作が続行していた。同年五月には二部作同時公開が正式決定となり、六月には『接触篇』の最初の編集がアップしている。また一二月八日には映画の公開を発表する記者会見が行われることになる。そのような仕事が重なっているさなかに、一九八二年二月放送開始の新番組の監督という仕事が加わったのである。
富野は一九八一年九月三〇日に、鈴木良武が書いた企画書などの資料を持ってホテルに泊まり、そこで一気に作品の骨格を固めたと回想している。二月の新番組の準備としては非常に遅いタイミングである。
ロボット物をらしく創る要素は、ロボットを動かしてもいい世界観をつくることであるという一点に絞り、三時間ほどその事を考えていった。が、先にある企画書を読むだけでヒントはなかった。(略)
十二時になっても、ガソリンで動くロボットにするという条件しか思いつかなかった。(略)
アイデアというのはこんなものだ。矢立(引用者注:サンライズ企画室の集団ペンネーム矢立肇のこと)は西部劇にしろといっていたな、という事を思い起し、場合によってはもう一晩泊まってやろうか、と考えていた時に、西部劇なら荒野、荒野なら地球全てを荒野にしてしまえと思いついた。(略)
とにかく、一度、全地球的な破壊があって、再生すべく戻った人類がいかに生きてゆくか、生きつづけてゆくのかの活劇にしようと思いついたのだ。
こうなるとものの二時間とかからずに、基本的な世界設定ができた(5)。
こうして富野が整理した企画をもとに、鈴木とのすり合わせが行われ、『ザブングル』は走り出すことになる。企画書には「ユーモア・ロボットアクション」と銘打たれており、作品の狙いについては「落ちこぼれの復権」「人間性の讃歌」と書かれている。作品の狙いは『エクスプロイター』で考えられていたものが受け継がれた部分でもある。
『ザブングル』の舞台は、地球と呼ばれた惑星ゾラ。どこまでも荒野の広がるゾラには、シビリアンと呼ばれる人々が暮らしている。シビリアンはブルーストーン鉱石の採掘を行うロックマン、運び屋と呼ばれる交易商人、用心棒から犯罪まで荒事が得意なブレーカーなど、さまざまな立場で、西部劇を思わせる日常を生きているという設定だ。
そのようなゾラの各地に存在するドームの中で暮らしているのがイノセントと呼ばれる人々だ。彼らは進んだ科学を持ち、シビリアンにその技術を提供するなどしながら、その社会の様子を観察している。やがて物語の進展の中で明らかになるが、イノセントは、全地球的な破壊の前から存在した旧来の人類で、現在の地球環境に適応した人類を生み出し、文化を再建しようとしていたのである。シビリアンはそうした実験の成果で生まれた存在だった。
当初の「落ちこぼれ」というキーワードにある「成績が悪くとるに足らない存在」という意味合いを拡大解釈し、「イノセントが作った枠組みの中では愚かで暴力的な人間として考えられているシビリアン」というSF的な構図に落とし込んだところが富野らしいアプローチといえる。
キャラクターが動き出す
そして富野は、イノセントのお仕着せで生きているシビリアンたちが、精神的に自立していく過程をドラマの縦軸としようと考えた。そして展開としてはそのとおりに進行しつつ、最終的に出来上がった作品は、その展開が前面に立つことはなかった。むしろ主人公ジロン・アモスを中心とする、敵味方の多彩なキャラクターの人間臭さが強い印象として残る作品として完成したのである。
富野は、そうなった結果について、一度走りだしてしまったキャラクターを止めるのはエネルギーがいる(6)という言い回しで、作品が思惑と違う形になっていったことを語っている。
それが、トラントランやらアコンやらエル・コンドルの話だったはずなのだ。ところが不幸にしてご存知のような態で、全てはじきとばされて異質なストーリーとして浮き上ってしまっただけで終った。その破れかぶれともいうべきキャラクターがトロンの話であって、本当をいえばカタカムの代りにトロンあたりが頑張るという図式があったはずなのだが、真にトロンこそ僕にとっての最後の歯止めのためのキャラクターであったはずなのだ。
ところが、連中ときたらトロンが死んだ痛みなぞどこ吹く風、作者だけがなぜトロンを殺したんだよ、という非難をうけてしまう材料にしかならず、一体、ザブングルって何なのだろう、というのが今日までの実感なのだ(7)。
トラントランは、イノセントが最初に遺伝子操作で作り出した人類で、シビリアンよりも未開な暮らしをしている種族。エル・コンドルは、ヒロインの一人エルチと出会う優男で、先祖が守ってきた遺跡のためにイノセントに抵抗した人物。もう一人のヒロイン、ラグが家出した先で出会った無骨な男が、アコン。続くカタカムは、シビリアンによる反イノセント組織ソルトのリーダーで、トロンもソルトのメンバーの一人である。
富野はこれらキャラクターについて「シチュエーションを動かすためにはどういうふうに刺激を与えていくとか、(略)ゾラという地球の構造を見ていくためにはこういうシチュエーションもありうるんじゃないか?(8)」と考えて投入したが「その場しのぎでストーリーを設定しすぎてしまったということです(9)」と総括している。必要だろうと思って後から加えたキャラクターの仕掛けよりも、メインキャラクターの存在感がすべてに勝ってしまったのである。富野は、先述の不発に終わった仕掛けのことを振り返ったうえで、こう書いている。
しょせんそれは、番組を維持していくための、最低限度の要素でしかない。なにより描きたかったのは、ジロン、ラグ、エルチたちが走っていけるか、いけないのかという部分だけだったのに。
そのへんの方向性がようやくつかめたのが、もう終わりも近いころだったんです。終わり近くなってようやくキャラクターが自由に動きまわりだした。スタッフも理解してくれて、楽屋オチみたいなことをやる余裕もできてきたんです(10)。
富野は第20話「アコンは伊達男か?」(脚本:伊東恒久、絵コンテ:関田修)あたりで、仕掛けがうまくいっていないことに気づいたが軌道修正が難しかった、と語っている(11)。その後、ソルトのカタカムが退場するのが第41話「カタカムは終った」(脚本:伊東恒久、絵コンテ:大地瞬)なので、富野がいう終盤は第42話以降であると推察できる。
このように『ザブングル』は、富野作品には珍しくキャラクター・ドリブンな作品であった。ただ、そのことが発見されるのは遅かった。それはスタッフがそのことになかなか自覚的になれなかったからということはいえるだろう。一年間の放送期間を通じて、作品がその作品らしくなっていくというのは、いかにも当時のTVアニメらしい。第50話(最終回)「みんな走れ!」(脚本:伊東恒久、絵コンテ:菊池一仁)のラストシーンに、作中で死亡したキャラクターも含めて登場人物たちが勢揃いでカーテンコールのように登場する。この締めくくりはキャラクターたちに主導された本作の特徴をストレートに表していたといえる。
『エルガイム』と渡邉由自
『エルガイム』の原型は、富野が『ガンダム』放送中の一九七九年一二月に描いたイメージボード『ムゲン・スター(12)』である。この段階で二重太陽を巡って、同一軌道に並んだ五つの惑星が登場するなど、『エルガイム』の舞台であるペンタゴナワールドの原型が描かれている。またファンネリア、ギャブレット・ギャブレーなどの名前もこの頃から、すでに登場している。
同作のシリーズ構成に立ったのが渡邉由自である。監督自身がストーリーのメモを作ることが多い富野作品の中で『エルガイム』では珍しくシリーズ構成が立っている作品だ。シリーズ構成は、脚本チームの頭領で、ストーリー全体の流れに責任を持つ役割だ。
『エルガイム』のスタートにあって、渡邉は「今度は原作ものをやってみたいので、小説を書いてくれないか(13)」と声をかけられたのが最初だったという。その後、企画を出したところ『ダンバイン』の後番組に決まり、制作開始が予定よりも前倒しになったため小説は書かれることがなく、そのまま制作に入ることになった。
スタートにあたっての富野からの注文は二つ。一つは『ムゲン・スター』に原型がある五つの惑星による「ペンタゴナワールド」を舞台にすること。そのためのメモも渡されたという。もう一つは「リリス・ファウを出すこと」という指定があったという。リリスは、前作『聖戦士ダンバイン』に登場したキャラクターで、昆虫の羽を持つ妖精のような小人である。これを受けて渡邉はインタビュー(14)で「渡邉カラーで、富野カラーとは違ったものを出していきたかった」とも語っている。
各話のプロットは富野と渡邉が作り、それを各脚本家に発注したという。この流れから、『エルガイム』のストーリーは渡邉が構想した部分も大きいと考えられる。
渡邉は企画初期に「強烈な管理社会のなかにあって、虹を摑むことも、雲に乗ることももはやあり得ないと諦めている人々に、二人の若者の成長を通して、光明を照らし得ることを証明する青春ドラマを描く。ひとりは、戦いべただが、その人徳で将に恵まれ、ひとりは、勇猛無比の天才肌(15)」と書いているが、この時点である種の英雄譚を想定していたことがうかがえる。
こうした渡邉の初期構想は、そのまま映像化されたわけではない。女性キャラクターのガウ・ハ・レッシィはもともと、見た目が可愛くない女の子と想定されていたが、キャラクター設定で美人に描かれたことから、ヒロインの一人として扱われることになった。ダバのライバルであるギャブレット・ギャブレーは、もっとシリアスでダバに対して「似ている部分があるから好きになれない」と近親憎悪的な感情を持つキャラクターとして想定されていたが、本編ではカッコつけているわりにコミカルな憎めないキャラクターとして表現された。またリリス・ファウの平和を望む思いがダバに影響を与える(初期案では精神コントロールで宇宙の救世主にしようとする、と書かれている)といった要素はまったく触れられなかった。
渡邉は作業を振り返り「中盤からは、演出に指示するという形で注文がたくさん入った(16)」とも回想している。これはおそらく脚本そのものではなく、絵コンテ化の段階で展開やキャラクター表現にいろいろ修正が入ったということだろう。また制作中、渡邉が受けたオーダーとして「核兵器の要素を入れてほしい」というものがあった。渡邉はその要素を出したくはなかったが、鉱山惑星パラータ・スターの深部に原子炉があるという形で、そのオーダーを受け入れた。そして、原子炉の暴走を止める過程で主人公ダバ・マイロードの幼馴染ミラウー・キャオが被曝するという展開を作った。渡邉は、キャオは被曝によってラストで死亡する予定を立てていたが「結局そのラストに関しては大幅に変更が加わってしまったみたいで。だから僕は未だに最終回を見てないんです(17)」と語っている。
こういった経緯もあって、渡邉がノベライズした小説『重戦機エルガイム』(ソノラマ文庫、全三巻)は、渡邉のイメージが強く反映されたもので、「あれが僕にとってのオフィシャルな
エルガイム
なんです(18)」と自らのスタンスを説明する。
渡邉が構想した『エルガイム』はどのようなものか。企画初期のメモ(19)と小説を踏まえると、以下のような構図として構想されていた。バイオリレーションの技術で不老不死になり支配者で有り続けようとするポセイダルの生き方。それに対し、闘争心を失うことで長命を得た一族である有翼人のリリスの平和主義。ポセイダルに滅ぼされたヤーマン族の王族の生き残りである主人公ダバ・マイロード(王族としての本名はカモン・マイロード)は、その二つの選択のどちらを選ぶのか、それともその二つと異なる道を選ぶのかというところを、物語のポイントと想定していた。これを先に紹介した、やがて歴史に名を刻むかもしれない青年たちの青春群像として描こうというわけだ。
こうした渡邉の用意した物語はどのように演出されたのか。
──当時の富野作品は、シナリオとコンテが大幅に異なることで知られていましたが、それが特に「エルガイム」では顕著だったように思うのですが……。
富野 これはシリーズ構成の渡邉(由自)さんが書いた「エルガイム」の小説を通して誰もが疑問に思っていることなので、ここではっきり述べておきます。渡邉さんにお願いしたのは、スタッフにアニメ畑ではない人を入れようと言う意図からでした。でも、作画の方で無理に方向を定めようとしたとき、どうしても物語にも手を加えなければならなかった。そうなると、渡邉さんがアニメに不慣れだということが、裏目に出てしまったんです。(略)今だから言えるけど、そんなことして上手く行くわけがないんですが、あの時はそれで押し切るというゴウマンさが僕にあったのです。(略)作品を作り続けてきたことで、自分ひとりで作品を作れると思い込んでしまった結果ですからね(20)。
渡邉自身もその状況をこう語っている。
TVシリーズというのは、監督と演出とシナリオライターの三人がストーリーを作っているわけで、前述のように、あの時は途中から皆がバラバラにやってしまった。これは失敗だったと思う。良く言えば、各自の自由な発想の集大成でもあるのだけど、シリーズをまとめる役の僕が考えるものとは異なる物語になってしまった(21)。
こうしたコメントからも『エルガイム』が、戯作者・富野の発想が軸になった作品ではないことがうかがえる。
永野護とファティマ
そんな中で、戯作者・富野らしさを感じさせるのがメカデザインとキャラクターデザインを担当した永野護の起用とファティマをめぐるやりとりだ。
永野は一九八二年に月刊スターログ主催の第二回SFアート大賞で入選し、一九八三年に日本サンライズ(当時)に入社する。入社後は『銀河漂流バイファム』(一九八三)の現場でデザインの仕事をするほか、『聖戦士ダンバイン』後半の新主役機ビルバインのデザインコンペティションにも参加している。
富野は早い段階から永野の描くデザインに注目しており、永野は一九八三年夏ごろからプリプロダクションが始まった『エルガイム』に参加することになる。ちなみに永野は、『バイファム』の後番組になる企画として、『エルガイム』の母体となるストーリーを考えていたと語っている(22)。ただしこちらの企画と先述の富野・渡邉の企画との関係は不明だ。
永野は当初メカデザイナーとして参加し、その後キャラクターデザインもともに担当することになる。この二つを一人の人間が兼務するのも稀なことだが、ましてキャリアのほとんどない新人デザイナーということも加えると、これは異例ともいうべき抜擢だった。
当時、アニメ雑誌『アニメック』の編集者で、後にアニメ雑誌『ニュータイプ』の編集長も務めることになる編集者の井上伸一郎は、富野に永野の抜擢の理由を尋ねたときのことをこう回想している。
井上「エルガイムのデザイナーに永野護を起用したのは、どんな理由があるのですか?」
富野「つまり、永野君のような才能をこれから先、どんどん見つけていき、第一線に投入していかないと〈アニメはやばいよ〉ということです。今はなんとか、ブームといわれていた頃の遺産でアニメ界に若い人が入ってきてくれているけれど、今と同じような若い人の扱い方をしていると、何年か先には誰もいなくなってしまうでしょう。だから、永野のような──いろいろまだ問題も持っているけれども──才能は、最前線で鍛えていかなければならない。それが今の僕たちの世代の役目だと思います」
井上「彼の起用を決意した直接のきっかけはどのようなところにあったのですか?」
富野「絵を一目見た時に決めました。その人の才能の確かさというのは、一枚の絵の中にすべて出るものだと思います(23)」
富野の見抜いた通り、永野の描いたキャラクターやメカニックは、ファンの強い支持を得た。まだ新人だった永野の才能を見抜いた富野だったが、『エルガイム』制作時に永野が提案したアイデアの中で徹底的に否定したものがある。それがファティマだ。
ファティマは、『エルガイム』に登場するロボット──ヘビーメタルと呼称される──に搭載された、女性型コンピューターの総称だ。永野は、ファティマがパイロットのサポートをするというアイデアを持っていたが、富野はこのアイデアを受け入れなかった。富野はその理由を尋ねられるごとにさまざまな言い回しで語っているが、以下の文章が端的だと思われる。
富野は、
そんな設定は、企画の初期の段階で言ってくれなくては困る問題だし、途中から異質の要素を採用することは、根本的な設定を揺るがすことになるので、採用できないのが『仕事』なのである(24)。
と正論で否定したうえで、こう続ける。
分かりやすくいえば、少女のキャラクターを人形として扱い、ヘビーメタルというマシンに組み込む趣味というか、できあがっていない男の憧れは、ギーガーの例を持ち出すまでもなく、人間の心の闇の部分(幼児性かもしれない)を公衆の面前にさらけ出すことなのである。(略)
これがわからずに、男側からのドール・フェティズムは、宮崎勤的病理を増長させるだけなのである。もっといってしまえば、オウムの男側からの働きかけを受け入れた女たちが、いつの間にか、男たちを実行部隊として使っていくという精神構造を容認することにつながるのである。そういった精神構造を育てていく表現が、永野の手に染まったものの全てに現れているのだ。
それが、公然と世に出れば、オウム的なものを育ててしまうということは、知っておいて欲しいのである(25)。
文中に出てくる宮崎勤は、四人の幼女・女児を殺害した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人。オウムは、地下鉄サリン事件などを起こしたカルト宗教団体・オウム真理教のことである。
富野がファティマを否定するのは「女性型のロボット=人形」をとりまく男の欲望のあり方に否定的だからだ。富野はファティマという設定に、まず「女性崇拝の形をとった母性への甘え」を見ている。そして、その対象が〝人形〟であった場合、そこに他人は存在しなくなることを危惧している。自分の欲望にドライブされて、どんどん内向的な世界に入り込み、その人物はどんどん社会に背を向けていくことになる。富野は、女性の人形遊びが出産や子育てといった行為と結びついているため男性のフェティズムとは異なると位置づけている。
このファティマ否定は、富野の「自我」が「科学技術」をインターフェイスとして「世界」に触れる、というテーゼと比較するとよくわかる。富野にとって科学技術は、小さな個人を(宗教や狂気によらず)世界へと開くものなのだ。そのような富野の目から見ると、科学の力で生まれたファティマは、「世界」とはまったく逆ベクトルの内向的な方向へと人を向かわせる存在ということになる。内向きの心性は、社会性の喪失に繫がる。社会から逸脱し自分の論理だけを振りかざすようになれば、それは犯罪者へと接近することになる。それを促すような「科学技術」の扱われ方は危険である、という論理だ。
富野は、このファティマに対する否定とよく似た論理で『新世紀エヴァンゲリオン』(一九九五、庵野秀明監督)に対しても厳しい評価を下し、「病人を生むような作品」という言い回しもしている。同作品も中盤以降、エヴァンゲリオンという科学技術から生まれたロボットに乗ることが、自分の心の傷と向かい合うことと近しいものとして描かれるようになり、作品はぐっと内向的な色合いを深めていく。またエヴァンゲリオンの各機体には、パイロットの母の魂が宿っているという設定もある。そこも共通の「女性性の尊敬と裏腹の母性への甘え」を感じさせるところでもある。
『ダンバイン』にみる戯作者・富野
このように富野は『ザブングル』では世界観をプランニングし、『エルガイム』では若手スタッフの力を作品に取り入れ、そのうえで総監督として作品を取りまとめる役割を果たした。その点で富野のフィルモグラフィーに幅がでたが、富野が戯作者として『イデオン』で摑んだテーマは、この二作では積極的に追求されることはなかった。
しかしこの二作に挟まれた『聖戦士ダンバイン』は異なる。本作はおそらく『イデオン』での達成を踏まえ、戯作者・富野の世界が全面的に展開されている。
『ダンバイン』は、主人公ショウ・ザマが異世界バイストン・ウェルへと召喚され、そこで聖戦士として戦うことになる、というファンタジーだ。メルヘンの世界ではなく、もう一つの現実として異世界を構築するハイファンタジーをTVアニメとして取り扱うのは、当時としては大変珍しいことだった。
『ダンバイン』の主要な舞台として設定されたバイストン・ウェルとはどのような場所なのか。放送終了直後に出版されたムック『バイストン・ウェル物語 聖戦士ダンバイン─リーンの翼』の中に富野の手による「インナースペースとしてのバイストン・ウェル(26)」という長文が載っている。そこには、バイストン・ウェルの着想から、世界がどのようにできあがっているかなど細かに書いている。おそらく『ダンバイン』だけで、その世界のすべてを見せようなどとは思っておらず、『ダンバイン』ではその一部を切り取って見せるぐらいの想定でいたのだろう。
実際同年には小説で『ダンバイン』よりも前の時代、別の地方を舞台にして『リーンの翼』という小説が書かれている。大人向けのヒロイック・ファンタジーとして執筆され、残酷な描写、エロティックな描写も多く、TVアニメの枠組みから自由なところでバイストン・ウェルの諸相を描き出している。
バイストン・ウェルが特徴的なのは、異世界でありながら現実(地上界と呼ばれる)と密接な関係にあると設定されている点だ。
我々の魂は死ぬとバイストン・ウェルに生まれ変わる。現世の社会の中で窮屈な想いをしている魂が、暴力的なものも含めその欲望を開放させバイストン・ウェルで自由に生きることで、リフレッシュされるのである。「インナースペースとしてのバイストン・ウェル」の中ではこれを「バイストン・ウェルとは魂のマスカレイド(仮面舞踏会)」というフレーズで言い表している。
バイストン・ウェルでリフレッシュした魂は、地上へと生まれ落ちるときに、バイストン・ウェルの記憶を忘れてしまう。しかし、わずかにバイストン・ウェルのことを覚えていた人々が存在し、天国や地獄、鬼や妖精、古代から語り継がれる神話などにはバイストン・ウェルの事物が投影されているという見立てになっている。このようにバイストン・ウェルは地上界と密接な関係があり、富野はバイストン・ウェルは、地上で人間という魂を持つ存在が生まれ、そのオーラ力が集積したことで生まれたと設定している。
また富野は、バイストン・ウェルがある種の意思を持つ存在であるとも記している。
バイストン・ウェルは、現地球を、人のマインドが肉を持って住む世界としての地球に危機感を抱き始めている。そのために、バイストン・ウェルは巨大なオーラ力を集積する準備を始めているといえる。
現地球が、肉を持ったマインドが住むに足りないものとなってきつつある時、バイストン・ウェルは次なる時空へ翔びたいと欲している。それは真に、バイストン・ウェルの存在こそ、人の業と、マインドの輪廻の根の世界だからである。
が、しかし、そうはなって欲しくない。我々の存在する現世界は、存在そのものとして、すこやかにこの現空域にあって欲しいと望むのである。そのためには、我々はここで、以前心の拠り所であった、もうひとつの実在する世界の存在(バイストン・ウェル)に目を向けて、現実世界の狭隘さとか、汚濁から離れてみる必要もあろうか、と考えるのである(27)。
バイストン・ウェルが人の生体エネルギー(オーラ力)の集積から生まれた場所であり、それ自体がなんらかの願いを持ち、場合によってはこの世界を見限ってしまう可能性があるという発想は、バイストン・ウェルが『イデオン』のイデの延長線上にあることを感じさせる。
富野はこの個性的な異世界をロボットアニメの舞台として使った。あまりに想念の世界すぎるバイストン・ウェルを、「ロボットという俗悪的な表現要素を使うことによって、一般的に見やすくして、想念の世界へ興味を持つ観客の増えることを期待したのである(28)」と富野は書いている。
『ダンバイン』に登場するロボットは、オーラバトラーと総称され、パイロットのオーラ力で駆動するという設定だ。地上人はオーラ力が強いため強力な戦力になるという設定もあるが、彼らは生身の状態でなにか特別な力を発揮するわけではない。彼らのオーラ力は、オーラバトラーに乗らなければ特に大きな意味を持たない。ポピュラリティーを得るための「俗悪的表現要素」という方便ではあるものの、ここでも「自我」と「世界=バイストン・ウェル」を仲介する存在としてなんらかのメカニズムが必要とされるのは、戯作者・富野の方法論として、極めて自然な構図といえる。
では富野はこのような道具立てを通じて何を描こうとしたのか。
『ダンバイン』の失敗
物語は、日本人の少年ショウ・ザマが、バイクで走行中、オーラロードが開きバイストン・ウェルに突如召喚されるところから始まる。ショウが呼ばれたのは、アの国の地方領主ドレイクの館。ドレイクは、バイストン・ウェルの征服を目指しており、地上人ショット・ウェポンによってオーラマシン──オーラシップやオーラバトラーの総称──といった兵器を開発させていた。そして一種の妖精であるエ・フェラリオのシルキー・マウを捕虜として、オーラロードを開かせ、地上人を次々とバイストン・ウェルに呼び込んでいたのである。ショウはその後、ドレイクの野望を止めようとするニー・ギブンたちと行動をともにするようになり、さまざまな戦いに身を投じることになる。
物語はドレイクの野望を軸にして進むため群雄割拠する〝戦国物語〟の様相を呈することになった。そして、そこにバイストン・ウェルのさまざまな風物が織り込まれていく。目新しい設定ではあるがドラマとしては、いささか牽引力を欠く展開であった。そして中盤以降は、バイストン・ウェルで対立する各勢力の戦力が、地上へと放逐され、現実の国際情勢とバイストン・ウェルの戦争が絡み合いながらクライマックスへ向かうことになる。
富野は近年のインタビューで『ダンバイン』で狙ったものについてこう語っている。
──(略)『ダンバイン』では何を描こうと考えていたのでしょうか? 物語はドレイクの野望を軸に一種の「戦国もの」として始まるわけですが。
富野 (略)それはファンタジー・ワールドを舞台にした時に、アクションのあるストーリーを作るには、それが一番便利だったから選んだだけです。テーマはそこにあるわけではない。『ダンバイン』はオーラ力そのものを考えようとした作品でした。
──オーラ力は単なる設定ではない、ということですか?
富野 そうです。人間の生体が持つオーラ力というものがあり、もう一方にオーラ・バトラーに象徴される機械的な力がある。そういう枠組みの中で、作中の台詞にもある通り、機械に頼り過ぎてしまってはダメということを描きつつ、同時にオーラ力が暴走してハイパー化していく様子も描いてみせる。この生体力と機械力という問題は、『ガンダム』以降の自分の中にあるテーマです。それは現代社会のテクノロジーの発展と人間のあり方を考える中で浮かび上がってきたものです。その上で『ダンバイン』では、そのふたつの力を一度忘れて、自分の身体そのものの力でリアリズムに立ち返っていくしかないんだよ、という流れを作ろうとしました。だからエレもシーラも自分を盾にして自爆していくんです。頭の中でそういうプランを立てて、物語を進めていったんです(29)。
ハイパー化とは負の感情により増幅されたオーラ力が生むもので、オーラバトラーの周囲にあるオーラバリアーが、その機体の姿のまま巨大化したものと説明されている。ここに「自我」と「科学技術」が結びついたビジョンを見ることはできる。だが、このハイパー化が「世界」へと結びつくものとして展開されることはなかった。『ダンバイン』では、このように「描こうと想定したこと」と「物語が最終的に描いたこと」のズレが生じてしまっているのである。この点で『ダンバイン』は目先の出来事のおもしろさでお話を進めていく「ストーリー主義」に傾いてしまったということもできるだろう。興味深いのは前番組『ザブングル』に関する取材、寄稿の中ですでに富野は「いまやってる『ダンバイン』。あれについても、(引用者注:『ザブングル』と)同じ意味で失敗してると思います。めざしてるものがいま一つ、ピタッとしていない(30)」と語っていることだ。バイストン・ウェルという舞台をどう使うかも含め、目標はあれど、手探りをしながら制作している様子がうかがえる。
なお「自分の身体そのものの力でリアリズムに立ち返っていく」という狙いは、TVシリーズ放送終了後に、ムックに執筆した原稿でも次のように触れている。
永遠に人は、生と死を繰り返すだろう。
その生命を支えるものは、どう考えても、過去に積み重ねられてきた、情念の累積であろう。
そういったものと無縁であるわけがない時に、人の感性が、自然というものの驚異に無頓着になっていて良いわけはないだろうと予測するのである。
自然に対しての畏敬の念があるからこそ、人は、己の情念の中に生命の力を見つめようとする。
その具体的な意思を表示しているものが、過去に累々と残された伝承話である。
それは、血ぬられて、オドロオドロしくも悲しい。
それはまた、死後の世界の語りの中にも見られる血生臭さと安逸感とも同じなのである(31)。
つまり、戦いの中で情念が積み重なり、その果てに自らの身体を通じて自然なものとして「生命の力」を発見するというところが、物語のゴールと想定されていたのである。そしてその物語は、まるで伝承話のように締めくくられるというイメージを持っていたことがうかがえる。実際、『ダンバイン』は最後の最後で、妖精のような存在であるミ・フェラリオのチャム・ファウを、すべての顚末の語り部として地上界に残して締めくくられている。
また富野は『ダンバイン』の〝失敗〟について自覚的で、先述の寄稿には次のように記されている。
まず、バイストン・ウェルという世界が、物理的な異世界であるのならば、変わった舞台として凄いよ、といったスリリングさだけで面白く描く事が出来たであろう。
しかし、霊界(あくまでも人の想念そのものの世界)という言葉の持つ呪術性というものは、確かに存在するのである。
それを劇(ドラマ)という力のあるものとして描こうとすると、どうしても人の情念そのものを厳しく描く作劇法をとらなければ、伝えられはしない。
それを、ロボットというものを活躍させる戦闘物という土壌の上で完成させようとした時に、作劇上の破綻を見るのである。
無論、僕以上の作劇術を駆使する事が出来る方には、出来る。が、昨年(引用者注:一九八三年)の僕の中にはなかった、と言わざるを得ない(32)。
キャラクターの情念を描くことで、バイストン・ウェルという世界の本質へと迫ることと、ロボットアニメというジャンルをまっとうすることが、うまく組み合わせられなかったのだ。それがロボットもののフィーリングが強調され、シリーズ後半は『ガンダム』とあまり変わらない肌触りの映像が中心になっていく結果となる。
さらに富野は続けてこうも記している。
バイストン・ウェルという、情念の塊の世界(霊界に近い世界)を描こうとすると、必ず、天井がかかるというのか、作り手そのものの上や、物語世界の上に天井がかかるのである。
ところが、TVとか映画の世界は、この天井の感覚、つまり、ドンヅマリの感覚を極度に嫌う世界なのである(33)。
アイデアの揺籃期
ここでいう「天井がかかる」とはどういうことか。これはバイストン・ウェルが、全て富野の想像力から作り出されたことが原因だったのではないか。「自我」が「科学技術」を経由して「世界=バイストン・ウェル」の本質へと迫ろうとしたところで、そこは自らが想定した世界であり、物語が自らの想像力の外へと出るのは難しい。またそれぞれの世界での死は、地上界もしくはバイストン・ウェルへの「生まれ直し」になるという設定も、〝堂々巡り〟といった印象に近く、『THE IDEON 発動篇』のラストのようなカタルシスには繫がらない。最終回の脚本では地上界の最後の戦闘で死んだショウとマーベルがバイストン・ウェルでミ・フェラリオとして生まれ直すシーンがあった(34)そうだがカットされているのも、この「天井がかかる」感覚を少しでも減らそうという判断もあったのではないだろうか。
興味深いのは、この天井の感覚について富野は「宗教的」という方法でならクリアできると書いているところだ。富野は「もっと端的に世界を語る手法を投入する力」がなければ描くことができない内容だったと振り返った後、こう続ける。
この可能性としての方法論とは別に、知っている方法というのがひとつだけある。
宗教的にしてしまうという手法である。
が、この場合、過去のどんな宗教観にも抵触しない宗教的な感応を提示できない限りは、触れてはならないという節度を僕は設定していた。
なにしろ、宗教的な素養など何ひとつとして持っていない僕に出来るわけがないからだ。が、この自己規制が、墓穴を掘った部分もある(35)。
こうして『ダンバイン』は、非常にユニークな作品でありながら、バイストン・ウェルという設定をそこまで生かすことができず、放送を終えた。しかし『ダンバイン』についての富野の発言を追っていくと、『Zガンダム』や『逆襲のシャア』、あるいは『∀ガンダム』を想起させる要素があることに気付かされる。
たとえば、情念を積み重ねて「生命の力」に至るという発想は『Zガンダム』の最終回に見ることができるし、「既存宗教に抵触しない宗教的表象」は『逆襲のシャア』のラストシーンそのものである。またロボットアニメの語りの中に、伝承話の要素を忍ばせるのは『∀ガンダム』の基本的なアイデアに通じるものがある。
バイオ・センサーはなぜ消えたか──『Zガンダム』の失敗
このように『イデオン』から『ダンバイン』へと繫がるラインを確認していくと、きわめて自然にその線上に『Zガンダム』が浮かび上がってくる。
『Zガンダム』はキャラクターデザインが安彦良和、メカニカルデザインに大河原邦男と前作のスタッフも参加する一方、永野護をはじめ新たなデザイナーも多数参加している。また演出・作画陣は『エルガイム』から連続しており、映像の雰囲気は『エルガイム』に近い。また一九八〇年前後のアニメブームを経て、アニメの映像表現もより凝ったものが試みられるようになった。そのため映像作品としてのルックにおいて前作との地続き感はそれほど強くない。
しかし一番大きな違いは、『Zガンダム』が『イデオン』、『ダンバイン』を経た後の作品だということだ。そのため『Zガンダム』には「自我/科学技術/世界」という主題が反映されている。これはニュータイプを〝方便〟として導入した前作とは大きく異なる。『Zガンダム』は、ニュータイプを前提として、再び「自我/科学技術/世界」の構図に挑戦した作品といえる。
『Zガンダム』のプランニングは一九八四年に始まった。『エルガイム』が放送開始となる一九八四年二月に最初の富野メモが書かれ、ここから六月にかけて作品の骨格が固まっていく。六月六日のメモで、旧ジオン軍の残党とシャアの関係、地球連邦の現況などが固まり、七月にかけてストーリーの大枠が固まっていく。
こうした企画の初期段階で「ギャザー・スタイム」というアイデアが検討されていた。LD‐BOXのブックレットでは富野メモを掲載し、ギャザー・スタイムに次のような注釈をつけている。
ギャザー・スタイムとは、ニュータイプという概念を一歩進めたもの。他者との共鳴だけでなく、精神的に他者と完全な一致を見ることを表現していたようだ。この概念は、結局『Z』では採用されず、わずかにZガンダムのバイオ・センサーに名残をとどめる(36)。
注釈はそのようになっているが、忘れてはいけないのは「バイオ・センサー」という単語は本編では一切登場しないということだ。
『Zガンダム』の舞台は、前作のラストシーンから七年後の宇宙世紀〇〇八七年。地球連邦から独立を試みたジオン公国が敗れた後も、地球連邦はスペースノイド(スペースコロニーなど宇宙で暮らす人類)への弾圧を続けていた。その急先鋒が特殊部隊ティターンズである。ティターンズはジオン残党狩りを目的に組織されたが、スペースノイドの反地球連邦運動もまた徹底的に抑圧した。これに対し地球連邦を母体とした反地球連邦組織エゥーゴが組織される。「反地球連邦」とうたっているが、実質は地球連邦軍内のスペースノイドに共感的なメンバーが中心である。こうして連邦軍タカ派のティターンズと連邦軍スペースノイド派のエゥーゴが地球連邦の覇権を争い、内戦が激化していく。そして地球圏を離れた小惑星アクシズを拠点とするジオン残党もまた軍事行動を開始し、戦いは三つ巴の様相を呈していく。
主人公カミーユ・ビダンは、ある事件の結果、ティターンズの新型機ガンダムMk-IIを奪取し、エゥーゴへと身を投じる。カミーユは物語後半になると可変モビルスーツ、Zガンダムを駆り、ティターンズを手中に収めたパプテマス・シロッコやジオン残党のリーダーであるハマーン・カーンと戦いを繰り広げていく。
そして第49話「生命散って」(脚本:遠藤明吾、絵コンテ:世良邦夫)でZガンダムが「赤く輝いてビームを跳ね返す」「ビームサーベルが大きく伸びる」というアクションを見せる。工業製品としてのリアリティを踏み越えたこうした描写は、あたかもカミーユの怒りの精神的な状態に反応したように描かれている。
第50話(最終回)「宇宙を駆ける」(脚本:遠藤明吾、絵コンテ:川瀬敏文)の冒頭、カミーユと、先輩パイロット、エマ・シーンの会話が描かれる。エマは第49話の戦闘で傷つき、瀕死の状態である。エマはカミーユに語りかける。
「私の生命を吸って、そして勝つのよ。私は見たわ。Zガンダムは、人の意思を吸い込んで自分の力にできるのよ」
そうして戦いに勝つのだとカミーユを叱咤してエマは息絶える。
小説版だとこのくだりの部分はこうなっている。エマの台詞だけ抜書しよう。
「私は見たわ……ゼータ・ガンダムはいろいろな人の意思を吸い込んで、自分自身の力にできるって……だから……」
「できるのよ……ゼータにはバイオ・センサーがあるでしょ?」
「それよ、本当に人の意思を吸っているのよ。その力で平和と自由を呼ぶ……それをあなたがやるのよ……カミーユ・ビダン……」
TV版の唐突な「人の意思を吸い込んで自分の力にできる」という台詞を、小説ではそれがバイオ・センサーの力であると補足がされている。ここに限らず富野自らの手による小説版では、Zガンダムを筆頭にいくつかのモビルスーツにバイオ・センサーが搭載されているという記述がある。
小説はTV版と並走する形で一九八五年二月から翌一九八六年二月にかけて全五巻で発売されたもの。出版時期から考えて、作中の演出に対し後付けで設定を決めたというより、当初からアイデアがあったが、映像の段階ではその名前を、なんらかの理由であえて省略したと考えるほうが自然だろう。
映像だけみれば、『ガンダム』世界のリアリティを踏み外した描写にも見える。気合で相手を倒すパワーが出るロボットという描写は、演出的メリハリがついてカタルシスがあったとしても、その展開はご都合主義すぎる。しかしバイオ・センサーというアイデアが、「自我/科学技術/世界」の「科学技術」に相当すると考えれば、腑に落ちるし、自我が科学技術によって拡大されるという描写は、『ダンバイン』後ならではの発想ということができる。そして先述のとおり『ダンバイン』で想定されていた「情念の積み重ね」と「
生命の力
の発見」という要素は、ちゃんと『Zガンダム』最終回に盛り込まれているのである。
『Zガンダム』の最終回、カミーユはシロッコと最後の戦いを行う。そのときカミーユを手助けするのは、カミーユと縁があった女性キャラクターたちを中心とする死者たちの思念だ。シロッコは、白い光がZガンダムに集まり発光する姿を目撃して驚愕する。カミーユはいう。
「わかるはずだ、こういう奴は生かしておいちゃいけないって! わかるはずだ、みんな! みんなにはわかるはずだ!」
「俺の身体を、みんなに貸すぞ!」
「分るまい……戦争を遊びにしているシロッコには。この、俺の身体を通して出る力が!」
「みんな」とは戦いの中で死んでいった、カミーユと縁のあった人物──主に女性──たちである。このカミーユの台詞を受けて、カミーユと深く心を交わした敵の女性パイロット、フォウ・ムラサメの思念が「カミーユはその力を表現してくれるマシンに乗っている」とも語る。この「体を通して出る力」の表現こそ、『ダンバイン』で想定されていた「自らの身体を通じて
生命の力
を発見する」という展開そのものではないか。
しかし一方でどうして本編ではバイオ・センサーへの言及がカットされているのか。おそらく全体のストーリーを構築していく段階で、バイオ・センサーというアイデアがうまくドラマに組み込めなかったからではないか。あるいは思いついたのが遅かったため、ドラマにちゃんと織り込まれていない状態になってしまったのかもしれない。
現状のまま仮に「バイオ・センサーがZガンダムに特別な力を与えている」と説明だけを入れたとしたら、それは説明のための説明にしかならない。ましてや超能力といっていいような「超常の力」のアリバイとして設定を紹介しても、なんのドラマにもならない。
『逆襲のシャア』に登場するサイコフレームと比較するとわかりやすいだろう。サイコフレームも超常の力を巻き起こすアイテムだが、こちらはシャアとアムロの関係性を表す小道具として登場しているため、ドラマの中に存在意味がある。また映画の冒頭からその存在も示唆されている。バイオ・センサーは、このように戯作の中にうまく取り込むことはできていない。だから本編にはその名前が登場しなかったのだろう。そのためカミーユのニュータイプ能力の表現が、前作よりもはるかに超能力的なものに見えてしまう結果となった。
現実認識と人の限界──『Zガンダム』の世界
このように『Zガンダム』もまた「自我/科学技術/世界」の構図の上に出来上がっている物語だと考えたほうがずっとクリアになる。しかし、そのように見えないのは第一に「科学技術」に相当するバイオ・センサーというアイデアを映像上からオミットしてしまったからだ。そして第二に「世界」の扱い方に違いがある。
『イデオン』ではイデを経由してキャラクターたちと観客が目の当たりにしたのは、循環し新たに生まれようとする生命の姿だった。SF的に描かれた輪廻の姿といってもいい。『ダンバイン』では、不発ではあったが登場人物が「伝承話の世界」「一種の神話」の一部となっていく世界を描き出そうとしていた。富野が主題を摑む助走となった『ガンダム』の場合は「人と人がわかり合える世界」のビジョンがそこに描かれている。いずれもある種のカタルシスのある内容になっている。
しかし『Zガンダム』はそういうところを目指していなかったのである。『Zガンダム』が「世界」として描き出そうとしたのは「現実認識」というものだったのだ。
『Zガンダム』放送開始に先立つ一九八四年一一月、『Zガンダム』の企画発表にあわせ富野はプレス向けに文章を発表した。それが「ニューガンダム? ニュータイプ? ニューシリーズ?(37)」である。
「言い訳はやめる。/今回の企画が、かつてのガンダム・ファンから顰蹙をかっている事も承知している」と始まるこの文章は「ガンダムの続編」を制作するにあたっての所信表明ともいえる文章だ。この文章はそこから、世界や日本の現状についての問題点を大づかみに語り、
自己改革の必要に迫られているのに、旧体を維持するための老人支配が横行しようとしているのは、時代にとって危険である。
しかし、官僚とか、別のシステムという摩訶不思議な生き物のおかげで、大人たちが生かされているという事態は、奇妙であるのだ。
と現時点の問題点をまとめる。そして「それは、現代の君たちにとっても、無縁ではない」と想定する視聴者へと焦点を当てる。
そこから「愛情過多によって崩壊する家庭」「独善が個性としてまかり通るという極端」と個人を取り巻く環境に触れ、そのような退廃を生み出してしまう都市生活者の精神構造を憂い、しかし田園生活に帰れといっても、その田園は過去のものとなっている点を指摘する。そして若者を取り巻く環境を、次のように記す。
そんな過酷な環境の中で人は、若者は次の時代の希望などは持てないという厭世観に支配されても仕方があるまい。
しかし、青年は大人になる。
厭でも大人になり、厭でも組織の中で硬直化した思考を強要される。
だからこそ「繰り返しでも構うものか」と新しいガンダムを始めるのだ、と抱負が語られる。そこからは具体的に『Zガンダム』が前作から「八年に近い七年後」を舞台にして、新たな主人公の物語を描くということが説明される。
そして終盤にこの言葉がでてくる。
面白いかどうかではない。
時代はこうなのだ、といった物語を手に入れたい。
ここでこの文章が冒頭から時代認識を綴ってきたことと『Zガンダム』の作品の狙いが繫がる。つまり「自我」が「科学技術」を経て触れるのが「時代はこうなのだ」という「世界」なのが『Zガンダム』という作品なのだ。この「現実認識」というのは、世界の情勢を散文的に理解するというよりも、今の世界のありようを象徴的直感的に理解する、といった意味合いが強い。本作ではそこを、カミーユが、ジオン残党を率いるハマーン・カーン、最終的にティターンズをも自らの配下としたパプテマス・シロッコの二人を、悪だと直感させることで描き出そうとした。
ハマーンはジオン公国という過去に縛られた存在だ。第47話「宇宙の渦」(脚本:遠藤明吾、絵コンテ:横山広行)でカミーユは、ハマーンとニュータイプ的な交歓を果たし、人と人がわかりあえるかもしれない瞬間を体感する。しかしハマーンはそれを拒否する。ニュータイプの能力を持ちながら、ハマーンはその可能性より、過去を背負った自分の〝立場〟を優先する。
シロッコは「歴史の傍観者」とうそぶき、力を行使し人を駒のように扱いながらも、未来への責任を負おうとしない。彼は地球圏の覇権を得ようと動いてはいるが、大衆を見下した悪しきインテリといった立場で、現実に対してリアリティを欠いた姿勢をとっている。
カミーユはそういう二人に怒りを向ける。しかし、カミーユの所属するエゥーゴも皮肉なことに、巨大企業アナハイム・エレクトロニクスのスポンサードがなければ戦えない組織である。
この構図で戦った結果、カミーユは最終的に精神を崩壊させてしまう。富野はカミーユのラストについてこう語っている。
『Zガンダム』と言う作品は僕にとっての現実認識のストーリーであったんです。それから考えていったら、彼はあの様になるしかなかった。これは番組を始める最初の時から考えていた事だったわけです。(略)
では、何故に現実認識の物語であると彼が崩壊するのか。つまり自分の限界を超えて、無理に力を得ようとカミーユがやっているわけで、限界を超えてしまっている彼に何も起こらないで済ませるわけにはいかなかった。と、そういう事です(38)。
『Zガンダム』は、カミーユという主人公が、科学技術をインターフェースに自分の限界を超えてまで「世界を歪めている悪」の本質に迫ろうとしたお話として考えられていたということだ。だから、自らの身体を死んだ人々の情念の器にして、時代の悪の一端を担うシロッコを倒すのだが、自らの精神も限界を超えてしまうのだ。これは人は自らの限界を超えて〝正義〟をなすことなどできず、その限界の存在こそが世界に対する「現実認識」という形で示されているのである。これが『Zガンダム』における「自我/科学技術/世界」という構図である。
このように整理するとやはりシロッコというキャラクターが、何を欲しどのような未来を求めていたのかいないのか、といった部分がもっと描かれていたほうが、現実認識の物語における「敵役」としての役割が明確になったようにも思う。カミーユという、どこかイライラしていて、他人とコニュニケーションをとるのが下手な主人公という存在が際立っているだけに、「現実」や「悪」と呼ばれるものが観念的すぎる表現にとどまっているところが、本作の非常に惜しく感じられる点である。
富野は『Zガンダム』以降の自らのフィルモグラフィーを「『ガンダム』の専業者になってしまった」と自虐的に語ることがある。しかし本章で確認したとおり、『ダンバイン』と『Zガンダム』は明確なラインで繫がっている。このラインが『逆襲のシャア』へと改良発展していくことを考えると、たとえ『ガンダム』シリーズに縛られることになっても、それ以前からの一貫した主題が継承されていることがよくわかる。
そして、あえて対象年齢を低めに設定し、ニュータイプの可能性を「子供の素直な感性」という形で描いた『機動戦士ガンダムZZ』を経て、映画『逆襲のシャア』が制作される。