ライナーノートの存在

『伝説巨神イデオン』は『機動戦士ガンダム』放送終了直後の、一九八〇年五月から放送が始まった。富野はこの『イデオン』で『ガンダム』以上に作劇に踏み込んでいく。また現時点から振り返ると、富野は『イデオン』を通じて、戯作者として追いかけていく〝テーマ〟とでもいうべきものを掘り当てたと考えられる。

 まず富野が、『イデオン』の物語をどのように構築したかを確認しよう。
『イデオン』のメインスポンサーはトミー(現・タカラトミー)。「戦車」「タンクローリー」「幼稚園バス」が変形合体して巨大ロボットになるというコンセプトの玩具をメイン商材とした企画である。富野は『ガンダム』のときと同様、こうした玩具メーカーの要望に応えつつ、世界設定の基本的な要素を定め、物語の概要を執筆した。富野が執筆したメモは、『イデオン』の場合、総じて「ライナーノート」と呼ばれている。
 最初に書かれたライナーノートのタイトルは「スペースランナウェイ ガンドロワ(仮)」。ガンドロワは、メインとなるロボットの名称で、この段階で基本的な設定案と、第13話までのストーリー案がまとめられている(1)
 人類が外宇宙に進出し、外宇宙移民計画〝種の拡散作戦〟を開始して五〇年が経過していた。アンドロメダ星雲のある太陽系にあるソロ星でも、移民が始まって三年余りが経過。このソロ星に、バッフ・クランと名乗る異星人が来訪する。彼らは、〝イデ〟と呼ばれるげんちからの探索にやってきたのだ。このバッフ・クランとソロ星の人々との間で武力衝突が起きてしまう。ソロ星の人々は、遺跡から出てきたロボット(ガンドロワ、本編ではイデオン)と宇宙船(メイフラワ、本編ではソロシップ)でソロ星を脱出。バッフ・クランはそれを追撃することになる。
 この「ライナーノート」をもとに一九八〇年一月二〇日に「企画書改訂稿」がまとめられる(2)。これと前後して、メインのロボットの名前が正式にイデオンと決定、富野はその後も、最初のライナーノートの続きという形でストーリー案を書き継いでいく。
『伝説巨神イデオン 記録全集5』には、最終回近くのストーリー案が掲載され「おおむねのストーリーは八〇年六月二三日に組まれたものであり、このシノプシス(引用者注:劇場版『発動篇』に相当する最終四話分)は同年九月六日に完成(3)」と書かれている。つまり『イデオン』のストーリー概要は、一九八〇年年初から同年九月にかけて固まったといえる。
 このように『イデオン』では原則、富野がライナーノートとして各話のストーリー案を執筆している(4)。『ガンダム』は序盤に、富野メモが存在せず脚本チームの色合いが前面に出てくるブロックが存在し、それが作品を豊かにしていた。そういうブロックが実質的に存在しないのは『イデオン』の特徴といえる。例外的にライナーノートが存在しないのは、総集編である第22話「甦る伝説」と渡邉由自によるオリジナルストーリーの第31話「故郷は燃えて」だけである。
 もちろんライナーノートはあくまでメモなので、そのままプロットとして使えるわけではない。本編と比べれば、脚本家の手を経ることで、キャラクターのニュアンスが豊かになり、物語展開上の論理も整理されていることはすぐにわかる。
 また『記録全集1』に採録されたライナーノートの第9話から第13話については「改」と記されており、第9話のところ「注=山浦氏稿をベースに トミノ」と附記がある。おそらく第1話「復活のイデオン」脚本の山浦弘靖からなんらかの提案などがあり、それをどこかのタイミングで反映してライナーノートも改稿されたのではないかと考えられる。ここについては脚本家の渡邉も、最初の打ち合わせの段階でいろいろ意見を交わし「カララを好奇心だけで行動させるのではなく、平和主義者にして、人類の接着剤的な役割とし、物語のキーワードとする」などの提案を行ったと証言している(5)
 このライナーノートの段階で重要なのは、最初から「イデ」を主題とした物語を展開しているところにある。『ガンダム』におけるニュータイプが、企画書には存在せず、「SFっぽく見せるための擬態」などと称しながらも、作品の終盤を牽引する大きな要素となったこととは対照的である。しかし、ストーリー主義に陥らずに戯作を行うためには、主題は不可欠である。また「イデ」というのは非常に抽象的な存在で、極論すると富野の中にしか〝正解〟のないものである。それは、富野がライナーノートでなにかイデというものをめぐる手がかりを書かないと、作品が成立しないということでもある。
 脚本家の渡邉は、

(引用者注:シリーズの)後半になって開き直って(と、私は富野氏に冗談を言いましたが、たぶんイデオンの先が見えたのではないかと思います。後日、現在に至るまでの富野氏の『イデオン』論が確立したのは、このころではないでしょうかね。最初からあったのなら言ってくれれば、シナリオを書くものとしてはもっと違った表現方法が取れましたもの)からは、比較的難解さが消えましたし、面白さも出て来てたと思います。でも途中で打ち切りになってしまったのは皮肉でしたけれど(6)

と当時を回想している、「このころ」とは、前後の文脈から、一九八〇年の秋ごろと思われ、ラストまでライナーノートが書き上がった時期の少し後であろうと推察される。この渡邉の文章からも『イデオン』は富野がまずライナーノートを書くことが前提となっていたことがわかる。そして、そこで富野がシリーズの行き着く先を見極めたことで、脚本家陣も脚本を書きやすくなったということがうかがえる。このように『イデオン』は、『ガンダム』以上に戯作者・富野が作劇をリードする形で成立した。それはそのまま両作の作風が大きく異なった理由のひとつだろう。

各キャラクターを照らし出す「イデ」

 富野は『イデオン』で何を描こうとしたのか。それは異星人とのファーストコンタクトをきっかけに、〝イデ〟という無限力に触れてしまった人々の群像劇である。物語のポイントは、イデという存在によって照射される各キャラクターの存在にあり、決して主人公の成長を描くというような、ドラマ面での軸が明確な作品ではない。
 企画書改訂稿の「制作主旨」には、

主題 異星人と接触をした人類はどの様に〝種〟を守るか? また、無限のエネルギーを得た時、〝種〟としていかに成長せねばならぬのか?
 この現象と観念をつき合わせた時我々はたえず、現実を切り開いてゆかねばならない、ということを視聴者に訴えたい(7)

とある。
『ガンダム』の設定書・原案には「シリーズキャプション 君は何に命をかけられるか」「演出テーマ 少年から青春を見上げる」とある。「物語に描かれる世界」の項目にも、戦場という極限状態の中、新たな時代へと向かって立たなくてはならないということを、「少年たちは、本能的にかぎわけて突破しようとする」と、少年たちという「個人」のフィールドに立脚点があることがわかる。これが次第にニュータイプという「人の革新」と重なり合っていくところに作品の個性があった。
 これに対して、『イデオン』の制作主旨は、最初からキャラクター全体を俯瞰した、〝人類〟〝種〟というところに視点が置かれている。そこからも特定の主人公を追いかけていく物語を目指していないことがわかる。『ガンダム』では「生活感を感じさせる細部を描くことで各キャラクターを生々しく浮かび上がらせる」ということも、作品の目標であった。しかし『イデオン』ではこうしたアプローチはすでに前提となり、演出手法の一つになっている。これはキャラクターの生活感の出し方や、画面の方向性を意識した演出などが、『ガンダム』同様に採用されていることからわかる。

自我のぶつかり──第13話を読む

『イデオン』を代表する序盤のエピソードの一つの例として、第13話「異星人を撃て」(脚本:富田祐弘、絵コンテ:斧谷稔)を取り上げよう。
 植民先であるソロ星を宇宙船ソロシップで脱出した地球の人々。そのまま地球に帰還すれば、地球の場所が異星人に発覚し、地球を危険にさらすことになってしまう。そのためソロシップはバッフ・クランの追撃をイデオンでかわしながら逃亡を続ける。ソロシップの中には、バッフ・クランの女性カララ・アジバが紛れ込み、ソロシップの指揮を執るジョーダン・ベスと惹かれ合うようになっていた。
 第12話「白刃の敵中突破」(脚本:渡邉由自、絵コンテ:いしざきすすむ)で、カララはソロシップを追撃する軍人の姉ハルルと接触。そこで裏切り者として、服を引き裂かれ辱めを受ける。そこを救ったのはベスだった。
 第13話のライナーノートは、その展開を受けてスタートする(8)
 バッフ・クランにも居場所のなくなったカララ。そんな彼女がソロシップ内で暗殺されそうになる。そもそもバッフ・クランとの戦闘は、カララがソロ星にお忍びで降りたことがきっかけとなって始まったもの。カララのせいで身内が死んだという恨みを胸に、銃を握ったのは一人の少女だった。ライナーノートは「最も家庭的、主婦的な女の子バンダ・ロッタの殺意!」と書く。
 ロッタがカララを殺害するのを止めたのは主人公のコスモ。しかし、殺害に失敗し半狂乱になったロッタの姿に、ロッタを信じていた少女リンはおびえ、コスモは自分のやった行為に自信が持てなくなる。
 ライナーノートでは、以上のような内容を記したうえで、イデオンとバッフ・クランの戦闘を入れなくてはならない、というメモが併せて記されている。当時のロボットアニメは、毎回戦闘シーンがあることが必須条件なのだ。そのほかのエピソードのライナーノートでも、ドラマとは別に戦闘の推移が書かれていることが多い。
 これをもとに脚本を執筆したのが富田祐弘。そこから富野が絵コンテを起こした(斧谷稔名義)。
 完成した本編は、働くクルーにカララがコーヒーを差し入れるという様子から始まる。それを見てイデオンのパイロットの一人、イムホフ・カーシャが「人殺しの手先でしょ」ときつい言葉を放つ。続くシーンでも、コスモと、イデの研究を行うフォルモッサ・シェリルが、カララがソロシップ内で当たり前に振る舞っていることについてベスに対して「話にならないわね」「ちゃんとしてくれよ」ときついひとことを投げかけている。特にシェリルは、キツい性格で、本作では周囲の人間に否定的な言葉を投げかけることが多いキャラクターとして描かれている。
 こうした辛辣な会話が『イデオン』序盤の独特の生々しさを生んでいる。富野は第1話のアフレコの時にキャストに対して「(今回のキャラクターは我が強い人間なので)キャラクターを嫌いになってください」と話したという。当初からこうしたギスギスした会話が作品の狙いの一つであったとわかる。
 その後、カララが何者かに狙撃される様子が描かれるが、そこにバッフ・クランが襲撃をかけてきて、物語はしばらく戦闘を中心に展開する。戦闘は、小天体(スターダスト)が密集するニンバスゾーンという危険な宙域で展開される。思わぬトラブルなども発生して、ロボットアニメらしく危機感を盛り上げる。
 ちなみに『イデオン』の戦闘は、「モビルスーツ」と呼称される同じカテゴリーのロボット同士で戦った『ガンダム』とはかなり毛色が異なる。人型の巨人であるイデオンに対して、バッフ・クランは戦闘機、宇宙船、三本足などシルエットが特殊なロボット(重機動メカと呼ばれる)などさまざまな戦闘メカで挑んでくる。これはイデオンの特異性を際立たせつつ、同時に文化の異なる異星人と戦っているという状況を端的に表現していた。
 ようやく戦闘が終わりコスモたちがソロシップに帰還すると、そこではロッタがカララと対峙していた。
 本編はここからライナーノートと展開が異なっている。富田はこの展開について、富野との打ち合わせの中で、中途半端はよくないということで、コスモが止めるのではなく、ロッタが全弾をカララに向けて撃つという展開になったと記している(9)。そのうえで、弾丸はカララの頰をかすめただけで、すべてそれてしまうという結末をつけた。そしてコスモは、死を覚悟してロッタの前に立ったカララ、泣き崩れるロッタを見て「みんな立派に見える。哀しいぐらいに立派に」とつぶやく。

傍観者としての主人公

 我の強い人物たちの点描から始まり、おとなしそうな人間の中に宿る殺意に迫っていくドラマは、その結末のつけかたも含めて見ごたえがある。ここで注目したいのは、主人公であるコスモが、ロッタとカララの対決の見届け役に留まっている点だ。
 そもそもコスモ(に相当する主人公格の登場人物)は、最初のライナーノートの時点では、人物紹介の項目に存在していない。この時点では人物紹介の筆頭はベスが書かれている。これが企画書改訂稿でユウキ・シンという名前で主人公として立項されることになる。ユウキ・シンが主人公になったのはイデオンのメインパイロットだからというところも大きいだろう。
 性格設定に関しては、メカに強い熱血漢で「欠点は、自閉症か?」と記述されている。ここでいう「自閉症」とは医学的に正しい使われ方ではなく、一九八〇年当時の「内向的」を表す言い回しである。『ガンダム』のアムロも当時のアニメ雑誌などで、〝自閉症〟という言い回しを使ってその内向的な様子が説明されている。
 ここで記された「熱血漢で内向的」という人物像からもわかるとおり、コスモの人物造形には手間取った節がみられる。アムロという画期的なキャラクターを造形した後、どんな人物を主人公にすればいいか迷っていたことの証だろう。最終的にコスモは、内向的なキャラクターではなくなっている。しかし一方でコスモは、『イデオン』という物語のストーリーラインを主体的に背負うこともなかった。
 例えば、コスモと比べると、異星人カララと恋に落ちるベスのほうが、むしろ主人公的ドラマを担っているともいえる。またドラマを進展させるという意味では、博愛主義者でありその結果として、バッフ・クランを裏切ることになったカララそのものが大きな役割を果たしている。しかし、この二人にフォーカスすると今度は、ロミオとジュリエット的な要素が強調され過ぎてしまう。それでは、人間とイデという巨大なコントラストへと視聴者の目が向かわない。コスモという、中心にいながらも傍観者の度合いが高い人物が主人公だったからこそ、人間とイデの関係性という物語が見えやすくなったということはいえるだろう。そして、最終的にコスモは、「イデの思惑に最後まで抗おうとする人間」という役回りを担うことになる。

力を手にした人類の傲慢

 では〝イデ〟の本題へと踏み込む物語の終盤はどのように構想されていたか。
 企画書改訂稿のストーリー要約は「人類は〝イデ〟の力によって、全宇宙の支配者になろうかと自負した瞬間、物語は〝イデ〟の恐るべき力を見るのだった」と締めくくられている10
 その後に掲載されたもう少し詳しいストーリー紹介では、終盤、バッフ・クランの先発隊がついに地球へと迫ってくる展開が書かれている。

「全てを壊滅しない限り、バッフ・クランは地球の存在を、母星に知らせる。叩くしかない」
 その意志の統一がバッフ・クランを壊滅する。あたかも、〝イデ〟そのものの力の発現であったかのように!
○「我々は宇宙の覇者になれる」
 チームの傲慢が、一つの和を生む。が、パイパー・ルウ(引用者注・ソロシップにいる赤ん坊)が泣いた。
「それは、自らの死を招く」
 パイパー・ルウの泣き声がそう語ったのだ。
 〝イデ〟は意識を持ったエネルギーだったのだ。〝イデ〟を使う意志がエゴイズムであった時、それが〝第六文明者〟であっても、消滅させる力を、イデは持っていたのだ。
○少年たちは新たな天地を求めて地球を後にした。〝イデ〟を解放する場を求めて11

 赤ん坊のパイパー・ルウが〝鍵〟であることは、最初のライナーノートの第2話メモの時点で「この因果関係は伏せる」としたうえで、すでに記されている。そのうえでクライマックスは、大人たちの傲慢と赤ん坊の純真さが対比される形でドラマが構成されている。企画主旨にあった「無限のエネルギーを得た時、〝種〟としていかに成長せねばならぬのか?」という問いかけが、無限力を手にした傲慢を超越できるかどうか、という形でドラマに取り込まれている。

傲慢から業へ

 では、実際の『イデオン』はどのような終幕を迎えたのか。初期案からの一番の違いは、キーワードが「力を手にした傲慢」ではなく「業」に変わっている点だ。これは劇場版で明確に打ち出される。おそらくこの、「傲慢」ではなく「業」こそが描くべきことである、という転換が、渡邉が指摘した「『イデオン』論の確立」だったのではないだろうか。
 ライナーノートを読むと、30話台にはまだ初期案の「傲慢」の気配が見える12。第32話でコスモは、イデオンの戦闘力に自信をつけ「(バッフ・クランから)逃げ切れる。好きな所を城として生きぬいてゆくこともできるはずだ」と主張する。第33話では、イデに運命を左右されているかもしれないということに緊張感がないソロシップのメンバーに苛立つコスモとカーシャが「救世主は自分かもしれない」と思うシーンが登場する。また第34話ではソロシップのメンバーの気分として「我々が正義となり、イデを善き形で発現させねばならぬ!」「地球にも、バッフ・クランにもその事実を知らせ、攻撃をやめさせる必要がある」という台詞も書かれている。そして第37話のラストにはナレーションであろうか「因果の線──宇宙の果てに向かおう。この人の住む時空にイデはあってはならぬのだ」との台詞が置かれている。
 このあたりまでは、少なくともライナーノートの方向性は、戦いを切り抜けたことでコスモたちソロシップのメンバーが傲慢になっていく一方で、宇宙の果てを目指す流れが強調され、企画改訂稿のストーリーに近い雰囲気がある。問題はその行き着く先である。
 富野が『イデオン』のラストを、最終的にどの段階で構想したかはわからない。ただ先述のとおり、ラスト四話は一九八〇年六月二三日に一旦まとめられた後、九月六日にフィックスされたことはわかっている。この最終決定に至る途中の段階の一九八〇年八月二七日に、富野は取材を受けている。そこで富野は全員が死亡するラストに触れている。
 富野は、赤ん坊のパイパー・ルウが、イデの力が発揮される鍵であることを説明したうえで、以下のような展開を語っている。

ルウのもう一歩イデに近い人が出るとなれば、登場人物を全部殺すつもりだったのを少し変えてコスモだけでも残そうかなと思っています。(略)
 その人(引用者注:ルウよりもイデに近い人)がコスモを守り、コスモが最終活動を始めたイデオンを
「止められるものなら止めてみよう!」
と思うところで終わる……これもあんまりぱっとしないので、次に考えたのが霊界物語なわけ。全員死んだままで終わらせるんじゃなくて、新しい星に魂の形で行っている。最初にいっていた輪廻転生の話なんです。
(略)しかし今の話(引用者注:輪廻転生)は、やっちゃいけないのではないかと思い始めているんです。とっても危険な話になる部分があるからで、最近若い人の自殺が多いでしょう13

 今後の展開の明言を避けるためか、まだラストを決めあぐねているのか、言葉は揺れ動いているが、すでにはっきりとキャラクター全員が死んでしまう構想そのものを持っていることがわかる。
 そして、ライナーノート第38話からは、そこに向けて物語が具体的に展開を始める。そこで先導役となるのが、キツい口調でしばしば周囲の気持ちを逆なでしてきたシェリルだ。
 シェリルは、妹リンや恋愛関係となったバッフ・クランのギジェを立て続けに失い、徐々に狂気に陥っていく。彼女の精神が安定を失っていく様子が、作品に「誰もがもう後戻りできない状況へと飲み込まれている」印象を強く与える。第38話のライナーノートにはこんなくだりもある。

 シェリルは、発狂しかかっていた。が、それ故に、イデの意志を聞くこともできた。
〝我もまた、己の場を守るための力を欲するのだ〟
「イデは、力を欲しがっているのよ! 自分を守るために! そのためには、もっともっと大勢の人が死んでゆくわ!14

 ここから続く第39話、そして劇場版『発動篇』に相当する第4043話は、当初に想定されていた「力を手にした傲慢さ」がピックアップされることはなく、イデを巡る戦いがどんどんエスカレートして、ある種のカタストロフへと突き進んでいく様子が描かれる。この「なるようにしかならない方へ進んでいく人の様」の中から最終的に浮かび上がってくるのが、人の〝業〟である。

イデオン論とは何か

 ここで大事なのはイデが人を誘導しているわけではないということだ。イデは自らが求めるものを得るために、ある状況を設定することはできる。しかし、それが実現するかどうかは、その状況下で人々がどういう選択をするかに大きく左右される。これが「イデの手のひらの上で踊る」ということで、ライナーノートでそうした構図が明確に打ち出されたことが、渡邉のいう「『イデオン』論の確立」だったのだろう。
 このためTVシリーズ後半のエピソードをライナーノートと比較すると、この「イデの手のひらの上で踊る」という自覚がキャラクターたちの中に徐々に生まれてきている様子が付け加えられていることがわかる。
 例えば第35話「暗黒からの浮上」(脚本:渡邉由自、絵コンテ:たきざわとしふみ)は、ライナーノートにあったコスモとカーシャが「救世主」を自認する、「傲慢」に紐づいた台詞は採用されていない。そのかわり第35話序盤で、研究中のシェリルが「(イデの)コントロールなんて不可能じゃない?」「わたしたちイデに弄ばれているのかもしれない」と不安を漏らしている。またラスト間際にもベスが「俺たちはイデにコントロールを拒否されたのかもしれないのだ。イデの力に助けられたと思ってはいけない。俺はそう思う」とも語る。
 また第37話「憎しみの植民星」(脚本:松崎健一、絵コンテ:石崎すすむ)では、ソロシップをバッフ・クランに売り渡そうとする植民星の幹部コモドアが登場。コモドアが今際の際に「なぜ、我々まで巻き込む」とつぶやくと、ギジェは「我々も巻き込まれた口だ」と返す。こちらのやりとりもライナーノートにはない。

 こうして「『イデオン』論の確立」により、物語はラストスパートへと加速していくが、テレビ放送は、玩具売上の不振などもあり、全43話の予定が、第39話で打ち切りになってしまったのだった。
 テレビ放送の最終回となった第39話「コスモスに君と」(脚本:松崎健一、絵コンテ:滝沢敏文)のラストでは、バッフ・クランの軍隊を率いるドバ・アジバ総司令(カララの父でもある)が、全軍にソロシップ追撃を命じる。その直後に「その瞬間であった。イデが発動したのは」とナレーションが入る。ナレーションは、イデが与えた和解のチャンスを人類とバッフ・クランが互いに拒否したため、イデは無限力を解放し、地球人もバッフ・クランも因果地平の果てに四散したのかもしれない、と語り、物語は唐突に締めくくられる。
 この最終回は当初予定した第39話の内容はそのままで、ラストのナレーション以降を付け加えて〝最終回らしく〟仕立てたものだ。当然ながら制作スタッフの本意ではない。サンライズは放送終了後も自主的に制作を続行。最終的に劇場版として、制作中だった未放送分(第4043話)を上映することを決定。〝ダブルリリース〟と称して、テレビシリーズの内容を再編集した『THE IDEON 接触篇』と、未放送の第4043話を中心とする『THE IDEON 発動篇』の二本立て興行という特殊な形での上映を行うことになった。公開日は一九八二年七月一〇日である。

劇場版『THE IDEON 接触篇』で変わったこと

 先述のとおり『イデオン』は軸となる主人公を欠いた作品であった。そのため『発動篇』に必要な情報を説明する『接触篇』は、かなりまとまりを欠いた内容となった。構成としては、カララがソロシップクルーに受け入れられていく過程を縦軸にして、彼女の立ち位置が変化するエピソードを配置することで流れを作っている。ただしカララを主人公として構成しているわけではなく、あくまで関連のエピソードをストーリーを整理するために使っただけだ。
 終盤、月面近くで繰り広げられる戦闘シーンを描くにあたり、テレビでそこを描いた第27話、第29話に加え、まったく舞台の異なる第32話を組み合わせて再構成しているあたりなどに、富野の再編集の巧みさをうかがうことはできる。ただ、全体として観客の心情を盛り上げたり、キャラクターの人生を立体的に示すような作りにはなっていない。
『接触篇』では、第25話「逆襲のイデオン」(脚本:渡邉由自、絵コンテ:石崎すすむ)でコスモが負傷し、カララの輸血を受けるというエピソードをアレンジし、終盤近くで扱った。これは第一にバッフ・クランと地球人が決して遠い存在ではないということを示すエピソードで、この点はテレビのときと意味合いは変わらない。『接触篇』ではそこに、コスモが夢の中でイデと対話するシーンが新規映像として組み合わされている。これはもともと第34話「流星おちる果て」(脚本:富田祐弘、絵コンテ:菊池一仁)で病床のベスが夢でイデと対話したときの内容を、コスモに置きかえて描いたものだ。これは当然ながら、コスモを主人公として認識してもらうためのアレンジでもある。ただコスモとイデの会話は、ベスとのものと大きく異なっている。
 第34話でイデは、意思の集合体であることを語り、ベスが投げかける疑問に一部答えたりもする。しかし『接触篇』は異なる。

イデ「我自らを守り生かすために、新たなる力を」
コスモ「そのために俺たちを戦わせるのか」
イデ「新たなる力のために、我は汝らに」
コスモ「自分で示せ。自分でしなければ生き延びられるものか」
イデ「我は幾億幾百の意思の集合体たる」
コスモ「俺たちは生贄じゃないんだ!」

 イデとコスモの対話はベスのとき以上に嚙み合わないものになっている。特にこちらでは、イデが同じような言葉を繰り返すことによって、イデが人格を持っている印象がより薄くなっている。富野はアニメ雑誌の「イデとはなんですか」という質問に対し、「所詮イデはイデでしかなくて、一口にいいますと《知的生物の認識力の集中した場所》だと思ってください」と語っている15。『接触篇』の対話は、そうした〝場〟としてのイデを強調した会話になっているのである。
 このコスモとイデの対話の後、月面での戦闘を挟んで、ソロシップのメンバーによる「イデとはなんなのか」という議論が描かれる。ここで「イデはイデオンなどを開発した第六文明人の意思の集合であること」「パイパー・ルウのような純粋な防衛本能に反応すること」が確認され、「イデは、自らの存在を守るために他者を滅ぼすこともありうる」ことが示唆される。そしてシェリルが、自分たちはイデに取り込まれている、とつぶやく。テレビシリーズでは、徐々に匂わせていた「イデの手のひらの上にいる」という意識を、夢の中のコスモの「生贄じゃない」という台詞と併せて、『接触篇』のラスト間際で駆け足ながら一気に表面化させるのである。

ドバの業──『発動篇』で描かれたもの

 そして、この「イデの手のひらの上」で、「そう生きるしかなかった人々」の〝業〟の物語が繰り広げられるのが『発動篇』である。
『発動篇』は、ライナーノートと異なるところもあるが、バッフ・クランの執拗な攻撃と、それに応戦するイデオンとソロシップの戦闘が、どんどんエスカレートしていき、大勢の人の命があっけなく失われていく姿を描くという点では目指すところは変わっていない。
 最後の決戦の中、〝業〟に言及するのがバッフ・クランの総司令官、ドバである。それまで物語の展開の中心にいたソロシップのクルーではなく、敵軍の総司令官が終盤になってドラマを担う中心的な人物となるのは興味深い。ドバは、イデオン、ソロシップとの総力戦を戦いながら、イデという存在を理解する。
「知的生物がなければイデは存在しえないのに、なぜ殺し合いをさせるのか、わかったような気がする。知的生物に不足しているのは、己の業を乗り越えられんことだ。欲、憎しみ、知恵のこだわり……そんなものを引きずった生命体がもとでは、イデは善き力を発動せぬ。となれば、自ら善き力の源たる知的生物を作るしかないと……」
 さらにイデオンが、乗艦であるバイラル・ジンに迫る間際にも、停戦を迫る士官に対してこう言う。
「巨人(引用者注:イデオン)は、まっすぐにこのブリッジに向かっている。そのわけがわかるか。バッフ・クランとしての業を持った男が、この私だからだ」
 どうして終盤にきてドバがクローズアップされたのか。それは娘のカララがソロ星に降り立ち、地球人のベスと惹かれ合ったということがすべての始まりだからだ。それによってドバの中には「無限力イデを地球人が手に入れてしまうかもしれない恐怖」という政治のレベルと、「娘を異星人に奪われた怒り」という個人のレベルの屈託が重なり合って存在することになったのだ。
 ソロシップのクルーは、もともとイデを求めて主体的な行動をしていたわけではない。偶然にも遺跡を発見し、その直後の不幸なファーストコンタクトにより家族やソロ星を失ったのである。その点で、ソロシップのクルーは受け身で、そこにある〝業〟は、「生き延びるためにバッフ・クランと戦うしかない」というシンプルなものだ。これに対しドバのほうがコスモやベスよりもはるかに、自分のアイデンティティと今回の出来事が深いところで結びついている。ストーリーの落着点が「ソロシップ側の傲慢」から「そのようにしか生きられない」という〝業〟の物語へとシフトした段階で、ドバが要になるのは、必然だったといえる。

父として、指揮官として

『発動篇』の白眉は、ドバと長女ハルルの対話シーンだ。カララの姉であるハルルはソロシップに潜入しカララを射殺。旗艦バイラル・ジンに戻ったハルルは、ドバと二人きりで対話をする。
 ドバに、ソロシップへの恐れと憎しみを薄れさせてはいけないと告げるハルル。ドバはそれに対し、自分はあくまで正義という大義名分で戦っている、と答える。それに対してハルルは「カララが異星人の子を宿していた……と、聞いたときもでしょうか?」と問い詰める。

「あの子はこの事件の元凶であったにもかかわらず、抜け抜けと子供を宿し、銃を向けた私に向かって子を産むと言ったのですよ。アジバ家の血の繫がりを持った女が、異星人の男と繫がって子を産む……許せることでしょうか? ですから私はあの子を撃ちました。即死でした! 私は妹を殺してきたのです、父上!」

 このハルルの発言に対し、ドバはよくやったと褒める。「これで、アジバ家の血を汚さずにすむ。即死させたのは肉親の情けというもの」と、家ひいてはバッフ・クランという国家・民族の立場から公の言葉で返す。
 これに対し、ハルルは自分が殺したのは、そんな〝公〟の論理ではないと告げる。かつての恋人の遺言すら受け取れなかった自分に対し、愛した人間の子供を妊娠したという妹が憎かったのだ、と。つまり自分の心の底には幸福なカララに対する嫉妬があったのだ、と告白している。
 ハルルは、どうしてこんな心情を吐露したのか。それは父に甘えたかったからではないか。もともとハルルは傑物といわれ、隙のない人物である。彼女の数少ない弱みが、かつての恋人ダラム・ズバに今も思いを残しているところである。しかしそのダラムも死んでしまった。自分の弱音を言えるのはもはや父ぐらいしかいないのである。
 しかしドバは、この長女ハルルに優しい言葉をかけることはない。だからハルルはすぐにいつもの様子に戻り、「ロゴ・ダウの異星人すべてへの復讐は、果たさせてください。そのために軍の指揮はとります」と軍人らしく宣言する。ドバも「おう、とってもらおう! 私はお前を女として育てた覚えはない!」と応じる。だから、ハルルにできるのは、ドバが退室した後で「助けて、ダラム……」と死んだ元恋人の名前を呼ぶことだけなのだ。
 ちなみにこのシーンは、ライナーノートではあっさり「ドバはハルルを見舞った。/カララが子を宿していた、と?」とたった二行書かれているだけである16。渡邉の脚本で加わったか、絵コンテで深掘りをしたのかはわからない。ただ絵コンテを見ると、ト書きにドバの心理が書き込まれていて、ドバの〝業〟を描くうえで大切なシーンと意識して演出されていることがわかる17
 このシーンではドバは完全に、ハルルを突き放して見ている。ハルルの嫉妬の告白にドバは内心「やってられんなぁ」(ト書き)と身を引き、さらに「俺には男の子がいなかった! と考えている」(同)とも書かれている。
 この絵コンテのト書きは言うまでもなく後にドバが漏らす「ハルルが男だったらという悔しみ、カララが異星人の男に寝取られた悔しみ……。この父親の悔しみを誰がわかってくれるか……」という台詞に繫がっている。
 最終決戦の中、本星の最高権力者ズオウ大帝が死に、全軍を指揮するドバは実質的に最高権力者となっている。最高権力者としての「脅威となる無限力イデは、手に入れられないのであれば殲滅するしかない」という大義と、私的な父としての憤懣が、渾然となった状態でドバは戦闘指揮をとっているのである。このように公私が入り混じった複雑な内面を持つ人間像は、それまでのアニメには登場しなかった種類の人物だった。
 自分の内面にこれだけのものが渦巻いているからこそドバは「知的生物に不足しているのは、己の業を乗り越えられんことだ」と喝破する。ドバは己の中の「欲、憎しみ、知恵のこだわり」といったものを自覚したうえで、そう語るのである。そして実際、ドバは自分の〝業〟に縛られて、ハルルの〝業〟を理解しようともしなかったのである。

業からの解放

 こうして〝業〟を体現するドバ率いるバッフ・クラン軍とイデオン、ソロシップは激しく戦い合う。バッフ・クランが行う、彗星の軌道上にソロシップをおびき出して直撃を狙う作戦や、超新星のエネルギーを集約して発射するガンド・ロワの攻撃など、スケールの大きな作戦が連続して繰り出され、メインキャラクターたちは子供であっても容赦なく死んでいく。
 そしてドバとコスモのイデオンが、刺し違える形になりすべての戦闘が終わる。やがてハッピーバースデーの歌とともに、カララの胎中にいた子供〝メシア〟が現れる。メシアが導くのは、登場人物たちの魂(半透明な裸の姿で表現される)である。魂となった人々は、穏やかで優しく、〝業〟から解き放たれていることがわかる。彼らは、無数の光となって惑星の海へと降り注いで映画は締めくくられる。このラストは、ほぼライナーノートどおりである。
 キャラクターが全員死んでしまう展開を悲劇ではなく、世界の理、一つの世界観として示すこと。ミクロな人間関係の積み重ねから始めてそこに到達すること。演出としては──各要素はよりソリッドになっているものの──『ガンダム』の延長線上にある本作だが、戯作としては『ガンダム』よりもさらに観念的な内容に挑み、最終的に〝業〟というキーワードを発見することで、それを表現することを達成した。
『発動篇』のラストは実写映像による海の風景である。これは絵コンテの段階から想定されていた演出である。どうしてここで実写が選ばれたのか。それは死んだコスモたちが転生した先が、観客・視聴者の生きるこの世界であるからだ。
 TVシリーズ終了直後のアニメ誌の取材で富野はこう答えている。

 ソロシップに乗っている人たちが死んだあとに、第2段目の輪廻転生の話が当然出てこなくてはならないのだがじつはその世界は私たちのこの現世なんだといいたかった設定部分がみえなかったことを反省しています。彼らが私たちの地球の祖先であるかもしれないというところで、話は帰結しているわけです18

 つまり、業に縛られたコスモたちがなしえなかった「善き生命体であること」は、今生きている私たち人類に渡された〝バトン〟である、ということが実写の海のラストに込められているのである。こうして『イデオン』は無言のうちに、「我々人類はより良く生きることはできるのか」と問い掛けて締めくくられる。『イデオン』は「全員死んでしまうしかない」というようなニヒリスティックな作品ではないということができる。

自我/科学技術/世界

 富野はこのような一連の『イデオン』における戯作を通じて戯作者としてのテーマを獲得した。本人に具体的な自覚があったかどうかはわからない。しかし『イデオン』を経たことで、戯作するうえでのベースが出来上がったことは間違いないように考えられる。
 そのテーマはひとことでいうと「自我と科学技術と世界の関係性を描く」ということになる。
「自我」とは、キャラクターが心に抱えているある種の欲望のあり方だ。これは私的なものから、社会的な立場に基づく公的なものまで幅広く存在する。ちょうどドバが、父親としての屈託を抱えつつ、バッフ・クランの大義を行おうとしていた構図がそれにあたる。この「公私にわたる欲望」が登場人物の根本の行動原理となる。
「科学技術」は、富野がメカものを演出するうえで避けられないファクターである。科学技術は便利だが同時に、人間をそこに取り込んで堕落させるものでもある。『イデオン』では、イデのエネルギーはイデオナイトという特殊な鉱石によって、イデオンとソロシップに集約されているという設定であった。
 また、放送終了後のインタビューで富野はイデについて次のように語っている。

 つまり、イデの設定の第一条件として、人間に無関係のところには置きたくなかった。イデが宇宙を作り、人を作ったという〝絶対的存在〟にはしたくなかったんです。
 ようするに、ぼくは、人間の智恵が生みだした〝神〟という概念に相対するひとつの〝力〟として、イデを考えてみたんです19

 つまりイデという無限力は、その全貌は人間にうかがいしれないものの、オカルティックなもの、宗教的なものではなく、あくまでも科学技術の延長線上にあるものとして扱われているのである。なおこの発想の根底には、別のインタビュー20で名前を挙げているとおり、映画『禁断の惑星』(一九五六)における「イドの怪物」の存在があるのはいうまでもない。つまり『イデオン』は、イデという科学技術を人間がいかに理解しうるか、という物語であったのだ。
「世界」は別の言い方をすると「世の理」である。『イデオン』であるなら、すべての魂がやがて新たな生命に生まれ変わるという輪廻の仕組みがそこにあたる。富野の説明するとおりイデは〝場〟であり〝科学的な存在〟ではあるが、同時に「命を巡らせ、より善き存在を目指す」という、命──というよりも魂か──の大きな循環という「世の理」を体現している。

富野作品の原型

 ではこの三つはどのような関係性で結ばれているのか。それは「科学技術」をインターフェースとすることで、「自我」は「世界」に触れることができる、という形なのである。『イデオン』はこういった形で描かれるドラマの原型(アーキタイプ)といえる。
「自我」は「世界」へと直接触れることはできない。それはシャーマンのような特殊な人間か、シェリルのように狂気の淵に接近した人間でないと不可能である。普通の人間は、そこに「科学技術」というインターフェースを挟むことが必要なのである。
 例えば強いロボットがパイロットの身体の延長として表現されることからもわかるとおり、「自我」は「科学技術」というインターフェースによってしばしば強化される。しかしそれは常に「自我」を「世界」へと導くものではない。「自我」は「科学技術」によって強化されることで、時に暴走して自滅に至ることもありえる。この暴走をコントロールできるのが〝智恵〟と呼ばれるものになる。
 これに則って『イデオン』を語り直すと、イデオン、ソロシップという「科学技術」をインターフェースにして、〝業〟に縛られた「自我」が、より善き存在が求められる「世界」を垣間見ることになる物語であった、ということになる。
 本書で『ガンダム』と『イデオン』にこれだけの紙幅を割いたのは、戯作者としてのテーマが明確になる過程をちゃんと確認したかったからにほかならない。
 このテーマ性を念頭に置くと、『イデオン』から連続性のある作品は『聖戦士ダンバイン』であるということがはっきりする。一方で『戦闘メカ ザブングル』と『重戦機エルガイム』は、少し傍流に位置することもわかる。『機動戦士Zガンダム』以降の『ガンダム』シリーズが、最初の『ガンダム』とどこか違う雰囲気を身にまとっているのも、この「自我」「科学技術」「世界」の要素が盛り込まれているかどうか、によると考えることができる。