『ガンダム』のリアリティはどこから来るか
現代のアニメだったら、この食堂はもっと正確なパースペクティブで描かれるだろう。正確性という点では、この食堂はそこまで正確な空間として描かれているわけではない。しかし、このシーンはドラマが繰り広げられる「空間」として見事に成立している。どうしてそういうことが起きているかというと、ここで描かれるドラマが、アムロの動線という形で空間的に設計されているからだ。
先述のとおりこのシーンは「奥のカウンター席」と「テーブル付近」と「入口」という三つの空間から構成されている。アムロの動線は、奥のカウンターからスタートし、テーブル付近を通って、入口から外へ出るという形で設定されている。しかし、アムロはスムーズに移動することができない。テーブル付近でラルとハモンに捕まってしまうからだ。動線に沿った動きが阻害されることで、そこにドラマが生まれているのである。
さらにアムロがテーブル付近に留まっているところにフラウが登場したことで、アムロはいっそう進退窮まることになる。このとき、入口方向にラルが立ち、アムロの動線を塞ぐ形で配置されることになる。
動線を軸にした演出プランとそれによって伝えたいドラマ。それがこのように各カットのレイアウト(画面構成)にしっかりと反映されているからこそ、この食堂は物語の舞台となる「空間」として見事に成り立っているのである。
ラルとハモンという男女に存在感が宿ったのは、演技や台詞が持つリアリティだけが理由ではない。食堂という舞台も、ドラマと絡み合って表現されたことにより、リアリティある空間として視聴者の中に存在するようになったのである。劇作家の別役実は「舞台空間は、登場人物がそこに入りこむことによってはじめて、息づき、単に物理的な空間ではないものになる(4)」と指摘する。『ガンダム』の持つリアリティとは、まさにそういう登場人物の描き方と、舞台空間との相互作用から生まれていたことが、この食堂のシーンを見ると実感できる。
『ハイジ』で学んだもの
富野は、どこでこのようなドラマと空間の相互関係を自らの手法としたのか。第3章で触れたように『超電磁ロボ コン・バトラーV』(一九七六)、『超電磁マシーン ボルテスV』(一九七七)ですでに、空間を生かした演出が見られるので、ここより以前に、おそらくその萌芽があったと考えられる。
考えられる要素として、『アルプスの少女ハイジ』(一九七四)、『母をたずねて三千里』(一九七六)に絵コンテマンとして参加した経験は無視することはできない。両作とも監督(クレジットは演出)は高畑勲。場面設定・レイアウト(画面構成)を宮﨑駿が担当している。また富野はこの後の『赤毛のアン』(一九七九)にも絵コンテで参加している。
場面設定とは、画面に登場する舞台などをデザインする役職で、美術設定とプロップデザインを兼ねたような役職だ。レイアウトは、絵コンテに描かれた演出家のプランをもとに、画面の構図を具体的な絵として決め込む役職。実写でいうならカメラマンに相当する役割といえる。
『ハイジ』のレイアウト作業について、宮﨑は自らが設定した山小屋の中に「カメラを持ち込んだつもりで絵を描いた(5)」と回想している。当時のアニメの背景は、絵画的な魅力は別として、書割のような扱いが多く、空間を表現するという意識は薄かった。そこに対して、ちゃんと空間の中に登場人物がいるように描こうと取り組んだ極初期の作品が『ハイジ』であった。それは単に立体的な空間を描くというだけでなく、その空間の中を登場人物がどう動くか、という動線の設計も含んだ挑戦だった。
富野が『ハイジ』などで描いた絵コンテが、どの程度採用され、どの程度画面に残っているかは具体的には不明だ。ただ『ハイジ』などにみられる、生活の細部をリアリティをもって描くことで登場人物像や世界を構築していくスタイルは、『ガンダム』にも色濃く見られる。ここから考えても、なんらかの影響はあったと考えるほうが自然だろう。
ニュータイプが生んだ二つの顔
ここで重要なのは、戯作者・富野はこのようなリアリティを感じさせる人物や空間描写を『ガンダム』という作品のゴールとして考えていなかった、という点だ。富野はそれを、ニュータイプという作品の鍵となる概念を浮かび上がらせるための、必要なプロセスとして考えていたのである。この姿勢こそ、富野のその後の作風を考えていくうえで重要なポイントといえる。
ニュータイプとは『ガンダム』の終盤に登場する、理解力と洞察力が高まった人間を指す言葉だ。「物事の本質を摑む力に優れる」という表現をされることからもわかるとおり、ニュータイプはある種の理想を込めた存在としてある。しかし同時にその能力は「勘の良さ」という形で発現するため、「戦闘力の高い人間」として強力なパイロットたりえる才能としても描かれている。
初期設定書にはラストシーンについて「恐らく、主人公に近い女性が、主人公かそれに近い男に対して、
私は、あなたの子供を生みたかった。今になって、そう思えます。
という語りで、終ることになる」というイメージが書かれている。
しかし「演出ノォト」では、これについて「局・代理店・スポンサーに対しての、基本的な作品イメージの説明」であって、「この科白をそのまま使えるようなドラマ創りは無理だ」と感じていたと書いている。
その第一の理由が、ガンダムがロボットものであり、第二にSF的作品だからだ。
設定書に書いた科白そのままが使えるようなラスト・シーンは、間違いなくメロ・ドラマか、そうでなければ実写といわれている実際の人物を使って撮影したフィルムでなければ、使えない科白だと考えていた。(略)
設定書にあるような生身のキャラクターの気分を伝えながら、SF的表現は何なのか…と、これは一ヵ月近くも考えた。
そして、思いついたのが、〈ニュータイプ〉。
この単語を思いついた時の嬉しかったことは、まず、読者諸君にどこまで判って貰えるか?(6)
そして、ラルとハモンのエピソードも、このニュータイプへの助走として位置づけられているのである。
(引用者注:クライマックスで)アムロの想像力を拡大させる前に、大切なことがあるんじゃあないのか?という作者の立場の想像力が、ランバ・ラル夫妻の登場ということになるわけだ。
現実の中(オールドタイプ世界)での人の良き姿、悪しき姿をみて判っていかなければ、ニュータイプへの発生なぞありはしないんじゃあないか、と考えたんだ。
それが、ランバ・ラルの登場であり、ニュータイプへ至る伏線となっている。
つまり、人生の全体像をちょっとでも知る機会がなければ、例えアムロというニュータイプの素養をもった少年があっても、人のゆく道の目指すべき処を洞察するなぞは、できはしないだろうと考えたのだ(7)。
第4章で触れた通り、第7話から第21話までは、脚本家陣と富野が「引っ張り合い」をしながら、多様なエピソードが生み出されていた。その経緯を踏まえつつ、改めて富野は、第22話以降のストーリー案を自ら執筆することになるわけだが、それはつまり『ガンダム』という物語のゴールがニュータイプであるというところを目指して、改めて物語を組み立て直そうとしたわけだ。
この作業(引用者注:ランバ・ラルのエピソードを演出)をしながら、シリーズ全体のテーマと終着点を考えていったときに、誤解を恐れずにいえば、実写的な発想のライターの感覚だけではアニメにならないのではないか(略)、と思った。それで、ぼくは第21話以降のストーリー構成というものを書くことになった(8)。
こうしてニュータイプの導入により、『ガンダム』は二つの顔を持つようになった。一つは、内向的な少年が戦争に巻き込まれた結果、さまざまな人々と出会い世界を知っていくという「教養小説」としての顔。もう一つが、戦争という人類の愚かな行為に巻き込まれた少年が、その中で超感覚(ニュータイプ能力)を獲得し、人類がよりましに生きられる可能性を示唆するという「SF」としての顔である。
「ニュータイプ」の発明
ここで一度、初期設定書の段階から、ニュータイプの発明に至る足取りを確認してみよう。
一九七九年一月六日にまとめられた初期設定書(9)には、ニュータイプという具体的な言葉は書かれていない。しかし設定などを固めている一九七八年一一月三日付のメモに「ラスト・メッセージに至るドラマとして、レギュラーの中に、エスパーの導入あり得る」と記されてもいる(10)。七ブロックに分かれたストーリーのメモを見ても、敵役としてアステロイド・ララという一三歳のエスパーの少女が登場している。また執筆時期不明の人物相関図には「星印のついたキャラクターはエスパーかもしれない」と書かれ、テムロ・アムロ(本編におけるアムロ)とアリシア・マス(本編におけるセイラ)にその印がついている。
こうしてみると作品構想の初期の段階から、「人間の能力を超えた存在を登場させる」という狙いが富野の中にあったことがうかがえる。一九七八年一〇月三〇日付のメモには「ラスト・メッセージ(シャリア・ブルとの対話より)」とタイトルがつけられ、アムロと最終的に対峙する予定だったキャラクター、シャリア・ブルの台詞が書かれている(11)。本編にもシャリア・ブルというキャラクターは登場するが、名前が同じだけで構想段階のこちらのキャラクターとは別ものの存在だ。
この「ラストメッセージ」には「人類には、未だ、戦いという遊戯が必要なのだ」「伝習の時代は、終った。もはや、人類は、己の力で、たかめねばならない。太陽の輝きが、銀河をのみこむまでに、成長せねばならぬ。宇宙は、新たな精神のモチーフを持っている。もはや、時はない。あと、三〇〇億年もない……」とスケールの大きなフレーズが並んでいる。これは第41話「光る宇宙」におけるララァとアムロというふたりのニュータイプが精神的交歓の中で対話したシーンの原型と見えなくもない。
富野にとっては、このラストメッセージのような方向へと進んでいくのが、想定された『ガンダム』だったということだ。アニメにしてはずいぶんと人間臭い、リアリティあふれる群像劇は、富野にとってはそこににじり寄っていくための過程であり、ゴールではなかったのだ。
ニュータイプを一つの概念として、〝なるほど、あり得るな〟と思わせるために、ガンダムという作品の全体を、リアルな質感(タッチ)で描く必要があると判断した。
なぜ?
観念が翔ぶから、としか答えようがない。観念が翔ぶから、まずは作品世界をリアルっぽく描く事によって、そのニュータイプの観念を本当らしくみせることができるだろうという判断だ(12)。
この発言は奇しくもスタンリー・キューブリック監督が『二〇〇一年宇宙の旅』(一九六八)について語ったコメントとよく似ている。
キューブリックは同作は「神の探求」を扱った映画だとして「リアリスティックなハードウェアや全体のドキュメンタリーのような雰囲気は、この詩的なコンセプトに対する観客の根強い抵抗を柔らげるために必要なことだった(13)」と語っているのだ。
『二〇〇一年宇宙の旅』は、宇宙に進出した人類がさらに進化しスターチャイルドとなるという物語。『ガンダム』がニュータイプという〝人類の革新〟をゴールに置いたことと重なって見える部分も少なからずある。ちなみに富野は『ガンダム』の当時、『二〇〇一年宇宙の旅』を意識していたとおぼしく、例えば劇場版『機動戦士ガンダム』(一九八一)の挿入歌「スターチルドレン」は、先述のスターチャイルドを踏まえた命名と思われる。
第22話以降のストーリーライン(以下、富野メモ)がどの時期に書かれたかは、よくわからない。スケジュールから考えると一九七九年前半頃だろうと思われる。第6話までのストーリー案よりも、プロットとしてまとまった形で書かれている。
富野メモを見ると、第37話「ハロムの罠」では「エスパーの研究者、フラナガン博士」という言葉があり、第38話「テキサスの攻防」では「〝ニュータイプ〟の人間のリスト・アップ」となっている(14)。
富野はインタビューで、ニュータイプの発想の原点を「(引用者注:ガンダムを)どうして動かせたんだといった時に、特別な能力を持たせるしかない。だから〝ニュータイプ〟にしたんです(15)」と説明している。そして第5話、第6話の作業のあたりで〝ニュータイプ〟という単語を思いついたので、第9話「翔べ!ガンダム」で、補給部隊の隊長であるマチルダがアムロに対して「あなたはエスパーかもしれない」という台詞をいわせて、〝ニュータイプ〟という言葉を登場させるための土壌づくりをしたと、回想している。
富野は、エスパーという言葉について、〝ニュータイプ〟という言葉のあくまで露払いとしてだけ使い、それを作品の鍵となる概念として使わないように意識したとも語っている。それはエスパーという言葉が、一九六〇年代からさまざまなSF作品で使われており、安易な使われ方も多かったからだ。そこで「エスパーとか超能力という言葉は絶対に使わずに、特別な能力を持った子供ということを限定出来るような言葉を見つけたい(16)」ということで、発明された単語が〝ニュータイプ〟だった。
しかし、脚本家陣や安彦にとって、この「ニュータイプ」の導入は、納得しづらいものだった。
安彦はこのようにインタビューに答えている。
表現も何も、〝ニュータイプ〟というのは、僕はわからないというか、あれだけは納得できなかったから、表現もへったくれもないと思った。(略)
「ニュータイプもオールドタイプもねぇや」、というのが僕の考えです、最後まで、人間は等身大でいて欲しいと思ったしね。ただそれじゃあ幕が引けない。それと、SFのファンみたいな人たちがいっぱいついて来ましたのでね、その時に、ニュータイプのようなどうとでも取れるような概念を持ってきて幕引きに持っていくというのは、富野氏は上手いな、とは思ったんです(17)。
あるいはムックに掲載された脚本陣による座談会ではこのように振り返られている。
荒木 (略)さっき、富野さんは照れ屋だといったけど、ニュータイプ話になってはじめて臆面もなくモロ理想像を出したなァというふうに感じたな。
山本 ハッキリいって未消化だと思うけど、ま、ぼく自身、ニュータイプって半分ぐらいしかわからないもん(笑)。(略)
星山 あのニュータイプ話がでてきたころがね……いいたくないけど、ライターと作品が遊離していった時期なんだ。私なんかはさ、ニュータイプって出すならまずオールドタイプって何なのかを規定したいのね。旧タイプもなしに、突然ニュータイプが出てきちゃとまどうばかりで……ちょっとわだかまりとして残ったね(18)。
映画と戯作
このようにスタッフからもなかなか理解を得られなかったニュータイプという概念だが、富野はどうして「ニュータイプ」という大風呂敷を広げることにこだわったのか。
それは『ガンダム』を富野が考える〝映画〟にしようとしたからではないだろうか。
後年、富野は映画について「間口がひろくて、時空を飛躍できる自由度のある舞台設定ができて、それをつかって物語る機能をもっている道具」と定義し、「そんなところで、ふたりだけの恋愛ものなどやっているのはもったいない。それは、舞台でやれば良い。小説でもじゅうぶんなのだ」「映画はまず大スペクタクルであってほしいのだ。アニメはとうぜん映画だから、それをめざしていい」と記している。そして同時に「ロボットだけがいても、映画的ヴァーチャル・ワールドはえがけない。物語がなければ、物語の時間を獲得できないし、そうしなければ、観る人もおもしろくない(19)」とも指摘する。
ここで富野がいう〝映画〟は、映像メディアの一つという範疇を超え、概念としてのそれとして使われている。映像で物語るもののある種の理想像を指す言葉が〝映画〟であると考えるとわかりやすい。むしろさまざまに考えながら制作した『ガンダム』の手応えが、〝映画〟観をこのように言語化するきっかけとなった、と考えたほうが自然かもしれない。
『ガンダム』という企画は、スタート地点から、これまでのロボットアニメよりも一歩踏み込んで「リアリズム」の世界を表現しようという形で始まっていた。それはスタッフ間の共通認識でもあり、それがアムロを中心とした登場人物たちの繊細な描写にも繫がった。しかし、富野の〝映画〟に対するスタンスからすると、それだけでは「もったいない」ということになる。リアリズムに基づくキャラクター描写だけでなく、もっと大きなスペクタクルを用意しなければ〝映画〟にはならない。そのスペクタクルも、単に「ロボットの活躍」だけではつまらない。ロボットというスペクタクルに繫がる要素と、キャラクターという要素を包括する「物語」が必要なのだ。
ただし「物語」が、単に展開のおもしろさを追求した「ストーリー主義」では、スペクタクルはあってもキャラクターの物語を包括することができない。「物語」には、作品全体を包含するためのある種の哲学あるいは理念が必要なのだ。それをテーマと呼んでもいいだろう。そしてこの哲学を哲学のまま提示するのではなく、映像的なスペクタクルを駆使してエンターテインメントとして展開する。これが富野のいう〝戯作〟ということになる。単に展開の面白さを追究したストーリー主義と〝戯作〟はそこが異なるのだ。
また、もし哲学を欠いたままエンターテインメントに走れば「映画というものは、見てわかるものだから、好きにやっていいんだよな、という気楽すぎるノリでやると、すべからく素人ポルノになってしまう(20)」ということになる。ここでいう素人ポルノとは、「見たいもの見せたいものの羅列」ということである。富野にとって〝映画〟と〝戯作〟はこのように、表裏一体のものとしてある。
『海のトリトン』や『無敵超人ザンボット3』で最終回に仕込まれた「敵の正体とそれにともなう価値観の転倒」は、まだこのような〝戯作〟以前のものだった。本格的にストーリー作りにコミットした『ガンダム』で富野は、そこからさらに一歩踏み込もうとした。商業主義の代名詞ともいえるロボットアニメを〝映画〟にするにはどうしたらいいか。そのためには〝戯作〟が欠かせず、そのためにロボットとキャラクターを包括するアイデアとしてニュータイプという概念が必要となったのだ。
「演出ノォト」の中で富野はニュータイプがなぜ必要だったのかを記している。
たかがロボットものだろう、という評価をはねのけてゆくために、この作品の主題が何か、という概念づけを極度に高度(この表現はウソに近い)な処に設定しなければ、作品のフィーリングがロボット物的になって終ってしまうのではないか?と考えて、そのことがアムロというキャラクターを、生かすも殺すものになると、やや大上段に構えたのである。
これについての賛否はあろうが、この一見高度にみえるかも知れぬテーマに、〈ニュータイプ論〉を想定した、ということなのだ(21)。
この「たかがロボットものという評価をはねのけ」た先にあるゴールが、後年富野が語る〝映画〟であると考えると、この文章は一層クリアに理解できる。
ララァとの出会い
では本編の中で、ニュータイプはどのように描写されたのか。先述のとおり、富野はラルとアムロの出会いも、ニュータイプへと至る道筋であると説明をしている。しかし、本格的にニュータイプが描かれるのは第34話「宿命の出会い」におけるララァ・スンの登場以降になる。ララァ以外にも、第39話「ニュータイプ、シャリア・ブル」に登場するシャリア・ブルがニュータイプだが、アムロとの関係性は薄い。ここでは、アムロとララァの出会いと別れがどう演出されたのかに絞ってみていく。
第34話の脚本は星山博之、絵コンテ・演出は藤原良二である。ただし『機動戦士ガンダム 台本全記録(22)』に転載された絵コンテ(部分)を見ると、出会いの瞬間のコマは、富野が描いていることがわかる。その前のシーンでアムロがエレカ(電気自動車)に乗っているカットも富野の絵なので、二人の出会いのシーン全体を富野が描き直している可能性は高い。
宇宙に出たホワイトベースは、中立の立場のコロニー・サイド6に立ち寄る。そこで町に出たアムロは、サイド7で生き別れになった父テムと再会をする。酸素欠乏症で精神に異常をきたしている父の姿にショックを受けるアムロだったが、その翌日もまた、父の住むアパートへとエレカで向かうのだった。
途中雨が降り出したため、アムロは湖畔に立つ小屋で雨宿りをしようとする。未舗装の道路に面した玄関前に車をとめ、軒下に駆け込むアムロ。ドアのガラス部分から、「この建物はなんだろう」といったふうに中を覗き込むアムロ。キャラクターのこの細かい芝居は、いかにも富野コンテである。
一向に雨は止まない。そのとき、アムロは湖の上を低く飛ぶ白鳥を見つける。このとき、アムロの眉間に稲妻のような光が走る。この後、ニュータイプの超感覚を表現する手段として、フレクサトーンの効果音とともによく使われることになる手法だが、この時点ではただ無音で光のみが描かれている。そしてゆっくりとアムロは左を向く。この振り向きの様子は、動く過程で残像が残るというストロボという処理がほどこされている。要するに、第六感(つまりニュータイプの力)で建物の左側に、誰かがいるということを感じた、ということを、眉間のスパークとストロボ処理の動きで伝えようとしているのだ。
アムロがゆっくり建物に沿って歩いていくと、テラスに、やはり湖の白鳥を見つめている少女が座っていた。「かわいそうに」という彼女のつぶやきの後、白鳥の飛ぶ姿、湖側から小屋を捉えたロングショット、アムロのバストショットと、長い間をとってゆったりカットが積み重ねられる。このとき、ずっとカメラはゆっくりPAN(横移動)しており、静かな中に何かが起こりそうな緊張感が漂う。
そして白鳥はついに力尽きて湖面に落下する。「あっ」と声をあげたアムロは、改めてテラスの少女の姿をまじまじと見つめる。浅黒い肌に額の印。インド系のように見える。アムロはテラスに足を踏み入れる。驚く少女。
「あの鳥のこと好きだったのかい?」と尋ねるアムロ。そうすると「美しいものが嫌いな人がいて?」という台詞が、何度もエコーのように繰り返される。このとき、カメラは屋根の上からテラスの二人を俯瞰で捉えている。アムロが完全にテラスに上がっていることがわかるカットだ。そしてカメラが少女をアップで捉えると「美しいものが嫌いな人がいるのかしら?」と、彼女が話す。
つまり、実際の台詞に先行して繰り返し聞こえた「美しいものが嫌いな人がいて?」という台詞は、アムロがララァの心情を感じ取ったことを表しているのだろう。
続けて「それが年老いて死んでいくのを見るのは悲しいことじゃなくて?」という少女に、そういうことを聞きたいのではなくて、というアムロ。しかし少女はその言葉を聞いてか聞かずか、雨が止んだのを見ると、すれ違いざまにアムロに「きれいな目をしているのね」という言葉を残して、外へと駆け出していく。アムロはテラスから降りて、走り去る少女の背中を見送る。
このシーンの動線の設計は非常にシンプルだ。アムロは、雨宿りした玄関から移動して、玄関から見えない角度にあったテラスへと上がる。しかし、アムロと少女が同じテラスの空間を共有したのは一瞬だけで、少女=ララァはそのままどこへともなく去ってしまう。
演出される別れの予感
このシーンの演出としては、第一に、ララァのエリアであるテラスに、アムロが「境界線」を越えて入り込むという組み立てに、二人の出会いの象徴的な意味合いを読むことができる。第41話の互いの精神が共鳴するシーンで、ララァは「なぜ今になって現れたの?」とアムロに問う。彼女にとって、この邂逅は予期されない、突然すぎるものだったのだ。だからこそアムロ側から、彼女の領域へ入り込む、という描写でなくてはいけないのである。
ただテレビシリーズでは、境界線を〝越える〟という部分の表現が少し曖昧だった。画面の中に境界線が明確に視覚化されていないのである。これが劇場版『めぐりあい宇宙編』では、このシーンは新規作画になっており、テラスの柱を境界線に見立てて、アムロがララァと同じ空間に入ってきたという意味合いを強調する演出になっている。
第二に、二人が同じ白鳥を見ている、という点も重要だ。同じものを見るという演技は、その後対照的なリアクションを描かない限りは、「なんらかの同じエモーションを共有した」という意味合いが生じる。しかもそれが、老いて死んでいく白鳥の姿で、「最後の作品」を意味する「スワンソング」という単語も思い起こさせる。そこからは命の儚さと、命の純粋さが感じ取られ、これがやがてくるララァの最期を予期させるものとなっている。このため『ガンダム』のその後の物語に相当する『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』ではララァと白鳥のイメージが重ねられて語られることになる。
第三に、アムロとララァは一瞬、同じ空間、同じ視線を共有し合うが、それはすぐに終わってしまい、ララァはその場を去ってしまうという展開だ。これはまずララァという少女が、摑みどころのない、神秘的な存在であるという印象を生み出す。と同時にこちらも、やがて来るララァの最期の予感と結びついている。ララァは「去っていってしまうキャラクター」でアムロは「残されてしまうキャラクター」なのである。
脚本や藤原の絵コンテの段階でどれぐらいこの展開が構成されていたかは不明だが、完成した映像からは、二人の印象的な出会いが、すでに別れの予感を孕んでいることが感じられる。
なお『台本全記録』を見ると、白鳥が力尽きるあたりから、挿入歌をかけるプランがあったようで、台詞部分に「M」(音楽の意)と書かれ、歌詞のようなものが書かれている。これは内容からして挿入歌「きらめきのララァ」の歌詞の原型と思われる。「かわいそうに」というララァの台詞の後の長い間は、挿入歌をかける想定でとられた間でもあったのだろう。ただしテレビシリーズでは、挿入歌はかけずに終わった。「きらめきのララァ」も本編では未使用のままである。
ちなみに劇場版『めぐりあい宇宙編』の時には、ここで挿入歌「ビギニング」が流れる。ララァとの邂逅のフィーリングを表現するのに、富野が「歌」が重要な要素であると考えていたことがうかがえる。
シャアとララァ
一方、ララァというキャラクターの描き方についてはアムロだけでなく、シャアとの関係性も同じように重要である。
二人がどのように出会ったかは作中では明言されていない。ただ、ララァはやはり第34話で「私のような女を大佐は拾ってくださった」と語っている。この言い回しから、世間からはあまり尊敬されないような立場あるいは職業にあったことが想像される。
この台詞は、ガンダムの戦闘が中継されているテレビを見ながら、シャアと交わす会話の中に出てくる。富野はこのシーンの演出の狙いを次のように話す。
この時は、すでに安彦君が倒れていたので画の表現としてはやや不充分だが、二人の関係を描く上で重要なニュアンスを加えているということだ。
これは、声優の池田君と潘さんにも注意して演じていただいた点でもある。
二人は昨夜一緒に寝ている。という気分をどう出すか?という点だ。かなり、上手くいっていると自負している。
ララァの甘えた気分と、それを許しているシャアの関係は、ひどく甘いのだ。ざれ合っている、気分。
ニュータイプの感応は、絶対プラトニック的な理解の仕方だと考えると、もし、シャアとの肉体関係のないララァなら、まずシャアに対する未練なぞ一瞬のうちに消滅して、アムロの同志となってしまうだろう。
これでは41話のようなシーンは、生れようがないのだ。ララァのシャアへのこだわりが、アムロと同化できない自分を発見して、彼女が自滅していかざるを得ないのだ(23)。
映像をみると、シャアは立って、ララァはソファに座ってテレビを見ているだけなので、画面構成的にはそれほど凝ったものではない。ただ富野が書いたように、池田と潘の演技──特に「白いモビルスーツが勝つわ」とララァが〝予言〟した後の、シャアの「ララァは賢いな」という台詞のニュアンス──には、言葉の奥に二人の関係性が感じられるものになっている。
『めぐりあい宇宙編』になると、このシーンはシチュエーションは同じものの、絵コンテ段階から画面の設計を大幅に変更している。『めぐりあい宇宙編』では、シャアとララァは、ソファに並んで座っており、カメラは基本的にララァしか映さない。カメラの中のララァはリラックスして楽しげだ。逆にシャアはララァの姿に隠れて見えないか、フレームの外に置かれている。「演出ノォト」の解説を踏まえていうなら、こちらは「ララァがシャアに甘えている」という要素をもっと前面に出した形で演出し直されている。逆にシャアは、マスクをはずし素顔でいることはわかるが、表情を一切見せないことで、「声は優しげだが、本当は何を考えているのかわからない」といった雰囲気を醸し出している。テレビよりもより具体的に、二人の非対称な関係を演出しているといえる。
こうしてアムロとララァの関係、シャアとララァの関係を見せた後、第41話「光る宇宙」で、ララァとアムロの別れが描かれることになる。
「人間って、きっと素敵なんだろう」──ニュータイプという希望
第41話は、地球連邦軍の宇宙艦隊が、ジオン公国の宇宙要塞ア・バオア・クーへ向かって進軍する過程で起きる戦闘を描く。ララァはモビルアーマー(非人型大型兵器)のエルメスに搭乗。エルメスは、ニュータイプの能力を生かすサイコミュという装置を搭載し、ビット(小型の移動砲台)を遠隔操作し、敵機をあらゆる方向から攻撃できるという機体である。そして、ララァとアムロは戦場で(第40話に続き)相まみえることになる。
二人は戦いの中、ニュータイプ同士でしかありえない、互いの魂に触れ合うような体験をする。最初はなぜ戦うのかをお互いに問い合うが、やがて二人は、この出会いが「運命」であると悟る。
ララァ「人は変わってゆくのね。あたしたちと同じように」
アムロ「そ、そうだよ。ララァの言うとおりだ」
ララァ「アムロは本当に信じて?」
アムロ「し、信じるさ、き、君ともこうして解り合えたんだから。人はいつか時間さえ支配することができるさ」
ララァ「ああ、アムロ、刻が見える……」
二人の会話の内容が抽象的になっていくとともに、映像もスペクタクルの実践ともいえる、壮大なイメージを中心に展開していくことになる。第41話の絵コンテ・演出を担当したのは貞光紳也。ただ『記録全集2』に掲載された、このイメージシーンの絵コンテ(一部)を見ると、貞光の絵コンテに富野がかなり加筆修正を加えている様子がうかがえる。富野はこのシーンの発想について「演出ノォト」にこう記す。
人同士の思惟が、直結する手段が発見されれば、人と人のコミュニケーション(意志の伝達)の中に誤解の発生することがない。さらに、誤解が発生しなければ、その通じ合った意志とか考え方が重なりあって、相乗効果が増幅されるのではないか?と、考えたということだ。
思考の相乗効果!これは、すごいと思う。
オールドタイプの個人の考えの、二倍も十倍も想像力とか洞察力が拡大するんじゃないか、と想像したんだ。
それが、アムロとララァの会話だ(24)。
このイメージ映像の連続も、『二〇〇一年宇宙の旅』の終盤に登場する、スターゲート・シークエンスと通ずるムードがある。スターゲート・シークエンスは台詞が一切ないが、一般的にこのシーンは、木星近くにいるモノリスに触れた宇宙飛行士ボーマンが、スターゲートをくぐって空間転移し、宇宙の誕生、地球外知的生命体と接触する様子を特殊撮影を駆使して描いたといわれている。リアルに宇宙時代の人の生活を描いてきた同作だが、ここで大きく内容が跳躍する。そしてボーマンは最終的にスターチャイルドという新たな存在に変化する。
それと相似した形で『ガンダム』も第41話のこのシーンで大きくジャンプするのである。そのジャンプで語られるのは、人間の未来への希望。このニュータイプという概念の核にあるのは、この希望なのだ。
この僕がニュータイプへのルートを語ろうと思ったのは、なぜだろう?
けっして、利口な僕じゃないんだけれど、願いなんだよね。その願いを出さなければ、物語なぞ何にもならん。(訴えかける力なぞない!)と、かすかに判断したんだ。
その判断と、ある部分での勘が、〝人間、我われオールドタイプが思っているほど、悲観したものじゃないのかも知れない……〟と考えたんだな。そう。人間って、きっと素敵なんだろうって考えた時に、ニュータイプっていう言葉を思いついたんだ(25)。
戦いの中で出会ってしまったアムロとララァ。戦争がなければ二人は出会うことはなかった。そして視覚的なスペクタクルとして描かれるアムロとララァの精神の交歓。この展開の中でニュータイプが内包する「希望」が示されたことで、等身大の若者像として描かれてきたアムロの物語と、未来戦争ものとして表現されたロボットアニメとしての『ガンダム』の二つが、見事に包含されることになった。これによって『ガンダム』は、富野の考える〝映画〟にぐっと接近することになったのだ。
仕掛けとしてのニュータイプ
富野はなぜ『ガンダム』において「ニュータイプ」を作品のゴールとし、そこにこだわったのだろうか。興味深いことに、富野は「ニュータイプ」を『ガンダム』の〝テーマ〟であると語ることは多くない。むしろ否定的なニュアンスで語るほうが目立つ。
その最たるものが『めぐりあい宇宙編』のプレスシートに掲載された文章だ。プレスシートには富野の「ファンへの感謝をこめて」という一文に続き、補足のように〈ニュータイプはどこへ〉という文章が付け加えられている。
「テレビ版以来、『機動戦士ガンダム』が大上段にふりかぶってみせたテーマにニュータイプ論があります」と書き始められた、この文章では、しかし映画版にあってもそれは具体的に語られることなく「所詮、ニュータイプ論は、『ガンダム』のポーズでしかなく、SFっぽくみせようとする作者の擬態でしかなかったのでしょう」と記されている。
ファンが熱狂したポイントの一つであるニュータイプを、作品終了のタイミングで改めて否定するという点でこれは特異な原稿であるといえる。しかし、この「SFっぽくみせるための擬態」という答えは、決して唐突なものではない。富野が、さまざまなインタビューで答えている「ニュータイプは、少年がロボットを操縦できるということに説得力を持たせるための方便である」という説明と、大枠では同じだからだ。
しかし脚本家陣や安彦などから批判されつつも、作品の「ゴール」としてこだわったニュータイプが、「方便」「擬態」でしかない、というのは矛盾した姿勢ではないだろうか。すでに見たように、ニュータイプというアイデアは、『ガンダム』という作品を〝映画〟にするためには必要な要素だったはずだ。
ここで思い出すのが、富野の『来るべき世界』(手塚治虫著)についての評価である。富野は、同作に強い影響を与えられたと語っている。
『来るべき世界』は、超大国スター国とウラン連邦の対立を背景に、立場の異なる日本と両国の少年少女がさまざまな運命を歩んでいく群像劇だ。これと併せて、日本の科学者・山田野博士が発見した、未知の知的生命体・フウムーンたちが、地球の危機に際してある計画を実行しようとする様が描かれる。もともと一〇〇〇ページほどもある長編だったが、出版社から「そんなに長い漫画は誰も読まない」と修正を求められ三〇〇ページまで削ったというエピソードでも知られる作品で、『ロストワールド』『メトロポリス』と並んで、手塚治虫の「初期SF三部作」と呼ばれ、一九五一年に大阪の不二書房より上下二巻で刊行された。
富野はこの『来るべき世界』を貸本で借りて読んだのが、小学校五年か六年の頃だという。
これは『鉄腕アトム』以上に衝撃的だった。ことに『来るべき世界』は、オリジナル・ストーリーでありながら、日本と二大強国の背景のとり方、フゥムーンという宇宙人の狂言回しのうまさ、ポポーニアの色っぽさ、そのキャラクター設定のからめ手のしたたかさ……。(略)
こうして書いていくと、あの『来るべき世界』のストーリー・テリングこそが、僕が〝機動戦士ガンダム〟でやろうとしたことなのかもしれない。
幼少のころの憧れ、である(26)。
同作は富野にとって、群像を通じて、一つの世界を描き出すという作劇スタイルに触れた原点なのだ。一方近年のインタビューでは、作品の評価自体は変わらないものの、作中で最もSF的な設定であるフウムーンの存在について、このようにも語っている。
新人類のフウムーンという要素は「子供向けのマンガにするために必要な設定」という印象で、いらないんじゃないかとも思ったりもしたんだけれど(27)。
二大国の戦争を背景に描かれる群像劇が前景とするなら、核実験によるムタチオン(突然変異)で生まれた、新たな知的生命体フウムーンをめぐる物語は後景として展開する。そこではフウムーンは、旧来の人類を相対化する役割を担う、超越的な存在として描かれている。
フウムーンに対する「狂言回しのうまさ」「子供向けにするために必要な設定」という二つの評言は、評価として逆方向ではある。しかしこれは、富野がニュータイプを語るときの「人間てそう捨てたものじゃない」という思いを込めて設定しつつも、同時に「方便です」と説明する姿勢と重なって見えないだろうか。ここに富野の、テーマに対する姿勢が見える。
テーマは、作り手が作品に込めたメッセージと同じものとして誤解されがちだ。しかしメッセージとテーマはまったく異なる。メッセージは完成した作品から浮かび上がるものだが、テーマは作品を制作する過程で、全体をコントロールする基準となるものだ。二つは重なる部分もありながら、根本的に違う機能を持っている。全体をコントロールする根拠となる以上、テーマは自動的に作品をまとめるための「仕掛け」という側面を含まざるをえないといえる。
富野の場合はすでにみたように、キャラクターとスペクタクルを包含するために〝テーマ〟を必要としており、『ガンダム』のニュータイプはそうしたアプローチの第一歩であった。その点で、ニュータイプが「方便」であったのは間違いがないことである。
しかし方便が方便、仕掛けが仕掛けとしてわかってしまってはうまい戯作とはいえない。それは手品のタネが最初から明かされているようなもので、エンターテインメントとはとても呼べない。うまい仕掛けとは、それが仕掛けとわからないよう、ドラマにとって不可欠な形で組み込まれていなくてはならない。そこが重要なポイントだ。
その点で富野から見たフウムーンは、巧みに扱われてはいるものの、あくまで「狂言回し」の域に留まってしまっており、ドラマの一部を構成しているようには見えなかったのだろう。それに対しニュータイプは「方便」だからこそ、「人間ってそう悲観したものじゃない」──作中では「人の革新」という言葉で語られる──という希望を本気でそこに込める必要があったのだ。「エスパー」のようなすでに手垢のついたSF用語をあえて採用しなかったのも、「エスパーですね。新人類ですね」と短絡的に読解され、「希望」に思い至らないことを避けるためには必然だった。
だから富野は、〈ニュータイプはどこへ〉を次のように締めくくる。
では最後の外道を犯しましょう。ニュータイプとは、誤解することなく理解しあえる人たち、ではないのか?
この締めの文章は、ニュータイプという言葉を「方便」と否定して、いわば熱狂するファンのはしごをはずしたうえで、ニュータイプという言葉に込めた「メッセージ」の側面を浮かび上がらせようとしている。ニュータイプという発想のもとになった「人間ってそう悲観したものでもない」という思い。それを「ニュータイプという言葉の本質を理解しているあなたがたなら、それぐらいわかりますよね」という形で投げかけているのだ。
これは当然ながら劇場版第三作目の『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編』のラストに流れた、"And now... in anticipation of your insight into the future."(そして、今は皆様一人一人の未来の洞察力に期侍します)というテロップの内容とも呼応している。
〝映画〟を目指すための〝仕掛け〟としてのテーマ。しかし〝仕掛け〟だからこそ、徹底に思考を深め、物語の中心として設定する必要がある。そしてそのテーマに対する思考の深まりが、メッセージとなって観客に発信される。このような一連の考え方は、『ガンダム』のニュータイプを通じて富野の中で確立したと考えられる。これが富野にとっての〝戯作〟の第一歩だったのである。