到達点であり出発点
富野は、一九七二年の『海のトリトン』以降の五年の間に徐々にその演出スタイルを固めてきた。そして『無敵超人ザンボット3』(一九七七)から『無敵鋼人ダイターン3』(一九七八)を経て『機動戦士ガンダム』(一九七九)に至る過程で、富野の演出スタイルは確固たるものとなる。『ガンダム』は、演出家としてのその時点での「到達点」と位置づけることができる。
また一方で、富野は『ザンボット3』で初めて原作としてもクレジット(脚本家の鈴木良武と連名)され、それは『ダイターン3』も同様(サンライズ企画室のペンネームである矢立肇と連名)だった。原作三作目となる『ガンダム』では、世界観設定やキャラクターとそのバックストーリー、各話のストーリー案など、前二作と比較しても膨大な量のテキストを執筆している。それは『海のトリトン』や『勇者ライディーン』のときよりも、より深く世界設定の構築や物語作りにコミットしていくようになる過程でもある。つまり一九七七年から七九年の三年間は、戯作者・富野にとっての「出発点」と呼べる時期だったのだ。ここから一九八八年まで、戯作者・富野はさまざまなアプローチでロボットアニメに新風を吹き込んでいくことになる。
『ガンダム』という作品は、このように演出家としての「(一旦の)到達点」と戯作者としての「出発点」が交錯するポイントに成立した作品なのである。
『ガンダム』の世界設定やドラマの根幹について富野がどのように思考したかは、『ガンダムの現場から 富野由悠季発言集(1)』に掲載された「ガンボーイ企画メモ」や、二〇一三年発売の『機動戦士ガンダム Blu-ray メモリアルボックス』の付録「HISTORICAL MATERIALS of MOBILE SUIT GUNDAM(2)」に収録された「初期設定書」「構成案」で読むことができる。
ストーリー案から見る第1話
「演出家」と「戯作者」がいかに交錯したのか、『ガンダム』第1話「ガンダム大地に立つ!!」を題材に考えたい。
コラム「富野監督作品全解説1」で記した通り、富野が一九七八年八月に書いた「ガンボーイ企画メモ」には、すでに全五二話──つまり一年分──のシリーズの構成プランが記されている。このプランは「六話連続のエピソードを七ブロック積み上げることでシリーズの軸を構成し、残り一〇本は番外編と再放送で埋める」というものだ。このとき、七ブロックには仮のタイトルが振られており、ストーリー順に「大地」「前線」「鬼神」「さすらい」「激突」「誕生」「深淵」となっていた。
この構成案を踏まえて、第1話から第6話までのストーリー案が記されている。この第1話から第6話までというのは、七つのブロックの最初の「大地」に相当する部分で、実際、ストーリー案の先頭部分に「第一章 大地よ(制作上は伏せるタイトル)」と記されている。各資料に記された日付から、おそらく一九七八年一一月から一二月にかけてのどこかで執筆されたものと思われる。
ストーリー案の第1話に相当する部分はかなり長いので、内容を要約しつつ紹介したい。固有名詞も正式決定前のストーリー案のまま記すことにする。
ストーリー案はまず主人公アムロの説明から始まる。アムロは一カ月前に建設の頓挫したスペースコロニー・サイド7に父と引っ越してきた一五歳の少年。引っ越しは、父テム・レイが戦闘用ロボット・ガンボイの主任技士で、最終慣熟テストの場所が僻地のサイド7に決まったからだった。男は世間を見知るものであるという信念のもと、母から離れて父子二人の生活が始まったが、この一カ月アムロは父と夕食をともにすることはなかった。
ただし近所のフラウ・ボウ(本編ではボゥだがここではボウと書かれている)という気さくな少女のおかげで、アムロなりに寂しくもなく暮らすことができていた。マイコンやメカの組み立てが得意なアムロが組み立てたのがお掃除ロボット・ハロ。そのハロのちょっとしたミスがフラウ・ボウを楽しませた。フラウ・ボウは「アムロ! あなたって寂しがり屋さんだけかと思ったけど、ハロを作っちゃうなんて素敵!」とアムロにキスをしたのだった。
このキスについてストーリー案には、これはアムロに女性を意識させたのとは異なる、気さくな友達になれただけのこと、であるとはっきり書かれている。フラウ・ボウについて「アムロに女性を意識させない存在」と書かれている。
このようなアムロとフラウ・ボウのバックストーリーに続いて、アムロの父の引っ越しの影響を受けたシン・ハヤテ(本編のハヤト・コバヤシに相当)の状況が紹介され、その後に敵側であるジオン公国の赤い彗星シャア・マスと戦闘用ロボットである機動歩兵スーツの説明が続く。
ストーリー案はここで、どうして機動歩兵スーツが登場したのかという背景を記す。この時代の戦場は、レーダーを攪乱するアルミ粒子の登場により、宇宙服の兵士同士の直接戦闘や目視によるドッグファイトが中心となり、レーダーによる誘導ミサイルなどが使えない、過去の戦場と同じ状況となっていた。その中で登場したジオン公国の機動歩兵スーツは、重火器を装備した宇宙服の兵士に代わる新兵器であった。
このあたりの設定は、当時想定された未来戦争像を前提に組み立てられている。当時、来たるべき戦争は「ボタン戦争」といわれる、ボタン一つで飛んでいくミサイルの応酬になるであろうといわれていた。しかしボタン戦争はアニメ映像として絵にならない。そこで、ミサイル誘導を難しくする「アルミ粒子」の設定を導入することで、ロボット同士の接近戦が必要となる舞台設定を設えたのだ。こうした世界設定は、SF考証でクレジットされ、脚本も手掛けた松崎健一が協力することで成立した。最終的に、ここで書かれた「アルミ粒子」は、「ミノフスキー粒子」という架空の電波攪乱粒子として本編に登場することになる。
また人型の機動歩兵スーツという設定は、ロバート・A・ハインラインの小説『宇宙の戦士』の影響下により生まれている。同作に登場する、歩兵が装着する二メートルほどの戦闘用パワードスーツのイメージが、戦闘用兵器としての機動歩兵スーツ(本編ではモビルスーツと呼ばれる)のイメージに反映されている。
シャアはルウム戦役で、この機動歩兵スーツを操り戦果を上げ、「赤い彗星」の異名をとるようになった。連邦軍は、機動歩兵スーツの性能に動揺し、歩兵スーツを捕獲・研究し開発を始めた。これによって開発されたのがガンボイだった。
そのシャアは、駆逐艦ムサイで、連邦軍の新型戦艦ペガサスを追跡していた。シャアは連邦の機動歩兵スーツの開発が進んでいるということを確信し、初陣に近い兵士三人に、サイド7への潜入を命じる。
ここから具体的に第1話の内容が記されるので、要約ではなく引用を交えて説明しよう。
ペガサスがサイド7に来る。この噂はサイド7に残る老若に動揺を与えた。人々の不安は、得てして事態の予知をする。軍令が飛び人々に禁足令が出たのと、血気にはやったシャアの先兵がサイド7の一角から、軍需研究区画に攻撃をかけたのとが同時だと言ってよかった。
人々は、保安区画の各ブロックに逃げ込むには時間がなさすぎた。
(物語の描写は、ここから入りたいわけだ。以後の斗いと防空の中、前述の状況の説明が加えられるという型をとればいゝ(3))
ペガサス側にとっては予想外のコロニー内での戦闘。この時、アムロの父たちが民間人保護に動けなかったことが、アムロが後々、シン・ハヤテの憎しみを買うことにも繫がることも記されている。
アムロは、父に民間人の保護を要請するために走った。雲の中から舞い上がってゆくジオン三機のモビルスーツは、遠くから見ても巨大だった(二十米弱)。
アムロは、立入り禁止区域に入り、そこで父が行方不明となり、父の部屋で、ガンボイの研究資料のマイクロ・パネルを得る事が出来る。(前に伏線はるか?)
さらにペガサスに積みこもうとするガンボイを発見して、その一体にのりこみ、シャアの先兵ら三機と斗い、一機を撃破する。
他の二機はペガサスの砲撃。リュー・ショーキの操るコア・ファイターによって撃破。
その間にも、サイド7は応急修復が出来ぬまでに破壊されてしまう。生き残りの人々はペガサスにのりこみ、サイド7を離脱する。
(百人近い人々が乗り込みはするが、軍関係者はほとんど戦死。民間人ばかりの老若という事になる。)
この時点でブライ・トリュー、ミライ・エイランド、アシリア・マス、の立場が明確化する(4)。
このあと、第2話以降の展開メモが記され、「【2】」という区切りが入って第2話のストーリー案が始まっている。読んでもらえばわかるとおり、どんなことをやりたいかは伝わってくるが、プロットと呼ぶには粗く、あくまでも脚本家との打ち合わせのために書かれたメモである。
これを踏まえて第1話の脚本を執筆したのが星山博之。星山は『ザンボット3』『ダイターン3』にも参加しており、『ガンダム』にも企画の最初期から関わっている一人だ。企画部長の山浦栄二ともやりとりを重ねて、TV局向けの『ガンダム』の企画書も執筆している。だから『ガンダム』が「これまでよりも年齢が上のターゲットを狙う企画である」という意識も明確に持って参加していた。
脚本と絵コンテを比較する
『機動戦士ガンダム Blu-ray メモリアルボックス』には、星山による第1話の脚本と、富野の絵コンテ(クレジット上は斧谷稔)が付録として同梱されている。この二つを照らし合わせながら、ストーリー案に書かれた「第1話」がどのように映像化されていったかを検証していこう。
まず脚本を読んで驚くのは、ジオン公国と地球連邦の戦争のなりゆきを語るナレーションがない、という点だ。
本編にはサブタイトルが出る前に「人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、すでに半世紀が過ぎていた。地球のまわりの巨大な人工都市は人類の第二の故郷となり、人々はそこで子を産み、育て、そして死んでいった」と、舞台が宇宙時代であることを説明した後、「宇宙世紀0079、地球から最も遠い宇宙都市サイド3は、ジオン公国を名乗り、地球連邦政府に独立戦争を挑んできた。この一カ月あまりの戦いでジオン公国と連邦軍は総人口の半分を死に至らしめた。人々はみずからの行為に恐怖した。戦争は膠着状態に入り、八カ月あまりが過ぎた」と、世界設定を説明する。
このナレーションの前半に合わせて展開されるのが、スペースコロニーという場所を視覚的に伝える映像だ。まず斜めに傾いた大地を俯瞰で捉えた映像から始まり、カメラが動くとやがて地上に大きなガラス窓があいている様子が見えてくる。ミニマムな表現でそこがスペースコロニーと呼ばれる人工の大地であることが示されている。
続けて大地から爆煙が立ち上がり、それがコロニー外部からの砲撃によるもので、戦争が始まったことが観客に伝えられる。その後、「ニューヨークらしい」(絵コンテのト書)都市にスペースコロニーが落下する様子など戦争の様子が点描される。ナレーションも映像も簡にして要を得た内容を積み重ね、観客を一気に作品世界へと引き入れる。
脚本には存在しないこの導入だが、おそらくストーリー案の冒頭につけられた「前史メモ」がベースになっているのではないだろうか。
●前史メモ
西暦二千六十六年。人類は、スペース・コロニーを建設して、百億に近い人々が宇宙を第二の故郷にしていた。
コロニーの一つが、〝ジオン公国〟と名乗り、地球連邦に対して反逆の狼火をあげた。
三日戦争、ルウム戦役は第三次世界大戦であった。人類は五十パーセントの人々を失い、コロニーの大半も失った。
そして、ジオン公国も地球連邦も、共に軍備を消耗して軍事力は、均衡を保つに至った。
しかし、ジオン公国の独裁主権者ザビ家の強行主義と連邦の傲慢な姿勢が戦争終結の道を選ぶ事をさせなかった。
戦いは、末梢的なゲリラ戦の深みにはまるだけであった。
物語は、このゲリラ戦化した時代のあるコロニーから始まる(5)。
「前史メモ」はあくまでも、別紙にこと細かに設定された開戦の背景と現在の状況を、コンパクトでわかりやすく共有するための文章だ。だが話題の流れは本編のナレーションと非常に近い。ここで記されたものをもう少しブラッシュアップしたものが、ナレーションとなったのではないだろうか。
観客を引きずり込む冒頭部
冒頭にナレーションが付け加えられた一方で、脚本の冒頭部分は絵コンテでばっさりとカットされている。
脚本の冒頭は、シャアがこれからサイド7に潜入する三人の兵士に、作戦の狙いを話すところから始まる。シャアのセリフを通じて、戦争が膠着状態であることと、連邦軍がV作戦と呼ばれる反撃のための作戦を準備中であることが語られる。
絵コンテは、これをカットした。そして、宇宙空間を進む三機のモビルスーツ・ザクの姿から第1話をスタートさせた。パイロットの呼吸音という想定(絵コンテのト書による)の特徴的な効果音とともに、静かにザクがコロニーに向かっていく。
工事中のコロニーの底面にあるハッチから内部に入ろうとするザク。その時クレーンのアームがザクの肩にあたる。アームは正面のハッチの扉の方に飛ばされると、そのまま跳ね返って静かに外の宇宙空間へと流れていく。
脚本の段階ではサイド7の構造の設定ができていなかったのか、潜入シーンは外郭のガラスを割って入るというあっさりした表現で終わっている。それに対し、絵コンテはかなり丁寧にその過程を見せている。ここから感じられるのは、それまでのアニメにあった「宇宙シーン」よりももっとリアリティを感じさせる映像にしたいという意志だ。
宇宙へとそのまま流れていくクレーンのアームの描写は、そこが無重力空間であることと、大気などの摩擦がないため一旦動き始めたものは慣性の法則に従って減速しないまま飛んでいくということを表現しており、「そこが宇宙である」ということを強く感じさせる描写となっている。
また絵コンテのト書を見ると、コロニーに接近するザクのカットについて「サイド7の底面の壁が接近してきてぶつかりそうに見えるが、ぶつからない」という趣旨のことが書いてある。加えて「ましてザクの影などうつらない」とも書いてある。
これは宇宙空間に空気がないため、空気遠近法の影響がなく、非常に遠くのものもクリアに見える、ということを反映した描写であろう。巨大なコロニーの底面がクリアに見えても、それは実際にはザクから遠く離れている。だからそこに影が落ちていたとしても、小さすぎて見えないというわけだ。アニメの映像はパンフォーカスが基本なので、ト書の効果をダイレクトに実感できる映像になっているかというとそうではないが、そういうト書を書くところに富野の宇宙描写をどう演出するかへのこだわりが感じられる。
このこだわりは、ほかの部分のト書にも見ることができる。ザクがサイド7の底面に接触するカットでは、その動きを「触壁する」と書いているのだ。富野はこの「触壁」から線を引っ張って「こんなの造語です。(下りるのでもない、上がるのでもない)」と注釈をつけている。無重力空間だから上下がない、という点にちゃんとこだわっていることが、この造語を通じて伝わってくる。
第1話の冒頭のインパクトは、こうした宇宙描写の細部から生まれるリアリティだけではない。なにより重要なのは、脚本にあったシャアによるブリーフィング(事前レクチャー)をカットしたことで、観客を「進行中の状況の中」へと放り込むように物語を始めている点だ。この語り口が、本作にリアリティを与えている。
進行する状況の中へ
ある出来事を描くときに、事の発端から順番に追っていくとわかりやすいのは間違いない。しかし同時にそれは、いかにも段取りを追っているような展開となり、作り物っぽさが際立ってしまうことも避けられない。それに対して、進行中の状況の中にポンとカメラを置いたように演出したならば、何が起きているかを把握するには時間がかかるが、その瞬間・場所を切り取って見せているような感覚は生まれる。「切り取って見える」ということは、そのフレームの前後に別の時間が、フレームの外に別の空間が広がっているということが感じられる、ということでもある。
実写は、メディアの特性としてそもそも、カメラを使って世界を切り取ってみせる、という性質を多分に持っている。だから誰も積極的に「フレームの外側」を問おうとはしない。これに対しアニメは、フレームの中に必要な要素(絵)を配置していくメディアだ。このメディアの特性上、普通に出来事をみせていくと、どうしても箱庭的に調和しがちで、フレーム外に世界が広がっているという感覚が弱くなる。空間的な広がりに限っていえば、レイアウト(絵コンテをもとにアニメーターが描く、そのカットの構図を決める絵)の描き方で補うことができるが、時間に関しては難しい。つまりアニメの場合、演出家がフレームの外を意識させようとするかどうかは、作品のテイストを決定する大きな要素となるのだ。
例えば『海のトリトン』第1話「海が呼ぶ少年」、『勇者ライディーン』第1話「大魔竜ガンテ」を振り返ると、どちらも進行中の状況を切り取ってみせるような語り口にはなっていない。そのため古典的な「見せたいものを見せる」演出の範疇に留まっている。
『トリトン』はまず、冒頭で戦うトリトンを見せる。しかし、これはあくまでツカミとしての独立したアクションでしかなく、直接ドラマに繫がる描写ではない。作品はそこから遡る形で、トリトンの旅立ちを描く。
サブタイトルが入った後、海の様子を見せ、小さな漁村を俯瞰で捉えた後、小さな船が映る。櫓を漕ぐ男性が「あれ?」と声をあげると、老人──トリトンの育ての親である一平じいさんである──が、振り向き、何かを見つける。彼の視線の先には、険しく切り立った猪首岬を登るトリトンの姿があった。トリトンは、そこから、渦巻く海面へと命がけのダイビングをしようというのだ。
トリトンの行動だけ見れば、進行中の状況の中にカメラを放り込んだようにも見えるが、映像では、一平じいさんがトリトンを船上から発見するという語りはじめになっている。そのため観客は、トリトンの猪首岬からの飛び込みを、最初から客観化された事件として見ることになる。これはこれで一つの語り口だが、進行中の状況に放り込まれた感覚は薄くなってしまう。
『ライディーン』第1話は、もっと説明的で、サッカー部のキャプテンである主人公ひびき洸の日常風景を描くところから始まっている。ここで準レギュラーたちの印象づけをしようというプランもあったのだろう。映像の見せ方も至極普通で、進行中の状況を見せるというスタイルからは遠い。
これが『ザンボット3』第1話「ザンボ・エース登場」になると、進行中の状況の中にカメラを投じる形の導入になっている。
ここで描かれるのは、主人公・勝平と、ライバルで不良グループのリーダーである香月が繰り広げるバイクに乗りながらの喧嘩である。つかみとして激しいシーンを持ってきただけでないのは、香月と勝平の間には、これまでもライバル関係にあったといういきさつがあるからだ。しかもそれがこの後、異星人ガイゾックとの戦いの中で、変化せざるをえなくなるという展開がちゃんと用意されている。つまり、このバイクのケンカのシーンは、まさに二人の間に流れるドラマを途中で切り出した形になっているのである。これが香月でなく、単なるそのほか大勢とのケンカであれば、ここまで劇的な効果を果たすことはなかった。
途中、パトカーで警察官も現れるが、これもあくまで「勝平と香月のケンカ」を構成する一部として扱われており、『トリトン』の一平じいさんのように、状況を客観視する立場で演出はされていない。二人のケンカが勝平や香月の同級生であるアキやミチの目を通じて「二人がまたバカなことをやっている」という視線から始まっていたとしても、進行中の状況を切り出したような効果は得られなかっただろう。
このように過去作の第1話冒頭を比較してみても、『ガンダム』第1話は非常に完成されている。セリフを排し、説明もなく、サイド7に潜入しようとするザクだけを見せていくという表現は、「進行中の状況の中へカメラを放り込む」という演出として非常にうまく機能している。この後も富野は、物語の導入部分に際して「ある状況の中にカメラを放り込む」ことで、その世界を切り取るというスタイルを繰り返し使っていくことになる。
アムロをどう演出したか
『ガンダム』第1話に戻ろう。
サイド7に潜入したジオンのモビルスーツ・ザクは、偵察を始める。パイロットの双眼鏡にひとりの少女が、隣家に入っていく様子が捉えられる。少女は、アムロのお隣さんのフラウ・ボゥで、ここから物語の軸は、主人公であるアムロ側へと切り替わる。
アムロの家を舞台にしたフラウ・ボゥとアムロのやりとりは、脚本を書く段階で星山が気を配った部分だ。星山は、ストーリー案にあった、「ハロをプレゼントしたことで親しくなったアムロとフラウ」「アムロにとってフラウは女性を感じさせる存在ではない」という部分を受け取り、脚本で肉付けをして、二人を生きた人間として描き出した。
星山は自著『星山博之のアニメシナリオ教室』の中で、別のキャラクターを使ってあるキャラクターを描く手法の具体例として、『ガンダム』の第1話を挙げている。
この作品はいろんな人の力が混じり合ってできた作品なので、僕が主体となった部分だけを述べたい。(略)
視覚的に殺伐としているなかで、いかにアムロの内面を出していくかを考えていた。そこで僕はフラウ・ボゥという幼なじみの少女を登場させ、アムロの人間的に優しいところを出そうとした。この少女はアムロに対していろいろお節介を焼く。第一話の冒頭、フラウがアムロの部屋に上がり込んで、だらしなく下着姿でいるアムロを軽くしかったりしている。一転してその後、フラウは敵のメカに襲われ、目の前で親族を殺されてしまう。アムロはその時に、ショックを受けたフラウを励まし、彼女を逃がした上で、敵に向かっていく。このフラウという少女が媒介となって、アムロが一面的に内向的ではなく、別の側面を持つ幅のある人物であるということが描けたのだ(6)。
また星山は、このシーンについて、別のところでこういうことも書いている。
シナリオに入る時まず考えたのは、一話の中での極端なストーリー展開はさけ、視聴者(今だからいえるが、ボクはターゲットを中学生以上に考えていた)の生活リズム感、日常感覚をたんたんと、まさしくたんたんと描いて丁度いいのではないかと思った。(略)
このシーンの中で(フィルムではニュアンスが変ったが)面倒見のいいフラウ・ボウが、室にとび込んでくるなり、マイコン作りに熱中するアムロの世話を焼き「タオルと下着は?」と、アムロに聞く。
すると、アムロはムキになって、「いいよ、洗濯なら自分でするから」と答える。
何故、アムロはムキになったのか。中学生にもなった男の子なら、思い当たるかも知れないが〝男の生理現象〟をアムロも知っていることを表現したかった。
いやらしいなどといわないで欲しい。こんなシーンを引き合いにだしたのは、フィルム化されなかったことを云々しているのではない。
ボクが今まで書いて来たアニメの脚本と徹底的に違ったのは、生身の人間を描きたいばっかりに、こんなささいなことを重視した、それをいいたかったのだ(7)。
では、このような工夫が凝らされた星山の脚本を富野はどのように演出したのか。
フラウがアムロの家にやってきて、リビングのテーブルに残されたサンドイッチを確認し、「まあ、また食べてない」と、二階のアムロの部屋に向かうところは、脚本通りの展開だ。フラウがアムロの部屋に入ると、脚本では「アムロが、床に座り込み、黙々とマイコン作りに、熱中している/フラウボゥ、アムロを意に介さず勝手になにやら探しものをしていく」とト書がある。
このト書に対して富野は、窓に向いた机にアムロを座らせ、マイコン組み立て用の顕微鏡を覗き込んでいるというシチュエーションを作った。通常の作業順で考えれば、第1話の脚本段階では、第1話限りのアムロの部屋の美術設定はなかったはずなので、机と顕微鏡というシチュエーションは絵コンテで決定したと考えられる。床に座って作業をしている様子は、マニアックな人間の「構わなさ」が伝わってくるシチュエーションではあるが、日常的に工作をしている人間であれば、作業台で作業をするほうが自然だろう。そのかわりアムロは、ランニングに縞のトランクスという下着姿で(絵コンテにト書はないが、そうわかるように描かれている)、そこに「構わなさ」が感じられるようになっている。
またここで重要な役割を果たしているのが、マイコンを組み立てるための顕微鏡の存在である。この小道具を用意したことで、「組み立てているマイコンを見ている」という演技が具体的になり、ト書にあった「黙々と」「熱中している」というイメージがしっかりとビジュアル化された。顕微鏡があったからこそ、突然部屋に入ってきたフラウのほうを振り向かずにいることが、「無視をしている」ではなく、「熱中」の結果であるということが伝わりやすくなっているのである。
フラウとアムロ──日常の破れへ
続いて脚本は、フラウに「こんなことだと思ったわ」といわせて、「なにやら探しものをしていく」様子を描く。フラウを見ずにアムロが「なに探してんだよ、フラウボゥ」と尋ねた後「ね、バッグはどこ」「(指差し)そこにあるだろ」と会話は展開していく。
これに対して絵コンテでは、「こんなことだと思ったわ」の後に、整理ダンスを開けてバッグを取り出す芝居をしながら「朝食とらないの体のためによくないのよ」とお小言を口にし、「なに着ていくつもり、アムロ」と問いかける。
アムロはこの合間に、足元に転がってきた愛玩用ロボット・ハロに答えて「ハロ! 今日も元気だね」と第一声を発している。そしてフラウを振り返らずに、「このコンピューター組んだら食べるよ」と返事をする。
脚本と比べて台詞そのものが書き換えられているということ以上に重要なのは、絵コンテに書かれた会話は、アムロとフラウの会話がちゃんと成り立っていない、というところにある。こうやってチグハグに始まった会話が、この後の「避難命令聞いてないの」「避難命令? さっきのサイレンそうなのかい」というやりとりでようやく嚙み合う。
この一連のシーンは、会話だけでなく、映像も二人のチグハグなやりとりを踏まえて演出されている。一番のポイントは、アムロがずっと顕微鏡を覗きこんでいて、フラウに視線を送らないところにある。会話のシーンは、カメラを切り返して、会話をしている互いの顔を見せるのがオーソドックスな演出方法である。切り返しによる、視線の見交わしが、コミュニケーションが成立していることを観客に伝えるのだ。
アムロとフラウの会話の場合は、「さっきのサイレンそうなのかい」のところで、ようやくアムロは顕微鏡から顔を上げ、横向きにフラウのほうを振り向く。そして、その言葉と視線を、バストショットのフラウが「あきれた!」という台詞とともに受け止める。ここで初めて二人の視線が交錯して、台詞のレベルだけでなく、映像のレベルでも会話が嚙み合ったことが表現される。
また、アムロの部屋という空間の中で、入口のドアと整理棚を結ぶ動線上を移動するフラウは、窓側にあるアムロの机まわりの空間に進むことがない。この微妙な距離感は、アムロとフラウの関係を見せつつ、アムロの内向的な性格を見せるために機能している。
フラウの「アムロ、時間ないのよ!」というセリフで、アムロはようやく、椅子から立ち上がる。この一連の流れは、この「時間ないのよ!」の台詞に向かって、セカセカと動くフラウと、いつもどおりのアムロという対比を見せて組み立てられているのである。
こうして実際に絵コンテの段階で再構築された一連のシーンをみると、脚本とは少し語り口の軸足が変わっていることがわかる。星山の脚本は、本人も記しているとおり「日常を淡々と描く」というほうに重心がかかっており、アムロとフラウの会話も、成り立っている分だけ「いつもの二人のやりとり」といった趣きが強い。
これに対し、絵コンテの段階では、いつもどおりのアムロと、避難命令を踏まえてテキパキ準備を進めるフラウの間の嚙み合わなさが強調されたことで、「日常を淡々と描く」のとは別のニュアンスが加わった。それは「二人の淡々とした日常が、避難命令によって破れつつある瞬間を捉えた」というニュアンスだ。この雰囲気は、二人のやりとりが終わった後、窓の外を避難を呼びかける電気自動車が通り過ぎることでさらに強調される。
表面上は静かな時間の流れの中に、その後の予感が演出で色濃く加わっているのである。
細かい芝居
脚本ではこの後、アムロの部屋で、ここも戦場になるのだろうかという不安をフラウが口にするが、絵コンテではそこは描写しない。そうした不安は、家を出て電気自動車エレカ──脚本では徒歩──で退避カプセルへと向かうときの会話として拾われている。つまり絵コンテでは、アムロの部屋では「アムロの性格」を印象づけつつ、「いつもの日常が変わりつつある予兆」を描くことに集中したのだ。
富野はアムロというキャラクターを演出することについて、マイクロ・コンピューターを組み立てるアムロとハロの会話で最初に印象づけを行い、ここを突破口にしてアムロを描写しようと考えたと記している(8)。具体的には冒頭だと「アムロが朝食も忘れて、マイ・コンの組立てをしているだろうと思わせる、フラウ・ボゥのイントロのセリフ」と「机から立ち上がり背伸びをする描写」。ストーリーが展開してからは、「防空カプセルでのモノローグの気分」や「思わずガンダムのマニュアルに見入ってしまうというアムロの演技の展開」がそれにあたるとしている。
ちなみに絵コンテでは、机から立ち上がった後のアムロの背伸びは、指定はされていない。おそらく第1話の担当演出・貞光紳也と作画監督・安彦良和を交えた作画打ち合わせなどで、その演技を加えることが決まったのであろう。
ちなみに安彦は、富野と『ライディーン』でコンビを組む以前からいくつかの現場で富野のコンテを見ていた。その印象は「お遊びも含めて、細かい芝居が入っていたりするので、アニメーターからすると手間の多い、面倒なコンテ」というもので「自分が作画監督の時は、大事でない細かい芝居はいろいろ省いたりもした」といったことを語っている(9)。
逆にいうと、絵コンテにはないこの背伸びの演技は、アムロを描くために必要な芝居だったということになる。また『ガンダム』第1話の出来栄えがよいのは、安彦が全カットのレイアウトを自ら描き、絵コンテが伝えようとする空間感や雰囲気をうまく実際の絵に落とし込んでいることも、無視できない要素である。
初操縦の説得力
ジオンの兵士デニムとジーンは、連邦軍もモビルスーツ開発をしていることを知り、功を焦ったジーンが、先手を取ろうと攻撃を始める。ここから脚本と絵コンテはだいぶ乖離していく。特に構成上大きな変更があるところは無視できない。
脚本の展開は次のようになっている。
サイド7の民間人は、ドッキングベイ側にある連邦軍基地の近くの大きな地下壕にまとまって避難している。やがて、ジオン軍の攻撃が始まる。ジオン軍の援軍がやってきてさらに激しい戦闘になるのではと不安になった避難民は、ホワイトベースへの乗船を求めて、地上に出てくる。兵士の制止をふりきり、基地内へと入っていく住民。それが結果として住民をジオン軍の攻撃にさらすことになる。
地下壕から出てきたアムロは父テムを見つけて駆け寄る。テムは住民の避難よりガンダムの搭載を優先させようとしていた。それに反発するアムロ。そこにフラウが駆けてきて、父と母がジオン軍の攻撃で死んでしまったことを告げる。アムロが呆然としていると、ガンダムを乗せたトレーラーの運転席にミサイルが当たり、爆発とともに書類などが撒き散らされる(その前にテムが、重要書類をジープに積み込む描写があり、このジープはこのトレーラーの側に停車していた)。撒き散らされた書類の中にガンダムのマニュアルも入っており、悲しむフラウをホワイトベースへ向かわせ、アムロはガンダムに乗り込むことを決意する。
ストーリー案にあった、父の研究室に入り込んで、そこで資料を見る──だからガンダムを操縦できる──というアイデアを踏まえつつ、脚本では、アムロがガンダムに乗らざるをえない状況が自然な流れで書かれている。ポイントは、フラウの両親の死と、ガンダムのマニュアルを手に入れるタイミングが非常に接近していること。つまり「絶対のピンチ」(戦う動機)と「反撃の鍵」(戦う手段)が同時にアムロのところにやってくるという構成で、第1話のストーリーで一番伝えるべきことがクリアに伝わってくるようになっている。
これが絵コンテでは構成が変わっている。
ジオン軍の攻撃が始まり、アムロはホワイトベースに避難させてもらえるよう父に掛け合ってくる、と防空カプセルの外へ出る。その後、父の居所を尋ねた連邦軍の士官の車が流れ弾で破壊され、そこに積まれていたコンテナの中からガンダムのマニュアルが降ってくる。アムロが、それを思わず読み始めてしまうのは、先述のとおり、アムロの性格を感じさせる演出の一環だが、重要なのはここでCMが入るということだ。
脚本ではCMが入るタイミングは、ジオン兵が攻撃を始めるところとなっている。これはこれで「引き」の効果は強い。これに対し、アムロがガンダムのマニュアルを見つけるというのは、主役メカの登場の前触れだから引きの効果もあるが、それ以上の効果を作品にもたらしている。それはCMを間に挟むことによる省略の効果だ。
脚本の構成では、アムロの心理の転換点は明確に伝わってくるが、アムロがマニュアルを読んで理解する時間はほとんど存在しない。乗り込んでから後に、マニュアルを見ながら操作をするというト書はあるが、マニュアルをその場で繰りながら操縦するという行為が、映像になったときにどこまで説得力を持って見えるかは難しいところだ。
これに対し、絵コンテにおける構成の変更によって、アムロがマニュアルを理解する時間が確保されたという点は、作品のリアリティを担保するという意味で大きい。しかもさらにCM明けはジオン側の描写から入っている。CMの時間と、このカメラを別のところ=ジオン軍側に振っていることによる「省略」の効果により、実時間以上にアムロがマニュアルを読んでいる時間があるように感じられるのである。もちろんマニュアルなど素読しただけで、ガンダムのような兵器が動かせるわけはないだろう。だが、「省略」を含めたこうした時間を取ることで、視聴者の感じる「もっともらしさ」は増す。
過去のロボットアニメにおいて、「操縦を覚える」プロセスは、あまりフィーチャーされてこなかった。このジャンルの元祖といえる『マジンガーZ』では第1話で、うまく操縦ができず、マジンガーZが暴走してしまう描写がありはするが、多くの作品で操縦の習熟には時間をあまり割いていない。先行する『ザンボット3』ではそこを「睡眠学習」という設定を導入することで、説得力を持たせようとしていた。
その点で、一〇代に向けてよりもっともらしい作品世界の構築を目指した『ガンダム』が、マニュアルを読み込む過程を「省略」を生かしつつ描いていくのは、非常に自然なことであった。
ガンダムに乗り込んだアムロは、慣れない操縦に苦心しながらも、なんとかジオン軍のザク二機を倒す。ちなみに脚本では、三機のザクを倒し、そこにはホワイトベースからの砲撃と、リュウの乗ったコア・ファイターの援護もあったという展開になっている。これは当初のストーリー案に則った内容なので、オーダーとして脚本に反映されたのだろう。絵コンテでは、ガンダム一機の活躍になっており、より第1話がアムロの物語であることが強調された形になっている。このように、脚本を踏まえつつも、さまざまな演出によって、アムロというキャラクターを鮮烈に印象づけたのが第1話だったのだ。
シャアはいかにして生まれたか
脚本から絵コンテで大きく変わったポイントはもう一つある。それは、アムロたちのライバルキャラクターである、ジオン軍の将校・シャアの描写だ。推測するに、おそらくシャアのキャラクター性は、脚本段階ではそこまで明確に決まっていなかったのではないだろうか。
そもそも富野が書いた「ガンボーイ企画メモ」や「初期設定書」を見ても、シャアに関する記述は少ない。七ブロックに分けて書かれたストーリーのメモ(10)では、第一部「大地」の終盤、地上での戦いで敗れ、死んだと思われるが、第六部「誕生」で復活し、ペガサスへのこだわりを改めて語り、その後アムロに敗れる、という役回りとして描かれている。この段階のメモでは、ジオン公国を興したジオン・ズム・ダイクンの遺児であるという設定も導入されていない。
「ガンボーイ企画メモ」の中に含まれたジオン・ズム・ダイクンの家系図があり、そこには子供が四人書かれている。そして年長の二人は死んでおり、第三子のアイリシア・ダイクンと第四子のハロム・ダイクンが生きているというふうに書かれている。
一方、セイラの前身といえるアシリア・マスのキャラクターについてのメモでは、ダイクンの遺児であり、メラン・コリ夫妻の養子であることが書かれている。おそらくこのアシリア・マスは、アイリシア・ダイクンと同一のキャラクターであろう。このようにセイラがジオンの子供であるという設定は初期から考えられていたが、シャアについては記述がない。これがストーリー案の段階になると第2話分には、本編と同様に、シャアとセイラが兄妹であるという記述が出てくる。
こうして時系列を追って設定の変化を追いかけてみると、シャアとセイラが生き別れの兄妹であるという設定は、ストーリー案の段階で初めて浮上したアイデアのようだ。そもそも主人公サイドの人物像は初期からさまざまに練られているが、もともと敵方のキャラクター全般について、バックストーリーに関する記述は見当たらない。ここは脚本チームの個性やアイデアで膨らませることを期待していたところもあるだろう。そしてバックストーリー以上に、シャアの性格付けも決まったのはギリギリであるということがうかがえる。
一方、シャアの造形に関しては『ライディーン』の仮面を着けた敵役プリンス・シャーキンが原型といわれている。シャーキンは、プライドが高く冷酷な性格である一方、武人としての誇りも持ったキャラクターで、徐々に一〇代のアニメファンが目立ちつつあった時代に、女性ファンの人気を集めたキャラクターのひとりだった。このような前段を踏まえ、シャーキンをデザインした安彦が、仮面の敵役としてシャアもデザインしたのである。
「私もよくよく運のない男だな」──キャラクターを作るセリフ
第1話のストーリー案には、偵察が任務の先兵たちの暴走を知ると「敵のモビルスーツの機密を得ることが出来るか、否かのほうが大きいのだ!」と激怒するシャアが書かれている。極めて普通の敵役的な感情表現である。
これは脚本にも受け継がれている。暴走を知ったシャアは「(激怒)誰がそんな命令を下した!」「敵に姿を見られた以上、何がなんでも新兵器の機密を盗み出せ!」と強い語気で語っている。ラストシーンでも、モビルスーツ三機を失ったことを踏まえ「見ていろッ、必ず私が叩いてやる……」と「唇を震わせ一点を睨んでいる」(ト書)。こうした描写は、ストーリー案から受ける印象と連続している。ところが、これが絵コンテで一変するのである。
冒頭のブリーフィングがなくなったため、絵コンテでシャアの初登場は、サイド7を巡洋艦ムサイのブリッジから眺めているシーンである。ブリッジの遠景に「サイド7に潜入したデニムからの連絡は?」と尋ねるオフ台詞(画面に顔が出ない台詞)が重なる。続いて仮面の姿のシャアの顔が映し出され「私もよくよく運のない男だな。作戦が終わっての帰り道であんな獲物に出会うとは……。ふふ、向こうの運がよかったのかな?」と台詞が続き、副官ドレンとのやりとりで、サイド7で連邦の秘密作戦が行われていてもおかしくないと説明される。
この「よくよく運のない男」という台詞はかなり特殊で、とても自然とはいいづらい。「連邦の秘密作戦の端緒を摑んでしてやったり」という気持ちであるはずなのに、わざわざ自分は運がなく連邦軍こそ運がいいと逆説的な言い方をしている。非常にもってまわった言い方だ。芝居がかっているといってもいい。しかし、それによってシャアというキャラクターが猛烈に際立つことになった。
経緯を見てきたとおり、シャアというキャラクターの実態は、企画段階ではそこまで明確なものではなかった。おそらく絵コンテでこの芝居がかった台詞が書かれた瞬間に、シャアというキャラクターが固まったのだろう。もしかすると、仮面の敵役というルックスが決まったことが、具体的にどういう芝居をさせるかということに繫がったのかもしれない。このあたりは富野が原作も兼ねているからこその荒業で、だからこそ脚本打ち合わせの段階ではその片鱗もなかったキャラクター像を、絵コンテで打ち出すことができたのだ。
ストーリー案と脚本では怒声を発していた、ジーンの暴走の報告についても、絵コンテでは、見張りに残ったスレンダーから報告を受けると「連邦のモビルスーツは存在するのだな」「デニムに新兵が抑えられんとはな」と極めて実務的な応対をしている。なにより不測の事態に対し即座に怒ったりしないことで、シャアというキャラクターがかなりの自信家であることも垣間見える。
そしてシャアというキャラクターの極めつきが、第1話最後の「認めたくないものだな。自分自身の、若さゆえの過ちというものを」という台詞である。現在は、シャアの名台詞として知られているが、これもまた「うまくいくと思った積極的な作戦が失敗したことに、自分の若さを感じるが、それを認めたくもない」という、複雑な自意識が反映された構造の台詞になっている。
星山は第1話の試写を見た感想として、
正直いって衝撃を受けた。演出の切れのよさといい、アムロとフラウ・ボゥの戦火の中でのからみの時の演技の表現力といい、宇宙空間での遠近感といい、実に見事だった。
シャアの唐突なセリフにムッとしたことを差し引いても、驚きに値する出来栄えだった。
マイナー作品ばかりを作らされて来たスタッフの、〝みていろ!〟という意気込みを、そこに感じた。
一話にして、早くもボクの世界が犯されることを予感した時、監督と喧嘩したって最後まで付き合ってやると、不思議に燃えたことを今でも覚えている(11)。
と記している。
星山がいう「唐突なセリフ」は、シャアのラストの「認めたくないものだな」という台詞を指している。また「監督と喧嘩」については、星山は次のように語っている。
富野さんがこういう話でいこうと方針を出す。僕はチーフだからその後で残りのライターと四人で、ここでこいつの性格を思い切り出そうとか、こいつの性格がまだ出ていないから、そこになんでもいいからワンエピソード入れてくれとか打ち合わせをしていた。ライター陣はそんな感じで態勢を固めて、富野監督に「あんまり脚本を変えないでくださいよ。脚本を生かしてくださいよ」とお願いしていました。彼もそこで「わかった、わかった」と言うんだけど、でも彼は彼で自分の世界に入っちゃっているからやっぱり変えてしまう。そこに引っ張り合いがあったんです(12)。
富野はストーリー案を第6話まで書き、その後、ストーリー案を書いたのは第22話以降になる。その間は、星山が語るように、脚本家のアイデアと演出家の世界が拮抗しながら、引っ張り合いの中でシリーズが進行していったのである。
方向性が生むメロディ
ここまでは脚本と絵コンテを照らし合わせながら、映像に変換されていく過程で何が、どのように付け加えられてきたかを確認してきた。そこで富野は、脚本を踏まえつつも「進行する状況下にカメラを置く」アレンジをしたり、構成に手を加えたり、「キャラクターの印象付けの徹底」なども行った。それは演出という作業を通じて、脚本を改めて自分なりにブラッシュアップするという側面も持っていた。星山の語る「引っ張り合い」の部分である。
しかし第1話の演出面でもっとも重要なのは、「被写体が画面上のどちらを向いているか/どちらに向かっていこうとしているか」という〝方向性〟のコントロールが徹底していることだ。方向性のコントロールとは、第3章で触れたとおり、被写体が画面のどちら側へ向かっていくかということを、物語の展開と連動させながら展開していく方法論で、ドラマの変化を視覚的に表現する原則の一つである。これが『ライディーン』第1話では見られず、『ザンボット3』第1話になると、はっきり画面に現れるようになる。そして『ガンダム』第1話もまた、しっかりとこの原則が反映された画面になっている。本章の冒頭に、富野の演出家としての、その時点での到達点と書いたのは、この方向性のコントロールという大原則の上に、先述の「キャラクター描写の徹底」や「進行する状況下にカメラを置く」といった演出の技が駆使されているからだ。
第1話のサブタイトルが出た後、三機のザクは、画面右側から左へ向かって移動していく。その後も、ザクは基本的に左向きで画面の中に登場する。第1話の「ザクがサイド7を襲う」という本作の基本的なストーリーは、このザクの左向きの移動が大枠となって語られている。
この「左の方向性を持つザク」という大枠の中に、アムロのドラマが織り込まれている。アムロはまず自宅を出てシェルターまで、左向きの方向性で進んでいく。しかし、ザクが攻撃を開始し、退避カプセルの中で振動を感じたところで、その方向性が切り替わる。ここでアムロは、右方向に進み出し、軍属である父テムに民間人をホワイトベースに避難させるよう頼んでくる、と退避カプセルの外に出るのである。
次に大きく方向性が変わるのが、フラウと避難する途中でテムの姿を認めた瞬間。ここでアムロは左へとまた進んでいく。しかしテムは、避難民よりもガンダムの搬入を優先させようとしており、アムロが画面右方向にいる避難する人々のほうに戻ろうとした瞬間、大きな爆発が起き、フラウが吹き飛ばされる。
両親を失ったフラウを励まし、彼女が画面右側にハケると、アムロは左方向へと進み出し、ガンダムに乗り込む。ここからガンダムの戦いは左向きの方向性で進んでいくことになる。
ここで、冒頭から左向きに進んできたザクの方向性が変わる。ガンダムの登場でザクの方向性が右向きへと転換し、ここでザクとガンダムの持つベクトルが正面からぶつかることになって、戦いが発生する。そして一機目のザクを倒した後、背後から迫る二機目のザクを倒すときは、ガンダムはまた右向きに変わる。
このように、「ザクのサイド7襲撃」という、左向きの方向性で描かれていくベースの上に、アムロの状況変化を方向性の変化で印象づけていく〝メロディ〟が乗っており、それが一体となって『ガンダム』第1話は出来上がっているのだ。
第1話の映像の流れの原則である方向性の取り扱い方。脚本を踏まえて、より印象的にキャラクターを演出するスタイル。特徴的な台詞回し。こうした特徴は、『ガンダム』第1話で明確に確立されたのだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督は『ガンダム』の第1話について、次のように語っている。
構成と脚本の部分ですね。あと、面白さです。ロボットが出てくるアニメーションとしてはガンダムの一話が最高なんですよ、第一話ということでは、一番シンプルに作って、一番いいところをついている。シンプルだから崩せない。富野(由悠季)さんでさえ、あの一話は越えることができない。あの見事な構成と脚本。カメラの持って行き方も含めてすごくきれいですから。何の疑問もなく普通の少年が……いまから見れば〝アムロ〟って普通じゃないけれど、いままでと違った熱血タイプじゃない普通の少年が、ロボットに乗り込むっていうのをすごく素直に見せているんです。あれには勝てなかった(13)。
では、このように第1話を演出した富野は、『機動戦士ガンダム』というシリーズをどのようにまとめようと考えていたのだろうか。演出家として明確な「スタイル=文体」を手に入れた富野が、それを使って戯作者として何を語ろうとしたのか。そこでは「ニュータイプ」というアイデアの扱いが大きな意味を持つことになる。